なぜみんな他人の認識や行動に熱心に耳を傾け興味を示すのだろう。それをしたところで、せいぜいウェブ上でニュースを再生産したり、飲み会で自慢の種に使うぐらいにしか興味がないのに。
一年に100冊の本を読むことは多すぎると俺は感じる。一年に100本の映画を見ることは多すぎると俺は感じる。一年に一万本のニュースを読むことは多すぎると俺は感じる。別にそれをしている人を非難するつもりは無い。それが出来るということは、それだけの欠乏があるんだろうし、仕方が無いことだと思えるからだ。それをしたい人はそれをすればいい。しかしそれでも多すぎると感じることは変わらない。俺はたぶん一年に3万枚以上の画像を見ていて(下手したら10万枚とかそれ以上)、それは多すぎるのだ。
一年に100冊の本を読むことと、一年に一冊の本を書くことは比べることが出来ないように隔たっている。そして100冊の本を読むことより、一冊の本を書くことによって得られるものの方が、比べることも出来ないぐらい多いことは、ごく普通に起きる。そしてそのような経験は、クリエイターだの芸術家だのの話ではなく、例えば鍵をなくして家に入れなくなってしまった時に、鍵屋さんをお金を払って呼ぶのではなく、自分ひとりで窓ガラスを割って家に入るように日常なのだ。
普通に学習と呼ばれているものは、学習ではない。それは単なる立会いだ。出産に立ち会う夫が決して生むことは無く、生んでいるのは妻であるように、その場合の真の学習は妻にしか起きない。いくら他人に立ち会ったところで、自分に起きる変質は無いにも等しいごくわずかなものでしかないのだ。さらに言うならば、立会いを繰り返しているような状態は、他人になんて興味を持っちゃいないのだ。自分にも向き合わず、他人にも興味を持っていない。その上、そのような宙吊りの状態にいられることが、平常であり、日常であり、平和であるとさえ思われているようにしか見えない。
隠しちゃいけない。誤魔化しちゃいけない。
それってガチガチに感じるかもしれないが、隠して誤魔化すことを維持することに比べれば、どれだけ省エネルギーでシンプルなことか。


Comment