音楽は饒舌のうちに消費しようとするのに、絵は誰も語らない。なんでだろうとずっと思っている。これはもちろん、聴いたり観たりする人たちの話だ。作っている者同士は絵の話しだって音楽の話だってする。
かといって、音楽をやらない人が音楽について語っていることを聞いても、ちっともいい気分じゃないことがとても多い。そんな風に分類して、いろいろ比べることの何が面白いんだろうと思う。でも、何も語られないことに比べれば、そんな不毛に見える興味の方がまだましに見えるのだ。少なくともそこには、より良く感じようとするポジティブな意思を感じるし、好きなものには好きだと明言することは、それがどんなやり方であれ意味があると思える。
たぶんビジュアル表現は、少なくとも日本においてはゲージュツというわけのわからない概念に包まれているんだと思う。それが写真であれ商業広告であれ印象派の油絵であれ、一様に視覚的な表現は「なんかゲージュツ的なもの」になってしまっているのだ。下手なことを言ったら馬鹿にされそうな、簡単に好きとか言っちゃいけないような、自分には見えてない何かが隠されているような、自分ではない誰かさんにはそれが見えていて、自分にだけは見えないような、ありもしない価値が隠されているようなものとして、全ての視覚が隔離されているのだ。
そう考えると、視覚表現に対して、音楽と同じように語ることを許しているのは、萌とカワイイなんじゃないかと思えてくる。初音ミクに萌えるのと同じように、ラファエロに萌えることができる。そこで何とかロックの系譜のように、萌の系譜を作ることが可能になる。
と、ここまで書いたところで飯を食った。飯を食いながら考えた。で、気がついた。絵って依存性低いよなぁ、と。言葉や音楽は依存性高い。いくらでも自分を投影できる。「この歌はまさに私の歌だ」とか「この作家さんはなんで私の事わかるの?」とか、なってるもんね、みんな。依存できるということはロールプレイが出来るということだ。絵はそんな風にはなれない。たぶん一面としてはすげ替えようが無いように明晰すぎるからだ。想像力の入る余地が憧れでしかないからだ。自分に引き寄せられないぐらいはっきりしているからだ。でも、どんな表現物も、ロールプレイの先にこそ価値がある。あるのだ。あるんだから、まあ、いいか。


以前ヴァチカン美術館でミケランジェロとラファエロとあの人、えーボッティチェリをいっぺんに観たとき、この人達の仕事って、エンターテイメントだったんだ、と思った。特に例の有名な天井画を観た日にゃ、これはまるでびっくりするようなCGをウリにしてるハリウッド映画を観て「今度のはさらに凄えぜ、どうよ」的な感じを強く受けたのだった。
今日、電車の中でマンガ雑誌を読みながらたまたま吊り広告のフェルメール展の絵を見ていてふと思った。俺はマンガが好きなので、というかジャンキーなので実によく読む方だと思うけど、その中には好きなのも嫌いなのもある。好きなのはもう説明不能にただ面白い。しかし嫌いなはずのものの中に、絵的には軽蔑さえしているマンガでも、ストーリーやその世界観には抗えがたい魅力があるものや、中身はダメダメだが絵の匂いにはどうしても惹かれてしまう、といった変なマンガがたくさんあって、それらはそれらで愛すべき存在なのだ。思うにフェルメールの絵の見方もその程度で丁度いいのであって、それほど大したモンじゃない。まあ言ってみればダヴィンチとミケランジェロとラファエロの関係はちょうど手塚治虫と川崎のぼると千葉てつや(例えが古い!)みたいな感じなんじゃなかろうか。まあちょっと極端だけどそう思うと語るべきことはいくらでもある。
ビジュアル表現への人の依存度は実はすごく高いと思う。俺なんか場合によっては音楽と同化してしまうほどだ。萌とカワイイだけしか許されないのではちと寂しい。
確かに昔の絵のほとんどはエンターテインメントだと俺も思うよ。漫画も映画も、そういう意味でビジュアル表現の正当な継承者だと思う。そしてそれを誰もが楽しんでいる。ここまではいい。
ただ、例えばパフュームのビートを評価したり、小説の一説を繰り返し読んで暗記してしまったりするようには絵に対して接していないと思うんだ。例えばドラゴンボールでフリーザのアップが左下に入って、梧空のカメハメ波が右上の遥かかなたから放たれる時のこのコマの入り方が絶妙だとか、暗い雨の日の絵に映えるレインコートの黄色がなんて美しいんだとか、この繰り返しは反則だろ、でもカッコいいぞとか、そういうことをみんな心のどっかでは思っているはずなのに、口にしないのが不思議でしょうがない。
で、そんな状況を打破するために働いているのが、萌とカワイイなんだろうなと思ったわけだ。何を言っていいかわからないけど、それは許されていると。だから、ネットの存在のビジュアル表現の置かれている状態に対するインパクトは絶大だと思っていて、PIXIVとかのお絵かきSNSなんかの存在は、いい具合にこの閉塞した現状を変えて行ってくれるんじゃないかと、かなり期待もしているんだよね。
絵を評価する土壌がない点については僕もすごく気になってるんですよね。
音楽のように、批判をしたり、評価できる土壌がない。
だから、絵(特に純粋芸術)の分野って閉塞的で伸びないのかしら、と思う。
思うに、「見る」っていう行為が鑑賞者にとってリスクの低い分野だからなのではないか、というのも理由の一つに思います。
人っていうのは、リスクを感じた分だけなにかを言える生き物のような気がします。だから、3000円で買ったCDが気に入らなければ、それに払った対価に対して、がっかりした分は批判もできるでしょう。
でも、絵画の場合は、見ることに対しては殆ど無料で提供されている場合が多い(美術館などで入館料がかかる場合は別)ので、それが気に入らなかったとしても、それにリスクを感じていない以上批判ができない立場が出来上がっている気もします。
それに対して、漫画や映画は対価を支払う機会が多いので、まだ評価の土壌ができているかも。萌えに関しても、かわいいかかわいくないかっていう評価基準がわかりやすい。
こういったお金のリスクの問題とは別に、感覚的にも視覚は、他の感覚器よりもリスクを感じにくい気がします。
気に入らない音は、うるさいと言える。臭いものは、臭いと言える。まずいものは、まずいと言える。ほっぺを叩かれたら、「何で?」と言えるのに、視覚に関しては、一度頭の中で咀嚼してその意味を考え出さないと答えにたどり着けないような気がするんですよね。視覚は、他の四感に比べて身体的というよりも意識的な分野に感じます。
見るが側のリスクに関しては、単純にリスクを払うだけの対価が得られない対象だというのが一番大きいと思うな。これにはもちろん経済や社会のシステムも関係してくるわけだけど、それ以前の根本的な問題として、大衆化できるビジネスモデルを生み出せない価値しか持っていないということだと思う。これは別に絵に価値が無いといっているわけではなくて、現在の社会の価値観がそういう方向に向いているということ。最初にも書いているけど、やはりロールプレイできない、感情移入しづらいものというのはポップには成り得ないと言う事なんだろうな。
ビジュアル表現というもっと大きなくくりで言うと、時間軸を含んだ表現は、そういう意味では転換点に来ているにしろリスクを払う対象として成立している。映画や漫画はまさにここにはまる。つまり人々が求めているのは一枚の絵ではなく物語なんだということ。ここに本質があるんじゃないかと思っている。今ネット上で盛んに描かれている絵も、そのほとんどが既にある物語を前提として絵なんだよね。ある物語が共有された上で記号化されることが重要。しかしこれは今に始まったことじゃなく、例えば昔で言えば、キリストの物語があり、仏陀の物語があり、あるいは神話があったりしたわけで、構造としては何も変わらない。
おそらくKen君の言うところの純粋芸術というのは、私小説の世界なんだと思う。近代芸術から現代芸術への流れはある意味全て私小説。大きな共有された物語が失われた後に、大量消費と極端な個人主義の時代がやってきて、そこで強い自我とか危うい自我とか病んだ自我とかがクローズアップされるようになり、その自我の強度が希薄さも含めて芸術として認められるようになった。でもその後で、自我の自己中毒状態になっているのが今。で、人々は再び共有できる物語を求め始めているように見える。そこで手っ取り早い物語として、劣化した神話やエンターテインメント化された私小説的アニメがもてはやされるという構図。
それと五感の中での視覚の位置付けだけど、俺は視覚がリスクを感じにくいものだとは思わないなぁ。言語的意識に犯されすぎているとは思うけど。ただこれも生来的なものではなくて、現代の視覚の特徴だと思っている。何故かといえばヴァーチャルなビジュアルに晒されすぎているから。その空間に身を置いたことがないのに、宇宙から見た地球を知っているつもりになっているでしょ?それは危険だと思う。そうではない意識化されないナマの視覚の世界はもっと複雑で豊穣なものだし、そこからしか何も生み出せないというスタンスは、引用や虚構の上を歩くにしても忘れちゃいけないものだと思う。
追記:
私小説的なスタンスが無効だと思っているわけじゃなくて、それだけが芸術だとする時代じゃないってことね。無垢とか純粋とか他に選びようが無いとかっていう、そういう自我の在り方しか出来ない人もいればそうじゃない人もいる。当たり前のことなんだけど、これって実は今の社会の中で必要な認識が全く欠けている部分だと思っている。それが欠けている社会というのはピラミッドを作るんだよね。アイドルというピラミッド構造や、企業というピラミッド構造や、国家というピラミッド構造を。で、俺にはその構造に大きな揺れが起きているように見えている。それはどういうことかというと、他人物語に憧れて、それを生きるのに飽きてきたってことなんだと思う。かと言って自分の物語があるかって言うと、そんなものはどこにもみあたらない。じゃあどうすっか、ってところに来ている感じ。
あと話がずれるけどもう一点。
言葉を生業とする人の美術批評ほど酷いものはない。ほとんどの美術批評は表層の物語を解釈するだけで、作品の強度を見ていない。それが言葉になりにくいのは理解できるけど、というより、そういうのは詩になるしかないのかもしれないけど、それでもその作品をホントに楽しんでいるなら、もっと違う言葉が出てくるはずとずっと思っている。
自分が受け手の立場に立つと、確かに一枚の絵に何時間もロールプレイし続けるっていうのは困難なことです。映画や漫画には抜け落ちている、物としての深いマチエールを備えているとしても、それによって何時間もロールプレイできるか?と言われるとちょっとムリ(よっぽどの絵に出会った場合は別かもしれないけど、その確立は恐ろしく低い)。大抵の画家が飯を食えないのは、閲覧者にとっては感情移入できる時間の少ない媒体にも関わらず、画家がそれに捧げる時間の膨大さが釣り合わないからなのでしょうか。
近代から現代へと時代が移るにつれて、大きな物語から小さな物語に移行し、その中で自我の自己中毒に陥っているっていうのはわかります。その状況に息苦しくなって、人々が大きな物語を求めていることも。
でも、一度大きな物語が崩壊した上に、グローバル化によって価値観の相対化・細分化の一途を辿る現状で、再び妄信的な大きな物語が復興するような気もあんまりしないんですよね。まあ小さな物語すら崩壊して、全部が積み木崩しのようになった後ならわからないですけど。
私小説的なスタンスの上に立つ一枚絵の特性が物語を生みにくいものだとしたら、あとはものすごい低い確率で出てくる感情移入者にしか批評を受けにくいってことですよね。となると現状維持しようと思う限り、評価の土壌を作っていくのはやっぱり難しいのかなあ。
言葉を生業とする人の美術批評は、一つのことを言うために遠回りしすぎなイメージがあります。
人間の情報伝達手段が単純な意味での言葉であって、それが時間表現(又はオープンエンドの集合)である限り、一ビジュアルが、音楽や映画と同じ様に語られることは無いと思う。
テクノロジーが疑似テレパシーを実現させたらどうだか知らないけど。
あと語られる以前に受け取り方として、何せ人間は動く物だから基本、動く物が好きなんじゃないかな。(動かないものが好きって時はたいがい疲れてるし、存在や生存を示す為にまず動いてみせること等から)
分かり易い物語で言えば、名作が再放送されていても新作を駄目出しする方が楽しい、みたいに。
ロールプレイの先に価値、かー。
なるほど
だからトイレに貼ってある地図は
毎日飽きずに長い時間見ることができるんだな。
kenさんの意見にさらに付け加えると、
日本人の多くが、リスクを感じた分だけなにかを言える「と思い込んでる」
のではないかなと私は思っています。
意見は意見でしかないから、対価を払おうがなんだろうが
得た情報に対してほんとうは何を言ってもいいと思う。
表現に対して表現で応えて何が悪いものか。
でも、常に安心を求める思考を持つ人たちはきっと、意見も攻撃で
むやみに発してはならないものだと思っているんじゃないか。
だから、前もって自分がお金なりを支払った=傷ついた状態で
正当防衛として感想を述べることしか、許されない気がしている。
で、いざ感想を言うときになっても言葉が上手く出てこないのは、
防犯対策に用意した薙刀の使い方を練習していないのと
似たようなもんなんじゃないかな。
普段から思ったことを表現できる訓練をしている人が少ないのは
教育にも関係あるのかも。あるだろう。
小学校?高校の国語や音楽や美術の時間なんかを思い出すと、
どう思うか?というより、こう思うでしょ、思おうね、という方向だもの。
それから、視覚のリスクについて
他の感覚で受けたショック、
たとえばくっさい!痛い!うるさい!まずい!とかに比べて
目で見て衝撃的だった光景って、なかなか忘れにくいんじゃないかな。
前述のショックは、どれも事実を思い出すことはできても
具体的にどんなものだったか、脳内で再現しにくいでしょ。
視覚によるショックは、それらより再現しやすいから、夢に出たり
不意に思い出してうえ?となったり、結構持続性は強いと思う。
絵について話す人が圧倒的に少ないことにおいて、
問題はリスクというよりも、絵の含有する言葉の少なさが
積極的な感想を引き出せない最大の要因じゃないかなー。
何が描いてあるかあからさまにわかる絵でないと
自分の解釈が的外れだったらどうしようって思っちゃうもん。
評論家の言うことがまどろっこしいのは、きっと作品への愛ではなくて
自己愛なんでしょう。言葉を使って自分を飾り付けるパフォーマンス。
しかしあまりにも堂々としていて、メディアもそれを疑わないから
皆それが正しく唯一のものだと思い込んで、自分の意見を引っ込めたり
または使いまわしの言葉しか発さないんです。きっと。
思考停止して、メディアに判断を委ねていれば、言えることなんて
何もなくなってしまって当たり前だと思います。
世間では絵を始めとした芸術が裸の王様状態になってる様に感じます。
昔前衛芸術とされた作品は、発表された当時は衝撃的でも、現代の私たちにとってはそこまで衝撃を感じない場合もあります。例えば印象派の絵は塗り残しを光の表現に生かしています。当時は塗り残しのある絵は手抜きや未完成品として見なされたので、この手法は斬新でした。しかし現代人の感覚ではそこまで目新しさが感じられないかもしれません。
しかし一度評価を受けた前衛芸術が、その前衛性を失った後も名作としての地位を保ち続けたとき、今度はその作品を「良い」と思う人間を育てる教育が始まります。教育ですからその作品を「良い」と思えない人は馬鹿だというレッテルが貼られます。それで人は馬鹿だと思われないために芸術というものを一応評価するポーズを取っているのではないでしょうか。権威のお墨付きの「芸術作品」を良いと思えなかったとき、大抵人はあからさまに悪いとは言わず、「よく分からないけど、これが芸術なんだろうな」と言ってお茶を濁しています。これが絵の批評が流行らない原因なのではないのでしょうか。
言葉を生業とする人の美術批評について。
自分の感じた作品の強度は自分にしか体験できないものだから、伝達手段としての言葉に頼らざるを得ないのですが、それを試みるとそれこそ詩になってしまいますね。絵の具とキャンバスを音韻と文字に置き換えたと考えれば絵も詩も本質は同じだと思うので、その言葉を受け取った人もまた自分にしか体験できない強度を抱く羽目になるのではないでしょうか。言葉の持つ伝達手段としての側面を重視するなら、共有できない作品の強度よりも、共有しやすい作品の歴史事実とかのほうが扱いやすいですよね。
私はどちらかというと言葉を生業としている人側なので結構耳が痛いです。
ken:
大抵の画家が飯を食えないのは、単純にワンオフにこだわっているからだと思うよ。アメリカなんかだと逆にワンオフにこだわらないとアートとして流通しづらかったりするみたいだけど、日本には現代美術の市場なんてほとんど無いに等しいからね。あとは日本だと芸術というものがぬるすぎて、時間掛けても下手な人が多すぎるのも良くない。漫画家を見習えよとかよく思うもの。まあこれは自分にも耳が痛いことだけど。
物語に関しては、おそらく、従前の意味では大きな物語も小さな物語も、というか物語自体が成立しないというところまで来てしまっているんだと思う。そしていくら次の物語を求めた所で、積み木崩しも終末もない。物語が成立しないと言うのはそういうことで、わかりやすい結末は望めない。これは私小説的なスタンスが無効だと思っていないと書いた事と矛盾するように聞こえるかもしれないけど、向き合わないとならないのはそういう現実だって言う意味。
で、物語が本来どういう機能を果たしていたのかを考える。おそらく、それは宗教と密接に結びついていて、死の恐怖や日常の共感やあらゆる笑いや行き場のない怒りを、自分の内に納めるための方法論として非常に有効だったんだろうなと想像できる。でもある時点から、物語は宗教が持っていた役割を肩代わりできるんじゃないかという立場に持ち上げられてしまう。物語の細分化、もしくは再分配。みんなそれぞれ自分の宗教を発見して、上手いことやっていこうぜ、っていう世界(私小説フェーズ)。あるところまではその方法は機能し得た。でも、その臨界点が、つまりは資本主義的な臨界点が露呈してしまう。それは自我の拡散であり、経済における偽善的ヒューマニズム的な信頼の崩壊(今ここ)であったりするわけだ。
卍:
その通りだね。言葉の問題も動きの問題も。
でも、例えば卍の絵を見て「これいい!」って思ったことをやっぱり伝えたいわけだよ。そこで重要なのは喜びによって描かれた絵を見て、それが喜びによって描かれていると感じられるかどうかってことなんだと思う。そこには言葉は無いけど、確かにそれを感じる。それは事実としてある。ただ、多くの人がそれを感じないようにして生きている。どれだけの子供が親から絵を描く喜びを奪われているのかと考えると気が遠くなる。美術の先生でさえ救ってはくれない。それが悲しすぎる。語らなくていいから、感じて喜びを共有しろと言いたいんだよね。それが最高の評価だと思うし、kenくんの言う評価の土壌みたいなものが生まれるとしたら、まずそこからだと思う。
ss:
教育はホントひどい。イイ先生もいっぱいいるんだろうけど、イイ先生であるだけじゃ不十分なんだよね。それは作品に対する愛が無いのと同じように、国語に対する愛や、スポーツ対する愛や、音楽に対する愛やなんかを、少ししか持っていなかったりするからなんだろうなと思う。だってそんなもの必要とされていないわけだしね、現場では。その日本人的なギブアンドテイクも、同じところに根ざしているんだろうなぁ。
ニッケタマコ :
俺は衝撃的であることが芸術の価値の内の一つであるとは思っていないです。だからかつての作品から衝撃が失われることは作品にとって歓迎すべきことであると思っています。その印象派の塗り残しの話で言えば、その塗り残しが美しいものであれば、衝撃が去った後にこそより美しくなるのです。そこには教育は必要ありません。それなのに、仰るように教育はそれを台無しにしますよね。芸術に価値があるためには裸であることが重要なんであって、王様であることはまったく重要ではない。ですから、現代芸術が裸の王様であるとしたら、裸であることだけに価値があるんです。
批評における共有に関しては、共有し易い歴史事実やモチーフの説明などには、一体どんな価値があるのかといつも思ってしまうんですよね。上でも言ったような、絵のもたらしてくれる喜びを曇らせるものとしか思えないんですよ。
話はちょっと変わるんですけど、今の現代美術の分野って、とかく作家に説明させますよね。作品のコンセプトや、成り立ちとか、歴史の文脈など、言語的なものが求められる。これってある種、人々が視覚の外に物語を求めた結果なのかなあとフト思いました。
時間芸術足りえない(感情移入しにくい)絵という分野に、言語的な要素を補足することで、擬似的に時間芸術に仕立て上げて、感情移入の窓口を広げているのかなと。プラス、作家っていうのは生きているだけで人生という物語を作ることから、作家の生き様に物語を求めることで、作家の生み出した作品にもその物語を付与して楽しんでいるのかなと(ゴッホなんか顕著ですね)。
大きな物語が崩壊した今では、散り散りになった小さな物語は、かつてあった大きな物語のような「前提」を人々の中に見出しにくくて、それ故に欠落した物語のその先を作家に語らせる結果になったのかなあと。
ただそうすると、物語としての側面だけクローズアップされて、空間芸術としての魅力が置き去りにされてしまっている感は否めないんですけど…。
俺もあまり詳しくは知らないけど、作家に説明させるのはアメリカ流なんじゃないかな。これは美術に限らず社会全般がそういう傾向にあるみたいだよ。デザインでもビジネスでも。これまでの現代美術ってなんだかんだ言ってアメリカ主導だったでしょ?それはやっぱりドルが基軸通貨だったり資本が集中していたからで、日本に入ってくる情報だけを見ていると、アメリカの現状が世界の現状みたく見えてしまうけど、実際は微妙に違っていたりもするんじゃないだろうか。
で、なんでそこまで説明を求めるのかって事だけど、そこには雑多な多民族国家だったりとか、ヨーロッパの伝統に対するコンプレックスとかって事がいろいろと関係しているんだろうと思う。でもそれは見方を変えれば、Ken君の言うようにその都度物語を生成するような方法論に繋がるよね。
あとね、空間の魅力とか響きあう色とか、そういうのってのはやはりある程度訓練されることでより良く見えてくるようなものでもあるんだよね。そもそもが物語にしたって、美しい構造とか美しい韻とか簡潔な表現とか、そういう文章としての美しさのフェーズってのを持ってるわけで、そういうのは全くといっていいほど消費されていないんだよ。それには良い読み手が必要。そして良い読み手というのは良い観客と同じように怖ろしく少ない。たぶんね。こういう部分は音楽でも文章でも絵でも変わらないと思うな。