February 2009Archive

他人が作ったものを、どっちが素晴らしく、どっち劣っているかと比べることなんて、くだらない。そんなランク付けに意味があるなんて思えない。他者を並べて比べるということは、自分の肉体を放棄することだ。必要な知恵なり情報は、常に自分の肉体との関係おいて定義されない限りは自分にとっての意味を成さない。

モノを作る時に肝心なのは、どれだけ平常心を保てるかだ。だがそれは平らな状態じゃなく、常にぶれ続けている状態だ。綱渡りをしている状態がバランスを取り続けている状態であるように。だから平常心とは、自分がぶれていることを感じ取れる能力だ。

おそらく、何かを作ろうと思うときなんてのは、かなりぶれて揺り動かされている状態なのだ。そして作り始めると、まずその傾きに囚われるし、それが収束し始めると、別な傾きが顔を出す。そのぶれを取り続けることで精度の高い何かが出来上がる。最初からぶれていないものなんて作れないし、最初からぶれていないように思えるものなんて、作る意味が無い。

動機になったぶれは、作る側からしてみれば、喜びと期待以外の何物でもない。冒険の始まりであり、危険の予兆であり、怖れを伴い、ぞくぞくするものだ。その湧き上がる何かがぶれを取り続ける勇気を与えてくれるのだ。

昔バイクのデザインを考え始めた頃、自分は今まで、なんて二次元的にしかモノを見ていなかったんだろうと驚き呆れたことがある。どんなデザインを考えてもあくまで二次元の域を出ず、何一つマトモに形に出来る最終形を認識できていなかったのだ。対象を見て描くならどんなものでも描けるとか自惚れてもいたので、その発見は結構衝撃的だった。

そして今、また同じことを思っている。自分の外側にある対象に対しては三次元的に認識できると自惚れていたのに、自分の身体や動きに関しては、呆れるほど二次元的思考の世界に囚われていることに気がついたからだ。そして冷静に考えてみると、自分が三次元的にモノを見ていないことなんて、まだ山ほどあるんだなって感じがしてきて、それは絶対真実なのだ。

やることいっぱいだわ。

他人が集積した技術の結果である”ブランド”というものに依存しなければどれだけの自由が得られることだろう。

結局のところ、信頼とか信用というものは、「内容を吟味しないで任せる」ということだ。なぜそんなことが蔓延るかといえば、吟味することは面倒だからなのだ。吟味できるためには、成り立ちを知る必要があるし、成り立ちを知るためには、実践する必要があるし、実践するためには、失敗をする必要がある。しかもその失敗が果てしなかったりもするのがざらなのだ。その上結果に辿り着けないことの方が多かったりするのだ。

それが嫌だから、多くの人は信用とか信頼という名の約束に走るのだ。そしてその約束をさらに分かり易くする為にブランドという名詞が与えられる。

しかしブランドに依存しない自由を思えば、果てしない失敗が何ほどのものだろう。そこには裏切りも期待も犠牲も無いのだ。それ以上に素晴らしいことがどこにあるのか。

甘えと依存が悪いものだとは思わない。
それは薬のようなものだ。
ただし、死ぬまでそれを続けるものだとも思わない。
自分の死という卒業しないとならない締め切りのあるものなわけだし
早いとこ卒業できるに越したことは無い。
急ぐ必要は無いが、確実に卒業する必要がある。
そのために努力する必要がある。
自分の生きる意志において。可能なら他人の巡り会わせを待つことなく。
おそらく甘えと依存はサバイバルの為の一つの方法論に過ぎないのだ。

自転車レースの世界は、おそらく現代において最も冗長性の排除された世界の内の一つだ。限界を超えて冗長性を排除しようとしている。そのような場所では、犬にぶつかっただけでホイールがクシャッとひしゃげたり、意図せず段差に乗り上げただけでステムが折れたりする。そもそもそれらの機材は、犬にぶつかることも時速40kmで段差に乗り上げることも想定していないのだ。そのような想定外の現実に出会わない限りにおいて、最高のタイムを叩きだせるように作られているのだ。だから50gのサドルは飛び乗りを許容しないし、800gのフレームは彼女と二人乗りすることを拒む。

一方で世の中のほとんどのプロダクトは冗長性に満ちている。高級感だとか、重厚感だとか、安心感だとか、単なる慣習によって、冗長性はもてはやされる。こちらの世界では、例えば実際の耐久性とは関係なく、500gのドアよりも20kgのドアの方が価値があり、現実的には地震の影響をより大きく受ける構造であるにもかかわらず、より深く地面に根ざした基礎に重い構造物を依存させることが良いものだとされる。そのような価値観の世界では、大いに冗長性は排除される必要がある。いったいどれだけの軽量化が出来ることだろう。

しかしその先に行く必要がある。重要なのはラジカルな中庸だ。過激なだけで柔軟性の無いモダニズムでもなく、ぬるい冗長性でもなく、必要とされる針穴を通らないといけない。発見すべきはそれぞれの超個人的な日常だ。個別であることの普遍性だ。そこにしか自由になれる道は無いと思える。

何かを作ろうとするときに、作ろうとするものが要求してくるものを、まず全面的に受け入れなくてはならない。その要求をあらかじめ限定するような作り方には全く意味が無い。そんなものは作る必要が無い。だからその時点で必要なことは、その要求にどれだけ身を任せてダイブ出来るかという能力だ。絵でも自転車のサドルでも変わらない。

限界までダイブすることが出来れば、作るべきものの骨格が出来上がる。しかしここから先の形を与える行為を単なる表層的なデザインであると認識することは間違っている。デザインは滑らかに繋げることではない。単にバランスを取ることではない。様式に当てはめることではない。ましてや様式を発明することでもない。おそらくデザインとは生物の進化と同じく、応力を適正化する行為であるべきなんだと思う。しかもその応力には、単なる力学的な応力だけでなく、光や音や表面構造などの、微細な応力関係も含まれるのだ。おそらくそこでは、さまざまな波長のグルーブを感じ取ることが出来る敏感な感覚が必要とされるだろう。

つまり最初に要求に全面的に従ったのと同じように、今度は骨格が要求するものに全面的に従えばいいのだ。それは難しいことでもあるかもしれないけど、曇っていなければ難しいことではない。力を注ぐべきは曇らないことだけでいい。

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