August 2009Archive

絵画が実現し得る「そこにある限りなく薄い空気感」と、写真がデフォルトで持っている「その先にある限りなく深い空気感」の間で、両者は互いに恋をし合っている。

だが見てみたいのはその恋の終わりなのだ。その先に、それが進化の終わりではなく、当たり前になった後にこそ進化が訪れるのだと思う。

裸眼3D動画と洞窟の壁画とフラッシュサーフェスなデジタルプリントとリアル立体の造形物がそれぞれに共鳴しあう未来は、そしてさらに、そこに触覚や臭覚が統合される、実は大昔からあったリアリティの未来は、再定義されることを待っているだけなのだ。さらにおそらくは、そんなものは時代の未来ではなく、個人の未来に過ぎないのだ。

人はかつて見た夢ではなく、見たことのない夢の始まりを求めている。

そう自分では思っているが、そうではない人が沢山いることも知っている。
だが、そうではない人が見たことのない夢を求めていないかといえば
そんなことは無いのだと信じている。

信じているなんて言いたくないのだけど
自分が自分以外でないのならば、
他の言葉が思いつかない。

こんなとき、
宗教があったらとっても便利なんだろうな。
そんな便利な宗教はいらんけど。

ベートーベンの第9はBUKKAKEだと思った。それは盛大さに対するフェティッシュだ。
そのようにアダルトビデオと表現を対応させていくと、取りこぼされるものが無いほど完璧な対応表を作ることが出来るように思えた。そしてそれはおそらく間違っていない。あらゆるフェティシズムは日常という名の社会的常識に含まれている。

しかしもちろんそこには社会的には犯罪とされる行為も含まれる。だがそんな違いを定義する行為は、ありえないほど陳腐なことだ。

序章を賛美する人、予感を良しとする人、駆け上る坂に情熱を燃やす人、限りなく緩やかな歩みの果てに長く穏やかなオルガスムを求める人。それらの違いがどれほどの違いなのか。

人の欲望に、どんなシチュエーションであれ、大きな違いなんて見出せない。そういうことこそが大事なのだ。

ベートーベンは大量の精子をぶちまけたかったのだ。

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