September 2009Archive

長い間モノを作っていると、と言っても、自分では長い間モノを作っているなんて実感は大して持っていないのだけど、まあそれでもいろんな状態を経験したりする。自分から湧き出てくる意欲の喪失もその一つだ。

昔はコレが怖くてしょうがなかった。というより、今までコレが怖くなかったことなんて無い。人の創作意欲なんてものは、おそらく9割方は、憎しみだとか、喪失感だとかに基づいているものだ。だからこそ、ある病に侵されているときにはとんでもないテンションで眼を見張るような作品を作っていた作家が、そこに一定の充足が訪れたとたんに陳腐な作品を作り出したり、若い時には欲望にさいなまれつつ、道を見出そうとしてがむしゃらに走っていた人間が、ひとたび道に嵌ってしまうと輝きを失ってしまったりするのだ。

かと言って、そこに他人の幸せだの、崇高な理念だの、嘘っぱちの思想だのを持ってきて意欲の代用にするなんてのはもってのほかで、むしろ最低だとしか思えない。そんなものは口を満足させたいだけの人に任せておけばいい。

意欲が無いなら、意欲が無い状態を享受すればよいのだ。創作意欲は無くとも、食欲や性欲はあるわけだから、十分生き延びることは出来るわけだし、それでなんの問題があるのか。自分の仕事だったからといって、なぜ嘘をついてまで意欲のある状態を演じる必要があるのか。そしてその意欲の無い状態がもし死ぬまで続くとしても、それはそれででいいではないかと思う。

やるべきこと、やりたいこと、やらなければならないこと。そういう表面的な主体性の関わり具合による区分は、実は物凄く現代的な一過性の社会における区分なのであって、少しも本質的な区分ではない。やることやって、やらされたこともやって、やらなきゃいけないこともやって、やりたいこともやって、その動機や欲望の方向がどんなであれ、それをし続けるだけでいい。

その空白は、精神的な(もしくは肉体的な)サイクルの一つの局面に過ぎない。そして意欲の空白における外部の情報の何と豊穣なことか。その豊穣を見ないことは、なんてもったいないことだろう。

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