予感に導かれて、構造の力学に従ってみる。
そこで、新しい形に出会う。
でもその新しい形は、予感というプールの内側で形成される。
それはしょうがないことだ。
だって、予感から始めたんだから。
そしてその予感は
新しいかもしれないけど
いや、新しいんだけど、
陳腐なのだ。
予感のプールが小さいからだ。
こういう状態に対して「井の中の蛙」というのは、たぶんとても正しい。
25mプールじゃなくて、2500mプールとか、2500000mプールとかに
出会いたいのだ。
予感は快感だ。
小さくとも、大きくとも
それは快感だ。
そして快感は良いものだ。
だが、その快感の、先の快感に行かなければ、
治療的な快感の先に行かなければ、
見えてこないものがあるんだと思っている。
科学の蓄積とか
文明の連なりとか
知識の体積とか
そういうものが人を小さなプール中に押し込める。
しかし、もちろん、誰もが他人の経験の上に自分を組み立ててはいる。
それは責められるような事じゃない。
それを責めちゃいけない。
そんな風にじゃなく
大きなプールの中にいたはずなのだ。
元から。
技術は何度でも発見することが出来る。
それは正しい。
伝えるべきは遺産ではない。
墓ではない。
予感 プロセス 実現 拡散
吸入 圧縮 爆発 排出
そのサイクルを何度でも繰り返すことが出来ることを証明し続けることなんだ。
まだやるの?
じゃなく、ずっとやるのだ。


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