March 2010Archive

リアリティを求めている、と思っていた。
だがリアリティとは疎外感の別名であると思った。

自分に起きた出来事がリアルであると感じる時
そこには必ずカタルシスがある。
カタルシスは治癒を伴うからカタルシスなのだ。

そこで何から治癒されるのかを考えると
それは過去に属する特定の事象からの解放として治癒が経験されている。

リアリティとは、あるサイクルの因果関係の一側面に過ぎない。
だからと言って
その一側面を貶めたいわけではない。

ただそれが一側面であることを知る事はとても重要なことのように感じる。

サイクルが澱む時には腐敗が始まる
腐敗を起こさないようにリアリティが働くようにすればいいだけの話だ。

自転車に乗る人は自転車を見るだけでも楽しみを感じるだろう。
その楽しみは、自分が自転車に乗っていることを想像できるからであり、そしてさらに見惚れるような人は、その自転車を構成している部品が、自分にとってどんな体験をもたらしてくれるかを想像して、見ることをさらに充実させるだろう。

同じことが絵画や映画にも言える。
いつもの散歩道を描いた一枚の絵は、いつも散歩をしている経験が共有出来る人にとっては楽しめる絵になるだろう。毎日を初めて生きるように過ごした経験がある人にとっては、毎日を初めて過ごすことを表現した映画は楽しめるものになるだろう。

そのように表現は過去に属するが、しかし本当の表現は、見ることの、聞くことの、感じることの、味わうことの、

手前にあるのだ。

大事なことは常に手前にあるのだ。

ではその手前は表現に見えないかって?
とんでもない。
誰もがその手前を見て勇気を貰い喜びを感じているはずだ。
それが表現じゃないなんて、ほんとにとんでもない。

美しさとは実践されることだ。
そしてそのような美しさは捉えられることを拒否する。
既に実践されたことの解釈なんてどうでもいい。
その捉えられない一瞬を誰もが求めているに過ぎない。
なのにその薄皮一枚の、
薄皮さえもないような、しかし厳然たる壁を超えたくて(それはおそらく認識と言う壁だ。
今日も歩き、手を動かし、食べ物を口に運び、まぐわい、言葉を浪費する。

しかしそれでも欲しいものは既に実現している。
未来を延期するのは人類の特権だ。
あるいは人類の病気だ。

幼さが膨れ上がっている。
幼さが祭り上げられている。
幼さが檻の中に閉じ込められている。
幼さが暴走している。

現代から幼さを取り除いたら、それは現代とはいえないぐらい、
幼さが時代を支配している。
そんな風に思えてしょうがない。

トヨタのリコール問題も、児童ポルノ問題も、モンスターペアレンツも、子供手当ても、捕鯨問題も、環境保護も、全て幼さを巡っている。

昔は「大人は真実を隠している」と子供に思われていた。しかし実際には、真実を隠している大人なんてどこにもいない、というのが真実だった。もっと言えば隠すべき真実なんてどこにもありはしない。それなのに、一体何を隠そうというのか。

今の大人は、子供に真実を見出そうとしている。しかし、真実を生きている子供なんてどこにも居ない。もっと言えば、真実を生きる子供はあらかじめ否定されている。否定しているのは見出そうとしている観察者本人だ。その構図の中心にあるのが幼さだ。幼さを分類してはいけない。幼さを祭り上げてはいけない。それは幻想に過ぎない。そして幼さを否定してもいけない。

暴力と幻想はいつも仲良しだ。
それはそれでいい。
虚構的資本構造にとってさえ、というより、そんなものにとってこそ、幻想は原動力なのだ。きっと。

便利さや豊かさは、人をすぐに慣らす。
しかし、その便利さや豊かさは、非常に限定された範囲における便利さであり豊かさだ。
同じように、貧しさや不便さだって人を慣らす。
それもまた、限定された範囲における貧しさであり不便さなのだ。

便利かどうか、豊かかどうか、
その価値基準こそが幼さなのだ。
そして、その限られた便利さなり豊かさなりの中にしか、現代における人格だとか人権だとかの幻想は生きていけないように作られているのだ。

なぜそれほどまでに、幼さという名の純粋だの無垢だのを求めるのかと言えば、それは、それぞれの自分自身の過去を取り戻したいからに他ならないんだろうとしか思えない。誰もが「既に損なわれた人生を送ってきた」という認識を共有したいのだ。

なんという堂々巡りだろう。なんという無駄だろう。
連鎖する暴力。
この連鎖を断ち切ることは出来ないんだろうか。
せめて自分の中で。

満足という概念は、ほとんどの場合、他人との比較、もしくは他人が定めたリミットラインによって規定される。つまりほとんどの満足は、結果として他人への依存を形成する為の欲望以外の何者でもない。

もちろん、そうではないような、身体的で生理的な満足だって普遍的に存在する。しかし現代の飢えを生成する日常的で恒常的な満足への欲望は、依存を導くための仮想的な他人によって作られているのだ。だから重要なのは、そのような他人を自分の中に見出し、それを認め、その他人を追い出すことだ。

2010_01.jpgヴァニラ画廊主催の企画展”Alternative Gothic”に参加します。開催期間は4/12-4/24。詳細はヴァニラ画廊のサイトでどうぞ。サクバは3点の出品予定です。新作はありませんが、自分の作品以外にも多彩な作品が展示されるようですので、興味のある方はぜひ足を運んでください。


100301-1.jpgせっかくなので近況報告も。あいかわらず自転車にはまってます。この写真はフライス盤でチェーンホイールを作っているところ。まさか自分がフライスを使うなんて!新しい工具や技術に触れるのは、ドキドキするしビビリまくるし、失敗も沢山あるけど、出来てしまうと楽しいことこの上ない。そんなわけで、今や全く手の入っていないt-s-k-b号の自転車部品はペダルとシートピラーぐらいになってしまいました。

それとオリジナルカーボンサドルに関する問合せをいくつか頂いています。ウチのサイトをチェックしている人で自転車に興味を持っている人なんて随分少ないと思うのですが、ありがたいことです。こちらは大分時間が掛かっていますが、試作品の5個目が現在製作進行中で、ここへきてかなり完成度が上がってきたかなというところです。全体のフォルムはほとんどそのままなのですが、製法や強度面での見直しが多く、やっと目処が立ってきたところです。見せられるようなものになったらまた公開します。

しかし、アルミを削ったり、粘土を捏ねたりするのは楽しすぎるな。絵を描いている時にはなかなか得がたい、身体が優先で入る没入感がたまらない。これって絵でも可能なんだけど、コンスタントにかなりの枚数をこなしている時じゃないと起きにくいように思う。

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