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20100316: 幼さを巡る暴力

幼さが膨れ上がっている。
幼さが祭り上げられている。
幼さが檻の中に閉じ込められている。
幼さが暴走している。

現代から幼さを取り除いたら、それは現代とはいえないぐらい、
幼さが時代を支配している。
そんな風に思えてしょうがない。

トヨタのリコール問題も、児童ポルノ問題も、モンスターペアレンツも、子供手当ても、捕鯨問題も、環境保護も、全て幼さを巡っている。

昔は「大人は真実を隠している」と子供に思われていた。しかし実際には、真実を隠している大人なんてどこにもいない、というのが真実だった。もっと言えば隠すべき真実なんてどこにもありはしない。それなのに、一体何を隠そうというのか。

今の大人は、子供に真実を見出そうとしている。しかし、真実を生きている子供なんてどこにも居ない。もっと言えば、真実を生きる子供はあらかじめ否定されている。否定しているのは見出そうとしている観察者本人だ。その構図の中心にあるのが幼さだ。幼さを分類してはいけない。幼さを祭り上げてはいけない。それは幻想に過ぎない。そして幼さを否定してもいけない。

暴力と幻想はいつも仲良しだ。
それはそれでいい。
虚構的資本構造にとってさえ、というより、そんなものにとってこそ、幻想は原動力なのだ。きっと。

便利さや豊かさは、人をすぐに慣らす。
しかし、その便利さや豊かさは、非常に限定された範囲における便利さであり豊かさだ。
同じように、貧しさや不便さだって人を慣らす。
それもまた、限定された範囲における貧しさであり不便さなのだ。

便利かどうか、豊かかどうか、
その価値基準こそが幼さなのだ。
そして、その限られた便利さなり豊かさなりの中にしか、現代における人格だとか人権だとかの幻想は生きていけないように作られているのだ。

なぜそれほどまでに、幼さという名の純粋だの無垢だのを求めるのかと言えば、それは、それぞれの自分自身の過去を取り戻したいからに他ならないんだろうとしか思えない。誰もが「既に損なわれた人生を送ってきた」という認識を共有したいのだ。

なんという堂々巡りだろう。なんという無駄だろう。
連鎖する暴力。
この連鎖を断ち切ることは出来ないんだろうか。
せめて自分の中で。

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