自分がある映像なり表現なりを見たときに、どうしても惹かれてしまう傾向というのがあって、それは身体性が後付の機材によって拡張されていたり、制限されていたりするものだったりする。
拡張性ということで言えば一番わかりやすいのは乗り物だ。レーダーや望遠鏡やメガネや補聴器や、さらに拡大していけばそれは建築物や都市にまで行き着く。しかしそこで惹かれてしまう本質のことを考えると、実は拡張することのために犠牲にされている、制限された身体にあるような気がしてしまう。
制限された身体性といえば、目隠しや、ボンデージファッションや、矯正器具などの医療用器具が思い浮かぶ。ここでのイメージの行き着くところにはには死体や病気も含まれてくる。しかしこちらでも、惹かれてしまう本質のことを考えると、実は制限されていることによって開放されている精神性に魅力を感じているような気がしてしまう。
そうなってくるとどっちが本質かとか、何が究極かとかどうでも良くなってしまうのだ。つまり一見拡張に見えるものは、身体的制限を前提とした精神的万能感の獲得であり、一見制限に見えるものは精神的制限を前提とした身体的万能感の獲得であり、おそらくそのどちらの場合にも、ある外部としての機材を必要とする、もしくは欲望する状況というのが前提としてあって、その前提となっている精神状態が、なにか心の奥にしまってあるものをかきむしるのだ。
そのかきむしる何か、その暴力的なまでの何か、拡張したり制限したりすることによって見えてくる何か、その状態に惹かれているんだろうと思う。
飛躍する。
それはたぶん春の狂騒だ。
悲しみも情熱も春の狂騒なのだ。
暖かく咲き乱れる喜びを乱用しまくった爛れたゴミだ。
だが、そんなゴミが好きなのだ。
そしてそのゴミは、ゴミにしか見えないようにあるときにだけ最も美しい。


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更新まだー?