July 2010Archive

自分がある映像なり表現なりを見たときに、どうしても惹かれてしまう傾向というのがあって、それは身体性が後付の機材によって拡張されていたり、制限されていたりするものだったりする。

拡張性ということで言えば一番わかりやすいのは乗り物だ。レーダーや望遠鏡やメガネや補聴器や、さらに拡大していけばそれは建築物や都市にまで行き着く。しかしそこで惹かれてしまう本質のことを考えると、実は拡張することのために犠牲にされている、制限された身体にあるような気がしてしまう。

制限された身体性といえば、目隠しや、ボンデージファッションや、矯正器具などの医療用器具が思い浮かぶ。ここでのイメージの行き着くところにはには死体や病気も含まれてくる。しかしこちらでも、惹かれてしまう本質のことを考えると、実は制限されていることによって開放されている精神性に魅力を感じているような気がしてしまう。

そうなってくるとどっちが本質かとか、何が究極かとかどうでも良くなってしまうのだ。つまり一見拡張に見えるものは、身体的制限を前提とした精神的万能感の獲得であり、一見制限に見えるものは精神的制限を前提とした身体的万能感の獲得であり、おそらくそのどちらの場合にも、ある外部としての機材を必要とする、もしくは欲望する状況というのが前提としてあって、その前提となっている精神状態が、なにか心の奥にしまってあるものをかきむしるのだ。

そのかきむしる何か、その暴力的なまでの何か、拡張したり制限したりすることによって見えてくる何か、その状態に惹かれているんだろうと思う。

飛躍する。

それはたぶん春の狂騒だ。
悲しみも情熱も春の狂騒なのだ。
暖かく咲き乱れる喜びを乱用しまくった爛れたゴミだ。
だが、そんなゴミが好きなのだ。
そしてそのゴミは、ゴミにしか見えないようにあるときにだけ最も美しい。

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人が人に向けた欲望はマシンガンのように発射されるけど、お互いに相手に当たることはほとんどない。照準がぶっ壊れまくっているから、至近距離でもハズレまくりだ。弾道は相手の頭上を跳び越し、遥か彼方に着地するばかり。その戦場に飛び交う弾丸の間を、涼しい風やシジミチョウや時間が横切っていく。すると空中を高速で移動していた弾丸は一瞬で勢いを失いその場で地に落ちる。向き合った人の間にあるのは涼しい風やシジミチョウや時間だけだ。

だけど

人は相手が放ったその弾丸を自らの意思で飲み込んだりもする。とても強力な掃除機のように。そんなに高速で移動する弾丸をどうやって飲み込むことが出来るのかは、いまだに明らかにされていない。よほど強力な掃除機なのだ。飲み込まれた弾丸は戦場から隔離された深い深い沼に放たれる。そしてその弾丸は大きな魚に成長するのだ。魚となった弾丸は今や魚であるのだから、弾丸よりも遅いが自由に動くことが出来る。その動きは誰にも予測できない。それを飼っている本人にさえ。

しかしいずれ魚は大きくなりすぎる

大きくなりすぎた魚は既に魚ではなく川だ。怒れる川だ。怒れる川は流れ出るのだ。とんでもないエネルギーで、エネルギーそのものとなって。いまや人はただの水門だ。壊れた水門だ。思いっきり吐き出すのだ。川となった魚を。魚になった弾丸を。そうすればまた涼しい風が吹いてくる。そこでマシンガンに戻ることがあろうともそれはそれでいいではないか。

あらゆる日常的関係性から自由になるためのテクノロジーは既に存在している。ただしそのようなテクノロジーはそれを利用する個人に対して一定のリスク(おそらく現状の社会的常識に照らし合わせれば受け入れがたいような)を要求する。だからと言って、さらに、そのリスクをも回避できるテクノロジーがあれば最高じゃん、と思ってはいけない。そんなものは幻想だ。身体的な資本主義においては、それが回避できることはあり得ないのだ。なぜならそのリスクと自由は切り離すことが出来ない、同じものの一側面に過ぎないからだ。

支持政党や宗教や理念の違いが人を隔てるのを個人レベルに降ろすことが出来ればいいのにといつも思うのに、それが出来た試しは無い。なぜならその違いは、人が個人であることから離れた場所であらかじめ選択されているからであり、そこにしか存在しない隔たりであるにもかかわらず、それぞれの日常は、そのような個人から隔たった場所で営まれているからなのだ。それはつまり選択の基準が、存在しない過去と未来に依存しているということだ。いつから日常は今を無視するようになったんだろう。日常とは今に振り回されることではなかったのか。

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