August 2010Archive

機械が人に優しく安易になるほど、機械は人から遠ざかっていく。
遠ざかった機械は
個の失われた集団を前提にしないと維持できないものになる。
集団の母数は膨れ上がり続けている。
そのベクトルの行き着く先にあるのは、
単なる都合のいい空想的な他人としての機械だ。
そしてその都合のよさは、
個から離れて膨れ上がった
集団の欲望の最大公約数によって規定されている。
最大公約数によって生まれた空想の巨人が世界を支配する。

機械とはシステムだ。それは自動車であり、ロボットであり、倫理であり、医療であり、言語であり、コミュニケーションだ。

安易であることが革新であった時代。
だが、その安易さが最大公約数によってしか測られないとしたら、
その安易さは単なる牢獄だ。

どこまで行っても、言葉は誰かが発したことでしかないのだから、そんなの自分ではない他人が発したことであるなら、どんな表現であれ放っておけばいいじゃん、って考え方と、

どんな言葉であれ、誰が言ったかにかかわらず、どんな影響を他人に与えるかは予測できないのであるから、出来る限り慎重であるべきだ、って二つの立場の間で、人はいつも揺れている。

そして、基本的に自分は前者だ。
だがそんな自分でも、放っておけないで不平を言いたくなったりもする。でも前者であり続けるためには全ての努力を注ぎ込んでも惜しくないと思う。なぜなら、自分自身が前者の立場で無いと死んでしまうからだ。生きているのが辛くなるからだ。

ではそれが、自分が発した言葉であった場合にはどうか。その言葉は、同じように放っておけない人から攻撃を受けるだろう。その言葉は無視できる人から無視されるだろう。しかしそうのようにしてしか生きていけないならば、その状況を受け入れればいいだけの話だ。孤独と賞賛は矛盾しないし、疎外と情熱の目的地も矛盾しない。つまりストレスを超えた孤独の僻地に慣れればいいだけの話だ。

追記:
愛には慣れていないなぁ、とつくづく思う。
愛で生きている人は、こんなことは簡単に飛び越えるのかもしれない。それでも僻地の感覚は残るだろうけど。その僻地に生息するリアリティが、可愛いやカッコイイやセクシャリティによって維持されているとすれば、それらを無視することはとんでもない暴力だということになるな。

追記2:
愛の定義は男が女に向けた幻想に染まっている。もちろんそれを超えた宗教的共同幻想にも染まりまくっている。別に違う単語を当てはめればいいとも思わないけど、せめて男愛と女愛は分けたほうがいいんじゃないかと思うな。きっと中学生男子がスッキリすること間違いなし。

警鐘なんて鳴らしたくない。
なぜなら警鐘は、鳴らすべく定められた出来事が起きた後にしか鳴らすことが出来ないからだ。
そんな警鐘に比べれば、嘘かもしれない孤独な思いつきの方がずっとリアルだ。

しかしこの物言いは、昨日の日記には反しているな。ダメじゃん。

なにが好きか、なにに情熱を感じるのか、なにをしたいか、なにをしたか、ということに比べれば
なにが嫌いか、なにがつまらないか、なにがしたくないのか、なにがなされなかったのか、
なんてことは
一億分の一の価値も無い。そう自分に戒めておく。
批評や検分や恨みや正当性の証明に費やすには、
たぶん人生は誰にとっても短すぎるのだ。

セクシャリティの表現が無防備さの偽装に特化していく現状は、共同体の解体が避けようも無く進行し続けている現状から見れば必然なのだろう。そしてそれを乗り越えるためにはさらなるテクノロジーの暴力が必要なのだろう。しかしそのテクノロジーの暴力が幻想としての無防備さを包囲するようしかに働かないとすれば、お先真っ暗だな。

昔からずっとスケール感に興味を持っている。このスケール感というのは自分にとって物凄い広い意味を持っていて、それは単なる模型的な意味での縮尺率のことでもないし、雄大さや窮屈さを表すようなスケール感とも違う。そこには例えば、流れている時間のスケール感や、そのスケールの基準がどのような社会性によって定義されているのかとか、そのスケールを成立させている技術レベルがどのように保たれているのかといった事が全て含まれてくる。その上で、自分が惹かれるスケール感というのがって、それをずっと求めているような気がしている。

しかしそんな自分が求めているスケール感というものが、滅多に見つからないぐらいレアなものであるかというとそんなことはない。そのスケール感は日々の散歩の中でも、スーパーの陳列棚の中にでも、寺院の着飾ったお地蔵さんにも、子供が遊んだ砂場の残骸にも見出すことが出来る。しかしそれらに共通する特徴というのがあって、それはどれも儚いということだ。しかもその儚さはそのスケール感の本質では全く無いのだ。つまり自分が追い求めているスケール感は、それ以外のスケール感に比べると、評価が定まっておらず、言語化しづらく、共有されづらいようなスケール感であるということだ。

だが、その自分が魅力を感じ、追い求めているそのスケール感は、そんな風に儚い状態に置かれていてはいけない重要な価値を持っていると思えてしょうがないのだ。

そのスケール感は例えば、善悪の手前でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、他者の眼が届かないところでのみ実現される。
そのスケール感は例えば、比較の手前でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、蓄えに依存しない時にのみ実現される。
そのスケール感は例えば、時間を計ることが無意味な世界でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、制限が制限で無くなった世界でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、感情の向こう岸で実現される。

そしてこのようにいくら条件を並べ立てたところで、その定義は狭まるどころか広まるばかりだ。それぐらいそのスケール感を成立させる欲望は当たり前に存在しているものなのだ。

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