身体性の拡張と制限→

20100804: スケール感

昔からずっとスケール感に興味を持っている。このスケール感というのは自分にとって物凄い広い意味を持っていて、それは単なる模型的な意味での縮尺率のことでもないし、雄大さや窮屈さを表すようなスケール感とも違う。そこには例えば、流れている時間のスケール感や、そのスケールの基準がどのような社会性によって定義されているのかとか、そのスケールを成立させている技術レベルがどのように保たれているのかといった事が全て含まれてくる。その上で、自分が惹かれるスケール感というのがって、それをずっと求めているような気がしている。

しかしそんな自分が求めているスケール感というものが、滅多に見つからないぐらいレアなものであるかというとそんなことはない。そのスケール感は日々の散歩の中でも、スーパーの陳列棚の中にでも、寺院の着飾ったお地蔵さんにも、子供が遊んだ砂場の残骸にも見出すことが出来る。しかしそれらに共通する特徴というのがあって、それはどれも儚いということだ。しかもその儚さはそのスケール感の本質では全く無いのだ。つまり自分が追い求めているスケール感は、それ以外のスケール感に比べると、評価が定まっておらず、言語化しづらく、共有されづらいようなスケール感であるということだ。

だが、その自分が魅力を感じ、追い求めているそのスケール感は、そんな風に儚い状態に置かれていてはいけない重要な価値を持っていると思えてしょうがないのだ。

そのスケール感は例えば、善悪の手前でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、他者の眼が届かないところでのみ実現される。
そのスケール感は例えば、比較の手前でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、蓄えに依存しない時にのみ実現される。
そのスケール感は例えば、時間を計ることが無意味な世界でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、制限が制限で無くなった世界でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、感情の向こう岸で実現される。

そしてこのようにいくら条件を並べ立てたところで、その定義は狭まるどころか広まるばかりだ。それぐらいそのスケール感を成立させる欲望は当たり前に存在しているものなのだ。

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