December 2010Archive

永遠の反語をずっと考えていた。
それはおそらく、メンテナンスかコミュニケーションだ。
刹那では決して無い。そこに刹那を対比させるのは安易過ぎる。
そしてそう言った時に想定されている状況は新しい永遠なのだ。

肉体における病の多様性と同じように、心においても風邪があり、癌があり、骨折があり、捻挫があり、打撲があり、内臓疾患があり、血行不良があり、硬直があり、運動不足がある。そしてそれらの症状は、肉体と同じように全て異なる。

しかし、やはり肉体と同じように、それらに遭遇しないようにすればいいというものではないのだ。そんな過保護は糞だ。なぜなら、肉体におけるのと同じように、不可避性のフィールドこそがリアリティだからなのだ。不可避性のフィールドがなければ学習は存在しない。失敗も存在しない。成功も存在しない、技術も存在しない、愛も存在しない。コミュニケーションも存在しない。治癒も存在しない。

誰もが分類の闇から抜け出すことが出来ないでいる。分類の闇とは正しさの基準の根ざすところだ。正しくありたいという欲望が闇を深くしていくのだ。その正しさは存在しない自分の中の他者に向けられている。それは自分の欲望が作り出した沼以外のものであるとは思えない。そしてそこまで思っても、この底なしの沼から自分が抜け出せているかと言えば、いまだにその沼は俺の両足を掴んでいるのだ。

遠くはすぐそこにある。その遠くは目の前に生えている一枚の葉っぱが風に揺られた時に運ばれてくる。その葉っぱが風に吹かれて枝から離れた瞬間にやってくる、その枝から離れた葉っぱが肩に落ちた瞬間にやってくる。肩に落ちた葉っぱが足元に落ちた瞬間にやってくる。足元に落ちた葉っぱが美しい蛾に止まられた瞬間にやってくる。そしてその葉っぱを踏みしめた瞬間に、踏みしめられて土となり、枯葉であることやめて新しい芽となり、音もしない柔らかさをまとった時にやってくる。

遠くはいつも見出されるのを待っている。でもいつも僕はそれを望みながら遠くを遠ざけている。
遠くに近づきたい。もっと近づきたい。

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