March 2011Archive

あらゆるテクノロジー、あらゆるデザイン、あらゆる人工物は、内側から考えるべきなのだ。
内側だけに明確な欲求がある。
そのような欲求の欠如した人工物は暴走しか生まない。

明確な欲求は身体から導き出される。
何をしたいのか?
どのような体験をしたいのか?
どのように寝たいのか?
どのように料理を作りたいのか?
どのように乗りたいのか?
どのように踊りたいのか?
どのように歌いたいのか?
どのように感じたいのか?
どのように食べたいのか?
どのように仕事をしたいのか?
どのように生きたいのか?
どのように死にたいのか?

そしてそれが明確なら道は必ず見えてくる。
どうすれば気持ちいいのか?
どうすれば楽なのか?
どうすれば美味しいのか?
どうすれば迷わされずにすむのか?
どうすれば風通しがいいのか?
どうすれば暖かいのか?
どうすれば実現できるのか?

重要なのはその欲求をどれだけ正確に知ることが出来るのかなのだ。
それは決して他人から教えてもらうことは出来ない。
自分で明確にするしかない。
それ以外の方法では
決して自分の身体が求めるものにも、方法にも辿り着くことが出来ない。
だからそれをこれまで以上に知ろうと思う。

願いや欲望は他人のものであることがあまりにも多い。
誰もが自分のものであると思っているそれらのもの達は、呆れるほど他人のものばかりなのだ。
つまり、誰もがその人生のほとんどを存在しない他人の欲望を生きるために費やしているのだ。
それらのあまりにも雑多であまりにも膨大な瓦礫を片付ける必要があるのだ。

今の社会では、たとえば自動車を所有しても、人はただの運転手であるに過ぎない。
運転手は運転は出来るが自動車のほとんどを理解していない。
そしてさらに悲しいことには、運転するという行為でさえ自分のためになっていない。
それが他人の欲望を生きるということだ。
家だろうと家電だろうと原発だろうと同じことだ。

静かで凶悪な暴力は
いつも裏側で自覚のないままに行使される。

人工的な放射性物質を含んだ雨にも
誰であれ、誰にでも
「罪」という概念を押し付ける必要はない。
それは重要ではない。
次に何を選択するべきかということに比べるなら。

憎しみを持たないで生きたいと思う。
憎しみは自分をも傷つける。
怯えないで生きたいと思う。
怯えは硬直を生む。
悲しみや怒りに取り込まれないように生きたいと思う。
その水は息苦しさを生む。

そのためなら、多少の不条理は問題にしない。
正しさのための正しさはどうでもいい。
その判断が他人にとってどんなに愚かに映ろうともどうでもいい。
大事なことはそこにはない。

緩やかな死と富は同義であったように思える。
しかし、それが富であるなら、そんな富は自分にとって必要ない。
自分にとっての富は、自分の身体が持っている可能性において
その身体的可能性の選択範囲が曇りなく開かれていることだ。
逆に言えば、それを曇らせる情報は積極的に排除するべきなのだ。
深く息を吸い、関節を無理なく上手に伸ばし、筋肉と内蔵にストレスを貯めず、
気持ちよく次の朝を迎えられるように過ごそう。

メディアとの距離を適正に保とう。
そうしないと身体に蓄えられている身体能力を無駄に消費するだけだ。
過剰な情報を摂取して良いことは何もない。
例えば、薬品と情報の間には大した違いは無いのだ。
待機状態は身体能力を衰えさせる。
使われない能力は衰えるだけだ。
動ける範囲の中では動き続けることがとても大事だ。

自分の身体が今は元気だ。
なんの問題も無い。
身体は動き、移動も作業も出来る。
選択の可能性は制限されていない。
何も焦ることはない。
天気が刻々と移り変わっていき、雲が流れていくのと同じように、時間は流れている。
つまり、何かをやり過ごす必要は無い。
それまで、やり過ごすことをしないように生きていたのであれば、
そのまま継続してよいのだ。

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