あらゆるテクノロジー、あらゆるデザイン、あらゆる人工物は、内側から考えるべきなのだ。
内側だけに明確な欲求がある。
そのような欲求の欠如した人工物は暴走しか生まない。
明確な欲求は身体から導き出される。
何をしたいのか?
どのような体験をしたいのか?
どのように寝たいのか?
どのように料理を作りたいのか?
どのように乗りたいのか?
どのように踊りたいのか?
どのように歌いたいのか?
どのように感じたいのか?
どのように食べたいのか?
どのように仕事をしたいのか?
どのように生きたいのか?
どのように死にたいのか?
そしてそれが明確なら道は必ず見えてくる。
どうすれば気持ちいいのか?
どうすれば楽なのか?
どうすれば美味しいのか?
どうすれば迷わされずにすむのか?
どうすれば風通しがいいのか?
どうすれば暖かいのか?
どうすれば実現できるのか?
重要なのはその欲求をどれだけ正確に知ることが出来るのかなのだ。
それは決して他人から教えてもらうことは出来ない。
自分で明確にするしかない。
それ以外の方法では
決して自分の身体が求めるものにも、方法にも辿り着くことが出来ない。
だからそれをこれまで以上に知ろうと思う。
願いや欲望は他人のものであることがあまりにも多い。
誰もが自分のものであると思っているそれらのもの達は、呆れるほど他人のものばかりなのだ。
つまり、誰もがその人生のほとんどを存在しない他人の欲望を生きるために費やしているのだ。
それらのあまりにも雑多であまりにも膨大な瓦礫を片付ける必要があるのだ。
今の社会では、たとえば自動車を所有しても、人はただの運転手であるに過ぎない。
運転手は運転は出来るが自動車のほとんどを理解していない。
そしてさらに悲しいことには、運転するという行為でさえ自分のためになっていない。
それが他人の欲望を生きるということだ。
家だろうと家電だろうと原発だろうと同じことだ。


この文章を読めるわたしは、ほんとうに何か見えない力に護られてると思ってしまう。
20年前に地元の本屋であなたの著書を手にしたときから、始まっていたんだと。
ここ最近の作場さんの日記を読むにつけ、本当にそう思います。
ありがとうございます
原発事故が起きてから、何も知らない自分に呆れて猛烈に放射性物質だの原発の現場だのを調べまくったりしている作場が書いている文章です。そのほとんどは、なんとなくは分かっているつもりだったことなのに、本当には全く理解しようとも刻み込もうともしてこなかったことでした。そして呆れるしかない犯罪的なテレビの報道や、右往左往する評論家や政治家や経営者などにメディアを通じて触れ、ネットを十分に活用できる能力があるにもかかわらず、強い不安にさらされている若い子の事も知り、もっと具体的なことを書こうと思いつつ、書けないでいる中で出てきた文章でした。