April 2011Archive

運動する喜びは消費エネルギーを減らす。
運動自体がエネルギー消費だからだ。

運動の外部化は身体エネルギーの消費を減らす。
それが産業革命以降に飛躍的に加速した外部エネルギー消費だ。

おそらくは、エネルギー消費(外部資源の)と
消費エネルギー(身体資源の)のバランスが悪いのだ。

身体運動は身体内におけるエネルギー消費だ。
それは主に食料によって供給される。
同様に、運動を外部化した場合には
そのエネルギーは身体外の資源から供給される。

この二つの消費パターンを、あるいは選択を
身体における喜びが最大値となるようにチューニングする必要があるんだと思う。

110419-01.jpg110419-02.jpg110419-03.jpg110419-04.jpg去年の12月からずっといじってきたアップハンドル仕様のt-s-k-b号がやっとまともに乗れる状態にこぎつけた。ちょっと前にアップしたアルミのサドルもこのポジションにあわせた専用のものだ。幅が広く、後ろにセッティング出来、ロードフレームでもサドルのふちに足が干渉しない形状。ハンドルはちょうどいいものが無いので、ブルホーンと呼ばれているハンドルを逆につけ、カットし、一回り細いパイプで延長してある。後はオリジナルの木製グリップに、例によって削りまくったテクトロのエアロレバーなど。パッと見「プロムナード」という車種に見えるかもしれないが、長距離ツーリング可能なポジションを実現すべく、サドルは後ろに、ハンドルは前に、落ち着いたハンドリングと剛性の確保も両立させているつもり。

何でこんな風にしたかというと、30km/hまでの快適性をメインにしたかったからだ。この自転車は元々ドロップハンドルをつけて40km/h以上で走ることを前提としたようなロードレーサーだったわけだけど、自分の体力や使い方だと、本来の使い方からはかけ離れた使い方しかできていなかった。もっと好きな路地に入って行きたいし、気になるものがあれば立ち止まりたい。そうかといって、短距離専用ののろのろとしか走れない自転車が欲しいわけではなく、その気になれば150km以上だって楽に走れるような軽快性は残したい。本来ならそのような設計の専用フレームでやるべきなのはわかっていたのだが、そうそう散財できる訳も無いので、手持ちのもので試してみたというわけだ。まだ細かい問題はいくつか残されているが、とりあえず当初の目標は達成出来たかもと思っている。

このところエネルギーとか家の事ばかり考えている。例えば昔の価値観で言えば、贅沢とはエネルギーを湯水のごとく使うことだ。そのエネルギーには電気や石油だけでなく、使用人という人力エネルギーや、調達自体に膨大なエネルギーが必要とされる希少食材なども含まれる。そしてその結果得られるのは、労働から解放された時間だったり、希少性に目のくらんだ調度品や料理だったりするわけだ。しかし労働から解放されるにしても、美味しいものを食うにしても、もっと違うアプローチや価値観はいくらでもあるわけで、自転車を例にすれば、漕ぐという行為から開放されるのは自転車における贅沢ではない。そこでの贅沢は良く進む自転車に乗ることだったりするわけだ。これと同じように家事からの解放ではなく、楽しい家事を考えることだって出来る。それは掃除のしやすい部屋であったり、料理のしやすい調理器具であったりするだろう。環境だの何だの言う前に、自分の身体のことや自分の欲望についてもっともっと考えるべきだと思う。全てはそこから始まっているのだから。

興味もしくは未来への可能性を感じるもの。
インターネット、コミケ、野菜直売所(流通と通信の短縮)。キャンプ場(簡易共同体モデル)、登山用品などのアウトドア用品(防寒、防風、軽量、コンパクト、ミニマムなキッチン、ミニマムなエネルギー消費、ミニマムな睡眠)。建築としてのコンテナ、キャンピングトレーラー、テント、プレハブ工法の個人を前提にした進化(モノコック構造、移動建築、軽量建築、分解組み立て可能な建築、土地に根ざさない建築)。モジュール設計(集合と離散、家族単位、共同体単位に対する柔軟性、装置に対するメンテナンスの容易性と長寿命化)。自然農法(おそらくはもっとも労力に対する収益が高く、ローインパクトで、なおかつ生命力が高く維持されたものが収穫できるやり方だと思っている、が、自分の中では理解が浅すぎるし、そもそも実践さえしていない)。自転車、足踏みミシン、公園の遊具、その他あらゆる人力装置(インディペンデントであるための苦痛ではない人力利用)。トレーラー、ショッピングカート、リヤカー、乳母車(モビリティの拡張)。非一極集中のエネルギー利用が可能な技術全般。

しかしこれらを通して、あるいは統合して見えてくる、全体のビジョンを想像する力が欠けていると、自分の場合には、これらの技術でさえ自身にとってマイナス要素としてしか働かないだろうと思う。どんなテクノロジーにも共通して言える事は、「良い事ばかりじゃない」ってことだ。おそらく、その全体のビジョンの中には情熱や畏怖や謙虚も含まれていないといけないのだ。

福島第一原発の1号機の格納容器内の放射線量がいきなり跳ね上がったのを見て、あやうく自分が理解できていないことを書いてしまうところだった。それぐらいには混乱している。情けない話だ。

そんなことを思ったもんだから、わかることを書く。

芸術の社会的インフラはルネッサンスから変わっていない。
一極集中の富によってしか支えられていない。今も。
そのような古い体制に媚びるという事は
そのような古い体制から日銭を稼ごうとする事は
その体制を温存させるだけなのだ。

このことの意味を電力を含めたエネルギー技術全般、あらゆる建築技術、あらゆる農業に当てはめて考えるべきだと思う。

おそらく、ネットだけがそれを打破する可能性を示している。
だが、そのネットはまだとても幼い。
圧倒的に見えるかもしれないが、ぜんぜん足りない。

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どんなことが起きていようとも、暖かい日差しと、それを受けてむくむくと圧倒的に生まれ出る緑と、ささやかに、そして盛大にはじける花と、その甘さに誘われて飛び回る蝶たちの間を歩いていると、他に何もいらないと思えるほど幸せな気分になる。

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地震の前から作っていたアルミのサドル。手で叩き出して作ったものだが、難しくて4個目にしてやっと形になった。地震の翌日も叩いていたしその翌日も叩いていた。乗り心地は100点満点とはとてもいえないが、それは素材のせいではなく、技術の未熟によるものだ。それでも今のところ200kmぐらい走ってみてどこかが痛くなるなどということにはなっていないので、何とか使えるものにはなっているようだ。

地震の後から、自転車に対する要求が随分と変わった。まず荷物が積めない自転車はダメだと思うようになった。今でも小さなバッグぐらいはつけて走っているけど、10kgぐらいの荷物は積めるようにしておきたいと思うようになった。自転車だけじゃない。たとえば家も、小さくて軽くて、自分で楽にメンテナンスができる家を作りたいと思った。電気は自分で発電したい。出来れば食べ物も自分で作りたい。今までにもそういうことはずっと思ってきたし、そのための場所探しをしていた時期だってあった。だけどずっとそれをしないで生きてきた。昨日の日記、読み返してみるとちょっと誤解を生みそうに読めるなぁと思った。別に避難しろとか、今までの生活を捨てろとか、そういうことが言いたいわけじゃない。もっと静かに出来るリセットが幾らでもあるはずなのだ。

今回の震災で、強制的にリセットを余儀なくされたたくさんの人々が生まれた。一方で、その一万倍以上の人はリセットを免れて幸運だったと思ったかもしれない。そして同時に、幸運だったかもしれないが、自分から敢えてリセットするべきなんじゃないだろうかと思った人もかなりの割合でいたはずだと思う。

そこで、敢えてリセットするべきかもしれないと思った人々はリセットするべきだと思うのだ。たとえ周りがリセットを避けるように流されていくとしても。
これっぽっちの余裕のない中でリセットせざるを得ない人達に比べれば考える余裕も身体能力の余裕もある人々がリセットを試みることはどれだけのアドバンテージがあることか。

体制に対しては、批判されるべきことや、正されるべきことはいくらでもあるだろう。それを追及する人は追求すればいい。それもまた必要なことではあるだろう。事実、数値や単位の基準が危険性に応じて意図的に使い分けられたり、言葉のレトリックによって危険性がうやむやにされてたりということは今の日本のメディアでは日常化してしまっているように見える。だがそれはそれだ。少なくとも身の安全を判断するための情報はネットを利用できる環境にある人ならば誰でも得ることが出来るのは確かだ。その可能性さえ得られない状況が被災地にはあることはやるせないが、それを得られる環境が維持されているならば、今、自分にとって何が必要なのかを判断できる材料は、求めさえすれば揃っている。

東京は被災地ではない、という一つの見方がある。
それは限定された意味では正しい。
そのように言う人達は、そこから避難する人は愚かだと言う。
自分でも今の現状で、東京のすぐ隣に住んでいるこの場所から避難することには50も過ぎたオヤジとしては積極的な理由は見出せない(放射線に対する感受性が鈍いという意味で)。ヨウ素131入りの水もを飲むし、セシウムの付着した野菜だって食べる。しかし、子供を育てたり、これから子供を生んだり、今妊娠していたりしている人には、出来る限りの大事をとって欲しいとも切に願う。そしてそうじゃない人には測定できないレベルの確率的な意味でしか論じられない現象しか起きていない。

つまり耳にたこが出来るぐらい聞かされた「直ちに影響はない」ということだ。
(ちなみに、「直ちに」の意味は「一瞬」もしくは、長くて「一日」なのだとか。だからその発言をしている人間はその意味の範囲において発言しているのだ)

しかし一方で、全世界が被災地であるという見方も出来る。
これはそのような言い方をするならば、紛れもない真実だ。
ここで言う真実とは物理的な真実なのだ。

原発はただの湯沸かし器だ。
放射性物質を使ってお湯を沸かしているだけの施設だ。
そのようにしてお湯を沸かした時の効率だけを見てそれらは建設された。
そして今でも、より効率よくお湯を沸かすために、核分裂の制御技術が開発され続けている。
でもその効率は、一箇所における(そして廃棄や処分といった未来を無視した)効率なのだ。
別に一箇所に集約しないでも良いんじゃないかと思う。
そうした時に見えてくる効率を、たとえば東京電力は損益になるがゆえに否定するだろう。

急激な変化は求めなくていい。
急激な変化は過剰な抑止力を生んでしまうし、それは結果的に未来の遅延を生む。
リセットはゲリラ的に実行された場合にこそもっとも有効に働くのだ。
なぜなら、それこそが日常の営みに根ざしているからだ。

リセットの意味は何を自分が大事にしたいかに向き合うということだ。
今目の前にいる大事な人、今目の前に咲いている青くて小さな花、今吹いている風、今喉を通っていく水、それらと自分が関わる時、どのようなコミュニケーションが生まれるかに、想像力を持って向き合うことだ。

人工的にもたらされた放射線はこれから何年にもわたって(正確に言うならば何万年にもわたって、そしてすでに撒き散らされたものに加えて)放射され続ける。これは紛れもない事実だ。誰一人避けることが出来ない事実だ。この物理的で正確な現象はどんな手段をもってしても閉じ込めることは出来ない。それはそれで受け入れるしかないのだ。

その意味をリセットを掛けるのにこんなチャンスはないだろうと思うことは、とっても不謹慎でとっても魅力的だ。

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