May 2011Archive

人が科学的に正しいと思える判断に基づいて行動を決めたいと思うときには、その判断基準は科学的ではない。なぜならそこには科学は存在せず、科学的に見えるというイメージしかないからだ。

(思うところあり再考中)

ヒューマニズムについて柄にも無く考えていた。それを考えないといけない場所に立たされてしまった気がしたから。そしてその厄介さに呆れた。どれだけの正当でありたいという思いがその場所を微動だに出来ないぐらい重くしていることか。そして、そこから接線方向に飛び出したいと願うなら、考えないといけないことは範囲なんだと思った。個人が管理できる範囲。一匹の生物としてかかわることが出来る範囲。それはどれほどテクノロジーが仮想的に個人の範囲を広げようとも大した違いは無いのだと思える。共同体は、例えばネットワークによって無限に近いほど拡大されていると同時に、あらゆる無意識的な規律によってこれ以上狭めることが出来ないほど縮小している。その意味するところは適正な中間領域は失われているということだ。引き裂かれることに耐えることが出来る閾値には限界が当然ある。20世紀的なテクノロジーはその限界をいたずらに試したのだ、きっと。その過激さは、ある時には資本の展開における効率の追求であり、スポーツにおける成績であり、芸術における闇の表出であり、ファッションにおける基盤の無い祝祭であったりしたのだ。そのような状況から見えてくるのは「個人における範囲」という言葉には時間と身体が決定的に不足しいるということになる気がする。人間は人間に反応し人間を大事に思う。それは生物として正しい。ただし、人間が人間全体に対してそのように出来るとは思えない。なぜなら「人間全体」というものが仮想的な幻想でしかないからだ。そして同じように環境という概念も同じ根っこを持つ幻想だ。それはどちらも驕りなのだと思う。

期せずして漂流の主人公となれたことに感謝しよう。
今年は旅をする必要がなさそうだ。
これまでもずっと旅の中にいたことを思い出させてもらったから。

回避できる危機を回避しないのは生物として間違っている。

理解できないことは書くべきではないと思っているが、これだけはどうにも見過ごせないので書いておく。福島は非常事態であると同時に異常事態となっている。前者はすでに不可避的に進行しており、とにかく冷却するしか手が無く、格納容器内の水素爆発が起きないことを祈るしかない状況であるが、後者はあまりにも愚かな人為性によって進行している。戦争を経験したことは無いが、戦争時における国家の振る舞いはこうであったのかと憤りが隠せない。そしてそれを取り巻く犯罪的なまでの無知と鈍さと醜い滑稽さが、この一刻を争う事態を悪化させ続けている。線量の高い地域に住む福島の母子は全員疎開させるべきだ。国の言うことなんか信じてはダメだ。子供にとっての年間20msvというのはそういう値だ。しかもその値はもっとも危険であった時期を計算に入れておらず、さらにはこれまでの内部被爆をも無視している(お粗末な釈明はあったが、もっとも大きいと思われる食料からの内部被爆を計算に入れないってどういうこと?)。どこをどう判断すればそんな基準が導き出されるのか正気を疑う。国がだめならせめて自治体レベルで動くことは出来ないのか(神奈川は受け入れを表明したようだが東京や大阪は動かないのか?)、それさえもダメなら個人でもと思うのに、その個人をも攻撃してしまうような学校や共同体が形成されているとは、やるせなさ過ぎる。校庭に体育座りとか、ペットボトルを持たせないとか、どうかしてるとしか思えない。小佐古敏荘氏の辞任会見を見た福島県の校長が政府の言っている事を信じてきたので動揺を隠せないとか、アホかと思う。今守らなくてはいけないものは、ルールではない、国家の指示ではない、共同体の和ではない、目の前の命だ。そのために共同体も国家もルールも従わなくてはならない。

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