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20110520: 日記:110520

ヒューマニズムについて柄にも無く考えていた。それを考えないといけない場所に立たされてしまった気がしたから。そしてその厄介さに呆れた。どれだけの正当でありたいという思いがその場所を微動だに出来ないぐらい重くしていることか。そして、そこから接線方向に飛び出したいと願うなら、考えないといけないことは範囲なんだと思った。個人が管理できる範囲。一匹の生物としてかかわることが出来る範囲。それはどれほどテクノロジーが仮想的に個人の範囲を広げようとも大した違いは無いのだと思える。共同体は、例えばネットワークによって無限に近いほど拡大されていると同時に、あらゆる無意識的な規律によってこれ以上狭めることが出来ないほど縮小している。その意味するところは適正な中間領域は失われているということだ。引き裂かれることに耐えることが出来る閾値には限界が当然ある。20世紀的なテクノロジーはその限界をいたずらに試したのだ、きっと。その過激さは、ある時には資本の展開における効率の追求であり、スポーツにおける成績であり、芸術における闇の表出であり、ファッションにおける基盤の無い祝祭であったりしたのだ。そのような状況から見えてくるのは「個人における範囲」という言葉には時間と身体が決定的に不足しいるということになる気がする。人間は人間に反応し人間を大事に思う。それは生物として正しい。ただし、人間が人間全体に対してそのように出来るとは思えない。なぜなら「人間全体」というものが仮想的な幻想でしかないからだ。そして同じように環境という概念も同じ根っこを持つ幻想だ。それはどちらも驕りなのだと思う。

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