June 2011Archive

エンジンを回転させればエンジンは消耗する。
エンジンを回転させなければエンジンは腐敗する。
いずれにしてもエンジンは終わりを迎えるが、
エンジンにとっての幸せは、
それが生まれてきた理由を考えるならば消耗であることは間違いない。
しかしこの原則を原発に対して適用したいとは思わない。
おそらく原発は、人間が発明したもっとも不幸な装置だ。
そしてもちろん、人間もまたひとつのエンジンだ。
人間は人間としてのエンジンを消耗するべきなのだ。
その消耗は単なる消耗ではなくメタエンジンとしての歯車なのだ。

Twitterで教えてもらった。いまだに問い合わせのメールがあったりするので、せっかくだから貼り付けておこう。

ついでにいくつか。
地震のあとに、地震とは関係無くPCが壊れてしまい、いろいろとデジタル環境が限定されています。メールアドレスのru_post@t-s-k-b.comのメールも取れてません。すみません。もし問い合わせなどある場合はtsakuba@gmail.com(@を半角に直して)までお願いします。

PCは原因もわかっているし、お金も大してかからないのでさっさと直せばいいのだけれど、なかなかそんな気になれない。理由はいくつかあるのだけど、家の周りの放射線量が思っていたより高かったのもその原因の一つ。年間3mSv前後ってかなり嫌な感じだ。子供がいたらさっさと引越してる。そうじゃなくても微妙だ。低線量被曝については諸説あるし不明確な部分が多々あるのは理解できるが、少なく見積もってもICRPやIAEAなどの基準や見解が過小評価だというのは間違いないと思っている。なんといっても彼らは原発を推進するための組織であって、人間の安全を保つための組織ではないからね。ちなみにチェルノブイリ事故のときの低線量被曝地帯(年間1.1mSv?5.7mSv)の影響はこんな感じらしい。現在、東京の東から茨城に続くこのレベルの線量地帯には子供を育てている友人や知人が何人もいる。とても心配だ。福島の人は言わずもがなだけど、それぞれが自分と家族のことを考えて行動するしかないのだ。クソ政府は嘘しかつかない。

6/5の寝る前Tweet

sakuba:
文明のほとんどを祝祭に還元するべきなんだろうな。日常化された祝祭は習慣化され依存を前提としたドラッグなわけで、ドラッグは否定しないけど、祝祭としてのドラッグは祝祭のうちに使用されないといけない。日常的にではなく。

sakuba:
今までにも何度も言ってきたことだけど、技術の継承は1世代で完結するレベルだけで十分なんじゃないかと思っている。失われたとされる技術でも、同じ要求があれば伝承が無くとも再現されうる。

sakuba:
本質的には技術の成立の可否は要求の認識に依存する。逆に言えば要求の認識が甘いところには本質的な技術の発達や洗練は生まれない。そしてそれは常に個人においての現象としてしか経験されない

sakuba:
人は自分が未来に享受できるかもしれないと思える利益を失うのを恐れすぎている。その利益を「私」は享受することはできない。「あなた」も享受することはできない。その未来があると仮定するなら、それは現在においてすでに存在している。

sakuba:
専門分化によるハイテクノロジーではなく、ローテックの中のハイテクというものがある。そういう意味でのハイテクは否定しないしむしろ全開で推奨する。

sakuba:
たとえば原発はローテクの集積としてのハイテクだ。そこには個人的ハイテクの反映される余地は無い。誰かを前提として行動を起こすこと自体には是非は無いが、誰かを犠牲にせずには成立しないように、その前提がされているならば、それは排除したい。

sakuba:
どうもこういう思考回路にスイッチが入っているときには自分とは違う行動パターンの他人を排除するようなバイアスがかかるが、それを気にすると沈黙しか選択できなくなるので、それは遥か昔に諦めた。

sakuba:
自己の可能性に対する命題を立てるときには、どんなに美しく見えようとも他人を勘定に入れないことだ。すべての要求は「あんたのため」ではなく自分のために生まれる。

医者はその医者が個人として理解できていると判断できる範囲の中でしかものを言わない人がとても多いようだ。それが医者の職分だとされているようだ。ではその理解とは何かといえば、そのほとんどは他人が理解したこと、もしくは他人が線引きしたことであるように思える。しかし、ほとんどの科学的とされているような常識はそのようなものであり、その有用性を疑っているわけではない。それは統計学的な真実らしい事柄であり、再現性があり、予防や安全や戦略や利益の追求に役立つだろう。だが時には、その「理解無く引用しているだけ」の知識が致命的な結果を導き出すということだって十分ありうる。そしてこんなことは普段の日常生活の中で誰もが感じていることであるだろうし、そんなものだと、誰もが思っていることであるはずだ。あるはずだと思うのだけど、ひとたび未知の経験にさらされたときにはそんな常識は吹き飛んでしまう。医者も患者も合意としていた前提が失われたときにいったいどんな行動が取れるのだろう。

このところ、自分のわかる範囲において内部被曝の計算をしてみようと思って、そんなことを考えた。あまりにも面倒でめげたというのが一つ。前提に対する疑問が多すぎて嫌になったというのも一つ。たとえば放射性物質の崩壊数を人体影響に換算するシーベルトという単位の前提となるモデルの設定が正しいとは思えない。内部被曝の等価線量を導き出すための係数が正しいとは思えない。統計に基づいているとされる悪性新生物発生の確率的影響の基準値が正しいとは思えない。そんなわけでそんな面倒なことは、やってみたい気持ちはあったけど、それも所詮他人の立場を検証するに過ぎないということに気がついて嫌になってしまった。

今回の震災で、何度も何度も大事だと思ったことの一つは独断の重要性だ。あらゆるリスキーな独断を目にするたびに勝手に涙が流れてきた。なぜ独断で動かないのかと思うたびに腹が立った。独断を禁じるように規制が働くたびに悲しく、そして情けなくなった。

独断とは他人の理解や線引きから最も遠いものだ。医者や科学者や政府の中には独断だけはすまいと心に決めて行動している人がいかに多いのかと呆れた。独断を遠ざける人は、そのことによって、自分の人生を生きるということは無いだろうと思う。

風評被害と風評利益を区別するべきではない。前者は緊急時に使われるが、後者はそれに覆い尽くされるぐらい日常的に使われている。世界は風評で動いている。少なくとも通信とコミュニケーションの遠隔操作化が実現した世界においては。

Powered by Movable Type

Profile

Archive

Feeds