October 2011Archive

「効率無視なんて悠長なことは言ってられない」という時代から「効率重視なんて悠長なことは言ってられない」という時代になるのではないかと思っている。

いわゆる「効率」というのは、条件を限定して初めて可視化される。無限の条件を加味しては効率を測定することは出来ない。限定された時間、限定された温度、限定された空間、限定された環境、限定された資源、限定されたエネルギー、限定された組織、限定された技術、限定された知識、限定された価値観、限定された習慣、限定されたコミュニケーション、そういうものの上に立って全ての効率は測られている。そうしないと測れない。しかしそうであるからこそ、その内の一つでも、拡張したり縮小したり、上昇したり、下降したりしてしまうと、その効率は変化してしまう。そして人間の日常や非日常はより多くの、おそらくは無限といって良い様な条件の上で営まれている。これまでの効率に加味されている条件など、その全体から見ればどれほどわずかであることか。人間にとっての効率は、そのような意味では、一度も正しく測られたことはない。なにが言いたいのかといえば、これまでの「効率」では生きていけないような時代がすぐそこまで来ていて、新しい「効率」を探さないといけないのではないかと思っているのだ。そしてその効率はたぶん「科学的」な効率でも「経済的」な効率でもないのだろう。強いて言うなら「身体的」効率であったり、「心理的」効率であったり、「心霊的」効率であったりするのだろう。例えば死を遠ざけず、病を悪者にしない、というだけでも既存の効率の価値体系は崩れるだろう。内燃機関のエネルギー効率が15%から25%にアップするようなことや、ひとつのネジ工場の一日の生産高が5000本から500万本にアップするようなことが、死を遠ざけないという一点の価値観の変換だけで無意味化してしまうだろう。

効率を支えているのは搾取と技術だ。
搾取の限界はすぐそこまで来ている。そして技術は効率に縛られてきた。効率によって葬られたり、堰き止められてきた技術は山ほどある。独占者を悪者にするのは簡単だが、独占者を独占者たらしめてきたのは、効率を喜び、羨望し、全てを自分の意志で打ち捨てて身を投じた被独占者たちだ。しかし有難いことに、効率に決別するための技術は、それほど深くに埋葬されているわけではない。少なくとも今はまだ、決意をもって手を伸ばせば届くぐらいの場所にある。

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