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20120716: 柔らかいツール

昔、たぶん20年ぐらい前に、精神の構造を階層化して認識できれば、エゴイズムからの離脱への方法論の確立とか、認識の精度の向上とか、もっと露骨に言ってしまえば、外界に対する愛のレッスンが出来るのではないかと考え、本気でそう信じて、何年もそのことばかりを考えていた。

スーパーエゴだのハイパーエゴだの、メカニズムとしての精神だの、その認識に近づくための方法論としての瞑想だの、深層意識を引き出すための過激な身体技術だのを試してみたりもして、もうまるで一人カルトのように突っ走っていたのだった。

その経験や思い込みが無駄だったとは少しも思っていないし、その経験によって、まるでその時とは正反対に、精度の悪い認識や、未分化な精神構造に対して、寛容であるどころか、自分もずっとその未分化の中に居続けること、その覚悟を決めることが、逆にあの時に求めていた自分の答えに近いんだと思うようになった。

エゴイズムのエゴとはエゴなんかではなく、エゴイズムという定義そのものがエゴイズムなんだから、エゴイストといわれる人は、全然エゴイストなんかじゃないのかもしれない。エゴイスティックな、そのように今の社会で定義される運動というものがある。その運動を生成する欲望の拠り所がどこにあるかだけが問題なのだろう。その運動はどのように欲情されたのか。その欲情が身体的で生物的ある限りにおいては、その運動に対して社会は寛容であるべきだと思う。

しかし、生物的でない欲情がどこにあるのか。生物的でない欲情は呪いと呼ばれている。たぶん。ほとんど全ての人間は呪いを抱えている。例えば今起きている戦争は、抱え続けている呪いをその理由としている。もっと小さい呪いは、あるいはより深刻に親子の間で生成され続けている。そして呪いは代々引き継がれる。呪いから逃れるのはとても困難だ。誰もが一生をかけて呪いに挑んで死んでいくのだ。そしてほとんど誰もが、その試みに失敗するのだ。呪いを解くには人生は短いのかもしれない。でもそれが長いか短いかはどうでもいい事だ。それを長いというのも短いというのも他人だけだからだ。自分には長いも短いもない。自我の未熟さにもかかわらず、身体は成熟している。その成熟した身体が長いも短いも無いよ、ということを教えてくれる。だから安心して呪いを解くという物語に専念すればいいのだ。

この物語の中では、精神の階層も、認識の精度も、ただのツールになるだろう。そしてツールというものは、そのように機能している時にだけ美しさを発揮する。

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