September 2012Archive

去年の9月25日に母の訃報を知らされた。ちょうど一年前の俺の52歳の誕生日だ。警察署の死体安置所で見た死後4日経った母の身体は、既に腐敗が始まっていて、あれほど身なりに執着していた母の歯が何本も欠けたままになっていたことに違和感を抱いた。その後俺は、ほぼ半年の間、その後始末に追われることになった。人が死ぬということは、生命の終わりである以上に、社会からその存在を清算する為のウンザリする作業を、残されたものに課すものなのだという事を知らされた。

そして今日の夜。俺はいつもよりもちょっと高い酒を飲みながら、妻と一緒に園子温の「冷たい熱帯魚」という映画観ていた。素晴らしい映画だったが、半分ほど物語が進んだときに窓の外の縁側でギシッという音がした。「猫かな?」と俺は言った。実際ウチには徘徊にやってくる猫がいたし、そんな重みを感じさせる音だったのだ。1分ほどして、気になった猫好きの妻が玄関を開けたのだが、そこにいたのは二十歳ぐらいの大きな眼をした一人の女の子だった。女の子は「酔っ払ってしまってすみません」と言った。

ウチは雑木林に面した行き止まりの家だ。家に辿り着くためには、なんの明かりもない道を30メートルほど歩かないと辿り着くことはできない。つまり、ウチの前に来る人は、郵便配達や、検針業者や、宅配便のお兄ちゃんや、新興宗教の勧誘ぐらいであって、これらの人々に共通するのは、ウチを目指してくる人だということだ。そうでないような訪問者は、カラスに追われたミミズクだったり、ヤブカラシに誘われたオオスズメバチやアオスジアゲハぐらいのものなのだ。

どのような理由で真っ暗な道を歩いてウチの縁側に腰掛ける若い女の子が来たかなんて想像もできない。女の子は申し訳無さそうな顔をしてすぐに家の前から立ち去ろうとして、それを妻が懐中電灯を片手に追った。俺はどうしようか迷ったが、付いて行かない方がいいだろうと思った。そして家に戻り妻の帰りを待つことにした。たぶん長く掛かるだろうと思った。バス停まで送るかもしれないし、安心するまでつきあうかもしれない。

20分ほどして妻が戻ってきた。女の子は裸足で、途中に脱ぎ捨てられた靴があり、笑いながら涙を流していて、誰かと喧嘩をしたらしく、それでも自分の靴を履くと、少しはシャキッとして、最後には「もし覚えていたら、遊びに来てもいいですか」といって別れたのだそうだ。そして「なんだかさぁ」と妻は言った。「なんかあんたのお母さんが会いに来たんじゃないか、とか思っちゃった。偶然だけど…」とんでもない偶然もあったもんだ、俺はそう思って、でも、そういう考え方も悪くないなと、妙に納得してしまった。人が生きていくためには不条理であろうとなんだろうと、たくさんの納得が必要なのだ。たくさん納得して死にたいのだ。

今日は彼岸花を今年初めて見た。小学生の時に初めて彼岸花を見て、この自分が生きている世界にこんなに不思議で綺麗な花があるのかと感動して、生まれて初めて花を摘み、それを持ち帰り、自慢げに母親に見せたら「お前は摘んじゃいけない花を摘んできたねぇ」と言われたのだった。そしてもちろんその花は飾られることもなく捨てられたのだった。

今夜のコオロギはとても控え目で良い声だ。

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