December 2012Archive

一般的に明るければ明るいほど、人は外向的になり活動的になる。つまり、肉体的な活動範囲が広まり、精神的な活動範囲が狭められる。そして、暗ければ暗いほど、人は内向的になり、肉体的な運動範囲が狭まり、内部への指向性は高まる。これは生理的な反応だ。外部への興味や欲望をより長い時間保ちたいと思うならば、日が沈んでも電気や熱エネルギーを使って、暗くなった空間を照らせば、その欲望のテンションは容易に保つことが出来る。内部への興味や欲望をより長い時間保ちたいと思うならば、明るい昼間でもカーテンや目隠しを利用して明るい空間を遮断すればよい。

こう書くとあまりにも自明すぎて、そんなの当たり前じゃん、と、思ってしまうのだけど、この当たり前すぎる認識はニュートラルには働いていない。現代においては。ニュートラルではないということは、恣意的であるということだ。恣意的であるということは、少なからず、個体的な生理ではない、集団の志向性がそこに影響しているということを意味する。

コンビニやドラッグストや街灯の煌々たる輝きは、意図の無いものではない。そこには人を常に外部への志向性を保ったままにしておきたいという、市場経済的な恣意的ベクトルが働いている。こうして、深夜の1:42にこんな文章を書いている状況なんてものは、まさにそんな集団的恣意性の結果なのだ。

夜を夜のままに、その暗さによって活動範囲を狭めれば、身体は本来の内側への指向性を取り戻し、夜がもたらす内部へのダイブを、より容易に実行することが出来る。なぜ、その恩恵を捨ててまで夜を明るくする必要があるのだろうか。

いつでも好きな時間に、内部への指向性と外部への指向性を切り替えることが出来るということは、近代以降、贅沢の象徴の一つだったのだと思う。それを自由に切り替えることが出来れば、どれほど人間は自由になることが出来るだろう、そんな風に思われていて、今でもその考えは有効であるように思われている。でも、その効力や有用性って、たかが知れているし、大した実効性は無いんじゃないかと思うのだ。薬物みたいなもんで。そういう意味ではエネルギーもまさにドラッグそのものだ。ドラッグというのは、単なる、時間とスピードと密度における、ちょっとした歪みの効果に過ぎないからだ。決定的で致命的な効果はマイナスにしか働かない。それが自分にとってのドラッグの定義だ。

昼間に活動し、夜にエネルギーを使わないことで、外部への指向性と内部への指向性は最大化される。おそらく間違っていないと思うのだけど、これを実践することが困難であることの不条理を解消するためのハードルが多すぎることに、今更ながら呆れている。

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