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20130123: REPLICA

29歳の時に本を一冊書いた。「天国への自動階段」という本だ。24年前のことだ。今読んだら恥ずかしいことこの上ない本だけど、真摯である事の嘘と、流される現実と、犯される欲望に対して、出来る限り軽く、永続性を排除して、精一杯の抵抗をこめた内容ではあった。

その本には実はもう一つのタイトルの候補があった。それが「REPLICA」だ。つまり複製だ。
「天国への自動階段」の主人公は複製の文化とコミュニケーションにどっぷりと浸かっていて、その、ありモノの中で、使い尽くされた感情と言葉と身体感覚でもって、なんとか使い尽くされた世界の向こう側に行こうとするのだけど、その行為はどこまでいってもヌルっと逃げていくリアリティに裏切られてしまう。どんなにクールに振舞おうとも、どんなにそつなくかわそうとも、どんなにスマートに昇華しようとも、どんなにおちゃらけようとも、どんなに斜に構えようとも、その感覚からは逃れることは出来ない。その苛立ちがあの一冊を書かせたような気がする。

で、最近思うことは、この状況はとんでもなく加速しているんだなということだ。とくにネットにおけるSNSやゲームの状況をみると、取り返しがつかないぐらい酷い状況になっているように見える。どれだけ複製されたかが誰にもわかるように可視化出来るようになったことで、複製することと、複製されることへの欲望はかつて無いほど膨れ上がっている。その世界では、複製出来る能力と、共感と嫉妬(どっちも同じだ)による他者による再生産の出来高によって、アイデンティティと価値が測られる。

たくさん複製できる人と、たくさん複製される人が偉いのだ。
それ以外の価値は無い。
全てのものは、たくさん複製するために、たくさん複製されるために作られる。
いかにしたらたくさん複製できるか、いかにしたらたくさん複製されるか、それだけが重要なのだ。
誰もが、たくさん複製できる人、たくさん複製される人になりたがっている。

なぜそうなるのだろうと思う。
その一つの理由は、それが富そのものであるからだろう。
富というのは同じものが潤沢にあることだ。富というのは希少なものが嫉妬によって羨望されることだ。

もう一つの理由は、コミュニケーションが失われた共同体において複製にしか逃げ道が無いからだろう。機能していない、内側に空洞しかない共同体は、どんなに言葉と憎悪を尽くそうともその求心力を取り戻すことは出来ない。その言葉と憎悪そのものが複製になってしまう。共同体は複製の内側における一つの約束に過ぎない。規律や法律が限りなく複雑化するのも、共同体が複製文化の内側にあるからである様に思える。

複製を拒絶するのは怖ろしく困難だろう。
その為には嘘の共同体と、嘘の富を拒絶しなければならないからだ。
複製を受容しさせえすれば今日をやり過ごせるからだ。
複製は飢えを和らげてくれる。複製は身体を忘れさせてくれる。複製は自分を見ないで居させてくれる。複製は身体を使わないで居させてくれる。

それが望みなら、既に未来は実現している。もう充分だと思う。
でも死は簡単にやってくる。あっけなくやってくる。誰にでも。
その時に複製は役に立たない。これだけは確実だ。
自分の死は誰にも複製できない。

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