January 2014Archive

自分の言葉をしゃべらない人達、自分の体を使わない人達、自分で発見することを止めた人達がやたらに目に付いて憂鬱この上ない。ニュースのコメントだの、SNSの投稿だののほとんどがそんな人達の発言や行動で埋められている。そしてそんな人達を集めるために、これ見よがしに媚びた記事が次々とアップされている。それどころか、そんな状況にいい気になった選ばれた人達が図に乗りまくっている。でもこんなことを言ったところで、当の本人たちは微塵もそんなことは思っていなくて、自分たちは新しい真実に満たされていて、自分の口を使ってそのことを他人に伝えることが出来る事実に酔いしれている。そしてそんなやり方があるんだと目覚めた人達が次々と後を追っていく。

問題なのは何を言うかではない。何をするかではない。そのようなことを問題にしている限りは、永遠に同じことが繰り返されるのだろうと思う。社会的な正しさだの、歴史的な正しさだの、科学的な正しさだのはどうでもいい。極論を言ってしまえば、そんなことはまったく問題にすべきではない。問題にすべきなのは、それを言う人、その行動をとる人、そのテクノロジーをたどる人々が、自分の中のどの部分からその言葉を導き出し、行動をはじめ、テクノロジーに向き合うかなのだ。

どんなに何度もの繰り返しに耐えるような原理であろうとも、誰が見ても真理だとしか思えないような事柄であろうとも、その原理や真理は、そこに向き合わない人々にとっては外部であり続ける。その原理や真理に触れるために、たくさんの時間を費やし、挫折し、また立ち上がり、何度も何度も挑戦した人だけが、その原理や真理の力を知ることが出来る。それはどれほどの知恵や知識を積み上げても、その時間や工程を短縮することは不可能なのだ。そしてそのような方法論は、少しも特別なものではない。少なくとも誰もが、幼い時には実践していたはずの方法論なのだ。

幼い時にはあったのに、成長とともに失われたものは何かといえば、それは孤独だ。幼さは孤独を隠蔽するすべを知らないが、人は成長とともに孤独を隠蔽するすべを学んでいく。孤独は無くならないが、限定的に忘却することは可能だからだ。しかし、限定的な忘却のための暴力ほど醜いものは無い。その暴力の現場からは、暴力を振るう本人さえも疎外されているからだ。そんなに簡単に解決も答えも見つかるわけが無いではないか。

言葉もテクノロジーだけど、こういう人々はテクノロジーを甘く見すぎている。テクノロジーってものが、歴史的に集積された、いつでもアクセス可能で、自分の労力を軽減してくれる、決して仕返しされることの無い、甘いお菓子の山だとでも思っているのだろう、きっと。しかしテクノロジーは自分から近づかない限りは、決してその分け前を自分に与えてはくれない。少なくとも、私の身体は、テクノロジーの外部であり続ける。それはつまり、共同体の外部ではあっという間に死んでしまうような存在であるということであり、さらに言えば、共同体から必要とされない存在であり続けるということだ。

おそらく今の現状は、この”共同体から必要とされていない多数”という幻想が共有されているのだということは想像に難くない。そしてその前提には、現在の共同体が、共同体として機能していないことの認識が共有されているのだということもわかる。だったら尚更、言葉を選ばないといけない。自分の声で発言しないといけない。自分の身体を開放しないといけない。孤独の隠蔽なしにそれをしないといけない。そうでない言葉や行動は、死にかけた共同体を延命するだけだ。

2014_nenga.jpg明けましておめでとうございます。すんごい遅くなりましたが、恒例の架空動物シリーズ”馬”です。このシリーズ、これで12年目です。ということは、やっと完結したわけです。長かった(以前の架空動物はこちら)。本当は今年のカレンダーとして、この12枚を使おうと思っていたのですが、まあ完結が今年なので、カレンダーは来年でいいかとあっさり諦めました。いずれどうにかしてお目にかけられることと思います。お楽しみに。それでは、今年もよろしくです。

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