July 2014Archive

人は自分がメンテナンスを放棄したものに対しては、消費と放棄以外の選択肢を取ることができない。メンテナンスをするということは、ある機能を維持し続けることであると同時に、その機能を発見し続けることでもある。だからそれを放棄するということは、フィジカルなテクノロジーに留まらす、装飾的な様式や、文体や、リズム構成についても、消費と放棄しか出来なくなるということだ。それはつまり、いかなる発電システムであれ、いかなる乗り物であれ、いかなる建築であれ、いかなる小説であれ、いかなるファッションであれ、いかなる絵画であれ、いかなる音楽であれ、それら全ての人間が表出するテクノロジカルな表現に対して、発見をやめ、内在化することをやめ、ただ流すだけにするということだ。そんなことの何が楽しいのかは知らないが、その様に生きていくことがマジョリティになっているというのは事実であると思う。

このようにメンテナンスを放棄した人に対して、なぜそうしたのかと問えば、まずは時間が無いからだと答えるだろう。もしくはその様な技術を習得する機会に恵まれなかったからだと答えるかもしれない。もしくは自己の対外的なパフォーマンスを最大化するためにはメンテナンスこそが最小化するべきだと答えるのかもしれない。しかしこれらの答えには共通するものがある。それはメンテナンスされるべき対象が、メンテナンスすることを否定する人にとって、その対象自体はどこまでも必要なものとして機能しているという点だ。つまり、メンテナンスを放棄しようとする人ほど、メンテナンスが必要な対象を欲しているのだ。それはどういう事かと言えば、「私はメンテナンスをしないけど、誰かがやってね」か「メンテナンスなんてしなくてもいいように、どんどん作ってね、誰かが」ってことだ。

経済のことはよく分からないけど、少なくともそこに「成長」というキーワードが欠かせないのであれば、それは、この誰かを、誰かが居なくなるまで続けることであるように思える。そしてそんな誰かはいずれ居なくなる。それだけは確かなことのように思える。いつまでも誰かが居ると思うなよ、そういわざるを得ないときは必ず来る。しかし少なくとも自分が生きている間は、「誰か」は居続けるんじゃね?と、そんな様に経済は回っていて、その誰かを開拓し続けている。その寿命をどれだけ延ばせるか、そのために、膨大なトラフィックが見た目の効率によって合理化され続けている。

でもまあ、そんなことはどうでもいいんだ。俺にとって一番重要なのは、それで楽しいのかって事だ。俺はそんな風に「誰か市場」を開拓してもまったく楽しくないのだ。俺はメンテナンスができる人間になりたいのだ。自分にとって必要なことに対して自分で面倒が見られる人間になりたいのだ。そしてその様な要求に対して、ちゃんと答えてくれる、要は、メンテナンスを前提とした、技術体系が必要だと思っているのだ。

ボタンが取れたら縫えばいい。新しい文様を思いついたら描けばいい。雨漏りがしたら屋根を葺きかえればいい。電源コードが劣化したら巻き直せばいい。錆びたら磨けばいい。自転車のチェーンに一度も油を差さないで、チェーンが固着したら自転車が壊れたとか情けなさ過ぎる。そしてそんなことは人事じゃなく、例えば食い物に対して、例えば建築に対して、例えば排泄に対して、同じように情けなさ過ぎる毎日を送っているのだ。なにも人々が全員、自給自足の永久機関になればいいと思っているわけではない。そうではなくて、その様な選択肢が常に開かれていることが重要なのだ。現在はあまりにもその様な選択肢が、おそらくは意図的に、閉ざされすぎている。

メンテナンスから解き放たれて、勘違いの大空に羽ばたいたっていい。でもそれが、運がよかったか、もしくは馬鹿だっただけだと気がついたときに、ちゃんと着地できる場所がなかったら、どこにも降りることができなくて右往左往することになってしまう。まずはフラッシュサーフェスへの違和感を表明することでもいい。ネジはなくなっていないのにネジを隠すなよと。その空力効果なり、人間工学なり、ガキのような夢にどれだけの価値があるのかと。それを開発した人間も、ほんとにその形じゃなければいけなかった理由をもっと考えてみるべきなのだ。

Powered by Movable Type

Profile

Archive

Feeds