December 2020Archive

ガラージュのクラウドファンディングを開始します。

https://camp-fire.jp/projects/view/341711


まさかこれをやることになるとは思っていませんでした。スマートフォン用のガラージュ、しかも完全版の制作です。

ガラージュがとんでもない価格で取引されていることはもちろん、このゲームをプレイしたいと思っている方が、国内問わずそれなりに存在するということは知っていましたが、このゲームをリメイクとまでは行かずとも、それなりの手間を掛けて納得のいくクオリティでリリースするということは、まず不可能であろうと考えていました。

私は過去の作品に対してはかなり淡白なので、一度終わらせたもの、その上、手を入れることが不可能なものに対しては、全て成り行きに任せればよい、ぐらいにしか思っていません。なぜならこの先変化する可能性もなく、プレイすることも出来ないような作品をいくら広めても意味がないぐらいに考えていましたから。

ガラージュはあくまでもゲームですので、プレイ出来ないゲームにゲームとしての価値などありません。それなのに、このところTwitter上でやたらとガラージュ関連のツイートをリツイートしたり設定画を上げたりしているのを見て不審に思っていた人もそれなりに居たのではないかと思います。

開発に至った経緯はクラウドファンディングのページにも記してある通りです。SmokymonkeySが「俺たちが持ちかければあいつも動くだろ」という算段でやってきて、まんまとそれに乗っかったわけです。

ですが、ガラージュに関してはやり残したというか、やり切れなかったことがかなりの分量であったというのも事実です。以前にTwitter上で「ガラージュをリリースしたあとに、あの世界から2、3年抜けられなくて苦しんだ」と書きましたが、その理由の半分以上はやり切れなかった事がずっと頭の中に去来して離れなかったからです。

シナリオに於いては、書ききることの出来なかったキャラクター同士の関係性やそれぞれの思い、一見不条理とも思える行動の理由、それらが明確になることによる新しい展開。グラフィックに於いては、自分の未熟さによるアートディレクションの不備、イメージを詳細に定義できていなかった甘さ、デジタルグラフィックに対する理解の不足。そういったものがゲームのリリース後に留まることなく押し寄せてきて翻弄される日々でした。

それらの成し遂げられることの無かった課題を、今回の完全版において実現できるなら、これはやらねばなるまい、そう思えたわけです。


しかしガラージュは色々な意味で「きわどい」作品です。特に現代のポリティカルコレクトネスからすると不適切であるとされる表現も含まれているかもしれません。この点に関しては、今回の開発を決意するに当たっての最初の気がかりでした。ガラージュの世界を見て怒りを感じる人、見たくないものを見せられたと感じる人、傷つく人、そのような人々からの非難、批判が容易に想像できたからです。この作品は今のこの時代に出せるものなのか?出しても良いものなのか?それを自分に問う必要がありました。

確かにガラージュの表現には露悪的な部分もありますし、あえて差別的な関係性を表現している部分もあります。しかし作品そのものはそれを良しとしているわけではありません。それはゲーム内でも語られている通り、いかがわしく間違った世界です。そしてそのいかがわしく間違った世界は、ガラージュという治療装置にかけられた被験者の精神の反映です。

さらにこの被験者は、その精神を病んでいます。過去に取り返しのつかないことをし、終わってしまったその過去を、治療装置であるガラージュによってもう一度経験するようなことをするわけです。プレイヤーが体験するのはそのような被験者の精神世界の体験です。そこでは被験者がその内に持っている憎悪、偏見、差別、暴力、嫉妬、恐怖、欲望、そういったものが表現されている必要があるのです。そしてプレイヤーはその世界を終わらせるためにゲームをプレイします。

そのような世界はほとんどの人々にとっては見たくない世界かもしれません。それはある意味当然のことです。なぜならこの被験者は社会の外側に出てしまった人間だからです。

社会は社会の外側にはじかれる事を恐れる人間によって成立しています。常識も承認欲求もポリティカルコレクトネスも社会の内側に向いたベクトルです。しかし本当に社会を社会足らしめているのは、社会の外側だと私は考えています。

社会の外側とはつまり社会から排除されたものです。社会から排除され、社会によって禁止されたものが社会の輪郭を作っています。それは社会の内側から見れば忌み嫌われるものそのものです。非難されるべき対象そのものです。しかしその忌み嫌われ、非難される対象無しには社会は成立できない。

下品な例えをします。ウンコを漏らすことは非社会的な行為です。正確に言えばトイレ以外でウンコをすることは非社会的な行為です。しかし誰もがトイレ以外でウンコをする生物としてこの世に生を受けます。そしてトイレ以外でウンコをしないように厳しくしつけられるわけです。トイレ以外でウンコをしないという社会は、トイレ以外のウンコを禁止することによって成立するわけです。そこから先のルール、男女のトイレを分けるとか、トイレットペーパーの先を三角に折るとか、ウンコの音か聞こえないようにするとか、そういったことは全て、トイレ以外のウンコの禁止を前提とした、些細な決まりに過ぎません。

ここで言いたいことは、禁止によって社会は作られるが、禁止されたものは無くなる訳ではなく存在し続けるということです。どんなに忌み嫌われようとも、どんなに重い罰が下されようとも、それらは存在し続けるし、それらの存在無しには社会もまた存在しない。つまり社会は、社会の外側を下部構造とした上部構造に過ぎないということです。しかしだからと言って、わざわざ不快な社会の外側を表現しなくてもいいのに、せっかく上手く回るように社会が出来ているんだから、壊すようなことをするなよ、そんな声が聞こえてきます。

ですが私には社会が上手く回っているようにも見えないし、壊そうとしているわけでもありません。社会の境界は曖昧なものです。その境界は常に揺れています。特に今の時代はその揺れが激しいように思っています。ガラージュ流に言えば、カゲの力が強くなっているわけです。そのような揺れの激しい社会ではあちこちにひずみが生まれます。それは社会の再編成における必然であるように思えます。多くの人が精神を病んだり、勘違いをしたり、取り残されたり、他人を押さえ込もうとしたりしています。

例え表面的には社会に適合しているように見える人であっても、誰もが社会の外側を持っていて、その境界において葛藤している。ここまでは当たり前の事ですが、この葛藤は現代においては境界を大きく揺るがすほどに表面化している。私は今の時代をそのように認識しています。

望まずに社会の外側に飛び出してしまうこともあれば、社会の内側に留まることを強制されることによって死ぬ人もいる。そのように生きている人々にとっては社会の外側が身近なものとなります。社会の外側によって救われる人もいるでしょう。社会が牢獄であった場合にはそこから逃げることしか選択肢がなくなるからです。

ガラージュという作品は、社会の外側を賛美するための作品ではありませんが、否定もしないのです。ガラージュの中では社会の境界の曖昧さがそのままに提示されます。上手く行っているかどうかはわかりませんが、その曖昧さは意図的なものです。そしてそのような世界であるからこそ可能になることがあります。少なくとも物語の中でガラージュにかけられた被験者は、もう一度生き直すためにそのような世界とその可能性を必要としていました。

私はあの被験者が必要とした世界を出来るだけ忠実に再現しようとしました。そしてプレイヤーにもその世界の手触りを感じられるように努力しました。そうやって出来上がったのがガラージュというゲームです。

現代のような境界の揺れの激しい時代においては、ガラージュという作品が、例え多くの人に響くことは無くとも、多くの人から非難されようとも、社会の境界で葛藤している一握りの人々からは必要とされることもあるのかも知れない。そのように思えたことが、この作品に再び向き合うことを可能にしてくれました。

こうして始まったガラージュ完全版の開発には、既にひじょうに多くの時間が注ぎ込まれていますが、まだ道は半ばです。ここからゴールまでの困難な道のりを乗り切るために、このクラウドファンディングを通して支援いただけたらと考えています。よろしくお願いします。

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