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メンテナンスをするってことは面倒なことだ
しなければならないメンテナンスのほとんどは
興味の向いていないものだからだ

しかしほとんどの現実は興味の向いてない方角からやってくる
それはどういうことかといえば
メンテナンスをしていなかったら死んでしまうかもしれないということだ

消費生活とメンテナンスほど相反するものは無いだろう
消費生活はメンテナンスを否定する
それが消費の本質だ

掃除なんかするな
修理なんかするな
油なんか差すな
手入れなんかするな
撫でるな
愛するな
放っておけ

そう消費は要求する
そしてそれは楽なのだ
自分自身が疎外されているにもかかわらず
というより
自分自身が疎外されているからこそ楽なのだ

人は消費という悪魔と
メンテナンスという地獄の間で揺れている
豊かであるということは
なんて難しいのだろう

大変な年が過ぎて、そしてたぶん、大変な年が明けた。
それは震災のせいだけじゃなく、いろんな意味で大変な年なのだろうと思っている。簡単に言ってしまえば、日本の話だけではないということだ。大変なのは。まあ、そんな言い方をしてしまうと、これまでもずっとそうだったんじゃないの?というツッコミがどっからか聞こえてきそうではあるけれど、それでも、かなり大きな曲がり角が、すぐそこまで来ているというのは確かなように思える。

でも個人が出来ることなんてたかが知れている。それはそうだ。しかし、たかがしれている個人が出来ることをしないと、どれほどアホな結果が導き出されるのかというのは、去年、嫌になるぐらい眼にした。つまり、「たかが知れている個人の出来ること」というのは、常に過小評価されているか過大評価されているかのどちらかだということだ。それは適正ではない。そのように言う人は、だれも適正な個人ではない。もっと言ってしまえば、誰も自分をその個人だとは思っていないということだ。

たかが知れている個人も、すべきことをしない個人も、それは誰でもない個人だ。それは私ではないし、あなたでもない。存在しない誰かだ。適正な個人は自分のすべきこと、出来ることを、たかが知れているかどうかなどと判断することはない。その適正さは、そのような判断の外側にある。そのようにしてしか適正であることは出来ない。適正であることは予測できないし計画できないし保障されない。そこは孤独であり勇気の必要な場所だ。

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※ついでにお知らせ
今年の年賀状は訳あって、年賀ではない形で出しますので、しばらくお待ちを。1月の半ばぐらいに発送予定です。いつもの架空動物シリーズです。絵はほとんど出来ているので、こちらは完成しだいアップします。

それとあまりに今更で恐縮ですが…
1:ヴァニラ画廊の2012カレンダーにサクバの絵も入っています。もうみんな用意済みですよね。すみません。

2:「少女自転車解放区」というワニマガジンから発行されたMOOK本にサクバの自転車が6Pに渡って紹介されています。Timrickの紹介記事はこちら
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なにはともあれ、今年もよろしくお願いします。

言葉から生まれた発想には言葉を
ビジュアルから生まれた発想にはビジュアルを
ハードウェアから生まれた発想にはハードウェアを
それぞれにそれぞれを

過去に必要だったものには過去を
今必要なものには今を
それぞれにおいてその通りに

過去を振り返り
その過去に最高の評価を与えるために努力するのではなく
そのように競争するのではなく

今 必要とされていること
それは
今 最も損なわれていること

その欠乏のそれぞれに相応しい形を

「効率無視なんて悠長なことは言ってられない」という時代から「効率重視なんて悠長なことは言ってられない」という時代になるのではないかと思っている。

いわゆる「効率」というのは、条件を限定して初めて可視化される。無限の条件を加味しては効率を測定することは出来ない。限定された時間、限定された温度、限定された空間、限定された環境、限定された資源、限定されたエネルギー、限定された組織、限定された技術、限定された知識、限定された価値観、限定された習慣、限定されたコミュニケーション、そういうものの上に立って全ての効率は測られている。そうしないと測れない。しかしそうであるからこそ、その内の一つでも、拡張したり縮小したり、上昇したり、下降したりしてしまうと、その効率は変化してしまう。そして人間の日常や非日常はより多くの、おそらくは無限といって良い様な条件の上で営まれている。これまでの効率に加味されている条件など、その全体から見ればどれほどわずかであることか。人間にとっての効率は、そのような意味では、一度も正しく測られたことはない。なにが言いたいのかといえば、これまでの「効率」では生きていけないような時代がすぐそこまで来ていて、新しい「効率」を探さないといけないのではないかと思っているのだ。そしてその効率はたぶん「科学的」な効率でも「経済的」な効率でもないのだろう。強いて言うなら「身体的」効率であったり、「心理的」効率であったり、「心霊的」効率であったりするのだろう。例えば死を遠ざけず、病を悪者にしない、というだけでも既存の効率の価値体系は崩れるだろう。内燃機関のエネルギー効率が15%から25%にアップするようなことや、ひとつのネジ工場の一日の生産高が5000本から500万本にアップするようなことが、死を遠ざけないという一点の価値観の変換だけで無意味化してしまうだろう。

効率を支えているのは搾取と技術だ。
搾取の限界はすぐそこまで来ている。そして技術は効率に縛られてきた。効率によって葬られたり、堰き止められてきた技術は山ほどある。独占者を悪者にするのは簡単だが、独占者を独占者たらしめてきたのは、効率を喜び、羨望し、全てを自分の意志で打ち捨てて身を投じた被独占者たちだ。しかし有難いことに、効率に決別するための技術は、それほど深くに埋葬されているわけではない。少なくとも今はまだ、決意をもって手を伸ばせば届くぐらいの場所にある。

エンジンを回転させればエンジンは消耗する。
エンジンを回転させなければエンジンは腐敗する。
いずれにしてもエンジンは終わりを迎えるが、
エンジンにとっての幸せは、
それが生まれてきた理由を考えるならば消耗であることは間違いない。
しかしこの原則を原発に対して適用したいとは思わない。
おそらく原発は、人間が発明したもっとも不幸な装置だ。
そしてもちろん、人間もまたひとつのエンジンだ。
人間は人間としてのエンジンを消耗するべきなのだ。
その消耗は単なる消耗ではなくメタエンジンとしての歯車なのだ。

Twitterで教えてもらった。いまだに問い合わせのメールがあったりするので、せっかくだから貼り付けておこう。

ついでにいくつか。
地震のあとに、地震とは関係無くPCが壊れてしまい、いろいろとデジタル環境が限定されています。メールアドレスのru_post@t-s-k-b.comのメールも取れてません。すみません。もし問い合わせなどある場合はtsakuba@gmail.com(@を半角に直して)までお願いします。

PCは原因もわかっているし、お金も大してかからないのでさっさと直せばいいのだけれど、なかなかそんな気になれない。理由はいくつかあるのだけど、家の周りの放射線量が思っていたより高かったのもその原因の一つ。年間3mSv前後ってかなり嫌な感じだ。子供がいたらさっさと引越してる。そうじゃなくても微妙だ。低線量被曝については諸説あるし不明確な部分が多々あるのは理解できるが、少なく見積もってもICRPやIAEAなどの基準や見解が過小評価だというのは間違いないと思っている。なんといっても彼らは原発を推進するための組織であって、人間の安全を保つための組織ではないからね。ちなみにチェルノブイリ事故のときの低線量被曝地帯(年間1.1mSv?5.7mSv)の影響はこんな感じらしい。現在、東京の東から茨城に続くこのレベルの線量地帯には子供を育てている友人や知人が何人もいる。とても心配だ。福島の人は言わずもがなだけど、それぞれが自分と家族のことを考えて行動するしかないのだ。クソ政府は嘘しかつかない。

6/5の寝る前Tweet

sakuba:
文明のほとんどを祝祭に還元するべきなんだろうな。日常化された祝祭は習慣化され依存を前提としたドラッグなわけで、ドラッグは否定しないけど、祝祭としてのドラッグは祝祭のうちに使用されないといけない。日常的にではなく。

sakuba:
今までにも何度も言ってきたことだけど、技術の継承は1世代で完結するレベルだけで十分なんじゃないかと思っている。失われたとされる技術でも、同じ要求があれば伝承が無くとも再現されうる。

sakuba:
本質的には技術の成立の可否は要求の認識に依存する。逆に言えば要求の認識が甘いところには本質的な技術の発達や洗練は生まれない。そしてそれは常に個人においての現象としてしか経験されない

sakuba:
人は自分が未来に享受できるかもしれないと思える利益を失うのを恐れすぎている。その利益を「私」は享受することはできない。「あなた」も享受することはできない。その未来があると仮定するなら、それは現在においてすでに存在している。

sakuba:
専門分化によるハイテクノロジーではなく、ローテックの中のハイテクというものがある。そういう意味でのハイテクは否定しないしむしろ全開で推奨する。

sakuba:
たとえば原発はローテクの集積としてのハイテクだ。そこには個人的ハイテクの反映される余地は無い。誰かを前提として行動を起こすこと自体には是非は無いが、誰かを犠牲にせずには成立しないように、その前提がされているならば、それは排除したい。

sakuba:
どうもこういう思考回路にスイッチが入っているときには自分とは違う行動パターンの他人を排除するようなバイアスがかかるが、それを気にすると沈黙しか選択できなくなるので、それは遥か昔に諦めた。

sakuba:
自己の可能性に対する命題を立てるときには、どんなに美しく見えようとも他人を勘定に入れないことだ。すべての要求は「あんたのため」ではなく自分のために生まれる。

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