diary

かつて、自我とか自己とかは、権力を持った支配者や貴族や王族に生まれた意識であるといわれていた。いや、今でも言われている。そこから、産業革命が起きたり商業が力を持ったりする時代になって、自我や自己は資本主義的優位性を持つもの全てに行き渡るぐらい一般化した。そしてさらにそこから、メディアの力が増大することによって、学校に行くだけで、日記を書くだけで、テレビを持つだけで、ネットに繋がるだけで、いとも簡単に誰もが自我や自己と向き合わざるを得ないような時代が到来した。そしてこれから、iPhoneが普及したり、動画の配信がさらにさらに容易になったり、ネットワークへの接続速度が100倍ぐらいになったり、職人的技術だと思われていたものが、簡単にテクノロジーによって肩代わりされたり、今日のウンコが国家のデータベースに管理されたり、するようになると、たぶん、個人の中に、資本主義、とか言われていた物が完全に内在化されるような時代が来るんだろうと思う。だれもが個人企業でもあり、誰もがメディアでもあり、誰もがアイドルであり、誰もが死に行くものとしての仮面を被るのだ。表現としての自己。でも、自己だの自我だのなんて、結局のところただの表現でしかないんだよ。資本主義がそうであるように。表現なんてクソだ。ウンコだ。否定ではなくその通りだ。やっと正しくウンコが出来るかどうかが問われる時代が来るのだ。そしてウンコは正しくウンコになるのだ。そしてそれはなんともアホらしい事に、自我とか自己とかが発明される以前から存在し続けていた出発点に過ぎないのだ。

現在のエントリー295。
やっと三分の一に欠けるぐらいかぁ...このペースだと全部アップし終わるまでにはあと二ヶ月ぐらいはかかりそうだな。ってことで、過去ログの投稿が終わるまでは書かないつもりでいたエントリーですが書いてみます。

つか懐かしいエントリーがいっぱい過ぎて罠にハマりまくりなのです。あれですよ、掃除をしていると出てくる古いアルバムみたいなもんです。しかも現在投稿中の画像やテキストは、ずっと読めない状態だった一年分の奴なので、ご対面も約6年振りという強力さです。中には恥ずかし過ぎて(じゃなかったら俺がイヤな奴過ぎて)封印してやろうかと思うような文章や絵もあったりするんですが、そこはそれ、恥ずかしい自分も含めて今の自分でしょってことで、ほぼ編集無しでアップし続けてます。

しかしあれですね、やはりブログというかウェブの肝はデータベースをどれだけ生かせるかにかかってるんだなぁと、今更ながらに思い知りました。まあ、デジタル化全般に言えることだとは思うけど、見つけられないデータにはなんの意味も無いってことで、自分の画像コレクションだって、何千ものフォルダ分けを余儀なくされたということを省みるまでも無く、これと付き合わないことにはしょうがないような状況に誰もが生きているんだなぁと思い至ったわけです。そりゃGoogleが儲かるわけですよ。サクバだってタグクラウド(キーワードが羅列されている奴。エントリー数によって大きさが変わるんですよ)やアイテム一覧を表示させちゃうわけです。それどころかこれでもまだ不十分だとか思っているんだから始末が悪いったらありゃしない。自動生成のサムネイルを利用したイメージ一覧とか、サムネイル付きスライドショートとか、イメージだけをターゲットにした検索機能だとか、「こんなこといいな、できたらいいな」ってなご要望がムクムクしてきちゃうわけです。どらえもーーーん!

と、そんなわたくしですが、久しぶりに見てちょっと気に入った自薦記事をリストアップしておきます。

2008_nenga.jpgいつもながらの遅い年賀状を作ってます。

あけましておめでとうございます。チャリンコ病に冒され続けてているサクバです。t-s-k-b号をオリジナルパーツ尽くしにしたいという、とんでもない野望に身を苛まれておりますw
672598376_66.jpgいや、仕事もしてますよ。ちゃんと。近いうち(といっても2月ぐらいかな)にお知らせできることがいくつかあるんで楽しみにしてください。

070615.jpg・資料用に集めている画像フォルダのファイル数が6万枚を超えた。個展の前には半分ぐらいだったはずなのに…
金具だけで4000枚って、どんだけ金具が好きなのかと自分でも呆れる。おかげで世の中にはどんな金具が存在していて、どんな金具が作られて来たのかが大体分かった。

・画像集めは適切なフォルダが増えるほどに加速する、ということが分かった。

・WEBからのカタログ請求で歯車だの機械装置用金具だののカタログを請求しまくっている。

・手術用の電気が沢山ついている照明の名前を始めって知った。「無影灯」。なるほどね。実は実物が一つ押入れに眠っていたりする。

・金具集めが一段落しそうになってきたら、ヤバイブツに手を出し始めてしまった。画像はEYE REFRECTMETER。検眼用の機器らしい。カッチョイイ。昨日は直径22cmの巨大レンズを…

・レンズの仕組みと性質をちゃんと理解したいと思っているんだけど、俺がアホ過ぎ。欲しい要求は分かっている。像を拡大して被写界震度を浅くして、その上で奥行きが深くなるほど拡大率が高くなってしまうという凸レンズの性質を取り除くことは出来ないのかということだ。誰か分かる人いる?不可能なのかなぁ。

・ギアの軸受けをどうやって作るべきか。汎用性があって工作の簡単な方法はないものか。

・そろそろもう一度頑張って3Dソフトに取り組みなおしたい。

・ゲームに関してとてもグッと来る設定を思いついたんだけどこれは秘密。

07052401.jpg07052402.jpg07052403.jpgヤフオクでサビサビの奴をとっても安く買った。
で丸一日かけて磨いた。
ん?ホレボレ。

出番は少ないけど粘土用です。
スパチュラ(こういう小さいヘラ見たいの)は何本か持っていたんだけど、もうちょっと種類が欲しいなと思っていた。でも高い。これは一本分より安かったかも。うひひ。

メディアとしての絵ってとても弱いものだと思っている。不完全だといってもいい。そしてその弱さや不完全さが気に入らなくてしょうがない。ずっとそうだった。

絵が描けるなら漫画を描けと思う。ゲームを作れと思う。アニメを作れと思う。違う観点から言えば、設計図を描けと思う。額縁を作れと思う。教会を建てろと思う。

素晴らしい絵はもちろん素晴らしい。だから素晴らしい絵を描くのだって素晴らしい。それでもなお、絵は不完全だ。

これは機能の話しだ。機能とは使い道だ。包丁があれば魚や哺乳類や植物を捌ける。バイクがあれば300キロでぶっ飛ばして嘘みたいな時間で遠いところに行きつつ、とんでもない緊張感と細胞が沸き立つのを経験できる。ポットがあればお湯が冷めないし、カップラーメンがあれば三分待つだけで胃袋を満たすことが出来る。それが機能だ。

じゃ、絵の機能ってなんだ。
家に絵があったら幸せか?なにがしたくて絵を手に入れるんだ?画集は本だ。あれは絵のフリをしているけど絵じゃない。出来損ないの漫画みたいなもんだ。ここで問題にしているのはたった一枚の絵がもたらす機能だ。だいたいが絵を平面としてみて、その上で絵を楽しむなんてのはごく限られた人がすればいいことであって、そんなものが一般化しないことを嘆いてみたところでそれこそオナニー以外の何者でもない。機能を伴わない製品は滅びる。でもこんなこと言っているけど、絵が嫌いなわけじゃない。俺は絵画的言語を愛しているし、絵画的言語によってコミュニケーションをとるのが好きだし、そのコミュニケーションによって救われたり喜んだ経験がいくらでもあるし、絵画的言語を通してこの人が存在してくれていたことがホントに嬉しいと思ったこともあるし、それらはもちろん絵の機能なわけだ。ただしこの絵画的言語は絵の機能としては不十分だ。なぜならそれは器を伴わないからだ。

美術館やギャラリーが嫌いだ。あんなの器でもなんでもない。行列を作って一体なにをしにいくんだ、あんなところ。絵画的言語によるコミュニケーションをしにいくのか?ありえない。もっとも相応しくない場所じゃないか。要するにショップでしょ?美術デパート。もっとショップとしての誇りと気概をもってプロデュースするべきだ。将来コンビニでエロ本コーナーの隣にサクバのプリントが並ぶようになるのが夢なんです。でもそうはならない。コストパフォーマンスが悪いからエロ本に負けるに決まってる。だからこそ機能を形にする必要がある。

次の個展、あそこでやるのは三回目になるけど、今までも絵の機能を(泣きたくなるぐらい不十分ではあるにしても)絵の中だけに求めるようにではなく展示をしてきたつもり。それがどれぐらい効果があったのかはわからないけど、今度も何かしらはしないと意味が無い。一枚の絵の完成度より、空間や経験の強度が欲しい。そうじゃないと絵が描けない。

絵はやわらかい。粘土とか、言葉とか、音とかも、似てる。
絵で失敗しても、誰かが死んだりしない。まずい表現をしても誰も困らない。たぶん。空回りして困る本人がぽつねんと取り残されることがあるにしてもだ。

そんなことは大したことじゃないのだ。
桜が咲くことや、カマキリの卵が孵化することに比べたら、ほんっとに取るに足りないことだ。

でもここで表現という概念を一歩拡大して考えると、それが途端にコミュニケーションとか国家とか経済とか法律とかまでに行き着いてしまうという現実に突き当たる。

逆に言えば、絵でも粘土でも言葉でも音でも人は死ぬ。それらが拡大されたときには。あっけないほど簡単に。そしてじつのところやわらかい絵は絶滅寸前なぐらい危機に晒され続けてもいる。それでもなお、絵はやわらかいのだ。なぜならそれが本質だから。

いや、そんなことが言いたかったわけじゃない。絵がやわらかいのがつまらないということが言いたかったのだ。ああ、違う。絵はやわらかいんだから気を付けろと自分に警告したかったんだ。

絵なんて、硬いものがあって初めて存在するものだ。粘土も音も言葉もそうだ。硬いものとはカマキリの孵化とか桜が咲くことだ(国家や経済ではない。これらはまた別のフェーズで機能する)。それらは起きるべくして起きる。そして起きた方向性に対して身体が全力を尽くす。硬さとは要するに不可抗力に近い経験の強度みたいなもんだ。それはカツンとしているかもしれないし、ネバネバしているかもしれないし、どんよりしているかもしれない。どっちにしても空間の密度が上がるという意味においてそれを前にしたものにとっては硬いのだ。

時として絵とか物語とかゲームとかがもたらす万能感が嫌いだ。それらはやわらかさの上にあぐらをかいているものだからだ。万能感が欲しくて絵を描くことの誘惑はいつでもどこにでも転がっているけどそこにだけは行きたくない。でも困ったことに万能感を表現することの方がとっても簡単だったりもするんだよな。

11:45
ゲームが教えてくれた宝物は、何でも出来ることのつまらなさと、それでも終わらない欲望があるということだ。皮肉のようだけど皮肉じゃない。

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