diary

誰もが身体飛び越えたくて身体を無視する。羽が生えていたらよかったのに、とでも言いたいように、自分の身体を見ない。無視された体は悲しむ。そして、その悲しみに対して代償を要求してくる。それが病気であり故障であるのだ。痛みであるのだ。

身体は正直、って言うのは簡単。でもそれが言えることにはなんの意味も無い。そんなことは理解にはならない。もちろん身体は正直だ。だが重要なのは、どんな風に身体が正直なのかを感じることなのだ。

今年1年、俺は今までの人生でおそらく最も多く自転車を走らせた。そして今までの人生で最も多く金属を削った。その削られたカスを集めて山にしたら、ちょっと感動するぐらい削った。

なんでそんなことをするのだろう?その答えは判りきっている。それをしたいとずっと思っていたのだ。そんな風に身体の声が聞こえるように、多少は成長したのだ。そしてそれが嬉しくて愛おしいのだ。

たぶん、そうやって開放された身体は、今まで思っても見なかったような道を見せてくれるだろう。そのことを思うと、とてもワクワクする。そのワクワクは終わりと共にあるワクワクだ。それってどういうことかと言えば、終わりなんてものは、実は終わりじゃなく、フィクションがフィクションの中に収まるって事なのだ。フィクションから開放されることこそが、身体を飛び越えないってことなのだ。

だから、たとえ身体を飛び越えた代償として病気になり痛みに向き合わざるを得ないとしても、それがその当事者にとって、人生そのもののように感じられたとしても、それをフィクショナルだといえる場所に立てるということは凄く重要なのだ。

明日を生きられる勇気と共に

090528-1.jpg090528-2.jpg090528-3.jpg090528-4.jpgGull Craftによる製作中のサドルの試作品が出来上がってきた。真空成型によるフルカーボン製です。通常のカーボン製品だと、プリプレグと言って、最初から樹脂が浸みているカーボンを使って高温の釜で焼いて硬化させるのが一般的な製法なんだけど(こうすることで樹脂の含有量を最小にしてカーボンの特性を引き出すことが出来る)、これは樹脂の浸みていないカーボンを使って、真空ポンプで樹脂を引くやり方で作られています。大きな船の部品などを作るために編み出された最近の製法なんだそうだ。まだ技術が確立されていない部分も多く、当然情報も少ないので、このサドルの作り方も企業秘密(笑)ということで。しかし毎度のことながら、自分の考えた形が使えるものになって出来上がってくるというのは格別な嬉しさがあるな。090528-5.jpg重さは何と68g。世界で5本の指ぐらいに入る軽さだね。ちなみに現在売られている最も軽いサドルが54g(倒産してしまったメーカーのものだと43gなんてのもある)なんだけど、軽量バージョンを作れば同じぐらいの重さにすることも出来るかもしれないとGull代表は言ってた。自転車の世界は過剰すぎるくらいにとにかく軽いことに意味をおく世界なので、最軽量を目指してみるのもいいかもしれない。もちろんこのサドルにおいては乗り心地こそが重要で、軽さは二の次の価値に過ぎないんだけど。090528-6.jpg090528-7.jpgてことで早速50kmぐらい試乗してきた。まだ裏側の構造などが検討段階なので製品版になるにはまだあと何ヶ月か時間が掛かる模様。

一つのものをずっと見ていられるのは、自惚れに浸っていられる時ではなく、想像力を働かせている時だけだ。その対象が昆虫であれ、機械であれ、服であれ、家であれ、景色であれ、人間であれ。

どんなに検証しうる限りの耐久性を持たせた写真も永遠ではない
どんなに堅牢な顔料を使った絵画も永遠ではない
どんなに冗長性を持たせた建築も永遠ではない
どんなに語り継ぐ意思によって支えられた物語も永遠ではない

そして永遠に思われたこの自分の身体も永遠ではない

もしもそれらが永遠だとしたら
どんなにウザイことだろう

090416-1.jpg090416-2.jpg090416-3.jpgこの二週間ぐらい、ずっと自転車の変速機を削っていました。元ネタはシマノのXT(RD-M772-SGS)というやつなんですが、ものの見事に変わり果てた姿になってしまいました。欲しい変速機が無かったから作ろうと思ったわけですが、どうせやるなら軽くてカッコイイのがいいし徹底的にやっちまえとなったわけです。ケージの部分は完全に作り直しました。裏はカーボンケージです。表はアルミじゃないと嫌なのでアルミで。ちゃんと動くかどうかはまだ揃っていない部品があるので未確認。いや、大丈夫だとは思うけど。ちなみに重さは現状で170g。まあまあの軽さです。最後まで部品が揃って鉄製のブラケットを作り直すことが出来れば150gを切れそうな感じ。090416-4.jpgこちらは以前メモ帳で描いていたチェーンガード。とっくに作って快調に役割を果たしています。もう病気が止まらないです。次はブレーキレバーとブレーキに行く予定。

美しいという基準が、グラムとか風速とかと同じように計れることを要求されるようになり、それが一般化したなら、どれだけ世界が変わることだろう。そしてそんなことは、変な事だとも難しいことだとも思わない。でもそれは美学ではない。美学の対極の世界だ。それは学ではなく、例えば身体的感覚で計られた質量の感覚にずっと近いことだ。なぜなら美しさは在るべきものが在るように有るということに尽きるからだ。咲くべき時に正しく咲く花、動くべき時に正しく動く昆虫、進化するべき時に正しく進化する生物。結局のところ、流れがスムーズであることに全てがあり、それが美しいということだとしか思えないのだ。もちろん、淀みを突破する時の流れは激しく、堰の無い流れは緩やかだろう。でもどんな流れでもいい。流れるべき時に流れてゆくものはとにかく美しいのだ。

モジュール化:規格が標準化され、その規格内において交換可能なシステムを作ること

モジュール化の可能性はあるところでは過激に進んでいるし、あるところではイラつくぐらい停滞している。例えば家電製品では、ほぼ完全に部品のモジュール化は無視されている。いくら省エネだと言い張ったところで、モーターやスイッチの寿命が来れば、その部品の代替品を手に入れることも出来ずに製品そのものが使えなくなり買い換えざるを得なくなってしまう。なんと言う無駄。

コンピュータの世界ではモジュール化はかなり重要になっていて、モジュール化を前提にしないでは市場が成り立たないぐらい重要な概念になっている(これをもっともっと拡大して、ソフトウェアや言語の世界まで拡大したってたぶんなんの問題も無い)。だが、こちらの世界では前提となるべき規格の更新が速過ぎるの問題だ。

モジュール化は、作る側、もしくはメンテナンスをしながら使う側の個人の自由度を飛躍的に高める。しかし一方で、既存のモジュール規格では実現できない革新的なアイデアの普及を阻む。冬眠と春の爆発の両方を抱える技術的フェーズだ。しかし現状を見たときには、どうみても規格の策定が追いついていないとしか思えないぐらい両者のバランスが悪い。モジュール化のメリットはもっともっと消費者と言われているような個人レベルに降りるべきなんだろうと思う。

電池を交換したり、洗濯機を買い換えたりするようなぐらいしか選択肢が無いようなモジュール化のレベルはどう考えたって低すぎる。モジュール化があらゆる大量生産品にもっとディープに採用されるようなシフトは貨幣への依存を低めることが出来るし、なによりも発見と創作の喜びを高めることが出来る。生きている時間を自分の側に引き寄せる助けになる、はずだ。

なのにそれがなかなか普及しないのは、生産者が技術を秘匿して消費者から金を巻き上げたいからでは無く、消費者といわれている人々が生産者といわれている人々に依存したいからなんだろう。

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