drunkard

振動をコントローラビリティの支配下に置こうとするならば、軽量化が最大の武器になる。振動を抹消しようとするならば重量化が最大の武器になる。それが音であろうが建築であろうが乗り物であろうがその法則は変わらない。つまり、目に見える、あるいは感覚の範囲内にある振動と共にあるときには、人は自分の身体を振動に共鳴させ、感覚の範囲外に現象を追いやろうとして振動を消そうとするときには、人は自分の身体を沈静化する。しかし、目に見えない沈静と目に見える共振に優劣があるわけではない。なぜなら、そのどちらも振動の範囲内にあるからだ。優劣は便宜的なものに過ぎない。ただし、今何が必要とされているのかは別問題だ。今自分が必要としている振動に身を任せる技術こそが重要なのだ。

敵を作るのは簡単なことだ。
人を憎むのも簡単なことだ。
他人を怒るのも簡単なことだ。
間違いを指摘するのは簡単なことだ。
人を操作するのは簡単なことだ。
人を閉じ込めるのも簡単なことだ。
人に騙されるのも簡単なことだ。
人を傷つけるのも簡単なことだ。
自分を傷つけるのも簡単なことだ。

簡単にやることは楽なのだ。
気持ちがいいのだ。
快感なのだ。

自分に喋れることがあるということが、
喋ったことに対して反応があるということが、
それがマジョリティであると感じられるということが、

快楽なのだ。

しかし、その快楽がいかになくてはならないものであったとしても
その快楽は、それを享受する人を、自分自身から遠ざけるだろう。
それでも人はその快楽を享受することを止めることはできない。
なぜなら、その快楽には裏打ちがあるからだ。
決して自分のためではなく、
誰かの為とか
正義とか
正確さとか
愛だとか
理解とか
賢さとか
自分と不可分なほどに刻み込まれた呪いの連鎖とか

だという強力な刻印から逃れられないからだ。

情報が隠されていたから愚かになるのではない。
生かされたいから愚かになるのだ。

隠された真実よりも前に、
自分において自分が隠している真実に向き合うことができなければ
どんな情報も意味を成さない。

そこではつまり、どんなビジョンも個において生成されることがないということだ。
ビジョンを持たない個は、ある意味、生きることを禁止されている。
生きることを禁止されている個は、群れを作る。
群れによって個を代替されることを望む。
それが排除の原理がもっとも強力になる時だ。
そしてそのような群れに入るのはとても敷居が低く、簡単なのだ。

簡単であるということが、どれほど魅力的であれ、
簡単であるということが、自己の暫定的な単純化を前提にしている以上は、
簡単になりたくない。
どれだけの熱狂と快楽がそこにあろうとも、そんな場所には近づきたくない。

しかしそのためには、誰もが自分から導き出したビジョンを持つ必要があるのだ。
それを諦めてはいけないのだ。

ビジョンは比較からは得られない。
ビジョンは迎合からは得られない。
ビジョンは理解からは得られない。
ビジョンは倫理からは得られない。
ビジョンは社会からは得られない。
ビジョンは学習からは得られない。
ビジョンは論争からは得られない。
ビジョンは他人からは得られない。

なぜなら、ここで言わんとしているビジョンというものは、
誰もがすでに持っているものだからだ。
孤独のうちに。

孤独は簡単ではない。
しかし、それは悪いものでは決して無い。
むしろ死ぬまで付き合うべき、もっとも大切なものだ。
世界は簡単ではないからこそ美しいのだ。

医者はその医者が個人として理解できていると判断できる範囲の中でしかものを言わない人がとても多いようだ。それが医者の職分だとされているようだ。ではその理解とは何かといえば、そのほとんどは他人が理解したこと、もしくは他人が線引きしたことであるように思える。しかし、ほとんどの科学的とされているような常識はそのようなものであり、その有用性を疑っているわけではない。それは統計学的な真実らしい事柄であり、再現性があり、予防や安全や戦略や利益の追求に役立つだろう。だが時には、その「理解無く引用しているだけ」の知識が致命的な結果を導き出すということだって十分ありうる。そしてこんなことは普段の日常生活の中で誰もが感じていることであるだろうし、そんなものだと、誰もが思っていることであるはずだ。あるはずだと思うのだけど、ひとたび未知の経験にさらされたときにはそんな常識は吹き飛んでしまう。医者も患者も合意としていた前提が失われたときにいったいどんな行動が取れるのだろう。

このところ、自分のわかる範囲において内部被曝の計算をしてみようと思って、そんなことを考えた。あまりにも面倒でめげたというのが一つ。前提に対する疑問が多すぎて嫌になったというのも一つ。たとえば放射性物質の崩壊数を人体影響に換算するシーベルトという単位の前提となるモデルの設定が正しいとは思えない。内部被曝の等価線量を導き出すための係数が正しいとは思えない。統計に基づいているとされる悪性新生物発生の確率的影響の基準値が正しいとは思えない。そんなわけでそんな面倒なことは、やってみたい気持ちはあったけど、それも所詮他人の立場を検証するに過ぎないということに気がついて嫌になってしまった。

今回の震災で、何度も何度も大事だと思ったことの一つは独断の重要性だ。あらゆるリスキーな独断を目にするたびに勝手に涙が流れてきた。なぜ独断で動かないのかと思うたびに腹が立った。独断を禁じるように規制が働くたびに悲しく、そして情けなくなった。

独断とは他人の理解や線引きから最も遠いものだ。医者や科学者や政府の中には独断だけはすまいと心に決めて行動している人がいかに多いのかと呆れた。独断を遠ざける人は、そのことによって、自分の人生を生きるということは無いだろうと思う。

今回の震災で、強制的にリセットを余儀なくされたたくさんの人々が生まれた。一方で、その一万倍以上の人はリセットを免れて幸運だったと思ったかもしれない。そして同時に、幸運だったかもしれないが、自分から敢えてリセットするべきなんじゃないだろうかと思った人もかなりの割合でいたはずだと思う。

そこで、敢えてリセットするべきかもしれないと思った人々はリセットするべきだと思うのだ。たとえ周りがリセットを避けるように流されていくとしても。
これっぽっちの余裕のない中でリセットせざるを得ない人達に比べれば考える余裕も身体能力の余裕もある人々がリセットを試みることはどれだけのアドバンテージがあることか。

体制に対しては、批判されるべきことや、正されるべきことはいくらでもあるだろう。それを追及する人は追求すればいい。それもまた必要なことではあるだろう。事実、数値や単位の基準が危険性に応じて意図的に使い分けられたり、言葉のレトリックによって危険性がうやむやにされてたりということは今の日本のメディアでは日常化してしまっているように見える。だがそれはそれだ。少なくとも身の安全を判断するための情報はネットを利用できる環境にある人ならば誰でも得ることが出来るのは確かだ。その可能性さえ得られない状況が被災地にはあることはやるせないが、それを得られる環境が維持されているならば、今、自分にとって何が必要なのかを判断できる材料は、求めさえすれば揃っている。

東京は被災地ではない、という一つの見方がある。
それは限定された意味では正しい。
そのように言う人達は、そこから避難する人は愚かだと言う。
自分でも今の現状で、東京のすぐ隣に住んでいるこの場所から避難することには50も過ぎたオヤジとしては積極的な理由は見出せない(放射線に対する感受性が鈍いという意味で)。ヨウ素131入りの水もを飲むし、セシウムの付着した野菜だって食べる。しかし、子供を育てたり、これから子供を生んだり、今妊娠していたりしている人には、出来る限りの大事をとって欲しいとも切に願う。そしてそうじゃない人には測定できないレベルの確率的な意味でしか論じられない現象しか起きていない。

つまり耳にたこが出来るぐらい聞かされた「直ちに影響はない」ということだ。
(ちなみに、「直ちに」の意味は「一瞬」もしくは、長くて「一日」なのだとか。だからその発言をしている人間はその意味の範囲において発言しているのだ)

しかし一方で、全世界が被災地であるという見方も出来る。
これはそのような言い方をするならば、紛れもない真実だ。
ここで言う真実とは物理的な真実なのだ。

原発はただの湯沸かし器だ。
放射性物質を使ってお湯を沸かしているだけの施設だ。
そのようにしてお湯を沸かした時の効率だけを見てそれらは建設された。
そして今でも、より効率よくお湯を沸かすために、核分裂の制御技術が開発され続けている。
でもその効率は、一箇所における(そして廃棄や処分といった未来を無視した)効率なのだ。
別に一箇所に集約しないでも良いんじゃないかと思う。
そうした時に見えてくる効率を、たとえば東京電力は損益になるがゆえに否定するだろう。

急激な変化は求めなくていい。
急激な変化は過剰な抑止力を生んでしまうし、それは結果的に未来の遅延を生む。
リセットはゲリラ的に実行された場合にこそもっとも有効に働くのだ。
なぜなら、それこそが日常の営みに根ざしているからだ。

リセットの意味は何を自分が大事にしたいかに向き合うということだ。
今目の前にいる大事な人、今目の前に咲いている青くて小さな花、今吹いている風、今喉を通っていく水、それらと自分が関わる時、どのようなコミュニケーションが生まれるかに、想像力を持って向き合うことだ。

人工的にもたらされた放射線はこれから何年にもわたって(正確に言うならば何万年にもわたって、そしてすでに撒き散らされたものに加えて)放射され続ける。これは紛れもない事実だ。誰一人避けることが出来ない事実だ。この物理的で正確な現象はどんな手段をもってしても閉じ込めることは出来ない。それはそれで受け入れるしかないのだ。

その意味をリセットを掛けるのにこんなチャンスはないだろうと思うことは、とっても不謹慎でとっても魅力的だ。

カッコをつけるために、カッコをつけるための準備をするのは、常に滑稽でラブリーな印象を与える。
否定はしない。それはカワイイの範疇だ。

そして誰もがナチュラルにカッコイイのを求めているわけだけど、それを相対化して、つまり外側に置いている内は、何一つ現実に転写されることは無いんだろうな。
つまりそこで想定されている「ナチュラル」は限りなく正常に近い狂気なわけだ。もっと言ってしまえば、狂気の中にしか正常は無いと思っているぐらい、カッコいいということがねじれた籠の中にしまわれているわけだ。

しかしその「狂気」が「アート」っつう安易な狂気に置き換えられていたりして、それがさらに罠を張るわけだ。この胡散臭さがどうやら日本だけの話しじゃないんだなぁ、ってことを感じるとさらに、なんだかなーになっちゃうんだよな。

どこまで行っても、言葉は誰かが発したことでしかないのだから、そんなの自分ではない他人が発したことであるなら、どんな表現であれ放っておけばいいじゃん、って考え方と、

どんな言葉であれ、誰が言ったかにかかわらず、どんな影響を他人に与えるかは予測できないのであるから、出来る限り慎重であるべきだ、って二つの立場の間で、人はいつも揺れている。

そして、基本的に自分は前者だ。
だがそんな自分でも、放っておけないで不平を言いたくなったりもする。でも前者であり続けるためには全ての努力を注ぎ込んでも惜しくないと思う。なぜなら、自分自身が前者の立場で無いと死んでしまうからだ。生きているのが辛くなるからだ。

ではそれが、自分が発した言葉であった場合にはどうか。その言葉は、同じように放っておけない人から攻撃を受けるだろう。その言葉は無視できる人から無視されるだろう。しかしそうのようにしてしか生きていけないならば、その状況を受け入れればいいだけの話だ。孤独と賞賛は矛盾しないし、疎外と情熱の目的地も矛盾しない。つまりストレスを超えた孤独の僻地に慣れればいいだけの話だ。

追記:
愛には慣れていないなぁ、とつくづく思う。
愛で生きている人は、こんなことは簡単に飛び越えるのかもしれない。それでも僻地の感覚は残るだろうけど。その僻地に生息するリアリティが、可愛いやカッコイイやセクシャリティによって維持されているとすれば、それらを無視することはとんでもない暴力だということになるな。

追記2:
愛の定義は男が女に向けた幻想に染まっている。もちろんそれを超えた宗教的共同幻想にも染まりまくっている。別に違う単語を当てはめればいいとも思わないけど、せめて男愛と女愛は分けたほうがいいんじゃないかと思うな。きっと中学生男子がスッキリすること間違いなし。

警鐘なんて鳴らしたくない。
なぜなら警鐘は、鳴らすべく定められた出来事が起きた後にしか鳴らすことが出来ないからだ。
そんな警鐘に比べれば、嘘かもしれない孤独な思いつきの方がずっとリアルだ。

しかしこの物言いは、昨日の日記には反しているな。ダメじゃん。

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