drunkard

医者はその医者が個人として理解できていると判断できる範囲の中でしかものを言わない人がとても多いようだ。それが医者の職分だとされているようだ。ではその理解とは何かといえば、そのほとんどは他人が理解したこと、もしくは他人が線引きしたことであるように思える。しかし、ほとんどの科学的とされているような常識はそのようなものであり、その有用性を疑っているわけではない。それは統計学的な真実らしい事柄であり、再現性があり、予防や安全や戦略や利益の追求に役立つだろう。だが時には、その「理解無く引用しているだけ」の知識が致命的な結果を導き出すということだって十分ありうる。そしてこんなことは普段の日常生活の中で誰もが感じていることであるだろうし、そんなものだと、誰もが思っていることであるはずだ。あるはずだと思うのだけど、ひとたび未知の経験にさらされたときにはそんな常識は吹き飛んでしまう。医者も患者も合意としていた前提が失われたときにいったいどんな行動が取れるのだろう。

このところ、自分のわかる範囲において内部被曝の計算をしてみようと思って、そんなことを考えた。あまりにも面倒でめげたというのが一つ。前提に対する疑問が多すぎて嫌になったというのも一つ。たとえば放射性物質の崩壊数を人体影響に換算するシーベルトという単位の前提となるモデルの設定が正しいとは思えない。内部被曝の等価線量を導き出すための係数が正しいとは思えない。統計に基づいているとされる悪性新生物発生の確率的影響の基準値が正しいとは思えない。そんなわけでそんな面倒なことは、やってみたい気持ちはあったけど、それも所詮他人の立場を検証するに過ぎないということに気がついて嫌になってしまった。

今回の震災で、何度も何度も大事だと思ったことの一つは独断の重要性だ。あらゆるリスキーな独断を目にするたびに勝手に涙が流れてきた。なぜ独断で動かないのかと思うたびに腹が立った。独断を禁じるように規制が働くたびに悲しく、そして情けなくなった。

独断とは他人の理解や線引きから最も遠いものだ。医者や科学者や政府の中には独断だけはすまいと心に決めて行動している人がいかに多いのかと呆れた。独断を遠ざける人は、そのことによって、自分の人生を生きるということは無いだろうと思う。

今回の震災で、強制的にリセットを余儀なくされたたくさんの人々が生まれた。一方で、その一万倍以上の人はリセットを免れて幸運だったと思ったかもしれない。そして同時に、幸運だったかもしれないが、自分から敢えてリセットするべきなんじゃないだろうかと思った人もかなりの割合でいたはずだと思う。

そこで、敢えてリセットするべきかもしれないと思った人々はリセットするべきだと思うのだ。たとえ周りがリセットを避けるように流されていくとしても。
これっぽっちの余裕のない中でリセットせざるを得ない人達に比べれば考える余裕も身体能力の余裕もある人々がリセットを試みることはどれだけのアドバンテージがあることか。

体制に対しては、批判されるべきことや、正されるべきことはいくらでもあるだろう。それを追及する人は追求すればいい。それもまた必要なことではあるだろう。事実、数値や単位の基準が危険性に応じて意図的に使い分けられたり、言葉のレトリックによって危険性がうやむやにされてたりということは今の日本のメディアでは日常化してしまっているように見える。だがそれはそれだ。少なくとも身の安全を判断するための情報はネットを利用できる環境にある人ならば誰でも得ることが出来るのは確かだ。その可能性さえ得られない状況が被災地にはあることはやるせないが、それを得られる環境が維持されているならば、今、自分にとって何が必要なのかを判断できる材料は、求めさえすれば揃っている。

東京は被災地ではない、という一つの見方がある。
それは限定された意味では正しい。
そのように言う人達は、そこから避難する人は愚かだと言う。
自分でも今の現状で、東京のすぐ隣に住んでいるこの場所から避難することには50も過ぎたオヤジとしては積極的な理由は見出せない(放射線に対する感受性が鈍いという意味で)。ヨウ素131入りの水もを飲むし、セシウムの付着した野菜だって食べる。しかし、子供を育てたり、これから子供を生んだり、今妊娠していたりしている人には、出来る限りの大事をとって欲しいとも切に願う。そしてそうじゃない人には測定できないレベルの確率的な意味でしか論じられない現象しか起きていない。

つまり耳にたこが出来るぐらい聞かされた「直ちに影響はない」ということだ。
(ちなみに、「直ちに」の意味は「一瞬」もしくは、長くて「一日」なのだとか。だからその発言をしている人間はその意味の範囲において発言しているのだ)

しかし一方で、全世界が被災地であるという見方も出来る。
これはそのような言い方をするならば、紛れもない真実だ。
ここで言う真実とは物理的な真実なのだ。

原発はただの湯沸かし器だ。
放射性物質を使ってお湯を沸かしているだけの施設だ。
そのようにしてお湯を沸かした時の効率だけを見てそれらは建設された。
そして今でも、より効率よくお湯を沸かすために、核分裂の制御技術が開発され続けている。
でもその効率は、一箇所における(そして廃棄や処分といった未来を無視した)効率なのだ。
別に一箇所に集約しないでも良いんじゃないかと思う。
そうした時に見えてくる効率を、たとえば東京電力は損益になるがゆえに否定するだろう。

急激な変化は求めなくていい。
急激な変化は過剰な抑止力を生んでしまうし、それは結果的に未来の遅延を生む。
リセットはゲリラ的に実行された場合にこそもっとも有効に働くのだ。
なぜなら、それこそが日常の営みに根ざしているからだ。

リセットの意味は何を自分が大事にしたいかに向き合うということだ。
今目の前にいる大事な人、今目の前に咲いている青くて小さな花、今吹いている風、今喉を通っていく水、それらと自分が関わる時、どのようなコミュニケーションが生まれるかに、想像力を持って向き合うことだ。

人工的にもたらされた放射線はこれから何年にもわたって(正確に言うならば何万年にもわたって、そしてすでに撒き散らされたものに加えて)放射され続ける。これは紛れもない事実だ。誰一人避けることが出来ない事実だ。この物理的で正確な現象はどんな手段をもってしても閉じ込めることは出来ない。それはそれで受け入れるしかないのだ。

その意味をリセットを掛けるのにこんなチャンスはないだろうと思うことは、とっても不謹慎でとっても魅力的だ。

カッコをつけるために、カッコをつけるための準備をするのは、常に滑稽でラブリーな印象を与える。
否定はしない。それはカワイイの範疇だ。

そして誰もがナチュラルにカッコイイのを求めているわけだけど、それを相対化して、つまり外側に置いている内は、何一つ現実に転写されることは無いんだろうな。
つまりそこで想定されている「ナチュラル」は限りなく正常に近い狂気なわけだ。もっと言ってしまえば、狂気の中にしか正常は無いと思っているぐらい、カッコいいということがねじれた籠の中にしまわれているわけだ。

しかしその「狂気」が「アート」っつう安易な狂気に置き換えられていたりして、それがさらに罠を張るわけだ。この胡散臭さがどうやら日本だけの話しじゃないんだなぁ、ってことを感じるとさらに、なんだかなーになっちゃうんだよな。

どこまで行っても、言葉は誰かが発したことでしかないのだから、そんなの自分ではない他人が発したことであるなら、どんな表現であれ放っておけばいいじゃん、って考え方と、

どんな言葉であれ、誰が言ったかにかかわらず、どんな影響を他人に与えるかは予測できないのであるから、出来る限り慎重であるべきだ、って二つの立場の間で、人はいつも揺れている。

そして、基本的に自分は前者だ。
だがそんな自分でも、放っておけないで不平を言いたくなったりもする。でも前者であり続けるためには全ての努力を注ぎ込んでも惜しくないと思う。なぜなら、自分自身が前者の立場で無いと死んでしまうからだ。生きているのが辛くなるからだ。

ではそれが、自分が発した言葉であった場合にはどうか。その言葉は、同じように放っておけない人から攻撃を受けるだろう。その言葉は無視できる人から無視されるだろう。しかしそうのようにしてしか生きていけないならば、その状況を受け入れればいいだけの話だ。孤独と賞賛は矛盾しないし、疎外と情熱の目的地も矛盾しない。つまりストレスを超えた孤独の僻地に慣れればいいだけの話だ。

追記:
愛には慣れていないなぁ、とつくづく思う。
愛で生きている人は、こんなことは簡単に飛び越えるのかもしれない。それでも僻地の感覚は残るだろうけど。その僻地に生息するリアリティが、可愛いやカッコイイやセクシャリティによって維持されているとすれば、それらを無視することはとんでもない暴力だということになるな。

追記2:
愛の定義は男が女に向けた幻想に染まっている。もちろんそれを超えた宗教的共同幻想にも染まりまくっている。別に違う単語を当てはめればいいとも思わないけど、せめて男愛と女愛は分けたほうがいいんじゃないかと思うな。きっと中学生男子がスッキリすること間違いなし。

警鐘なんて鳴らしたくない。
なぜなら警鐘は、鳴らすべく定められた出来事が起きた後にしか鳴らすことが出来ないからだ。
そんな警鐘に比べれば、嘘かもしれない孤独な思いつきの方がずっとリアルだ。

しかしこの物言いは、昨日の日記には反しているな。ダメじゃん。

とても当たり前のことなんだけど、覚醒していないと何も出来ないと思った。ほんとに当たり前だ。でもそんなこともよくわかっていなかったりする。

例えば今、自分の体にはそれなりのアルコールが入っている。この状態では絵が描けない。少なくとも良い絵は描けない。この酔いを強引に振り切って良い絵が描ける状態に持っていくことも不可能ではないけど、そのためにはかなりのパワーが必要だ。つまり、体のセンサーが寝ているのだ。

絵を描くとかモノを作るとかって事は、センサー全開にして行うものだ。むしろセンサーの奴隷となることによって、センサーを働かせている張本人に出会い、その張本人の操り人形になるようなものだと思う。主人公は「自分」ではない。自分なんてどうだっていいのだ。クソみたいなもんだ。邪魔にしかならない。

体が鈍いと覚醒状態にいることは出来ない。そしてそんな覚醒状態は特別なものでもなんでもない。朝の目覚めと共に誰にだってやってくるものだ。起きたとたんに葬り去られるのが日常であったとしてもだ。

朝の気持ちよさとセックスの快感との間に違いを感じない。夜の恐怖と他者の侵略の間に違いを感じない。細胞が開いていること、センサーが開いていること、外の生命や光や空間に浸透していくこと。なんかのベクトルがそこに現れる。それがなんだかはよくわからない。ただ、そこには怖いことも痛いことも眩しいことも嬉しいことも驚くことも全部あるんだろうってことはわかる。だからもちろん楽なことだけであるはずが無いのだ。センサーを開いた状態にしておくということは。

おそらく、センサーが開きっぱなしの人は社会生活を送るのが難しいだろう。それでもセンサーは出来る限り開いておかなくてはならない。なぜなら人間に限らずそれが生物のデフォルトだからじゃないんだろうか。

開いたセンサー、つまり覚醒状態は、非社会的だ。反社会的ではなく。

日常性の延長にあるポルノはつまらない。そこで行われている行為がどんなに非日常的であってもだ。問題は当事者においての日常性であって、社会的規範においての日常性ではない。つまり、当事者において日常的であるなるなら、それは日常の延長でしかないということだ。

行為の社会的過激さは問題ではない。当事者においてどれだけフレッシュな生肉であったかたかということだけが問題なのだ。

フレッシュな生肉を求めるのが正しい、それを求めなくて何を求めるのか。

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