thinking

満足という概念は、ほとんどの場合、他人との比較、もしくは他人が定めたリミットラインによって規定される。つまりほとんどの満足は、結果として他人への依存を形成する為の欲望以外の何者でもない。

もちろん、そうではないような、身体的で生理的な満足だって普遍的に存在する。しかし現代の飢えを生成する日常的で恒常的な満足への欲望は、依存を導くための仮想的な他人によって作られているのだ。だから重要なのは、そのような他人を自分の中に見出し、それを認め、その他人を追い出すことだ。

デジタルネットワークには二つの使い方がある。
一つは既存のインフラを利用して、自分が「得」するために利用する使い方。
もう一つは、インフラそのものの可能性を広げることを楽しむ使い方。

前者は「社会的」だ。
そこではさまざまな窮屈なルールが再生産され続けることだろう。
しかしそれを否定するつもりはない。
なぜなら、そこにはジャーナリズムや権力や大量生産技術が
個人レベルに下るために必要な可能性が眠っているからだ。
そしてその恩恵は計り知れないものになるだろう。

だがしかし、そのベクトルが、
あくまでも既存社会の規範の中でしか進まないことは間違いないように思える。

そして後者は「冒険的」だ。
冒険と挑戦無しには何も新しいことは起きない。
だが、それを支えているのは「社会的」に行動する人々だったりするのも事実なのだ。

ここに苛立ちはない。
かつては苛立っていた自分が居たのに
今は苛立っていない。

要らないものと距離をおくことができ
必要なものに近づくことが出来ればいいのだ。
そうした時には、どちらの側に近づこうともどうでもいいことになるのだ。

デジタルネットワークという技術は
それをとてもわかりやすい形で、
それぞれの人に示してくれる、とても面白いゲームなんだと思う

進化は何度でも繰り返す。それは寄せては返す波のようなものなんだ。
でも最初の波と次の波は決定的に違う。
おそらくは波もスパイラルを描いているのだ。
最初の波のもたらした結果の上に次の波は重なる。
ストロークは繰り返されているのだけど、
最初のストロークと次のストロークは同じストロークではない。
その事実を感じると楽しくてしょうがない。
バラ色の魔法に包まれてしまう。
自分が常に次のストロークで生きていられることは
これ以上ないぐらいに幸せなことなのだ。

予感に導かれて、構造の力学に従ってみる。
そこで、新しい形に出会う。

でもその新しい形は、予感というプールの内側で形成される。
それはしょうがないことだ。
だって、予感から始めたんだから。

そしてその予感は
新しいかもしれないけど
いや、新しいんだけど、
陳腐なのだ。

予感のプールが小さいからだ。
こういう状態に対して「井の中の蛙」というのは、たぶんとても正しい。
25mプールじゃなくて、2500mプールとか、2500000mプールとかに
出会いたいのだ。

予感は快感だ。
小さくとも、大きくとも
それは快感だ。

そして快感は良いものだ。

だが、その快感の、先の快感に行かなければ、
治療的な快感の先に行かなければ、
見えてこないものがあるんだと思っている。

科学の蓄積とか
文明の連なりとか
知識の体積とか

そういうものが人を小さなプール中に押し込める。

しかし、もちろん、誰もが他人の経験の上に自分を組み立ててはいる。
それは責められるような事じゃない。
それを責めちゃいけない。

そんな風にじゃなく
大きなプールの中にいたはずなのだ。
元から。

技術は何度でも発見することが出来る。
それは正しい。

伝えるべきは遺産ではない。
墓ではない。

予感 プロセス 実現 拡散
吸入 圧縮 爆発 排出

そのサイクルを何度でも繰り返すことが出来ることを証明し続けることなんだ。

まだやるの?
じゃなく、ずっとやるのだ。

誰もが身体飛び越えたくて身体を無視する。羽が生えていたらよかったのに、とでも言いたいように、自分の身体を見ない。無視された体は悲しむ。そして、その悲しみに対して代償を要求してくる。それが病気であり故障であるのだ。痛みであるのだ。

身体は正直、って言うのは簡単。でもそれが言えることにはなんの意味も無い。そんなことは理解にはならない。もちろん身体は正直だ。だが重要なのは、どんな風に身体が正直なのかを感じることなのだ。

今年1年、俺は今までの人生でおそらく最も多く自転車を走らせた。そして今までの人生で最も多く金属を削った。その削られたカスを集めて山にしたら、ちょっと感動するぐらい削った。

なんでそんなことをするのだろう?その答えは判りきっている。それをしたいとずっと思っていたのだ。そんな風に身体の声が聞こえるように、多少は成長したのだ。そしてそれが嬉しくて愛おしいのだ。

たぶん、そうやって開放された身体は、今まで思っても見なかったような道を見せてくれるだろう。そのことを思うと、とてもワクワクする。そのワクワクは終わりと共にあるワクワクだ。それってどういうことかと言えば、終わりなんてものは、実は終わりじゃなく、フィクションがフィクションの中に収まるって事なのだ。フィクションから開放されることこそが、身体を飛び越えないってことなのだ。

だから、たとえ身体を飛び越えた代償として病気になり痛みに向き合わざるを得ないとしても、それがその当事者にとって、人生そのもののように感じられたとしても、それをフィクショナルだといえる場所に立てるということは凄く重要なのだ。

明日を生きられる勇気と共に

より良い絵を描きたいという欲望を、他人の評価基準が鈍らせる。
「これぐらいなら充分上手い絵だよね」とか「これ以上描いても意味無いよね、だって充分伝わるでしょ」とか、そんな気持ちが、描き手であるにもかかわらず、鑑賞者としての自分も同時に存在してるという、避けられない構造のかなかで正当化させられてしまうのだ。

しかし、それは他人ではなく、完全に自分の問題なのだ。自分の中に含まれている「自分社会」の問題なのだ。社会は個の中にこそ作られていて、おそらくはそこにしか存在しない幻想なのだ。そして、そんな個の連なりが、互いに牽制しあうテンションによって構築された構造物として集団が形成されているに過ぎないのだ。この構造に見られるような緊張関係が、今より少しでもほぐれるようなことがあれば、どれだけ人間のうちにしか存在しない「社会」が単純化されることだろう。

建築にこそ基礎への依存を減らすためのダウンフォースが必要なんじゃないだろうか?軽量建築なら、なおさらだ。軽い構造物は地震にはめちゃ強いが、風力には影響され易いわけだし、空力的にその問題が解決できるなら、半浮遊建築物が実現しそうな気がする。

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