thinking

想像力とは目の前にすでにあるものにどれだけ寄り添えるかの力だ。
想いを形にすることなどではない。目の前の像に想いを馳せる力だ。
そこに必要なのは、自己へのこだわりでは無く、自己の無化なのだ。

Ninelives-2015-12-03-14-15-48-00.jpg以前に紹介した開発名"Project Kyrill"というSmokymonkeysのゲームが"NineLives"という正式名称となって来年の1月からオープンテストが開始される(公式サイトはここ)。これまでの開発期間はなんと6年である。しかしまだテスト段階ではあるし、公開されるエリアも予定されている全9エリアの内の2エリアに過ぎない。しかしその2エリアでも、このゲームがどんなゲームかを感じさせ、また楽しむことができる、十分なボリュームを持っている。まあすでにクローズドアルファテストも行われているわけではあるけれど、この機会にちょっとレビューをしてみたいと思う。「どうせ身内のレビューでしょ」などと思わずに読んでみてくれると有難い。


worldmap2048_150516.jpgNinelivesはどんなゲームか?これを出来る限り短く説明しようと思うならば「自由な冒険が出来るRPG」これに尽きると思う。は?と思うかもしれない。そんなのどんなゲームでも当たり前じゃん、と。しかし果たしてそうだろうか?冒険とは何か?それが自由であるとはどういうことか?を考えてみて欲しい。今のゲームに経験としての"冒険”をプレイヤーに感じさせることが出来るゲームがどれだけあるのか、プレイヤーに"自由"を与えてくれるゲームがどれだけあるのか。とは言え、俺自身がそれほど最近のゲームをプレイしているわけではない。しかしその状況は容易に想像がつく、なぜならゲームをプレイしなくなった理由の一つは、ゲームから冒険と自由がなくなりつつあった時期だったからだ。


Ninelives_BIN_2015120316285066.jpgミニマップしか見ないゲームプレイ、ダメージ表記と派手なエフェクトだけのゲームプレイ、ナビゲーションに従うだけのゲームプレイ、決められたようにしか成長しないキャラクター、決まったものしか出てこない宝箱、一本道のマップ。RPGがなぜこのように進化してしまったのかは容易に想像がつく。それはつまり、可能な限りプレイヤーの手間を省き、最短距離で快感に導き、薄っぺらい承認要求を最速で満たすための進化だったわけだ。そしてそこには需要が存在していたわけだ。つまり誰もが、それが小学生であれサラリーマンであれ、とにかく忙しい人になり、そんな忙しい人々であっても、ゲームが与えてくれる過程を無視した末端の果実だけを、まるでゲーム全体がチュートリアルであるかのようにすることで、つまり従属をメインとしたプレイをさせることによって可能にしようとした結果なのだ。そんなゲームのどこに自由な冒険の入る余地があるだろうか?それはもはや冒険のふりをした牢獄のようなものだ。


Ninelives_BIN_2015120315475888.jpgしかしそんな牢獄にも需要は確かにあるわけだ。それは否定しようも無い。そこにはマーケットがあり、利益が上がっているわけだから。ただ、ゲームってそんなものだったんだろうか?と思っている人だって居るはずなのだ。なにかもっとわくわくしたり、悩んだり、嬉しかったりしなかったっけか?そう思っている人は少なからず居るはずなのだ。Ninelivesはそこに応える為にあるようなゲームだ。それを時代に逆行していると見る人も居るかもしれないが、俺はそんなことは無いと思っている。なぜなら、かつてそれを感じさせてくれた古いゲーム達は、おそらくゲームをプレイする時の過程の重要性に対して、今よりもずっと無垢で無自覚だったと思えるからだ。黎明期のビデオゲームが、ことさらに意図することなく"自由な冒険"を実現していたのは、その半分は未熟さゆえの無意識であり、その半分はアナログゲームから受け継いだ伝統であったのだと思う。しかしそこにテクノロジーの進歩が加わるごとに、出来ることの自由が加わるごとに、失われていったものが"自由な冒険"なのだ。そしてこのNinelivesというゲームは、その"自由な冒険"を、現在のテクノロジーを使って、きわめて意識的に再構築しようとしている。それこそがこのゲームの最も革新的な部分なのであると俺は思っている。


Ninelives_BIN_2015120314205360.jpgだがこれを言葉で言うのは簡単だけど、それを実現するのは容易なことではない。現代のRPGは、そのプレイ過程を見てみると、どんなに派手で要素が多くても、プレイヤーの選択肢としてはどれもがスタティックなものだ。そこには製作者の潤沢な手間が掛けられているけれど、その手間のほとんどはプレイヤーに対して何の努力も要求せずに、ただひたすらプレイヤーをアゲることに費やされている。グラフィッククオリティ、コンテンツの分量、派手で爽快感のみを重視したエフェクト、それらは無視できない要素ではあるけれど、それが必ずしも"自由な冒険"に結びつくわけではない。プレイヤーの経験が単なるチュートリアルになるのか冒険になるのかを分けるのは、コンテンツ量やグラフィッククオリティではなく、システムやフィールドが、それを可能にするように設計されているかどうかに掛かっている。そして"自由な冒険"は、何もないただのだだっ広いマップや、なんでもアリみたいなプレイヤーに都合の良い適当なシステムで実現できるわけではない。そこには適切な抑制が必要なのだ。その適切な抑制こそが、リアリティを伴った"自由な冒険"を可能にするのだ。


Ninelives_BIN_2015120314484002.jpgしかしこの適切な抑制はとにかく手間が掛かるのである。なぜならプレイヤーというのは本来、あらゆることをするものだからである。製作者的にはやって欲しくないことをするものだし、やって欲しいことをしないものなのだ。そして自由な冒険を提供するということは、この、やって欲しいことをせず、やって欲しくないことをするプレイヤーを進んで受け入れることから始まる。それを受け入れて、その上に適切な抑制を課さなければならない。つまり、まず最初にプレイヤーの欲望や好奇心があり、それを発揮するフィールドとしてゲームが機能するようにならないといけない。それが可能になって初めて、プレイヤーは本来の意味での冒険の主人公になることが出来るのだ。それは逆側から見れば、あらゆることをしてしまうプレイヤーが、自分の興味が赴くままに行動したときに、それに答える発見が無くてはいけないということだし、またその発見がゲームを台無しにしないように想定内に収めなくてはいけないということだ。これがもし一本道のプレイであるならば、そんなことは考える必要が無い。決まった戦闘回数でレベルアップさせ、決まった能力を覚えさせ、決まった報酬を与えるだけで済むのだから。


CI_map01_151206.jpgこれは冒険の最初の舞台となるCrimson Islesのマップ(上のワールドマップとともに作場製です。いずれもっと高解像度のマップがバンドルされたバージョンが有料販売されるそうなので、とりあえずこれぐらいの解像度で我慢してください)。このゲームの最大の特徴の一つはオープンワールドであることなんだけれど、この地図を見てみると、このゲームのマップがいかに作りこまれ、またあらゆるルートがプレイヤーに開かれているかの一端を見ることが出来る。作りこみのレベルで言うならば、まずほとんどの地形が何らかの意味を持たされており、プレイアブルな部分においては、ほとんどポリゴン単位で調整されていると言っても過言ではない。そして裏道やショートカット、秘密の場所や山登りなどが無数に仕込まれている。しかしそれだけの作りこみがされているにもかかわらず、その情報はプレイヤーに事前に知らされることはほとんどないと言ってよい。この点におけるこのゲームのシステムは呆れるほどに徹底している。つまり全てはプレイヤーによる発見を待っている状態に置かれているのである。


CH_map01-151206.jpgマップ、戦闘、採集物、アイテムクラフトの合成結果、さらにはクエストのストーリーにいたるまで、あらゆるものが、プレイヤーによる発見を待っている状態なのだ。秘密の道を教えてくれる人は居ないし、戦闘時に敵に与えるダメージもクリティカル以外では知るすべも無い。どんなスキルを組み合わせれば強いのかも分からないし、クラフトも作ってみるまでは何が出来るのかもわからない、ストーリーでさえ、それを深く知ろうとしないならば、その秘密を開示してくれはしないのだ。だがもちろん、ただ隠しているだけではない。プレイヤーが探究心を持ってそれらに望めば、プレイヤーを満足させるだけのリターンがちゃんと用意されているのである。そのようなプレイがプレイヤーにもたらすものは何か?それはプレイヤーの脳内に独自なゲームマップを生成し、そのマップ上に敵や採集物を配置し、戦闘の感触をプレイヤーの体感として記憶させ、さらにはそれらが統合されて、ひとつの冒険という経験をプレイヤーに与えることになるのだ。しかもその経験は、プレイヤーごとに異なるものとなるはずである。せっかちな人も、そうでない人も、コレクターも、そうでない人も、それぞれが自分の経験としてこのゲームを横断し、それぞれが求めた結果全てが、どんなに異なっていようとも正解となることが志向されているのである。


Ninelives_BIN_2015120319535286.jpgビデオゲームをプレイする際のルールは本来、与えられるものではなく、プレイヤーが自分で作るものだった。ここで言わんとしているルールとは、システムが要求するルールではなく、プレイの仕方のようなルールのことである。人それぞれに、プレイの仕方が異なり、冒険は、プレイヤー自身が独自に作ったルールによって初めて冒険となる。プレイヤーはゲームをプレイして、困って、悩んで、決定しないといけない。そして困ることも悩むことも決めることも、それが苦ではなく、やりたいことの中に納まらないといけない。そのひとりひとりの、困惑や思考や見切りが成されて初めて、プレイヤーはその世界に入っていくことができる。この単純な事実をここまで真摯に追及したゲームを俺は他に知らない。そしてこのように、プレイヤーを単なる消費者に貶めることなく、世界の主人公であることに気づかせてくれるゲームの重要性はどんなに強調しても強調しすぎることは無い。本来ゲームというのはそういうものであり、それこそがゲームの特権であったはずなのだ。


Ninelives_BIN_2015120400011383.jpgNinelives_BIN_2015120318263554.jpgNinelives_BIN_2015120400444144.jpgNinelives_BIN_2015120318044821.jpgNinelives_BIN_2015120323063952.jpgあまり細かいシステムの紹介などはしなかったけれど、その辺は公式サイトを見てもらうことにして、戦闘については少しだけ紹介しておこう。


Ninelives_BIN_2015120401371323.jpgNinelives_BIN_2015120401411298.jpgこれは次回のオープンテストで実装される新クラスMageの戦闘シーンで、しかもおんなじスキルばっかりで恐縮だけれど、まあそれは置いといて、このゲームのアクション性とダイナミックな戦闘は、外の景色の静かなスクリーンショットとは裏腹に、かなりのもんですよ、ってところをぜひ伝えておきたい。というよりも、作者的にはこの辺が最も力の入っている部分だったりするわけだが。俺みたいな反射神経の鈍ったおっさんがプレイしても、これだけ十分かつ大胆に戦うことが出来るし、アクション得意な人だったら、さらに大胆な爽快感のあるプレイが可能になるように設計されているのである。この辺のキャラクタービルドのバリエーションも特筆すべき点で、アクションが苦手な人は苦手なりに、得意な人は得意なりに、偏った趣味ビルドを楽しみたい人はそのように、とにかく懐が深いのである。


Ninelives_BIN_2015120318292346.jpgNinelives_BIN_2015120322305756.jpgしかしこの懐の深さも、このゲームがもたらす無限のバリエーションをもつランダムアイテムとスキルの多様性を考えるとき、そのバランスを保つことが、いかに困難なことかを忘れるわけにはいかない。つまりここでも適切な抑制が重要なのだ。だが現在のところ、このゲームはその困難な目標を実現しつつあるように思える。もちろん今後、多数のプレイヤーが参加することによって、更なるバランス調整が必要になることは明らかであるけれど、おそらく彼等ならそれをやってのけるだろう。


Ninelives_BIN_2015120314360861.jpgまあ長々と書いたけれど、とにかく言いたいことは一つだ。この類まれな自由な冒険を出来る限り多くの人に経験してもらいたいということだ。しかもこのゲーム、タダなんですぜ?もちろん課金することで倉庫増やしたりは出来るんだけど、課金しないとクリアできないとか、強くなれないとかといったことは、一切しないと明言している。あっぱれ。


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Ninelives - Free Online RPG|Smokymonkeys

振動をコントローラビリティの支配下に置こうとするならば、軽量化が最大の武器になる。振動を抹消しようとするならば重量化が最大の武器になる。それが音であろうが建築であろうが乗り物であろうがその法則は変わらない。つまり、目に見える、あるいは感覚の範囲内にある振動と共にあるときには、人は自分の身体を振動に共鳴させ、感覚の範囲外に現象を追いやろうとして振動を消そうとするときには、人は自分の身体を沈静化する。しかし、目に見えない沈静と目に見える共振に優劣があるわけではない。なぜなら、そのどちらも振動の範囲内にあるからだ。優劣は便宜的なものに過ぎない。ただし、今何が必要とされているのかは別問題だ。今自分が必要としている振動に身を任せる技術こそが重要なのだ。

エンジニアリングがアートになるためには
エンジニアリングは粗暴すぎる

アートがエンジニアリングになるためには
アートは空疎すぎる

その間にはデザインがいるかもしれないが
デザインは幼すぎる

それらを結ぶのはおそらく
ヒューマニズムでも哲学でも科学でも感情でもない

生命の躍動を伴った身体性だけが
それらの要素を溶かし込むことができるのだろう

敵を作るのは簡単なことだ。
人を憎むのも簡単なことだ。
他人を怒るのも簡単なことだ。
間違いを指摘するのは簡単なことだ。
人を操作するのは簡単なことだ。
人を閉じ込めるのも簡単なことだ。
人に騙されるのも簡単なことだ。
人を傷つけるのも簡単なことだ。
自分を傷つけるのも簡単なことだ。

簡単にやることは楽なのだ。
気持ちがいいのだ。
快感なのだ。

自分に喋れることがあるということが、
喋ったことに対して反応があるということが、
それがマジョリティであると感じられるということが、

快楽なのだ。

しかし、その快楽がいかになくてはならないものであったとしても
その快楽は、それを享受する人を、自分自身から遠ざけるだろう。
それでも人はその快楽を享受することを止めることはできない。
なぜなら、その快楽には裏打ちがあるからだ。
決して自分のためではなく、
誰かの為とか
正義とか
正確さとか
愛だとか
理解とか
賢さとか
自分と不可分なほどに刻み込まれた呪いの連鎖とか

だという強力な刻印から逃れられないからだ。

情報が隠されていたから愚かになるのではない。
生かされたいから愚かになるのだ。

隠された真実よりも前に、
自分において自分が隠している真実に向き合うことができなければ
どんな情報も意味を成さない。

そこではつまり、どんなビジョンも個において生成されることがないということだ。
ビジョンを持たない個は、ある意味、生きることを禁止されている。
生きることを禁止されている個は、群れを作る。
群れによって個を代替されることを望む。
それが排除の原理がもっとも強力になる時だ。
そしてそのような群れに入るのはとても敷居が低く、簡単なのだ。

簡単であるということが、どれほど魅力的であれ、
簡単であるということが、自己の暫定的な単純化を前提にしている以上は、
簡単になりたくない。
どれだけの熱狂と快楽がそこにあろうとも、そんな場所には近づきたくない。

しかしそのためには、誰もが自分から導き出したビジョンを持つ必要があるのだ。
それを諦めてはいけないのだ。

ビジョンは比較からは得られない。
ビジョンは迎合からは得られない。
ビジョンは理解からは得られない。
ビジョンは倫理からは得られない。
ビジョンは社会からは得られない。
ビジョンは学習からは得られない。
ビジョンは論争からは得られない。
ビジョンは他人からは得られない。

なぜなら、ここで言わんとしているビジョンというものは、
誰もがすでに持っているものだからだ。
孤独のうちに。

孤独は簡単ではない。
しかし、それは悪いものでは決して無い。
むしろ死ぬまで付き合うべき、もっとも大切なものだ。
世界は簡単ではないからこそ美しいのだ。

これまでずっと、ユーティリティがテクノロジーを堕落させるのだと考えていた。なぜその様に思ったのかとの思いを含めれば、今でもその考えが間違っているとは思っていない。しかしそこには、ユーティリティの定義に対するあいまいさが含まれていて、それ故に、他人には理解しがたい概念が、翻訳されることなく放置されていることに気がついた。

そこで放置されていると思われたユーティリティの概念とは、思考し、日々を生きている、迷いを含んだ主体の、時間的に変化し推移する個にとってのユーティリティなのだ。そのような存在にとってのユーティリティは、便利という社会的な実用性以上の、おそらくは現代において、定義があまりに不明確な場所で、要求を再定義せざるを得ないような力がその単語に備わることになる。こうしてユーティリティを定義してみると、そこにはユーティリティーという単語に対して、嫌悪をもよおしていた要素が全て排除されていることに気づく。その様な状態では、ユーティリティーというものが、可変的な個の要求によって、再定義され続けるようになるからだ。

要求は常に、個において変化し続ける。その変化し続けつつも、瞬間的には明確であるような要求に対して、いかに正確に答えることができるのかがテクノロジーの本質なんだと思う。

しかし、そこに焦点を合わせた社会が形成されるためには、あまりにも多くの要求と価値観が無視されたままだ。

人は自分がメンテナンスを放棄したものに対しては、消費と放棄以外の選択肢を取ることができない。メンテナンスをするということは、ある機能を維持し続けることであると同時に、その機能を発見し続けることでもある。だからそれを放棄するということは、フィジカルなテクノロジーに留まらす、装飾的な様式や、文体や、リズム構成についても、消費と放棄しか出来なくなるということだ。それはつまり、いかなる発電システムであれ、いかなる乗り物であれ、いかなる建築であれ、いかなる小説であれ、いかなるファッションであれ、いかなる絵画であれ、いかなる音楽であれ、それら全ての人間が表出するテクノロジカルな表現に対して、発見をやめ、内在化することをやめ、ただ流すだけにするということだ。そんなことの何が楽しいのかは知らないが、その様に生きていくことがマジョリティになっているというのは事実であると思う。

このようにメンテナンスを放棄した人に対して、なぜそうしたのかと問えば、まずは時間が無いからだと答えるだろう。もしくはその様な技術を習得する機会に恵まれなかったからだと答えるかもしれない。もしくは自己の対外的なパフォーマンスを最大化するためにはメンテナンスこそが最小化するべきだと答えるのかもしれない。しかしこれらの答えには共通するものがある。それはメンテナンスされるべき対象が、メンテナンスすることを否定する人にとって、その対象自体はどこまでも必要なものとして機能しているという点だ。つまり、メンテナンスを放棄しようとする人ほど、メンテナンスが必要な対象を欲しているのだ。それはどういう事かと言えば、「私はメンテナンスをしないけど、誰かがやってね」か「メンテナンスなんてしなくてもいいように、どんどん作ってね、誰かが」ってことだ。

経済のことはよく分からないけど、少なくともそこに「成長」というキーワードが欠かせないのであれば、それは、この誰かを、誰かが居なくなるまで続けることであるように思える。そしてそんな誰かはいずれ居なくなる。それだけは確かなことのように思える。いつまでも誰かが居ると思うなよ、そういわざるを得ないときは必ず来る。しかし少なくとも自分が生きている間は、「誰か」は居続けるんじゃね?と、そんな様に経済は回っていて、その誰かを開拓し続けている。その寿命をどれだけ延ばせるか、そのために、膨大なトラフィックが見た目の効率によって合理化され続けている。

でもまあ、そんなことはどうでもいいんだ。俺にとって一番重要なのは、それで楽しいのかって事だ。俺はそんな風に「誰か市場」を開拓してもまったく楽しくないのだ。俺はメンテナンスができる人間になりたいのだ。自分にとって必要なことに対して自分で面倒が見られる人間になりたいのだ。そしてその様な要求に対して、ちゃんと答えてくれる、要は、メンテナンスを前提とした、技術体系が必要だと思っているのだ。

ボタンが取れたら縫えばいい。新しい文様を思いついたら描けばいい。雨漏りがしたら屋根を葺きかえればいい。電源コードが劣化したら巻き直せばいい。錆びたら磨けばいい。自転車のチェーンに一度も油を差さないで、チェーンが固着したら自転車が壊れたとか情けなさ過ぎる。そしてそんなことは人事じゃなく、例えば食い物に対して、例えば建築に対して、例えば排泄に対して、同じように情けなさ過ぎる毎日を送っているのだ。なにも人々が全員、自給自足の永久機関になればいいと思っているわけではない。そうではなくて、その様な選択肢が常に開かれていることが重要なのだ。現在はあまりにもその様な選択肢が、おそらくは意図的に、閉ざされすぎている。

メンテナンスから解き放たれて、勘違いの大空に羽ばたいたっていい。でもそれが、運がよかったか、もしくは馬鹿だっただけだと気がついたときに、ちゃんと着地できる場所がなかったら、どこにも降りることができなくて右往左往することになってしまう。まずはフラッシュサーフェスへの違和感を表明することでもいい。ネジはなくなっていないのにネジを隠すなよと。その空力効果なり、人間工学なり、ガキのような夢にどれだけの価値があるのかと。それを開発した人間も、ほんとにその形じゃなければいけなかった理由をもっと考えてみるべきなのだ。

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