thinking

潜るという表現が好きでよく使っていた。でも、トンネル掘ることのほうが重要だとさっき思った。

どういう時に潜ると言っていたかといえば、作品を作っていて、より自分の潜在的な欲望なり、作品が求める深さなりを正確に、かつ経験したことのないレベルで実現するために、自分自身を追い込んでいくようなベクトルを表して、潜ると言っていたつもりだった。

でも潜れるのは底までだ。底に着いたらおしまい。規定の深さは日常的に忘れ去られている発見を伴うにしろ限界がある。自分が既に掘った穴の深さが変わるわけじゃない。トンネルを掘らない限り。

かと言って、実は誰もがトンネルを掘っているのだ。意識しているにしろしていないにしろ、時を重ねさえすればトンネルは掘られていく。そういうものだと思う。

そのように体は勝手にトンネルを掘る。心も掘らなければ、体のトンネルに追いつくことは出来ない。つか、ここまで来ると、潜るという言い方で何にも問題ないわけだが、もう一歩の積極性として「掘る」というポジティブな行為を当て嵌めることはとっても重要なことだと思ったのだ。

全ての人間に、死が訪れる、という、平等さは、素晴らしい。

それが無い世界なんて、すんげぇつまらない。

意地悪だったり、ダークだったり、嫌がらせだったり、ひねくれだったり、っていう、そういうものじゃなく、だれもが、死ぬ、俺も死ぬ、その瞬間を迎えることが出来る、その未来感を伴った経験が、自分の人生に必ず起きる、これ以上に素晴らしいことなんて思いつかない。

それを早めたら、起きて欲しいことは起こらない。そのようにしか、起きてほしいことは起きない、つまり起きるべくして起きるようにしか起こらない。その微妙な狭間で、その微妙に見えるけど、そこしかない狭間で、生きようとしている自分が愛おしくて好きだ。

過程を拡張する、もしくは過程を延長する、ということこそが、文明であり言語であり、フェティシズムであり、リアリズムへの憧憬であり、死への欲望であり、生への欲望、なんだと思った。

ゲームとか、セックスとか、食事とか、遊びとか、スポーツとか、行為そのものの身体や社会に対する意味や影響力よりも、そこで延長や拡張を欲するエネルギーこそが本質であるように思えてならない。「もっと欲しい」という思いに囚われている自分を表明し、それを実行する、あらゆる罠を含みつつ、人はそのように歩んでゆく。そのようにしか歩めない。

俺が欲しいと思うのは、それを認めて、実践して、その上で、欲望がどれだけ淘汰され、どのように単純化され、到達したい一点にどれだけ近づくことが出来るのかということだ。そしてそのように人生を消費することは、これっぽちも特殊なことだとは思えない。

こうあって欲しいということと、これで充分ということの、その違いこそが重要なんだと思う。ただ、この違いを簡単にどちらが優れていると片付けてしまうのはマズイ。なぜならこれで充分というのも進化と淘汰のための必然だと思うからだ。過剰さだけに価値があるわけではない。思いと欲望の価値は変わらないにしてもだ。

「インターネットって結局コミュニケーションツールなんですよね」ある人と話をしていて僕がそういった。その人も同じように思っていて頷いた。
ただこの場合のコミュニケーションはちょっと限定されている。例えば映画や絵を見ることだってある意味コミュニケーションといえるわけだけど、この会話で言われているコミュニケーションの中には入らない。つまり見る側(受け手)の能動性がある一定レベル以上にあるやりとりを指してコミュニケーションであると言っているわけだ。

例えば買い物。これは立派なコミュニケーションだ。しかも受け手のレベルの高い能動性を必要とする。ゲームもそうだ。掲示板であれチャットであれ「会話」は言うまでもない。つまりインターネットというのは電話やゲームセンターやお店の新しい入れ物だということだ。正確に言うとインターネットと言うよりもキーボードや音声入力端末の付いた計算機を利用したネットワークコミュニケーションと言った方がいいのかもしれない。なぜならネットと言っても入力端末の限定された「放送」という形態では、コミュニケーションツールと言うよりは「窓」に近い機能になるからだ。

ブラウザは「窓」よりも「箱」に近い。窓はそこに映し出されるものがたとえ3次元的であったとしても、受け手のアクションが反映されないという意味では根本的に二次元的だ。箱は違う。箱はまず自分がその中にいるのだ。自分の居場所は窓の外。窓の外では自分のアクションがその世界を変容させる要素となる。なぜなら自分自身がその世界の構成要素として組み込まれた世界だからだ。そこではなにをしようが、あるいはなにもしないということでさえ、その世界を決定していく要素なのだ。

映画を見てその映画にたいしてどのようなリアクションをとろうが基本的にはその映画は変化しない。しかし箱の中では沈黙さえも可変的要素として機能する。なにもかも当たり前のことだけど、この当たり前さをもっと真剣に考えて感じることが出来たら、そこにはもっと面白い可能性がいっぱい眠ってるように思えてしょうがない。

ファッション雑誌を見ていて思ったのだけれど、今のファッションって奇形性を個別性に変換するような試みをやっているような気がした。そんで、これは自分的にはとってもいいことだと思う。

ただここで間違えて欲しくないのは演出された奇形性は逆に個別性への変換にならずに「新しい奇形」という記号を作り出すのにすぎないということだ。それはグループ化であり新しい差別であり依存の温床でもある。でもいくらデザイナーが頑張ったところで一般化したときにはこのような「新しい奇形」に堕してしまうんだろうけどね。

まあ、そういうつまらない話はおいといて面白いのはまずモデルの傾向だ。モデルなんてその体型からして奇形に近い人たちが多いけど、それどころじゃなくてこのモデルに着せなかったらこのインパクトは出ないだろうってぐらい、異端な感じのするモデルが多いのだ。そこへ持ってきてこのところの傾向は割とディスコンストラクション(脱構築、既にある秩序なりルールなりを一度解体するような行為。アシンメントリーだったりコラージュ的だったり)なデザインが持ってこられるから、なおさらモデルの奇形性(と言うか個別性)が強調されるのだ。

これってちょっと深読みすると現代がいかに「見た目コンプレックス」に悩んでいる人が多いかの裏返しって気もする。だから意味があるのだ。「自分は美しくない」「充分は特殊だ」という思いがどれだけその人の人生を台無しにしてることか。そんな時代には「演出以前のより特殊な外観」つまり「奇形性」が一人一人の「個別性」を当たり前のものとして回復するためにとっても重要な役割を果たし得るんだという気がする。

小学校6年生の時、将来の夢は漫画家になることだと卒業文集に書いた。でもそれは半分嘘だ。漫画家は友達の間で最もウケがよく、羨ましがられそうだという打算が働いていたのだ。別にマンガが嫌いなわけではないのだが、子供心にもあの省略された絵が好きになれなかったのだ。

その頃のスーパースターといえば「川崎のぼる」と「ちばてつや」だ。巨人の星と明日のジョー。カッコいいのはちばてつやでちゃんとしているのは川崎のぼる、というのが僕の感じたことだった。なぜ川崎のぼるがちゃんとしているかといえば、目の輪郭線がほぼ閉じている。指の関節のしわが必ず描かれているからだ。これは僕にとって凄く大事なことだった。目という半熟卵みたいなものと皮膚という肉を境界が曖昧に描くということが許せなかったのだ。だけどちばてつやの絵はどう見ても川崎のぼるの絵よりもカッコいい。このジレンマにどれだけ苦しんだことか。

結局この気持ちが解消されるためには鳥山明や大友克洋の登場を待たなければならなかった。その時にはもう高校生にもなろうという頃だ。今だったら寺田克也や田中達之や森本晃司がいて今のガキは幸せだなぁと思う。

しかし僕がガキの頃って、リッチなグラフィックがほんとに少なかった気がする。印象派の絵なんてさっきの例で言えばちばてつやみたいなものだからなんか許せない。そうなるといきなりルネッサンスぐらいまで(子供の情報源なんて限られてるし)遡ってしまう。でも古すぎてモチーフに親近感が持てないからなんかつまらない(ダ・ヴィンチのデッサンだけは例外だった)。絵本なんてほとんど問題外(ひとまねこざるやエルマーの冒険とかは好きだったけど日本のは全部嫌いだった)。その結果欲しいものに一番近いのが図鑑の絵と設計図というなんとも偏った趣味を持つようになってしまったというわけだ。

そういえば絵の予備校に通っていた頃、誰も「ちゃんと描かない」ということが不思議でしょうがなかった。そのことを先生に聞いたら「へたにちゃんと終わっているものよりも、良くなりそうだという可能性が感じられる未完の方がいいから」だと説明された。でも今考えると「あんた、そりゃ間違ってるよ」と言いたい。なぜなら生徒の方はそんな目で見られているということをちゃんと知っていて「ちゃんとしそうに見える未完をわざわざ目指す」という状態になるからだ。その結果そんな教育を受けた人間は、いつまで経っても自分の欲しいものを最終段階までイメージできない人間に育っていくのだ。

欲しいものを出来る限りリアルにイメージしそれを形にする。モノを作るってこれ以外の事なんてないように単純なのに、なんでこんなにくだらない偏見が多いんだろう。

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