小学校6年生の時、将来の夢は漫画家になることだと卒業文集に書いた。でもそれは半分嘘だ。漫画家は友達の間で最もウケがよく、羨ましがられそうだという打算が働いていたのだ。別にマンガが嫌いなわけではないのだが、子供心にもあの省略された絵が好きになれなかったのだ。
その頃のスーパースターといえば「川崎のぼる」と「ちばてつや」だ。巨人の星と明日のジョー。カッコいいのはちばてつやでちゃんとしているのは川崎のぼる、というのが僕の感じたことだった。なぜ川崎のぼるがちゃんとしているかといえば、目の輪郭線がほぼ閉じている。指の関節のしわが必ず描かれているからだ。これは僕にとって凄く大事なことだった。目という半熟卵みたいなものと皮膚という肉を境界が曖昧に描くということが許せなかったのだ。だけどちばてつやの絵はどう見ても川崎のぼるの絵よりもカッコいい。このジレンマにどれだけ苦しんだことか。
結局この気持ちが解消されるためには鳥山明や大友克洋の登場を待たなければならなかった。その時にはもう高校生にもなろうという頃だ。今だったら寺田克也や田中達之や森本晃司がいて今のガキは幸せだなぁと思う。
しかし僕がガキの頃って、リッチなグラフィックがほんとに少なかった気がする。印象派の絵なんてさっきの例で言えばちばてつやみたいなものだからなんか許せない。そうなるといきなりルネッサンスぐらいまで(子供の情報源なんて限られてるし)遡ってしまう。でも古すぎてモチーフに親近感が持てないからなんかつまらない(ダ・ヴィンチのデッサンだけは例外だった)。絵本なんてほとんど問題外(ひとまねこざるやエルマーの冒険とかは好きだったけど日本のは全部嫌いだった)。その結果欲しいものに一番近いのが図鑑の絵と設計図というなんとも偏った趣味を持つようになってしまったというわけだ。
そういえば絵の予備校に通っていた頃、誰も「ちゃんと描かない」ということが不思議でしょうがなかった。そのことを先生に聞いたら「へたにちゃんと終わっているものよりも、良くなりそうだという可能性が感じられる未完の方がいいから」だと説明された。でも今考えると「あんた、そりゃ間違ってるよ」と言いたい。なぜなら生徒の方はそんな目で見られているということをちゃんと知っていて「ちゃんとしそうに見える未完をわざわざ目指す」という状態になるからだ。その結果そんな教育を受けた人間は、いつまで経っても自分の欲しいものを最終段階までイメージできない人間に育っていくのだ。
欲しいものを出来る限りリアルにイメージしそれを形にする。モノを作るってこれ以外の事なんてないように単純なのに、なんでこんなにくだらない偏見が多いんだろう。
Comments
CONGRATULA