thinking

ガラージュのクラウドファンディングを開始します。

https://camp-fire.jp/projects/view/341711


まさかこれをやることになるとは思っていませんでした。スマートフォン用のガラージュ、しかも完全版の制作です。

ガラージュがとんでもない価格で取引されていることはもちろん、このゲームをプレイしたいと思っている方が、国内問わずそれなりに存在するということは知っていましたが、このゲームをリメイクとまでは行かずとも、それなりの手間を掛けて納得のいくクオリティでリリースするということは、まず不可能であろうと考えていました。

私は過去の作品に対してはかなり淡白なので、一度終わらせたもの、その上、手を入れることが不可能なものに対しては、全て成り行きに任せればよい、ぐらいにしか思っていません。なぜならこの先変化する可能性もなく、プレイすることも出来ないような作品をいくら広めても意味がないぐらいに考えていましたから。

ガラージュはあくまでもゲームですので、プレイ出来ないゲームにゲームとしての価値などありません。それなのに、このところTwitter上でやたらとガラージュ関連のツイートをリツイートしたり設定画を上げたりしているのを見て不審に思っていた人もそれなりに居たのではないかと思います。

開発に至った経緯はクラウドファンディングのページにも記してある通りです。SmokymonkeySが「俺たちが持ちかければあいつも動くだろ」という算段でやってきて、まんまとそれに乗っかったわけです。

ですが、ガラージュに関してはやり残したというか、やり切れなかったことがかなりの分量であったというのも事実です。以前にTwitter上で「ガラージュをリリースしたあとに、あの世界から2、3年抜けられなくて苦しんだ」と書きましたが、その理由の半分以上はやり切れなかった事がずっと頭の中に去来して離れなかったからです。

シナリオに於いては、書ききることの出来なかったキャラクター同士の関係性やそれぞれの思い、一見不条理とも思える行動の理由、それらが明確になることによる新しい展開。グラフィックに於いては、自分の未熟さによるアートディレクションの不備、イメージを詳細に定義できていなかった甘さ、デジタルグラフィックに対する理解の不足。そういったものがゲームのリリース後に留まることなく押し寄せてきて翻弄される日々でした。

それらの成し遂げられることの無かった課題を、今回の完全版において実現できるなら、これはやらねばなるまい、そう思えたわけです。


しかしガラージュは色々な意味で「きわどい」作品です。特に現代のポリティカルコレクトネスからすると不適切であるとされる表現も含まれているかもしれません。この点に関しては、今回の開発を決意するに当たっての最初の気がかりでした。ガラージュの世界を見て怒りを感じる人、見たくないものを見せられたと感じる人、傷つく人、そのような人々からの非難、批判が容易に想像できたからです。この作品は今のこの時代に出せるものなのか?出しても良いものなのか?それを自分に問う必要がありました。

確かにガラージュの表現には露悪的な部分もありますし、あえて差別的な関係性を表現している部分もあります。しかし作品そのものはそれを良しとしているわけではありません。それはゲーム内でも語られている通り、いかがわしく間違った世界です。そしてそのいかがわしく間違った世界は、ガラージュという治療装置にかけられた被験者の精神の反映です。

さらにこの被験者は、その精神を病んでいます。過去に取り返しのつかないことをし、終わってしまったその過去を、治療装置であるガラージュによってもう一度経験するようなことをするわけです。プレイヤーが体験するのはそのような被験者の精神世界の体験です。そこでは被験者がその内に持っている憎悪、偏見、差別、暴力、嫉妬、恐怖、欲望、そういったものが表現されている必要があるのです。そしてプレイヤーはその世界を終わらせるためにゲームをプレイします。

そのような世界はほとんどの人々にとっては見たくない世界かもしれません。それはある意味当然のことです。なぜならこの被験者は社会の外側に出てしまった人間だからです。

社会は社会の外側にはじかれる事を恐れる人間によって成立しています。常識も承認欲求もポリティカルコレクトネスも社会の内側に向いたベクトルです。しかし本当に社会を社会足らしめているのは、社会の外側だと私は考えています。

社会の外側とはつまり社会から排除されたものです。社会から排除され、社会によって禁止されたものが社会の輪郭を作っています。それは社会の内側から見れば忌み嫌われるものそのものです。非難されるべき対象そのものです。しかしその忌み嫌われ、非難される対象無しには社会は成立できない。

下品な例えをします。ウンコを漏らすことは非社会的な行為です。正確に言えばトイレ以外でウンコをすることは非社会的な行為です。しかし誰もがトイレ以外でウンコをする生物としてこの世に生を受けます。そしてトイレ以外でウンコをしないように厳しくしつけられるわけです。トイレ以外でウンコをしないという社会は、トイレ以外のウンコを禁止することによって成立するわけです。そこから先のルール、男女のトイレを分けるとか、トイレットペーパーの先を三角に折るとか、ウンコの音か聞こえないようにするとか、そういったことは全て、トイレ以外のウンコの禁止を前提とした、些細な決まりに過ぎません。

ここで言いたいことは、禁止によって社会は作られるが、禁止されたものは無くなる訳ではなく存在し続けるということです。どんなに忌み嫌われようとも、どんなに重い罰が下されようとも、それらは存在し続けるし、それらの存在無しには社会もまた存在しない。つまり社会は、社会の外側を下部構造とした上部構造に過ぎないということです。しかしだからと言って、わざわざ不快な社会の外側を表現しなくてもいいのに、せっかく上手く回るように社会が出来ているんだから、壊すようなことをするなよ、そんな声が聞こえてきます。

ですが私には社会が上手く回っているようにも見えないし、壊そうとしているわけでもありません。社会の境界は曖昧なものです。その境界は常に揺れています。特に今の時代はその揺れが激しいように思っています。ガラージュ流に言えば、カゲの力が強くなっているわけです。そのような揺れの激しい社会ではあちこちにひずみが生まれます。それは社会の再編成における必然であるように思えます。多くの人が精神を病んだり、勘違いをしたり、取り残されたり、他人を押さえ込もうとしたりしています。

例え表面的には社会に適合しているように見える人であっても、誰もが社会の外側を持っていて、その境界において葛藤している。ここまでは当たり前の事ですが、この葛藤は現代においては境界を大きく揺るがすほどに表面化している。私は今の時代をそのように認識しています。

望まずに社会の外側に飛び出してしまうこともあれば、社会の内側に留まることを強制されることによって死ぬ人もいる。そのように生きている人々にとっては社会の外側が身近なものとなります。社会の外側によって救われる人もいるでしょう。社会が牢獄であった場合にはそこから逃げることしか選択肢がなくなるからです。

ガラージュという作品は、社会の外側を賛美するための作品ではありませんが、否定もしないのです。ガラージュの中では社会の境界の曖昧さがそのままに提示されます。上手く行っているかどうかはわかりませんが、その曖昧さは意図的なものです。そしてそのような世界であるからこそ可能になることがあります。少なくとも物語の中でガラージュにかけられた被験者は、もう一度生き直すためにそのような世界とその可能性を必要としていました。

私はあの被験者が必要とした世界を出来るだけ忠実に再現しようとしました。そしてプレイヤーにもその世界の手触りを感じられるように努力しました。そうやって出来上がったのがガラージュというゲームです。

現代のような境界の揺れの激しい時代においては、ガラージュという作品が、例え多くの人に響くことは無くとも、多くの人から非難されようとも、社会の境界で葛藤している一握りの人々からは必要とされることもあるのかも知れない。そのように思えたことが、この作品に再び向き合うことを可能にしてくれました。

こうして始まったガラージュ完全版の開発には、既にひじょうに多くの時間が注ぎ込まれていますが、まだ道は半ばです。ここからゴールまでの困難な道のりを乗り切るために、このクラウドファンディングを通して支援いただけたらと考えています。よろしくお願いします。

KINOTROPEからの依頼でオリジナルの自転車を製作しました。設計は自分、CADデータ作成はGullCraft。実製作はGullCraftと二人での作業です。去年の9月から設計を始め、12月から製作を開始したので、1年がかりのプロジェクトになりました。いわゆるフレームだけのハンドメイドではなく、サドル、ハンドル、ブレーキレバー、フェンダーなども、全て一からの手作りです。


180122-03.JPG180110-11.JPG設計の意図としては、

  1. ジオメトリはかつてロードスターと言われていた車種をお手本としています。少々見た目重視に振ってしまっているため、軽快感は多少スポイルされていますが、基本的には絶対スピードは遅くても、より少ないエネルギーで距離が稼げる自転車。

  2. デザインはクライアントの希望もあり、真鍮を多用したりしてスチームパンクな要素を盛り込んでいます。また、かつての昭和中期ぐらいまでの実用車やカスタムモーターサイクルに見られるような、徹底的な作り込みがもたらす機械としての魅力を前面に押し出すべく、あらゆるパーツデザインの統一性を重視。要はメカオタも満足できる自転車にしたかった。おかげで重量的にはかなりのものになってしまいましたが。

  3. このジオメトリから導き出されるポジションは、後に加重が寄ったアップライトなものですが、このようなポジションにありがちな前上がりなイメージを排して、スポーティに見えるようにすると共に、ハンドルをマルチポジションにするなどして、多様な路面状況や風向きでも快適に乗れることを考慮しています。

  4. デザインやパーツ選定の一つの基準は自立性です。内装11段変速のスピードハブ、前輪ハブダイナモ、メカニカルディスク、前後フェンダー、スタンドなど。こういった部分は現代社会では半分はファンタジーみたいなものですが、出来るだけ「それ自体で完結している」イメージを出したかった。とは言っても作り込みの部分で遊びすぎてしまったので、メンテナンス性は推して知るべしと言うところ。そういう意味でのプロダクトデザインとしては失格ですが、この自転車に関しては「やればここまで出来るんだぜ」ということを示したかったので、作っているうちにそっちの気持ちが勝ってしまったということです。


DSC09440.jpg完成した自転車。水平ラインを基調とした1920年代ごろのモーターサイクルデザインを意識していたりします。乗り味に関しては、昔、セキネのとても古い実用車を所有していたことがあって、20kgほどもある重い自転車なのに、乗ってみるとなんともいえない安定感があって、非常に心地よかったことに驚きを覚えたのですが、その乗り味にも共通する安定感があります。強いて言えば「真ん中に乗っている」感じです。


DSC09374.jpgDSCF2509.jpgフレームは当初ステンレスの3Dプリントでラグを製作し、特注のカーボンパイプを接着し仮組みまで行ったのですが、プリント材質起因の剛性不足が発覚したため、溶接によるアルミラグと3AL2.5Vのチタンパイプで再製作したものです。


180917-01.jpgDSC09412.jpgDSCF2608.jpg180920-01.jpgDSC09455-02.jpgワイヤリングを最大限に強調したフロント周り。使用しているケーブルアウターは日泉ケーブルから提供していただいた”ネイキッドメタルアウター”と真鍮製パイプです。大きなシフターはシマノのALFINE11用のシフターを、内部構造だけを利用して新たに製作したもの。

ハンドルはGullCraftによる手曲げアルミ溶接。パイプはかなり肉厚のものを使用しているので、剛性は十分にあります。ヘッドライト後部のアルミ製のコーンは1mmのアルミ平板からの鍛金です。朝顔タイプの真鍮ベルも製作したものです。


DSCF2591.jpg1180921-01.JPGブレーキレバーもオリジナルデザインです。バンド締めでディスクブレーキ対応のリバースレバー。


DSCF2625.jpgDXSjUfuU8AAEVwo.jpg専用にデザインした革サドル。改善点はまだ数箇所ありますが、設計時に目指した、最初から乗り心地がよく、耐久性があり、軽量な革サドルという目標に対するプロトタイプとしては、十分な役割を果たせたかと思っています。サドルだけの製作過程をまとめたTwitterMomentはこちら

シートステイはウレタンダンパーつきですが、タイヤのクッション性があまりに良すぎるので過剰装備になっているような状態。もう少し柔らかいセッティングにしたら面白いかもしれません。


DSCF2618.jpgDSCF2612.jpg必要最低限で十分な役割を果たすことを狙った前後フェンダー。GgullCraftによる叩き出しです。フェンダーステーは板厚に余裕を持たせてしっかりと剛性を出しています。


DSCF2636.jpgDSC09492.jpgボトムブラケット周り。真鍮版から切り出したクライアントロゴのついた、チェーンテンショナーつきチェーンガード。オリジナルパターンのチェーンリング。カーボンパイプで軽量化したエスゲのダブルレッグスタンドをブラケットを延長して取り付け。ペダルは三ヶ嶋のペダルをベースにプレートを手作りしています。両面フラットで足の位置が決まりやすいようにサイドストッパーをつけた昔からのデザインで、底の広いスニーカーでも踏めるように幅広に設計しています。


detail01.jpgケーブル小物各種も手作り。設計段階ではここまで詰めることができなかったので、かなり試行錯誤してまとめた部分。


detail02.jpg鍵付きのツールボックスやステーなど。


DSCF2512.jpg

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DSC09430.jpgこれまで自転車に関して考えてきたことを集大成的にまとめようと意気込んで製作を始めたわけですが、完成してみると逆に課題が大量に出てくるという、よくあるパターンになっています。しかしこういうことは作らないとわからないことなので、ひとまずは形に出来てよかったです。重量無視の作りこみに関してはかなり満足したので、次はこの設計をベースに10kgぐらいの自転車を作ってみたいと思ったりしますが、それは機会があればということで。

下記リンクに詳細な製作レポートなどもまとめてありますので、興味のある方はどうぞ。
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設計:Tomomi Sakuba
CAD:Gull Craft
製作:Tomomi Sakuba/GullCraft
Client:KINOTROPE
Special Thanks:NISSEN CABLE
Tomotoshi Kaiho
製作レポート1:自転車製作その1(Twitter Moment)
製作レポート2:自転車製作その2(Twitter Moment)


DSCF2500.jpg

DSC01999.gifシステムに囚われている時、俺は不自由だが、不自由な俺には目的がある。その目的とは、他人から頼まれた仕事をそつなくこなすことであったり、その評価であったり、給与の額であったり、オークションの落札価格であったり、レアアイテムの入手であったり、他人より速く移動することであったり、より少ないエネルギーで結果を出すことであったり、円滑なコミュニケーションを前提とした日々の安定であったりする。

システムとは人に目的を与えるものだ。目的を与えられた人はシステムの奴隷となる。そのようにして人は奴隷であることを欲するのだ。これはおそらく生存本能の一側面であり、そのようなベクトルが消え去ることはないのだろうと思う。優れたシステムとはより多くの人々を奴隷化し、主人と奴隷のわけ隔てなく、すべての人がメタレベルにおいて奴隷となることができるようなシステムのことを言うのだろう。

では、自由とは何か。自由とはシステムの内側においてシステムの外側を志向すること、その態度そのものであるように思える。つまり自由もまたシステムから生まれた目的の一形態なのだ。それは皮肉な見方をするならば、システムが健全に奴隷制度を維持するための必要な運動であるように思える。硬直した奴隷制度は永続性を獲得できないからだ。奴隷制度が恒久的に機能するためには、奴隷制度の更新が必要であり、そのためにはシステムを否定する自由が必須となる。

しかし生命には、あらかじめ約束されている絶対的な自由もある。もちろんそれは死だ。それはあきらかに、このうようなシステムの外側にある。むしろシステムを作り出した原動力であるといってもいいのかもしれない。その場所から俯瞰するならば、あらゆる目的を生み出し、あらゆる人々を奴隷化するシステムは、完全なる自由の内側で生成していることになる。それは素晴らしい救いだ。草原を渡る風の気持ち良さに嘘はないのだ。

想像力とは目の前にすでにあるものにどれだけ寄り添えるかの力だ。
想いを形にすることなどではない。目の前の像に想いを馳せる力だ。
そこに必要なのは、自己へのこだわりでは無く、自己の無化なのだ。

Ninelives-2015-12-03-14-15-48-00.jpg以前に紹介した開発名"Project Kyrill"というSmokymonkeysのゲームが"NineLives"という正式名称となって来年の1月からオープンテストが開始される(公式サイトはここ)。これまでの開発期間はなんと6年である。しかしまだテスト段階ではあるし、公開されるエリアも予定されている全9エリアの内の2エリアに過ぎない。しかしその2エリアでも、このゲームがどんなゲームかを感じさせ、また楽しむことができる、十分なボリュームを持っている。まあすでにクローズドアルファテストも行われているわけではあるけれど、この機会にちょっとレビューをしてみたいと思う。「どうせ身内のレビューでしょ」などと思わずに読んでみてくれると有難い。


worldmap2048_150516.jpgNinelivesはどんなゲームか?これを出来る限り短く説明しようと思うならば「自由な冒険が出来るRPG」これに尽きると思う。は?と思うかもしれない。そんなのどんなゲームでも当たり前じゃん、と。しかし果たしてそうだろうか?冒険とは何か?それが自由であるとはどういうことか?を考えてみて欲しい。今のゲームに経験としての"冒険”をプレイヤーに感じさせることが出来るゲームがどれだけあるのか、プレイヤーに"自由"を与えてくれるゲームがどれだけあるのか。とは言え、俺自身がそれほど最近のゲームをプレイしているわけではない。しかしその状況は容易に想像がつく、なぜならゲームをプレイしなくなった理由の一つは、ゲームから冒険と自由がなくなりつつあった時期だったからだ。


Ninelives_BIN_2015120316285066.jpgミニマップしか見ないゲームプレイ、ダメージ表記と派手なエフェクトだけのゲームプレイ、ナビゲーションに従うだけのゲームプレイ、決められたようにしか成長しないキャラクター、決まったものしか出てこない宝箱、一本道のマップ。RPGがなぜこのように進化してしまったのかは容易に想像がつく。それはつまり、可能な限りプレイヤーの手間を省き、最短距離で快感に導き、薄っぺらい承認要求を最速で満たすための進化だったわけだ。そしてそこには需要が存在していたわけだ。つまり誰もが、それが小学生であれサラリーマンであれ、とにかく忙しい人になり、そんな忙しい人々であっても、ゲームが与えてくれる過程を無視した末端の果実だけを、まるでゲーム全体がチュートリアルであるかのようにすることで、つまり従属をメインとしたプレイをさせることによって可能にしようとした結果なのだ。そんなゲームのどこに自由な冒険の入る余地があるだろうか?それはもはや冒険のふりをした牢獄のようなものだ。


Ninelives_BIN_2015120315475888.jpgしかしそんな牢獄にも需要は確かにあるわけだ。それは否定しようも無い。そこにはマーケットがあり、利益が上がっているわけだから。ただ、ゲームってそんなものだったんだろうか?と思っている人だって居るはずなのだ。なにかもっとわくわくしたり、悩んだり、嬉しかったりしなかったっけか?そう思っている人は少なからず居るはずなのだ。Ninelivesはそこに応える為にあるようなゲームだ。それを時代に逆行していると見る人も居るかもしれないが、俺はそんなことは無いと思っている。なぜなら、かつてそれを感じさせてくれた古いゲーム達は、おそらくゲームをプレイする時の過程の重要性に対して、今よりもずっと無垢で無自覚だったと思えるからだ。黎明期のビデオゲームが、ことさらに意図することなく"自由な冒険"を実現していたのは、その半分は未熟さゆえの無意識であり、その半分はアナログゲームから受け継いだ伝統であったのだと思う。しかしそこにテクノロジーの進歩が加わるごとに、出来ることの自由が加わるごとに、失われていったものが"自由な冒険"なのだ。そしてこのNinelivesというゲームは、その"自由な冒険"を、現在のテクノロジーを使って、きわめて意識的に再構築しようとしている。それこそがこのゲームの最も革新的な部分なのであると俺は思っている。


Ninelives_BIN_2015120314205360.jpgだがこれを言葉で言うのは簡単だけど、それを実現するのは容易なことではない。現代のRPGは、そのプレイ過程を見てみると、どんなに派手で要素が多くても、プレイヤーの選択肢としてはどれもがスタティックなものだ。そこには製作者の潤沢な手間が掛けられているけれど、その手間のほとんどはプレイヤーに対して何の努力も要求せずに、ただひたすらプレイヤーをアゲることに費やされている。グラフィッククオリティ、コンテンツの分量、派手で爽快感のみを重視したエフェクト、それらは無視できない要素ではあるけれど、それが必ずしも"自由な冒険"に結びつくわけではない。プレイヤーの経験が単なるチュートリアルになるのか冒険になるのかを分けるのは、コンテンツ量やグラフィッククオリティではなく、システムやフィールドが、それを可能にするように設計されているかどうかに掛かっている。そして"自由な冒険"は、何もないただのだだっ広いマップや、なんでもアリみたいなプレイヤーに都合の良い適当なシステムで実現できるわけではない。そこには適切な抑制が必要なのだ。その適切な抑制こそが、リアリティを伴った"自由な冒険"を可能にするのだ。


Ninelives_BIN_2015120314484002.jpgしかしこの適切な抑制はとにかく手間が掛かるのである。なぜならプレイヤーというのは本来、あらゆることをするものだからである。製作者的にはやって欲しくないことをするものだし、やって欲しいことをしないものなのだ。そして自由な冒険を提供するということは、この、やって欲しいことをせず、やって欲しくないことをするプレイヤーを進んで受け入れることから始まる。それを受け入れて、その上に適切な抑制を課さなければならない。つまり、まず最初にプレイヤーの欲望や好奇心があり、それを発揮するフィールドとしてゲームが機能するようにならないといけない。それが可能になって初めて、プレイヤーは本来の意味での冒険の主人公になることが出来るのだ。それは逆側から見れば、あらゆることをしてしまうプレイヤーが、自分の興味が赴くままに行動したときに、それに答える発見が無くてはいけないということだし、またその発見がゲームを台無しにしないように想定内に収めなくてはいけないということだ。これがもし一本道のプレイであるならば、そんなことは考える必要が無い。決まった戦闘回数でレベルアップさせ、決まった能力を覚えさせ、決まった報酬を与えるだけで済むのだから。


CI_map01_151206.jpgこれは冒険の最初の舞台となるCrimson Islesのマップ(上のワールドマップとともに作場製です。いずれもっと高解像度のマップがバンドルされたバージョンが有料販売されるそうなので、とりあえずこれぐらいの解像度で我慢してください)。このゲームの最大の特徴の一つはオープンワールドであることなんだけれど、この地図を見てみると、このゲームのマップがいかに作りこまれ、またあらゆるルートがプレイヤーに開かれているかの一端を見ることが出来る。作りこみのレベルで言うならば、まずほとんどの地形が何らかの意味を持たされており、プレイアブルな部分においては、ほとんどポリゴン単位で調整されていると言っても過言ではない。そして裏道やショートカット、秘密の場所や山登りなどが無数に仕込まれている。しかしそれだけの作りこみがされているにもかかわらず、その情報はプレイヤーに事前に知らされることはほとんどないと言ってよい。この点におけるこのゲームのシステムは呆れるほどに徹底している。つまり全てはプレイヤーによる発見を待っている状態に置かれているのである。


CH_map01-151206.jpgマップ、戦闘、採集物、アイテムクラフトの合成結果、さらにはクエストのストーリーにいたるまで、あらゆるものが、プレイヤーによる発見を待っている状態なのだ。秘密の道を教えてくれる人は居ないし、戦闘時に敵に与えるダメージもクリティカル以外では知るすべも無い。どんなスキルを組み合わせれば強いのかも分からないし、クラフトも作ってみるまでは何が出来るのかもわからない、ストーリーでさえ、それを深く知ろうとしないならば、その秘密を開示してくれはしないのだ。だがもちろん、ただ隠しているだけではない。プレイヤーが探究心を持ってそれらに望めば、プレイヤーを満足させるだけのリターンがちゃんと用意されているのである。そのようなプレイがプレイヤーにもたらすものは何か?それはプレイヤーの脳内に独自なゲームマップを生成し、そのマップ上に敵や採集物を配置し、戦闘の感触をプレイヤーの体感として記憶させ、さらにはそれらが統合されて、ひとつの冒険という経験をプレイヤーに与えることになるのだ。しかもその経験は、プレイヤーごとに異なるものとなるはずである。せっかちな人も、そうでない人も、コレクターも、そうでない人も、それぞれが自分の経験としてこのゲームを横断し、それぞれが求めた結果全てが、どんなに異なっていようとも正解となることが志向されているのである。


Ninelives_BIN_2015120319535286.jpgビデオゲームをプレイする際のルールは本来、与えられるものではなく、プレイヤーが自分で作るものだった。ここで言わんとしているルールとは、システムが要求するルールではなく、プレイの仕方のようなルールのことである。人それぞれに、プレイの仕方が異なり、冒険は、プレイヤー自身が独自に作ったルールによって初めて冒険となる。プレイヤーはゲームをプレイして、困って、悩んで、決定しないといけない。そして困ることも悩むことも決めることも、それが苦ではなく、やりたいことの中に納まらないといけない。そのひとりひとりの、困惑や思考や見切りが成されて初めて、プレイヤーはその世界に入っていくことができる。この単純な事実をここまで真摯に追及したゲームを俺は他に知らない。そしてこのように、プレイヤーを単なる消費者に貶めることなく、世界の主人公であることに気づかせてくれるゲームの重要性はどんなに強調しても強調しすぎることは無い。本来ゲームというのはそういうものであり、それこそがゲームの特権であったはずなのだ。


Ninelives_BIN_2015120400011383.jpgNinelives_BIN_2015120318263554.jpgNinelives_BIN_2015120400444144.jpgNinelives_BIN_2015120318044821.jpgNinelives_BIN_2015120323063952.jpgあまり細かいシステムの紹介などはしなかったけれど、その辺は公式サイトを見てもらうことにして、戦闘については少しだけ紹介しておこう。


Ninelives_BIN_2015120401371323.jpgNinelives_BIN_2015120401411298.jpgこれは次回のオープンテストで実装される新クラスMageの戦闘シーンで、しかもおんなじスキルばっかりで恐縮だけれど、まあそれは置いといて、このゲームのアクション性とダイナミックな戦闘は、外の景色の静かなスクリーンショットとは裏腹に、かなりのもんですよ、ってところをぜひ伝えておきたい。というよりも、作者的にはこの辺が最も力の入っている部分だったりするわけだが。俺みたいな反射神経の鈍ったおっさんがプレイしても、これだけ十分かつ大胆に戦うことが出来るし、アクション得意な人だったら、さらに大胆な爽快感のあるプレイが可能になるように設計されているのである。この辺のキャラクタービルドのバリエーションも特筆すべき点で、アクションが苦手な人は苦手なりに、得意な人は得意なりに、偏った趣味ビルドを楽しみたい人はそのように、とにかく懐が深いのである。


Ninelives_BIN_2015120318292346.jpgNinelives_BIN_2015120322305756.jpgしかしこの懐の深さも、このゲームがもたらす無限のバリエーションをもつランダムアイテムとスキルの多様性を考えるとき、そのバランスを保つことが、いかに困難なことかを忘れるわけにはいかない。つまりここでも適切な抑制が重要なのだ。だが現在のところ、このゲームはその困難な目標を実現しつつあるように思える。もちろん今後、多数のプレイヤーが参加することによって、更なるバランス調整が必要になることは明らかであるけれど、おそらく彼等ならそれをやってのけるだろう。


Ninelives_BIN_2015120314360861.jpgまあ長々と書いたけれど、とにかく言いたいことは一つだ。この類まれな自由な冒険を出来る限り多くの人に経験してもらいたいということだ。しかもこのゲーム、タダなんですぜ?もちろん課金することで倉庫増やしたりは出来るんだけど、課金しないとクリアできないとか、強くなれないとかといったことは、一切しないと明言している。あっぱれ。


Ninelives_BIN_2015120317504975.jpg

Ninelives - Free Online RPG|Smokymonkeys

振動をコントローラビリティの支配下に置こうとするならば、軽量化が最大の武器になる。振動を抹消しようとするならば重量化が最大の武器になる。それが音であろうが建築であろうが乗り物であろうがその法則は変わらない。つまり、目に見える、あるいは感覚の範囲内にある振動と共にあるときには、人は自分の身体を振動に共鳴させ、感覚の範囲外に現象を追いやろうとして振動を消そうとするときには、人は自分の身体を沈静化する。しかし、目に見えない沈静と目に見える共振に優劣があるわけではない。なぜなら、そのどちらも振動の範囲内にあるからだ。優劣は便宜的なものに過ぎない。ただし、今何が必要とされているのかは別問題だ。今自分が必要としている振動に身を任せる技術こそが重要なのだ。

エンジニアリングがアートになるためには
エンジニアリングは粗暴すぎる

アートがエンジニアリングになるためには
アートは空疎すぎる

その間にはデザインがいるかもしれないが
デザインは幼すぎる

それらを結ぶのはおそらく
ヒューマニズムでも哲学でも科学でも感情でもない

生命の躍動を伴った身体性だけが
それらの要素を溶かし込むことができるのだろう

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