[OUTSIDE]

nipples_1.jpg

nipples #1 ©Kenji Urata

家にとても丁寧にパッケージングされた三枚の銅版画が送られてきた。
作者は浦田健二
でもウチではKenくんで通っているので、Kenくんと呼ぶ。

彼はまだとても若くて、ウチの息子の一つ下だ。そもそも息子がまだインターネットを始めたばかりの頃に、うまくて面白い子がいるといって教えてもらったのがKenくんなのだ。お絵かき掲示板の存在を知ったのもその頃で、Kenくんのサイトにはお絵かき掲示板で描かれたとは思えないような、濃密な描きこみの絵がアップされていて、このツールでこんなに描けるのかととても驚いた。もし自分に息子が居なくて、そしてKenくんが居なかったら、自分がビビリながらもお絵かき掲示板を触るようなことがあっただろうかと考えると相当怪しい。それが2001年とかその頃の話。なんだか大昔みたいな気がするな。

そのKen君から送られてきた銅版画の一枚がこれ。あとの二枚もここで見ることが出来る。この作品をmixiの日記で初めて見たときに、その触覚的表現の正確さと誠実さに惚れて送ってもらったのだ。

と、ここまで書いて、この絵が自分にとってどんな風に魅力的かということを書くつもりだったんだけど、まるで批評家みたいな言葉しか思いつかなくて言葉に詰まった。そんなことが言いたいわけじゃない。つまり嬉しくてここに彼の絵を貼りたくなったということで良しということなんだろう。

081014.jpgきのう、DVDでケン・ラッセルのサロメを見た。この落書きはそのイメージ。まあ、映画自体は良くも悪くもケン・ラッセルらしい仕上がり。とても美しいけど映画作品としてはそれほど素晴らしくはない。ただ、ほぼ全編が劇中劇でその舞台自体の人工性がとても好みだった。

嘘が嘘として誰が見てもわかるのにそれが魅力的というのは、なんともひねくれているという気もするが、子供の時からそういうものにはどうしても惹かれてしまう。本物と間違うようなリアリティよりも魅力的な嘘の方が楽しく見える。これを真剣に考えるととんでもないことになりそうなので止めとくけど、ちょっと前に見たメリエスの月世界旅行もまた嘘の魅力にあふれていた。

lrg_radio_robots.jpgModern Mechanix
フィクションとノンフィクションの区別が曖昧だった時代の発明や空想を見るのは楽しい。まだあまり深くまでは見ていないけど、このブログは情報量がかなり充実している。後で探検しよう。ついでに似たような系列のサイトをいくつか。

The Steampunk Workshop

ここはマニアテイストが強い。レベルはともかく、自分たちで作っちゃっているところは好感度高い。

The Automata / Automaton Blog
オートマタ関連のネタを集めているサイト。しかしツボにはまるブツにはなかなか出会えない。この手のはネタ自体が少なかったりするんだよね。

The Museum of RetroTechnology
以前にも紹介したサイト。いまだに最強か。

「崖の上のポニョ」を観たんだけど、言葉が全体を台無しにしていると思った。アニメートされた映像は素晴らしいところが沢山あるのに、というより、見たことないようなレベルで圧倒的にアニメートされていてるのに、それを言葉や物語がとても陳腐に見せてしまっていてすごく残念だった。これは「もののけ姫」以降の宮崎アニメに対してずっと感じていることでもある。映像と言葉の間にどこか決定的な亀裂を感じる。

でも他人の作品をダシに使うのはフェアなやり方じゃないな。しかし連鎖なんてそんな風に起きるものでもあるし…まあいいや。

言葉は、言葉自体が時間軸を持っている。絵だって時間軸を持っているけど、ここではそれは無視。で、言葉を表現にするということは、意味だけでなく、この時間軸を含めて表現のうちに取り込むということだ。そうなって初めて言葉は表現になり得る。なぜなら言葉は、意味である前に音だからだ。つまり、音楽としての言葉が美しくなかったら、それは表現としては成り立っていないということだ。そして音楽と言ったけど、例えば小説にも音楽はある。それは文体や、流れる密度のメリハリに現れる。詩に比べれば音楽的純粋さは劣るにしろ、それもで紛れもなく音楽なんだと思う。もちろん音楽性のかけらも無いようなエンターテインメント文学がむさぼり読まれていたりもするわけだけど、それでもなお言語表現は音楽的時間軸の内にあるんだと思う。


これは今までにも何度か書いていることだけど、言葉が嫌いなのだ。全部の言葉が嫌いなわけじゃなく、音楽的でない言葉が嫌いなのだ。表現物かどうかに関わらず。

自分にとって美しいということは、身体的であるということだ。グロいとかエロいとか残酷とか優しいとか下品とか上品とかゴージャスとか清楚とか貧相とかリッチとか重いとか軽いとか冗長とかシンプルとかそんなことは美しさにとってどうだっていいのだ。どんな風であっても構わないのだ。身体的でありさえすれば。だからここで言っている「音楽的」であるということの意味は音楽のようであるという意味ではなく、音楽の身体性を指したいと思っているわけだ。

音楽の身体性なんて言うと、また小難しく聞こえるかもしれないけど、要は歌った時や踊った時に、音楽という表現物をガイドとして、潜るなり登るなり移動するなり出来るかどうかということだ。そこで、潜ることも踊ることも移動することも出来ずに、脳みその一部分ばかりが刺激されるようなものはつまらないことだと思うのだ。

意味は人を停滞させる。だから意味自体が流動的でなくてはいけないんだと思う。意味から始めちゃいけないんだと思う。なぜなら意味は後から生まれた道具に過ぎないからなんだろう。

kurogane.jpg怪獣の設定用に昔の車画像を探していて見つけたサイト。

「昭和30年代の車」

乗用車以外の大型トラックなんかの画像もいっぱいあって嬉しくなってしまいました。運転席やエンジンの画像もとてもありがたい。乗用車やバスはマニア画像が沢山あるけど、トラックとかは難しかったりするんだよね。このへんこのへんにたくさん資料があります。

いまさらだけど周防正行監督の「それでもボクはやってない」を見た。そんで掴まれまくってしまった。

気持ちのどっかで、面白いんだろうし、まじめに作ってあるんだろうし、見て損はないんだろうし、でも別に、って思っていた映画だった。だいたい裁判ネタとか、権力絡みとかは苦手なのだ。なぜなら、舞台として、あるいは小道具として利用されるだけで、それらの嘘くささが棚上げされるから。でもこの映画は違った。

とっても偏見に満ちているかもしれない第一の感想は「社会は作文で出来ているんだな」ということだ。それがネチネチと余すところ無く描かれている。素晴らしすぎて嫌になりまくる。丁寧すぎて開いた口がふさがらなくなる。。

社会はどこまでいっても作文だ。ヤクザのハッタリでも、先生の講義でも、法律でも、友達同士の会話でも、愛の囁きでも、そしてもちろん裁判官の判決でも、権力(暴力、もしくは仮想的借り物サイドの力)を持つように編集された言葉は、その時点で全て作文になってしまうのだ。そしてその作文は論理的でなくてはならない。一体いつからそんなに論理的であることが力を持ったのか不思議でしょうがないんだけど、つうか詩的な法廷とか、歌うヤクザとか、勝手につぶやくだけの先生とか、参照するに値しないぐらい頻繁に書き換えられ続ける法律とか、まあ、そんなものは役に立たないにしろ、いやむしろ、役に立たないものであって欲しいんだが、とんでもないぜ、いかに社会が作文かを見せてやるぜ、って心意気を感じたのである。

気持ちを動かされた強度が最初の20分ぐらいから最後までずっと続いていた。何が自分を掴んだのかよくはわからないし、他の人がそんな風になるとはあまり思えないんだけど、少なくともその理由には、作文に対する怒りだけじゃなく、なぜ作文に至るのか、なぜ作文は現実に虚構を再生産するのかという視点がずっと寄り添っていたからだろうと思う。とてもいい映画だった。

080818.jpgこのツール、Flashを使ったPhotoshopみたいなものなんだけど、かなり凄い。

Pixlr

今までにもこの手のFlashお絵かきツール(というよりこれは画像編集ツールだけど)はあったけど、ここまでツールに徹しているものって見たことない。こういうものがあれば、ネットへ繋がっているだけで、画像編集ソフトなんか持っていなくても、ホテルのロビーのパソコンだろうが、携帯電話からだろうが(現状では動かないにせよ)、誰でもどこからでも絵を描いたり画像の編集が出来るわけでしょ。ウチの劣悪なネット環境とPen4のCPUじゃ、かなりもっさりした感じはあるものの、それでも充分未来を感じるなぁ。最新環境だともっとサクサク動くんだろうか?とりあえずグラデーションツールと筆圧感知対応希望。

......... Older »

Powered by Movable Type

Profile

Archive

Comments

Feeds