review

「崖の上のポニョ」を観たんだけど、言葉が全体を台無しにしていると思った。アニメートされた映像は素晴らしいところが沢山あるのに、というより、見たことないようなレベルで圧倒的にアニメートされていてるのに、それを言葉や物語がとても陳腐に見せてしまっていてすごく残念だった。これは「もののけ姫」以降の宮崎アニメに対してずっと感じていることでもある。映像と言葉の間にどこか決定的な亀裂を感じる。

でも他人の作品をダシに使うのはフェアなやり方じゃないな。しかし連鎖なんてそんな風に起きるものでもあるし…まあいいや。

言葉は、言葉自体が時間軸を持っている。絵だって時間軸を持っているけど、ここではそれは無視。で、言葉を表現にするということは、意味だけでなく、この時間軸を含めて表現のうちに取り込むということだ。そうなって初めて言葉は表現になり得る。なぜなら言葉は、意味である前に音だからだ。つまり、音楽としての言葉が美しくなかったら、それは表現としては成り立っていないということだ。そして音楽と言ったけど、例えば小説にも音楽はある。それは文体や、流れる密度のメリハリに現れる。詩に比べれば音楽的純粋さは劣るにしろ、それもで紛れもなく音楽なんだと思う。もちろん音楽性のかけらも無いようなエンターテインメント文学がむさぼり読まれていたりもするわけだけど、それでもなお言語表現は音楽的時間軸の内にあるんだと思う。


これは今までにも何度か書いていることだけど、言葉が嫌いなのだ。全部の言葉が嫌いなわけじゃなく、音楽的でない言葉が嫌いなのだ。表現物かどうかに関わらず。

自分にとって美しいということは、身体的であるということだ。グロいとかエロいとか残酷とか優しいとか下品とか上品とかゴージャスとか清楚とか貧相とかリッチとか重いとか軽いとか冗長とかシンプルとかそんなことは美しさにとってどうだっていいのだ。どんな風であっても構わないのだ。身体的でありさえすれば。だからここで言っている「音楽的」であるということの意味は音楽のようであるという意味ではなく、音楽の身体性を指したいと思っているわけだ。

音楽の身体性なんて言うと、また小難しく聞こえるかもしれないけど、要は歌った時や踊った時に、音楽という表現物をガイドとして、潜るなり登るなり移動するなり出来るかどうかということだ。そこで、潜ることも踊ることも移動することも出来ずに、脳みその一部分ばかりが刺激されるようなものはつまらないことだと思うのだ。

意味は人を停滞させる。だから意味自体が流動的でなくてはいけないんだと思う。意味から始めちゃいけないんだと思う。なぜなら意味は後から生まれた道具に過ぎないからなんだろう。

「ハウルの動く城」を観てきた。正直、作品としては破綻していると思ったけど、あれだけエンターテインメントの世界と文法で渡り合ってきた人が、これだけ駄目な作り方をするしかないようなモチーフに向き合うという事実には希望が持てた。皮肉を言っているようにしか読めないと思うけど、皮肉のつもりじゃない。

話がまったく展開できていない。カットのつなぎが唐突過ぎる。その結果、観客はほっぽり出される。でも、それだっていいじゃないかと思う。ここで、「これをステップにして次の段階にいけるなら」てなことを言うのが批評家的な立場なわけだけど、そうも思えない。むしろこれで終わりでもいいじゃないかと思う。そういう意味ではすごく正直だ。実際のところはどうだか分からない。今までの作品とはかかわっている比重が違うのかもしれないし。しかし、作品なんてそんなものでもあるのだ。観客が作家に対して優しくある必要なんてないわけだから、たとえば同じことをもう一度やったらかなり致命的だろう。それでもいいのだ。

とんちんかんな感想だと思うかもしれないけど、なぜかとても私小説的な印象を受けた。これまでの作品の中では外側に置かれていた「権力」とか「女」とか「死」とかが内側に持ってこられたような印象だ。そういうのは今までやってきたような文法では表現できないだろうと思う。でもそれを通してしまっている。「もののけ姫」のような頭でっかちな破綻ではない。弱さが前面に出ている。その弱さは時代が要請した弱さだ。そこまで正直にしなくてもいいのにと思う正直さ。そういうのって嫌いじゃない。

この作品にはカタルシスが無い。「なんかなぁ」とブツブツいいながら劇場を出た人がたくさんいるだろう。映画を見る前に市役所に寄ったのだけど、市役所の廊下には無名の日曜画家の絵がたくさん飾られていた。どれも弱くて上手そうに見える安易な技法に支えられた絵だったけど、そんなところにだって微かな光は見えたりする。そしてその光は美しい。ただ弱いだけで。濁っているだけで。つまり、フィルターがかかっているのだ。フィルターを取り除くことが作家のすべきことだとすれば、この映画は結果的にはあえてフィルターをかけたような映画だ。これまで取り払ってきたようなフィルターを無意味にするような方に向いている。そりゃあ上手く行くわけ無いだろう。でもそんなことだって必要なんだよ。生きてるわけだしね。

この何日かここをサボっていたのは全部こいつのせいです。80時間もかかった。うげぇ??。

ゲームは初期の3本の世界観を意識したつくりで、システムも割とシンプルで好感を持った。ファミコンのドラクエで育った人には喜ばれるんじゃないかな。しかしそれにしても時間掛かりすぎだ。急いでやっても60時間ぐらい掛かるらしい。内容的なボリュームで言えば、これが3Dじゃなかったらたぶん三分の二ぐらいの時間で終わると思う。小説だったら10冊ぐらい読めるよ。映画だったら40本。

でも延々と○ぼたんや△ボタンを押し続けていて思ったのは、これが小説だろうが映画だろうがテレビだろうがネットだろうが絵だろうが演劇だろうが、受けて側の行為としては何でも同じなんだということだ。脳だけが働いている状態。夢のような。10年ぐらいそのほとんどをテレビの前に座ってすごしている人なんてたくさんいるわけだけど、同じように活字を読んでいる人やネットをやっている人が居て、そんなことを思ったら急に怖くなった。ちょっと前に覗きのことを書いたけど、まさしく覗き続けているんだ。前に書いたときは覗きの関係性について書いたけど、今回は覗きってのは体が疎外されている状態において成立するものなんだと思った。経験は常に覗き穴の向こう側で起こる。たとえインタラクティブと言われるようなものであっても、アクションは「向こう側」で起きなければならないのだ。覗きの是非を問うているわけではなく、その事実から学べることってたくさんあるはずだ。

内田春菊の「ファザーファッカー」を読んだ。静子という女の子が16歳で家出するまでを書いた話だけど、これは怒りと憎しみと生きなければいけないという情熱だけで書かれた本だと思った。小説という形式の作品としては決し褒められたような出来じゃない。何の構成もなく生のまんま放り出したような作品だ。文体も稚拙だし、作品として成立させようという意思も希薄に感じられる。でもこの作品が持っているある暴力みたいなものは誰も否定できないと思う。おかげでとても暗い気持ちになった。これはたぶん褒めているんだと思う。

話はとにかく残酷で正直であっけない。それは正当な恨み言だ。そしていくら小説として出来が悪いといったところで、この作品に共感し、救われたり希望を見たりした人はたくさんいただろうと思う。それぐらいここに描かれている不条理な残酷さは程度の差こそあれどこにでも転がっているものだ。

こういう話が共感を呼ぶような、関係性の不毛で残酷な愚かさはホントになくなって欲しいと思う。でも、自分だってその愚かな関係性を再生産していないといえるんだろうか。言えない。絶対言えない。だってあまりに自分が恥ずかしくて胸を潰したくなるようなことなんていまだにあるよ。そういう一番属したくない愚かさが目を背けたくなるぐらい生のままに置いてある。そのように宣言をする必要があったからだ。そしてその宣言はどんな形であれ誰もが一度はしなくてはならない宣言なのだ。

湯本香樹実という人の書いた「ポプラの秋」という本を読んだ。素直できれいな文章を書く人だなぁと思った。このところ吉本ばななとかその他にも何人かの女の人の書いた本を読んだんだけど、この人の文章には焦りがなくて好感を持った。人のことを言えたようなもんじゃないけど、焦っている文章は駄目だ。絵で焦っているのも駄目だけど、文章で焦っているのは時間が関わってくるものだけに始末が悪い。やはり文章には「語り」とか「歌」の部分があって、それはとても重要なのだ。焦っていると時間が台無しになる。これは映画にも言えるな。歌として映画を作れる監督って、実はそれが一番大事なのに、実現できる人ってとても少ない。日本映画を見ているとそれで悲しくなることがとても多いので残念だ。焦っているんだよなぁ。

で、「ポプラの秋」、いいお話でした。ただのいいお話としてではなくてちゃんと終わらせている。印象としては小品という感じだけど、読んだ後に散歩に行きたいような気持ちになる。

10年ぶりぐらいに「気狂いピエロ」を見た。とても好きな映画で、最初に見たときにはこれより先にはいけないだろうなってぐらいに衝撃的だった。

でも、今回は普通に美しい映画だった。そんな風に思えた。幼く、シンプルだった。それはどちらも褒め言葉だけど、それ以上ではなかった。

物語がどこにも行かないということに、いつも苛立ちを感じていた。それは、つまり、どこにも行くことができないからだ。そしてそれは、どこにも行ってはいないからだ。行けないことを表明するのは勇気がいるし、その正直さと願望の強さにおいて美しいと思う。でも、本気でどこにも行けないと思っていたら、その未完の戦いさえも生まれはしない。そして、当たり前ではあるけど、恐ろしいことではあるけど、未完の戦いをもう一度繰り返すことはできないのだ。

どこかに行くことが成功した物語りは、それ自体が表現そのものの構造と矛盾しているのかもしれない。それは正しいかもしれない。かといってやめることも繰り返すこともできない。そのことを忘れた場所からは何も生まれないと思う。

ザ・ピーナッツ(モスラの双子ねーちゃん)はカッコいいと思った。ものすごい久しぶりにアルバムを聴いたんだけど、あまりに抜けてるんで感動した。ツッコミどころが全くない。エンターテイナーなんだ。徹底的に。テクノでもありポップでもあり演歌でもある。叙情的でもあり大嘘つきでもあり感動的でもある。もちろんガキの頃に馴染んでいた贔屓目もあると思う。でもそれだけじゃない。私小説的な個人の生き様とかホンモノという名の嘘臭いリアリティとか、そんなものとはまったく対局にいるような潔さがここにはある。所詮ただの歌じゃん、夢を見させないでどうするのよ!って強さがある。ピチカートファイブとかサザンとかみんなそういうところを目指しているのかもしれないけど、なんつうか格が違う。だってマジなんだもん。嘘に対してマジになるのはいつの時代でもカッコいい。自分はホンモノかもと思った先から間違うものだ。こだわれる個性なんてせこい。個性なんてものがあるとすれば、こだわれないところにしかないだろって気がする。

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