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リアリティが個人的なものだということにずっと納得していなかった。バカみたいだけど、本当のことだ。今でもそれを納得できているかというと怪しいぐらいなのだ。ほんとに俺はバカなんじゃないかと思う。いや、ほんとにバカなんだろうけど。

だって、こんなに嬉しいのに、こんなにワクワクするのに、こんなに衝撃的なのに、こんなに美しいのに、こんなに真摯なのに、なぜそれが人に伝わらないわけがあろうかと、ずっと思ってきたのだ。これほどのものが他人に伝わらないなんて、それは他人が悪いんであって、そいつがどうかしているだけなんだと思っていたのだった。ああ、本当に俺はバカだった。

でも実際は他人はバカじゃないらしい。バカなのは俺だけだ。どんなに美しいものであれ、どんなにワクワクするものであれ、それはあくまでも俺の個人的な経験であって、なんの普遍性も持っていないのだ。だが、ここで折れたままで居る訳には行かないのも事実だ。それはどういうことかと言えば、俺のこのリアリティは、どんなに少なく見積もっても、俺にとってはリアルであるという事実が残るからだ。そしてそれは、俺にとってはリアルであるという事の以下でも以上でもないということだ。

ある時には共感が得られるだろう。ある時には無視されるだろう。しかしどんな反応があろうとも、それは良くて勘違い、悪くすれば戦いのネタにされるのがせいぜいだ。だから俺のワクワクは俺だけのものだ、そうしておくのだ。そして1人で作るか叫ぶのだ。自分のためでさえなく。このワクワクの為に。

風評被害と風評利益を区別するべきではない。前者は緊急時に使われるが、後者はそれに覆い尽くされるぐらい日常的に使われている。世界は風評で動いている。少なくとも通信とコミュニケーションの遠隔操作化が実現した世界においては。

理解できないことは書くべきではないと思っているが、これだけはどうにも見過ごせないので書いておく。福島は非常事態であると同時に異常事態となっている。前者はすでに不可避的に進行しており、とにかく冷却するしか手が無く、格納容器内の水素爆発が起きないことを祈るしかない状況であるが、後者はあまりにも愚かな人為性によって進行している。戦争を経験したことは無いが、戦争時における国家の振る舞いはこうであったのかと憤りが隠せない。そしてそれを取り巻く犯罪的なまでの無知と鈍さと醜い滑稽さが、この一刻を争う事態を悪化させ続けている。線量の高い地域に住む福島の母子は全員疎開させるべきだ。国の言うことなんか信じてはダメだ。子供にとっての年間20msvというのはそういう値だ。しかもその値はもっとも危険であった時期を計算に入れておらず、さらにはこれまでの内部被爆をも無視している(お粗末な釈明はあったが、もっとも大きいと思われる食料からの内部被爆を計算に入れないってどういうこと?)。どこをどう判断すればそんな基準が導き出されるのか正気を疑う。国がだめならせめて自治体レベルで動くことは出来ないのか(神奈川は受け入れを表明したようだが東京や大阪は動かないのか?)、それさえもダメなら個人でもと思うのに、その個人をも攻撃してしまうような学校や共同体が形成されているとは、やるせなさ過ぎる。校庭に体育座りとか、ペットボトルを持たせないとか、どうかしてるとしか思えない。小佐古敏荘氏の辞任会見を見た福島県の校長が政府の言っている事を信じてきたので動揺を隠せないとか、アホかと思う。今守らなくてはいけないものは、ルールではない、国家の指示ではない、共同体の和ではない、目の前の命だ。そのために共同体も国家もルールも従わなくてはならない。

人は共感を求めている。
強烈に共感を求めている。
共感を求めるためのツールとしてWebがどれだけ利用されているかを考えると気が遠くなる。
だけど、
共感を求めるのは構わないにしても、
何に対して共感を求めるかが物凄く気になる。
共感の快感のために共感を求めるなら、それはファシズムの入り口だ。
孤独の渇きが思考を停止させる。
疎外の恐怖が人を狂わせる。
それらを忘れるためにではなく、
それらに向き合うためにこそ共感の快感を用いるべきだと思うのだ。

どこまで行っても、言葉は誰かが発したことでしかないのだから、そんなの自分ではない他人が発したことであるなら、どんな表現であれ放っておけばいいじゃん、って考え方と、

どんな言葉であれ、誰が言ったかにかかわらず、どんな影響を他人に与えるかは予測できないのであるから、出来る限り慎重であるべきだ、って二つの立場の間で、人はいつも揺れている。

そして、基本的に自分は前者だ。
だがそんな自分でも、放っておけないで不平を言いたくなったりもする。でも前者であり続けるためには全ての努力を注ぎ込んでも惜しくないと思う。なぜなら、自分自身が前者の立場で無いと死んでしまうからだ。生きているのが辛くなるからだ。

ではそれが、自分が発した言葉であった場合にはどうか。その言葉は、同じように放っておけない人から攻撃を受けるだろう。その言葉は無視できる人から無視されるだろう。しかしそうのようにしてしか生きていけないならば、その状況を受け入れればいいだけの話だ。孤独と賞賛は矛盾しないし、疎外と情熱の目的地も矛盾しない。つまりストレスを超えた孤独の僻地に慣れればいいだけの話だ。

追記:
愛には慣れていないなぁ、とつくづく思う。
愛で生きている人は、こんなことは簡単に飛び越えるのかもしれない。それでも僻地の感覚は残るだろうけど。その僻地に生息するリアリティが、可愛いやカッコイイやセクシャリティによって維持されているとすれば、それらを無視することはとんでもない暴力だということになるな。

追記2:
愛の定義は男が女に向けた幻想に染まっている。もちろんそれを超えた宗教的共同幻想にも染まりまくっている。別に違う単語を当てはめればいいとも思わないけど、せめて男愛と女愛は分けたほうがいいんじゃないかと思うな。きっと中学生男子がスッキリすること間違いなし。

人が人に向けた欲望はマシンガンのように発射されるけど、お互いに相手に当たることはほとんどない。照準がぶっ壊れまくっているから、至近距離でもハズレまくりだ。弾道は相手の頭上を跳び越し、遥か彼方に着地するばかり。その戦場に飛び交う弾丸の間を、涼しい風やシジミチョウや時間が横切っていく。すると空中を高速で移動していた弾丸は一瞬で勢いを失いその場で地に落ちる。向き合った人の間にあるのは涼しい風やシジミチョウや時間だけだ。

だけど

人は相手が放ったその弾丸を自らの意思で飲み込んだりもする。とても強力な掃除機のように。そんなに高速で移動する弾丸をどうやって飲み込むことが出来るのかは、いまだに明らかにされていない。よほど強力な掃除機なのだ。飲み込まれた弾丸は戦場から隔離された深い深い沼に放たれる。そしてその弾丸は大きな魚に成長するのだ。魚となった弾丸は今や魚であるのだから、弾丸よりも遅いが自由に動くことが出来る。その動きは誰にも予測できない。それを飼っている本人にさえ。

しかしいずれ魚は大きくなりすぎる

大きくなりすぎた魚は既に魚ではなく川だ。怒れる川だ。怒れる川は流れ出るのだ。とんでもないエネルギーで、エネルギーそのものとなって。いまや人はただの水門だ。壊れた水門だ。思いっきり吐き出すのだ。川となった魚を。魚になった弾丸を。そうすればまた涼しい風が吹いてくる。そこでマシンガンに戻ることがあろうともそれはそれでいいではないか。

支持政党や宗教や理念の違いが人を隔てるのを個人レベルに降ろすことが出来ればいいのにといつも思うのに、それが出来た試しは無い。なぜならその違いは、人が個人であることから離れた場所であらかじめ選択されているからであり、そこにしか存在しない隔たりであるにもかかわらず、それぞれの日常は、そのような個人から隔たった場所で営まれているからなのだ。それはつまり選択の基準が、存在しない過去と未来に依存しているということだ。いつから日常は今を無視するようになったんだろう。日常とは今に振り回されることではなかったのか。

ネット上にはよく、芸能人のがっかり画像とか、会ってみたらがっかりだった体験とかがアップされてたりするけど、それってどんだけ自分の幻想を投影して夢持ってたんだよ、って事ではある。

ここで、自分を棚に上げてよくそんな夢を見てられるもんだ、ってツッコミはしたくないし、どうでもいい。だって人は夢見るもんなんだし、夢見ることは誰にも規制なんて出来やしないし、大いに見るべきなんだとも思うし。

言いたいことはがっかりする事こそが大事なんだということだ。裏切られたとか、そんな人だと思って無かったとか、そういうことは、まあ、言ってもいいけど、ちゃんと自分の中で決着をつけるように、がっかりした後で収めないといけない。自分ひとりで。それが出来ないと、とっても不幸になってしまう。私はがっかりするような人に囲まれて、どんだけ不幸なんだとか、私じゃない人はなんでみんながっかりしない人に囲まれているのにとか、つまりはありもしないものに嫉妬し続ける時間が待っているだけなのだ。でも実際にはがっかりした分だけ自分に向き合うことが出来るし、がっかりした分だけ人が許せるようになる。そういうものだとしか思えない。

で、こんなにこんなにくだらないことでも、まだがっかりしなきゃいけないのかよ、ってことがいくらでも沸いてくるのだ。絶望的なぐらい。それでも収め続けるのだ。生きてる限りは。それは悪くないよ。つまらなくもないし、悲しくもないし、寂しくもない。それは俺が行きたい場所に繋がっているように見えるもの。

ネット上で失礼とかどうでもいいな
だって失礼もクソもないじゃん

挨拶は好きだけど
挨拶ってのは実体に向かってするものだ
言葉に対して挨拶するなんておかしい

つまり
ネット上では
言葉や引用や画像や音声や動画が
人格のように扱われているわけだ

不十分な情報に対して人格を与えるのは間違っている

人格なんて

その人の歩き方とか
困った時の言葉の淀みとか
上手く笑えない口の端とか
重心の扱いの上手い下手とか
歪んだり真っ直ぐだったりする骨格とか
運動が苦手だったり料理が苦手だったり片付けが苦手だったり
じゃなければ得意だったり

するような全部
でしかない

挨拶はそれらを含んだ全部に対して行われるのだ
例えば今日の朝の清掃局おじさんに対して

人は言葉やなんやから
あらゆる想像力を働かせる
その結果として
言葉に挨拶する
という結果が導き出される

でも
これほどまでに分断化された情報の入手が手軽になった時代は無く
それゆえの言葉への挨拶のようにしか見えないのだ
そこには混乱しか見えない

俺のコメント欄への返信がそっけないのはそういうわけだ

悲しみや寂しさや距離を埋めるための挨拶よりも
出会ったしまった事実を
良くも悪くも何とかする為の挨拶の方が一億倍も素晴らしい

ネットをやると思うこと

大したことじゃないと思っていたことが
重大事に感じてしまう

畏れ多いと思っていたことが
大したことないことだと思える

どっちも被害妄想

誰も俺のことなんて見てないし
俺も誰も見ていない

ある意味とっても公平な天秤として機能しているってことだ
それこそが必要なことだ

好きか嫌いか
ってことは

今この時に

好きか嫌いか
ってことなんだな

今嫌いでも
明日好きかもしれない

今好きでも
明日嫌いかもしれない

そんな風に身を任せることは
楽なことなんだな
きっと

そんな風に場所を移動するんだよな
僕と僕じゃない誰もが

たぶん
好きってことはそこに住むってことだな

たぶん
嫌いってことはそこから離れるってことだな

だったら
嫌われても
好かれても

どっちも悪くないな

僕が嫌われたり
僕が好かれたり
するように

僕は好いたり
僕は嫌ったり

しているだけだからな

好きになることは勝手だな
嫌いになることも勝手だな

勝手なことを責めることも
勝手なことを責められることも

したくないな

したくないそのために

することをしなくちゃいけないな

そうしないと出来ないな

好きになることも
嫌いになることも

他人と関わるのは嬉しい
でもそれは
目の前にいる人が真っ直ぐ自分と向き合ってくれている時だけだ

そうでない時は
他人と関わるのは悲しい

真っ直ぐ向き合ってくれていなくても
真っ直ぐ向き合うような自分でいたいと思う

そんな風にしていないと
真っ直ぐ向きあってくれる人が現れたときに
真っ直ぐ向き合うことが出来ないからだ

だから真っ直ぐ向き合う人はいつも悲しんでいて
いつも喜んでいる

切なくない喜びなんて想像できない

きのう書いたタンブラーネタの続き。

タンブラーの優れている点は3Clickぐらいで後は何もせずに情報をネット上にコピーできることだ。この、実際に体を動かす負担が少ないということが一つには重要なのだ。つまりキーを100回叩くことよりも、キーを10回叩くだけで済めばそれだけ思考を停止することが出来るということだ。それが3Clickで済むということは、ほとんど何も考えないで済むということだ。済ませることが出来るのだ。1Clickならなお良い。そういう価値観の世界だ。

そしてもう一つ、それはリブログだ。これは同じようにタンブラーを利用している人のポストを自分のタンブラーに再投稿する機能なんだけど、この壁をまたいだ途端にさらに何も考えないということが加速する。きのうの日記でタンブラーは搾取ツールだと書いたけど、ここまで来た時に起きることは、搾取ツールであるにもかかわらず、リブログしている自分の利益なんてものはどうでも良くなって、身を任せているだけになってくる。搾取は起きているのに、どこかに淀むことなくただ通り過ぎ続けることになり、何か別の意志の奴隷になっているような気がしてくるのだ。

ハイ、俺の好きな奴隷理論来ました。

これを退化だと批判するのは簡単。
でも何も考えないということは、言語化していないというだけのことであって、体は自由になっていたりもする。まるで散歩している時に体の赴くままに、興味の赴くままにその行き先が変化すように。そのように体の思考速度は言語による思考速度よりも遥かに速い。

そしてネット上のテクノロジーのベクトルの一つは、明らかにそのような低負荷の身体性に向かっているんだと思う。インタラクティブであるにもかかわらず、地球、じゃなくて身体に優しいテクノロジー。

でも身体に優しいテクノロジーは身体をダメにするテクノロジーでもある。だって使われないものは退化するしかないんだから、優しければ優しいほど失われ退化してていくわけだ。

もう一つのベクトルは近代以降の価値観の解体に向かっている。価値観というより権力か。タンブラーは普通の人が感じる罪悪感を軽減するのだ。なんでこれをやっちゃいけないの?やってもいいんだよね?というそこに食い込んでくるのだ。

タンブラーなんてただのお気軽リンクツールに過ぎない。なのに、その過度にお気軽になったリンクツールはどれだけの影響力を持っているかと考えると、とんでもないなぁと思うのだ。

最近の自分の書いた文章を読み直してみると、全部同じことを書いているなぁ、と思った。それらが同じ場所を巡っていること自体はなんの問題もない。ただ自分の考えていることが、あるベクトルに向かっているということを、自分の文章を通して自分が発見しているという構図がとても面白かった。

このところTumblrをずっと試していて、それなりの投稿をしている。そしてこのツールには良くも悪くも破壊的な潜在パフォーマンスがあると思った。ここで俺が感じたことを俺のTumblrを見てもらうことで人に伝えることはとても難しい。というか俺のTumblrを見たところでそれが伝わるわけがない。なぜならそこで起きていることは、ひたすらリンクを貼り続ける連鎖によって起きる意識の変化だからだ。

そのリンクの連鎖の中では、出展が明らかにされていようが、そうでなかろうが、そんなことは価値の本質ではないように情報が流されていく。そこでその連鎖をつなげていく原動力となるのは、「あ、これ面白い」「ぐっと来た」という、まるでシナプスレベルのとても個人的で身体的な反応なのだ。

でも、そもそも報道とかメディアってものは、そういうものだったんじゃないのか?なんも変わらないだろ、どこが違うんだよ、と思うのだ。

ここで搾取とコミュニケーションの関係を上手に述べることが出来れば理想的なんだろうが、そんな面倒なことのために今この時間を使うのは同じようにとても面倒だ。

そう、面倒なのだ。
面倒だから搾取するのだ。

Tumblrは搾取ツールだ。これは批判ではない。
雑誌も新聞もテレビも噂話も全て搾取ツールだ。

誰もが編集者になり、誰もがニュースキャスターになり、誰もがプロデューサになることが出来る。誰もがそうなりたいと望んだことだ。

ここで最初に戻る。
今日も俺は同じことを書いた。

きのうの続き。

人を変えることが出来なくても、人を開くことは出来る。
それはたぶん愛と言っていいものだと思う。

変わらなくても愛されれば人は開く。

それだけが唯一の方法なのかもしれない、とさえ思う。

嘘なんて数え切れないぐらいについてきたけど、
嘘つきにはなりたくない。

嘘つきは閉じた人だから
開かれることさえ拒絶する
愛されることさえ拒絶する

そして嘆くのだ
愛されたことが無いと
愛されたいと

そのループの理由は自分の中にしかないのに
嘘がループを作っているのに
ループに嵌る理由を他人に求める

それでも人は開くという経験を知っている
なぜなら人が開くということは
お腹が空いたり
歩いたり
ウンコをしたり
することと同じ次元の話だからだ

そして開いた人はとても可愛いのだ

差別について書くのはとても気が重い。考えないで済むなら考えたく無いとさえ思ってしまうほどだ。それは差別を見ないようにしたいからではなく、差別という方法論が誰ものアイデンティティに深く入り込むようにして刺さっているからなんだ。差別のことを書こうとするときに思い浮かぶことは唯一つ。「不毛」だ。でもそこで戦っている人がいることは知っているし、そのことによって変化も起きれば救いも起きる。そして戦争も起きる。

自分を聖人のように扱いたいなんて気持ちは微塵もない。自分の中にさえ人を差別する気持ちは存在し、その気持ちで人を傷つけたりもしているのだ。それを大事にしたいなんて思っていなくても、むしろ捨てたいと切望していても、無くすのが難しいものとしてそれがあったりするのだ。

だから今日、俺が政策や事件に関するある文章を読んで、体が震えるほど憤りを感じたり、悲しくなったりしたとしても、それを書いた人たちに対して、反論を展開したり、怒りを表明したり、逆に無視したりすることはしたくないのだ。それはおそらく何も生まない。まさしく不毛だ。彼等には彼等の物語があり、彼等はその物語を崩そうとするものは断固として阻止するだろう。

人を変えることは出来ない、とは思わない。だけど人が変わるということは人が生まれるということと同じぐらい奇跡に近い。評価は大事だと思うが、評価なんかで人は変わらない。それはその人の思い込みを助けたに過ぎない。もしくは惑わされ恋をしたに過ぎない。そんな表層の変化を見て、「成長した」だの「いい人になった」だの「積極的になった」だの「明るくなった」だの「強くなった」だのなんて笑っちゃう。人が変わるということがあるとするなら、それはその人が人生を生きる基盤としている全ての過去を含めた思い込みが変わるということだ。

平和って言葉を意識的に使ったことが一度もない。
自分を侵害することが起きないということが平和のわけがない。
自分を侵害することが起きないように
自分にとってのあらゆる外側を従わせることが平和のわけがない。
それこそが侵害だ。
居心地悪すぎる。

起きるべきことが起きない状態は
起きるべきことがナベの中で圧縮されている状態だ。

起きないようにすることは
先送りするということであり
先送りするということは
淀ませるということであり
淀ませるということは
圧縮するということであり
圧縮するということは
爆発するということであり
そしてその爆発を抑えるということは

さらに先送りするということだ。
先送りのための沈黙なんてクソだ

別に先は急がない
急いだら負けなのだ

急ぐということも
先送りのための沈黙と同じなのだ


自分が起こすことと
自分以外のものが起こすことの

関係性の中に居たいのだ

サラリーマンがサラリーを得るためにする仕事には
家族への想像力は必要とされない。
サラリーマンが仕事上で家族のことを思うのは
自分がつらい時ぐらいのものだ。
それは想像力とは言わない。

家事をするためには家族への想像力が必要とされる。
ただし、家族への想像力を働かせることなく家事をすることは
少しも不可能ではない。
でも、そのような家事が行われる家族はすぐに崩壊するだろう。

つまり、共同体を維持するためには関係性への想像力が必要とされる。
関係性への想像力を働かせることが困難な共同体は淘汰される。

しかし関係性への想像力を必要としない共同体がある。
それはたとえばコンビニであり学校であり塾であり会社である。
これらの共同体に共通するのは、共同体に目的があるということだ。
目的とは
受験の合格であったり、
販路の拡大であったり、
物欲の充足であったり、
理想の実現であったり、
利潤の追求であったりするだろう。
そのような共同体では人は隣ではなく上を見る。
関係性は作るものではなく分析の対象となる。
独裁者なき独裁。

かくしてそれぞれが上を見る家族というものが出来上がる。
では、上を見る家族の目的とは何か?


19:55
話はずれるが一つだけ加えておきたくなった。

上を見る家庭に育った子供は必ず欠損を抱える。
夜空の星を見上げているのは見上げている本人だけだ。

世の中は個人や企業が発信したものをどれだけ簡単に多くの人でシェアできるかという方向に向かっているわけだが、一方では全くシェアされること無く個人の部屋や押入れやガレージで腐っていくものが増え続けている。いや、この言い方は間違っているな。シェアされて個人に分配されたデータや商品の墓場がハードディスクやガレージや押入れなのだ。

書店で買われ、部屋に持ち帰られた本。週末にファミレスに行くためにしか乗られない車。一度しか着られなかったドレス。集められた時点でゴミになったガシャポン。どうすんのこれ、ってぐらいのゴミの山だ。

リサイクルショップがあるじゃん。と、人は言うかもしれない。データなら消せばいいじゃん。でもそれじゃ何も解決しないんじゃないの?と思う。なぜゴミになるのか、なぜゴミに何百万円も払うのか、そもそもそれらはゴミになるべくして生まれてきているんじゃないのか、ゴミにならない流通があるんじゃないのか、という様々な疑問が何一つとして解決しないからだ。

例えば自分は今バイクが欲しいと思っている。ツーリングと、手持ちや自転車では運べない買物のためだ。でもそんな必要が生じるのは一年に何度もあるわけではない。せいぜい多くても5、6回だ。その為に強制保険と任意保険に入り、税金を払い、日々のメンテナンスをし、何十万円のローンを払うなんて馬鹿げている。そんなものを背負い込むぐらいなら、荷物は宅急便で送り、ツーリングの代わりに電車旅行をする。そしてその通りにしている。でも、バイクでツーリングがしたいんだな、困ったことに。だってどんなに遠くても好きなところに行けるし、安く行けるし、とにかく気持ちいい。

じゃあどうするか。一つの答えはレンタルを利用することだ。バイクのレンタルはとても少ないが、本なら欲しい本があるかどうかは別として図書館がある。胡散臭いが絵のレンタルもある。ガシャポンのオマケのレンタルは無いが、ドレスのレンタルはもちろんある。でもレンタルというのは基本的に他人任せであるという点で、リサイクルショップと対して変わらない。ゴミがゴミになるのは、ゴミになるものに対して、その所有者が関係性を放棄するからなのだ。

もう一つの方法は少人数でシェアすることだ。図書館やレンタカーは不特定多数を対象にしている。利用者は自分を不特定多数の一人だと認識している。この認識は現代の日常を過ごす人間にはとても都合がいいことは容易に想像がつく。誰もが簡単に関係性を放棄せざるを得ないほど過剰な日常に囲まれているわけだから。そこへいくと少人数でシェアするということは、不特定多数ではなく特定少数の一人になるということだ。これはなかなか受け入れられないだろう。なぜなら、このような関係こそは、近代が始まって現代に至るまで、誰もがとことん捨ててきたものだからだ。その行き着いた果てがマンションのワンルームであり、携帯電話であり、もっと言ってしまえば個人が抱えるゴミの山なわけだ(それなのに一方では「一生モノ」だの「名前の見える野菜」だのがもてはやされる訳だが)。

特定少数のシェアとは、昔で言えば共用井戸であり、共用便所であり、共用流し場であっただろう。それらは顔の知れた数人から数十人でシェアされていただろう。しかしこれを現代にそのまま持ってくることは出来ない。ハンバーグを捏ねている横で地粉のそば粉を伸しているとか、その横でカップ焼きそば作ってるとか、どんだけメチャクチャになるかは容易に想像が出来る。では共用バイクや共用雑誌や共用ドレスや共用絵画や共用オモチャや共用ホームシアターには全く未来は無いのか?関係性を放棄せず、かつモノの特性に見合った付き合い方をすることは不可能なのか?おそらくそれが実現するためには、物自体が変化する必要がある。そのような所有形態に向いたものに。そして人間の方も物に歩み寄る必要がある。でも、それが出来れば不可能なことではないんだと思う。

不特定多数のうちの一人という人間が生まれたのは、そのような人間関係を望んだからではなく、結果的にそのような人間関係を生み出すようなモノが間に置かれたからだ。関係は間に置かれたものによって作られるのだ。たぶん。

何かのニュースを見て「なんだあいつはやっぱり偉そうなこと言っていながらダメな奴だったんじゃん」という感想を誰かが持ったとして、それはとりあえずはその感想を持った人にとって「役立った」ことになるんだろう。

一体なんの役に立ったのか。この場合にはジェラシーが解消されたように感じられたということだ。自分が引き上げられたように感じられたということだ。もっと言ってしまえば、評価されたと同義に、立ち位置が変化したような「気がした」ということだ。

でも、これを役立つというのだろうか。
勝負はどこにも存在していない。

このような心理的ヴァーチャル納得力は、実用性であるとされている。
なんで?と思う。
おそらく、立ち位置が変化したように感じた本人にさえ、それは違和感を伴ってしか実現していない。なのに「それでいいんですよ」という声がどこからともなく聞こえてくる。

どこからともなく。どこ?どこなの?
そこはたぶん、お金がお金を生む場所であり、宣言するだけで戦争を終わらせる(始められる)場所であり、所有が所有という生物として生きながらえる場所であり、なんか有り得ないのに存在している、不気味としか言いようのない場所だ。

例えばこのサイトが、写真ブログと他人のネタの紹介ブログと、自分の作品の紹介サイトと、思いつきの放言ブログと、というように専門的に分化していくことが「メディアになる」ということなんだろうと思う。そこで腹をくくってやっていけば少なくとも千倍ぐらいのアクセスは余裕で稼げる。たぶん。ちょっとやってみたことがあるからわかるのだ。

そこで実現されるのは分かり易さだ。利用し易さだ。早い話が雑誌なわけだ。HOW TO本なわけだ。つまるところ人が望んでいるのは「自分にとって即役立つ情報」なわけだ。そしてこの「自分にとって即役立つ情報」という文章の中で最も核心にあるのは「即」というその一文字だ。これを「今」に置き換えてもいいのかもしれない。逆に言えば、役立つかどうかは「未来」に棚上げしておけばいいのだ。「胸は残して五日でやせたい!」とか、「超小型ノートPCが100円で買える!」とか、そこにあるのは99%翻弄に過ぎない。でも、五日でやせられるならそれもいいかも。100円で買えるならそれもいいかも、という気持ちがその情報を支える。そして、出来る限り、その情報が信用に足る情報源であるように見えるように、考えなくてもいいようにブランド化される必要がある。ニュースやゴシップ、テクノロジーや政治、あらゆるものが即時性の幻想の元に単語単位でブランド化される。

ブランドとは考えることを麻痺させるための専門化だ。メディアは手段を超えて、依存対象になる。それはイヤなんだ。とってもイヤだ。ただ、分かり易さを否定するつもりはない。それが依存に繋がらないならば。でもこれこそ幻想だったりするんだよな。

05:28
依存をベースにした尊敬なんてくだらない。ほんとにくだらない。 それは速いくせに濃密な、蜜のような時間を失わせてしまうだけだ。

誰かが作った作品に対して、レベルが高いとか低いとかって評価はよく見ることが出来るし、自分でもそういう言い方はよくしているんだけど、この場合の「レベル」ってのはもの凄く曖昧に使われていると思う。

例えば社会的に流通しうるクオリティを保っている、という意味でのレベルであるかもしれないし、その人の人生における通過地点としてこの上なく真摯に取り組んでいることが感じられる、という意味でのレベルかもしれないし、この人が属しているコミュニティの中ではかなり優れているんじゃないの、という意味でのレベルかもしれないわけで(そのほかにも沢山あるだろう)、それを明確にして言うことはしばしばはばかられたりもすることもあったりなんかして、ますますそういう評価が曖昧にまかり通っていく。

それって言う方にとっても言われる方にとっても不幸だと思う。こういうことはきっちり言うべきなのだ。それは「評価を下す」という言い方のニュアンスが感じさせる絶対的な第三者(ほとんどの人はここで、会社や学校や、先生や上司を連想するのではないかと思うのだけど)の発言としてではなく、対等な一人の人間の発言として流通するべきなのだ。もちろん、対等な一人の人間の発言であるにしろ、そのひとの社会的影響力や、真摯さによってその発言の重みは変化する。それは当たり前だ。誰もが対等であるわけではない。そういう正しい不平等が足りないと思うのだ。

正しい不平等のためには立場を明確にすることが必要だ。評価は正しく不平等でなければならない。作る人間も評価する人間も孤独な場所から発言しなくてはならない。

自分と他人の間に距離を感じると他人が魅力的に見える。それは嫉妬にもなるし恋にもなるし恨みにもなる。どれもある意味過剰だけど、はるか大昔から普通にあったことだろう。でもマスメディアの発明によってこの関係性が怖ろしいぐらいのスピードで増殖した。

マスメディアってのは印刷技術がその最初だと言われているし、科学的視点に立てばその通りだと思うけど、俺的には言語そのものがマスメディアだと思っている。個人の思いをこめなくても(つまり一人の人間によって解釈されなくても)繰り返すことが出来る情報、それがマスメディアがマスメディアとして成立する本質なのではないかということだ。

マスメディアは、いかにしたらより簡易に情報を繰り返すことが可能になるかという、そのために発達してきた。書籍、新聞、雑誌、映画、ラジオ、テレビ、レコード、ビデオ、そしてインターネット。これは言い換えれば、いかに個人と個人との間に距離を感じさせることが出来るかという試みだといえる。なぜならそこで繰り返される情報は、繰り返されることのために繰り返されているのであって、それは個人の解釈(言い直しとかじゃなく、経験を(これも曖昧でクソ不十分だが)を経たあとの表現)まったく必要としない(ってのはちょっと嘘だけど)とってもサルなサイクルの再生産に過ぎないからだ。

マスメディアの技術が開発されればされるほど人は孤独になる。これは絶対的な事実だ。おじいちゃんが今日何回お茶を飲んだかがポットのボタンでわかる。そのおじいちゃんは、ポット芸人としてデビューを果たしたわけだ。たとえ観客が3人ぐらいであったとしても。別に悪いとは思わない。だって孤独は悪いものじゃないし。俺がこのサイトで絵が売れるのもネットというマスメディアのおかげだ。

でも、孤独とか、人と人との距離が強要するものは、甘さよりもむしろ厳しさの方がずっと強いものなのだ。覚悟も興味も準備も経験も理解もないのに、気がついたらデビューしていたなんてのは、心地いいものであるはずがない。それぐらいのことが簡単に起きるぐらいにはマスメディアは発達していると、で、望まれてもいて、まだまだ先に行くであろうと、ってところで、足りないものを考えたい。だってそこには誰の陰謀があるわけでもなく、受け入れ、なおかつ発情している自分がいるんだから。

インターネットが普及したことによってギャンブルが変貌したんじゃないかと思っているところがある。ギャンブルといっても現実の金の話じゃなく、確率に対する欲望としてのギャンブルだ。

ランダムな数値が自身の選んだものと一致する、もしくは特定の数値がたまたま揃う。そういう競馬とか宝くじとかパチスロとかでやっていたようなことが、ネットワークを前提にすることによって、馬とかゲーム機とかじゃなく、生身の人間を相手にしてギャンブルをすることが可能になった。携帯メールにはまるのも、ソーシャルネットワーキングシステム(クローズドの内輪コミュニケーションツール)にはまるのも、ネットワークゲームにはまるのも、自分で作ったサイトの反応に一喜一憂するのも、新しいギャンブルの姿のように思えてならないのだ。

そこでは金の代わりにアクセスやメッセージや流通している。沢山のアクセスやメッセージや得ている人は長者なわけだ。

じゃあ、これを成立させている確率への欲望は何を基盤にしているんだろうかと考える。そこには欠乏があるのは確かなのだ。その欠乏が欲望を生み出す。おそらく簡単にいってしまえばそれは寂しさだ。そこにはより強く求められたいという気持ちや、偉くなったり有名になったりしたいという気持ちや、自分を受け入れてもらいたいという気持ちや、孤独を忘れるぐらい忙しくしていたいという気持ちなんかが全部含まれる。良くも悪くも世界中の人がこの新しいギャンブルに夢中になっているのだ。

でも、ネットワークが生み出した「他人」を前提としたリアリティはそれだけじゃない。ギャンブルというのは「求める側」に立った定義に過ぎないからだ。求める人がいれば、当然求められる人がいるわけで、求められる時には喜びと同時に怖い事だって起こるものなのだ。そしてその怖いこともまた重要な価値だ。でもその話はまた今度。

人に全面的に信頼される、もしくは信用される、さらに人から恐れられる、もしくは忌み嫌われる、そういう関係がもたらす力って凄いものだと思っている。

これはもちろんコミュニケーションを含んでいるから、たとえば信頼される人と信頼する人の両方が居て初めて成り立つ関係だ。で、そういう関係から生み出される事実には現代においてまったく未踏の領域が沢山含まれていると思える。

シャーマンとか魔術師がやってきたようなこととか、オーラだとか奇跡だとか共時性だとか、そういうオカルティックに分類されるようなこともこの関係性でかなり説明できることがあるはずだ。でも、これってコミュニケーションがされているまさにそのときにしか実現しないという意味で、根本的にライブでしかありえないことだから、実証や再現性ということで言うと説得力に欠けてしまう。

だからと言って、信用せざるを得ないぐらい本気だ、とかってことの価値が揺るぐわけじゃない。なぜならコミュニケーションだから。これ、宗教だな。

セックスにおいて興味が尽きない側面の一つは自我の境界を曖昧にしうる可能性を持っているということだ。俺の場合はこの一点にしか興味がないんじゃないかってくらいそこに惹かれるし、そういうところにしかエロを感じない。

自分が誰でもいいとか、誰だかわかんないとか、相手が誰でもいいとか、誰だかわかんないとか、自分が他人とか物みたいに感じるとか、自分が無くなってしまうとか、他人が自分とか物みたいに感じるとか、他人がいなくなってしまうとか、そういう危なかったり幸せだったりすること全部が自我の境界が曖昧になることによって起こり得る。たとえジェンダーの力を借りたとしても、ジェンダーのその先の問題とか魅力とか引力がそこにはある。

自我の境界を曖昧にすることの重要性に比べたら、支配と被支配とかジェラシーと優越感とか、そういうのは境界を曖昧にするためのただの道具に過ぎないような気さえしてくるんだ。

2/16(Wed) 5:23
ひとつ前の話の続きだけど、自分の自我の境界は堅持しつつ他人の自我の境界が変化するのだけを見たいってのは最低だなと思う。お子さんよりひどい。でも、これってラクチンだからそっちに流れやすいんだ。つか、現代における「贅沢」って、「自分は安全(=自我の境界は堅持)」で、「他人の冒険(自我の境界に挑戦)を鑑賞」、が、価値になり過ぎているような気がするよ。そんなのどう考えたって面白くもなんともないじゃん。なーんも学べないし、一歩も前に出られない。もっとエロを活用すべきだぜ。

土曜日に古くからの友人に会った。変わらないで居てくれる人ってとても少ない、んではなくて、変わらない部分を前面に出して人と付き合ってくれる人ってとても少ない。変われる部分は簡単にころっと変わるけど、変われない部分こそが大事だ。それはかなりの人にとって厄介なものでもあって、そういうものを隠そうとしたり誤魔化そうとしたりして人と付き合う人がたくさん居る。でも、もちろんあいつはそうじゃなくて、三年振りぐらいで会ったんだけど、そんな時間なんてすっ飛ばして嬉しい気持ちでいっぱいになった。

ガキの頃に、友達がいないことで結構悩んでいたりもしていたんだけど(それは結局、俺が、相手が心を開けるように生きていなかったからなのだが)、今にして思えば友達なんて一人居たら幸せだろうと思う。それだけで勇気を持って生きていける。そしてそのたった一人に出会えない人もたくさんいるんだ。で、俺にとって「絵」は自分がたった一人だと感じる耐えられない気持ちをほんとにたくさん助けてくれた。それは作った人の名前も知らなくても、いつのものかも分からなくても、とにかく「生きていた、もしくは生きている誰か」が作ったものとして俺にとっての頭を垂れたくなる立派な他人として励ましを与えてくれた。誰だか知らないこの人が、生きて、この作品を作ってくれて、有難い、あなたのおかげで生きていける、って気持ちになった。自分ではない人間が自分に大事に思えるように生きているってそれだけで凄いことだ。いくら感謝しても感謝しきれない。

こういうことと、全ての人を大事にするってことは矛盾しないんだと思いたい。変われない部分を基準にするならば。でも、簡単に変われる部分がどれだけの不幸や暴力を生み出すかだって多少は理解しているから、そんな簡単には行かない事だって分かっている。だからなおさら、変われない部分に嘘がないように生きなくちゃ意味がないんだ。随分とわがままにやってきて、全てがくだらない他人への迷惑だと簡単に言ってしまい勝ちだったけど、そういう、それこそくだらない優しさはスッパリ切るべきだ。今気がついたけど、プライドって言葉には俺が今まで思っていた以上に良い孤独と良い意思を含めるべきだ。

メディアが垂れ流すアイテム(番組とかビデオとかシステムとかゲームとか音とか画像とか)は医学的、もしくは科学的にはドラッグ(触れることが出来る現実に存在しているものとしての薬)であるという定義は無いと思うんだけど、それは計測するテクノロジーが確立されていないだけのことで、いずれ物質として計測されるに違いないと思った。

そのときにはビタミンCとか DHAとかドーパミンとかみたいな感じでメタフィジカル電磁波Bとかラディカルジェンダー2.5GHrzとか(意味不明だけど)な感じの計測値で定義と用法と処方箋が適用されるんだ、きっと。だって、普通の人の認識としてこんなことはあるだろうって誰でも思っているようなことでしょ、これ。その認識に技術が追いついていないだけで。

誰もが当たり前だと思っているのに科学になっていないことなんて山ほどある。だからといって科学の明るい未来の話がしたいわけでもないんだけどね。ただ、科学になっていないからって理由で自信なさげに話をするのはつまらないなぁと思うのだ(オカルトの話がしたいわけでもないです)。「今感じたこと」の強さとかダイレクトさっていうのは何をおいても大事にするべきだよ、ってことが言いたいのです。

よく「間違ってるかもしれませんけど」とか「自分が思ってみただけのことなんですけど」っていう前置きを、自分でもしてしまうことがあってイヤになるのだけど、そりゃ違うだろ!って毎度毎度あたまにくるんだ。それって要するに「何か自分が持っていない、もしくは自分のスキルとして未熟かもしれないと思う価値体系」に対して照らし合わせてみれば、って時の話で、もっと言えば「知りもしない他人達の価値観」を思い遣っているということで、しかしそんなこといっても「知りもしない他人達の価値観」なわけだから、そんなもの思い遣れるわけが無いじゃん!っていつも思うのだ。

で、思い遣れないし、思い遣られることもないようなところにこそ面白いこととか大事なことは眠っているなぁと考えるのです。そしてそういうことは思い遣ったり思い遣られたりは出来ないけど、発見したり発見されたりはできるわけです、少なくとも。それは逆に言えば発見したり発見されたりしなければ、発見してもなにも起こらないということなわけだけど、それでも極たまには発見したり発見されたりすることもあるわけだからそれでいいじゃないですか、ねぇ?なので、この変な計測値はたとえ俺が制定できなくてもいずれ常用されるようになるのです。なぜなら俺がそれを発見したからです。

「この人達とはもうかかわらないようにしよう、だってこの人達は俺のことを必要としていないし、むしろ疎ましいと思っていて、俺がこの人達のように「大事なこと」は言わないで仲良くやっていけたらどんなに幸せだろうといくら夢想しようとも、むしろそんなことを考えているやつだからじゃまくせぇと思われていることに気づかずに、そんなアホ臭い願望を丸出しにしていた俺はいくらでも超簡単に傷ついたあげくに、自分では気づかずに無神経の極みでそいつらにいやな思いさせることには天才的でもあり、「そういうこと」は俺の人生から締め出すことが正しい選択であるとの神の有無を言わせぬ命令に失意と怒りと悲しみと涙とウンコとザーメンと嘲笑と教育と幻覚と憎悪と怨念の煮込まれた鍋焼きうどんを食った」

ということを、

ネットは
一度、俺に忘れさせた。
ということが今、分かりました。

ザ・セルという映画を見た。
猟奇的な連続殺人犯の無意識にダイブして(あるいは自分に招き入れて)事件の解決、というか犯人を主人公の女性が受け入れる(ストーリー的には殺す)までの映画・・・こんな説明じゃ何にも伝わらないな。でもまあいい。

作品は面白かったです。楽しめた。でもそれより気になったのはこういう作品が生まれる土壌についてです。デヴィッド・フィンチャーの「セブン」とか、ショボイけど「8mm」とか、「ツインピークス」とか(ここにクローネンバーグのビデオドロームも加えてもいいかもしれない)みたいな「変態」をモチーフにした映画というのはかなり作られていて、それらはどれも「外側」から見た変態映画なわけです。ホドロフスキーなんかはどちらかといえば内側からの視点がある。でもってこういうのは「カルトムービー」化していくわけだ。

外側から描写した映画はエンターテインメントになる。多くの人が知りたいと思い(動機が恐怖であれ、興味であれ、嫌悪であれ、外側からの視点があれば、それは安全なものになる)、それを知るための装置にしようと思う、それがエンターテインメントです。そして内側から作られた映画は「毒」になる。別に毒を賛美しようとは思わない。それは度々「アート」といわれたりもするけど、ちゃっちい毒ほどつまらないものは無いわけです。別の言い方をすれば毒ほどそこいらじゅうに転がっているものは無い。

と、ここまで書くと焦点は「毒」にあるらしい。つまり毒に対する態度の問題だと思えてくる。少し前に書いた愛の定義と一緒で、誰のものでもないものとして毒があり、愛の内側にいると思っている人と愛の外側にいると思っている人がいるように、毒の内と外という構図が見えてくる。そして内側だと思おうが外側だと思おうが、毒は宙吊りになっているらしいということがぼんやりと見えてくる。アクセスされ続けているのに辿り着けない状態、としての毒。そう考えるとサイコホラーってのは新たなラブストーリーのような気がしてくるのだ。で、ラブホラーという言葉を捻出してみる。強迫観念としての愛。俺の中ではアメリカという国のイメージはラブホラーにとり憑かれているように見えている。たぶんアメリカに限った話ではまったくないんだけど、それをわかりやすく体現しているように見えるんだ。

「ハードコア」というタイトルの映画があって、見たいと思いつつ機会が得られなく見ていないんだけど、ドキュメンタリー的な手法で、厳格なカトリックの家庭に育った少女が、父親の牢獄から逃げ出すためにさまざまな手段を講じた結果、ポルノ業界でサディスティックな男にボロボロにされる、というのをブルーフィルムで失踪した娘を発見した父親の視点で描くという映画らしい。この物語構造に見えてくる狭間はたぶん埋まらないのかもしれないと思っている。思いたくないんだけど。

虚構によって生み出された欠如

この文章はこの言葉が言いたかったんだ。

与えることも求愛だとすれば、愛の定義はずっとスッキリする。気になってしょうがないのは定義なんだ。

愛は行為ではなく状態である。もう少し正確にいうと行為が作り出した流動的な状態である。この定義だと自分的にはとても納得がいく。そしてこの定義を当てはめてみると、彼が彼女に「愛しているよ」というのは用法として間違っている。それはただの求愛宣言に過ぎないので「好きだよ」とか「たまらないぜ」とか「やらせてくれ」とか「おまえはなんてかわいいんだ」とかのほうが正しい。愛は生まれたり存在したりはするけど、個体が自己完結的に実行できるものではないからだ。それは愛しているんじゃなくてオナニーしているといった方が正しい。そしてオナニーだって求愛行動だ。

また、この定義に従えば愛はどこにだって存在する。光合成だって愛だし核分裂だって愛だ。秋の大運動会も春のお遊戯会も愛だ。格闘技もスピードレースも愛だ。絵を描くことだって愛だ。でも定義としては全然不十分だな。だって、不毛かどうか、コミュニケーションが成立したかどうかという価値の定義がまったくされていない。定義してみたのはジャンルだけだ。いっそのこと不毛なことなんて存在しない、といってもいいし、その言い方でいえば戦争だって大量絶滅だって愛なわけで、それはそれで正しい気もするんだが、そんな風に簡単にアナーキーになって格好良くなってしまうのはどうも気にいらない。でもこれ以上考えるのは危険そうなのでやめとこ。

求めることと与えることの違いがよくわからない。もちろん不毛な要求と実を結ぶ要求の違いがあることぐらい知っているし、不毛な贈与と実を結ぶ贈与の違いがあることだって知っている。だとすれば問題になるのは、そこにコミュニケーションが成立したかどうかであって、それが求める行為であったか与える行為であったかの違いなんてたいしたことではないのではないかと思えてくる。いったいその二つにどんな違いがあるんだ?実を結ぶ行為はどんなものでも無償の行為に決まっているのに。

もちろん、俺は愛について考えてみようと試みているんだぜ。ちょっと興味がわいたんだ。たぶん俺が馬鹿で、与えることだけが愛だと信じ込まされてきたせいなのかもしれないが、求めるもののいないところに与えることが存在できないように、与えるもののいないところに求めるものが存在できないように、そんなのはただの不毛な与えたがりの暴力に過ぎないということがなぜこうも隠蔽されるのかと腹を立てているんだ。

問題にすべきは、それが不毛かどうかであって要求か贈与であるかではない。だとすれば「求愛」という言葉は間違っている。愛を求めるのは愛を持っていないものがすることであって、求愛するものが持っていないのは、愛ではなく、入れるべき穴であったり、優しく頭をなでる手であったりするだけだからだ。

愛という概念を個人から引き離して考えればもっとうまく行く。愛とはひとつの可能性である。それは持ち物ではなく、それが実現したときにのみ実現された時間において感じることが出来るものである。と、ここまで書いたら「なぁんだ」って気がしてきた。誰かの内側に愛があると思っていた俺が馬鹿だったんじゃん。求愛という言葉だっていいとこあるじゃん。

なんか俺なんてずっと愛に生きてきたんじゃないの?って気がしてきた。どっちでもいいけど。しかしこんな言葉をよく20代ぐらいの男が歌にして歌えるよなぁ。商売だって言ってしまえばそれまでだけど、いったいどこまで本気なんだ?そっちのほうがどうでもいいけどさ。

いろいろ書きたいことがあったんだけど、それらは胸の中の泥沼の中にしまいこまれてしまった。

ところで、愛されたことがない人は愛されることを望む。でも愛されたことがないのに愛される人はなにを望むんだろう。

実はそれは同じことで、誰もが愛されたことがないと思っている人で、誰もが何を望んでいるのかわからないというのが正解なのかもしれない。愛されることを望む人は「愛する」ことをうまく理解することが出来ない。なぜなら愛されたことがないから。つまり誰も愛するということを知らない。

愛という言葉は自分にとっては恐竜のようで出来の悪い翻訳ものの小説のようで悪意じゃないかと思ってしまうようなもののようで金儲けのロジックなのではないかとも思え、とにかく始末が悪い。でもその言葉がいまだに流通しようというパワーを持っているという心意気はたいしたものだと思う。たかが言葉だけど。きっと愛という言葉は本質的にロマンティストなんだろう。じゃなかったらこんなに暴力と誤解を生みながら生きながらえられるわけがない。言葉は抽象するからこそ言葉なわけだけど、抽象しようとする対象の強度によってその耐久性は決まるものだと思う。どんな誤解を生もうとも、強度の強い言葉はなくならない。

話は飛ぶけど、いや、飛んじゃいないけど、表現というのはすべて求愛だと思った。一生かけても未完の求愛もあれば、五秒で終わる求愛もある。目の前の相手だけに向けられるものもあれば誰に向けたのか本人にもわからない求愛もある。株式市場も戦場も、引きこもりの子供がネットに費やす膨大な時間もすべては動物的な求愛だと思えた。そして愛はわからないけど、求愛ならわかる。

愛がわからないのに求愛がわかるような気がするというのは変な話だ。書きたいことがしまわれてしまったとかいいながら、こんなに書いているのも変な話だ。でも別に俺は変じゃない。

9/22(Wed) 13:42
   神は求愛するのか?

神はきっと10億光年も離れた星とか
原子核にでも求愛するんだろう

それはそれでいいんじゃないの

遠いところで生きている人、違う場所で生きている人、知らない世界で生きている人、の、ことを、近くに感じられるということが、もし、そんなことが可能だとするなら、それは、そのように感じている人間が、自分の生きている場所を、遠く、新しく、未知の世界として、生きているとき、だけなんだろうな。

たくさんのいろんな人に会う。
たくさんのいろんな人に会ってきたんだと思う。

でも僕は自意識過剰のわがまま野郎のせいで
人の顔が全然覚えられなくて
たくさんの人に会ったけど
いろんな人に会っていないような気がする。

ブルーになっているんじゃなくて
クールになっているんです。
ダウナーでもアッパーでもなくフラット。
かといって醒めているわけでもない。

ほんとはいろんな人に会いたいんだ。
たくさんの人じゃなく。

たぶん
いろんな人に会わないと
自分に会うこともできないんだ。

きょうは異常に暖かかったせいで、いまコオロギみたいな虫が外で鳴いている。たぶん明らかに人間のせいだ。

真剣な遊びとして以外のエコロジーには興味がない。ソフトインパクトな人間なんて嘘っぱちだ。そもそも生き物が儚いとか環境がデリケートだとか言うときの態度ってのはめちゃんこ嘘クサイ。その手の理想主義にはほんとにウンザリする。生き物は基本的にハードインパクトなものだ。ハードインパクトのコミュニケートの結果が環境なんだ。

でも間違えちゃいけない。ハードインパクトが自分の意志だと思うならそれはとんでもない間違いだ。ハードインパクトはもっとシビアな境界線にしか存在しない。それを自分の意志だと思うなら、そんなものはソフトインパクトな嫌らしさとなにも変わらない。

コミュニケーションは奇跡への信仰だ。
ほんとにそうだ。
奇跡が起きるかどうかは問題じゃない。
信仰とはそういうもんだ。
たった一人で、生きている、その場所で、奇跡は
信じられる。
信じることは、たった一人によって成され、
その一人が、行動することによって
完結する。
それを、し続けるのは
悪くない。

悪くないよ。

17:41

セクシャルじゃないオヤジとオバハンはクソだ。
(by:tskb,timrick)


ru000048.jpg40歳以上のネット人口ってどれぐらい居るんだろう。10%以下かな。その中でお絵かき掲示板でなんかできないかと思っている人はどれぐらい居るんだろう。0.01%ぐらいかな。...って、自分が珍しい人間だっていいたいわけじゃなくて、そんなことを自覚しておくのも悪くないかもと思ったんです。何故かといえば、自分が寂しがり屋だからです。さみしい自分に対抗するには、第三者的と思われるような意味のない数字は割と役に立ったりする。現実に存在する「あの人はちょっと違うから」とか「興味はあるけど見るだけにしておこう」とかいう、大多数の人々と折り合いをつけるにはそういう認識はとても大事かもと思ったり。

でもここで言っている寂しがり屋はちょっと特殊です。BBSとかチャットとかメールとか携帯とかテレビとかによってもたらされる寂しさは、すごく人工的な感じがする。これは「ほんとは俺ってもっとなんかあるんじゃないか」という勘違いによって起きる寂しさです。しかも、そんなことをいくら頭で判ったところで、この勘違いはとても強力なのです。どのように強力かと言えば、これは恋の疑似体験のように強力なのです。穴が、スコーンと開けられる。その穴は決して埋めることの出来ない穴なのだけど、吹き抜ける風が冷たくてどうにかして埋められたように感じる瞬間を何度でも反芻しようとしてしまう。恋とメディアの魔力が違うのは対象の具象性だけです。具象性を持たないメディアは、それに対抗しようとすれば恋よりも自分に向き合うことを余儀なくされるので、さらにやっかいです。恋だったら、相手から暴力的な修正がかかったりするけど、ここからはそんなことはほとんど起きない。むしろ、そういう修正は排除される方向に進む。お互いがメディアでもあるようなネットではさらに慇懃にそれが不文律となる。

いっそのことこれは恋だと言ってしまったらいいのではないかと思うのだ。多少はましになって、暴力だってマトモに振るえるようになり、それを受ける側も肝が据わりそうな気がする。メチャクチャ時間がかかりそうだけど。

なんか俺のサイトは、モノを売ったり、芸術ブリッコするには馬鹿すぎるような気がしてきた(わらいわらわら)。つうか本人が愚か者なのでしょうがないんだけど、こんぐらい馬鹿じゃないとやってらんないってのもある。どのへんが馬鹿かと言えば、なんでも見せすぎ、なんでも言いすぎ、その割には分かりにくいこと言いすぎ、愛想悪すぎ、言ってること端折りすぎ、営業努力足りなさすぎ、その他あげつらえばきりがない。全然気にしてないし、本気で馬鹿だなんて思ってないし(ずれた意味では思っているけど)、なるようにしかならないんだよ、としか思っていないんだけど、そういうことを全部ほっといてもいいのかっていうと、ちょっと疑問が残る。

プロパガンダ(宣伝行為ぐらいの意味)が苦手なんだ。昔は逆に得意だと思っていたんだけど、今は明らかに落ちこぼれだ。プロパガンダに一番必要なのは「疑わない心」だ。サディスティックな信仰といってもいい。今さら持てるか、そんなもん。ガキでもないし、心に深い傷を負ったコンプレックスのカタマリのいじけた親父じゃないんだから。

いやさ、傷自慢とか変態自慢をしたってしょうがないっしょ。そんなのはやることやっときゃいいだけの話で、それでもどうにもならなかったら、わけの分からない作品でも作っていればそれでいいんだ。そんなものをバネにしてプロパガンダに走るってのは、やっぱやめとくべきだと思う。でも、人は俺が思っている以上に暴力を欲しているような気がしてならないんだ。プロパガンダ的暴力だ。ファシズムだ。独裁だ。好きなんだよね。圧倒的な暴力に翻弄されるのが。誰が始めたかとか、そんなことは関係ない。ただただ、でかい力に流されてみたいんだ。それはどっかロマンティックでエロティックな感じがしてしまう。

なんの話だっけ。
ああ、俺のサイトが馬鹿すぎるって話だ。
要するにプロパガンダに走るような馬鹿が足りないという意味で馬鹿なんだ。でもそんなに毛嫌いしているわけでもないんだよなぁ。他人がそういう力に押し流される瞬間とかはゾクゾクして好きだったりするんだ。人が自己を捨てる瞬間は基本的にエロティックだからなぁ。バーゲンに血走るおばさんだってエロティックなんだ。ちょっと浅いだけで。

もうちょっとサディスティックになれるポジションを取り戻したほうがいいのかもしれない。

女の子のことはよくわからないということについて考えてみようと思ったら考える前からよくわからないような気になってしまった。

分からないのは分からないという事実だけであって、どう分かろうと分からないことには違いなんてない。分かるのは自分の幻想だけだ。幻想の修正が限りなく繰り返されるだけ。これは例によって自分の定義に関わることだから、無限ループにハマることだ。そういう状況で客観的に聞こえそうな分析を振り回したところで、話のオカズにはなったって、ただそれだけだって気がする。気がするんじゃなくてほんとにただそれだけだ。分析だの分別は結局のところ暇つぶしに過ぎない。つっても、暇つぶしだってそれなりに重要だけどさ。

要するに女の子のことが分からないということは男の子のことも分からないということであって、行き着くところは他人のことなんて分からないというところに行ってしまうんだ。ここまではシンプルに進むことが出来る。でもこういうのはただのニヒリズムなのでそれは好きくないのだ。つまらなさすぎる。いかに深刻であろうとも。やっぱりどっかでコミュニケーションの存在を信じたがっている自分がいる。これは欲望だ。信仰ではなく。食欲や性欲と一緒だ(食欲や性欲もコミュニケーションだけどここでは少し狭い意味)。お腹が空いたりやりたくなれば、行動を起こさなくてはならない。問題なのはコミュニケーションにおける交換物だ。食物の摂取や精液の排出が、ある機関に組み込まれた代謝であるように、コミュニケーションも提供と暴力と摂取と交換と欠乏と充足と変化と移動とその他諸々を含んだ機関の運動であるべきなんだ。臆病な欲望は機関を停滞させる。じゃあいったいそれらを運動させているものは何なのか。内燃機関がガソリンと空気で動くように、何かが流通しているはずなんだ。それが分かったらスッキリすることがあるような気がするんだけど、どうもよくわからない。

でもこれを書いていてちょっと分かったことがあった。たぶんそれは一つじゃない。たくさんのものだ。ガソリンと空気がどれだけのものと歴史から出来ているかを思い出せば容易に想像できる。化石燃料と地球の歴史。単純であるわけがない。だけどだけど、いつだって身体は全部知っている。ひょっとするとほんとの問題は既に知っている身体を分からないものとして受け入れていないことなのかもしれない。

伝説好きって嫌いだ(物語としての伝説じゃなくナントカ伝説とかって使われ方をする伝説ね。あとは「そして伝説になった」みたいな)。伝説という言葉の意味合いって、国によってかなり違う気がするけど、日本は相当特殊な感じがする。おそらく現代において流通している「伝説」はただの自己防衛のための方法論にしか過ぎないんじゃないだろうか。本来の意味における伝説は自己防衛というよりも遠いところにあるターゲットみたいな感じで使われていたような気がするけど、この日本で流通する伝説はそれとはまるで違う。ベースがオナニズムなんだ。ああ、でもこれって男だけかもしんないけれど。

例によって端折るけど、日本のイジメの構造とか、それをベースにした馴れ合いとか、その結果による暗黙の了解とか、さらにそれをベースにした上の奥ゆかしさとか、それらいっさいが上手く行かないゆえの意固地とか、ひきこもりとか、こういうものが全部「伝説好き」にすごくよく表れている。こんなことを強く思う自分自身がそういうことに囚われていることの証だと思うけど、とにかくウンザリするんです。心理学者とかにいわせれば何もかもエディプスコンプレックスですまされちゃうんだろうけど、そんなものは世界中どこにでもあるんだろうから、もうちょっと具体的なところで実践的に認識したい。それは裏返せば自分がそこから離脱することに必ず繋がるはずです。目を背けたら終わりなんだよね。無視しないように、食っちゃわなきゃいけない。ごちそうさま。
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ガラージュは、明後日からまた準備継続。
それと【ル:通信】もそろそろ発行時期ですね。大したもんじゃないけど登録してくれた人はお楽しみに。

いつものことなんだけど、わかっちゃったと思ったことなんて大したことじゃなかったりするのは知っていつつも書いてみる。

いや、結局どんなに苦しい立場に立たされようが、その立場を苦しいものにしているのは、所詮目の前にいる人間との関係とか、予想されうる新しい人間との関係に過ぎないんだなってことです。特定できる誰かとか予想し得る誰かに恨まれたり疎外されたり憎まれたりすることが苦しさの本質であって、例えば仕事を失敗して、発売予定のお子様向け駄菓子の発売が中止になることや、日本中がインターネットを利用できなくなることや、株の値段が落ちることや、納品が遅れることや、会社が潰れることや、離婚することや、路頭に迷うこととかそういうことは全て人間関係が悪化することのきっかけに過ぎなくて、それによって起きる結果を怖れるが故にそのようなきっかけを避けようとしているだけなんじゃないかと思ったのです。

また当たり前のことに感心してる。
いいんだよ。俺はたぶん当たり前のことにしか感心しないんだって気がしてきた。
でもね、なぁんだ、って気持ちになりました。結局それかよ!って。ただ寂しいだけじゃん!って。そんなもんで金が動いたり、躍起になったり、自殺したり、痴呆症になったり、偉くしてみたりしてるのかよ、って。てか、そんなものだけで社会は動いているんじゃん、って。
ああ、選挙カーがうるせぇ!(現在当地域は選挙期間中)よわっちぃ嘘つきは嫌いだ。

かぶりものはかぶりたくない。厚化粧は嫌いだ。
自分を勘違いしたくないから。
どうせかぶるなら、どうせ厚化粧をするなら、それ自体を冒険の道具にしたいと思う。自分を隠すためではなく。自分を抜けるための。

あんなに他人と上手くつきあえなくて悩んでいた人間が、こうやって饒舌に誰からも見える形で文章を書いていることや、会ったこともない人と活字であれ会話らしきことをしていることが。といっても俺の場合は引きこもりとかじゃなくて、もともと一方的にやりすぎる方の上手くつきあえないだったけど。

一時期の自分にとっては人間関係なんてものは無視することで自由になるより他に選べないほどやっかいで難しいものだった。今でもその延長上にいることには変わりがないのだけど、随分と様子が違う。この俺が好かれたり求められたりする、それがいまだにどういうことなのかよくわからない。

もちろん好かれたり求められたりすることは嫌じゃないし、むしろずっとそんなことを欲しがってきた。でも実際そんな風にされてみるとものすごく混乱してしまう。

ネット上で過敏に振り回される自分が嫌だ。なにも変わっていないはずなのに何かが得られた気になってしまって、それを失うことを怖れるようになる。これはゲームをやってる感覚と一緒だ。失われるのは自分の思い込みなんだ。自分で勝手に作り上げた自己投影としての依存世界。そしてかなりの割合の人々が相手の自己投影を損なわないようにと気を使いながら、自らの自己投影世界を育てようとしているんだ。

でもこんなことは俺がそんな世界に身を置くチャンスを持たなかっただけで、ネット上じゃなくても同じなんだって感じがする。つまり俺もネットによってやっと人並みになれたって事だ。有り難いやら情けないやら迷惑やら。

ずっとそんな寄りかかりあったヌルイ関係を、全てを投げ出してもいいから手に入れたいと願っていたんだけどね。9歳から18歳ぐらいまで。そんで努力もしたけど手に入らなかったので「もういいや、無しにしよう」と決めたのよ。それなのに今さら振り回されるようになるとは思ってもみませんでした。

振り回される理由であるところの願望は消えない。それはかまわない。人なんて変わりゃしないんだから。気に入らないのは自分の弱さだ。たぶんこうなってしまった以上無視ではダメなんだ。頑なさでは対抗できない。だったら何が出来るんだろうと考える。答は簡単。振り回される自分を認めちゃう事だ。振り回される自分より大きくなってしまえばいい。内側に入れてしまえばいい。そうすれば振り回されることは、振り回される"だけ"のことになる。

内側に入れなきゃいけないことが、まだいっぱいある。
そう思える自分は悪くないと思う。

030320.jpgなんか戦争っぽい絵になってしまいました。そんな気はこれっぽっちも無かったんだけど。やれやれです。

ウチにはいろんな動物が入ってきます。
人間、ネコ、ネズミ(石鹸を食べます)、たまに犬。これは大きい動物。ムカデ、ゲジゲジ、ヤスデ、ダンゴムシ、ジグモ(足を広げると6センチぐらいある)。これは足がたくさんある動物。ゴキブリ、カメムシ、アリ(赤アリは要注意!)、テントウムシ、コクワガタ、ノコギリクワガタ、カブトムシ、マイマイカブリ、アオオサムシ、カタビロオサムシ、センチコガネ、いろんなゴミムシや名前も知らないガ、蠅、蚊、スズメバチ、ネコノミや見えないぐらい小さい虫。庭や裏の林まで入れると、さらにこの何十倍にもなります。カラス、ミミズク、オナガ、ウグイス、山鳩、タヌキ、コカブトやミヤマカミキリ、ギンヤンマにヤブヤンマ、最近は見ないけどオオミズアオという大きくてとても綺麗なガも窓ガラスに張り付いていたりしました。

こうやって書くとまるで山奥みたいですが、東京から川を渡ってすぐのところです。でもこの家の造りがもう少しマシだったら、こんなにたくさんの動物が家の中に侵入することはないでしょうけどね。それでもまあ、ビクビクしたり楽しんだりしながらやってます。基本的に動物は好きですから。犬とかも苦手だったりするけど嫌いなわけじゃない。ゲジゲジも苦手だけど嫌いなわけじゃない。ムカデに刺されたら痛くて恐いけど嫌いなわけじゃない。といっても侵入してきたムカデやゲジゲジやアリンコは容赦なく殺しますけどね。恨みで殺すわけではありませんが(さすがにネコやネズミは殺しません。速やかにさっさと出ていって貰います)。スズメバチとかのこっちが勝ち目がないような奴は、そっと虫取り網で捕まえてお帰り願うか、じゃなかったら自分が逃げます。

生き物はみんな自分の場所が大事です。自分の場所を求めてさすらい続けるようなことだって、ある意味それが自分の場所です。だから自分の場所は必ずしも固定的ではないけど、固定的で無いなりの場所というのもやっぱりある。そしてそれがどんな場所であれ、テリトリーが侵されれば自分を守るために戦いが起きる。僕はそんな戦いは起きて当然だと思うし、起きない方が不気味だと思っています。問題なのはテリトリーの定義です。テリトリーの定義は生物レベルに近いほどシンプルです。そして基本的にはそれで困らないように体は出来ている。僕は人間の過剰さを否定したくない。何故ならそれは自分を否定することになるからです。でも僕にとってその過剰さは手の届くところで充分すぎるぐらいに発揮できるし、逆に言うと、そうでない過剰さは、手の届くところで発揮できないが故の歪みのようにしか見えません。つまりカッコ悪いということです。自分がホントには主人公でない戦いなんてサイテーです。

Flashで作品を作るということがどういうことか判りかけてきた。
それはそれで自分的には目出度くていいのだけど、こういう事を書いてもテキストとしてはまったく面白くないということにいつも戸惑う。

例えば「ブラウザ」という名詞を使う。「ブラウザ」なんて聞いたことのない人にはサッパリな単語な訳だけど、実は誰もが使っている「インターネットエクスプローラー」みたいなインターネットを利用してそこにあるデータを判りやすく見せてくれるためのソフトを総称して「Webブラウザ」と言います、と、いちいち説明しないと判らない人も沢山いて、その人達にはなんの落ち度も罪もないのに、でも知らないが為に何を言ってるのかサッパリわからんという状況が起きてしまうことがどうにも気に入らないのです。

これはネットに限らずあらゆる「専門的」とされるようなこと全てに共通している話しで、絵のことでも、マチエールだとかバルールだとか、そんな言葉、知らなくたって生きてくのには困らないでしょ、という言葉が沢山ある。

ところが実際に絵を描いたり、サイトを作ったりしている人間は、マチエールだのスクリプトの繰り返し構造だのに何週間も振り回されたりもしているわけで、今現在のその人達にとっては、とても切実な問題であったりもするわけです。

では、その振り回されている人と、そんな言葉なんて必要としていない人の間には、コミュニケーションの可能性はないのでしょうか?
あって欲しいのです。でも説明すれば済むということではないことだけは確かです。だって判りたくもないことを説明されるぐらいつまらないことはありませんからね。「ブラウザ」なんて単語は知らなくてもインターネットは利用できるわけですからなんにも困ることはないんです。

これは送り手と受け手の問題です。
でもここで送り手は送り手でしかなくて、受け手は受け手でしかない、というのはつまらなさすぎるしリアルじゃないように感じています。そんなのはマスメディアが作り出した幻想です。送り手だって受け手になる必要があるし実際そうしている。受け手だって、「自分は何も作っていない」なんて思っている人でさえ、絶対に何かしらを送り出しているのです。つまり、送り手と受け手は可変的な関係だしそれがあたりまえだ、と、ぼくは思っています。

じゃあいったいどんなコミュニケーションが可能なのか。
ここでいつも途方に暮れるのですが、一つはっきりしているのは、コミュニケーションが成立する基本は「双方が送り手で"も"ある」という自覚があることだと思っています。そういう自覚には「知っている」とか「知らない」とかいうことを乗り越えさせる力がある。充分にわかりやすくやろうとしてもいたらないことはあるし、作品じゃないんだからそんなパーフェクトを求められても出来るわけがない(作品だってパーフェクトなんてことはほんとにはあり得ない)。でも、その自覚があれば「伝わるかもしれない」という可能性は残る。それが残るのならなんとかやっていける。なんであれ、判りやすいのに越したことはないんだ。

と、書いた今日のNEWSは?判りやすい?難しい?
............精進します。

kuro2.jpgkuro1.jpgなんだかよくわかりませんが、露光したような感じです。勝手にこうなってしまいました。なんのネタにもなりません。とほほ。

いや、なんかあるんでしょうけどね。言葉にするだけがいいとは限りませんし。

言葉にするってある種、囲い込むような感じがあります。動物園みたいなものだと思ってます。ほっとかれてるものと檻に入れられたものとはやっぱり違うんですよ。同じパンダでも。かといって言葉を否定しているかっていうとそんなことはない。たぶん言葉のような「切り取る」という暴力がないとコミュニケーションなんて出来ないんです。でも絵だって言葉のように既に切り取られたものであるのも確かです。切り取られたものをさらに切り取るとなにが起きるか。なにも起きません。と、思ってます。それは説明された絵ではなくて、ただの新しく切り取られた言葉になるだけなんじゃないでしょうか。

この手のことをちゃんと説明しようとすると、すぐに混乱して迷路にはまってしまうのが目に見えているので深入りはしませんが、一つ思うことがあるのは、言葉っていうのはすぐに返すことが出来ますよね。同じ言葉で。それでぼくは、絵も同じように絵で返すことが出来ると思っているのです。でもこっちの場合は目に見えにくかったり恐ろしく時間がかかったりする。でもそれは普通にあることなんじゃないかと思っているんです。そしてさらに同じように、音楽にも建築にも全部言えることだと思っています。つまり言葉ではないものも長い目や敏感な感覚で見れば既にインタラクティブなものなのではないかということです。とは言っても気付いたときには相手が死んでいたり、あまりにも微妙でただの勘違いや思い過ごしにされたりもするので、そんなのコミュニケーションとは言えねぇよ!と、言われればそれまでなんですけども。

夜の街をバイクで走っていた。
さっきからわけのわからない不安といらつきが胸に渦巻いている。でも何故そんな風になるのかは知っている。直接的な原因が特定できないだけだ。

俺は浅ましい人間だ。
物欲と安定への欲望に駆られて人に媚びを売りヘラヘラと笑う。人を無視してカッコをつけるのも、正直ぶって当たり障り無いゴミをまき散らすのも、我慢が出来なくなって暴力を振り回すのも結局同じことだ。

その笑い、その態度、その行動、その言動、全てが卑しく浅ましい。

俺はそれしかしていないのか?

イエス。

人のことはどうでもいい。
俺は自分が浅ましいのはイヤだ。俺は自分が卑しいのはイヤだ。絶対にイヤだ。

それなのに俺は浅ましい。けっきょく浅ましいってのはそういうことなんだ。と、そんなことをいってみたところでなにが変わるわけじゃない。こんな言葉は言葉に過ぎない。

呼吸が苦しくなり不安に耐えられなくなってバイクを止めた。

煙草に火を点ける。

通りには沢山のビルが建ち並び、あらゆる場所に看板が取り付けられ、色鮮やかに燦然と嘘っぽく輝いていた。マンションの明かりも車のライトも全てが浅ましさによって成立しているのだ。

世界は浅ましい言葉に過ぎなかった。
浅ましい笑いに過ぎなかった。
浅ましい暴力に過ぎなかった。
浅ましい夢に過ぎなかった。
ほんとにそう思えた。

目の前のビルを指ではじくことが出来そうな気がした。
試しに狙いを定めて中指で思いっきりはじいてみた。
ビルは紙で出来た箱のように夜空に吸い込まれていった。
俺は面白くなって片っ端から指ではじいていった。

車も看板もマンションも通りを歩く人も猫もゴミも自分のバイクもガードレールも目に映る全てのものを指ではじいていった。

残ったものは俺の浅ましさだけだった。
そして自分をはじくことは出来るのだろうかと思った。

出来るわけがなかった。
しかし俺の浅ましさはそれを発揮する対象を全て失ってしまって途方に暮れているようだった。

俺は生まれて初めて自分の浅ましさを見た気がして、ほんの少しだけそいつをカワイイと思った。そして思った瞬間、カワイくなんかあるものかと思った。

ちぇっ、やってらんないぜ!

もしくはR指定とか。
今まで一度も苦情とか来たこと無いんですが、外人のサイトとか見てるとかなりマジメに写真とかとってるような人でも注意があったりするんですよね。

自分では「表現」は本質的な意味でのトラウマになることはないのではないかとかと考えています。たとえどんなに低俗とされているようなモノであってもです。でもそれを利用して無理矢理見せるようなことをすればそれはトラウマになりうる。そこで「トラウマになるような経験に繋がりうる表現」は罪だという議論もあるでしょうが、そんなことを言ったらあらゆる事象は人を傷つけることに利用できるわけですから、全てのものが許されなくなってしまうでしょう。バナナを無理矢理食べさせられたことでトラウマを負ったからと言ってバナナに罪があるといえるでしょうか。

例えば僕は小学生の時に駅前の道路の上で週刊誌のヌード写真を目撃して物凄くドキドキしました。「あの人のお母さんやお父さんはどう思っているんだろう」とか「あんな風に裸を写真に撮られて本にまで載ってしまって恥ずかしくないんだろうか」とか「ひょっとして無理矢理やらされているんだろうか」とかそんなことを思いました。でもそれと同時に強烈な憧れの気持ちも持ちました。とても立派に見えたのです。その立派さというのは自分が手が届かないぐらい遠くにいるという感覚によってそう感じたんだと思います。実際はどうだかわかりません。イヤイヤやってたのかもしれないし、コソコソといじけていたかもしれません。でもそれはどうでもいいんです。自分が偶然出会ったにしろ意志を持って出会ったにしろ、主体的な行動の中で出会う限りにおいては「表現」はトラウマにはならない。

もちろん「表現」がトラウマの自覚へのきっかけになることはあり得ます。でもそれはむしろ治療的です。世の中のあらゆる変態行為が治療的であるように。

結局人が傷つくのは実際の人間同士の関係性が決定的に損なわれるときです。きっかけにはなっても一枚の絵がそれ自体でそのような力を持つことは出来ない。そしてあらゆるものはきっかけになりうる。

ある女の子がまだ三歳ぐらいの時にドラエモンの映画を見ていました。するとそのエンディングで泣き出してしまったのです。感動したわけじゃないですよ。恐くて泣いてしまったのです。それは悪者のロボットが壊れるシーンでした。最初は自分から進んでみていたわけですから、そこまではいいんです。でもそこで「なに泣いてんの、ほら、恐くないよ」といってその場にいさせようとしたら、もう手がつけられないぐらい大泣きを始めました。それをやったのは僕じゃありませんが、まあ、とっても可愛かったです。でも本人はそれどころじゃないんです。これは立派な暴力なんですよね。下手したら急にお母さんが別人に見えてしまって地獄の門番のように感じてしまうようなことだって無くはないわけです。

でも表現のために罪を犯しているのであればこれは別問題なのは言うまでもないです。スナッフムービーとか幼女誘拐とか。アメリカとかがピリピリしているのはどちらかというとこっち側の問題なんですよね。そりゃもう想像できないぐらい深刻な問題になってる。しかしこれもサクバの嫌いな因果関係の話しで言えば、そこまで深刻な問題に発展するような関係性の破綻が既に存在しているということの表れです。

[ru]はとりあえず今のままやっていきます。自分にとってはどの作品も外にでなくちゃいけなかった作品だし、この作品達が原因で誰かを不快にすることはあっても傷つけるようなことはないと思っています。

人は誰でも暴力を使って生きている。たとえ暴力が許されないように関係があったとしても、それはそれでひとつの暴力なのだ。暴力というのは「意味」そのものなのではないかと思うことさえある。

「こんにちは」
「こんにちは、いいお天気ですね」
「ほんとにねぇ、ではまた」

平和的な会話。しかしこれだけでは何も判断できない。いいお天気だという喜びを伝えたくてこの会話が行われたのであれば、それは正しく暴力が行使されたのだ。しかしそんなことはどうでもいいのにこの会話が成されたのだとしたら、それは裏暴力とでもいうべき反作用を引き起こすことになるだろう。

問題なのは暴力そのものの是非ではない。あたりまえのことだけど、局面が多様化するほどややこしくなるのがこの手の問題の常だ。そしてもっとも大事なのは出発点の単純さをどこまでも見失わないということだ。

問題を複雑化する要素として一番やっかいなのは因果関係だ。何が原因だったのか。しかしこれを始めるとどこまで行っても堂々めぐりになることは必至だ。勢い感情的にケリを付けたくなるが後味悪いことこの上ない。これが国家レベルでやられた日にはあんた、それこそ目も当てられません。

じゃあどうします?因果関係の解明で問題が解決するという認識を一度疑って見ちゃどうかと思うのだ。だって何をやろうが暴力であることには変わりない。暴力とは一方的に他者に干渉する行為です。優しい干渉もあれば、絶望的に感じる干渉もある。でもそれが干渉であることは変わりない。そしてこの干渉しているという事実を正しく認識するためには、因果関係の認識はとても邪魔になることが多い。そのような認識は当事者を「今ここ」から引き剥がし、どこともわからない不気味な場所へ連れていってしまう。よく、そんな「何処にいるのかわからない」顔をしたおじさんやおばさんに出会いますがとても不気味です。こういう人たちはこっちがどんなに真剣に暴力を振るおうと思っても絶対に何も伝わらないだろうという気になる。そして恐ろしいことにそれは事実なのです。

結局のところ正当化された暴力ほど醜いモノはないと思うのです。正当化された暴力とは「あらかじめ正しいとされた」暴力です。しかもこの正しさはこれから暴力を行使しようとしている側にのみ通用する正しさです。それ以外の正当化はありません。どんなに賛同者が多くともこの事実は変わらないのです。そしてそのような暴力は因果関係の迷路をさらに深めるだけです。

暴力は使ってみなければわからないものとして使われたときにだけ何かを生み出し得ます。この「使ってみなければわからない場所」とは、他人に干渉しようという気持ちが生まれたその場所です。孤独な場所です。たぶんどんな人にもある理詰めは通用しないような場所です。

でもこんな事を書くと誰もが犯罪のことを思うでしょう。でも僕としてはたとえば「核兵器によって平和が保たれる世界」と「異常犯に殺されるかもしれない世界」のどちらを選ぶかと言われれば異常犯に殺されるかもしれない世界の方が幾分マシだと思います。少なくともそっちの世界の方が悲しみも喜びも普通にありそうに思える。しかし異常犯と核兵器はある意味セットみたいなものなのでこの問いかけ自体がおかしいですけどね。

割と自信過剰でやってきた方なんだけど、たまに自分が物凄く恥ずかしい人間だという思いに捕らわれることがある。そしてそれは、ほとんどその通りでもあったりしてどこにも逃げ場が無くなってしまうのだ。これは結構ツライ。

恥という感情はホントにやっかいだと思う。感じたときには既に恥じているわけだから、恥じていることも恥ずかしく、どこまで行っても恥ずかしいということになってしまう。

普通恥というと、失敗や劣等感によって引き起こされる感情に対して言われることが多いけど、僕が自分を恥ずかしいと思うのはちょっと違うような気がする。例えばさらけ出すという行為。これは言ってみれば積極的に失敗をするとか、進んで劣等感を感じる場所に行くような行為だ。いってみれば露出プレイみたいなもんだ。作品を作るなんてのはある意味露出プレイそのものだと思う。違うのは作ってるときには恥なんて感じないということだ。恥はあとからやってくる。しかも自分が弱ってるときに限って背後から不意打ちされるのだ。そういうときには自分が恥そのものになってしまったような感じがする。

「誰からも許されていない」という気持ち。これは極めて危険でよろしくない思い込みだ。でもそれがいくら過剰で不自然な幻想だと分かっていてもどうにも出来ない。つまり僕が自分を恥ずかしいと思うのは、一過性の恥ではなく、永続的な属性としての恥という幻想を持っているからなんだという気がする。そんなときに一番賢くないやり方は、さらに自分を問いつめることだ。そんなことしたってなにも得られない。病気になるだけだ。

これって解決方法は、今のところ無い。酒を呑むか、頭をひたすら撫でてもらうとか。人生甘えも必要です。

「インターネットって結局コミュニケーションツールなんですよね」ある人と話をしていて僕がそういった。その人も同じように思っていて頷いた。
ただこの場合のコミュニケーションはちょっと限定されている。例えば映画や絵を見ることだってある意味コミュニケーションといえるわけだけど、この会話で言われているコミュニケーションの中には入らない。つまり見る側(受け手)の能動性がある一定レベル以上にあるやりとりを指してコミュニケーションであると言っているわけだ。

例えば買い物。これは立派なコミュニケーションだ。しかも受け手のレベルの高い能動性を必要とする。ゲームもそうだ。掲示板であれチャットであれ「会話」は言うまでもない。つまりインターネットというのは電話やゲームセンターやお店の新しい入れ物だということだ。正確に言うとインターネットと言うよりもキーボードや音声入力端末の付いた計算機を利用したネットワークコミュニケーションと言った方がいいのかもしれない。なぜならネットと言っても入力端末の限定された「放送」という形態では、コミュニケーションツールと言うよりは「窓」に近い機能になるからだ。

ブラウザは「窓」よりも「箱」に近い。窓はそこに映し出されるものがたとえ3次元的であったとしても、受け手のアクションが反映されないという意味では根本的に二次元的だ。箱は違う。箱はまず自分がその中にいるのだ。自分の居場所は窓の外。窓の外では自分のアクションがその世界を変容させる要素となる。なぜなら自分自身がその世界の構成要素として組み込まれた世界だからだ。そこではなにをしようが、あるいはなにもしないということでさえ、その世界を決定していく要素なのだ。

映画を見てその映画にたいしてどのようなリアクションをとろうが基本的にはその映画は変化しない。しかし箱の中では沈黙さえも可変的要素として機能する。なにもかも当たり前のことだけど、この当たり前さをもっと真剣に考えて感じることが出来たら、そこにはもっと面白い可能性がいっぱい眠ってるように思えてしょうがない。

ファッション雑誌を見ていて思ったのだけれど、今のファッションって奇形性を個別性に変換するような試みをやっているような気がした。そんで、これは自分的にはとってもいいことだと思う。

ただここで間違えて欲しくないのは演出された奇形性は逆に個別性への変換にならずに「新しい奇形」という記号を作り出すのにすぎないということだ。それはグループ化であり新しい差別であり依存の温床でもある。でもいくらデザイナーが頑張ったところで一般化したときにはこのような「新しい奇形」に堕してしまうんだろうけどね。

まあ、そういうつまらない話はおいといて面白いのはまずモデルの傾向だ。モデルなんてその体型からして奇形に近い人たちが多いけど、それどころじゃなくてこのモデルに着せなかったらこのインパクトは出ないだろうってぐらい、異端な感じのするモデルが多いのだ。そこへ持ってきてこのところの傾向は割とディスコンストラクション(脱構築、既にある秩序なりルールなりを一度解体するような行為。アシンメントリーだったりコラージュ的だったり)なデザインが持ってこられるから、なおさらモデルの奇形性(と言うか個別性)が強調されるのだ。

これってちょっと深読みすると現代がいかに「見た目コンプレックス」に悩んでいる人が多いかの裏返しって気もする。だから意味があるのだ。「自分は美しくない」「充分は特殊だ」という思いがどれだけその人の人生を台無しにしてることか。そんな時代には「演出以前のより特殊な外観」つまり「奇形性」が一人一人の「個別性」を当たり前のものとして回復するためにとっても重要な役割を果たし得るんだという気がする。

「ちょっとは人の気持ちも考えなさい」
星の数ほどいわれてきましたが、いまだにうまくいきません。多分普通以上に人に気を使わない人間だということは確かなようですが、これは努力で治るようなものではないのではないかとさえ思ってしまいます。別に開き直っている(多少はそんなところもありますが)わけではないのですが、人の気持ちを考えようとすると途方に暮れてしまうというのが正直なところです。もちろん相手には喜んでもらいたいとも思うのですが、途方に暮れたあとには疑問と怖れしか残らないので、今度は自分を追いつめてしまって何もできなくなってしまうのです。それを繰り返していると今度は自分がやばくなってしまうので、勢い人のことは放っておいてワガママ街道まっしぐらになってしまうのですね。

こういう人間の一番悲しいところは冗談が軽く返せないということです。って冗談はかなり好きで年中遊んでますが、それは安心感のある場所での話で、仕事の話をしていたりして相手が冗談を言っても冗談だと理解するのに、電車に乗って家に帰って風呂に入るぐらいの時間がかかったりします。当然僕に向けられた冗談は、行き場を失ってむなしく都会の空をさまようことになるわけです。かわいそうに。成仏して下さい。
冗談が楽しく返せる大人になりたい。一生無理そうだな。

ガラージュページ完成度72%(当社比)
今日は目が疲れてしまってあまり進みませんでした。

テレビに永遠とパチスロの画面が映し出されています。やってるのはもちろんタレントですが、8割ぐらいはパチスロの映像です。これを一体何人ぐらいの人が見ているのかわかりませんが、これが番組として成立のするのって結構不気味かも知れません。ちなみにパチンコ屋って一度も入ったことがありません。関係ありませんけど。

RPGのレベル上げにハマったり、レアアイテムを探したり、アニメや漫画の知識を事細かに貯め込んだり、エロビデオの企画のピンポイントで異常な展開やプランドに対する呆れるほどの情報収集も、つくづく日本ってオナニー帝国だなぁって思います。

自分にだってもちろんそういう傾向はあります。こういうのはヤルしかないんですよね。気の済むまで。気の済むまでやったところで何も変わらないということもあるかも知れませんが、それでもヤルしかない。

でもそれがいくらやったところでオナニーに過ぎないって事は分かっていた方がいい。結局オナニーの本質は「相手がいない」って事だから、本来は何かの代替物のハズなんです。ところがオナニーを繰り返す内に、代わりのものだったはずのものが目標そのものにすり替わってしまう。それが可能になるのはオナニスト同士の共同体があるからです。「俺らこのままでもいいじゃん」ってことになるんです。オナニストは過剰に孤独な人が多いですから、共感できる相手というのはとても貴重でしょうし、涙がでるほど有り難いものでもあるでしょう。だからといってオナニストとしての一生を誓い合わなくたっていいだろうと思うのです。せっかく共感できる相手と巡り会えたらなら、それこそ一緒にオナニストの先を模索することだって出来るだろうに、そんなことを言ったら最後「お前は俺を裏切るのか」って事になるわけですね。

これがオタクなどの一部の人のことだなんてとても思えません。会社もそうだし、学校もそうだし、近所づきあいも親戚づきあいも家庭の中でも、そしてこのネットの掲示板やチャットでも日本中のあらゆる場所でオナニストのぬるくて排他的な交流会が繰り広げられているわけです。やれやれ。

自分がどこにも属していないと感じられることは僕にとって凄く大事なことです。
そもそもあらゆる人はどこにも属していないものだと思うのですが、たまたま行きがかり上どこかに属していると錯覚するようになるに過ぎない。そしてその錯覚はたくさんの思い込みや誤解や暴力的排除や暴力的崇拝を生み出す。なぜ人がそんなにどこかに属するのを欲するのかというのは、僕としては「寂しいから」の一言で片を付けておきたい。

そりゃ寂しいさ。誰だってね。
でも、どこにも属していないって事は寂しいだけじゃない。その感覚がなかったら感じられないようなことが山ほどあって、しかもその中にはいいこともたくさん含まれていると思う。っていうよりこの感覚がないところに大事なことがどれほどあるのかかなり疑問だ。

それにどこかに属することで寂しさが埋められるのならまだいい。埋められないでしょ?埋められるものじゃないんじゃないの。それでも属するんだよね。そこには一つ強力な効果があるから。
それは「忘れる」。
これは相当強力だ。何も解決しないけどやり過ごすことが出来る。しかし忘れ続けて何十年も経って、いざホントに一人になるって時に(死ぬって事ね)怖いだろうね、きっと。だから墓を建てて属し続けようとするんだろうけど...

と、そんなことはどうでもいいんだけど、例えば今日みたいな日、北の方や南の方や地球の裏側ではどうだったか分からないけど、ウチの辺りじゃひんやりした水のような風がほのかにあって気持ちが飛んじゃうくらい雲が高くて、見渡す限り以上に世界は広くて、そりゃあ気持ちのいい日でしたよ。どこにも属していないって、こういうことが気持ちよく感じられるためには絶対必要だなって、ね、思うんだよね。

お菓子とオモチャ。子供の大好きなものの双璧。

この二つに共通しているのって、敷居が低いって事だ。
お菓子の必須条件。食べやすい食感と気軽な形態。
オモチャの必須条件。程良いスケール感と気軽な操作性。
どちらにも怖いことがなくて、ナマの現実に存在するものに比べるとアクセスが容易で、とにかく「今の幸せ」がすぐに感じられるように発明されたものだという気がする。

クッキーをポクッと囓って、口の中に甘い味が広がってシャクシャクと噛み砕く。フワフワしたケーキをフォークに乗せてクリームを崩さないように運んでから、柔らかく溶けるのを楽しむ。あるいは小さな人形と自分も同じ大きさになったような気持ちになって、その人形の大きさで世界を眺めてみる。小さな自動車を自分が乗った気持ちになった手でドライブさせてみる。

こういう事を想像するだけでも、僕の中にはとても甘い気持ちが甦ってくる。それはたぶん古い音楽を聴くのと一緒で、それを体験していた頃の空間や当時の自分の存在がリアルに思い出されるからなのだろう。

でももちろん人はお菓子やオモチャだけで生きていけるわけではない。お菓子やオモチャが教えてくれたのは「世界の入口」に過ぎなくて、本物の自動車を運転することや本物の女の子と付き合うことや食べにくくて美味しい魚を食べることや微妙な味のキノコを楽しむことなんかがその先にはたくさんあるのだ。

しかし、お菓子やオモチャでもないとやってられない人がいっぱいいて、実際自分もそうで(酒もお菓子の内)、そこまで追いつめて(依存させて、あるいは自分から進んで依存して)しまう「今」ってなんなのでしょ。

インターネットも匿名性や距離感の無さや容易さを考えると明らかにオモチャやお菓子の同類だって気がするな。いいとか悪いとかの話じゃなくてね。

呼び出し音が鳴ると必ずビックリしてしまう。はたから見てもはっきり分かるほど、体がビクンと反応する。気を取り直して受話器を取る。喋り始めて言うことが決まっていればいいけれど、そうでないときには何を話していいか困ってしまう。しまいにはいざ切ろうとすると切るタイミングがつかめない。だから今欲しくないもののNo1はもちろん携帯電話だ。

苦手なのは電話だけではない。手紙、メール、掲示板への書き込み、人と話すのもいったん度ツボにはまると自分を見失ってあたふたしてしまう。
と、こんなことを書くとまるでひきこもりの無口君のようだけど、とんでもない。実際はかなりおしゃべりで言いたがりだ。ちょっとでも調子に乗り始めると、これまたやめときゃいいのにというぐらいに喋りまくる。挙げ句の果てには喋り過ぎで自己嫌悪に陥ることになるのに。

ようするに「程良く」ということが出来ないのだ。行き過ぎるか行かなさ過ぎる。コミュニケーション不全。これは疲れるし、あまりイイものではないと自分でも思う。躁鬱病みたいなもので両極だけを行ったり来たりして、安定するということを知らない。
これってちょっと前に読んだ本によると、自己評価が低くてプライドの高い人によく見られる症状だそうな。つまり人格の根本的な部分で決定的な欠如感というか不安があって、それ故に人間関係における安心感を信じることが出来ずに極端な行動にでてしまうんだと。しかしそんなこと知ってもなぁ、なんの解決にもならないよ。他人事としては得した気がしないでもないけどさ、自分にはなんのためにもならない。

喜びすぎるのも、悲しみすぎるのも、根は同じという意味では考え物だけど、喜びが他人との共鳴によって起きた場合には多少は不安を埋める効果もあるだろうから、喜びすぎの方が少しはましだといえるかもしれない。だったら、ドキドキしたりビクビクしつつもこうやって、他人から見える場所で文章書いたり、作品売ったりしてるのが、僕にとってはベストな選択なのかもね。

「たとえ誰からも愛されなくても、志を高くもって生きていく」アダルトチルドレンに関するの本の中でトラウマを抱えた人が生きる支えにしていた決意の言葉だそうです。だけどこの人は、ほんとに誰からも愛されないのには耐えられないので、もう一度自分には決定的に足りない経験があるという自覚の元に、そのトラウマを乗り越えようとします。

僕は18の頃、全く同じ決意をしたことがあります(といってもこれは病気宣言のつもりはこれっぽっちもありません)。しかもその決意はついこの間まで続いていたような気がします。もちろんいまだに引きずってることはたくさんあるし、臆病さや暴力的強引さが無くなったわけではないのですが、それでも他人と自分との間に、根本的な部分での共通点を見いだせる程度には、頑なさは薄れてきたようです。

このところずっと思っていることがあるのですが、それは人はなぜ名前を必要とするのかということです。「病気」という名前。「病名」という名前。「精神異常」という名前。「トラウマ」という名前。「アダルトチルドレン」という名前。「復讐」という名前。「平和」という名前......

このような設問が、おおざっぱで誤解を生みやすい設問だというのはわかっているつもりなのですが、そこにあえて気持ちとしての答えを考えると、「ただ安心したいだけ」なのではないかと思うのです。別に安心が悪いと言うつもりはありません。なのに何故こんな事を言うかといえば「名前のないところには病気もない」のではないかと思えるのです。たとえばの話し、人類全員が「精神異常」だったとしたら、「精神異常」という名前にはどんな意味があるのでしょうか?足りないのは名前ではなくて、異常に対する認識の深さなのではないかと。もしもより多くの人が自分にもっと真剣に向き合ったならば、いらなくなるような名前がどれほどあるだろうかと考えてしまうのです。

しかしこんな事を言ったところで、「自分に向き合う必要のない人は決して自分を見ない」わけですから、何も状況は変わりません。それでも例えば、社会的に必要とされる有効なスキルに変化が起きてしまえば、そんな人たちだって変わってしまうというのも事実でしょう。「今は無理」。これに腹を立てると一日が不幸になってしまうので、出来るだけ平気でいられるような強さが欲しいですが、たまには振り回されることあります。そりゃね。

変態について冷静に考える。
もちろん性的変態のことだ。そして早々と結論。変態なんてただの個別性に過ぎない(思いっきりデカイ声で)。

だいたい僕は多数派と少数派という区別が嫌いだ。
だからなんなの?
マイノリティに真実があるとか、マジョリティに利益があるとか、そんなことどうでもいい。そもそも多いか少ないかを問題にすることに問題がある。それで一体どんな安心が得られるのかを想像するだけでもおぞましい。

ウンコ食おうが、一生正常位しかしなかろうが、どこにも違いなんてない。全ては成された選択であり、たとえそれが犯罪的であったとしても、正常位が犯罪である社会ではそれが犯罪であるように、あり得る限りのリスク(これをリスクと言うべきではないけれど)と共に誰もが今の一瞬と次の一瞬を繋ぎ続けるだけだ。

多分人は、そこにあり得る全ての可能性と共に生きざるをえないし、その中で何が起きようとも起きちまった事を受け入れるべきなのだ。そしてそれを受け入れられない人間は脱落の穴にはまることになる。

僕にとって一番避けたいことは自分自身から脱落することだ。僕は自分の主人でいたいとは思わないけど、自分と共に生きられないことを選ぶなんて考えられないし、何が起きようと自分と共に生きられる勇気が欲しい。

中学生ぐらいの頃から、たぶん30歳ぐらいまで、僕は強烈に自分の理解者を欲しがっていたような気がする。自分に似ている人、自分が尊敬できる人、自分を導いてくれる人、自分を求めてくれる人、少しでも可能性がありそうだと思うと、嫌われるぐらいにしつこく求めたことも一度や二度ではない。恋人同士の決まり文句「あなたとわたしは似ていると思うの」ってやつだ。もしくは「あなただけは僕のことを理解してくれると思っていたのに」でもいい。

大学生の頃だったと思うが高田博厚という彫刻家の家に作品の搬出などのアルバイトに行ったことがあった。その時は兄と一緒(兄は当時彫刻の勉強をしていた)に行ったのだが、その頃は二人してこの人の本にはまっており、相当尊敬もし、憧れも持っていたので、おそろしく緊張してしまった。内心は絵の話をしたり、あわよくば自分の絵も見てもらえるかも知れないなどと、妄想でパンパンになっていたのだが、なにひとつ実行に移すことが出来ず、アトリエに飾ってある彫刻や小さなパステル画や珍しそうな洋書の画集などを覗き見でもするみたいにコソコソと眺めて帰ってきただけだった。

もしあの時自分の絵を見て貰って、ひょっとして褒めて貰ったりしていたらどうだっただろうかと何度か考えたことがある。当時の自分は涙が出るほど喜んだに違いないが、今の自分にどんな影響があるかといえばどうだろう。おそらくたいした違いはないか、もしくは天狗になってダメになっていたかのどちらかのような気がする。

今の僕は昔ほどにはそういう存在を必要としなくなっている。気持ちだけはたくさんあるけれど、不安や孤独の居場所が多少は出来て、外にはみ出すことが少なくなったような気がするのだ。それにこういう気持ちって所詮は自分の投影なんだと思う。だからといって何が変わるわけでもないけど、もっと自分の中に不安や孤独の場所が広がれば、それが結局求めていたものを手に入れるということなんじゃないかと思う。

おそらく僕はあの頃求めていたような理解者に出会ったことはなかったし、これからも出会うことはないと思う。
でも僕を受け入れようとしてくれる人や、僕と真剣に付き合おうとしてくれる人には沢山出会うことが出来た。それで充分だし、それ以上にラッキーな事なんてないと思うよ。

最近自閉症関係の本を何冊か読む機会があったのですが、自分の思っていた定義とは随分違う定義でこの名称が使われているんだということを知りました。

まず僕は自閉症というのは精神異常の症状として考えていたのですが、そうではなくて神経性の機能障害、つまり先天的に脳に正しく情報が伝達されないような障害を持つ状態を自閉症というらしいです。

まあ、この定義については「へえ、そういうことなんだ」という納得で終わったのですが、僕が興味深く思ったのはその具体的症状についてです。人によってどのような症状が顕在化するかは様々みたいですが、一般的な特徴として次のようなことがあげられるそうです。

・ある非常に限定された状況に対して「天才的」な能力を発揮したりするが、本人はそれが社会的にどのような意味を持つのかを理解していない。例えば7歳ぐらいで2000字ぐらいの漢字を書けるとか、いきなり何千ピースのジグソーパズルを組み立てることが出来るとか、異常な記憶力を持っているとかするらしいです。しかし本人はその漢字がどのような意味を持っているかとか、組み立てたパズルの絵が何を表しているかということには全く無頓着。

・自分が興味を持っている一点以外の情報はほとんど遮断されてしまい、通常の会話が困難になったり、意志の疎通が不可能になってしまう。

・環境の変化を極端に嫌い、例えば教室に生徒の絵が一斉に張り出されたりすると、ビックリして怯えてしまう。

・一つ興味を持つと(例えば自分の影が自分が動くことで一緒に動くことに興味を持つとか)いつまでもそれだけを繰り返し、他の情報(例えば自分の名前を呼ばれる)が全く入ってこなくなる。

・この様な理由から、実際の会話において、「オウム返し」しかしなかったりする。これは自閉症患者自身の手記によれば、周りの環境と折り合いをつけるための手段として実践されているようなニュアンスでした。例えば会話に参加できなくても、オウム返しをすることであたかも会話が成立しているような時間が流れるということらしいです。

他にもいくつかあったかも知れませんが、覚えているのはこの程度。そしてこれらの症状をあらためてみてみると、非常に一貫性があるような気がしてきます。自閉症といわれている人は、閉じこもっているわけではなくて、限定されてはいても、自分が興味を持っていることに対してとても深く関わりたいという欲望を持っているように見えます。その欲望が強すぎるあまりに「異常」と思われるような行動をしてしまう。

僕はもし医者の診察を受ければ自閉症ではないと思いますが、これらの本を読んでいて「一体どこが異常なの?」という気持ちを抑えることが出来ませんでした。どれも身に覚えがあるし、当たり前のことばかりです。しかし、実際に自閉症と診断された人と付き合えば自分がとまどうであろう事は想像に難くないです。それでも僕には自閉症と診断された人が「異常」であるとは尚更思えなくなってしまいました。レベルは全く違うでしょうが、自分が他人に対して与えた不快感や他人から受けた誤解を思うと、乱暴だとは思いますが、それぐらいには一人一人は違うものだっていうことで、何の問題もないんじゃないの?と思いたい。切に。

小学校の4年生ぐらいの時、僕は自転車屋さんの前を歩いていました。自転車屋さんには最新型のサイクリング車(この当時はこの呼び名が主流)が並べてあって、もちろん新しい自転車は欲しいのだけれど、買って貰えるあてもない僕はそのまま通り過ぎようとしました。

ところがその日はやけに天気が良かったせいか、アルミや鉄の部品がやけに輝いて見えて、気がつくと僕は覗き込むようにして一つ一つの部品の造形や、ネジの頭や、魅力的なワイヤーの取り回しや、複雑なギヤチェンジなんかに見とれていました。すると今まで平面的に見ていた自転車が、おそろしく魅力的な立体物に変化していくのが自分でもよくわかりました。そしてそれと同時に強力な喜びがこみ上げてきてワクワクが止まらなくなってしまいました。恋に落ちちゃったんですね。いくら見ていても飽きないし、どんなに良く見ても新しい発見があるし、見れば見るほど深みにハマっていってしまいます。そして一、二時間ぐらい眺め回したあげく、僕は家に帰って自転車の絵を描いたのでした。
それから自転車屋さん通いやカタログ集めの日々が始まったのはいうまでもありません。

何かを好きになるときには、必ずこういう「魔法の瞬間」があるような気がします。その対象が人であれ、ものであれ、生き物であれ、この瞬間に経験されている「なにげないものがかけがのないものに変化する」リアリティは同じものだと思えます。この瞬間によって意味のないものが「唯一のもの」になるのです。

でも赤ちゃんとか見てると、こんな時間ばっかり生きているような気がします。何が言いたいのかというと、この「魔法の瞬間」こそが認識のベースなのではないかと思うんです。これのないところでは言葉も言葉として機能しないかも知れないし、感情でさえ生まれないかもしれない。そしてこうして考えてみると、自分が普段、いかに死んだ言葉や死んだ感情で日々の生活を送っているかに愕然とするのです。

「いのち短し恋せよ自分」

他人が考える自分のイメージって、気にするにしても気にしないにしても、それがどちらであるかによってその人の印象が大きく変わってしまうほど影響力の大きい幻想です。

僕はちなみに気にする方(笑)。
だいぶ(ちょっとは?)マシになったと思うけどガキの頃はかなり自意識過剰のやなヤツだったと思います。だって知りたいじゃないですか。今はそれがもし分かったところで何が変わるとも思ってないし、知ることはある意味不可能だという気もしてます。それでも気になるのはなぜか止められない。煙草やめたり酒やめたり(どっちもやめたこと無いけど)するようにはいかないのかもしれません。

要するに甘ったれの寂しがり屋だということだと思うのですが、こういう場合の要求は本質的に一方通行です。ただ知りたいだけなんです。知らせる方にはなんの利益もない。コミュニケーション不成立もいいところです。寂しがり屋があらかじめコミュニケーションとは言えない要求を持つというのはおかしなものですが、甘ったれだから仕方ありません。だからこんな要求が実現するはずもないし、寂しい心が満たされることもないわけです。

賢い寂しがり屋はここで自分の理不尽さを受け入れ不平を言わないようになります。間違っても「なんで僕だけ」なんて思っちゃいけません。これでは寂しがり屋じゃなくて怒りんぼか自閉症になってしまいます。
あとは甘えんぼさえ克服できれば、より正しい寂しがり屋になることが出るでしょう。その時に僕はどんな要求を持つようになるのでしょうか。やっぱり知りたがりの気持ちは持っているでしょうが、もっとリアルで実行可能で一方通行ではない要求を持ちたいもんです。

マジックハンド、最近はあまり見ない気もするけど知ってますよね?こんなの
小学生の頃は憧れのオモチャでした。なぜかウチはこの手のオモチャは買って貰えなかったんですよ。駄菓子屋的いかがわしさが漂ってるでしょ。「王様のアイデア」とか行かないと手にはいらなさそうな雰囲気がプンプンしてるし。
それでもとにかくマジックハンドが欲しくて、物干し竿を引っかけるためのハンガーというか、似たようなヤツがあるじゃないですか、あれを何度かっぱらおうかと思ったか知れません。結局イイ子だったのでそんなことはしませんでしたけど。

他にもアンテナボールペン(正式名称はなんだろう?とにかく車のアンテナの先っぽがボールペンになってるようなヤツ。なぜか蓋は蛍光プラスチック)とかリモコンの戦車とか、遠隔操作するものには何でも憧れてたような記憶があります。
極端な話、ベッドから一歩も動かないで全てが出来たらどんなに素晴らしいかと真剣に考えていました。食事も勉強も遊びも全部。唯一実行に移したのは、子供部屋の外にあった電気のスイッチをベッドから消せるように凧糸で仕掛けしたぐらいかな。三回ぐらい使ったら壊れましたけどね。凧糸で思い出したけど、糸電話もかなりハマりました。

遠隔操作の魅力というのは、その意外性に尽きるような気がしています。体の不自由な人なんかにとってはほんとに有り難いものでしょうけども、元気な子供にとっては、たった60センチ先にあるものをとるのにそんな道具を使う意味なんて何一つありません。移動していないのに手が届く、さわっていないのに戦車が動く、離れたところから字が書ける、話しが出来る。つまり本来あり得ないことをあるように見せるのが遠隔操作の魅力なのです。

これは子供にとってはかなりリアルな体験です。というより、リアリティの基本にはこの驚きがあるような気がします。モノを見たり感じたりする位相がずれるわけです。
いまだに世間では写真的リアリティがリアルの代名詞として使われていますが、そんなのは「死んだリアル」に過ぎません。ほんとのリアリティ、つまり「現実感」は、現実だと感じることなわけですから、写真的現実を見て現実のようだと表現をするのはどこかおかしいです。やはり「俺は今現実と向き合っているぜ」という感覚に対してこそリアリティという言葉が使われるべきです。

話しがちょっとずれてしまいましたが、遠隔操作はかつてはそのようなリアリティを感じるためのとてもイイ素材だったような気がします。でも今はどうも違ってきているようです。今では遠隔操作の方が「写真的リアリティ」になっています。僕が子供のときに夢想した形とはちょっと違いますが、ほんとにベッドから動かないで生活することだって不可能ではありません。でもそれが可能になった今、そんなことを望む人は逃避願望に取り憑かれた人ぐらいでしょうね。

サドマゾヒズム。
これって普通は性的趣味に限られて使われるのが一般的だけど、僕は人間関係とか社会的運動の根本にすごく深くかかわっていると思っています。ひょっとしたら人間関係という運動のダイナミズムはこれがなかったら何も生まれないのではないかと思うほどです。

SMの基本は支配と被支配ですが、現実的にはこの関係はとても錯綜したものになります。例えばマゾヒストが苦痛を感じながらもそれを喜びに感じることで関係が成立していた場合、関係の主導権は明らかにマゾヒストのものとなります。なぜならサディストがマゾヒストに対して喜びに変化しない苦痛を与えた場合には関係は終わってしまうわけですから、結果的にサディストはマゾヒストの喜びに奉仕していることになるからです。
これを経済に置き換えてみると、たとえばプロダクトの制作者と消費者の関係では、一見、市場の主導権は制作者側の方にあるように見えますが、実は本当の主導権を握っているのは消費者側であるというのととても似ています。この場合ならマゾヒストの喜びであるところの苦痛や拘束を、労働や社会的規範に置き換えることが可能でしょう。

と、これはマゾヒストが主導権を握るサドマゾヒズム。
サディストが主導権を握る場合はもっと単純です。これは生け贄がいればそれで終わりです。政治でいえばファシズムです。この場合マゾヒストは完全な依存に快楽を見いだすわけです。優れたアイドルとファンの関係などもこれです(モーニング娘とかはマゾヒスト主導ですね)。

でも僕はどちらにもあまりエロティシズムや魅力を感じません。だって全然ロマンチックじゃないし。結局マスターベーションなんだという気がします。
別にマスターベーションが悪いとかいうつもりはないし、治療的効果としては絶大だろうから、大いにやればいいと思うんだけど、僕はそれじゃつまらないというだけです。

僕がワクワクするのは、たとえばマゾヒストの喜びは「サディストが喜ぶこと」を感じることであり、サディストの喜びは「マゾヒストが喜ぶこと」を感じることであった場合に支配と被支配が入れ替わりつつエスカレートしていくような関係です。
これは普通に考えるとかなり不幸な関係かも知れません。なぜなら関係を深めれば深めるほどお互いが孤独になっていくからです。でも僕は、この孤独はそんなに悪いものじゃないと思っています。たぶんこういう関係は人を遠くへ運んでくれると思えるからです。
そして僕の中では遠くへいくということはすごく大事なことなんです。

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