ru:Tag=[Death]

全ての人間に、死が訪れる、という、平等さは、素晴らしい。

それが無い世界なんて、すんげぇつまらない。

意地悪だったり、ダークだったり、嫌がらせだったり、ひねくれだったり、っていう、そういうものじゃなく、だれもが、死ぬ、俺も死ぬ、その瞬間を迎えることが出来る、その未来感を伴った経験が、自分の人生に必ず起きる、これ以上に素晴らしいことなんて思いつかない。

それを早めたら、起きて欲しいことは起こらない。そのようにしか、起きてほしいことは起きない、つまり起きるべくして起きるようにしか起こらない。その微妙な狭間で、その微妙に見えるけど、そこしかない狭間で、生きようとしている自分が愛おしくて好きだ。

今日はなんか変な一日だった。いろんなものに顔を突っ込んで終わりみたいな。地震も凄かったな。人もたくさん死んでいる。

寿命や病気で死ぬより、地震やテロで死ぬ方が、明日死ぬかもしれない、という気持ちに拍車が掛かる。

死ぬときには加害者を特定しても意味が無いんだ、ということをずっと思っているところがある。死ぬのは自分だから。ほとんどのものは残されるもののためにある。だからそれがどうだってわけではない。だって、世界は、じゃなくて社会は、生きているもののためにあるんだから。

「死ぬのはいつも他人ばかり」というのは寺山修二が言ったことだけど、「生きているのは他人ばかり」といいたい。何が言いたいのかって「死に行く自分」が足りないんじゃないかと思うのだ。アミノ酸が足りないように。もっと「死に行く自分」として生きたいと思う。

死ぬことを楽しむゲームを作ってみたいと思っていた。死ぬっていってもゲーム上で死ぬに過ぎないんだけど、死ぬことが目的であるようなゲームが作りたかった。

死ぬことがリアルであるためには執着が必要だ。だから、システム的に執着を演出する必要がある。大量のアイテムやそれを魅力的にするステータスが必要だ。もし、それがオンラインゲームであるならばコミュニケーションの演出は非常に有効だろう。どこまで自分のキャラに感情移入させることが出来るかが勝負だ。

その上で得たものを失わせるステージを用意させる。得たものを失うことでしか進むことが出来ないステージ。それはラストステージなどではなく、常に対極として存在するステージだ。最初はトレーニング的であっても、最終的には得たもの全てを投げ出さなければクリアできない。アイテムはおろか、育てたステータスもゲーム上で得た関係も御破算にしないとクリアできない。そしてそのステージをプレイすることは強制しない。死にたくない人は永遠と悦楽的なシステムの方だけを遊んでいればいい。

それでも、やるひとはやるだろう、と思っていた。少なくとも自分だったら絶対やるし、やりたい。でも沢山の人がそう思うかはまったくわからない。クソゲーの烙印を押されて終わりになるかもしれない。別に構わないし、いいたいヤツにはいわせておけばいい。俺はやりたいんだから。

自分から進んでそれをクリアしたときに、いったいどんな気持ちになるのかを経験したいと思ったんだ。というか、その気持ちを自分はあらかじめ知っていて、それを表現してみたいと思ったんだ。

トップページが変わってから何カ月も経つので、知らない人は知らないと思うけど、[ru]というのはこれからここでやりたいと思っているプロジェクトに付けた名前だ。それはゲームになるのか、ダラダラしたわけのわからないもになるのか今の段階でははっきりしないけど、この「自分から死ぬ」ということを引きずっているのは確かだ。たぶんここに書いたような、システムを表現にすり替えるようなことは出来ないと思うし、やらないと思う。でもここで言いたかったことはシステム的なアイデアの披露ではなくて、「やってみたいなにか」か「知りたいなにか」なんだと思う。

030405.jpg0304052.jpg雪の降る街で着るものもなくお腹に手を突っ込みながら死んでいくのは淋しいだろうなと思いました。雨の中でずぶ濡れになりながら顔に当たる雨粒の感触が無くなっていくのを感じるのも淋しいだろうなと思いました。JR小岩駅の近くの歩道で立ちションベンをしていたホームレスのおばさんはどんな死に方をしたんだろうと思いました。どんなに淋しい死に方だってあるのだと思いました。雪の街で死んでいく男と立ちションベンのおばさんと自分との間には何も違いがないのだと思いました。スーツを決めた坊ちゃんサラリーマンとエロビデオに出演したくて上京してきたお姉ちゃんと気が振れてみたくてイってしまわれたお兄さんと何もできなくてカッコばっかつけてる学生と子供に嫌われた親と今産まれた赤ちゃんとの間にも何も違いはないんだろうと思いました。どんなに淋しくても全てはあるのだと思いました。どんなときでも全てあるってのは悪くないと思いました。

03_2_22-1.jpg「あなたは死ぬのよ」
と俺の描いた女がディスプレイの中で言った。
俺は死ぬのか。今か、今死ぬのか。
こんなマンガみたいな女に死を宣告されるなんて思ってみなかったぜ。今日はまだ酒も飲んでないし、気分だって最低だ。それなのに死んじまうのかい。もしも明日が晴れるなら、一晩寝てさ、もうちょっと気分のいい場所で死ぬわけにはいかないのかよ。

03_2_22-2.jpg女はドンドンでかくなって俺の視界を埋め尽くし、俺を取り込んだ。これが俺か?この落書きが。ひでぇもんだ。それにしても死ぬのがこんなに簡単でお粗末なものだったなんてがっかりだな。これじゃ夢も希望もあったもんじゃない。お釈迦様だってビックリだ。畜生、もうちょっと可愛く描いてやりゃ良かったか。逆恨みしやがって。最近は可愛く描こうとすると描く気が失せるんだよ。

03_2_22-3.jpg俺はディスプレイと一緒にゆっくりと仰向けに倒れ込み、空を眺めた。

なんてデカイ雲だ。

くそっ、体が動かない。ほんとに死んじまったんだ。それなのに雲のヤツ、馬鹿にしたようなスピードで移動していきやがる。

03_2_22-4.jpg俺は死体でいることにウンザリしたので、死体を止めることにした。最初からわかっていたんだ。死体だから動けない、体なんて捨てちまえばいいのさ。しかしここはいったい何処なんだ?そんな問いかけは馬鹿げていることはわかっていたが、まるで俺は此処を生まれる前から知っていて、生まれたあとにもそれを思い出すように何度も出会った場所なのに、生まれて初めてホントに此処にいるような気がしたのだ。此処は知ってる場所だ。それなのに俺はそれを初めて経験しているのだ。

03_2_22-5.jpgそれがわかった瞬間、世界の密度が急激に変化するのがわかった。これからホントに死ぬのだ。ホントのホントに死ぬのだ。

ホントに死ぬのか?俺が?

自分が死ぬことを考えるのが好きです。自殺の話しじゃないですよ。自分が死ぬということを想像してみるのが面白いんです。でも実際に死んだ後のことは分からないので、死ぬ直前の気持ちを想像してみるんです。出来る限りリアルに。

まず猶予が全くない状態を考えます。今から出来ることは何一つありません。でもまだ生きてはいるんです。同時に死が目の前にあるということも分かっている。よく死ぬときって全ての記憶がフラッシュバックするとかいうけど、もしそんなことが起きるとしても、それが起きる以前の状態なのです。脳だけが思考と感覚の受容をする機能を保っていて、その機能が失われていくまさにその時に自分はどんな気持ちになるんだろう。ということを想像するんです。

その時の場所は別にどこでもいい。広いところで外がいいけど、そうじゃなかったら頭の中だけそういう場所に持っていってしまうことぐらいは出来そうな気がします。だからどこでもいい。

僕は、もし自分が上手くやっていれば、というか自分が考えるようにマトモに生きていれば、これまでの人生で一度も見たり感じたり出来なかったぐらいの最高の気分になれるのではないかと思っているのです。ほとんど確信に近い気持ちです。もちろんその気分に至る直前には痛い思いや苦しい思いもあるでしょうが、最期の一瞬ぐらいはそのような思いから解放される猶予はあるだろうと思っています。
でももし自分がマトモに生きてなかったとしたら、これはかなりコワイです。最初で最後の一瞬を台無しにしてしまうかも知れません。これだけはなんとしても避けたい。チャンスが一回しかないことだけははっきりしているわけですから。

まだ学生だった頃は「俺は今死んでも悔やまないぜ」とかつっぱってましたが、あれはあれで可愛かったなとは思っても、そんなのは結局「他人の評価」を自分の幻想で作り出して、その幻想に照らし合わせたところで「悔やむ」「悔やまない」という判断をしていたんだということがよく分かります。あのころの自分、お前もうちょっと賢くなれよなって感じです。

ところで今日の自分はマトモに生きたのかと考えると、わりと怪しかったりして、コワイことを肝に銘じつつ気分を新たにするのでした。

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