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本日の落書き。一枚目、おばちゃんがなかなかいい手をしていた。二枚目、年賀状用の牛のアイデア出し。毎年やってる干支架空生物シリーズなんだけど、牛は難しい。いつもは進化と適応からデフォルメを考えているんだけど、未来の世界で牛が生き残るとは思えないし、適応も考えにくい。だいたい去年のネタが巨大化したネズミ牛だしなぁ。防御と小型化のバリエーションで何とかまとめたいところ。もうちょっと牛を好きにならないとダメかも。ちなみにこのシリーズでは畸形と病気と内的身体感覚は取り入れないというのが自分の中でのお約束。
皆さん今晩は。ル:ショッピングのお時間です。
本日は本当に素晴らしい商品をご用意いたしました。
大型化するテレビ画面、狭い住宅、失われる家族の対話、増え続ける電子デバイス、肥大し続けるものぐさ願望、これらの問題を一気に解決する素晴らしい商品が開発されました。それが今夜ご紹介するコタツパソコンです。なんだ、天板をモニターにしただけじゃないか、そう思われましたね?確かにその通り、しかしこのパソコンがある生活を思い描いてください。これがあれば家族の会話がメッセンジャーになるなんてこともなく、最大の画面をみんなで共有し、なおかつ日本が世界に誇る最高の安楽であるコタツ文化を享受することが出来るのです。
モニタには120インチの有機ELモニタを採用。高いコントラスト比と省電力を実現しています。もちろんタッチパネル採用でフィンガージェスチャーも全て有効です。また画面はパーソナライズド分割表示に対応しており、それぞれの向きにしたがって同じ画面を回転させて表示させたり、これを利用して対戦ゲームをすることも可能です。
さらに特筆すべきは、このモニタは強化ガラスで覆われており、そこに電子調理機能を持っていることです。つまりお好み焼きを作りながらブラウジングをすることが可能なのです!素晴らしいですね!もちろんもんじゃ焼きだってキムチ鍋だって焼肉だって出来るんですよ!
さらにさらに、暖房器具としての省エネルギー効果も見逃せません。CPUが発する熱、GPUが発する熱、これは全てコタツの暖房熱としてセンサーが感知して温度調節を行うために、パソコンを使っているにもかかわらず通常のコタツとほぼ変わらない電力消費量なのです。その上家族全員が使っていたパソコンの電気代も浮いてしまうわけですからとってもお得です!
これ一台あれば家族全員の夢がかなうコタツパソコン、気になるお値段はたったの5万ゴールド!今ならもんじゃ焼きセットとミカンと黒猫もお付けします!お申し込みは今すぐ!!!
本日の落書き。上のは例によって電車クロッキー。下のはドラゴンみたいな生き物。初めて描いたかも、ドラゴン。今までにも何度か描いてみたいと思ったことはあったんだけど、なんかありがちなのしか思いつかなくて描く気になれなかったんだよね。これも充分ありがちだけど…と思ったらついこないだそれっぽのを描いてたわ。いや、あれはオロチだから。とにかく一度まじめに描いてみたいモチーフ。
本日の落書き。上のは日付が古いけど、最近は同じページでもなんとなく全体が埋まるまでずっと描いてるのがお気に入りです。下のはゲームぽいパースで。
建物は描くのが面倒になりがちです。特にスカスカの木造建築は。ちゃんと描けば嬉しいんだけど、つい端折りたくなってしまう。模型のが楽だとさえ思ってしまう(実際の時間を考えればとんでもないのに)。平面図とかならそんなこと思わないんですけどね。
それはおそらく製作の手間に対して、実現する喜びの分量を天秤に掛けているからなんじゃないかと思う。そこまで描くなら立体を作りたい、立体で見たい、そんな風にモチーフに向き合っているんだ、きっと。3Dだった気持ちのバランスが取れそうな気もするんだが。
手書きブログで描いたやつをPhotoshopでさらにいじった。勇者がうどんを食っているところです。いや、ゲーム画面みたいなつもりで描き始めたもんで。
こういうマップで虫採ったり、キノコ採ったり、魚釣ったり、イノシシ獲ったりするゲームがやりたい。だだっ広いマップで、どこまでも行けて、ひたすら歩き続ける。3Dの主観画面も魅力的だけどさ。でもクォータービューで一番困るのは森の中の表現が難しいことなんだよな。大木の中を歩くのが表現できないんだ。これは散々考えたけど、いまだにいい解決案が見つからない。
あ、それと見りゃわかるけど、サイドバーに手書きブログのブログパーツをくっつけてみた。見たい絵のところでクリックするとその絵のページに飛びます。こっちにアップしてないのもそれなりにあるので興味ある人はどうぞ。
さらに関係ないけど、Tumblrもいじってみてます。Twitterよりは使い道がありそうな気がする。継続的に使いそうなら直接飛べるようにリンク貼ります。Twitterのつぶやきはどうも立ち位置がはっきり出来なくて困る。
きょうはトカゲのブブが死んじゃったので燃やしました。
ルゼルブ号の発射にあたって、私は私が失うものを書き出した。
熟考の結果、書き出しには三日が費やされた。
リストは1723項目にも及んだ。
そしてそれらの項目には
私がこれまで抱え込んでいたほとんど全てが含まれていた。
だがもちろん、
私が失おうとしても失うことの出来ないものは残るのだ。
それ以外に必要なものなどあるものか。
私にはそう思えた。
きのうのバラのイメージです。両方とも手書きブログで書き始めたんだけど、下のは投稿失敗しちゃったのでPhotoshopで少し続きを描いてます。
また手描きブログで。リンク先にあと何枚かあります。この絵は友達限定じゃないと公開しちゃいけないみたいなのでこっちでw
日本画チックな描き方はだいぶわかってきた。この絵はまだかなり適当ですが、線が良く描けてると快感がありますね、この描き方。あとなにより練習になる。でもいかにも過ぎて、どっかで見たような絵になっちゃうのは避けられないな。スタイルが確立されすぎでネタ勝負になっちゃうようなところがある。まあ、それでもいいんだろうけど。色やテクニックの部分ではまだ開拓の余地がいっぱいありそうだし。もうちょっと探検してみたいような気もするが、今のところは漫画だったらアリって感じ。
手描きブログで描いた。サイズが合わないのでリサイズついでにちょっとだけ手を入れてあります。
このところのしょぼしょぼツールをいじっていて思ったんだけど、すくなくとも日本はやっぱり線画の国だなぁと。線の明確さ、線の饒舌さ、線の洗練、そういうものが凄く深く根付いている。怪獣の絵を描いていても、線さえきっちり決まればすごく速く出来そうだっていう感じがしていたんだけど、それは間違ってないようです。
どれが正しいかではなく、今までの自分は線を最後に引くものとして捉えていたようなところがあって、もちろん最初のアタリやスケッチの段階では線を引くんだけど、最後には必ず引きなおされるものとして線が存在していた。曖昧さを維持しつつ完成の直前まで持っていくときにはこのやり方は自由が利いていい。でも素材の制限や時間の制限が強いとなかなかうまく行かない。しょぼしょぼツールはその辺のことを確認するのにとても都合よく働いてくれたみたい。別にどんな描き方をしたっていいんだけど、一発書きは絵の基本の一つだと思った。書道と一緒だな。
LFOのFreakを流してたら描きたくなったので描いてみた。
この曲は怪獣描き用のBGMの一つに入れているもの。きのうはこれを描いたあとに胃が凄く痛くなって何にも出来なくなってしまった。でも何にも思い当たる節がない。変なの。
きのう、DVDでケン・ラッセルのサロメを見た。この落書きはそのイメージ。まあ、映画自体は良くも悪くもケン・ラッセルらしい仕上がり。とても美しいけど映画作品としてはそれほど素晴らしくはない。ただ、ほぼ全編が劇中劇でその舞台自体の人工性がとても好みだった。
嘘が嘘として誰が見てもわかるのにそれが魅力的というのは、なんともひねくれているという気もするが、子供の時からそういうものにはどうしても惹かれてしまう。本物と間違うようなリアリティよりも魅力的な嘘の方が楽しく見える。これを真剣に考えるととんでもないことになりそうなので止めとくけど、ちょっと前に見たメリエスの月世界旅行もまた嘘の魅力にあふれていた。
この落書きとは別に関係ないけど、絵を描いてると言葉が無くなっていく。それは別に困らない。お話を書いていると饒舌になっていく。それで困ることはある。でも、絵を描いていても思考が止まってるわけじゃない。言葉を使ってないだけで。
絵画的思考や空間的思考や音楽的思考の世界は、言語的思考や科学的思考の世界から見れば、さぞかし未開拓で曖昧でいかがわしく見えることだろう。そして、そう見えてしまう人に正しく説明するすべは無い。
しょぼしょぼツールお絵かき熱はやっと収まりを見せつつあるようだ。ちょっと力を抜こう。
まだ遊んでます。きょうから三日ほどはいじれないので、これで落ち着くかなぁ。どうだろ。
絵って、一枚に長い時間をかけていると自分がどの程度描けるのかが見えなくなるようなところがあります。この場合の長い時間ってのは3日とか一年とかってレベルの時間です。たぶんある程度のスピードでやらないと先に進まないような技術の階層があって、その部分が曖昧になっちゃうからです。
ってことで、自分が今どのぐらい描けるのかがだいぶ分かってきた所。
引き続きdrawr。
なんかツールに制限があると、今まで見えてなかったものがはっきり判ったりするんだな。それは技法に対する予感だったり、饒舌さに対する欲望だったり。
うるさい絵は好きじゃないし、いいとは思わないけど、自分のうるさい部分を故意に押し込めとくのは良くないんだと思った。そしてその上で、うるさかった部分がうるさくないものになるようにするのが正しいのかもしれない。と言いつつ、それも一つの方法論に過ぎなかったりする訳だけど。
またdrawr落書き。リンク先にあと何枚かあります。描き順再生なんかも出来るので興味ある人はどうぞ。ちょっとハマり過ぎ。
コンピュータがいじれない場所に居たので、落書きがはかどりまくってしまいました。怪獣は明日ぐらいからまた取り掛かります。
一番上のは電車の人。こんなに描けるほどじっとしていてくれる訳が無いので、印象だけ描いてあとは想像。この描き方は結構いいかもしれない。それ以外のは思いつくままにダラダラ描いたものです。
ちょっと前に書いた描画時間の投稿辺りから、意識的に描き方を変えてます。知ってる形をちゃんとさせることと、偶然性を活かすようにしてる。要は「上手」になるような描き方をしてます。逆に言うと印象に対する想像力を抑えて絵の中の必然性を見ないようにしているわけです。まあ、そんな時期があってもいいかもしれないなと。
drawrで描いた落書き。 むかし、お絵かき掲示板で盛り上がっていたようなことは、その居場所を変えていくんだろうなと思った。言葉が無い場所ってのは他のSNSに比べるとまだ居心地がいい。
pixivで始まった新サービスのdrawrとかいうツールで描いた落書き。とんでもなく不自由なツールだけど、線はなんとなく引きやすい部類。pixivも今までアカウント無かったんだけど、ついでに作成。一枚、今まで未公開の古ーい絵をアップしてあります。興味ある人はどうぞ。Twitterのアカウントも貼っておきます。フォローやリクエストはお気軽に。
しかしアドレス貼っておいてなんだけど、どのサービスもあんまり積極的に利用することは無さそうだなぁ。pixivに関しては、知ってる人がほとんど利用していて、アカウント無いと大きい絵が見られなかったんだよね。あと、pixiv上にしか絵がない人もいっぱいいることもわかった。まあ基本はROM専ってことで。Twitterはここにつぶやきを引っ張ってこれるようにしようかと思案中。
今週は用事がいろいろで怪獣更新は難しそうだ。という言い訳日記です。すんません。とりあえずきょうは飲み会だった。きじめっかと釣崎と俺。なんとも濃いメンツw 猟奇絵描きに死体カメラマンに中二病だよ。メチャクチャ楽しかったけどね。明日は首都圏外郭放水路見学に行く予定。
怪獣の演出用に虫をもっと登場させたいなぁと思って顕微鏡画像とかをいろいろ調べてた。この絵はそれらを眺めた記憶だけで描いたので極めて適当。ハエのイメージです。複眼デカ過ぎです。
そういえば、参考画像とかを集めてもそのまま描くことってまず無いです。理由はそうやって描くのはつまらないから。理解の範囲内ででっち上げるのが楽しい。
それと怪獣のオープニングに2枚ほど付け加えたくなってしまいました。最初の4枚も描き直さないとならないし、今のうちにやっておこうかと思っています(続きも描きつつね。きょうもラフを8枚ほど描いた)。今のところの計算だと、どうやっても半年以上は掛かっちゃいそうだし、先を焦ってもしょうがないよなと。アリスの時が半年。天国への自動階段が1年。ガラージュは2年半ですからね。まあ、時間は掛かるもんだ。
最近の女の子のお化粧を見ていると、なんかもう眼が釘付けになる。厚塗りナチュラルメイクが流行りだしたころは「やけに赤ちゃんみたいなふよふよした可愛いほっぺたの女の子が増えたなぁ、と思った。だってそんなファンデーションが流行っているなんて知らなかったし、まんまと騙されていたわけだ。最近はそれに加えてとにかく眼をでかくして、唇をプルプルにして、赤ちゃんみたいな大人の女性が大量生産されているというわけだ。スーパーに並んでいるビカビカのギャル雑誌とかも、あまりに凄すぎてつい見ちゃうもんね。もう完璧すぎてアンドロイドレベル。ドラッグストアで熱いまなざしで見つめてくるパフィだとか、誰それって感じだし、化粧テクノロジーはPhotoshop効果も手伝って、行きつくところまで来たって感じがしちゃう。
で、本日のラクガキも鈴木その子かマライアかってぐらいにライト強めにしてみた。
01:57
しかし化粧ってのは、もともと祭りや祝い事や舞台の上のものだったんだと思うんだけど、それを日常に持ち込むってのはさぞかしとんでもない労力が必要とされるんだろうな。その労力を発電に使ったらどんだけのエネルギーに変換できるんだってぐらい。化粧を否定するつもりはないけど、化粧にのめりこませる欠乏と、化粧が出来る過剰、化粧から逃れられなくなる依存と、化粧を強制する関係性を思うと頭痛くなってくる。これって食い物にも住まいにも乗り物にも全部当てはまる。可愛いのもカッコイイのも旨いのも気持ちいいのも大好きだ。でもそれが檻になって病気になるぐらいだったら、別にやらなくたっていいんじゃん、って思う。可愛いのもカッコイイのも旨いのも気持ちいいのも、いわゆるハレがなくたって、いくらでも転がっているわけだしね。
ハレは必要。でも今の時代って、ゾクゾクするようなハレ本来の力が発揮できる場所なんてどこにも見当たらない。それが凄く残念。それが毎日をお祭にしようとした結果なんだと思う。次はどうするんだろう。これからどうするんだろう。
カップ麺が目指したものは永遠の生命のフリだ。
それは腐らず、それはお湯を加えさえすれば戻すことが可能で、可変的な永続の時間を予感させる。そのようにミイラなのだ。
ミイラにお湯を注ぐ。単純すぎる再生の儀式を幼稚園児でさえ実行できる。そこにある嘘、そして詐欺、は一瞬飛び越えられる。飛び越えられたように振舞う。そのリアリティを保障してしまうのは、満腹感であるけれど、ミイラを受け入れることは、特別なことではなく、ただの干し肉、もしくは梅干、もしくは梅酒、とかの、それらが実現しているミイラ的な現実と何の違いも無いのだ。
干し肉としての人体を人は想像することができない。少なくとも、干し肉としての自分を想像することはできない。干し肉と化した、物体と、自分との距離を、
発見したのだ。さっきの俺が。
ゴジラのとても太くてとても重くてとても短い足(もちろん「最初の頃の」ゴジラの足だ、と、曖昧に言っておこう)。
あの足を一歩踏み出すためにどれだけのエネルギーが必要とされることだろう。それはもう、もしも、あの大きさの生物が存在したとすればの話しだが、どのような種も比較にならないほどの膨大で無駄なエネルギーであるはずだ。
ゴジラのような生物が生きていくためにあの足は相応しくない。ここにゴジラがゴジラである全てがある。ゴジラはフリークスなのだ。もしくは、病を病んでいるのだ。ゴジラとは異形であるからこそゴジラなのだ。そして、異形であるということは、その生物が本来まっとう出来るだけの生を享受できる可能性が極めて低いことを意味する。
生物としてのリアリティは、正常形だけをもって語られるべきものではない。分類できるものだけが、測定できるものだけが、リアルなのではない。リアリティとはあらゆるものが、区別なく個別のものとしてある状態にこそ宿る。
ゴジラのリアリティとは儚さである。その重い足を一歩踏み出すごとに死に近づいていく儚さである。ゴジラが電車を食いちぎることも、戦闘機をなぎ払うのも、その儚さの上で、切ない暴力となるのだ。
もっとゴジラを思おう、と思った夜。
何の絵だかわからないですね。それでいいんです。これはゲームのプロットです。世界の構造の基本形。いくつかパターンを考えているんだけど、これならいけるかもという一つの形。最近サクバがわけのわからない屁理屈をこねているのも、まあこれのせい。上手く行くといいんだが。
舞台装置が好きだ。
箱の中で完結しているとこがたまらない。別に舞台でなくてもいい。標本箱でもドールハウスでも切り取られた空間の中に成立する世界が魅力的なのだ。その中には物語がある場合もあるし、凍結した詩のようなものが封じもめられている場合もある。どちらも魅力的だ。
ゲームもまた箱のようなものだ。将棋やオセロ、パチンコやピンボールやスロットマシン、人生ゲームやコビットゲーム、そしてもちろんコンピュータゲームも。
考えてみれば絵もまた切り取られた世界だ。多くの現代美術は箱を「制限」として取り払おうと努力したけど、本質的には箱は取り払うことは不可能だろう。なぜなら、人が箱だからだ。箱を取り払ったように「他人に感じさせる」ことは可能でも、本人が箱から出ることは困難だ。むしろ、箱を通してしか箱から出ることは不可能なのではないかとさえ思える。
箱は入れ物であると同時に、出口にもなり得るものだと思いたい。
久々の電車ラクガキ。
これは夜の電車の窓から見えた何も書いていない看板です。ちょっと自分好みに変えちゃってますが。
走っている電車の窓から見える一瞬で通り過ぎちゃうような景色がやけに記憶に残ることがあります。それは蛍光灯のついた待合室だったり、激ローカルな電飾看板だったり、踏切で待っている子供だったりいろいろです。ほんとに一瞬で通り過ぎてしまうのに、何かが引っかかる。
子供のときに、車でも電車でも窓から景色を眺めているのがほんとに好きで、いつでも何一つ見逃すまいとして窓に張り付いていました。あるときはクワガタのいそうな雑木林を探していたり、ある時は宝物が眠っていそうな掘っ建て小屋を探していたりといろいろなんですが、それでもそんな思惑とは関係なしに、ふっと心の中に滑り込んでくる景色があるのです。それは、なんか、ある種のパスポートみたいな物なのかもしれないと、今思いました。

この何日かのサクバ氏、元気満タン10とすれば-7。なのに、テンションは上がる一方である。
今事務的なことは全部わたしがやってるのですが、どこかでポカをやらかしてないかとヒヤヒヤ。まだメールの返事が来てないとか【ル:通信】届いてないとか、とか、とか教えてください。心配してます。
いつものように電車の端っこに座ると、パンツしか履いていない女の子が寝ていたのでその子を描きました。レイプされたとかそういうのじゃなくてただ寝ていたみたいです。最初は寒いんじゃないかとかいろいろ思ったのですが、別に疲れ果てている風でもなく、風呂上がりにそのままコタツで寝てしまったような感じで寝ているんです。目が覚めたら描いた絵をあげようと思ったのですが、駅に着くまでその子は目を覚ましませんでした。やっぱり上着ぐらい掛けてあげるべきだったでしょうか、って普通掛けてあげますよね。なんで掛けてあげなかったんだろう。きのうは僕も寝不足の上に二日酔いでどっか麻痺していたようです。ヘロヘロになって描いていましたもん。ちゃんと家まで着いたでしょうか?今頃になってものすごく心配になってきてしまいました。
というのは全部嘘です。ヘロヘロだったのはほんとだけど、って誰も信じてないか。いつも電車に乗るのは夜の上り電車なのでガラガラなのです。ちょっとぐらい変なことがあっても不思議じゃないような。実のところこのすき間が魅力的に見えて絵を描いている内に自分がはまりこんでみたくなっただけなのでした。
今日は大事なメモ帳を忘れてしまって、もっと小さなメモ帳に描きました。俺としたことが。やっぱり小さすぎると描きにくくてダメです。なんか悔しいのでいつもメモ帳にセロテープで貼り付けました、今。
この絵は顔の歪んだ人と水底の藻を食べる哺乳類です。でもガラージュサイトのことが頭から離れなくて、いまいち集中に欠けています。あとちょっとなんですが、例によってウィンドウズでもちゃんと表示されるようにいろいろ直さないとダメみたいだし。
それと電車の中で思いついたのですが、【ル:通信】購読者には先行予約もアリかなぁ。せっかく取ってくれているわけだし。このところサボりまくりですが。ああ、でもまだわかんないや。まあ、いろいろと考えてますってことで。
だいたいこの手のデフォルメを考える時って、まずモヤ?とした印象があって、それが記号的で平面的なイメージになって、というより模索されて、その後に立体がついてきて、そしてまたモヤ?とした印象を思い出して、という繰り返しです。今はほんの少しだけ立体に行こうとしているところ。この辺のやり方はバイクのデザインを考えているときにそんな風になっていった。
自分の場合何か絵を描こうとすると、その形とか構造が完全に把握できていないと、描いているときに楽しくなくなる。惰性になったり、うやむやにしてしまったりして、気分が悪くなる。その上描こうとしているものがよく知りすぎているものであっても楽しくない。
未知のもので、なおかつ形が把握できていて、しかもそれが自分の素直な気持ちや何かしら深いところに繋がる道に通じていないとダメだ。これって時間が掛かる。だから例えば頼まれ仕事とかではほとんど許されない。いきおい、よく知っているものの使い回しになってしまう。基本は描きたいものが描きたいというだけの単純な話なんだけど、かなりわがままにならないとまったくチャンスがないなんてことにも簡単になってしまうのだ。
だからチャンスは自分で作ることにしたのさ。
この手のよくある構図に結構弱い。すぐに反応してしまう。といってもピンとこないかもしれませんね。狭い通りとか水路とかがあって、進行方向に真っ直ぐに向いていて、横からいろんなモノが飛び出したり横切ったりしているような構図です。ステレオタイプな構図はステレオタイプになるだけあって、それなりに表現力みたいなモノを持っていたりするものです。背中を見せて横たわる裸婦とか、机に肘をつく学者とか、上から木の葉っぱがかぶさっている湖とか、そういうイメージには飽き飽きもするんだけど、飽き飽きするぐらい量産されるだけの力もある。結局そのような構図を使っていても「見飽きたよ」と思わせなければいいだけの話で、それが上手くいったりすると、逆にとんでもない力を持ったりもしちゃうわけです。映画のマトリックスなんていい例です。みんながよく知っているステレオタイプの寄せ集めなのに、ビジュアルインパクトとしてはとんでもない影響力を生み出した。なんだかんだいって、ステレオタイプであるかどうかなんてどうでもいいことなんです。魅力はどれだけ入れ込んだかによって決まる。その力だけが作品の価値になる。そういうものだと思っています。
今日の絵はちょっと時間があったので電車の中以外でも描いています。やっぱり往復50分ちょっとじゃ限界ある。片道一時間ぐらいあったらかなり充実しそう。今はあっというまに着いちゃうし。
で、建物です。
上のはそれっぽいけど適当もいいところです。雰囲気だけ。そしてきのうの小さい部屋を描いてから思ったのだけど部屋=乗り物というのはありかもしれない。ゲーム的な視点で考えると、部屋の中(乗り物の運転室)が主観画面になって、移動は俯瞰したような三人称画面になる。ガラージュも似たようなものだったけど、部屋そのものが移動してしまうところが違う。そしていわゆる建物は、給油所とか修理工場とか市場とかホッパーとかの住むためのものじゃない建物だけにしてしまう。てなことを思いついて20分ぐらいで描いたのが下の絵。見た目的にはもう少し部屋的な要素を表に出した方がよさそう。試しに何枚か描いてイメージを膨らませてみよう。ボツるかもしれないけど。
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ガラージュは今日ライティングソフトが届きます。
果たして上手く行くでしょうか.........
部屋というかトイレというか風呂場というか、まあそんなものです。部屋にも機能みたいなものが欲しい(世界観の話です)。寝るとか食べるとかそういう機能ではなくて、療養マシンとかエネルギー発生装置とかそんな感じの機能。コックピットみたいな部屋。この辺はもう少し細部をつめていかないとリアリティが出てこないな。
こういう小さな箱を描くのって好きなんです。宝くじ売場とかたばこ屋とか門番の詰め所とかの極小の切りつめられた空間には独特な雰囲気が漂います。ジオラマみたいな感じとか中の人間と入れ物が一体化したような感じとか。トイレなんてのはこれの最たるものです。
ルのプロジェクトに関しても最初はこんな感じの部屋が10個ぐらい並んでいるだけのものを考えていたのです。一番描きたいものが描けそうな気がしていたし。そしてそれぞれの部屋にいくつもギミックを仕込んでおいて、それらの繋がりでゲームを演出してしまおうかと思っていた。でもそれだと怖ろしく閉じた世界にしかならなさそうだったので外の世界をやっぱり入れてみようとなったわけです。でもギミックだけで成立させるやり方はとてもウェブに向いているのもたしかで、今やろうとしていることは自分にとって技術的にかなり敷居が高いかもしれない。まだこれっぽっちもはっきりしたシステムが決まっている訳じゃないので、そっちの方も頭の隅っこにおきつつ考えています。おそらく一番問題になるのは移動とセーブだろうなぁ。
乗り物の形は適当ですが、仕留めた獲物を運んでいるところです。乗り物はいろんな形があったほうがいいような気がしてきた。極端な話キャラクターの数だけあるとか。基本的には自家用車として考えています。上り線と下り線があって追い越しは無し。漁師が舟を持つみたいに機関車を持っていて鉱石を掘ったり動物を捕まえたり患者を運んだりしている。
ガラージュをやっていたときに、登場するキャラクターが30人以上いるのですが、最初は全員違う形にしようとは持っていなかった。ザコは同じ形でもいいかと思っていたのです。でも実際作り始めたらそうは行かなくなってしまいました。当たり前といえば当たり前なんですが、まあ甘かったわけです。俯瞰したような視点で画面上で2cmぐらいで表示されているんだったらそれもアリなんでしょうけど、それぞれがアップになるんだと逃げようがない。
密室ミステリみたいな話ならともかく、コミュニティがあったり冒険をしたりするような話だと登場人物はそれなりに多い方が楽しめる。でもキャラクターなんてそんなに量産できるものじゃないです。100人も考えたら相当ウンザリするんじゃないかなぁ。ウンザリしていちゃいいものなんて出来ないから楽しんで出来るようじゃないといけない。そうなると自ずと作れる世界の限界も見えてくるってものです。小説と違って見た目も作らないといけないわけだし。
そろそろ作ろうとしている世界のスケール感みたいなものがつかめてきた、かもしれない。設定をダラダラと書き連ねて見ようかと思ったのだけど、今の段階でいろいろ言葉にしちゃうと、よく無さそうなので止めておきます。絵にはそれほど抵抗がないんですが。言葉って「約束」みたいなところがあるから変な風に縛られちゃう。
それと今考えているのは外側の世界です。これに宗教みたいな医学みたいなものが加わっていくと思う。性的だったり、狂信的だったり、病的だったりするような。ただのユートピア的な世界はどうでもいいんです。現実に移し替えるならそれも楽しいけど、あくまでもフィクションなので技術と生態系だけでは終わらせたくない。病んでいる部分とかは根本的に内在されているものだと思っているから、その部分をデフォルメして目に見えるようなものにしてしまいたい。
きのうルクセンブルクの鉱山軌道などを紹介しているサイトで電気機関車の画像などを漁っていたのですが坑道の入口のトンネルの上にマリア様の像が飾ってあったりするんです。実際人がたくさん死んだりもしているわけだから、どうか無事で帰ってこれますようにって気持ちにもなるわけで、それがとても魅力的に見える。お守りとか讃えるための飾りとかを持ったり作ったりするのは、言ってみれば精神的な技術体系であるわけで、こっちの技術もおろそかにはできないのです。
左の方が機関庫です。ちょっと機関車が建物の中に入っているところを描こうと思ったら、そのままズルズルと右のページまで広がっていってしまった。普通すぎて今考えている感じとはずれてますが、こういう感じは基本的に好きです。自分が育った場所がバラック(掘っ建て小屋みたいなもの)のような工場がいっぱいだったこともあって、チープでインダストリアルでユニークなものにどうしても惹かれてしまう。北海道の開拓時代の建物とかも(洋風で立派なのじゃなくて開拓民の小屋とか工場とか)ぐっとくる。ローテックなのに合理的とか、修理に修理を重ねて原形をとどめていないような機械とか、機械を使っているんだか機械に使われているんだかわからないぐらい身体に機械との関係が刻み込まれてしまっているおじさんとか、そういうイメージには逆らえない魅力を感じる。
おそらく問題にしているものは管理の在り方なんだと思う。自給的だったりインディペンデントだったりしないとこういうイメージにはリアリティがない。管理が出来る限り個人に近いところで完結していないとダメだ。だからSFとかで引用されるような高度管理社会のイメージには、たとえホラーとしてでもあまり魅力を感じない。高度な技術も複雑な見た目の装置も、実は「誰か」が作ったものだ。「誰か」がよく見えるようなのがいい。
ほんとにだいぶ怪しくなってきた。でもまだ動きそう。燃料はメタンガスとかオイルだな。生物から作れるものがいい。模型の蒸気機関だって大人10ぐらい引けるのはたくさんあるから、この程度のボイラーでも1トンぐらいはいけるんじゃないかな。詳しいことは調べてみないと分からないけど。
そういえばジェットエンジンはどんな構造で動いているんだろうと思っていろいろいろ調べていたら変な記事を見つけた。ソーラーセイルとかブラックホールを利用した宇宙旅行とか、かなりお馬鹿さんで楽しい。ソーラーセイルはともかく、ブラックホールは生きて帰れないだろうって感じ。怖ろしいほどの圧力に耐えられる隔壁が出来たとしたって細胞なんて分子レベルでバラバラにされそうだけど。でもういうことを考えている人って好き。
蒸気機関で燃料にガスとか液体燃料を使えば火室の配置や圧力のコントロールがかなり自由に出来るんじゃないかと思った。蒸気機関はいかに効率よく熱を高圧蒸気に変換させるかがまず第一だから火室が理想的な場所に配置できるのがまず重要なんじゃないかという素人考え。そして出来上がった蒸気の圧力低下のロスを少なくするには蒸気溜からシリンダーまでの距離が出来る限り短いほうがいいはず、たぶん(でも蒸気を送る管にフレキシブルな素材を使わないんだったら、ここでの損失は問題にならないほど小さいのかもしれない)。あとは使用済みの蒸気の排出効率と二次利用がどうなるか。ターボチャージャーみたいなブースターも可能なんだろうか。排出効率向上のためには既に使われているけど。圧力を回転に変化させるのにシリンダーを使わずにタービンを使って変速機をつけたりバックギアをつけることも考えられる。見た目重視だとロッドは魅力的だけど。
って、なんの話だか分からない人にはさっぱりですね。ごめんなさい。かなり適当なことを言っているんです。基礎知識も大して無しに。専門家が読んだら腹抱えて笑っちゃうような。でもそんなに大間違いはしていないと思うけど。いつもわりとこんなことを考えたいたりもします。ガラージュの時も似たようなものでした。とにかく既視感はあるにしても説得力のある変なものに登場してもらいたいのです。そういうのにとてもワクワクする。そういうのが自分で見てみたい。平気で何ヶ月も同じことについて考えていたりもするので見ている人には退屈かもしれないけど、それぐらいじゃないと変なものは出来てきません。だからみんな途中は見せなくなる。でもここはそれもアリなので退屈な人にはごめんなさいです。
そういえばさっき駅から歩いてくる途中で坂道に並ぶ住宅街から歌が聞こえてきました。最初レコードかと思ったんだけど、実際に歌っているようです。歌はなんて言うタイトルだろう「ハァレ ルゥー ヤ」っていうよく聞くやつ。空は曇っていたけど窓を開けて女の人が家の中に洗濯物を干しながら歌っていたのでした。思いっきり大声で気持ちよさそうに。とっても得した気分になりました。世界中の台所や物干し台で歌が歌われているんですよ。実は。台所や物干し台で歌が歌われている限りは世界は平和だっていうか大丈夫だっていうか、そんな気になりました。
エンジンをいろいろと考えていました。
本気でちゃんと動くものを考えようと思ったら10年あっても足り無さそうな代物なので、少しは嘘をつきます。ていうかちゃんと動くエンジンっていうのはほんとに凄いものです。よくあんなものを考え出したと思う。真剣で無謀で馬鹿な遊びの結果です。莫大な時間と浪費と睡眠不足と血と汗と涙と死体と情熱と設計図と金属と爆発と酸素と木と石炭と蒸気と石油と思いつきとその他諸々のあらゆる積み重ねによってあるのが今のエンジンです。それだけのものに簡単に新しいアイデアで対抗しようなんていうのは、そうそうできるものじゃありません。そういう奴は好きだけど。
というわけでエンジンです。
エンジンっていうのは何らかのエネルギーを回転やら推進力に変えるものです。エネルギーは高圧蒸気だったり、圧縮された混合気の爆発だったり、電気だったり、落ちる水だったり、風だったり、波だったりします。そしてこれらの内、燃焼によって得ているエネルギーは燃料によって作られます。さらに燃料はガソリンだったり軽油だったりアルコールだったり木だったり天然ガスだったりするわけです。考えようによっては電気だって落ちる水や風によって作られているわけですから水や風を燃料(燃やす訳じゃないので言い方は変だけど)だといってもそんなに間違いじゃない。ウチのコンピュータは原子力で動いている、かもしれない。こういう風にエンジンなら、エンジンという一つの装置を枠を広げて考えてみると見え方が変わってくることがいっぱいあります。
例えばちょっと前にエネルギー変換率のことを書いたけど、内燃機関が燃料にガソリンを使っているということを、油田とか石油王の豪邸とか海底パイプラインとか石油精製プラントとかタンクローリーとかガソリンスタンドとかスタンドの店長とかお兄ちゃんとか、さらにはオゾンホールとか環境対策会議とかまでも含めて考えた場合に、そのエネルギー変換率はどの程度になるのかということを薪を燃料とした蒸気機関と比べたら一体どんな数値が出てくるのかが知りたかったりするわけです。つまり燃焼室の中でのエネルギー変換率がいくら良くても、その燃料が有限であったり、とんでもない装置や社会的システムを必要とするようであったら、それは果たしてエネルギー変換率が良いと言えるのだろうかということです。おそらくは石油の価格がそれを利用したいという欲望が勝つほどにはリーズナブルだという一点だけで、このエンジンはは成立しているんじゃないかと思えてくる。
そんなわけで蒸気機関もやっぱり捨てがたいなと思うわけで、新しい内燃機関を考えるのは難しいなとも思うわけで、でも電気を利用したモーターも面白い設定が出来そうな気もしていてどうなりますことやら。
今晩からは新しいメモ帳だ。わいわい。
ノートとかスケッチブックを最後まで使うのって気持ちがいい。いろんな事がぴったり来ないと最後までなんてなかなか使えないものだ。少なくとも自分はそう。高校の頃のノートなんてお気に入りのラクガキ帳以外は、表紙だけ凝りまくりの絵が書いてある使いもしない現代国語や数学のノートばっかりだった。世界中のノートは最後まで使われなかったノートの方が圧倒的に多いんじゃないかと思う。
書き取りとか丸写しとかじゃなく、何かやろうと思ってノートを買って、その自分で始めた計画でノートが埋まっていって最後の一ページまでそれが遂行されるって、意味もなく憧れちゃう。正しい気がする。いったい何に憧れているのか、何が正しいのか、まったくもって面倒臭くて考える気も起きないんだけど、とにかくそんな気持ちになる。なりません?なるんですよ、俺は。それが壮大な計画だったりして、一万ページ分のノートブックとかだったりするとウットリきちゃう。
普段のラクガキにコピー用紙を使っているのって、その辺が楽に出来るからってのはあるんだろうって感じもする。何ページとか決まっていなければ、好きなだけ増やし続ければいいわけだし、紙の質感さえ気に入ればあとはなんの問題もないし。整理は面倒だけどね。
上の奴はほぼ原寸に近い感じで見えているんじゃないかな。小さいメモ帳なのでこのぐらいです。ちょうどこのウィンドウを少し縦に長くしたような感じ。コクヨのやつで緑のハードカバー、方眼紙タイプになっているSKECH BOOKという名前のもの。結構お気に入り。また補充しに行かなきゃ。
ラクガキするときは家では殆どシャープペンシル。Faber Castelの0.5mmの一番高い奴。お尻の消しゴムがメチャクチャ使いやすい。でも電車とかでさっさと描くにはもっと濃い方が気持ちいいのでボールペンとかです。こっちはぴったりするのを捜索中。まあ、なんでもいいんだけど、細めで濃すぎ無くて抑揚が出て描き味がいいのがいいかな。ちょっと前までのは拾ったボールペンで描いていました。
そういえばデジタルばっかりだったから画材とか漁ってないなぁ。別に未練があるとか、もう触らないとか、そういうのじゃないけど、あんまり疎いのもどうかって気がしてきた。
なんかこうなってくると、目の離れた人と言うよりも、目が横についている人と言う方が相応しい感じだな。バランス的に。
マンガで目が大きいのって、いかに目から人間が情報をえているかの表れだ。より人が情報を得ているものを誇張すればそれだけ伝わりやすくなる。これは一面的なことだけど、基本にはそういうことがある。これを突き詰めていくとキャピキャピの二等身キャラや萌えキャラが生まれてくるわけだ。完全に記号化されたキャラクター。それはそれで面白いと思う。エジプトの壁画だって似たようなものだ。でもね、それじゃ表せないものだってもちろんあるわけで、結局は世界や光やモチーフとのバランスなんだ。例えば極度に記号化されたキャラクターと精緻な機械的装置を同時に表現するのは難しい。コラージュ的な手法で違和感を見せるのだったら面白いだろうけど、一体化させるには無理がある。まず匂いというか感触というか居心地というかそんなものがあって、そこから全てが導き出されてこないと世界観みたいなものって見えてこない。あとは作る人間がその世界にどれだけ身をおけるかだ。望まれなかった世界は救われない。
お絵かき掲示板はほんとは紙の代わりに使いたいぐらいなんだけど、どうもうまく使えない。お絵かき掲示板どころかPhotoshopでさえそうなんだから、なかなか道のりは遠そうだ。遊ぶための道具にはなっても考えるための道具にはならないんだ。慣れの問題もあるけど、自分が紙に描かれたものに愛着を感じてしまっているということがかなり強いんだろうと思う。
とは言ってもまだ全然不自由なツールであることも確かだ。これはCG全般。でも不自由を無視できるぐらいの魅力や可能性もあるから使うんだ。超ハイスペックのWindowsマシンにして、筆圧検知プラグインも入れたら鉛筆で紙に描くぐらい快適に線が引けるんだろうか。
技術の制限は表現も制限する。あたりまえだけど。そしてデジタルに限らず全ての表現は技術の制限の上でなされている。あたりまえだけど。ただ水彩絵の具や銅版画と違って、デジタルだけはそのシミュレーション的な特性ゆえに常に上を期待される。見方を変えれば、デジタルが生み出したタイリングや塗りつぶしやレイヤー合成などの可能性とは別に、デジタルだけは、アナログに比べて決定的に劣っている「速度」という問題を抱え続けているんだろうと思う。それってとってもかったるい。自分ではどうにも出来ないということも含めてほんとにかったるいのだ。
哺乳類って肉食動物は目が正面を向いていて、草食動物は横を向いている。肉食動物は目の前の獲物の距離を正確に計る必要があるからで、草食動物は周りの状況に常に気を配る必要があるからそうなっているらしい。魚類はどうなんだろう。よくわからないや。
目の離れている子や近眼の子や童顔の子が可愛いといわれるのって、やっぱり攻撃性が低いような印象を与えるからなんだろうと思う。メガネも同じかも。攻撃性が低い=許容範囲が広い、とか、優しい、とか、感受性が豊か、とは絶対ならないわけだけど、そうであるように見えるってだけで惹かれたりしてしまうわけだ。単純だけど条件反射みたいなものなので仕方無いといえば仕方無い。
これをマイナス面から見ると、何を考えているかわからない、とか、いきなりキレそう、とか、自分のことしか見てなさそう、とかなるわけだけど、それでさえ魅力になったりもするので必ずしもマイナスとは限らない。
まあ、そんなことはどうでもいいんだ。なんとなく目の離れている顔のデフォルメに興味がある。エルフの耳が長いように目の離れている種族が居てもいいような気がした。
今日は暖かい。きのうは春一番。早すぎない?
花もいっぱい咲き出すね。
最近よく描いてます。バイクは事故ったまんま、まだ買っていないので電車に乗っているんで。でも電車に乗っているからっていつでも描けるわけじゃなくて、やっぱり向かっているのものがないと描けなかったりします。だからいい傾向です。
これは手が吸盤になっている3等身キャラ。普通の手でもいいんだけど、どうしようかなぁと思っている。あと養殖海豚みたいのを考えていた。食用、燃料補給用、その他諸々用、クジラみたいに捨てるところがないような感じで利用されている家畜水棲哺乳類。すんごく浅い水槽に泥水みたいな水が満たされていて身動きできないぐらいギチギチに飼われているの。でもまだ全然はっきりとした設定じゃないです。入れ物の全体像が見えてくるまで、こんな風にいろんなディテールを積み重ねていって、核になる部分が出来ると、スッキリとしていく。そしてそこからまた細部が生まれてくる。いつもそんな感じです。
鬼板は2/15までで休業するそうです。何度か描かせてもらっていたお絵かき掲示板なんだけど、今日ぐらいしか描く時間が無さそうだったので突撃しておきました。参加したかったのに今まで見ているだけだったって人も、へぇ、そんなところあったんだって人も是非。
ガラージュのCD焼きは、なんか上手く行きそうな気配。とりあえずマックでは大丈夫っぽい。あとはウィンドウズで動作確認。これが問題なければマスタリング(どんな環境でも再生できるようにフォーマットやデータを調整する作業らしい。これがとっても高いんです。8万とか)抜きで入稿できるから安く上がるはずなんだけど、ダメだったらライティングソフトを買ってこなくちゃならない。それでもマスタリングを頼むよりはずっと安い。元のオリジナルデータをそのまま焼くだけだったら、おそらくなんの問題もないはずなんですが、マニュアルを付け加えたりもするので色々心配なのです。