40過ぎぐらいの親父がいる。作家崩れかなんかで今は農業をやっている。昔の同級生が外国に行くとかで知り合いが集まる。ある人はデパートの経営者、ある人は営業課長かなんか、あとは正体不明の人とか。なんとなく大人のさぐり合い的な会話があり送別会が終わる。主人公の親父は正体不明の人と二人になる。
「お前はなにをやってるんだ?」親父
「宝探し」正体不明
「なにを探してるんだ?」
「ひみつ」
「そうか」
「なあ、あんた自分以外はみんな馬鹿だと思ってるだろ?」
「.........おもえもな」
「ああ、たぶんみんなそうだ。いいんじゃないか、卑屈じゃなくて」
「そうだな.........」
黒田硫黄という漫画家の「茄子」というマンガの一場面(正確じゃないけどだいたいこんな感じ)。まだ一巻しか読んでませんが、面白いです。
しかしなんでしょう、この枯れ具合は。全体は茄子を巡る短いエピソードで構成されているのですが、どの話にも独特な突き抜け感があって、風通しがいいのです。
この風通しの良さは、登場人物達がみんな一人の人間として荒れ地に突っ立っているようなとこから来るように思えます。当然ほとんどの関係は「すれ違い」です。でもそのすれ違う一瞬になにかが交換されるのです。その微妙な交換をなんともうまく表現している。だから思いっきり寂しいのにセンチメンタルじゃなく、絶望的なのにニヒリズムでもない、絶妙なスタンスが生まれている。
文学とかならそんなに珍しいものでもないけど、マンガでこれをやるってスゴイです。あんまり熱心にマンガとか読む方じゃないので、自分では他に思いつきません。でも一緒に読んだ高野文子の「きいろい本」は別な意味で凄かった。微妙さで言えば、こっちの方がもっと微妙です。こんなのもし外人とかが読んだら理解できるんだろうかってぐらい。
余談ですが高野文子はコマ割と構図が天才的です。あんなに神経の入った構成は他じゃ見られない。しかし20年マンガ描いてて単行本6冊って、さもありなんって感じだけどいやはや。