ゴジラのとても太くてとても重くてとても短い足(もちろん「最初の頃の」ゴジラの足だ、と、曖昧に言っておこう)。
あの足を一歩踏み出すためにどれだけのエネルギーが必要とされることだろう。それはもう、もしも、あの大きさの生物が存在したとすればの話しだが、どのような種も比較にならないほどの膨大で無駄なエネルギーであるはずだ。
ゴジラのような生物が生きていくためにあの足は相応しくない。ここにゴジラがゴジラである全てがある。ゴジラはフリークスなのだ。もしくは、病を病んでいるのだ。ゴジラとは異形であるからこそゴジラなのだ。そして、異形であるということは、その生物が本来まっとう出来るだけの生を享受できる可能性が極めて低いことを意味する。
生物としてのリアリティは、正常形だけをもって語られるべきものではない。分類できるものだけが、測定できるものだけが、リアルなのではない。リアリティとはあらゆるものが、区別なく個別のものとしてある状態にこそ宿る。
ゴジラのリアリティとは儚さである。その重い足を一歩踏み出すごとに死に近づいていく儚さである。ゴジラが電車を食いちぎることも、戦闘機をなぎ払うのも、その儚さの上で、切ない暴力となるのだ。
もっとゴジラを思おう、と思った夜。