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どこまで行っても、言葉は誰かが発したことでしかないのだから、そんなの自分ではない他人が発したことであるなら、どんな表現であれ放っておけばいいじゃん、って考え方と、

どんな言葉であれ、誰が言ったかにかかわらず、どんな影響を他人に与えるかは予測できないのであるから、出来る限り慎重であるべきだ、って二つの立場の間で、人はいつも揺れている。

そして、基本的に自分は前者だ。
だがそんな自分でも、放っておけないで不平を言いたくなったりもする。でも前者であり続けるためには全ての努力を注ぎ込んでも惜しくないと思う。なぜなら、自分自身が前者の立場で無いと死んでしまうからだ。生きているのが辛くなるからだ。

ではそれが、自分が発した言葉であった場合にはどうか。その言葉は、同じように放っておけない人から攻撃を受けるだろう。その言葉は無視できる人から無視されるだろう。しかしそうのようにしてしか生きていけないならば、その状況を受け入れればいいだけの話だ。孤独と賞賛は矛盾しないし、疎外と情熱の目的地も矛盾しない。つまりストレスを超えた孤独の僻地に慣れればいいだけの話だ。

追記:
愛には慣れていないなぁ、とつくづく思う。
愛で生きている人は、こんなことは簡単に飛び越えるのかもしれない。それでも僻地の感覚は残るだろうけど。その僻地に生息するリアリティが、可愛いやカッコイイやセクシャリティによって維持されているとすれば、それらを無視することはとんでもない暴力だということになるな。

追記2:
愛の定義は男が女に向けた幻想に染まっている。もちろんそれを超えた宗教的共同幻想にも染まりまくっている。別に違う単語を当てはめればいいとも思わないけど、せめて男愛と女愛は分けたほうがいいんじゃないかと思うな。きっと中学生男子がスッキリすること間違いなし。

あらゆる日常的関係性から自由になるためのテクノロジーは既に存在している。ただしそのようなテクノロジーはそれを利用する個人に対して一定のリスク(おそらく現状の社会的常識に照らし合わせれば受け入れがたいような)を要求する。だからと言って、さらに、そのリスクをも回避できるテクノロジーがあれば最高じゃん、と思ってはいけない。そんなものは幻想だ。身体的な資本主義においては、それが回避できることはあり得ないのだ。なぜならそのリスクと自由は切り離すことが出来ない、同じものの一側面に過ぎないからだ。

満足という概念は、ほとんどの場合、他人との比較、もしくは他人が定めたリミットラインによって規定される。つまりほとんどの満足は、結果として他人への依存を形成する為の欲望以外の何者でもない。

もちろん、そうではないような、身体的で生理的な満足だって普遍的に存在する。しかし現代の飢えを生成する日常的で恒常的な満足への欲望は、依存を導くための仮想的な他人によって作られているのだ。だから重要なのは、そのような他人を自分の中に見出し、それを認め、その他人を追い出すことだ。

進化は何度でも繰り返す。それは寄せては返す波のようなものなんだ。
でも最初の波と次の波は決定的に違う。
おそらくは波もスパイラルを描いているのだ。
最初の波のもたらした結果の上に次の波は重なる。
ストロークは繰り返されているのだけど、
最初のストロークと次のストロークは同じストロークではない。
その事実を感じると楽しくてしょうがない。
バラ色の魔法に包まれてしまう。
自分が常に次のストロークで生きていられることは
これ以上ないぐらいに幸せなことなのだ。

予感に導かれて、構造の力学に従ってみる。
そこで、新しい形に出会う。

でもその新しい形は、予感というプールの内側で形成される。
それはしょうがないことだ。
だって、予感から始めたんだから。

そしてその予感は
新しいかもしれないけど
いや、新しいんだけど、
陳腐なのだ。

予感のプールが小さいからだ。
こういう状態に対して「井の中の蛙」というのは、たぶんとても正しい。
25mプールじゃなくて、2500mプールとか、2500000mプールとかに
出会いたいのだ。

予感は快感だ。
小さくとも、大きくとも
それは快感だ。

そして快感は良いものだ。

だが、その快感の、先の快感に行かなければ、
治療的な快感の先に行かなければ、
見えてこないものがあるんだと思っている。

科学の蓄積とか
文明の連なりとか
知識の体積とか

そういうものが人を小さなプール中に押し込める。

しかし、もちろん、誰もが他人の経験の上に自分を組み立ててはいる。
それは責められるような事じゃない。
それを責めちゃいけない。

そんな風にじゃなく
大きなプールの中にいたはずなのだ。
元から。

技術は何度でも発見することが出来る。
それは正しい。

伝えるべきは遺産ではない。
墓ではない。

予感 プロセス 実現 拡散
吸入 圧縮 爆発 排出

そのサイクルを何度でも繰り返すことが出来ることを証明し続けることなんだ。

まだやるの?
じゃなく、ずっとやるのだ。

誰もが身体飛び越えたくて身体を無視する。羽が生えていたらよかったのに、とでも言いたいように、自分の身体を見ない。無視された体は悲しむ。そして、その悲しみに対して代償を要求してくる。それが病気であり故障であるのだ。痛みであるのだ。

身体は正直、って言うのは簡単。でもそれが言えることにはなんの意味も無い。そんなことは理解にはならない。もちろん身体は正直だ。だが重要なのは、どんな風に身体が正直なのかを感じることなのだ。

今年1年、俺は今までの人生でおそらく最も多く自転車を走らせた。そして今までの人生で最も多く金属を削った。その削られたカスを集めて山にしたら、ちょっと感動するぐらい削った。

なんでそんなことをするのだろう?その答えは判りきっている。それをしたいとずっと思っていたのだ。そんな風に身体の声が聞こえるように、多少は成長したのだ。そしてそれが嬉しくて愛おしいのだ。

たぶん、そうやって開放された身体は、今まで思っても見なかったような道を見せてくれるだろう。そのことを思うと、とてもワクワクする。そのワクワクは終わりと共にあるワクワクだ。それってどういうことかと言えば、終わりなんてものは、実は終わりじゃなく、フィクションがフィクションの中に収まるって事なのだ。フィクションから開放されることこそが、身体を飛び越えないってことなのだ。

だから、たとえ身体を飛び越えた代償として病気になり痛みに向き合わざるを得ないとしても、それがその当事者にとって、人生そのもののように感じられたとしても、それをフィクショナルだといえる場所に立てるということは凄く重要なのだ。

明日を生きられる勇気と共に

より良い絵を描きたいという欲望を、他人の評価基準が鈍らせる。
「これぐらいなら充分上手い絵だよね」とか「これ以上描いても意味無いよね、だって充分伝わるでしょ」とか、そんな気持ちが、描き手であるにもかかわらず、鑑賞者としての自分も同時に存在してるという、避けられない構造のかなかで正当化させられてしまうのだ。

しかし、それは他人ではなく、完全に自分の問題なのだ。自分の中に含まれている「自分社会」の問題なのだ。社会は個の中にこそ作られていて、おそらくはそこにしか存在しない幻想なのだ。そして、そんな個の連なりが、互いに牽制しあうテンションによって構築された構造物として集団が形成されているに過ぎないのだ。この構造に見られるような緊張関係が、今より少しでもほぐれるようなことがあれば、どれだけ人間のうちにしか存在しない「社会」が単純化されることだろう。

メカニカルな表現が好きだ。
音楽しかり、絵画しかり、立体しかり、ダンスしかり。
その本質はおそらく正確さにあるんだろう。
正確さからは程遠い技術しか持っていないのにも関わらず。

正確なだけの表現が嫌いだ。
音楽しかり、絵画しかり、立体しかり、ダンスしかり。
なぜなら正確さは過去に属するからだ。
その気持ちが俺を設計図の上を飛び越えさせる。

だからメカニカルな正確さの指標に従いつつも
その軌道は正確さでは測れないメタレベルの運動に従っている事だろう。
深い谷が水の流れによって刻まれるように、
道はそのように刻まれていくのだ。

優しさも暴力
暴力は応力
応力に良いも悪いも無い
応力のバランスだけが問題なのに過ぎない
現在の応力に相応しい場にいられるように
身体の基本構造は作られているのだ、きっと
その基本構造を流動的に踊れるかどうかだけが問題なのだ

長い間モノを作っていると、と言っても、自分では長い間モノを作っているなんて実感は大して持っていないのだけど、まあそれでもいろんな状態を経験したりする。自分から湧き出てくる意欲の喪失もその一つだ。

昔はコレが怖くてしょうがなかった。というより、今までコレが怖くなかったことなんて無い。人の創作意欲なんてものは、おそらく9割方は、憎しみだとか、喪失感だとかに基づいているものだ。だからこそ、ある病に侵されているときにはとんでもないテンションで眼を見張るような作品を作っていた作家が、そこに一定の充足が訪れたとたんに陳腐な作品を作り出したり、若い時には欲望にさいなまれつつ、道を見出そうとしてがむしゃらに走っていた人間が、ひとたび道に嵌ってしまうと輝きを失ってしまったりするのだ。

かと言って、そこに他人の幸せだの、崇高な理念だの、嘘っぱちの思想だのを持ってきて意欲の代用にするなんてのはもってのほかで、むしろ最低だとしか思えない。そんなものは口を満足させたいだけの人に任せておけばいい。

意欲が無いなら、意欲が無い状態を享受すればよいのだ。創作意欲は無くとも、食欲や性欲はあるわけだから、十分生き延びることは出来るわけだし、それでなんの問題があるのか。自分の仕事だったからといって、なぜ嘘をついてまで意欲のある状態を演じる必要があるのか。そしてその意欲の無い状態がもし死ぬまで続くとしても、それはそれででいいではないかと思う。

やるべきこと、やりたいこと、やらなければならないこと。そういう表面的な主体性の関わり具合による区分は、実は物凄く現代的な一過性の社会における区分なのであって、少しも本質的な区分ではない。やることやって、やらされたこともやって、やらなきゃいけないこともやって、やりたいこともやって、その動機や欲望の方向がどんなであれ、それをし続けるだけでいい。

その空白は、精神的な(もしくは肉体的な)サイクルの一つの局面に過ぎない。そして意欲の空白における外部の情報の何と豊穣なことか。その豊穣を見ないことは、なんてもったいないことだろう。

一つのものをずっと見ていられるのは、自惚れに浸っていられる時ではなく、想像力を働かせている時だけだ。その対象が昆虫であれ、機械であれ、服であれ、家であれ、景色であれ、人間であれ。

モジュール化:規格が標準化され、その規格内において交換可能なシステムを作ること

モジュール化の可能性はあるところでは過激に進んでいるし、あるところではイラつくぐらい停滞している。例えば家電製品では、ほぼ完全に部品のモジュール化は無視されている。いくら省エネだと言い張ったところで、モーターやスイッチの寿命が来れば、その部品の代替品を手に入れることも出来ずに製品そのものが使えなくなり買い換えざるを得なくなってしまう。なんと言う無駄。

コンピュータの世界ではモジュール化はかなり重要になっていて、モジュール化を前提にしないでは市場が成り立たないぐらい重要な概念になっている(これをもっともっと拡大して、ソフトウェアや言語の世界まで拡大したってたぶんなんの問題も無い)。だが、こちらの世界では前提となるべき規格の更新が速過ぎるの問題だ。

モジュール化は、作る側、もしくはメンテナンスをしながら使う側の個人の自由度を飛躍的に高める。しかし一方で、既存のモジュール規格では実現できない革新的なアイデアの普及を阻む。冬眠と春の爆発の両方を抱える技術的フェーズだ。しかし現状を見たときには、どうみても規格の策定が追いついていないとしか思えないぐらい両者のバランスが悪い。モジュール化のメリットはもっともっと消費者と言われているような個人レベルに降りるべきなんだろうと思う。

電池を交換したり、洗濯機を買い換えたりするようなぐらいしか選択肢が無いようなモジュール化のレベルはどう考えたって低すぎる。モジュール化があらゆる大量生産品にもっとディープに採用されるようなシフトは貨幣への依存を低めることが出来るし、なによりも発見と創作の喜びを高めることが出来る。生きている時間を自分の側に引き寄せる助けになる、はずだ。

なのにそれがなかなか普及しないのは、生産者が技術を秘匿して消費者から金を巻き上げたいからでは無く、消費者といわれている人々が生産者といわれている人々に依存したいからなんだろう。

他人が作ったものを、どっちが素晴らしく、どっち劣っているかと比べることなんて、くだらない。そんなランク付けに意味があるなんて思えない。他者を並べて比べるということは、自分の肉体を放棄することだ。必要な知恵なり情報は、常に自分の肉体との関係おいて定義されない限りは自分にとっての意味を成さない。

モノを作る時に肝心なのは、どれだけ平常心を保てるかだ。だがそれは平らな状態じゃなく、常にぶれ続けている状態だ。綱渡りをしている状態がバランスを取り続けている状態であるように。だから平常心とは、自分がぶれていることを感じ取れる能力だ。

おそらく、何かを作ろうと思うときなんてのは、かなりぶれて揺り動かされている状態なのだ。そして作り始めると、まずその傾きに囚われるし、それが収束し始めると、別な傾きが顔を出す。そのぶれを取り続けることで精度の高い何かが出来上がる。最初からぶれていないものなんて作れないし、最初からぶれていないように思えるものなんて、作る意味が無い。

動機になったぶれは、作る側からしてみれば、喜びと期待以外の何物でもない。冒険の始まりであり、危険の予兆であり、怖れを伴い、ぞくぞくするものだ。その湧き上がる何かがぶれを取り続ける勇気を与えてくれるのだ。

昔バイクのデザインを考え始めた頃、自分は今まで、なんて二次元的にしかモノを見ていなかったんだろうと驚き呆れたことがある。どんなデザインを考えてもあくまで二次元の域を出ず、何一つマトモに形に出来る最終形を認識できていなかったのだ。対象を見て描くならどんなものでも描けるとか自惚れてもいたので、その発見は結構衝撃的だった。

そして今、また同じことを思っている。自分の外側にある対象に対しては三次元的に認識できると自惚れていたのに、自分の身体や動きに関しては、呆れるほど二次元的思考の世界に囚われていることに気がついたからだ。そして冷静に考えてみると、自分が三次元的にモノを見ていないことなんて、まだ山ほどあるんだなって感じがしてきて、それは絶対真実なのだ。

やることいっぱいだわ。

甘えと依存が悪いものだとは思わない。
それは薬のようなものだ。
ただし、死ぬまでそれを続けるものだとも思わない。
自分の死という卒業しないとならない締め切りのあるものなわけだし
早いとこ卒業できるに越したことは無い。
急ぐ必要は無いが、確実に卒業する必要がある。
そのために努力する必要がある。
自分の生きる意志において。可能なら他人の巡り会わせを待つことなく。
おそらく甘えと依存はサバイバルの為の一つの方法論に過ぎないのだ。

何かを作ろうとするときに、作ろうとするものが要求してくるものを、まず全面的に受け入れなくてはならない。その要求をあらかじめ限定するような作り方には全く意味が無い。そんなものは作る必要が無い。だからその時点で必要なことは、その要求にどれだけ身を任せてダイブ出来るかという能力だ。絵でも自転車のサドルでも変わらない。

限界までダイブすることが出来れば、作るべきものの骨格が出来上がる。しかしここから先の形を与える行為を単なる表層的なデザインであると認識することは間違っている。デザインは滑らかに繋げることではない。単にバランスを取ることではない。様式に当てはめることではない。ましてや様式を発明することでもない。おそらくデザインとは生物の進化と同じく、応力を適正化する行為であるべきなんだと思う。しかもその応力には、単なる力学的な応力だけでなく、光や音や表面構造などの、微細な応力関係も含まれるのだ。おそらくそこでは、さまざまな波長のグルーブを感じ取ることが出来る敏感な感覚が必要とされるだろう。

つまり最初に要求に全面的に従ったのと同じように、今度は骨格が要求するものに全面的に従えばいいのだ。それは難しいことでもあるかもしれないけど、曇っていなければ難しいことではない。力を注ぐべきは曇らないことだけでいい。

人には暗闇が必要だ。
人には沈黙が必要だ。
自分から触手を伸ばさないと認識できない空間が必要だ。
レセプターだけで居ることは腐敗への道だ。

今日という日を振り返ろうとするのは意味づけをしたいからだ。
昨日という日を、去年という一年を、いつかの夏を、これまでの時間の全てを
振り返ることは
意味づけをしたいからなのだ。

なぜ意味づけをしたいのか
そもそも意味づけるということはどういうことなのか?

意味づけるという行為は
思い出という箪笥に整理するためにあるわけではないはずだ。
それは確かに分類学的で言語的で科学的方法論に
繋がるような意味づけであるかもしれない。

しかし意味づけるという行為にはもう一つの側面がある。
身体的で非言語的な意味づけだ。
人は経験を振り返ることによって精神へのダイブを深めることが出来る。
意味づけるということは経験をダイブのための道具にすることだ。

経験が道具になるためには
よく身体にしみこませる必要がある。
そのしみこませることこそが振り返ることであるべきなんだ。

他人によって発見された法則に普遍的価値を置いてはいけない。
同じ法則であっても自分が発見する必要がある。
法則の普遍性を否定することなく
法則に出会わないといけないのだ。
そのための道具だ。

脳は身体を不活性化させるために使うのではなく
身体を活性化させるために使うべきなんだ

12:14
これはどうでもいいことだけど
そうしてみると
他人に対してズルイと言うことは
自分が自分自身に対して向けた表現だってことがはっきりする
他人をズルイと思うことは
自分の身体を不活性化したいという脳による依存的欲望の表れなんだろう
12:22
さらにほんとにどうでもいいことだけど
「つまり」ってなるべく使わないようにしよう
だって詰まってないし

どうも単なる韻で使ってしまう
言葉ってつくづくメロディの支配下にある
そしておそらくメロディの快楽の本質はダンスなんだ

かつては、
三人称はエンジニアリング、もしくは科学。
そして一人称は身体知。

必要なのは、
一人称のエンジニアリング、もしくは科学。
そして三人称の身体知。

余計な金なんてこれっぽっちも無い。しかしたびたび物欲は沸いてくる。そんな時どうするかと言えば、必要な金を稼ぐでもなく、借りるでもなく、ガマンするでもなく、ただひたすらそれがほんとに自分の欲しいものなのかを調べまくる。場合によっては超安価な誰も手を出さないような中古の代替品を手に入れて、それを壊すぐらいまでいじりまくり、要求を確認する。そして物欲を喚起したものが、どんなものなのかが理解でき、それが自分にとって相応しいものではなく、自分が手に入れたいものは自分が作らなかったら存在しないのだ、というところまで持っていければ、信じられないぐらい平穏な日々がやってくる。主体が自分の手の内に戻ってくるからだ。それから運がよければ、その構想は実現されるし、運がなければお蔵入りとなる。

ただしそのような手法が適用できるのは、技術的な問題がある程度自分の中でクリアできることが前提となる。例えば俺はCPUなんて作れない。それは買うしかない。デジタルカメラの撮影素子なんて作れない。それは買うしかない。それでも、欲しいものがカメラやコンピュータではなく、写された写真や描かれた絵であれば、そこにはまだこの手法を適用する余地は大いに残っている。重要なことは、最終結果から判断するということだ。何のためのコンピュータなのか、何のためのカメラなのか、何のための乗り物なのか、何のための日常なのか。どのように描きたいのか、どのように写したいのか、どのように移動したいのか、どのように生活したいのか。それをイメージできさえすれば、自分だけに許された脇道なんていくらでも発見できるものなんだと思っている。090105.jpg写真は今日の水元公園。現在の折り合いによって写された写真。3年半程使っている130万画素の携帯カメラと、激安の中古部品で組まれた自転車と、今日の気持ちいい天気によって生成された一枚。

なぜみんな他人の認識や行動に熱心に耳を傾け興味を示すのだろう。それをしたところで、せいぜいウェブ上でニュースを再生産したり、飲み会で自慢の種に使うぐらいにしか興味がないのに。

一年に100冊の本を読むことは多すぎると俺は感じる。一年に100本の映画を見ることは多すぎると俺は感じる。一年に一万本のニュースを読むことは多すぎると俺は感じる。別にそれをしている人を非難するつもりは無い。それが出来るということは、それだけの欠乏があるんだろうし、仕方が無いことだと思えるからだ。それをしたい人はそれをすればいい。しかしそれでも多すぎると感じることは変わらない。俺はたぶん一年に3万枚以上の画像を見ていて(下手したら10万枚とかそれ以上)、それは多すぎるのだ。

一年に100冊の本を読むことと、一年に一冊の本を書くことは比べることが出来ないように隔たっている。そして100冊の本を読むことより、一冊の本を書くことによって得られるものの方が、比べることも出来ないぐらい多いことは、ごく普通に起きる。そしてそのような経験は、クリエイターだの芸術家だのの話ではなく、例えば鍵をなくして家に入れなくなってしまった時に、鍵屋さんをお金を払って呼ぶのではなく、自分ひとりで窓ガラスを割って家に入るように日常なのだ。

普通に学習と呼ばれているものは、学習ではない。それは単なる立会いだ。出産に立ち会う夫が決して生むことは無く、生んでいるのは妻であるように、その場合の真の学習は妻にしか起きない。いくら他人に立ち会ったところで、自分に起きる変質は無いにも等しいごくわずかなものでしかないのだ。さらに言うならば、立会いを繰り返しているような状態は、他人になんて興味を持っちゃいないのだ。自分にも向き合わず、他人にも興味を持っていない。その上、そのような宙吊りの状態にいられることが、平常であり、日常であり、平和であるとさえ思われているようにしか見えない。

隠しちゃいけない。誤魔化しちゃいけない。
それってガチガチに感じるかもしれないが、隠して誤魔化すことを維持することに比べれば、どれだけ省エネルギーでシンプルなことか。

人の行動のほとんどは反射神経に支配されているように思う。
で、
その反射神経が何によって定義されたかと言えば
自分の生命に対する危機感だろう。

危機感を感じそれを学習した結果
考えること無しに対応できる反射神経が形作られる。

だとすれば
危機感の認識が深まれば
新たな反射神経がそれまでの反射神経に上書きされることも起きるだろう。
それが起きないことは健全ではない。

考えやアイデアがまとまるまでの時間なんて、ほんの数分から数秒だ。ただ、その短い時間に辿り着けるかどうかをいつでもコントロールできるかというとそうは行かない。それはこの日記を書くんでも、何年もかけてゲームを作るんでも変わらない。どんなものであれ、何かを作ろうとしたときにはその「まとまる時間」の奇跡に出会う必要があるし、その時間は追えば去るような時間なのだ。

そのような時間の本質は、意思や言葉がそれを妨げる壁にしかならないような時間であるところに現れている。その一瞬とも言える時間は、常に外側からやってきて、俺を支配する。俺が成すべきことはその時間を受け入れられる器であることだけだ。そしてどのようにすればその器であることが出来るかといえば、器であることに欲望を向けない時にだけ器であることが出来るのだ。なぜなら器は欲望など持たないからだ。

自分の体を殺す必要は無い。それもたぶんマイナスだ。これじゃまるで禅問答だけどその通りなんだろう。でもそれって、誰でも日常的にやっていることでもある。つか、それが普通にデフォルトだったりする。意識せずとも。むしろ意識しないからこそ。人は何かを成そうとする時に限って間違い迷い迷路にはまる。器であることを忘れる。

人を変えるように関わることが出来ないことには絶望している
なのに、その変わらない人を愛することは出来る

絶望とは望みが断たれるということであって
それを悲しいことだとは思わないようになった
そのように絶望するのは日々に相応しい
そのような絶望に絶望という名を与えたい
恨みと依存と過去を含んだ絶望は嫌いだ

そして愛し始めることは希望に満ちて容易だ
誰でも気軽に愛し始めることが出来る
それは恋から始まる

だが愛し続けることは困難だ
そのようには名づけたくない依存された絶望によって
欲望が遮断されるからだ

それでも絶望を
単なる関わり方のレッスンとして捉えるならば
愛し続けることは可能性に彩られる

俺とスズメは隔たっている
スズメと隔たっていることを悲しんでどうすんだ
俺はスズメを愛することが出来る

俺とゴキブリは隔たっている
ゴキブリと隔たっていることを怒ってどうすんだ
俺はゴキブリを愛することが出来る

同じように俺と俺の子供も
俺と俺の親も
俺と俺の隣人も
同じように隔たっているのだ

絶望することは必要なのだ
それを悲しむ必要は無いのだ
そこから始まるのだ

つまり
孤独だってことだ
それも
そこから始まるってことだ

果てしなく思える日常といわれているような繰り返しだけが
それを教えてくれる

削るという現象は
削られるものより硬いものによって
可能になる

思われているかもしれないが

実際には
削られるものより
柔らかいものによって
削られることのほうがずっと多いのだ

風が砂を削り
水が岩を削り
感情が人を削る

それは時間の違いでしかないのだ。

みんな数字に置き換えることが好き

数字に置き換えれば

わかりやすい
人に伝えることが出来る
自分を励ますことが出来る
目標を設定できる
やるべきことがわかる
自分を律することが出来る
昨日の自分が見える
明日の世界がわかる
利益を増やす基準となる
損をしないために役立つ
達成感を得られる
どれだけが我慢すればいいかがわかる
どれだけ幸せかが確認できる
どれだけ羨ましがられているかがわかる
どれだけ嫌われているかがわかる
恨まれない
疎まれない
恨まれる
疎まれる
公平だ
平等だ

ほんとにそう思ってんの?
ほんとに?

例えば俺は今日

タバコを25本ぐらい吸った
5kmぐらい歩いた
ウェブサイトを150ページぐらい見た
キーボードを1000回ぐらい叩いた
おしっこを10回ぐらいした
ご飯を4回食べた

そして
俺が何カロリー摂取して
何カロリー消費したかは知らない
俺が何回呼吸したかは知らない
俺がいくつの言葉を発したかは知らない

それらが一体何を意味しているのかが俺には理解できない
たぶん何も意味していないからだ

そんなことで
他人を知った気になったり
自分を知った気になったり
することは
つまらないことでしかないと思う

それなのに
いまだに数字に振り回されている自分もいたりするのだ
数字が大好きなのだ
そこで嘘をついちゃいけないのだ
理想がどうかなんてことはどうでもいいのだ

数字に振り回されていることをつまらないと思う自分と
数字に振り回されている自分が居るのだ

自分に必要で覚えておくべきは
自分が進みたいと思っているベクトルだけでいい
どっちに向かっているのかということだけしかない

06:54
でもラジカルな数字は好きなんだ
数字に依存する態度が嫌いなだけで

依存されている数字は不幸だな
数字は依存されすぎている

これって色でもモチーフでもコンポジションでも全部一緒じゃん
あらゆるものにはゲーム化でき
利用価値に変化させられる側面(消費される側面)と
そういうところからは決定的に隔たった側面があって
その消費的側面だけが取り上げられて搾取される状況が気に入らないのだ
そんな風に関わってしまったら
誰もが、色を、数字を、暴力を、忘れてしまいたくなるだろう
消費とは
「とりあえず」によって
自分にとって、なし崩し的に対象を台無しにするテクノロジーだ

消費の奴隷となるテクノロジーは悲しいのだ
奴隷を作るのは奴隷を定義する人だ
勝手に奴隷を定義していい気になってどうすんだよ

それって生贄でさえないんだぜ?
つかただのレイプでしょ

俺はゲームが好きだけど
どんなゲームが好きかと言えば
俺の奴隷になってくれるゲームではなく
俺が奴隷になりたくなるようなゲームなのだ

変態は昆虫の変態ではなく、いわゆる性的な意味を含んだ変態なのだが、実際のところの変態人口というのは、世間に表面化する変態と公言されたりメディアに載る割合に比べれば1000分の1ぐらいしかいないんじゃないかと思っている。いや、もっともっと少ないかも。

変態に憧れる人はとても多い。おそらく、かつて変態を排除しようと思った人と同じぐらいに多い。そしてそれらの憧れる人が変態文化を支えているような見え方さえしているけど、変態なんてそういう意味での文化ではないんだと思う。ほんとの変態の人たちは文化など気にしないし、そんな所には所属していない。変態な人は憧れではなく衝動とそれによる日常の変質の中を生きる人だ。つまりほとんど犯罪なのだ。

変態を賛美したり、変態への憧れを形にするような作品が好きじゃない。そんなものからは何も感じない。重要なのは当人の欲望の現在のリアリティであって形式じゃない。変態イベントとかの空々しさとかウンザリするし、変態作品の甘さとか見たくない。

ただ、変態的手法がこれほど手に入り易くなった時代は無く、その変態的手法によって救われた人達が沢山いるんだろうということは想像できる。高校の文化祭がフェティッシュイベントになり、行き場の無い中学生が手首を切り、成り行きで入ったホテルでウンコを食わされる。そういうことが起きるべきこととして起きているんだろうとは思う。

でもそういうことと、変態にしかなれない人の主体性とは別の話だ。ただ身体を消費するだけじゃ不十分なのだ。

男がオジサンになるってことは、現実との接点が減っていく状態を言うんだなぁ、と昨日思ったんだけど、そしてこれは色気が無くなっていくことなんだなぁと思ったんだけど、変態にあこがれている状態ってのは、まさにこのオジサン状態なわけで、どんだけ体を消費しても、現実の接点はとても少なく見えるわけです。極端な話、死んでしまったところで身体が置いてきぼりになっている。晒されていない。

別に変態を賛美しているわけじゃなく、変態のようにしか生きられない人がいるのと同じように、普通なようにしか生きられない人もいて、どっちでも別に構わないんだけど、ちゃんと現実に晒されて生きているのが良いし、そこに価値観を置いて生きていればなんでもいいじゃんと思うのです。

何も無い日を無理やり埋めるのはやめよう
自分に意欲がない事を責めるのはやめよう
意欲がない事を悲しむのはやめよう

何もないなら何もない様に過ごそう
知らない意欲に身を任せよう
それがたとえ意欲に見えなくても

自分が知っている意欲だけを意欲だと思うのはやめよう
世界は知らない意欲で動いているかもしれないんだから

意欲が無いなら意欲がなくても出来ることをやろう
洗い物をするとか
散歩をするとか
銀行に振込みに行くとか

それだって結局明日はやってくるのだ
たぶん意欲なんてものは
虫の好きな小学生の夏のカブトムシと大した違いは無いのだ
カブトムシがいないと生きていけないなんてことは無いのだ

それは無残でもロマンチックじゃないことでもない
ましてや嘆くことでもない

ただ単に冬であるに過ぎない
風通しの良い冬の何と美しいことか

作りたいという身体の欲求に頭が従っている時には、良いものが出来る。
作りたいという欲求を、頭が身体に要求する時には、ロクなものが出来ない。

このロクなものが出来ない時に知恵が必要になる。
経験が必要になる。

つまり、知恵は身体を助け、促す側に味方すべきなのだ。

それが正義の味方だ。

今何かを変えないといけない圧力が自分に掛かっていることを感じる。静かだけどじわじわと着実にその圧力は日々強まっていく。俺はその圧力を知っているが無自覚である部分が多すぎるゆえに見逃していたりもする。それは例えば自分の肉体的変化と社会の変化を混同しているように無自覚だということだ。その二つの間に接点はもちろんある。しかしその接点を見ていては自分を変えることは出来ない。その接点を見ていると流されることしか起きないのだ。

接点を切り離す必要がある。
このような自分の内側から来る要請は今までにも何度もあった。その都度、外側から見れば「選択」と見えるような行動をとり自分は動いてきた。しかし実際にはそこに選択などない。そこにあるのは内燃機関のサイクルのような吸入と圧縮と爆発と排出であるに過ぎない。そこで接点はどのような働きをするかといえば、本来の圧力を開放することなく、圧力を下げるような逃げ道を作ってしまうことになるのだ。つまりそのデバイスによって爆発は起きず、小さな排出だけが起きる。人はこれをストレス解消と呼ぶ。

必要なのは高まった圧力を最大の効率で開放させてあげることだ。最高のタイミングで点火することだ。そして爆発のために意識的に点火する必要は無い。つまりスパークプラグは必要ない。このエンジンはディーゼルエンジンに近いからだ。点火は勝手に起きるのだ。それが選択が存在しないということの意味だ。

俺には子供がいる。それは俺が子供を作ろうなんて思うこともなく、ただチンコの導きに従った結果、それが起きたのだ。そしてその子供は今や子供ではない体になった。

無計画であるということは素晴らしい。無計画でないことから学べることなんて思いつかない。そのように無計画であることは掛け替えがない。

掛け替えがないということは、掛け替え続けられることを保障する。唯一の経験のみが、その連続だけが掛け替えないということの連続になる。

真のギャンブルはなんと魅力的なことか。そこには勝ちも負けもないのだ。

このたけがきにたけたてかけたのは 

たけたてかけたかったから

たけたてかけたのだ

神という単語を定義しようとした時に

俺にとってそれに相応しい形容詞は「そっけない」だ

神とはそっけないものである


そっけない神は理不尽だろう

そっけない神は無慈悲だろう

そっけない神は好き勝手だろう

そっけない神は圧倒的だろう

そっけない神は浮遊するだろう

そっけない神は誰かに寄り添わないだろう

そっけない神は求めるものだけに開かれるだろう

「求めるものだけに開かれるだろう」って面白い

誤解の宝庫だ

なぜそこに誤解が生まれるのか?

誤解したいからだ

多くの人が誤解を求めている

誤解は自分を正当化する

じゃなくて

正当化したいがために誤解する

誤解していられることが幸せ

それを正当化できる人は

生きながらにして天国にいる

よかったね

でもあなたの肉体はこの世に居ることを忘れないでね

忘れないでいてね

強要はしないけど

無理ならイイや

さようなら

何かに憑依されている状態に自分を保ちたいといつも思っている。そうでない自分は自分じゃない気がしてしまう。普通は逆だ。憑依されている状態が異常で、憑依されていない状態が正常。

その違いはおそらく理性の解釈が違うからなんだろうと思う。俺にとって理性は憑依されている状態の中にしかない。憑依されている状態で、その時間軸を含んだ空間を生きるために理性が必要とされるのだ。そしてそれ以外の理性なんてものはただの日常的習慣のようにしか思えないのだ。

山の中で熊を射止めようとする猟師は、憑依されていないとそれを上手く成し遂げることが出来ないだろう。そこに何が憑依しているのかは今はどうでもいい。

自分にとって生きるということは、常に憑依されている側に天秤を傾けておくことだ。そっち側に、もう一方よりも常に深く足を突っ込んでおくことだ。そうじゃなくなってしまう時には危険信号が発せられる。ヤバイ、引き返せと。

人は常に何かの奴隷だ。そして奴隷でなんの問題があるだろう。奴隷になってナンボだ。問題にされるべきは何の奴隷になるかなのだ。

モノを作るということはシャーマンになるということだ。シャーマンは「外部」を降ろす。シャーマンは「外部」の奴隷だ。そしてそれこそが快楽の正体なのだ。人は鏡になることを望む。その鏡は自我を相対化する。その時、俺の目は奴隷としての俺を美しいものとして眺める。

ゲームは奴隷であることの価値を教えてくれる。ゲームの快楽は奴隷の快楽だ。そこではゲームに勝つということも、隠されたすべての手順を暴くことも、ルールという王の下にひれ伏すことになる。そこにはマゾヒストとサディストの関係が一時的に成立するが、ゲームがゲームである以上は学習という幼児期に含まれるのだ。王は全てを含んでいなくてはならない。血も、痛みも、恐怖も、怯えも、嘘も。「自分ではない全て」がそこに含まれていなくてはならない。そしてその「自分ではない全て」に辿り着くためには経験する必要があるのだ。その全てを。

死が必ずしもその全てにはならない。その思いが宗教を作ったように思える。どのように死にたいかを誰もが考える。たぶん快楽のために。自分という肉体を消費するために。

作品のスタイルなんてどうでもいい。何かになんて別になりたくない。そんなものを確立したいなんて思わない。そんなものはただの技術と物欲の産物でしょ。技術なんてその都度生成されるだけで充分だしそれ以上を技術に求めてちゃどこにも行けやしない。

俺は器用でもないし、これっぽちも上手くもない。
他人が器用という言葉を誰かに対して使う時、そこにあるのはただのジェラシーであることが多すぎる。様々な技術なんて峰の上を渡り歩くための杖でいいじゃないかと思う。上手に渡ることよりも、軽々と渡ることよりも、美しく渡ることよりも、一番大事なのは次の峰に辿り着くことだ。その綱渡りをほんとの終点まで成功させ続けることだ。自分において。それが判りにくかろうと、他人のふんどしで相撲をとっているように見えようと、そんなことはどうだっていいのだ。

081016.jpg手描きブログで描いた。サイズが合わないのでリサイズついでにちょっとだけ手を入れてあります。

このところのしょぼしょぼツールをいじっていて思ったんだけど、すくなくとも日本はやっぱり線画の国だなぁと。線の明確さ、線の饒舌さ、線の洗練、そういうものが凄く深く根付いている。怪獣の絵を描いていても、線さえきっちり決まればすごく速く出来そうだっていう感じがしていたんだけど、それは間違ってないようです。

どれが正しいかではなく、今までの自分は線を最後に引くものとして捉えていたようなところがあって、もちろん最初のアタリやスケッチの段階では線を引くんだけど、最後には必ず引きなおされるものとして線が存在していた。曖昧さを維持しつつ完成の直前まで持っていくときにはこのやり方は自由が利いていい。でも素材の制限や時間の制限が強いとなかなかうまく行かない。しょぼしょぼツールはその辺のことを確認するのにとても都合よく働いてくれたみたい。別にどんな描き方をしたっていいんだけど、一発書きは絵の基本の一つだと思った。書道と一緒だな。

08100801.jpg08100802.jpg08100803.jpg引き続きdrawr

なんかツールに制限があると、今まで見えてなかったものがはっきり判ったりするんだな。それは技法に対する予感だったり、饒舌さに対する欲望だったり。

うるさい絵は好きじゃないし、いいとは思わないけど、自分のうるさい部分を故意に押し込めとくのは良くないんだと思った。そしてその上で、うるさかった部分がうるさくないものになるようにするのが正しいのかもしれない。と言いつつ、それも一つの方法論に過ぎなかったりする訳だけど。

とても当たり前のことなんだけど、覚醒していないと何も出来ないと思った。ほんとに当たり前だ。でもそんなこともよくわかっていなかったりする。

例えば今、自分の体にはそれなりのアルコールが入っている。この状態では絵が描けない。少なくとも良い絵は描けない。この酔いを強引に振り切って良い絵が描ける状態に持っていくことも不可能ではないけど、そのためにはかなりのパワーが必要だ。つまり、体のセンサーが寝ているのだ。

絵を描くとかモノを作るとかって事は、センサー全開にして行うものだ。むしろセンサーの奴隷となることによって、センサーを働かせている張本人に出会い、その張本人の操り人形になるようなものだと思う。主人公は「自分」ではない。自分なんてどうだっていいのだ。クソみたいなもんだ。邪魔にしかならない。

体が鈍いと覚醒状態にいることは出来ない。そしてそんな覚醒状態は特別なものでもなんでもない。朝の目覚めと共に誰にだってやってくるものだ。起きたとたんに葬り去られるのが日常であったとしてもだ。

朝の気持ちよさとセックスの快感との間に違いを感じない。夜の恐怖と他者の侵略の間に違いを感じない。細胞が開いていること、センサーが開いていること、外の生命や光や空間に浸透していくこと。なんかのベクトルがそこに現れる。それがなんだかはよくわからない。ただ、そこには怖いことも痛いことも眩しいことも嬉しいことも驚くことも全部あるんだろうってことはわかる。だからもちろん楽なことだけであるはずが無いのだ。センサーを開いた状態にしておくということは。

おそらく、センサーが開きっぱなしの人は社会生活を送るのが難しいだろう。それでもセンサーは出来る限り開いておかなくてはならない。なぜなら人間に限らずそれが生物のデフォルトだからじゃないんだろうか。

開いたセンサー、つまり覚醒状態は、非社会的だ。反社会的ではなく。

「崖の上のポニョ」を観たんだけど、言葉が全体を台無しにしていると思った。アニメートされた映像は素晴らしいところが沢山あるのに、というより、見たことないようなレベルで圧倒的にアニメートされていてるのに、それを言葉や物語がとても陳腐に見せてしまっていてすごく残念だった。これは「もののけ姫」以降の宮崎アニメに対してずっと感じていることでもある。映像と言葉の間にどこか決定的な亀裂を感じる。

でも他人の作品をダシに使うのはフェアなやり方じゃないな。しかし連鎖なんてそんな風に起きるものでもあるし…まあいいや。

言葉は、言葉自体が時間軸を持っている。絵だって時間軸を持っているけど、ここではそれは無視。で、言葉を表現にするということは、意味だけでなく、この時間軸を含めて表現のうちに取り込むということだ。そうなって初めて言葉は表現になり得る。なぜなら言葉は、意味である前に音だからだ。つまり、音楽としての言葉が美しくなかったら、それは表現としては成り立っていないということだ。そして音楽と言ったけど、例えば小説にも音楽はある。それは文体や、流れる密度のメリハリに現れる。詩に比べれば音楽的純粋さは劣るにしろ、それもで紛れもなく音楽なんだと思う。もちろん音楽性のかけらも無いようなエンターテインメント文学がむさぼり読まれていたりもするわけだけど、それでもなお言語表現は音楽的時間軸の内にあるんだと思う。


これは今までにも何度か書いていることだけど、言葉が嫌いなのだ。全部の言葉が嫌いなわけじゃなく、音楽的でない言葉が嫌いなのだ。表現物かどうかに関わらず。

自分にとって美しいということは、身体的であるということだ。グロいとかエロいとか残酷とか優しいとか下品とか上品とかゴージャスとか清楚とか貧相とかリッチとか重いとか軽いとか冗長とかシンプルとかそんなことは美しさにとってどうだっていいのだ。どんな風であっても構わないのだ。身体的でありさえすれば。だからここで言っている「音楽的」であるということの意味は音楽のようであるという意味ではなく、音楽の身体性を指したいと思っているわけだ。

音楽の身体性なんて言うと、また小難しく聞こえるかもしれないけど、要は歌った時や踊った時に、音楽という表現物をガイドとして、潜るなり登るなり移動するなり出来るかどうかということだ。そこで、潜ることも踊ることも移動することも出来ずに、脳みその一部分ばかりが刺激されるようなものはつまらないことだと思うのだ。

意味は人を停滞させる。だから意味自体が流動的でなくてはいけないんだと思う。意味から始めちゃいけないんだと思う。なぜなら意味は後から生まれた道具に過ぎないからなんだろう。

ずっと昔から考えていることがある。それは絵の言語的な意味についてだ。ほとんどの人は絵に物語を見る。これは紛れも無い事実だと思う。印象派以降、画家たちはそれが嫌で、絵から意味をそぎとっていった。その気持ちはとても良くわかる。だって、絵の面白さや楽しみやそれぞれの人にとっての価値が、単に言語的な価値であるだけであるなら、極端な話絵なんて要らないからだ。それは言語の翻訳であって、記号でしかない。この人は食事をしています。この人は怒っています。ここは都会です。怒っている人は無視されています。無視されて怒っている人は食事している人を殺しました。殺人者は警察に捕まって死刑になりました。おしまい。絵なんて要らない。

でも絵からしか得られない価値がある。自分にとってそれは絵という無機物から、絵を描いている行為の美しさを感じることだ。俺は喜びによって描かれた絵がすきなのだ。だから、ほんとには絵なんて要らないとは思っていないし、絵を見るのが好きだ。それでも多くの人がそんな風に絵を見ないで、絵を単にストーリーの翻訳としてみるのならば、別にわかりやすく翻訳をして見せてやることだって厭わない。それにそんな試みは、やってみれば楽しかったりもするのだ。発見をもたらしてくれたりもするのだ。

ここで道は二つに分かれる。もしくは三つ。
ストーリーなんて無視して行為の美しさに走るか、行為なんて無視してストーリーの翻訳のために絵を記号化するか、行為の美しさを保ちつつストーリーをを取り入れるかだ。自分の気持ちを無視すればどれをとってもいいんだと思う。ただ、そこに葛藤が無いものにはあまり魅力を感じない。そして自分がとりたいのは最後の選択だ。

さっき映画館でダークナイトを観てきた。とても楽しんだ。設定もビジュアルもお話しも良い出来だった。映画館で観て良かったなぁと思ったし、こんなバットマンが観たかったんだよ、とも思った。でも、とんでもない手間と、とんでもないお金と、とんでもない情熱と、とんでもない人数と、そしてそれぞれの人の人生のとんでもない時間をつぎ込んでこの作品が出来ていて、というよりほとんどの映画作品がそのように作られていて、それを観た自分が良い作品だったとか、つまらない作品だったとか言ってるのはどういうことなんだろう。

絵の話に戻せば、自分が絵を楽しむようには映画を楽しんでいない、部分がある。もちろん同じように楽しんでいる部分もある。でも絵を見てストーリーを楽しむ人々と同じように、自分も映画にのめりこみたいと思っているわけだ。流れに身を任せたいと。流れに容易に身を任せられる映画が良い映画であると、そう思っているわけだ。

なぜ映画のことを例にしたと言えば、それがビジュアル表現の置かれている状況を最も端的に表しているメディアだと思ったからだ。そこで求められているのは観客自身に実体験との錯覚を起こさせることだ。それこそストーリーの役目だ。おそらくそこでは言語的な物語さえもビジュアルに侵食されて、言語的表現の行為の美しさを失っているのだろう。この状況を一言で言えば、表現はドラッグだということだ。そこでは作っている人間の行為の美しさはドラッグの効き目に捧げられる。

これはテクノロジーの問題ではない。たぶん大昔から変わっていない。踊りを良く踊れる人は人を酔わせることが出来る。踊り子は踊ることによって自分を無化する。他者に対しても自分に対しても。観客は永遠に踊ることは出来ない。踊り子は遥か他者の理解を超えて自分を消し去る。消し去れば消し去るほど観客は見ることによって酔いつぶれる。もしくは打ちのめされる。それでいいじゃないかと思う。なぜならこの文章の目的はドラッグの是非ではないからだ。この文章の目的はどのようにしてドラッグを製造するのが心地よいかということだ。自分を無化するためにはどうしたら効果的かというメソッドこそが重要なのだ。

おそらく、写真が魂を抜き取ると思われていたのと同じように、表現は他者から何かを捲き上げる。捲上げられている状態こそが身を任せている状態だ。生贄は祭壇に登ることによってその場を自分の中に吸引するのだ。そこにストーリーが必要なら利用しない手はない。そこに化粧が必要なら利用しない手はない。なぜならそこには観客と生贄の合意があるからだ。そしてその合意が何によって得られるのかといえば、観客と生贄それぞれの存在が向いている一つのベクトルなんだと思う。それを喜びと言おうが悲しみと言おうが死と言おうが真実と言おうがなんでもいい。ただ、そのベクトルがそれぞれにとって本質的に孤独な場所に向いてないと嫌なのだ。

重い映画とか重い話題とかの重さじゃない。体重計やキッチン秤で量れる重さのことだ。

美術作品がどれだけの重さかを気にする人はあんまり居ないだろう。それを気にするのは展示のために雇われたアルバイトや、自分で搬入する作家ぐらいのものだ。まあ、たまには引越しの為に作品を移動する必要に迫られたコレクターなんかも含まれたりするだろう。

しかし実際には、作品の重さはその表現形式や流通や価値に対して決定的な影響を及ぼしている。重くなるために実現できない作品がどれだけあるかを作家の立場に立って想像してみるといい。20kgの作品は作るのに大きな支障は無いだろうが、200kgの作品を作るのは覚悟が要る。2tの作品ならなおさらだ。逆に言えば、2万tの作品を作れば、それだけで作品として成立するかもしれない。惑星の重さは知らないけど、200億tぐらいあれば、存在しているだけでとんでもない影響をあらゆるものに与えることが出来るだろう。

コンピュータが普及することで、絵を描く人が増えたかどうかは知らないが、描かれた絵は圧倒的に増えただろうと思う。それは日記が大量生産されるようになったのと同じだ。その理由の一つには(あくまでも要素の一つに過ぎないが)、重さが無視していいほどになったということが強く影響している。壁画が移動可能なキャンバスなったり、立派な大理石の等身大以上もある彫像ではなく、小さな精密な彫像が作られたりしてきた歴史にも、重さはしっかりと関係している。

ちなみに、自分が今まで作ってきた作品の重さを考えてみると、絵や立体だけなら多めに見積もっても200か300kgぐらいなんじゃないかと思うが、これに装丁をした本だのデザインしたバイクだの、パッケージされたゲームだのを加えると一気に膨れ上がる。軽く10倍ぐらいになるんじゃないだろうか。ちょっとウンザリするな。これが彫刻家や建築家だったりしたらさらに10倍、100倍となっていくわけだ。

美術作品でなければ話はもっとわかりやすくなる。たとえば、かつての実用車と言われる自転車は30kg近くあった。重い自転車を漕ぐということは、それだけ多くの体力を消耗するということだ。平坦な道なら丈夫で良い自転車で済ますことが出来るかもしれないが、その自転車で坂を上るということは、30kgをペダルの回転で引き上げるということだ。押して歩くのでさえとんでもない労力を強いられる。現在最も軽い自転車は3kg後半だ。やりすぎな軽量化ではあるかもしれないが、それでも坂を上るのに充分な耐久性と機能を備えている。

つまり個人に寄り添うものは軽さを求める。作家が重いものを作れないのは単純に自分ひとりの力では実現が難しいからだ。自動車が重くても許されたのは燃料なんていくらでもあると思われていたからだ。極論するなら、権力は重いものを求めるが、自由は軽いものを求めるということなんだと思う。だから、権力を持つ個人は重いものを求めるだろう。権力を持たない個人は軽いものを求めるだろう。もしくは権力を誇示できるところでは重いものを求めるだろう(例えば家だ)。権力が関係しないところでは軽いものを求めるだろう(たとえば冬のフリースだ)。

ところで軽さと耐久性は基本的にトレードオフだと思われているが、必ずしもそうではない。耐久性を損なうことなく軽く出来る要素はいくらでも残されている、というより、美術作品がそうであるように軽さが重要な価値となったことのないモノの方が遥かに多いんじゃないかと思う。例えば家電なんて重すぎて呆れる。ちょっと前のニュースで大型冷蔵庫に使われている鉄板の重さが書いてあって、20kgだったか40kgだったか忘れたけど、あの大きさでなぜそれほどの鉄板が必要なのか理解に苦しんだ。自分が持ち上げられない家電なんて欲しくない。100kgのテレビなんて要らない。

真剣に軽さを求めているのは機材スポーツの世界とモバイル機器ぐらいのものだ(乗り物業界はモータースポーツじゃなくてもそこそこ健闘してるけど)。とりあえず地球上に暮らしている限りは誰も重力から逃れることは出来ない訳だから、権力を捨てることでどんだけの軽量化が出来るのかを試したっていいと思うのだ。それは家具の価値観や収納や動線を変えるだろう。建築の工法や土地の概念を変えるだろう。料理の調理場所や調理方法を変えるだろう。そしてもちろん美術の形式や流通や所有形態も変えるだろう。

関連:メンテナンスの価値

080825-1.jpg080825-2.jpg絵を描くのにかかる時間なんてどうでもいい事だ。10分で仕上げようが、何年かかろうがどうでもいい事だ。逆にどれだけの時間が掛かっているかを気にしながら良い絵なんて描けない。良い絵が描けている時は、時間は流れるように流れるだけだ。良い絵は時間の外側で描かれる。

という前提の上での描画時間だ。二つ前のエントリーでも少し触れているが、速く描けるようになりたいのである。絵をツールにしてしまいたいとさえ思っている身としてはスピードは重要なのである。スピードが遅いために実現できないことは沢山ある。そしてそれらはスピードが速ければ実現できるだろう。例えば漫画、映画、ゲームなんかだ。あるいは一枚絵だとしても、スピードによって描かれる絵は変わるはずだ。しかし遅いことが悪いことだとはこれっぽっちも思わない。それはむしろ資質の問題だ。速く描けないなら、速く描けないなりのやり方を見出せばいいだけのことだ。

単純な比較の話で言えば、自分の描画スピードは遅いほうではないと思う。でも無駄が多いのも事実だ。理由は大体わかっている。一つにはわかりきったことを描こうとしないからだ。わけのわからないものから始める。手探りで形を出していく。手探りで色を探していく。もちろんこういう描き方でもスピードが出せる描き方もある。しかしこれをリアリズムに近い形でやろうとすると物凄く時間が掛かるのだ。それは単純に描かなければいけないディテールが増えるからでもあるし、描こうとする対象自体をデザインし直すような作業も含まれてくるからだ。ここでこだわりだすとキリの無い泥沼がようこそとお待ちかねなわけだ、しかし作りたいものが、誰かに撮られた写真や描かれた作品でない以上、これを止める訳にはいかない。だから出来ることといえば、増えたディテールの処理を最終結果に照らし合わせることで、最小限の手間で実現することぐらいだろう。要は3Dレンダリングで隠れたポリゴンのレンダリングをパスするようなものだ。とはいえ、対象のリデザインがエキサイティングなものだったりすると、これも難しくなったりするんだけどね。

もう一つの理由は、個人的に、達者な線や、論理的な認識を意識的に避けてきたというのも大きい。達者な線や論理的な認識は、確かにスピードアップには物凄く有効だ。見栄えもいい。だけどこれにハマってしまうと肝心なところを飛び越えてしまうという罠が待っている。見栄えの良さに酔ってしまうのだ。これは頂けない。でもこれをコントロールして味方にできるならば、それは悪くないかもしれないと最近思い始めた。大昔の日本画(とりあえず江戸時代以前)の人とかはとても良くコントロールしてる。あんだけ上手いのに。カッコつけてる内はろくなもんじゃないって事だな。

目標描画時間三分の一。いや、せめて半分。

画像は自転車のブレーキのためのアイデアスケッチ。
描画時間各30分程。電車の中で描いた。思考ツールとしての絵。

売春をするということと会社に就職して働くということの違いは何も無い。絵を描いて売ることも政治家になることもスポーツ選手になることも何も違わない。何かを売って何かを得る。得るものは金だ。売るものは時間や体やストレスや技術だ。そのように全ての人は社会にとっての商品として位置づけられている。

通常問題にされるのは、強制されたのか、望んだのか、という違いだけだ。もちろん、金が欲しくて仕事をしているわけじゃないという人も居るだろう。得るものは金だけじゃないという人も沢山居るだろう。でもそんなの当たり前だ。何をしていようが全てに言える。何を選択しようが、何を強制されようが、得るものは金だけじゃないし、選択の理由が金でないことはマジョリティでさえある。

金が絡まない売春もあれば、金が絡まない仕事もある(いや売春だって仕事だけど)。しかしそれは売春とは言わないし、仕事とも言わない。要は金さえ絡まなければ、ほとんどのことを社会は放置してくれるというわけだ。そして放置してくれないものは犯罪になるわけだが、ほとんどの犯罪は金で解決できるわけだから、罰金が課されるものは除外されると。

別に社会に文句が言いたいわけでも、個人を批判したいわけでもない。
ただ、金のトリックに騙されたくない、欲望の道を妨げたくない、そう思っているだけだ。

欲しいものが無い。
欲しい自転車が無い。欲しい家が無い。欲しいバイクが無い。欲しいヤカンが無い。欲しいベッドが無い。欲しいポットが無い。欲しい洋服が無い。欲しい仕事が無い。欲しい生活が無い。欲しい葬式が無い。欲しい祭が無い。欲しい絵が無い。欲しいゲームが無い。欲しいオモチャが無い。

無いんだったら作ればいい。それは自分が発見し、自分が発明し、自分が現実に移し変えない限り存在しないのだ。

ではどんな自転車が欲しいのか。どんな家が欲しいのか。どんな生活が欲しいのか。それが分かっていなければ発明することも移し変えることも出来ない。

俺には俺が欲しい自転車は分かる。とりあえず。それはママチャリでもなく、ロードレーサーでもなく、マウンテンバイクでもなく、レトロランドナーでもない。ましてやデザイナーズシティバイクであるわけも無い。俺が欲しい自転車は、タイムを競うためのものではなく、長距離を走ることが容易で、気負いが要らず、その気になれば荷物を運ぶことも出来て、神経質でなく、耐久性を犠牲にせず、6kgぐらいの重さで、メンテナンスし易く、美しい自転車だ。

同じように俺が欲しい家は少しだけ分かる。俺が欲しい生活も少しだけ分かる。俺が欲しい絵はもうちょっと分かる。

俺が欲しいものは、俺に必要なものだ。誰かに必要なものではない。どこかでシンクロすることがあるにしろ、一般化することがあるにしろ、あくまでも個人的なものなのだ。というより、誰にとっても個人的なことでなくてはならないのだ。なぜなら、そのように全てのことが実現しない限りは、精神的自給率のバランスが崩れるからだ。誰もが自分において発見しなくてはならない。自分において発明しなくてはならない。自分において移し変えなければならない。

他人の成果から学ぶことが出来るのは、その勇気と孤独だけなんじゃないだろうか。自由という言葉がいまだに有効であるなら、そのような関係性の内にしか見出せない気がする。

立ち位置がブレている時には何も出来ない。
今まさにブレている真っ最中かもしれない。

それは逆に言えば、立ったことのない立ち位置を探している最中だということも出来る。でも、こんな言い方は、探している本人にとってはぬるま湯以外の何者でもない。

興味の中心、つまり時間軸や体の自然な流れの中で生まれた方向性は厳としてあるのに、それがどうも自分が求めているものとはズレているように感じられる。そこで体に寄り添えばいいとは思えない。なぜなら、体もまた鈍ってもいるからなんだろう。それを判断するのは、この体を支配するもう一つの体だ。精神ともいえないもう一つの体。これを何と説明すればいいのかわからない。そして同時にそんな体を特殊とも思わない。ありふれているのに忘れられがちな体。そんな体に相応しい名前を付けたい。上手くいったことはないけど。

たとえば綱渡りをする体。不器用な名前。

スーパーサイヤ人1、2、3という変化に誰もが引きずり込まれる。うんざりしつつも(もちろんドラゴンボールの話)。どうせならスリーまでいってみたいと思ってしまうのだ。

漫画を成立させるのはグラフィックの記号化だ。ゲームを成立させるのはグラフィックの記号化だ。表された画像が「これは怒りによって目覚め、深層に眠っていた力が引き出された男の子です」として単純化されれば、それは画像を超えて記号となる。そして記号が加速させるものがある。それは物凄く単純化された価値体系だ。それは身体的感覚を無視した、あるいは経験を飛び越えた「物語」としての時間軸だ。

そこで起きることはリアリティのインフレーションだ。

グラフィックの記号化を否定するつもりはこれっぽちもない。ただ、記号化はそのような誘惑と常に結びついている。インフレには気をつけないといけない。なぜなら、作る側においても受け入れる側においても、例えそれが市場価値に結びつこうとも祝祭的にしか機能しないからだ。そして、祝祭はある覚悟の上で成されなければ何の意味もないと思うのだ。覚悟のない祝祭は、それに参加した人間をズタズタにし得る。人が自ら望むのに翻弄にしか繋がらない暴力。

03:52
何を読者に求めるのか、何をプレイヤーに求めるのか、何をオーディエンスに求めるのか。

そして

何を知りたかったのか、何を経験したかったのか、何を見たかったのか。

例えばディテールの意味は説得力だけではない。それは表現における時間の流れをコントロールすることも出来る。

例えば構造の合理性は説得力だけではない。それは現実の経験を変化させることが出来る。

外側にあるんじゃないかと思い込んでいる了解に依存するのは間違っている。

このサイトをブログ化してから、Webデザインというものをトラフィックのコントロールとして見るようなった。トップページにアクセスが容易なように配置されたハイパーリンクはトラフィックを増大させる。それが一つのアーカイブページを作るだけで、レイアウトを変えるだけで、面白すぎるように変化する。いや、ようにではなく面白すぎる。

そしてトラフィックは作者の意図には沿わない。それはただの無意識的な川の流れだ。そこには意思もあるにしろ、現在の最も圧倒的なベクトルが反映される。そこで発信者としての自分に要求されるのは、どの堰を開けるかということなのだ。自分の中に、いまだに閉じている水門が大量にあって、それを開けてみることでいくらでもトラフィックは変化するのだ。プラスにもマイナスにも。

単純に増大を求めているわけではない。数は表層を流れているに過ぎない。カウントされるべきはアクセス数ではなく、交換物であるはずだ。

潜るという表現が好きでよく使っていた。でも、トンネル掘ることのほうが重要だとさっき思った。

どういう時に潜ると言っていたかといえば、作品を作っていて、より自分の潜在的な欲望なり、作品が求める深さなりを正確に、かつ経験したことのないレベルで実現するために、自分自身を追い込んでいくようなベクトルを表して、潜ると言っていたつもりだった。

でも潜れるのは底までだ。底に着いたらおしまい。規定の深さは日常的に忘れ去られている発見を伴うにしろ限界がある。自分が既に掘った穴の深さが変わるわけじゃない。トンネルを掘らない限り。

かと言って、実は誰もがトンネルを掘っているのだ。意識しているにしろしていないにしろ、時を重ねさえすればトンネルは掘られていく。そういうものだと思う。

そのように体は勝手にトンネルを掘る。心も掘らなければ、体のトンネルに追いつくことは出来ない。つか、ここまで来ると、潜るという言い方で何にも問題ないわけだが、もう一歩の積極性として「掘る」というポジティブな行為を当て嵌めることはとっても重要なことだと思ったのだ。

全ての人間に、死が訪れる、という、平等さは、素晴らしい。

それが無い世界なんて、すんげぇつまらない。

意地悪だったり、ダークだったり、嫌がらせだったり、ひねくれだったり、っていう、そういうものじゃなく、だれもが、死ぬ、俺も死ぬ、その瞬間を迎えることが出来る、その未来感を伴った経験が、自分の人生に必ず起きる、これ以上に素晴らしいことなんて思いつかない。

それを早めたら、起きて欲しいことは起こらない。そのようにしか、起きてほしいことは起きない、つまり起きるべくして起きるようにしか起こらない。その微妙な狭間で、その微妙に見えるけど、そこしかない狭間で、生きようとしている自分が愛おしくて好きだ。

好きな人を喜ばせるために自分の手や体を動かすことと、金を使うこと、の、違いを考えることが、ほんとは無意味であるという、ことが、今、書きはじめて、よくわかった。俺は幼い。未だに。でも、まあいいじゃん。

違いを論点にしかったのに、違いは論点にするには満たなかった、なんてことはよくある事だ。

むしろ、体が知って居るにもかかわらず、言語化したいという欲望の過剰さの方が重要なんだろう。

金も使うし、体も使う。もしくはどっちかだけ、もしくはどっちであれ、実はどっちも使っていない、その行為がどのように見えたかではなく、その行為が、その行為をする本人において、どれだけ細胞レベルの沸騰を伴って実行されたかだけが本質なのだ。

でも、沸騰なんていうと妙に熱いものをそこに当て嵌めがちだが、実際のところ、クールな情熱の方が、先走った熱さよりも、現実には遠くにいける手段であるなんてことを忘れちゃいけない。

過程を拡張する、もしくは過程を延長する、ということこそが、文明であり言語であり、フェティシズムであり、リアリズムへの憧憬であり、死への欲望であり、生への欲望、なんだと思った。

ゲームとか、セックスとか、食事とか、遊びとか、スポーツとか、行為そのものの身体や社会に対する意味や影響力よりも、そこで延長や拡張を欲するエネルギーこそが本質であるように思えてならない。「もっと欲しい」という思いに囚われている自分を表明し、それを実行する、あらゆる罠を含みつつ、人はそのように歩んでゆく。そのようにしか歩めない。

俺が欲しいと思うのは、それを認めて、実践して、その上で、欲望がどれだけ淘汰され、どのように単純化され、到達したい一点にどれだけ近づくことが出来るのかということだ。そしてそのように人生を消費することは、これっぽちも特殊なことだとは思えない。

こうあって欲しいということと、これで充分ということの、その違いこそが重要なんだと思う。ただ、この違いを簡単にどちらが優れていると片付けてしまうのはマズイ。なぜならこれで充分というのも進化と淘汰のための必然だと思うからだ。過剰さだけに価値があるわけではない。思いと欲望の価値は変わらないにしてもだ。

見たかったものを作ろうと思う。
今までだってそうしてきたんだけど、今までのやり方や、経験や、知識では出来なかったことが沢山あって、今なら出来ると思えることがあるんだ。だから、見たかったものを作ろう。それはもちろん、かつては経験したことがあるのかもしれないけど、いつだったか思い出せないぐらい遠くにあって、今見ようとしても見ることが出来なかったものだ。でも、そこに近づいていく自分の足音が聞こえる。

当たり前なのに説明しづらいことは通過される。通過され続けている。通過され続けていることが沢山沢山ある。足りないことは時代に依存するにしても、それでいいし、そのように依存しているかどうかを判断することがアホくさい。

説明しづらいことが、知りたい。
知らないことを知りたい。
それがなぜかといえば、それが必要だからなのだ。

やっと個展のことだけに集中できるようになって一週間。そんでもって残りは2週間とちょっと。なんとも笑える構図の中を漂いまくってます。

分かったことがいくつか。

・絵なんて絵だ。逆に言えば、絵じゃなきゃならない。女の子を描こうが、機械を描こうが、とにかくそれは絵なのだ。当たり前だけど、この単純すぎることがなかなか理解できない。

・知っているものしか描けない。知らないなら知るべきだ。そして描く事もまた知ることだ。当たり前だけど、この単純すぎることがなかなか理解できない。

・実用品を作る人や発明家が羨ましくてしょうがない。つか、凄い。どこが凄いかって、ここには何ミリのネジを使うべきかとか、どうしたら動きを 90度曲げられるかとか、鋳型を作って1000回ぐらい回転させても大丈夫な軸受けを作るとか、それらをこうしたら面白いんじゃないかとか、こうすれば壊れないんじゃないかとか、って発想で現実に実現しちゃうところが凄い。こんだけ機械や生物が好きでいろいろ見てきたつもりなのに、肝心なことはホンのちょっとしか理解していなかったってことがようく分かった。

・古いものが好きなわけじゃない。つかどうでもいい。ただ、古いものには見出し易くて、新しいものには見出しにくいものがあるのは確かだ。俺が好きなのは個人が見えるものなのだ。それは作る側だけでなく、使う側にも言える。

07:08
機械とはその全てがコミュニケーションマシンなのかもしれない。そこには絵も言葉も含まれる。

ただしコミュニケーションは共感だけを意味するものではない。共感はコミュニケーションの一つの側面に過ぎない。もしくは共感の内にさえ暴力も疎外もあるのだと言った方がいいのかもしれない。

07:13
機械はアンチコミュニケーションマシンにも容易に成り得る。言葉がそうであるように。
07:38
暴力的でない影響がどこにあるというのか。程よい暴力と度を越した暴力の間にどれほどの違いがあるというのか。

醜さは、暴力の程度にではなく、立ち位置にこそ宿る。どれほど過剰な暴力であれ、美しいものは美しい。

07:42
この偉そうな口調はどうにかした方がいいんじゃねぇのか。

偉そうな口調のいいところは、キーボードをたたく回数が少ないことで、それ以上じゃない。

作品の完成度に興味が持てない。
困ったもんだと思う。
でも、困っているのは割と社会的な自分だったりもするので、ほんとのところはそれほど困っていなかったりもする。

完成度の為に身を削るのは無駄なことなんじゃないかという思いがどっかにあるのだ。いつも。

ここで勘違いしちゃいけないのは、完成度の意味だ。手を抜くということでは決して無い。完成度という概念を流動的に捉える必要があるんだ。表現しようとしていることに対する大した理解もありもしないのに、その表面を繕うなんて馬鹿げている。その表面とはたとえば、筆のストローク消すことであったり、切断した木材の断面を平滑に仕上げることだったりするようなことだ。

でもそういうことに意味が無いと思っているわけじゃない。こういうことの価値には二つの側面があって、一つは社会的な位置付けにおいて、その流通を滑らかにするような価値で、もう一つは、それが無いと作品が本質的に求めている機能として成立しなくなるように密着した価値だ。もちろんこの二つは両立し得るんだけど、前者に重きを置くと、そこには消耗しかなくなる。

なにがイヤだって、自分の製作スピードが、作品から求められていない価値、これを言い換えれば、自分が理解していない価値から、ブレーキを掛けられることなんだ。それって思いっきりアホくさい。こんな風に言い切れるのは、今ここに書いてみたからなんだけど、書いてみる前までは、それに振り回されまくってウンザリしていたというわけだ。ええかげん賢くなれと。

「人の手を借りる」ということがずっと気になっている。

この世の中には人の手を借りていないものは存在していないんだということへの理解が、どうにも浅い、そういうことなんだと思う。

美術の世界では、コラージュとかアッサンブラージュとか引用とかレディメイドとか、あえて「人の手を借りてますよ」ってことを宣言することで、逆に開き直るようなジャンルがあるけど、それらは、それをまず宣言しないと流通しにくいぐらいに、(未だに)一般的常識においては認知の浅いこととして「人の手を借りちゃいけない」ことの美徳が蔓延しているんじゃないだろうか。

人の手を借りるということは、自分ではない生命の恩恵にあずかるということだ。恩恵? んじゃ、もしくは自分ではない生命を食らうということだ。

今作っている作品で、俺はコンピュータを利用して絵を描いている。ヤフオクで落とした、20年前の人が作った金具を利用しようとしている。でも、これをもっと突き詰めると、20年前の人も誰かが掘り出した胴と亜鉛の誰かが調合した合金を鋳込んで作り出したわけで、しかもそれを誰かが流通させたからここにあるわけで、それと同じように200年前の油絵も、誰かが採取した顔料と、誰かが絞った亜麻仁油によって描かれているわけで、もっと言ってしまえば、その画家が生きていられたのは、誰かが栽培した小麦や、誰かが焼いたパンのおかげなわけで、そうやって、こうやって、あまりに美しすぎる論理を展開していると、大事なものも見落とすわけだけど、とにもかくにも、こうやってとりあえず生命は繋がっている。その上で気張ってみたり、張り合ってみたり、意地になってみたり、嘘ついてみたり、喧嘩してみたり、分かり合った気になってみたりしている。

それでもなお、人は、自分ひとりの手で何事かをして見たいと思う。それはきっと正しい欲望なのだ。幻想で充分。その意思と、そして生かされている現実と、両方あるんだ。どっちかではないんだ。意思の無い世界も、繋がりの無い世界も、どっちもつまらなさ過ぎる。綱渡りだよなぁ。

久々に絵を描きまくっている。次の個展で、箱ではなく、絵の新作もお願いしますと要求されたことがあるだけでなく、そのほかにも絵で結果を出さないといけない仕事がいくつかあって、丁度いい機会だからと、ホントに久しぶりに自分の絵の技量を、その放り出したくなる稚拙さを含めて味わっているところなのだ。

意外なことに(本人は意外だと感じたのだ)、これが結構楽しかったりする。下手だということは喜びの源泉だ。なぜなら、下手であるからこそ発見があるからだ。そんなのプロじゃないと、誰かさんは言うかもしれない。でも、それさえもどうでもいい。そういう話はリクルートチックなHOW TO本にまかせておけばいいのだ。

日本における職人という言語概念は、否定するどころか好きだったりもするんだけど、現代における職人、もしくはプロフェッショナルという言語概念には違和感を感じる。なぜならそこには、作家個人における創作の喜びという、もっとも原初的で幼稚で、なおかつ最重要な価値の居場所があまりにも少なすぎると思うからだ。

なにかが下手な人間には、もしくは下手だと感じる人間には、喜びの湿地帯が広がっている。そう思う。この喜びはもちろん安易ではない。だって湿地帯なんだから。別にマゾヒストじゃなくたって、沈むことも喜びだと、あえて言い切るぐらいの元気は、誰にだってあるんじゃないかと思うのだ。生きてる限りはね。

そんなわけで、この馴染みの湿地帯を進んでいる作場は、例によってちゃんと展示に間に合うのかという危険も孕みつつ、いい感じで毎日の一歩を、ずぼり、ずぼりと歩んでいるのです。

技術がある程度確立されているにもかかわらず、トレースではない、そんな新しい作業は至福だ。

目の前でそこに実現していくことが、比喩ではなく足を一歩踏み出すように形を成していく。フレッシュな散歩。フレッシュでない散歩なんて、散歩でさえないけれど。

モチーフについて考える。なにを描きたいかではなくどうしたら描けるか。

物欲や性欲、いたたまれない寂寥感やあふれるほどの野心。なにかそういう切羽詰った、ように見える、ものじゃなく、そうじゃなく、もっと骨太で、荒地を切り開くような行動力が必要とされる、しかも正しく一人ぼっちな、そういう場所から生まれてくるモチーフ、というものがあるはずだと思う。

形にするために必要なのは、当たり前すぎるけど、手を動かすことなのだから。

目指す場所のために必要なこと。それは自分の欲望でありながら、他人事のように冷たい。その冷たさこそが重要なのだ。その冷たさは目指す場所が間違っていないということの証であるし、同時に不毛としか思えないぐらい厳しい。でも、そんな場所でこそ体と手は喜ぶものなのだ。

どっちが欲しいか、ではない。
何が欲しいかだ。

選択肢、は、幻想だ。
一つしか選べない自分の手前でしか、選択肢は存在できない。

迷いは否定しない。
でも、迷いは迷いでしかない。
迷いの迷路にハマりたくない。

暫定という名の時間の嘘。
お取り置きは出来ない、
そういうものだ。

外にあるナマモノと
ウチにあるナマモノ

バランスを取れるように
なろう

寝る前に酔っ払いながら、無名への欲望について考えていた。孤独への欲望と言うより、無名への欲望と言った方がしっくりくる。たぶん具体的な方法論をより想像しやすいからだと思う。

無名への欲望と言ったら、一番分かりやすいのはフェチな方々だ。改造フェチ、ラバーフェチ、タイツフェチ。これらは見た目とベクトルが一致している。でもそうじゃない普通の人だって無名への欲望に支配されていると思う。美味しいものを食べることや、気持ちの良いセックスをすることや、面白いゲームをすることや、夢中になってスポーツをすることなんかは、全て無名への欲望によって支えられているのだ。

快楽は人が無名である場所に導く。もしくは無名であることこそが快楽である。

でも無名であるということは怖いことでもある。準備のない人にとっては残酷この上ない経験をもたらす。強制的に無名な場所に追いやられる人たちも沢山居るのだ。例えば強姦される。障害を持って生まれてくる。病気になる。戦争に行かされる。虐待される。学校、会社、病院、家庭、戦争、これらは、望まずに無名な場所へ追いやるための装置としても機能している。意思を欠いた経験は苦痛以外の何ものでもなくなる。ただし、それを苦痛で終わらせるかどうかは本人次第だ。なぜなら生物はもともと無名なものとして存在していると思えるからだ。

ところでジェラシーと言うものは自分よりも無名である人に対して向けられるものなんじゃないだろうか。少なくとも自分の場合はそうだ。世の中ではジェラシーを糧とした作品が作られまくっているし、自分だってそういう傾向はあったと思うけど、ジェラシーなんかに振り回されている暇はねぇなと最近思う。人はもっと自分から無名への冒険をするべきだし、望まずにそういう場所へ追いやられた人は、よりよく戦うべきなんだ。

映画とか自動車とかのマスプロダクトが基本になっているような産業から生み出される作品への興味がどんどん失われていく。もちろんマスプロダクトであっても、それは個人の集積、もしくは個人の指揮下で作られているわけだから、興味が失われないような作品が作られる可能性だっていくらでもあるわけだし、実際に興味を持つ作品もあるわけだけど、それ以前のところで大勢の人間が関わらないと実現しないというところで萎えてしまう気持ちが否定できない。

映画だって自動車だってプライベーターとして製作することは出来る。自転車やナイフや焼き物や絵だったらなおさらだ。しかしおそらく、才能のある人間はマスプロダクト側に吸収されて仕事をしていくだろう。大昔だったら画家として生計を立てるような人が、今だったらイラストレーターとして生計を立てる。そういう風にマスプロダクトの個人に対する影響が働いていると思う。もちろんどこに居ようとも自分の作りたい物を作っていると自負している人も沢山いるだろうし、そういう人の作ったものにはスペシャルな魅力が宿るものだ。それはそれでいい。

ただ、プライベーターじゃないと実現できない作品があると思っているのだ。そしてそういう作品を見てみたいし、自分で実現してみたいのだ。今それを説明することは出来ないけど、そういう作品には、少なくとも自分にとってはとても重要な価値がある。その価値がわかりにくくても、説明できなくても、流通しづらくても、それだけははっきりしている。なぜならそれは自分が生きていることだからだ。

さっき夜中のスーパーに買い物に行ったら霧が濃く出ていて気持ちよかった。途中に大きな給水塔があるのだけど、そのてっぺんが霞んで見えない。街灯を見ると細かい霧の粒が煙のように漂っている。いつもは坂の上から東京の街の光が見えるのだけど、そんなものも見えるわけが無く、30メートルより先はどこも霧の中だ。

ふと、孤独にとりつかれているよなぁ、とこのところ考えていたことを思い出す。孤独に惹かれてしょうがない。孤独を感じない作品には魅力を感じない。バカな作品だって好きなんだけど、どっちを取るかと言われれば迷わず孤独を感じる作品を取る。孤独を感じる作品というのは必ずしも孤独を表現した作品ではない。孤独を感じる作品というのは、作者が孤独な作品だ。そしてその孤独が強力であるほど良い。だからバカな作品だって強力な孤独の上で作られたものなら、それは自分にとって大変魅力的なものになる。

こういう欲望って誰にでもあるんだろうけど、大抵は弱いところで収まるものだ。しかし強いか弱いかにかかわらずある種の病として誰もが抱えていると思うと面白い。ちょっと飛躍させてもらえば、生命力の現れであるようにも思える。強くなりたいとか速くなりたいとかってことと同じように孤独を求める気持ちがある。そういうものなんだ、きっと。それはただ単に過去の清算なのかもしれないし、あるいは死への準備なのかもしれないし、もしくは快楽への予感なのかもしれないけど、理由はどうあれ人は孤独を求める。

霧の夜はいいな。

引用の深さとかマニアックさが作品の魅力になってしまうのはとてもつまらないと思う。すげぇくだらない。現代においてホーリー(全体的)な作品を作ろうと思ったら引用はある程度避けられない。それはわかる。でも、引用の消費的側面を利用するようなやり方は最低だ。引用が引用として流通してしまうようではダメなのだ。作り手としては基本的に手抜きでしかない。とは言っても自分だってそういうことはやっている。手抜きとして。でも出来ることならもうやりたくない。それがいかに難しいかはよく知っているけど。

時間の外側で生きないとダメなんだと思う。ファーストフードとかスローフードとかも、遅かろうが早かろうが時間を基準にしている時点でどっちも一緒だって気がする。

自分でも似たような事をいったことはあるけど、たとえば旨い米を作っている農家の人が、そのための努力も精一杯していて、自分の人生でせいぜいあと40回ぐらいしか米が作れないんだから、一回一回を大事にしたいんです、とかいうと、とっても美しい話に聞こえるし、その真剣な気持ちも伝わってきたりもするんだけど、それじゃダメなんじゃないかとどっかで思っている自分が否定できないのだ。それは効率を求めて農薬や最新機械を投入することと、作り手の精神としては同じ構造の同じ価値体系に立った思考だと感じられてしまう。

ただ、そういうシフトが無意味だと思っているわけではない。それはおそらく必要なことなんだと思う。社会とか経済の成熟のためには。でも、社会の成熟を待って生きているわけにはいかないので、もっと強引なリアルが欲しくなるんだよ。それがないとやってらんない。時間を基準にした思考の外側で生きていたい。もっと言ってしまえば、時間を測ることを可能にする言語の手前を生きる基準にしておきたい。流通する言葉ではなく、生まれる言葉を大事にするべきだ。それが生み出せる外側としての時間は測ることが出来ない時間であるはずだ。

PBBSで(右下の虫が入り口)あくびさんの絵に関する書き込みが面白かったのでここで返信します。以下インタビュー形式で(笑

あくび:
デジタルだと特に複製のしやすさとか、しにくさってのが作品の価値に関係なくなっていくのでしょうか。

サクバ:
本質的な価値は、デジタルかどうか、複製しやすいかどうかにかかわらず変わらないと思うので、市場的価値に関しての疑問だとします。

キネガワ堂のシェアピースのコラムでもこの辺について書いてますが、美術市場はむしろデジタルであっても複製を制限して価値を高めようとします。消費者はデジタルの特性を利用して市場価値を低くします(音楽データがいい例です)。また美術市場ではなく出版などのマスメディアでは複製を制限することはないけど、通常それは「作品」として流通させているわけではないという了解があるといえると思います。この図式からひとつ見えてくるのは、どこまでを作品とするのかということです。テレビに一秒間映った絵はその一秒間の間、作品として存在したのかと。極端に言えばそういうことです。

俺の答えはイエスです。発信側と受信側のコストバランスが多少変化したに過ぎない。そういう意味ではデジタルでなくてもあらゆるものが(たとえば写真に撮られるとかテレビに映るとか)いくらでも複製できるものとして存在しているといえなくもない。

ただしデジタルの特殊性はそれが「作品そのもの」であるということなわけで、これは言ってみればオリジナルが存在しない複製なわけです。全部が本物。しかも個人が大したコストをかけずにいくらでも増殖させられる。混乱の原因はここにある。でもこの一見複雑そうに見える関係も消費する側にとっての作品価値という観点から見れば、一気に単純化することも出来ます。要は楽しんだ分を支払えばいいわけですから。しかしデジタルという魔法の果実の美味しさに眼がくらんでいるうちは難しい。その単純なことが単純に感じられるようになるには相当時間がかかるだろうと思っているんです。

あくび:
作場さんなんかはデジタルで作品を作る際に、印刷してある程度のサイズの物質(?)になるのをを前提に製作されてるじゃないですか。
印刷するときってどういうことにこだわるんでしょうか。やはりディスプレイで見える画像(描いた画面上の画像)をどれだけ再現できているかなのでしょうか。
そうだとしたらその絵を人に見せる場合の最適距離っていうのは描いたディスプレイの画面上ということですか?
完成品というのは印刷されたものなのか、データなのかというのをいつも考え込んでしまうんです。

サクバ:
自分の場合、印刷を前提に絵を描いているという意識はいつもどこかにあります。とはいっても実際に描いているときにそれを気にしているわけではないです。気にするのは実際にプリントするときです。何度もやり直す。でも面白いのは、必ずしもモニタ上のものを再現しようとするわけではないということです。自分が選んだ紙とインクの特性の中で、もう一度自分の欲しいイメージを再構築して、そのイメージに近づくように調整します。そしてさらに面白いんですが、それをやっているとモニタで描いていたときもモニタに映っているイメージよりも、そのちょっと先を見ていたんだなってことに気づくんです。で、そのちょっと先ってのが、イメージを再構築する際に頼りにしている場所なんですね。だから逆にプリントされたものも、その頼りにしている場所から見たら、ちょっと手前なものなわけです。ということはつまり、モニタの画面とプリントはちょっと先のイメージから生み出された二つの結果であり、ちょっと手前であるがゆえに違いもあり、眼に見えるように存在できているといえるかと思います。

あと、あくびさんはモニタ上のイメージ=データと考えているようですが、俺はそうは思っていません。モニタ上のイメージもプリンタで出力されたものと同じように出力を経た結果です。光プリンタだと思えばいい。ただ、モニタで絵を見るのは経済的じゃないし、モニタの特性をまったく生かしきっていないのでつまらないと思っています。それだったらさっき言ったちょっと先から、もっと違った結果が導き出せるはずだと、そんな風に考えています。

あくび:
一方で低解像度の絵が作品になりえないというとそうでもない。
アドビのイラストレーターは印刷にしても解像度に左右されないのがすごいしセンスいいと思うんですけど、作場さんのデジタル作品のような異常な描き込みによるエネルギーみたいのがないのがおもしろくないなとも思うんです。
デジタルメディア特に静止画はどうなっていくのか、どう存在していくのか気になります。

サクバ:
イラストレーターはすでにベジェの解像度に左右されない利点を保ったままで異常な描き込みが出来る機能を備えています。実践している人も出てきていますね。 3Dに近い描き方になるので向き不向きはあるでしょうけど、ツールなんてどれもそんなものです。それに3Dも基本は同じ考え方なのでマッピングの技術がもっと進歩すればさらに強力な静止画ツールとして君臨する可能性だってあります。zbrushなんかはその予感もぷんぷんしてます。これも静止画ツールとして利用している人がいます。

しかしいずれにしても、あくびさんが低解像度の絵が作品になり得ないとは思っていないのと同じように、現状のツールでよい作品が作れないということはまったくないわけで、あとは今描きたい絵に向かっていけばそれでいいと思ってます。先のことを心配していても何も作れないですから。

マルチメディアとかトランスメディアとかって言われる作品とか表現者って、現状だと一つのソースをいろんなメディアで(それぞれのメディアに最適化することなく)やるか、あるいは、メディアごとに表現するモチーフを使い分けているかのどちらかのような気がする。

でもそういうやり方にはあんまり興味が持てない。自分もかなりの浮気性なのは認めるし、似たようなことはやっているんだと思うんだけど、それだとどうも居心地が悪いのだ。

たった一つのモチーフをマルチメディア(のそれぞれの伝達手段)に最適化して、それぞれのメディアにしか出来ない形で表現してみたい。で、その集積を一つの作品として提示してみたい。それっていろんなことがやりたいわけじゃなくて、やりたいことは一つなんだと思う。そのためにメディアを手段として横断する。言葉にするとカッコ良すぎるけど、そういう欲望って、たとえば「生活する」ってことにとても近い気がするのだ。

ほんとの理由はわからないけど、かなり長い期間質感を描き分けることに抵抗を感じていた。見た目的にはリアルかもしれないけど、絵という物質的にはリアルじゃないように感じていたのだ。だから、油絵とかテンペラで絵を描いていたときには、対象の立体感は描いても(それにさえ抵抗を感じていたんだけど)、質感は可能な限り均一化して、色の力を引き出したいと考えていた。

ところがもう一方で模型(今風に言えば造形)への、これまた強力な志向があって、そこではいやってぐらい質感を求める自分もいたのだった。つまり、平面では許せないことが立体だとまっしぐらになれると。でも、そんな風に引き裂かれているのは結構辛かったりもするので、何とか統合したいと思い始める。そこで始めたのがミクスドメディア系のオブジェ的な作品だったと。

マチエールという単語があって、これは絵肌とかを表現するときに使うんだけど、対象の質感を写真的で擬似的に再現するのではなく、絵という物体の質感そのものをコントロールすることでなんとか二つ欲求を統合できないかと考えたわけだ。これはこれで沢山の人が試しているし、一つの表現形式として完成できるような魅力を持っていると思う。

で、そんなこんなで今はデジタルをやっている。なぜここに繋がるのか。それはデジタルがただの夢に過ぎないからだ。その分潔く質感を再現することに抵抗を感じなくなることが出来る。他の理由もある。それはデジタルがマスに訴えることが出来るもっとも手軽なメディアであり、なおかつリアルプロダクトに(3Dデータでバイクの絵を描いて、それを元に実車を作るとか)、最も移行しやすい手段でもあるからだ。

この移行で捨てたもの。それは額に入るような「絵画」だ。置き場に困るような「絵画」だ。だからと言って、平面作品の物質性を無視しているわけじゃない。それを無視しているんだったら、プリントの質になんてこだわらない。ただ、新しい作品のあり方がまだ見えていないだけなのだ。

テーマに沿って絵を描くことって自分には向いていないと思っていたところがある。でも実際には人から頼まれて絵を描いたり、自分で立ち上げたプロジェクトでテーマに従わざるをえなくて絵を描いたりしている。

いわゆるイラストレーターって職業はどのようにアーティストと区別されるかというと、まずはクライアントの有無だ。クライアントの意向に沿った絵を描くのがイラストレーターで発信元が自分なのがアーティスト。でもこの区分ってアホらしいと思う。第一に自分が発信元であったとしても、社会的な自分や、作品が要請する要求に答えている関係性においては、クライアントの意向に答えることとなんら違いを見出すことが出来ない。第二にクライアントが企業などの商業ベースである場合と、美術館やギャラリーなどの非商業ベース(だと思われているに過ぎないんだけど)である場合を差別化する意味が理解できない。どっちであろうが、そこにはテーマに沿って絵を描くのと同じ枠組みというか規制は働くものなのだ。

俺が自分のことをテーマに沿って描く事に向いていないと思っていたのは、変な風に自由を履き違えていた部分があるなと思う。だって今まで自分がやってきたことを振り返ってみると、なんだかんだ言ってほとんどの場合は、自分発信であれクライアントの意向であれ、テーマ(おそらく作品なりイベントなり商品なりが、それ自体で必要とする要求)の求めるところに従って仕事をしてきたとしか思えないのだ。

もちろん夢中になって向き合えるモチーフと向き合えないモチーフの違いは厳然と存在する。でもそれだけだ。その違いしかない。しかも向き合えるモチーフが他人から与えられる事だって珍しいことじゃないのだ。凝り固まった自分だけは避けたいものだ。

世界は平らで果てがあり、海の終わるところではゾウさんとカメさんが大地を支えている。ってのが昔の人の想像した世界観であるけど、ああいうのも一人の人間にとってはあながち嘘っぱちではないと考えている。太陽が地球の周りを回っていたとしたって何の問題もない。別に現代科学が定義しつつある世界の構造を否定しようとかそういうことではなく、個人の認識として、つまり表現として、自分の内側から世界を定義するような態度というのは非常に重要だと思うのだ。たとえばそれがなかったらスポーツ選手は強くなることが出来ないだろうし、陶芸家は自分の身体をコントロールすることが出来ないだろう。主観が一番だとか、思い込みバンザイとか、そういう単純なことではなく、ある手応えと、意思を伴った規律の上で切り開かれる認識は、たとえそれが非科学的であったとしても、他には代えることの出来ない、個人にとっての唯一の認識になるはずなのだ。それは知恵と呼ばれたり、直感と呼ばれたり、妄想と呼ばれたりする。世界は平らであるという知恵があってもいい。月が穴である(by Timrick)という直感があってもいい。精神には涯があるという妄想があってもいい。認識の自由からこぼれ落ちているものはとんでもなく沢山あるように思えてならないのだ。

人と人との分かり合えない距離を誰もが縮めようとする。でも、その距離があるから生まれることをもっと喜ばないといけないし、それがなかったらつまらないとさえ思えないとダサいんじゃないかって気がしてきた。

縮めようとする欲望を否定しようとしているわけじゃない。それは厳然とあるベクトルだ。それを無視しちゃ何も始まらない。その上で、その上でその欲望を無視せずに距離を評価するべきなのだ。距離がない世界も距離が縮まらない世界と同じようにつまらないって事を理解するべきなのだ。

3/24(Thr) 7:05
45才で今、変身中な気がする。 ガキの頃、大人なんて変身しないもんだと思っていた。甘いな。一発お見舞いしたい。今自分に起きている変化がまったく把握できない。

社会は変身しない人間を基準に回っている。少なくと今までは。そうじゃないと定量的で予測可能な生産が出来なかったからだ。つか、予測可能な生産にはウンザリしているんだ。予測可能な生産によって金を稼ぎつつもだ。

予測可能な生産に意味がないとは思わない。そこまでバカじゃない。でも、予測不可能な生産に意味がないと思ってしまうバカにはなりたくない。

冒険がたりないのはエコロジー的な「愛」ではなく、ハンターが否応なく会得せざるを得ないような、受け入れざるをえないような、「他人」と「自分」と「世界」を結ぶ秘密なんだ。そこで、大嘘つきで、無茶苦茶ロマンチックな自分を発見したりもするけど、そんなことで恥じ入っているようじゃなにも起きない。

子供が変身するように、大人も老人も変身する。動物も植物も星も変身する。変身するのが当たり前。それがすきっと当たり前に思えない自分と社会に腹が立つ。不満を言うのはこんなにも簡単なのに、自分の身体の変化をごまかさずに言うことは努力が必要だ。

この半年ぐらい、とても沢山の他人が作った作品を見た気がする。その前はというともう何年もまともには見ていなかった気がする。どうもこの手のサイクルが極端だ。

物を作る人間にとって、他人の作品は絶対必要なものだ。だって作品というものはそれ自体が作者を無視した生物みたいなもので、人から人に伝わっていくことで進化していくものなのだ。誰かに宿ることでその存在を維持する生命。とんでもないことを言っているようだけど、これ、かなり真実に近いと思う。

自分の作品を愛するのではなく、自分の作品に愛されないとダメだ。作品に愛されるように自分の作品に接しないとダメだ。作品を自分に宿らせることが肝心なのだ。

言葉が嫌いだ。言葉を憎んでさえいると思う。これは本心だと言えるけど、この表明も、この本心と表現されたものも全部言葉だ。これは何を意味しているかといえば、言葉を言葉で切ることは出来ないのだ。言葉は好きになることでしかそれを超えることを許さないのだ。憎しみとか怒りとか反論とか議論とか、そういうのは全部、それを引き起こした対象の内側でしか存在することが出来ない。それってむなしい。せめて好きになれない悲しみの内に居る方が、どれほど可能性を秘めているかと思うのだ。

自分の選択に自信を持つことは、難しいときもたくさんあるけど、基本的には後悔とかはない。

「選択に自信を持つ」って表現は「自信を持って選択する」って表現と混同されがちだけど、この二つは全然違う。前者には未知のものにたいする勇気が必要とされるけど、後者にはたとえそれが未知のものであっても、とりあえずは「未知のものとはしない」態度が混じる。重要なのはもちろん前者だ。

まず選択は必要だ。どのように選択しようが、選択することを避けては、獲物を手に入れることも出来ないし、前に進むことも出来ない。右に行くのか左に行くのか、前進するのか退くのか。ここで「選択に自信を持つ」って態度であれ「自信を持って選択する」って態度であれ、まず理詰めでする選択に意味があるとは思っていない。つまり「選択に自信を持つ」って言い方に可能性があるのはそれが理詰めを拒否した言い方である可能性が高いからなのだ。もっと言ってしまえば「選択に自信を持つ」ってことは、選択した後にしか表現されない言葉だって事だ。

「選択は自信とは無関係に成される行為だ」

ここまで来ると「選択」は「判断」になる。「判断」の優れている点は「選択」よりも「意思」の分量が少ない点だ。たぶんこの「意思」を「エゴ」に置き換えてもいい。「判断」は精神よりも身体に近いのだ。「身体」は後悔しない。

一発屋でいいと思っているところがある。

でもそれは、職業的、経済的成功における一発屋とはちょっと違う。そういう偶然や自覚の薄い作業の結果に「美味しさ」が付いてくるみたいのはどうでもいい。

そうじゃなくて、いわゆるプロに求められる「継続=安定した答えをクライアントに返すことが出来る底辺レベルが高い能力」とかを、あえてそれこそ自覚的に無視しつつ、これしか出来ないかもしれないし、これやったらもう終わりかも、ってことを自分の人生をかけてやるような一発屋なら、それはやってみる価値があるし、やってみるべきなんだ。

こういうのって歳を重ねれば重ねるほどやりにくくなることだと思われがちだけど(実際の社会はそのように存在しているとしても)、実は歳を重ねないと出来ないことだって事の方が重要だ。方法論としては何かを作り出すことの基本でもあるわけで、赤ん坊だってそのように生きているわけだけど、それを継続することで初めて見えてくることもあるわけで(この場合の継続は他者に対する継続ではなく自己に対する継続だ。それは今の社会においてのプロという価値からは、ある程度距離が置かれているように見えている)、それこそが冒険といえるような冒険だと思える。

戦う相手、行きたい場所、知りたい感覚、そういうターゲットを明確に感じることが出来るスタートラインに立つって事はそれだけで価値があるし、そのスタートラインから先に進むって事は、ある意味一発屋の覚悟を決めるって事なんだ。

恨み言の連鎖と経済学はとても面白い。個人において解消されるようにその連鎖と配分を生きないとつまらない。恨み言で進行する物語は好きじゃなかったけど、そんなことを思う自分の方が嘘つきな気がしてきた。それを言うのが自分でも他人でも、恨み言をすげぇクリアにないがしろにせずに流せる強さこそカッコいいじゃん。ホラーがエンターテインメントになるのはみんなが望んでいたことだけど、茶化しちゃ何の意味もない。それは隠蔽だ。決してベタベタせずに表に引きずり出し、肉を良く噛んで消化するようにサクサクとウンコにすることが大事なんだ。

「対象を定義したかったら距離を保て」
いい言葉だなぁ。いや、今俺が考えたんだけどさ。これって必ずしもクールになれってことじゃない。クールは距離を保つことではあるかもしれなけど、同時に興味を減らすことだ。興味を減らしちゃ意味が無い。興味をホットに保ちつつ距離を保たないと。だから下手なクールよりも距離が保たれていないホットの方がずっと好きだ。で、そこで言うわけだ。距離を保てと。焦がれて苦しい場所にいろと。簡単に内側に入れるなんて思っていたら、それは大間違いだ。内側に入りたかったら距離が重要なんだ。

金が無いとやりたいこと出来ないけど、金があればやりたいことが出来るわけじゃない。そうなんだってば。ほんとに。いくら金があってもやりたいことが実現できるわけじゃない。それが実現できるかどうかは、金も関係するけど、それだけじゃないのよ。もう身に染みちゃってそう思う。よくある話で金に身売りするなって事も言いたいんだけど、金に身売りしなければ良いものが出来るわけじゃないんだよって事も、もの凄く言いたい。なんつうか、どっちもガキだよなって思う。もっとピュアなガキじゃないと面白くないよ。

2/7(Mon) 6:06
金のせいで実現しにくい価値っていっぱいあるけど、金のおかげで初めて実現できる価値もいっぱいある。で、今の時代って金のおかげで実現できる価値の最終段階に来ているのかもしれないと思っているところがある。まだたりない。もうちょっと探検しないと終われない。そんな感じがする。それは絶対的に、気持ちよく、そして残酷なぐらい広く(つまりイヤな言葉だけど大衆的に)実行されないと(消費されないと)すっきり出来いないことなんだ。俺がそれを求めているのかははっきりしないけど、そういう場所にいるって事は確かだ。

好きなものってなんだろ。それってただのノスタルジーじゃないのか。と思ったけどそんなことないな。好きな物にも二つの側面があって、それは要するにエロスとタナトスなわけで、ノスタルジーはエロス的側面で、タナトス的側面はというとパイオニアなわけだ。これを父と母に置き換えてもいいわけだが、両方好きってことが好きってことのほんとの意味なんだ。両方好きって事はだよ、同時に好きって事じゃなく、今日はこっちが好きで、明日はこっちが好きだったりするってことだ。で、好きって事が教えてくれるのは、そんな自分と同じように、他人とか虫とか木とか風とか科学とか経済とか、そういうもの達もやっぱり同時にどっちかになることは出来なくて揺れているもんなんだから、それをよぉくわかっておきなさいよ、って事なんじゃないかと思ったんだ。でも、それでも中立ってことがいいたいんでもないんだよな。たとえば多様性に向かうようなベクトルはあるはず。そうじゃなかったら面白くもなんともないもの。

想像力って凄いなぁとおもう。科学なんてたんに想像力の賜物だ。でもそれは想像したに過ぎないってことも事実だ。たとえ地球を消し去ることが出来るぐらいのエネルギーを生み出すことが出来たとしたって。

架空とか空想とかって言葉はいつも魅力的だ。で、なおかつ「リアルに感じられる」ように表現された架空や空想はさらに魅力的だ。で、それが「実用」になったりもしちゃうのが科学の世界だ。「実用」はいらねぇ!って言える強い体と心が欲しいものだ。

1/29(Sat) 6:56
既にあるものを利用するのは、それがどんなに気づきにくいことであっても、「思いつき」の範疇を出ることは無いのかもしれない。とはいえ、既にあるもの以外のものなんてどこにあるんだ?と、言われればぐうの音も出ない。でもそんなことを言うやつは、既にあるものさえ発見したことの無い連中だ。既にあるものを発見し続けているんだと思うととてもうんざりするけど、自分にとって新しいということは、それだけでもっともっと評価されるべきだと思うんだ。結果が陳腐であっても、本人にとって陳腐でなければそれでいいじゃないか。そうじゃなかったら子供なんて生きて行くのがイヤになっちゃうよ。でも、こういうことを言うと勘違いするやつがいっぱいいることも知っている。こういう物言いは、守るためじゃなく、前に進むためにだけ利用しなくちゃいけない。

楽しみにしてくれている人にはほんとごめんなさいです。

でも前から思っているんですが、毎日更新とかってある意味異常な行為です。自分ではこのサイトを更新するのは、仕事の一部だ、ぐらいに思ってやっているわけで、そうじゃなかったら三ヶ月ぐらいは続いても何年もとなるとそうそう続けられるものじゃないと思ってます。まあ、これは言訳ですが、もうちょっと話を大きくして言うと、こういう話になったときに観る側の期待というのをいつも考えます。それに答えたいわけです。そしてその回答が出され続けた結果として、今のテレビ番組とか週刊誌とか新聞がある。そうすると、果たしてこの答えはいいものなんだろうかという疑問がわいてくるのです。観る側と作る側にとってイイ関係なんだろうかと。

週間連載の漫画家の仕事なんてのは異常な仕事です。異常なペース。それだからこそ生み出されるものだってあるとは思うけど、どっか間違ってる。一年間に単行本が四冊、連載を四本抱えていたら16冊。あり得ない数です。一年に一冊、いや二年に一冊だっていいぐらい。しかしそれじゃ食えないし忘れられてしまう。アイドル歌手だって二年もブランクがあったら出直しになってしまう。でもそういうものだと思いたくないんです。ものを作るってそういうことじゃない。それはただの消費です。やり過ごすための気晴らしに過ぎない。

もっといいやり方があるはずだと思う。自分の中ではキネガワ堂もそのための模索の形です。まだ全然上手く行ってないし、ココとの折り合いもついていないけど。

リアルで切羽詰ってもいるのに絶妙に無意識でそのくせ計算高いのになんでこんなにリラックスしてるのってようにしか見えなくて実のところめいっぱいだったりもする、ような、ハッタリ、っていいものだ。

古い音楽とかでもオーケストラや協奏曲みたいのよりも一人でやっているやつの方がぐっとくる。映画やゲームでもなるべく個人がわがままを効かせているものか、じゃなかったらほんとに一人で作っているようなものに惹かれる。いわゆるロックとかでもボーカルにリードギターにベースにドラムと来るとそれだけで萎えちゃうところがある。

作品ってのはどんなものでも本質的には個人のものなんだと思う。何千人、何万人の人がかかわろうが、たとえばサグラダファミリアはガウディの作品だしスターウォーズはルーカスの作品だ。だからオーケストラやロックバンドに好きになれないものが多いのは、ただ単純に個人の作品になっていないものが多いだけなんだろうと思う。形式しかなく一つのものに向かっていない。

人が集まると焦点がぼけやすい。焦点さえ合っていればどれだけ多くてもかまわない。そういうことだ。しかしそれでも、一人でやっていることのシンプルな美しさってのは大人数が集まったときには出せないような直接性がある。シビアで親密な直接性だ。自分の中でその直接性はあるノスタルジーに結びついているような気がする。そんなノスタルジーにしがみつくことにどんな意味があるのかは分からないけどそんなことも結構大事だったりするのだ。

「一生懸命」に描くと良い絵は描けない。それはホントだ。そしてそんな風に思っているときには「軽く」描くといい絵が描けたりする。ところがところが(しつこい)軽く描こうと思っても良い絵は描けなかったりする。そしてそんなときには「一生懸命」描くといい絵が書けたりする。

つまり「こんな風に描こう」と思っている限りはどんな風に描こうが良い絵は描けない。じゃあどうしたらいいんだって言えば、どんな風に描こうなんて思うなってことなんだけど、それじゃあんまり不親切なことぐらいは俺にだってわかるので、あえて別の言い方をしてみると、描くという行為を意識するなってことなんだと思う。さらに言うと、上手くなるために描くなってことだ。

描ける事は目的ではなく手段だ。なにかのための。その何かは人それぞれで、そのそれぞれの何かに寄り添っていさえすればどんなに迷っても何とかなるもんだと思う。

プリンタのこととかOSのこととかウェブのこととか、いわゆるコンピュータ関連の話題を書いていると、とてもつまらないことを書いているんじゃないという気持ちになってしまう。前にも似たようなことを書いたことがあるな。とにかく、知らない人にとっては理解できないことを書いているという感じになるんだな。

新しい話題はそれだけで人の興味を呼び起こす。問題になるのは読む人の日常の延長上にそれがあるように読ませることが出来るかどうかだ。つまり、コンピュータなんか大っ嫌いだ、という人にもすんなり読めるようにその文章が書かれていればなんの問題も無い。でも、でもだよ、これを読んでいる人の日常がどんな風かなんて想像つかないよ。これを読んでいる人の中にはコンピュータに触れていることこそが日常だって人もたくさんいたりしちゃうわけだよ、実際。

たとえば使いやすいBBSのプログラムがあったりすればそれだけで百万ヒットなんてこともあたりまえだったりするわけだ。この世界では。でもその百万ヒットの中身はやっぱりBBSを設置しようと思っている人の百万ヒットなことも事実なわけで、それは誰でもが面白いと思う「誰でも」とはちょっとずれるなと思ったりもするんだが、じゃあそんな万能な「誰でも」なんてのはどこにいるんだってことになれば、そんなものはどこにもいないことは明らかなわけだ。

ここではっきりするのは、「誰もがどこかに属している」ということだが、そういう枠組みにこそ不平を言いたいのが俺であって、なんだ、結局喧嘩を売っているのか、浅ましい野郎だな、だけどさ、コンピュータの話題だろうが海外旅行の話題だろうが料理の話題だろうがなんだって一緒じゃねぇか。問題はモチーフじゃなくて書き方だろが。てなことに思い至るとちょっとこのところ手を抜いていたなぁと反省するのであった。

唐突なことを怖いと思うことはたくさんある。ホラー映画で予想できないような音量で効果音を鳴らしたりするのもそれが怖いからだ。

唐突だということは、過剰に「いきなり」だということだ。どんな時に過剰だと思うかといえば、どこかに受け入れなり興味なりの準備があるにもかかわらず、その能動的な思いが無意識下で排除されるような対象に対してそれは過剰となる。そして恐怖なり笑いなり怒りなりの感情を呼び起こす。

まず感情が一番表に出てしまうんだ。そんなときには。それを武器にしていろんな表現や商売が生まれ、延々と引き継がれていく。ある意味人が恐れ、もしくは忘れている、そういう感情、ないしは無意識は、ネタとカネの宝庫だ。だからなんだってわけじゃない。ただ、つまらないことで驚かされたり笑わせられたくない。いや、笑ったりしちゃうんだけど、されたくないんだ。

人に必要な過剰は、それぞれの人が一番知っている。余計な過剰はよくわかっていることを鈍らせる。それはあまり気持ちいいものじゃない。でも、過剰なんて何でも一緒だという気持ちもある。そんなものに振り回され方が悪い、という気持ちもある。だけどひとつはっきりしているのは、いま受け入れられるものは全てではない、ということだ。そこには何の問題もない。

意識的な過剰は儀式として用いられたときにのみ
美しい

それは手段だから

つまり
求めるものはその先にあるから

ルール
装飾
逸脱

喜びは
やってこないかもしれない未来に
支えられる

それは夢想ではなく
ここにいるということだ

8/31(Tue) 15:02

何十兆枚だかしれない葉っぱが

見ることもできない

行くこともできない

遠くまで

風にあおられている

ざざわ ざざわ ざわわわわ

8/31(Tue) 15:08

それは知る必要がないもの

それは知る必要がないもの

それは知る必要がないもの

それは知る必要がないもの

それは知る必要がないもの


8/31(Tue) 15:15

わからなくていいこと

りかいしなくていいこと

うけいれなくていいこと

やらなくてもいいこと

きにしなくていいこと

ほめられなくていいこと

がんばらなくていいこと

うそをつかなくていいこと

しらんぷりをしなくていいこと

むりをしなくていいこと

あきらめなくていいこと

こもらなくてもいいこと

きめなくていいこと


そんなことばかりのはずだ

ほんとは


そうじゃないことは
ほかにある

ただひたすらにダラダラしたい欲望が渦巻いているようだ。

散歩して酒飲んで昼寝して映画見てメシ食ってまた酒飲んで昼寝してという何も生み出さなくていいような時間を飽きるまで続けたい。とは言っても作りたい気持ちがなくなったわけでもないし、情熱が失せてやるせない気持ちになっているわけじゃない。そんな風じゃなくたってダラダラする時間は必要なんだ。なんだぜ。

よく想像力や過去の資産や情熱を食い潰すような表現をするのを見るけど、そういうのってなんか違うんじゃないかとずっと思っているところがある。大雑把に言ってしまえば、食い潰されるような表現は、所詮食い潰すことができるような表現だったってことなんじゃないか。それ以上でもそれ以下でもなく。だからそんなところでジタバタして、「俺にはもう何の意欲もない」とか言っているのはとってもダサい気がしてしまう。もっと他にやることあるだろう、と思ってしまう。

で、ダラダラするのはそういう風に見えることもあるだろうけど、そうじゃない態度でやるためにも必要だったりするんだよ。積極的にね。どっちかつうといまいち極めていないので積極性が足りないなぁと思うぐらいだ。

これって呼吸に似ている。
呼吸にもいろんなスパンの呼吸があって、短いスパンの呼吸もあれば何年もかかる呼吸もあるんだ。息を止め過ぎれば窒息する。ゆっくり吸った息はゆっくり吐くものだと思う。

浅はかな自分とか。
既にアホなことをした自分とか。
負けた、自分とか。
とか、とか、
とかは。

小さい。
その影響も含めて。
小さいことなのに
なのだから

小さいところから
離れられるように

やろう。
やれるように。

無視はしない
無視をしないと
そこに丘があって
丘の上に登れば
なぁんだ
となれるのに

丘が見えないんだ

だから丘があることを
忘れないようにしないと

いけないんだ
見えないからこそ

忘れないようにしないと

忘れてしまいがちな自分に
それを

憶えさせたい

環境が変わることって凄いことなんだなぁって思うようになった。それは使っているコンピュータのオペレーションシステムが変わるってことでもそうなんだけど、引越しをするとか、家族構成が変化するとか、金儲けの手段が変わるとかペットが変わるとか、そういうことを全部含めて、環境が変わることで個人に及ぼされる影響力っていうのは大なり小なりとにかく無視できない力として人を流していくものなんだって今更ながら実感したのです。

変わり方にはいろいろある。避けがたい天災で変わることもあるし、思ってもみなかった他人の意思で変わらされることもあるし、自らの意思で変えることもある。でも、どんなきっかけで変わるにしても、変わってしまったことの絶対的な影響力というのは、その理由よりも大きい力として影響を及ぼすんだなぁ、ってことが新鮮だったんだ。

できる限り変化した環境に適応できるように生きていたいとは思う。それは他人の言うことを聞くという意味ではなく、自分が生きていく場所を見つけ出せるという意味でそうしたいと思う。思うのだけど、それがままならないことが自分に起き得るのだということは、今までは受け入れたくなかった。し、受け入れられないようにつっぱっていた。いたんだな。これが。でも、そこでつっぱっていたら超えられないことがあるんだな。これが。と、ガキな俺が思いましたとさ。

やっと暇な日々が我が手に戻ってきた感じ。嬉しいなぁ。嬉しいなぁ。とっても嬉しいなぁ。

つってもなんの事やら分からないですよね。要するに自分で体に聞いて、その意見に耳を傾けるような事が出来るような時間が、頼まれごとやら外貨(つっても外国のお金じゃなくて言い出しっぺではないところから入ってくるお金のことです)稼ぎで阻まれまくっていたわけですが、とりあえずは内側にダイブするような時間が持てそうだって事なんです。ホント嬉しい。

例えが分かりにくいけど、資源は利用するより発掘する方が楽しい。フロンティアの方が面白い。最初の一人として常に生きている方が気持ちがいい。そしてそういうことを継続するためには孤独で暇で資源の利用に振り回されないような時間が絶対必要なんです。それはホントに大事。少なくとも自分にとっては最重要です。貴重な今をしっかり探検したい。

モノクロ写真が表現できることと、カラー写真が表現できることと、絵が表現できることについて、なんとなく思いついた。あくまでも俺の個人的納得の範囲なんだけど、モノクロ写真は質感を生かすようなライティングが魅力的に見えて、カラー写真は質感よりも色がコントロールされてそれが表現に結びついている方が魅力的に見える。で、色でも勝負しつつ質感も生かしたい時や、その逆みたいな場合には、写真だったらシャッターを押した後の加工(手彩色するとか、カラーでありながら質感寄りに色補正を掛けるとか)が必要になるように思う。つまり、ナチュラルを求めたら主観に近づくことは出来ないというか、リアリティというのはそんなものだというか、そういうジレンマが写真という手段にはあるような気がしてしまう。といっても、ここで言っているのは他にもある写真ならではの表現の可能性の部分を無視して言っているんで、別に写真という表現自体の規定をしたいと思っているわけじゃないです。

で、絵の場合は、最初から仕上がりに向けて進んでいくので、どのような場合であれ作業手順的な断絶は起きない。まず結果なりエモーションのビジョンがあって、全てはそこから始まる。これって美しい。もちろんここで比較しているようなことは、比較すべきではないような要素も含まれているんだけど(絵にはシャッターを押すこととは比べものにならないぐらいの生理的な快感があったり、それも込みの上での絵の価値だったりもするわけで)、一つの側面としてはこういうことも言えるかなと思った。なんでこんな事を書こうと思ったのかはいまいちよくわからないんだけど、たぶん写真というメディアの、「伝達」「記録」という部分と「表現」という部分の間にある、あまり面白くない段差について、その違和感を解消したかったんだろうなという気がした。

構造や理由が理解できれば世界は単純になる。山ほどあるレシピだって全てを知ることが出来なくても、全てに通じる道は開かれていて、必要なときに必要なレシピを発明すればいい。みんながそんな風に構造や理由を知ればいいと思うのだけど、そうはいかないらしい。出来上がったもののバリエーションに翻弄されるのが好きなのだ。そういう人がたくさんいる。そしてそういう人によって経済は支えられている。絵描きの生活だってそのように支えられている。でもそれはかなり不経済だったりするのだ、実は。

絵でも料理でも建築でもダンスでも音楽でも車でも、とにかくなんにでも構造と理由があって、そのうちどれか一つの構造と理由が理解できさえすれば世界は単純になる。単純になって初めて複雑さの出発点に立つことが出来る。それは誰もが求めていて、誰にでも必要なことだと思えてならない。その出発点に立つための、市場や教育やコミュニケーションは今のところ大した力を持っていない。でもそっち側に動いていってるような気はするんだ。勘違いじゃないといいんだけど。いや、勘違いなのかもしれない。あまりにそうなって欲しいので、そう思えるような部分ばかりクローズアップして見ていたりしているはずだから。

だけど、昔みたいに「この線が引けるようになるまでには10年掛かる」とか、そういう秘密主義みたいのはずいぶん無くなってきているように思う。料理の本だって、タイムラインを記述するだけの本では無しに、なぜそれが必要なのかとか、このタイミングでこの材料を入れる理由とか、そういう作り手側の思考が書かれた本が増えている。みんな「それが知りたかったのよ」と、そこで思っているんだという風に見える。

たぶん流通がこんな風になる前は(産業革命以前は)、構造と理由はもっと当たり前に生活の中にあったんじゃないかと想像してしまう。でも技術革新によっていろんな場所に繋がるようになった結果、人間が追いつかなくなってしまったんだ。でもその革新にも収束が見え始めている現在、そろそろ翻弄されるのも止めたほうがいいんじゃないかという危機感が募っている、というのが、構造と理由が知りたくて、それが当たり前だと思いたいサクバが見ている都合のいい現実だ。

ru000103.jpg自分の場所を取り戻したいと思うなら
休むことより動くことだ。

このところ口を開けば「時間がない」とか「忙しい」とかしか言ってないわたくしですが(「とかしか」っておもしろい。新しい鹿の名前「トカシカ」。クスクス)、個展の準備も終わってやっと一息つけるかと思いきや、まだやらねばならないことが残っていて、「クソつまんねーよ」とか悪態をつきながらあまり楽しくない仕事をこなしているのです。まあ、人生そんなものです。人生の半分はクソつまんねーことで出来ているわけですから、クソつまんねーこととだって仲良くやらなきゃいけません、ってお前にそんなこと言われたくねーよつう話です。しかしこれは大したことじゃありません。なんつってもクソつまんねーことですから。大事なのはつまんなくないことに決まってます。しかしこんなこと書いちゃっていいんでしょうか。だってクソつまんねー仕事を一緒にやっている人もココを見ているんですよ。まあ、いいじゃないですか。サクバはほぼ裏表のない男として有名なんです。ほぼってところ大事。ほぼじゃないときは思いっきり自分がイヤになります。イヤになるのはイヤなのでほぼ無くなるようにしてきたんです。でもまだ残っているところはある。この残っている部分ではいろんなものにつけ込まれたり翻弄されたりダメになったりムキになったり意固地になったりします。ほぼ無いんだけど、無いわけじゃない。

このイヤな部分というのは病気への近道です。だと思うのよ。そんでこのイヤな気持ちにノスタルジーが絡んでくるとほんとに始末が悪い。しかも実際に絡まれちゃっている状態では、そんなこと指摘されたところでどうにもならない。あまりそうとは思いたくないんだけど、自覚的に病気を生きるしかないのかも知れない。自覚的になれない場合はほっとくしかない。

居心地がいいのがいい。
問題はどういう状態をもって居心地がいいとするかだ。ヌルけりゃいいってわけじゃない。スキッとパキンと立っていたい。最近はそう思う。昔はヌルイ関係が持てなさすぎてヌルイのにさんざん憧れたけども。

高校生の頃、初めて自転車を自分で組んだのだが、買ってきたアルミ製の泥よけが取り付けのためのネジ穴が空いていないやつで、こんなことしてもいいんだろうかと思いつつドリルでグリグリと穴を開けたのだ。

店に売っている製品に穴を開けるというのは、普通でいえば商品価値を落とすようなことだけど、穴を開けなければ自分的な商品価値が発生しないとなれば、これはイヤでも空けざるを得ない。そして、そんな風に人は自分の自由を獲得していくのだ。

消費者はどこまでも自分の主人であるべきだ。
消費するってことはそういうことだ。

自分に引き寄せろ!
使え!

消費者ってのは受動的なヤツではなく、むしろ限りなく能動的なものであるはずだと思うのだ。

きょうはもう充分働いたので眠るのである。でもその前にちょっと酒を入れるのである。入れ中なのである。

しかし今描いている絵がどうも気に入らないのである。気に入った絵なんてまったく描けた試しがないのだが、たぶんそれ以上に気に入らないのである。パッションが足りない。ビジョンが足りない。パワーが足りない。といっても最初からパッションもビジョンもパワーもないところから始めた絵なのである。だがそんな始まりを持つ絵であってもそれらは込めねばならないのである。それぐらい出来ないようじゃダメなんである。ここであがきすぎるとありもしない思い込みの囚われの身となるゆえ、それにも注意が必要なのである。それはなにもない絵よりもさらにたちが悪いのである。なんだかんだ言って絵なんてものは100万年後の未来までも綱渡りなのである。

久しぶりにリアルな感じで絵を描いているんだけど、自分の下手さ加減にウンザリした。リアルに見せられない下手さじゃなくて、リアルに振り回される下手さだ。最低じゃん。

マシンのように描きたい。

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