警鐘なんて鳴らしたくない。
なぜなら警鐘は、鳴らすべく定められた出来事が起きた後にしか鳴らすことが出来ないからだ。
そんな警鐘に比べれば、嘘かもしれない孤独な思いつきの方がずっとリアルだ。
しかしこの物言いは、昨日の日記には反しているな。ダメじゃん。
警鐘なんて鳴らしたくない。
なぜなら警鐘は、鳴らすべく定められた出来事が起きた後にしか鳴らすことが出来ないからだ。
そんな警鐘に比べれば、嘘かもしれない孤独な思いつきの方がずっとリアルだ。
しかしこの物言いは、昨日の日記には反しているな。ダメじゃん。
なにが好きか、なにに情熱を感じるのか、なにをしたいか、なにをしたか、ということに比べれば
なにが嫌いか、なにがつまらないか、なにがしたくないのか、なにがなされなかったのか、
なんてことは
一億分の一の価値も無い。そう自分に戒めておく。
批評や検分や恨みや正当性の証明に費やすには、
たぶん人生は誰にとっても短すぎるのだ。
昔からずっとスケール感に興味を持っている。このスケール感というのは自分にとって物凄い広い意味を持っていて、それは単なる模型的な意味での縮尺率のことでもないし、雄大さや窮屈さを表すようなスケール感とも違う。そこには例えば、流れている時間のスケール感や、そのスケールの基準がどのような社会性によって定義されているのかとか、そのスケールを成立させている技術レベルがどのように保たれているのかといった事が全て含まれてくる。その上で、自分が惹かれるスケール感というのがって、それをずっと求めているような気がしている。
しかしそんな自分が求めているスケール感というものが、滅多に見つからないぐらいレアなものであるかというとそんなことはない。そのスケール感は日々の散歩の中でも、スーパーの陳列棚の中にでも、寺院の着飾ったお地蔵さんにも、子供が遊んだ砂場の残骸にも見出すことが出来る。しかしそれらに共通する特徴というのがあって、それはどれも儚いということだ。しかもその儚さはそのスケール感の本質では全く無いのだ。つまり自分が追い求めているスケール感は、それ以外のスケール感に比べると、評価が定まっておらず、言語化しづらく、共有されづらいようなスケール感であるということだ。
だが、その自分が魅力を感じ、追い求めているそのスケール感は、そんな風に儚い状態に置かれていてはいけない重要な価値を持っていると思えてしょうがないのだ。
そのスケール感は例えば、善悪の手前でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、他者の眼が届かないところでのみ実現される。
そのスケール感は例えば、比較の手前でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、蓄えに依存しない時にのみ実現される。
そのスケール感は例えば、時間を計ることが無意味な世界でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、制限が制限で無くなった世界でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、感情の向こう岸で実現される。
そしてこのようにいくら条件を並べ立てたところで、その定義は狭まるどころか広まるばかりだ。それぐらいそのスケール感を成立させる欲望は当たり前に存在しているものなのだ。
自分がある映像なり表現なりを見たときに、どうしても惹かれてしまう傾向というのがあって、それは身体性が後付の機材によって拡張されていたり、制限されていたりするものだったりする。
拡張性ということで言えば一番わかりやすいのは乗り物だ。レーダーや望遠鏡やメガネや補聴器や、さらに拡大していけばそれは建築物や都市にまで行き着く。しかしそこで惹かれてしまう本質のことを考えると、実は拡張することのために犠牲にされている、制限された身体にあるような気がしてしまう。
制限された身体性といえば、目隠しや、ボンデージファッションや、矯正器具などの医療用器具が思い浮かぶ。ここでのイメージの行き着くところにはには死体や病気も含まれてくる。しかしこちらでも、惹かれてしまう本質のことを考えると、実は制限されていることによって開放されている精神性に魅力を感じているような気がしてしまう。
そうなってくるとどっちが本質かとか、何が究極かとかどうでも良くなってしまうのだ。つまり一見拡張に見えるものは、身体的制限を前提とした精神的万能感の獲得であり、一見制限に見えるものは精神的制限を前提とした身体的万能感の獲得であり、おそらくそのどちらの場合にも、ある外部としての機材を必要とする、もしくは欲望する状況というのが前提としてあって、その前提となっている精神状態が、なにか心の奥にしまってあるものをかきむしるのだ。
そのかきむしる何か、その暴力的なまでの何か、拡張したり制限したりすることによって見えてくる何か、その状態に惹かれているんだろうと思う。
飛躍する。
それはたぶん春の狂騒だ。
悲しみも情熱も春の狂騒なのだ。
暖かく咲き乱れる喜びを乱用しまくった爛れたゴミだ。
だが、そんなゴミが好きなのだ。
そしてそのゴミは、ゴミにしか見えないようにあるときにだけ最も美しい。
実用性と利益のためにどれほどの機械が堕落したことだろう。
堕落した機械に囲まれることをどれだけの人が望んでいることだろう。
欲望を地に着かせることが何とわかりにくくなっていることだろう。
おそらく、機械がもたらす喜びとは
身体の軽くなり始めた子供が
初めてジャンプする喜び以上のものではないのだ。
リアリティを求めている、と思っていた。
だがリアリティとは疎外感の別名であると思った。
自分に起きた出来事がリアルであると感じる時
そこには必ずカタルシスがある。
カタルシスは治癒を伴うからカタルシスなのだ。
そこで何から治癒されるのかを考えると
それは過去に属する特定の事象からの解放として治癒が経験されている。
リアリティとは、あるサイクルの因果関係の一側面に過ぎない。
だからと言って
その一側面を貶めたいわけではない。
ただそれが一側面であることを知る事はとても重要なことのように感じる。
サイクルが澱む時には腐敗が始まる
腐敗を起こさないようにリアリティが働くようにすればいいだけの話だ。
自転車に乗る人は自転車を見るだけでも楽しみを感じるだろう。
その楽しみは、自分が自転車に乗っていることを想像できるからであり、そしてさらに見惚れるような人は、その自転車を構成している部品が、自分にとってどんな体験をもたらしてくれるかを想像して、見ることをさらに充実させるだろう。
同じことが絵画や映画にも言える。
いつもの散歩道を描いた一枚の絵は、いつも散歩をしている経験が共有出来る人にとっては楽しめる絵になるだろう。毎日を初めて生きるように過ごした経験がある人にとっては、毎日を初めて過ごすことを表現した映画は楽しめるものになるだろう。
そのように表現は過去に属するが、しかし本当の表現は、見ることの、聞くことの、感じることの、味わうことの、
手前にあるのだ。
大事なことは常に手前にあるのだ。
ではその手前は表現に見えないかって?
とんでもない。
誰もがその手前を見て勇気を貰い喜びを感じているはずだ。
それが表現じゃないなんて、ほんとにとんでもない。
美しさとは実践されることだ。
そしてそのような美しさは捉えられることを拒否する。
既に実践されたことの解釈なんてどうでもいい。
その捉えられない一瞬を誰もが求めているに過ぎない。
なのにその薄皮一枚の、
薄皮さえもないような、しかし厳然たる壁を超えたくて(それはおそらく認識と言う壁だ。
今日も歩き、手を動かし、食べ物を口に運び、まぐわい、言葉を浪費する。
しかしそれでも欲しいものは既に実現している。
未来を延期するのは人類の特権だ。
あるいは人類の病気だ。
幼さが膨れ上がっている。
幼さが祭り上げられている。
幼さが檻の中に閉じ込められている。
幼さが暴走している。
現代から幼さを取り除いたら、それは現代とはいえないぐらい、
幼さが時代を支配している。
そんな風に思えてしょうがない。
トヨタのリコール問題も、児童ポルノ問題も、モンスターペアレンツも、子供手当ても、捕鯨問題も、環境保護も、全て幼さを巡っている。
昔は「大人は真実を隠している」と子供に思われていた。しかし実際には、真実を隠している大人なんてどこにもいない、というのが真実だった。もっと言えば隠すべき真実なんてどこにもありはしない。それなのに、一体何を隠そうというのか。
今の大人は、子供に真実を見出そうとしている。しかし、真実を生きている子供なんてどこにも居ない。もっと言えば、真実を生きる子供はあらかじめ否定されている。否定しているのは見出そうとしている観察者本人だ。その構図の中心にあるのが幼さだ。幼さを分類してはいけない。幼さを祭り上げてはいけない。それは幻想に過ぎない。そして幼さを否定してもいけない。
暴力と幻想はいつも仲良しだ。
それはそれでいい。
虚構的資本構造にとってさえ、というより、そんなものにとってこそ、幻想は原動力なのだ。きっと。
便利さや豊かさは、人をすぐに慣らす。
しかし、その便利さや豊かさは、非常に限定された範囲における便利さであり豊かさだ。
同じように、貧しさや不便さだって人を慣らす。
それもまた、限定された範囲における貧しさであり不便さなのだ。
便利かどうか、豊かかどうか、
その価値基準こそが幼さなのだ。
そして、その限られた便利さなり豊かさなりの中にしか、現代における人格だとか人権だとかの幻想は生きていけないように作られているのだ。
なぜそれほどまでに、幼さという名の純粋だの無垢だのを求めるのかと言えば、それは、それぞれの自分自身の過去を取り戻したいからに他ならないんだろうとしか思えない。誰もが「既に損なわれた人生を送ってきた」という認識を共有したいのだ。
なんという堂々巡りだろう。なんという無駄だろう。
連鎖する暴力。
この連鎖を断ち切ることは出来ないんだろうか。
せめて自分の中で。
デジタルネットワークには二つの使い方がある。
一つは既存のインフラを利用して、自分が「得」するために利用する使い方。
もう一つは、インフラそのものの可能性を広げることを楽しむ使い方。
前者は「社会的」だ。
そこではさまざまな窮屈なルールが再生産され続けることだろう。
しかしそれを否定するつもりはない。
なぜなら、そこにはジャーナリズムや権力や大量生産技術が
個人レベルに下るために必要な可能性が眠っているからだ。
そしてその恩恵は計り知れないものになるだろう。
だがしかし、そのベクトルが、
あくまでも既存社会の規範の中でしか進まないことは間違いないように思える。
そして後者は「冒険的」だ。
冒険と挑戦無しには何も新しいことは起きない。
だが、それを支えているのは「社会的」に行動する人々だったりするのも事実なのだ。
ここに苛立ちはない。
かつては苛立っていた自分が居たのに
今は苛立っていない。
要らないものと距離をおくことができ
必要なものに近づくことが出来ればいいのだ。
そうした時には、どちらの側に近づこうともどうでもいいことになるのだ。
デジタルネットワークという技術は
それをとてもわかりやすい形で、
それぞれの人に示してくれる、とても面白いゲームなんだと思う
最適化という未来
適応という未来
新しくも古くも無く
先端でも終末でもなく
珍しくもありきたりでもなく
現在が現在である時にのみ出現する未来
収束と分散が交わる処
それが繰り返され続ける処
最初からあるのに見失われ続ける処
帰る場所ではなく本来の場所
支えるものを必要としない場所
時間と共にある
時間が時間を離脱する場所
絵画が実現し得る「そこにある限りなく薄い空気感」と、写真がデフォルトで持っている「その先にある限りなく深い空気感」の間で、両者は互いに恋をし合っている。
だが見てみたいのはその恋の終わりなのだ。その先に、それが進化の終わりではなく、当たり前になった後にこそ進化が訪れるのだと思う。
裸眼3D動画と洞窟の壁画とフラッシュサーフェスなデジタルプリントとリアル立体の造形物がそれぞれに共鳴しあう未来は、そしてさらに、そこに触覚や臭覚が統合される、実は大昔からあったリアリティの未来は、再定義されることを待っているだけなのだ。さらにおそらくは、そんなものは時代の未来ではなく、個人の未来に過ぎないのだ。
人はかつて見た夢ではなく、見たことのない夢の始まりを求めている。
そう自分では思っているが、そうではない人が沢山いることも知っている。
だが、そうではない人が見たことのない夢を求めていないかといえば
そんなことは無いのだと信じている。
信じているなんて言いたくないのだけど
自分が自分以外でないのならば、
他の言葉が思いつかない。
こんなとき、
宗教があったらとっても便利なんだろうな。
そんな便利な宗教はいらんけど。
どんなに検証しうる限りの耐久性を持たせた写真も永遠ではない
どんなに堅牢な顔料を使った絵画も永遠ではない
どんなに冗長性を持たせた建築も永遠ではない
どんなに語り継ぐ意思によって支えられた物語も永遠ではない
そして永遠に思われたこの自分の身体も永遠ではない
もしもそれらが永遠だとしたら
どんなにウザイことだろう
美しいという基準が、グラムとか風速とかと同じように計れることを要求されるようになり、それが一般化したなら、どれだけ世界が変わることだろう。そしてそんなことは、変な事だとも難しいことだとも思わない。でもそれは美学ではない。美学の対極の世界だ。それは学ではなく、例えば身体的感覚で計られた質量の感覚にずっと近いことだ。なぜなら美しさは在るべきものが在るように有るということに尽きるからだ。咲くべき時に正しく咲く花、動くべき時に正しく動く昆虫、進化するべき時に正しく進化する生物。結局のところ、流れがスムーズであることに全てがあり、それが美しいということだとしか思えないのだ。もちろん、淀みを突破する時の流れは激しく、堰の無い流れは緩やかだろう。でもどんな流れでもいい。流れるべき時に流れてゆくものはとにかく美しいのだ。
世の中には、凄くはなくても、凄く面白いものが沢山ある。
それは楽しいものだ。凄くはないかもしれないけれど。
つまり、凄いってことは誰もが頭を下げるようなことで、
凄く面白いってことは、自分が頭を下げるようなことなんだ。
どっちが大事かって、自分が頭を下げることに決まってる。
自転車レースの世界は、おそらく現代において最も冗長性の排除された世界の内の一つだ。限界を超えて冗長性を排除しようとしている。そのような場所では、犬にぶつかっただけでホイールがクシャッとひしゃげたり、意図せず段差に乗り上げただけでステムが折れたりする。そもそもそれらの機材は、犬にぶつかることも時速40kmで段差に乗り上げることも想定していないのだ。そのような想定外の現実に出会わない限りにおいて、最高のタイムを叩きだせるように作られているのだ。だから50gのサドルは飛び乗りを許容しないし、800gのフレームは彼女と二人乗りすることを拒む。
一方で世の中のほとんどのプロダクトは冗長性に満ちている。高級感だとか、重厚感だとか、安心感だとか、単なる慣習によって、冗長性はもてはやされる。こちらの世界では、例えば実際の耐久性とは関係なく、500gのドアよりも20kgのドアの方が価値があり、現実的には地震の影響をより大きく受ける構造であるにもかかわらず、より深く地面に根ざした基礎に重い構造物を依存させることが良いものだとされる。そのような価値観の世界では、大いに冗長性は排除される必要がある。いったいどれだけの軽量化が出来ることだろう。
しかしその先に行く必要がある。重要なのはラジカルな中庸だ。過激なだけで柔軟性の無いモダニズムでもなく、ぬるい冗長性でもなく、必要とされる針穴を通らないといけない。発見すべきはそれぞれの超個人的な日常だ。個別であることの普遍性だ。そこにしか自由になれる道は無いと思える。
写真を見ると、必ず写している人の事を感じる。
それは気配として写真に張り付いている。
実は絵でも同じだ。
描いている人の気配を感じ、
その気配が良いものならば、自分にとっては良い絵なのだ。
作為が見え見えだったり、
無理な努力ばかりが目立ったり
自尊心ばかりがでしゃばっていたり
うるさいぐらいに説明的だったり
ネタ以外の意図が見えなかったり
するようなのはまずパスしたくなる。
その上写真で人間を写した場合には
被写体の演技も加わるのでなおさら厄介だ。
写す人に起きることと同じことが被写体にも生じ
ダメ出し度はさらに加速するのだ。
こういう風にビジュアル表現を常に見ているというのは一般的ではないのかもしれない。
でも、そんな見方が不自然であるとはちっとも思っていない。
作為の不気味さによって、それが怖くて泣き喚く子供を想像してみるといい。
世界は作為に満ち溢れていて
それはミッキーマウスの被り物をしたアルバイトのように怖く写るのだ。
そしてその怖さは、明らかに、
例えば防御本能によって牙を剥き出す犬の怖さとは違うのだ。
怖いものは怖くあるはずなのに
優しさが怖くなる瞬間がそこに現れる。
おそらくそれは演じる側の嘘をつき通す態度なのだ。
しかもその嘘は
覚悟のある嘘ではない。
君の前では嘘をつき続けるけど、君の前でない時は秘密だよ
っていう嘘なのだ。
一見、モダンでシャープでシンプルでしかもカッコ良く見える写真が
実はそんなかぶりもので作られていることが何と多いことか。
その不気味さの正体を何と言っていいのか分からないけれど、
少なくともそれを拒否することは可能なのだ。
ランダムはランダムではない。ランダムだと表現することは、目の前にある物をうやむやにする事だ。混沌と言う状態であると目の前の現象を納得させる、それは見ることを止めることであり、その止めた時にランダムと言う言葉が出てくる。しかし、どこまでもランダムと言う言葉を使わずに事象に向き合うのはとても困難だ。それは恐い事につながっているからだ。あまりにも明晰な認識はヤバイのだ。ヤバ過ぎるのだ。日々を過ごすにあたっては。それでもランダムと言う言葉を与えずに認識したい。ランダムな事象など存在しないということを自分の身に刻み込みたい。今目の前を流れていく不定形な雲はランダムではない。この林を形作る木々の梢はランダムではない。夥しい人々の動きはランダムではない。それらは全て、あらゆる相関関係のうちに生成された夥しいディテールなのだ。
経済のことはよく知らない。
でも、誰もが可愛いと思う女の子が一人いれば、そこに経済効果が生まれるということは理解できる。同じように一台のカッコイイ自転車や、イカしたガジェットや、反則的な使い方をされた道具や、有り得ないように見えるダンスも、同じように経済効果を生むだろう。
こういうことは、直接的に経済に結びついているようには見えないかもしれない。むしろ消費側の側面として見えることだったりする。でもそれは違うんじゃないか。消費を消費と言わずに生産の一側面として捉えるなら、つまり、消費なんて行動は存在せず、あらゆる行動は生産であるという仮定に立てば、人が行うあらゆる振る舞いは随分と違って見えてくる。
きっちり化粧することも、自転車を磨き上げることも、クリスマスに家を電飾で飾り立てることも、それらは全て生産である。それを真似することも生産である。憧れている女の子と同じ口紅をつけるという意味での経済効果ではなく、憧れによって成された化粧は、その由来を飛び越えて現実に湧き出ているのだ。重要なのは自分の欲望において何事かが成されているということなのだ。そこではお金が動いているようには見えないかもしれないが、実は動いている。つまりそれらの個人的な消費活動として見られるようなことも、なにかしらを動かしているのだ。
統計に表れない効果、計算に入れられていない行為、把握されていない要素、参照するに値しないものとして切り捨てられている現象、そんなものが信じられないぐらい沢山あるんだと思える。
だから、統計はいつも疑ってしまう。計算の美しさには感心しても、その計算がなされた限定条件にはいつも疑問を持つ。切り取られた表現は部分でしかない。自分のことをとても天邪鬼だとは思うけど、表現し辛く、規定が難しく、統計することも出来無いようなものを大事にしたいといつも思うのだ。そしてそんなものはレアなことではなく、当たり前なのにそのようなものになってしまうからそう思うのだ。
行為を正当化、もしくは批判するために、時給換算するということほどむなしいことは無い。
とか言いながら、もちろんそんなことはいつだってしているのだ。
そのむなしさを意識しつつも。
そのむなしさは、換算される値段によって変化するような問題ではない。
時給が百円だろうと十万円だろうと関係ないのだ。実は。そんな違いは媚びたゲームが提供してくれる達成感となんの違いも無い。
俺が欲しい自転車を得る為に費やした時間は、一般的なサラリーマンがその時給計算において、この世で最も高価な自転車を手に入れるために必要とする労働時間より遥かに多いことは明らかだ。そこで、その時間を、無駄な時間とするなんて有り得ない。なぜならどんなに高価な自転車も自分が欲しい自転車ではないからだ。
絵においては呆れるしかない。
社会的な所有に対する効率は問題にされても、それぞれの自分の人生に対する効率は問題にされ無さ過ぎている。自分の時間は社会的な効率からは遥かに隔たったところで営まれているのだ。それぐらい社会は幼さに特化している。肉体と肉体の学習を無視している。それを重要視することは甘さだとさえ思われている。
俺にはそれが社会の未熟さにしか思えないのだ。
やりたいことを他人のことを考えずにやっているんだから、時給が少なくてもガマンできるでしょ?とか、それはわかるけど、そんな風には社会は出来ていないから、とか、そんなことを言ってられる様なところじゃないところまで来てしまっているようにしか思えない。現在の生産体制の変化とか分業構造の見直しとかが進めば、そんなことあっさり否定されるようなことにしか思えない。まるで歴史が書き換えられるように。
ほんとに君の思っていることは効率がいいの?なぜそう思えるの?何のための効率なの?君の欲しい自転車はほんとに売っているの?君の見たい絵は外側にあるの?君が愛したいと思っていた人は目の前にいる人じゃなかったの?今日この朝に光を浴びているのは君じゃないの?俺の指は何を求めてキーボードを叩いているの?
稀に、現実の空間と時間と置かれている立場とディテールと色と生命と、その他あらゆるものがとんでもないリアリティで迫ってくることがある。そしてそんなときに”まるで夢のようだ”と思う。現実なのに、そのように形容してしまう。
逆に現実の人間関係とか、予定された時間とか、思いがけない連続する耐え難い痛みとか、受け入れたくない人格とか、些細な侵略とかが、変化し続ける空間とか時間とかディテールとか生命とかを、見事にまっ平らに平板化してくれちゃって、それを”悪夢のようだ”と思う。
たぶん、許容範囲を超えたものが夢に現れるから、夢を喩えにするんだろう。だったら夢見るように生きることはさぞ辛いことだろう。だけど、許容範囲を広げることが出来れば、他人からは夢見るように生きているように見えることだろう。それが信じられないような悪夢であれ。
近頃インターネットに対してなんとなくムカついている。理由はとてもはっきりしている。いろんなツールを使って下り側を加速させたからだ。だから正確に言えば、別にインターネットに対してムカついているわけではなく、上りと下りのズレが許容範囲を超えている事態に自分自身で進んで飛び込んでおきながら混乱している自分にムカついているのである。アホは俺だった。ごめんなさい。
でもそこで知りたいことがあったんだからしょうがない。やってみなきゃわからない。そんでそれをやるってことは、傍観者として分析することなんかじゃなく、まんまと嵌められてむさぼりつくすようにやらないとやったことにはならない。少なくとも俺の場合。ゲームでレアアイテムを手に入れるために費やした時間とか考えると、自分でもバカじゃないかとしか言いようがない。どんなに贔屓目に見ても、そこにポジティブな意味なんて見出せないぐらいの不毛な時間だ。
おそらく知りたいことは、不毛な時間に向かわせる欲望なのだ。不毛だとわかっていてもそれを求める理由なのだ。
例えばネットワークゲームをやっていて、いくらそこで金を稼いでも、そんなのゲーム上の金に過ぎないじゃないかとか、ゲームキャラクターに好きな人が出来ても、そんなのただの2次元じゃないかとか、そういうことを言ってられる様な問題じゃないところまで既に来てしまっている。なぜなら現実もまた同じテクノロジーと同じルールを共有していて、株をやることとゲームをやることの違いなんてほんのちょっとの差でしかないように見える(株はやったことないけどね)。セックスにしたって、そもそも男の頭の中なんてものはヴァーチャルセックスと大して違いがないように現実のセックスの中でも乖離していたりもするのだ。
何が起きているのか。
意識が身体から浮遊しているんだと思う。浮遊することをテクノロジーが許しているんだと思う。誰もが望んでいるテクノロジーの方向の一つは、夢見るためのテクノロジーなんじゃないかと思える。乾燥機つき全自動洗濯機が、大画面液晶テレビが、インターネット決済が、生産システムの横型分業構造が、立体造形の自動化が、あらゆる身体性を補助するテクノロジーがそれを支えている。
『不毛であっても夢見ていたい。みんなが夢を求めるなら不毛であっても構わない。身体なんて要らない。あなたが私のことを見ていてくれるなら不毛のうちに死んでも構わない。むしろ死にたい。そうじゃないなら死んだ方がいい。そうだ私は夢の中に入れてもらえない。死んだ方がいいじゃん。私は夢から疎外されている。私の意識はこんなに浮遊しているのに、こんなに誰よりも夢見て、こんなに身体から切り離されているのに、なぜあなたにはそれがわからないのか。あなたの夢が私には見えない。あなたはみんなの夢に属している。あなたの浮遊は幸せそう。私の浮遊は死んだ方がいい』
っていう、自家中毒的浮遊ループがそこに発生する。
たぶん身体を失った意識が、判断基準であった身体性の代わりに見出すものが、同じように身体性を失った他者の浮遊する意識であるときに、このループが生まれる。これは嘘つきの始まりだ。あまりにも柔らかい嘘だ。柔らかすぎて嘘でさえないのかもしれないけど。
俺は意識の錨をもっと自分の身体に降ろすように努力しよう。
匿名であるということは恐怖であると同時に自由だ
匿名であるということは羨望されると同時に排除される
匿名であるということは美しいと同時に醜い
匿名であるということは欲情されると同時に憎まれる
どのように匿名でありたいかを説明するのはとても難しい。匿名でありたいという欲望に従えば従うほど、そこに従っていない人からは見えないものになっていくからだ。
隠れ蓑としての匿名性なんて要らない。
自分を檻に閉じ込めるような匿名性なんて要らない。
記号化のための匿名性なんて要らない。
そういうのは社会的な構造の中での匿名性であって、本人は名前を保持し続けているからだ。
俺が求める匿名性は、誰もが俺だと分かるように社会的には見えているにもかかわらず、まるで道端に転がったカマキリの死体のように匿名であるということだ。
寝ている時に夢の中に居たと思ったのに
見ている夢が丸ごとボールのように丸まっていった
俺は寝ているんだけどそのボールを抱えて寝返りを打った(実際に)
するとボールになった夢がみよーんと伸びて別の夢が始まった
俺はしばらくその夢を見た
夢の内容は便所を撮影する夢だった
俺は映画かアニメーションのようなものを作っているのだ
だがその作品のモチーフが
何か特別な意味を持っていると夢の中で感じていた
撮影することでその意味がだんだんとわかっていった
夢の中では撮影ではなくモデリングに近かった
そのモチーフとは寝返る時に起きる意識のめくりあがる感覚だった
それがわかった途端に
俺はまた寝ている状態のままで寝返りを打った(実際に)
すると夢が
河が地表からめくれ上がるようにめくれあがった
だけど俺は起きていない
その状態で
おれは夢の織物を作り始めた
体を上手に動かすことでその織物はゆらゆらと編まれていった
その織物は今のおれ自身だった
それこそがまさに俺の望んでいたことだった
いまや俺の意識がめくれあがって反転していった
俺はどんなものにでも変身できると思った
虫にでも怪獣にでも
全ての過去や啓蒙や組織や技術は嘘になった
それがわかった
起きてみると
とても懐かしい感覚が自分の中に漲っていた
いい朝だ
経済が加速すると人の顔が変わる。田舎の顔と都会の顔は違う。経済成長を経験した国の人々はそれ以前とは違う経済成長を経験した国の人の顔になる。そしてそれを経験した国の人の顔はどの国でも全て同じ顔をしている。顔の均一化が起きるのだ。これは比喩の話しではなく実際の見た目の話だ。
普通それは垢抜けると表現される。では垢抜けるとはどういうことか。
ひとつには人間関係が希薄になるということだろう。それは、その顔に張り付いた表情が特定の誰かではなく、不特定の誰かに向いているということだろう。あなたの前にいるのは唯一の母ではなく、母という記号であるように。
ひとつには地域性と言われる場所の独自性が失われるということだろう。それは、その場所にしかないものに依存することなく生活が成立するように、流通や経済が働いているということだろう。目の前のキノコが裏の林からもたらされたものでなく、外国から船で運ばれたものであるように。
そして垢抜けた顔を美しいと感じる感性が誰もの心に育っていくようになる。その美しさはジェラシーによって保障される。俺の中にもそれはある。しかしそれではやっていけないことを確かに感じる。そのやり方では俺は俺の終点に辿り着くことは出来ないことを感じる。なぜなら全ては唯一ものでしかないからだ。それ以外では有り得ないからだ。垢抜けた顔の魅力なんてクソ食らえだ、と言っておきたいのだ。
とても当たり前のことなんだけど、覚醒していないと何も出来ないと思った。ほんとに当たり前だ。でもそんなこともよくわかっていなかったりする。
例えば今、自分の体にはそれなりのアルコールが入っている。この状態では絵が描けない。少なくとも良い絵は描けない。この酔いを強引に振り切って良い絵が描ける状態に持っていくことも不可能ではないけど、そのためにはかなりのパワーが必要だ。つまり、体のセンサーが寝ているのだ。
絵を描くとかモノを作るとかって事は、センサー全開にして行うものだ。むしろセンサーの奴隷となることによって、センサーを働かせている張本人に出会い、その張本人の操り人形になるようなものだと思う。主人公は「自分」ではない。自分なんてどうだっていいのだ。クソみたいなもんだ。邪魔にしかならない。
体が鈍いと覚醒状態にいることは出来ない。そしてそんな覚醒状態は特別なものでもなんでもない。朝の目覚めと共に誰にだってやってくるものだ。起きたとたんに葬り去られるのが日常であったとしてもだ。
朝の気持ちよさとセックスの快感との間に違いを感じない。夜の恐怖と他者の侵略の間に違いを感じない。細胞が開いていること、センサーが開いていること、外の生命や光や空間に浸透していくこと。なんかのベクトルがそこに現れる。それがなんだかはよくわからない。ただ、そこには怖いことも痛いことも眩しいことも嬉しいことも驚くことも全部あるんだろうってことはわかる。だからもちろん楽なことだけであるはずが無いのだ。センサーを開いた状態にしておくということは。
おそらく、センサーが開きっぱなしの人は社会生活を送るのが難しいだろう。それでもセンサーは出来る限り開いておかなくてはならない。なぜなら人間に限らずそれが生物のデフォルトだからじゃないんだろうか。
開いたセンサー、つまり覚醒状態は、非社会的だ。反社会的ではなく。
「崖の上のポニョ」を観たんだけど、言葉が全体を台無しにしていると思った。アニメートされた映像は素晴らしいところが沢山あるのに、というより、見たことないようなレベルで圧倒的にアニメートされていてるのに、それを言葉や物語がとても陳腐に見せてしまっていてすごく残念だった。これは「もののけ姫」以降の宮崎アニメに対してずっと感じていることでもある。映像と言葉の間にどこか決定的な亀裂を感じる。
でも他人の作品をダシに使うのはフェアなやり方じゃないな。しかし連鎖なんてそんな風に起きるものでもあるし…まあいいや。
言葉は、言葉自体が時間軸を持っている。絵だって時間軸を持っているけど、ここではそれは無視。で、言葉を表現にするということは、意味だけでなく、この時間軸を含めて表現のうちに取り込むということだ。そうなって初めて言葉は表現になり得る。なぜなら言葉は、意味である前に音だからだ。つまり、音楽としての言葉が美しくなかったら、それは表現としては成り立っていないということだ。そして音楽と言ったけど、例えば小説にも音楽はある。それは文体や、流れる密度のメリハリに現れる。詩に比べれば音楽的純粋さは劣るにしろ、それもで紛れもなく音楽なんだと思う。もちろん音楽性のかけらも無いようなエンターテインメント文学がむさぼり読まれていたりもするわけだけど、それでもなお言語表現は音楽的時間軸の内にあるんだと思う。
これは今までにも何度か書いていることだけど、言葉が嫌いなのだ。全部の言葉が嫌いなわけじゃなく、音楽的でない言葉が嫌いなのだ。表現物かどうかに関わらず。
自分にとって美しいということは、身体的であるということだ。グロいとかエロいとか残酷とか優しいとか下品とか上品とかゴージャスとか清楚とか貧相とかリッチとか重いとか軽いとか冗長とかシンプルとかそんなことは美しさにとってどうだっていいのだ。どんな風であっても構わないのだ。身体的でありさえすれば。だからここで言っている「音楽的」であるということの意味は音楽のようであるという意味ではなく、音楽の身体性を指したいと思っているわけだ。
音楽の身体性なんて言うと、また小難しく聞こえるかもしれないけど、要は歌った時や踊った時に、音楽という表現物をガイドとして、潜るなり登るなり移動するなり出来るかどうかということだ。そこで、潜ることも踊ることも移動することも出来ずに、脳みその一部分ばかりが刺激されるようなものはつまらないことだと思うのだ。
意味は人を停滞させる。だから意味自体が流動的でなくてはいけないんだと思う。意味から始めちゃいけないんだと思う。なぜなら意味は後から生まれた道具に過ぎないからなんだろう。
おそらく、より少人数で何事かが成し遂げられることには価値がある。少なければ少ないほどその価値は高い。そして例えそれがひとりになったとしても、その何事かはその人ひとりによって実現されるわけではない。そこまで行かないと、ひとりの意味と影響を与える他者の関係は単純化できない。
インフラは幻想だ。なぜ蛇口をひねれば水が出るのか。なぜウンコは水に流されるのか。なぜスーパーには牛のベロが売っているのか。なぜボタンを押せば電話が出来るのか。なぜケーブルをつなげればネットに繋がるのか。なぜガソリンスタンドにはガソリンがあるのか。そしてなぜ言葉を覚えれば情報を交換することが出来るのか。それらは全て労働という名の、誰かの、そして自分の、死んだ時間の上に成り立っている。それをインフラと称して「”合意”の上の常識」とするのはただの方便に過ぎない。誰が合意したんだ? 全員だ。なぜ合意したんだ?全員が口をつぐむ事だったからだ。合意に至るためには沈黙こそが最も有効なのだ。誰もが仕方ないと思うこと、それがインフラだ、それが常識だ。
つまり、インフラをインフラと、常識を常識と言わせているのは俺だ。
何事かを成すためにひとりになっていない俺だ。この文章を書くためにネットを利用している俺だ。
なのに俺は常識を否定しないのだ。沈黙を否定しないのだ。
インフラも常識も幻想でなんの問題も無い。俺に必要なのはそれが幻想だという認識だけだ。その認識は俺がひとりになるために必要だからだ。
なるべく少ない方が素晴らしいと俺は思う。そういうことをこんな風に表現するのではなく、そういう風に実際にならないと意味が無い。
ある記事によると、正確さはともかく、数十年前の日本では、出産される赤ん坊の10人に1人は死産となり、年間に2000人の妊婦が死亡していたそうだ。そして現在、出産時に死亡する妊婦は50人ぐらいらしい。現在の死産の確率は記されていなかった。おそらくその頃に比べれば非常に低い数字になっていることだろう。
正確な数字はどうでもいい。出産が昔に比べて「安全で怖くないもの」になったということを数字が裏付けているように見える、ということを引用したかっただけだ。
医療はこの数字をゼロに近づけることを目指すんだろう。「なぜ私が?」という思いをしないで済む人を増やすことが正義なのだ。
曰く、それは誰もが望んでいることなのだ。誰もわけもわからずに死にたいわけじゃないのだ。通り魔にいきなり殺されたい人は居ない(いや、何十人かはいると思うが)。病気にならないで済むなら越したことは無い(いや、何十万人ぐらいはなりたがっている人も居るだろう)。その気持ちが人の視線を隣ではなく上に向かわせた。そして人が上を向いた成果がこの数字に現れている。
今、目の前の人を救いたいという気持ちを否定する気はさらさら無い。しかし救われる側にとっては、起きることは必ず起きる。つまり救う側は当事者ではない。当事者は救われる側だ。そして当事者から逃れられる人は誰一人としていない。当事者以外の人間がすることが出来るのは迂回だけだ。迂回を迂回以外のものにすることは出来ない。当事者と当事者でないものの間に存在するのは迂回への合意だ。
俺は昔、ドブで溺れて、そこに兄と兄が呼んできた郵便配達が居たことによって、今ここに居る。その二人が居なかったら、たぶんここには居ない。つい最近、背中が猛烈に痛くなって、ヤバイと思って病院に駆け込んだ。原因はわからなかったが、尿道結石だろうと医者に言われた。そこで俺は助けを求めたことになる。つまり迂回させられたり、迂回を望んだりして生きているということだ。しかしそれでも迂回は迂回なのだ。俺は俺の当事者であることから逃れることは出来ない。
今の社会で、10人に1人の割合で死産となるということが統計学的に示されれば、子供を生もうと思う女性はかなり減るだろう。そしてそれでも生む人は絶えないだろう。
わかりやすい選択なんてフィクションだ。夏休みの予定表みたいなものだ。
アホがデフォルトでなんの問題があるのか。
私は飴を持っています。
あなたはこの飴がほしいですか?
だったら土下座しなさい。
あなたが土下座すると、私の中の飴工場が稼動して
あなたの口に飴を運ぶでしょう。
あなたの頭の重力が動力源なのです。
ところで私が誰だかご存知ですか?
私はあなたの理想です。
悲しみは忌むべきものではない
高揚の発露のバリエーションの一つだ。
そして人は高揚を通じて自分の肉体を構成する細胞の数を認識する。
かつて他人に保護されたい自分が居た(正確にはいまだに居る)。その自分は、他人に保護してもらうためにあらゆる策略をめぐらした。泣き喚けば保護された。病気になれば保護された。保護する人が羨むものを手に入れれば保護された。だから僕は泣き喚いた。病気になった。良い点数を取った。お金を手に入れた。仕事を始めた。気がつくと自分を保護してくれる人は保護されたい人だけになっていた(って言い過ぎだろ)。
保護されるということは隔離されるということだ。隔離されるということは人質になるということだ。何の人質になるかといえば、親とか、恋人とか、友達とか、隣近所とか、小説家とか、漫画家とか、評論家とか、アーティストとか、思想家とか、宗教家とか、音楽とか、絵とか、物語とか、映画とか、建築とか、ケーキとか、チョコレートとか、ラーメンとか、タバコとか、酒とか、テレビとか、学校とか、企業とか、国家とか、平等とか、平和とか、真理とか、正しさとか、善とか、悪とか、金とか、株式とか、市場原理とか、ビジネスモデルとか、掃除機とか、洗濯機とか、車とか、自転車とか、セックスとか、スポーツとか、オナニーとか、健康とか、美しさとか、優しさとか、楽園とか、破壊とか、薬とか、宅急便とか、自動販売機とか、郵便局とか、銀行とか、クレジットカードとか、SUICAとか、PASMOとか、スーパーとか、コンビニとか、ネットとか、ゲームとかだ。
どんだけ並べても足りなさ過ぎる。
そして人はある時期、人質になることを普通に生物的に望むのだ。だから好きなだけ人質になればいい。望むならなればいいのだ。でもそれはある時期であって永遠ではない。
何から保護され、何から隔離されていたのか、それを知るチャンスはいくらでも転がっているのに、チャンスは奪われ続けている。そしてチャンスが奪われていることを他人や外側のせいにしているうちは、何も起きない。チャンスは奪われているわけではなく、逃しているだけなのだ。
可能性は閉じていない。閉じることは出来ない。
しかし隔離病棟への欲望はとんでもなく強く根付いている。
生ぬるいという言葉は否定的に使われるけど、生ぬるくなかったら伝わらない価値が山ほどある。例えばお酒。冷たいお酒や熱いお酒は、お酒本来の味を無効化して単なるドラッグにしてしまう。例えばセックス。冷たいセックスや熱いセックスは物欲に駆られた体を満足させることが出来ても、生ぬるさをベースにした内的な熱の高みに辿り着くことはない。例えば散歩。冷たい散歩や熱い散歩は、ハンターとしての成果を上げることはできても、可能性としての過程は全て無視される。
生ぬるさとは、常温の非人為的な状態だ。
夏のカキ氷やプール、冬のストーブや鍋物、そういったものは体を助けてくれる。そして体が助けられるということは、常温の可能性を飛び越えるということだ。でも、そのような非常温のテクノロジーや、そこに向かう欲望を否定するつもりは無い。ただ、非常温のフィクショナルな喜びは、それがフィクショナルであった時にのみ輝くものだと思うのだ。
フィクションとは、つまり祭りだ。
なぜ祭が有効かと言えば、それは生ぬるさをベースとした身体的強度があるからなのだ。結果を求めないコミュニケーション、目の前にあるものをそのまま受け入れる経験、それらがなかったら、フィクションは力を失う。さらに言えば、常温の生ぬるさこそは、それがフィクションの土壌なのだとさえ思える。生ぬるい土から、連続的に芽を出す清冽な黄緑色をした双葉。奇妙な形をしたキノコ。常温の水温によって孵化するおたまじゃくし。
例えば現代におけるエロティシズムは、これっぽちも性的ではないとずっと思っていた。そこにフェティッシュという補足的概念が加わろうとも、なにも本質を現していないと思っていた。言語的に過ぎるのだ。生ぬるさが足りないのだ。可変的体温を無視した性的極北なんて笑っちゃう。
非人為的常温になんて辿り着けないように誰もが病んでいる。そんなことは分かっている。だって俺がそうだから。理想を布教しようなんて思わない。これはただの予感とひらめきに過ぎない。でも、いつだって、予感とひらめきに導かれてやってきたのだ。
「優良物件 駅まで3分」という文章を見たときに、その文脈においては、3分よりは30秒の方が優れているという意味が読み取れるだろう。もしくは、それしかないんだ。この価値体系の中では歩かないでいいということが高い価値だ。
同様に、「エロ動画5万本」と書かれていたときには、5万本は1万本より偉いのだ。この価値体系の中では見たことがないのものが永遠に得られるということがより高い価値なのだ。
では、「駅までの所要時間120分」と書かれていた場合に、それが「駅までの所要時間3分」より優れているとされる価値体系が無いのかといえば、そんなものは普通に存在している。「エロ動画1本」の方が「エロ動画5万本」より優れている価値体系だって普通に存在する。つまり、歩くことをやり過ごすのか、歩くことを目的にするのか、見ることを目的にするのか、見ることをやり過ごすのか、という、正か負かの違いでしかない。どっちも同じだ。
こんな風に意味をひっくり返すことは易いけど、何にもならないと思う。利用価値の高さ低さは問題ではない。なぜなら駅までの距離をほんとに測ることは出来ないからだ。それは毎日変化する。エロ動画が何本あろうと、今見られるのは一本だけだ。優良物件は、今見たいものは、生成され続けているに過ぎない。
疲労とストレスが優良物件を持ち上げる。果てしない日常に飲み込まれまいと、血眼になって優良物件にかぶりつく。でも、いくらそんな努力をしようと、日常という名のテクノロジーから逃れることは出来ない。唯一の方法は、自分において発見することだけなんだと思う。「自分が」では無く。
他人を、目の前の人間を、無視した上で行使される暴力はいくらでも生まれ続けているのに、生まれ過ぎているのに、もういらねぇぐらいありまくっているのに、なぜか、自分にリスクが跳ね返ってくるように行使される暴力は足りなさ過ぎる。
まるでビジネスの話だな。
もっと個人がビジネスを始めりゃいいんだ。
だってそういう意味では保育園児でさえビジネスマンでしょ?
保育園児はちゃんとリスクを負ってビジネスしてるよ。それを見えにくくしているヘンテコな取り巻きしかいなくとも、そんなこと関係無しにちゃんとビジネスしてる。
なんで外側を無視するメソッドによる利益だけがもてはやされるんだ?おかしいだろ、それ。ていうか、なんでそこで利益が生まれるのよ。おかしいだろ、それ。いちいちそんなところでジェラシーを感じてんじゃねぇ!って本気で思う。そのジェラシーが利益を生むんだ。でもそんな利益はすぐに腐るんだ。寿命が短いんだ。どのぐらい短いかといえば、生まれた途端に利益が生じた本人にとっても腐るぐらい短いんだ。それを普通幻想という。そしてジェラシーは、幻想の生まれるその瞬間に向けられるのだ。幻想を支えるのは腐る前のその一瞬だけだ。もっと言ってしまえば、腐るどころか存在もしていない電気的にも見える化学反応だ。
スイッチが入った時の一瞬のきらめき。
スパークは美しい。
パチンとはじけてショートする、その瞬間が自分の人生に起きて欲しいと誰もが願っている。でも心配することはないんだ。おそらく。ほんとのショートは誰にでも必ず起きるんだから。
スーパーサイヤ人1、2、3という変化に誰もが引きずり込まれる。うんざりしつつも(もちろんドラゴンボールの話)。どうせならスリーまでいってみたいと思ってしまうのだ。
漫画を成立させるのはグラフィックの記号化だ。ゲームを成立させるのはグラフィックの記号化だ。表された画像が「これは怒りによって目覚め、深層に眠っていた力が引き出された男の子です」として単純化されれば、それは画像を超えて記号となる。そして記号が加速させるものがある。それは物凄く単純化された価値体系だ。それは身体的感覚を無視した、あるいは経験を飛び越えた「物語」としての時間軸だ。
そこで起きることはリアリティのインフレーションだ。
グラフィックの記号化を否定するつもりはこれっぽちもない。ただ、記号化はそのような誘惑と常に結びついている。インフレには気をつけないといけない。なぜなら、作る側においても受け入れる側においても、例えそれが市場価値に結びつこうとも祝祭的にしか機能しないからだ。そして、祝祭はある覚悟の上で成されなければ何の意味もないと思うのだ。覚悟のない祝祭は、それに参加した人間をズタズタにし得る。人が自ら望むのに翻弄にしか繋がらない暴力。
そして
何を知りたかったのか、何を経験したかったのか、何を見たかったのか。
例えばディテールの意味は説得力だけではない。それは表現における時間の流れをコントロールすることも出来る。
例えば構造の合理性は説得力だけではない。それは現実の経験を変化させることが出来る。
外側にあるんじゃないかと思い込んでいる了解に依存するのは間違っている。
3D画像、もしくは3D映像のリアリティは、半分ぐらいはレンダリングエンジンによって作られている。そこで、モーションの演出、テクスチャーのモデルに対する支配の度合いは、レンダリングエンジンとある意味競合する。
そのバトルを眺めているのは、楽しくもある。瞬間的には。
でも,すぐに飽きる。
もう、人は光速で飽きる。
素晴らしい身体能力だ。
家の中で虫が死ぬ
家の中で猫が死ぬ
家の中で人が死ぬ
それは日常だ。
人間が喋ることって、つくづく言葉とは無関係だなぁと思う。
もちろん言葉は表層を滑っていくし、それでいろんなことが運ばれていくんだけど、それとは別に喋っている人の身体的現実がその声に乗ってくる。活字になってさえそれは伝わったりする。そして聞いている方も、しっかりと聞いているのだ。その声を。それは鳴き声だ。言葉の間をすり抜けて交わされる身体的情報。たぶん猫や鳥と変わらないその鳴き声で、教室や会議室や家庭で発生する様々な音階。音程の変化、音色の変化、何かを説明する音階、何かを押し付ける音階、何かを飲み込む音階、何かを搾り出す音階。そのようにあらゆる音階が奏でられ続けているんだ。音階にもっと耳を傾けたい。その音階をもっと聞き取ることが出来るようになりたい。
他人をメンテナンスできるという幻想のくだらなさがなぜ一般化しないのか。自分をメンテナンスできるのは自分だけだ。保護は延長を意味しない。それは遅延だ。そしてそのような認識の上にこそコミュニケーションとしての、ある意味暴力的な影響関係が築かれるべきなのだ。
カップ麺が目指したものは永遠の生命のフリだ。
それは腐らず、それはお湯を加えさえすれば戻すことが可能で、可変的な永続の時間を予感させる。そのようにミイラなのだ。
ミイラにお湯を注ぐ。単純すぎる再生の儀式を幼稚園児でさえ実行できる。そこにある嘘、そして詐欺、は一瞬飛び越えられる。飛び越えられたように振舞う。そのリアリティを保障してしまうのは、満腹感であるけれど、ミイラを受け入れることは、特別なことではなく、ただの干し肉、もしくは梅干、もしくは梅酒、とかの、それらが実現しているミイラ的な現実と何の違いも無いのだ。
干し肉としての人体を人は想像することができない。少なくとも、干し肉としての自分を想像することはできない。干し肉と化した、物体と、自分との距離を、
発見したのだ。さっきの俺が。
かつて、自我とか自己とかは、権力を持った支配者や貴族や王族に生まれた意識であるといわれていた。いや、今でも言われている。そこから、産業革命が起きたり商業が力を持ったりする時代になって、自我や自己は資本主義的優位性を持つもの全てに行き渡るぐらい一般化した。そしてさらにそこから、メディアの力が増大することによって、学校に行くだけで、日記を書くだけで、テレビを持つだけで、ネットに繋がるだけで、いとも簡単に誰もが自我や自己と向き合わざるを得ないような時代が到来した。そしてこれから、iPhoneが普及したり、動画の配信がさらにさらに容易になったり、ネットワークへの接続速度が100倍ぐらいになったり、職人的技術だと思われていたものが、簡単にテクノロジーによって肩代わりされたり、今日のウンコが国家のデータベースに管理されたり、するようになると、たぶん、個人の中に、資本主義、とか言われていた物が完全に内在化されるような時代が来るんだろうと思う。だれもが個人企業でもあり、誰もがメディアでもあり、誰もがアイドルであり、誰もが死に行くものとしての仮面を被るのだ。表現としての自己。でも、自己だの自我だのなんて、結局のところただの表現でしかないんだよ。資本主義がそうであるように。表現なんてクソだ。ウンコだ。否定ではなくその通りだ。やっと正しくウンコが出来るかどうかが問われる時代が来るのだ。そしてウンコは正しくウンコになるのだ。そしてそれはなんともアホらしい事に、自我とか自己とかが発明される以前から存在し続けていた出発点に過ぎないのだ。
日常性の延長にあるポルノはつまらない。そこで行われている行為がどんなに非日常的であってもだ。問題は当事者においての日常性であって、社会的規範においての日常性ではない。つまり、当事者において日常的であるなるなら、それは日常の延長でしかないということだ。
行為の社会的過激さは問題ではない。当事者においてどれだけフレッシュな生肉であったかたかということだけが問題なのだ。
フレッシュな生肉を求めるのが正しい、それを求めなくて何を求めるのか。
メディアとしての絵ってとても弱いものだと思っている。不完全だといってもいい。そしてその弱さや不完全さが気に入らなくてしょうがない。ずっとそうだった。
絵が描けるなら漫画を描けと思う。ゲームを作れと思う。アニメを作れと思う。違う観点から言えば、設計図を描けと思う。額縁を作れと思う。教会を建てろと思う。
素晴らしい絵はもちろん素晴らしい。だから素晴らしい絵を描くのだって素晴らしい。それでもなお、絵は不完全だ。
これは機能の話しだ。機能とは使い道だ。包丁があれば魚や哺乳類や植物を捌ける。バイクがあれば300キロでぶっ飛ばして嘘みたいな時間で遠いところに行きつつ、とんでもない緊張感と細胞が沸き立つのを経験できる。ポットがあればお湯が冷めないし、カップラーメンがあれば三分待つだけで胃袋を満たすことが出来る。それが機能だ。
じゃ、絵の機能ってなんだ。
家に絵があったら幸せか?なにがしたくて絵を手に入れるんだ?画集は本だ。あれは絵のフリをしているけど絵じゃない。出来損ないの漫画みたいなもんだ。ここで問題にしているのはたった一枚の絵がもたらす機能だ。だいたいが絵を平面としてみて、その上で絵を楽しむなんてのはごく限られた人がすればいいことであって、そんなものが一般化しないことを嘆いてみたところでそれこそオナニー以外の何者でもない。機能を伴わない製品は滅びる。でもこんなこと言っているけど、絵が嫌いなわけじゃない。俺は絵画的言語を愛しているし、絵画的言語によってコミュニケーションをとるのが好きだし、そのコミュニケーションによって救われたり喜んだ経験がいくらでもあるし、絵画的言語を通してこの人が存在してくれていたことがホントに嬉しいと思ったこともあるし、それらはもちろん絵の機能なわけだ。ただしこの絵画的言語は絵の機能としては不十分だ。なぜならそれは器を伴わないからだ。
美術館やギャラリーが嫌いだ。あんなの器でもなんでもない。行列を作って一体なにをしにいくんだ、あんなところ。絵画的言語によるコミュニケーションをしにいくのか?ありえない。もっとも相応しくない場所じゃないか。要するにショップでしょ?美術デパート。もっとショップとしての誇りと気概をもってプロデュースするべきだ。将来コンビニでエロ本コーナーの隣にサクバのプリントが並ぶようになるのが夢なんです。でもそうはならない。コストパフォーマンスが悪いからエロ本に負けるに決まってる。だからこそ機能を形にする必要がある。
次の個展、あそこでやるのは三回目になるけど、今までも絵の機能を(泣きたくなるぐらい不十分ではあるにしても)絵の中だけに求めるようにではなく展示をしてきたつもり。それがどれぐらい効果があったのかはわからないけど、今度も何かしらはしないと意味が無い。一枚の絵の完成度より、空間や経験の強度が欲しい。そうじゃないと絵が描けない。
絵はやわらかい。粘土とか、言葉とか、音とかも、似てる。
絵で失敗しても、誰かが死んだりしない。まずい表現をしても誰も困らない。たぶん。空回りして困る本人がぽつねんと取り残されることがあるにしてもだ。
そんなことは大したことじゃないのだ。
桜が咲くことや、カマキリの卵が孵化することに比べたら、ほんっとに取るに足りないことだ。
でもここで表現という概念を一歩拡大して考えると、それが途端にコミュニケーションとか国家とか経済とか法律とかまでに行き着いてしまうという現実に突き当たる。
逆に言えば、絵でも粘土でも言葉でも音でも人は死ぬ。それらが拡大されたときには。あっけないほど簡単に。そしてじつのところやわらかい絵は絶滅寸前なぐらい危機に晒され続けてもいる。それでもなお、絵はやわらかいのだ。なぜならそれが本質だから。
いや、そんなことが言いたかったわけじゃない。絵がやわらかいのがつまらないということが言いたかったのだ。ああ、違う。絵はやわらかいんだから気を付けろと自分に警告したかったんだ。
絵なんて、硬いものがあって初めて存在するものだ。粘土も音も言葉もそうだ。硬いものとはカマキリの孵化とか桜が咲くことだ(国家や経済ではない。これらはまた別のフェーズで機能する)。それらは起きるべくして起きる。そして起きた方向性に対して身体が全力を尽くす。硬さとは要するに不可抗力に近い経験の強度みたいなもんだ。それはカツンとしているかもしれないし、ネバネバしているかもしれないし、どんよりしているかもしれない。どっちにしても空間の密度が上がるという意味においてそれを前にしたものにとっては硬いのだ。
時として絵とか物語とかゲームとかがもたらす万能感が嫌いだ。それらはやわらかさの上にあぐらをかいているものだからだ。万能感が欲しくて絵を描くことの誘惑はいつでもどこにでも転がっているけどそこにだけは行きたくない。でも困ったことに万能感を表現することの方がとっても簡単だったりもするんだよな。
なにが続きなのかというと、きのうの日記の「気分」が続いているのです。
こんなに葉っぱだの花だの鳥だのがムクムクしているときに、でろーんとした気分を引っ張ることも無いだろうとは思うんですが、それはそれ。不自然極まりない現代人としては、何日にも渡って同じ気分を引きずったりもしちゃうわけですよ。そりゃもう、電車の座席に座っている女の子の高そうなカバンが、ただの牛の死体のケツの皮の延長であるという動かし難い事実であると共に、そこに頬ずりする情景の当たり前さがこうやって作為的な言葉を使って表現してみることとは裏腹にどれほど普通であるかという事実の前に打ち砕かれることも無く並列に存在するぐらいどこにでもあることなわけです。
不気味であるということはかくも儚い。
おお、それは素晴らしいことではないか!
なぜに急にプロパガンダチックな文語調になってしまったのかはさておいて、人は死体と共に生きていることの当たり前さと、あらゆる死体が他人事じゃなく、それはおまえ自身の死体なんだぜ、っておい、わかってんのかよ、ってところがどうにも曖昧に毎日が過ぎていくことに腹が立つのです。
欲望の極点は、とりあえずは例えば、犬橇を駆って目指すべき北極点として現れたりもするし、泥酔の限界の果てに見出す朝日の神々しさとして現れたりもするけど、その分かり易さは人を誤らせる。そこではつまるところ、分かり易さとは言語への変換し易さでしかない。そんなものが欲望の極点に成りうるとしたら、それこそつまらなさ過ぎて生きているのを止めたくなる。北極点も泥酔も、それらがプロセスに対する器として働いているときにしか意味が無いのだ。
とか、くだらないことをほざいてないで絵を完成させようっと。
口に入れたり、手を動かしたり、するってことは、集めたり、分類することとは違う。違うなぁ。
恋多き俺
胃袋や血管のなんと単純なことか。
撮影台としての完成度を求めることはなんてつまらないことだろうと思う。これはミニチュアの話だ。
写真、もしくは映像に出力されることを前提にしたモデルは、それが表現の完成形であるならまだしも(最初から撮影されるために作られたという意味で)、モデルの実物そのものが欲望の対象として作られたはずであった場合にはとても不幸な物体としてその残骸をさらすことになる。
そのようなモデルに欠如しているものは、光、空(もしくは表現として閉じられた空間)、空気だ。これらの要素は撮影時に補完されるものであって、表現物には内包されない。
同じ事が絵画にも言える。印刷物でイメージを膨らませて、実物はどんなに素晴らしいだろうと想像していたのに、ご対面してみたらがっかりしすぎて戸惑いのあまり身のやり場がなくなって、嘘つきになって舌を抜かれたり、崖っぷちから身を投げたくなったというような経験はないだろうか。俺はアリまくる。
これは物体としての絵画が、フォトジェニックには素晴らしくても(印刷物においては、印刷栄えのする作品は実物を越えて観客の想像力を喚起するものだ)、実際の存在としては、たとえばマチエールであるとか、額縁であるとか、展示されている空間や照明であるとかにおいては、表現されたイメージを伝えるために的確ではない、もしくは考えられていないために起きる不幸なのだと思っている。
フォトジェニック(写真映りがいい、ぐらいのくだらない意味だ)であるということはなんて罪作りなのだろう。そしてなんてつまらないのだろう。だが驚くべきことにフォトジェニックの脅威は、完璧なベースメイクが施されたベルベットのように滑らかな30代の頬っぺたを見るまでも無く、地球の温暖化を遥かにしのぐ勢いで拡大し続けているのだ。
写真映りを超えた、そこにあることの経験を提供できなくてどうするのだ。例えまだ負けている部分があるにしても、それを目指さなくてどうするのだ。旨そうな食い物より、旨い食い物の方がいいに決まっている。旨そうに見えるだけで、実はマズイ食い物と、旨そうに見えて、ホントに旨い食い物を見分けられることは大事だけど、そしてそのためには、マズイものもたらふく食うわけだけど。その上、マズイものにノスタルジーを感じてしまったりすることもあるわけだけど、とにかくそれを超えていこうと、それが無けりゃ、どんな面白いものがあるのかと途方に暮れるしかないじゃないかと思ったのだった。
俺が見たいのは撮影台ではない。撮影台は、クソ当たり前だけど撮影されるために作られるべきなのだ。
視覚のリアリティについてずっと考えている。リアリティとはもちろん「認識」を経た上での表現であるわけだけど、ここで言わんとしているリアリティは、何が表現されているかとか(モチーフ)、どのように歪んでいるかとか(デフォルメ)、どんな動きをするかとか(スピード)、というような意味でのリアリティではなく、単純に空間の認識としてのリアリティだ。
つまり、ある空間がどのような条件にあるときに最高の違和感をもってそこに存在し得るのか。
主な要素は三つだ。光、被写界深度、奥行きの増幅。
光はその場所に属した光であるように隔絶されていなければならない。夕日が、その水平な光で、普段は黒ずんだ樹の幹を鮮やかなオレンジに照らし出すとき、奇跡のような祝祭が催されるように。
被写界深度には二つの方向性がある。全てに焦点があっているか、極わずかにしか焦点が合わないか。ボケとピント、そして彩度。この要素は距離感を狂わせる。大事なのは狂わせるということだ。距離感の狂った世界を前にした人間は、もう一度、世界を計り直す必要性迫られる。それは手を前に出したくなるということだ。これを絶対的な遠さと言い換えてもいいかもしれない。
奥行きの増幅は被写界深度に従うが、独自な拡張性も持ち合わせている。これはマジックだ。鏡と圧縮的遠近法がそれを実現するだろう。
ここにもうひとつの要素として視差を加えてもいいのかもしれないが、視差は被写界深度に収束されるように思う。
昔から、ずっと同じリアリティを追い求めている気がする。絵は、もちろんこれらの要素を全て含んだ上で、一つのスタイルを確立した表現形式であると思うし、絵には絵に対する自分の欲望がしっかりとあるんだけど、立体としての空間の誘惑を退けることが出来ないのだ。見たいものを見たい。それさえも指先からすり抜けていくのは判っていても。
作ることの喜びがもたらす浮かれた気分と、作らざるを得なくなったときの出発点が持っていた孤独との、そのあいだを生きられるように努力しないといけない。
スケール感が気になる。それは例えば模型の縮尺であったりもするわけだけど、そういう狭い意味でのスケール感だけではなく、生活尺度とか、スピードとの比較においてとか、所有に対する欲望のあり方とかを含めた、かなり広い意味でのスケール感だ。
今に相応しいスケール感というものがあるのだ。それを求めて世界も表現物も変化していく。流通も市場もプロダクトもアートも変化していく。
興味があるのは、遅くても、密度によってスピードが保たれるようなスケール感。時計によって測られる単純なスピードと、優位性に対する羨望によって生み出されるくだらない差異のインフレーションの世界ではなく、社会という枠組みをもっと個人の生活レベルまで、可能な限り引き寄せた上でのスケール感。それは技術の革新と市場経済の爛熟のあとにしか生まれない新しい価値体系であるはずだ。そういう世界を見てみたい。
光学的リアリティよりも物理的リアリティの懐の深さに惹かれているのかもしれない。でもそれは単に資質の問題であると思える。であるなら、重要なのは自分の資質を見極めることだけだし、そのためには、手なり足なりを動かすことだけが正解なんだろう。
物欲アートについてずっと考えている。物欲アートがどんなものかといえば、それは「入れ物込み」の作品を指す。俺が勝手に命名して俺が勝手に定義しただけだけど。
たぶんこれまでに何度も書いたことだと思うんだけど、どんな作品であれそれを楽しむ場所ってのはもの凄く重要なものだ。キリストの受難を描いた壁画は教会にあるべきだし、マンモス狩りを説明する壁画は洞窟にあるべきなのだ。絵であれ音楽であれ彫刻であれダンスであれ建築であれ、どんな表現形式においても無視できないものとして「入れ物」がある。
でも今の表現って入れ物とは切り離されている。それは近代以降においてテクノロジーが発達したおかげでより顕著になって、切り離されたことを補完するものとして額縁だったり見世物小屋だったりライブハウスだったりホームシアターだったりが発達したんだと思う。でもなんか不十分。その思いが拭いきれない。もっと現在の個人のあり方に対してふさわしい形式があるはずだと思う。で、食玩とかミニカーとかトレーディングカードとかのオモチャや、割り切りまくりのプレハブ建築なんかを見ていると、そこにかすかな未来が見えてくるような気がするのだ。
達成感に依存した物欲は、それで今の市場経済が支えられていたりもするし、俺の生活だってそれによって支えられてもいるわけだけど、そこにはどうしても限界を感じてしまう。新しい物欲。その可能性を探りたい。
新しさの限界について考えるのが好きだ。まず新しさってのはそれ自体が暫定的な概念だと思っているし、自我の規定にもよるけど、自我を主観的認識ベースで捉えるなら、無限の新しさってのは存在しないわけで、極論すれば単なる「変化」にまで単純化したってなんの問題も無いとさえ思っている。つまりここで言いたい新しさの限界ってのは、自分における新しさでしかないし、それ以外の新しさってものも、どんなに外側に感じようとも、結局のところは自己認識の外側に出ることは出来ないんだよなっていう、ある意味ペシミスティックな意味も含めつつな限界であるわけだ。
こういう思考をひねくれていると片付けるのは簡単。で、こういう思考の限界を面白がるのが好きなんだ。もの凄く飛躍するけど、市場原理とかってこういうロジックに支配されていると思う。つまり誰もが多少は思っている「自分」という認識が、本質的には全てが自分でしかないと論理的には言い切れる側面を持っているとも言えるのに、実際の市場とか社会とか個人的なコミュニケーションは、それが個人的な認識に留まらない共同体であると言う前提によって成り立っている。この手のことって凄く厄介なことなんで、簡単に言い切ってしまうと間違う。でも、これを意識していなかったらどこに面白いことがあるのってぐらい面白い。
いろんなスタンスの人がいるし、だから面白い。でもそれぞれの人がいろんなスタンスを表明していなかったら、ちっとも面白くない。そこに「自分」と「共同体」を超える可能性を感じる。新しさって概念は、自分と共同体を相対化するように存在したときにこそ、その力を発揮するし、限界を明確に現すものなんだ。
夕方、なんかやけに怪しい天気で、上の空は曇って雨がぱらついているのに、西の空は開けていて沈みかけた夕日が建物の壁を光らせている。ぞわぞわする天気。すると見事な虹が出た。端から端までぐるっと。しかも一方は二重になっている。虹の直径ってどれぐらいあるんだろうとか思いながら、ずっと空を見上げて歩いていたら、急に目の前の町のスケール感が変化したような感じがした。町が小さくなったというか、空が大きくなったというか、そんな感じに。全部が虹の手前にある。虹をバックにした舞台と言うかオモチャと言うか、それがとてもリアルなんだけど、逆に嘘くさいようにも見える。こういうとき、いつも自分は世界を掴んでいるような気持ちになる。世界と対等になっているような気持ちになる。それはたぶん、もっと日常に必要な感覚であると思う。
偉そうなことを口にしているくせに、季節に取り残されていたり、体を無視している自分がいる。口だけじゃん。ダサいったらありゃしない。
物を作る時間の嘘っぽさと、今に追いつく時間のリアリティの均衡をとりたいと思うのに上手く出来た試しがない。勘違いならいくらでもあるのに、いつも後になってから勘違いだったと思うだけだ。
「今」という概念に幻想を持ちすぎている嫌いはあると思う。エコが流行るように。それはただトレンドであるに過ぎない。たとえばマイブームとかこだわりとかって、「社会的な今」をやり過ごすには有効な薬だとは思うけど、本質的な苛立ちを鎮めるためには何の役にも立たない。それで乗り越えられるぐらいなら誰も決定的に落ちたりしない。
言葉に出来ない「今」があると思う。それは生きていく自信にもなる。でもこれじゃ何にも説明になっていない。
今日、今、ここは気温が上がっている。この瞬間に細胞が温度によって変化を起こしじんわりと汗が吹き出てくる。自分の体だけじゃなく、カラスや木の葉っぱや、無脊椎動物や、野良猫やサラリーマンなんかも同じ力の影響を受けているだろう。もっと言ってしまえば、今日の株価とか、佐川急便の運転手の気分とか、サツキが枯れたことを悲しむクロアゲハとか、水位の上がった南極の海とか、そういうものがみんな気温の変化の中で影響を受け、そしてその影響を与え合っている。でも、こんな言い方がロマンティックすぎるのはよく知っている。ちょっと興がのってしまっただけの話だ。どんなに他人を勘違いさせるように言えたところで、自分の今との距離は縮まらないのだ。
時間の外側で生きないとダメなんだと思う。ファーストフードとかスローフードとかも、遅かろうが早かろうが時間を基準にしている時点でどっちも一緒だって気がする。
自分でも似たような事をいったことはあるけど、たとえば旨い米を作っている農家の人が、そのための努力も精一杯していて、自分の人生でせいぜいあと40回ぐらいしか米が作れないんだから、一回一回を大事にしたいんです、とかいうと、とっても美しい話に聞こえるし、その真剣な気持ちも伝わってきたりもするんだけど、それじゃダメなんじゃないかとどっかで思っている自分が否定できないのだ。それは効率を求めて農薬や最新機械を投入することと、作り手の精神としては同じ構造の同じ価値体系に立った思考だと感じられてしまう。
ただ、そういうシフトが無意味だと思っているわけではない。それはおそらく必要なことなんだと思う。社会とか経済の成熟のためには。でも、社会の成熟を待って生きているわけにはいかないので、もっと強引なリアルが欲しくなるんだよ。それがないとやってらんない。時間を基準にした思考の外側で生きていたい。もっと言ってしまえば、時間を測ることを可能にする言語の手前を生きる基準にしておきたい。流通する言葉ではなく、生まれる言葉を大事にするべきだ。それが生み出せる外側としての時間は測ることが出来ない時間であるはずだ。
最初の予定では健全ぽく見えるエロス的世界と、不健全ぽく見えるタナトス的世界の対比を考えていたんだけど、そのエロス的世界の方がタナトス的世界の方に吸い込まれつつあるようだ。しかし元々そのエロス的世界の方も消費社会の単純化された姿として考えていたわけで、現代における消費社会の病み方を思えば仕方ないことなのかもしれない。
このところ身体改造系のサイト(腕切っちゃったり、ちんちんを縦割りにしちゃったり、磔になったり)とか変態系エロサイト(ウンコ食ったり、馬とやったり、頭入れようとしたり)を割りとよく観てるんだけど、あくまで本人が進んでやっていると仮定した場合にはそういうことって「正常」な欲求としてあるんだと思う。たとえばインフルエンザにかかれば高熱が出るのは「正常」な体の反応だ。日常ではないにしろ、その熱は体が戦っている証拠だ。同じように性的虐待を受けた女の人が対人恐怖症になったり、逆に風俗にいったりするのも「正常」な反応だ。プライドの高い親に育てられた子供が分裂症になりやすかったり、母親の愛が充分に得られなくて超スケベになってしまったり、根本的な生きるすべを学ぶ機会をまったく持てずに(って今の時代誰だってそうだけど)育った子供が社会に適応できずに心を病んだり、そういうこと全部が「正常」な反応であり戦いとしてあるんだと思う。もちろんこの言い方で言うと犯罪でさえ「正常」な反応であり戦いであるといえる。でも実際そうなんだと思う。
ただ、「正常」なんだからそれでいいじゃないかとはこれっぽっちも思わない。なぜならそれは戦いだから。まどろんだり、意思を失ったり、依存したりしたら負けだ。その状態は「正常」じゃない。それこそが異常な状態だ。(いや、休むのはとっても大事だけどさ)
だけどこんな言葉はほんとに苦しいときにはまったく届かないし意味がない。ほんとに苦しいときに頼りになるのは自分の呼吸だけだと思う。その呼吸が意思なんだと思う。原因が外側にあろうとも戦わなきゃいけないのは自分だし。
話がずれちゃったけど、俺にとってのエロス的世界はそういうことを前提にした「戦いの準備をするフィールド」になる必要があるかと思ったのだった。つまり理想的でエコロジカルな快楽の園ではなく、タナトス的なバトルを支えるためのオアシス(捻じ曲がってはいるけど)である必要があると。既に誰もが改造人間である現代においてはそれぐらいが丁度いい。
世界は平らで果てがあり、海の終わるところではゾウさんとカメさんが大地を支えている。ってのが昔の人の想像した世界観であるけど、ああいうのも一人の人間にとってはあながち嘘っぱちではないと考えている。太陽が地球の周りを回っていたとしたって何の問題もない。別に現代科学が定義しつつある世界の構造を否定しようとかそういうことではなく、個人の認識として、つまり表現として、自分の内側から世界を定義するような態度というのは非常に重要だと思うのだ。たとえばそれがなかったらスポーツ選手は強くなることが出来ないだろうし、陶芸家は自分の身体をコントロールすることが出来ないだろう。主観が一番だとか、思い込みバンザイとか、そういう単純なことではなく、ある手応えと、意思を伴った規律の上で切り開かれる認識は、たとえそれが非科学的であったとしても、他には代えることの出来ない、個人にとっての唯一の認識になるはずなのだ。それは知恵と呼ばれたり、直感と呼ばれたり、妄想と呼ばれたりする。世界は平らであるという知恵があってもいい。月が穴である(by Timrick)という直感があってもいい。精神には涯があるという妄想があってもいい。認識の自由からこぼれ落ちているものはとんでもなく沢山あるように思えてならないのだ。
科学とは実用性という幻想のもとに集められた部分的認識の集合である、と考える。ここで言う実用性とは、戦争に勝つことであったり、洗濯物を手で絞らなくてもいいことであったり、料理をしなくても料理されたものが食べられることであったり、短時間に長距離を移動できることであったり、一時的に寿命を延ばすことであったり、離れた場所から現象を操作することであったりするような、とにかくも部分的でしかない認識だ。しかし実際は、そんな実用性のために部分的認識としての科学が肥大し続けているわけでは決してない。結果がそのように流通するおかげで、科学に携わらないものと、科学に携わるものとの間に実用性という幻想が横たわるに過ぎない。
一方で科学的に成れなかった全体的認識の分野がある。それは宗教であったり、芸術(といわれているもの)であったり、哲学であったりするような場所において生きながらえている方法論だ。そこでの発明品は直感的根拠しか持たない曼荼羅であったり、ダンスであったり、決定的な定義を欠いた論理であったりするようなものが生み出されてきた。
全体的認識は個人をベースにしてしか定義できないゆえに、おそらく原理的に正確でありえない。科学は現在、その正確で有り得ない領域に近づこうとしているようにも見えるけど、それが一致する場所もまた個人でしかない以上(少なくとも俺はそう思っている)、どんなに近づこうともその溝は埋めることは出来ないだろう。もっと言ってしまえば、科学もまた、部分的認識として認識される以前においては、全体的で個人的認識から出発しているのであって、それはまた科学の現代的価値を貶めるものでもあるのだけど、それが科学する個人にとっての現実であるという次元においては、それは科学でもなんでもなく、ただの個人的で全体的な認識への欲望の結果に生じた断片に過ぎないのではないかと思えてならないのだ。要するに俺は直感的で個人的な科学好きで、直感的で個人的な科学とはそれが曼荼羅であろうが電子レンジであろうがゲームであろうが、それぞれの価値が自分において再定義されるような場所を提供してくれる物であることを発見し喜んでいるのだ。
ビジュアル的な意味での醜さってものがどういうものか分からない。それはたぶん何らかのいやな経験を呼び起こすから醜いとされるんだろうとは思うのだけど、結びつくようなものが思い当たらない。
それでもある態度が醜いってのは分かると思える。この態度ってのは数学の計算式みたいなもので、問いがあって、処理があって、答えが出る、というその過程が合理的でないときに醜いと感じるんだ、たぶん。ここで合理的ってのは何を基準にして合理的かというのが大問題なはずなんだけど、これって核心過ぎて面倒になるな。一番シンプルに感じられることほど説明を拒絶するんだ。
で、過程の醜さと恥には尋常じゃない興味がある。この二つって似てるでしょ。それはどっちも苦しいもので避けて通れないものだ。
奥ゆかしさと正しさは同じものだと思った。
だとしたら、
野蛮の無い世界は好きになれないと思った。
尖った痛みと交換に得られるものなんてたかが知れている。
と、自分で書いた文章の意味を二度ほど読み直して想像すると、そこには凄いことが書かれているような気がしてくる。他人事だ。上手く言えたと思えることなんて、酔っ払いの思いつきと一緒でその程度にしておくのが賢明だと思う。上手く言えることなんて何の意味も無い。実際飲んでるし。
緩くて不安を含んだ鬱陶しいヌメヌメした膜を突き破るためには何の役にも立たない。コンドームよりも始末が悪い膜に包まれてしか存在しない関係。そういえば俺が中学のころにコンドームのことをムードンコというのが流行っていた。では、この始末の悪い膜の事をムードンコと命名してもいいわけだ。社会とはムードンコによって結び付けられた遊戯である。この定義は、少なくとも尖った痛みと交換されたなにかよりは実があるように思える。
ユーモアを知らない。人を笑わせたことはあるはずだけど、それは俺が笑わせのではなくて、俺が可笑しかっただけかもしれない。さらに言えば、それは同じことかもしれない。怖いなぁ、怖いよ。結局、問題にされるのは「確信しているように見えるかどうか」もしくは「確信を確信しているかどうか」であって、実体はどこにも無い。だから尖った痛みとの交換物なんて曖昧な生理的表現に訴えかけようとするんだ。それって、狼が来たよ!ってのと同じじゃん。
卵焼きが焼けました。
カップにお湯を注いで3分間経ちました。
それだけじゃダメなのかな。
ダメなんだろうな。
最近覗きについてよく考える。今の時代に生きる人は目を覚ましている時間の90%ぐらいを「覗く」という行為をすることだけで過ごしているんじゃないかと思えてならないのだ。
覗くということはたとえ事実は違っていたとしても、覗いている本人にとっては、覗いていることが覗かれている対象に意識されていない状態をもって成立することだ。たとえばテレビを見ること、新聞を見ること、ネットをやること(ネットは「見る」んじゃなくて「やる」のか?)、電車に座ること、食事をすること、仕事をすること…、とにかく人は絶えず覗いている。いったい覗くという行為を除いたら、どれほどのことが残って、その残ったものだけで生きていきなさいと言われようものなら、退屈で死んでしまうのではないかと思えるぐらい覗きまくっている。なぜそれほどまでに覗きたがるのか、何を知りたくて覗くのか、なぜ覗くという関係性を選択するのか、説明したい欲望もあるのだけどとても面倒そうだ。ただ、人間が覗きが好きな生物だというのはかなり確かだ。
覗きとはどこまで行っても覗きだ。公園のカップルが性行為に及ぶところを覗くのも、アナウンサーが戦地に赴いて弾幕の中でレポートするのを覗くのも、覗きであると言う意味では何の違いも見出すことは出来ない。問題なのはその行為が覗きであるかどうかであって、覗かれる対象が何であるかはどうでもいいのだ。それはつまり何を覗こうとも、その行為が覗きである以上、得られるものも覗き的世界の価値観のうちからは出ることが出来ないであろうという、俺が今日言ってみたかったことであり、もちろんそれが言いたかった俺はその通りだと何度も頷くのだ。
しかし、なにも俺は覗きを否定しようとしてこんなことを書いているわけではなく、面倒だというガキのような理由で考えようとしなかった覗きという現象が与えてくれるフィールドで、覗きそのものに違和感をもって向き合うことで何かを掘り出したいと思っているらしい。なんて厄介なことを欲しているのか、とアホらしくなるのだが、アホらしいと思っている分、不誠実なのも確かなわけで、しかしその主題はアホらしいと言い切ってしまうにはあまりにも重過ぎるということに混乱しているのである。今日は割りと論理的な本を読んだので、その影響が出ているようだ。ほんと、簡単に覗いたものに影響されるもんだから始末が悪いったらありゃしない。
いわゆる「演技」というものに興味がなかったりする。きのうの模型的リアリティの話ともシンクロしてくるんだけど、演技はいらない、と、どこかで思っている節がある。それはインダストリアルワールドの悪い影響です、と言われたらその通りかもしれないと思う。病気か?でも、自分ではそう思っていない。むしろ、演技を悪だと思っていたりするのだ。それこそ病気の証だという突っ込みは置いといて、多少の弁明をさせてもらえば、演技ほど押し付けがましいものはないのではないかと思うのだ。憑依とか運動は認められても、演技というものからはいいものを想像することが出来ない。でも実際に演技をしている人からは、それこそが演技だよ、とかいわれそうだな。そうだったら嬉しいんだけど。
たぶん俺が「演技」というものに対して、過剰な偏見なり怨みなりを持っているせいなんだろうなとは思う。そこでは機械というメタファーや節足動物というメタファーが「演技なき運動」として(お決まりなパターンだけど)重要性を主張したりするのだ。別に感情を否定しているわけではないし、あくまでも表現の上での話しだ。音楽における演技、舞台における演技、絵画における演技。なんか演技という言葉に申し訳ないぐらい否定的なイメージしかもてない。もっと包括的で可能性のある言葉なはずなんだけどな。
ここで問題です。歪んでいるという自覚がある人間の言う事は、果たして歪んでいるという自覚の上に基づいているのでしょうか?答えは「どちらでもない」もしくは「ほっとけ!」です。
一定のレベルまではその法則はとても有効だ。それは認めるよ。俺だってその程度には兵士でやってるさ。でも、でもだよ。戦場を見失った兵士はどうやって生きていくんだ。いや、戦場なんてどこにだってあるんだぜ。なのに、文化的で社交的な戦場なんて狭すぎるんだよ。戦場なんて言葉が吹き飛ぶようなフィールドこそが大事なのに。
3Dソフトでレンダリングされた画像に惚れたことが一度もない。ワクワクしたことや感心したことや憧れたことや嫉妬したことは何度もあるのだけど、「惚れた」ということはない。2Dの画像でもCGに限らず滅多にないのだから、3Dだったら尚更なのかもしれない。
俺にとって惚れるということは、全面的に受け入れるということだ。それは良いものでなければならず、作り手という「存在」をあくまでも無言のうちにヒシヒシと感じさせてくれるものでなければならない。
「あなたが作りたいものは何ですか?」という問いには「俺が作らなかったらこの世にないものです」という答えを返すようにしているんだけど、逆に言えばそう感じられないものには惚れることが出来ない。良く出来た3Dのミヤマクワガタには感心するけど、「誰か」を感じさせてくれなかったら、何気なく撮った写真と何も変わらない。かといって、ここが難しいのだけど、押し付けはいただけない。押し付けられるぐらいなら、物凄く良く出来た「誰が作ったのか分からない」ようなミヤマクワガタの方がずっと美しい。ほんとにそうだ。
たまに、この人が作らなかったらこの画像は生まれないな、と思わせるような3D画像に出会うこともあるのだけど、それらのほとんどは技術的に稚拙だったりして、世間的には力を持てないだろうなと思うようなものだったりする。いいものは確かにあるんだけど。
いわゆる「アート」的な価値観がこのデジタルの世界に浸透するのは意外と時間がかかるものなのかもしれない。
補足:
デジタルアート(もしくはコンテンポラリーアートにおけるデジタル技術を用いたアート)はここで言っているアート的な価値観からはズレます。コマーシャルアートとかシミュレーショニズムとかは基本的には面白ければ(もしくは新しければとか、インパクトがあればとか)OKなわけで、それはある意味良く出来たミヤマクワガタと同じです。そしてそれらも、押し付けよりはずっといいわけだけど。
ずっと3Dソフトのマニュアルとにらめっこしていたら目がイライラしてきた。モニターで字を読むのってホント疲れるなぁ。BBSとかの細切れの字を読むのはそうでもないんだけど、まとまったのを読むとだめだ。
3D、覚えます。つうか、一度は出来るようになっていたんだよ。6年ぐらい前だけど。でも覚えたソフトがいきなり別物になってしまって、その上出来が悪くて、誰も使わなくなってしまって、何の役にも立たなくなってしまったのだ。画像のソフトだったら、大体どんなソフトでも触っていれば分かるんだけど、3Dだとそうもいかない。考え方が違うとまるっきり別のソフトになってしまう。少なくとも昔はそうだったような気がする。今はどうなのかな。今日二つぐらいいじっていたけど、多少は方向性が絞られてきているのかもしれない。
3Dを覚えようと思う理由のひとつは、繰り返しが嫌いだということがある。同じものを何度も描いたりするのが好きじゃなかったりするのだ。アニメーターには絶対になれないな。あとはゲーム、もしくは動画への移行が容易だということもでかい。でも一番大きな理由は「模型的リアリティ」が好きだということかもしれない。
「模型的リアリティ」をどう説明したら分かってもらえるかな。あまりいい説明ではないかもしれないけど、「翻訳された立体、もしくは空間」というのが近いかもしれない。絵でももちろんそういう部分はあるけど、模型の場合はもっとシビアだ。どんなダメな形であろうとそれは実際に存在する形になってしまうからだ。それは絵だって物質だというのとは次元が違う。絵が翻訳するのは立体や空間ということで言えばかなり曖昧なものだし、そうであるがゆえの抽象性が絵の自由さと可能性でもあるわけだ。「模型的リアリティ」はそれに比べるともっとそっけないものだ。見るものの努力を要するものだといってもいい。いきおい技巧の巧みさやディテールの細かさに眼が行ったりしてしまうんだけど、そういうことでもない。かといってそれは「彫刻」なのかというと、それでさえない気がする。なにかもっと「遊戯」とか「横断」とか「覗き」とか、時間軸を含めたような価値なのかもしれない。
ああー、もう寝なきゃだよ。
いきなりこんな書き出しされても引くよなぁ。大昔にも何度か書いたけど、ネタがないなら書くな、無くても書かなければいけないのなら、ひねり出せ、ってのが基本だってのはよくわかる。というよりそう思い込んでいるところがある。そんな思い込みをしているやつが、「寝なきゃ」なんてことを書くのはあきらかにプライドを放棄しているように見られるんじゃないかとビクビクしているというわけだ。それ以上もそれ以下でもなく。
面白ければ「寝なきゃ」でもかまわないわけだ。もちろんその通り。つまり、「面白い」=「ネタかどうか」ということだと思っているらしい。俺は。ところが妙なことに、他人が「もう寝なきゃ、明日も仕事なんだぜ、こんなの書いてられっかよ!」とかいうのを読むのは嫌いじゃなかったりするのだ。そんなのはネタでもなんでもないのに、面白がっている自分がいる。除き趣味なのか?でもスクープとかゴシップとかってのはまさにそれじゃん。
自分が面白いと思いたくないものに反応してしまう自分。そんなものに関心を示したくないという傲慢を抱えている自分。「関心を示したくない」と思っているのはダサいなぁと思えるのに、関心を示したいと思っているわけでもない。でも恋はしてしまう。恋をするのはなんて簡単なことだろう。そしてなんでこうも俺は「表現」という嘘っぱちの衣に固執するのだろう。
世の中には使えるものと使えないものがある。使えるものにもさまざまなレベルやフェーズがあって多様なのは確かだけど、今使えるものと、今は役に立たないもの、の、違いというのはとてもはっきりしてたりする。そして(面倒なので飛躍するけど)「今」とはいつなのかが問題なんだと思う。「寝なきゃいけない」のは今だけど、それは自分にとっての今ではない。もっと情けない表現をすれば、そうであって欲しくない。
八時間後の未来を予測することは簡単だ。俺は酒臭い息を吐きながら電車に乗るのだ。だけど雷は落ちるし、車にも引かれるし、彗星だって衝突するのだ。ほんとだよ。こんなにほんとなことがどこにあるんだ?
10 億年後に起こることを知らないで済む人は幸せか?そんな物言いをするのは赤の他人のただの嫉妬じゃないか。嫉妬と自慢は同じものだと今わかった。悪く言いたいわけじゃなく、それが今計測されました。ネタが真実の隠れ蓑ではなく、ネタは真実(のようなもの)へのジャンプであって欲しいと思う。
ウォークマンとか、そういう外で音楽が聞けるような類のものは持ったことがなかったんだけど、ひょんなことからiPodを貰った。そんで外で自分の聴きたい曲をかけるというのを初体験したのです。
妙な体験だった。映画を見ているような気持ちになった。家でヘッドフォンをしているのとはぜんぜん違うんだね。歩いたり電車に乗ったりしても、まるで空の月がどこまでもくっついてくるみたいに音が途切れることなく鳴り続ける。自分で歌を歌っていたりすれば似たような状況になるだろうけど、そういうときの「主人公感」よりも距離感があって、ほんとに映画を見ているような感じというのがぴったりな感じだ。
映像だったらどうだろうとふと考えた。ウォークマン的に映像を持ち出すのは不可能だと思った。ポータブルDVDプレイヤーなんてのはそういう意味では近そうに思えるかもしれないけど、この時に考えたこととはぜんぜん違う。この体験に近いのはヴァーチャルスコープみたいな超ハイテクじゃないと同じ次元にはならない。むしろ色つきサングラスとかの方が近いのかもしれない。あとは幻覚剤とか。
そういう感覚には興味はものすごくあるんだけど、日常的にそれが欲しいかといったらいらないと答えると思う。でもその感覚はとても強力な商品価値を生み出すだろうなということは容易に想像ができる。今この感覚に一番近いところにあるのはおそらくオンライン3Dゲームかもしれない。それの行く先は「持ち歩く」ものではなくて「中に入る」ものなのかもしれないけど。
大きなヤママユガの幅が3mmぐらいのぶっとい足が、グリグリと動くのを気持ち悪いと感じてしまうのは正しくない。そのギャップは病的だ。あたりまえなのに。そういう不公平が病的だって事は絶対に忘れちゃいけない。そういう弱さは根強くて鈍さを引き寄せる。大事な鋭さは分かり易いところではないところにあるんだ。
買い物話は興味ない人にはつまらないことこの上ないと思う。まず自分がそう思う。ある意味ただの内輪話なんだ。とは言っても今時、内輪話のコミュニティ以外に何があるの?ってぐらいどこへ行っても内輪話が溢れかえっている。善し悪しは別として、それが今だといってもいいぐらい。大きな内輪話と小さな内輪話があるだけで、どこまで行っても内輪話。文句があるのかどうかもわからないんだけど、こういうナンチャって少数民族の集合というのは世界規模で浸透しつつあって、それは新たなリアリティの定義なのかもしれないし、言語と価値の解体による脱出口への模索なのかもしれないし、あるいはただの気晴らしのためのヌルイ遊戯なのかもしれない。何が正しかったかは後になってみればわかることなのでどうでもいいんだけど、今ここで違和感を感じている自分は否定できない。その違和感を忘れるようにだけは生きないようにしよう。
世界を記述してみたい。ずっとそう思っていた。たぶん、思い出せないぐらい昔から。何度も何度も世界を記述する試みをしてきたような気がする。なんの為かはどうでもいいの。それが出来たときには、それは自分にとっての最高のオモチャになる。それが初めからわかっている。それはあらかじめ終わったオモチャかもしれないけど。
哲学的にではなく、どちらかというと曼陀羅みたいな直感的な解釈でそれをしたい。哲学的な態度は科学的な態度と同じで分かり易くはあるけれど、そこからこぼれ落ちるものが決定的に重大すぎて好きになれない。その単純さが導き出す複雑性にウンザリするってのもある。今、わかりにくい言い方をしたけど、単純さにもいろいろあって、論理的な単純さはその一元的な特性ゆえに複雑な構造を導き出すし、直感的な単純さはそのその多義性ゆえに個人に多くの経験を求める。この言い方も抽象的過ぎるけど、これはセックスの仕方が書かれている本を読んでその通りにセックスをするのと、セックスという言葉を知る以前にセックスをしていて、これがセックスだったの?とあとから知る違いみたいなものだ。
たとえが悪い。言いたかっただけみたいだ。俺の身体はどちらかというと前者でガチガチだ。でも、ガチガチじゃない男には出会ったことがない。そして才能は、そのどちらでもないところにだけある。才能と言うにはあまりにも当たり前なリアルだ。そういう意味では、リアルは瞬間でしかない。そして瞬間であってなんの問題もない。その瞬間にとんでもない掛け金がかけられ、それを掛けることにも、それを見ることにでも莫大な金が動くぐらい、そのリアルは、今のところ、強力なのだ。
誰にだってできることがある。誰かにしかできないことがある。そして誰でもが誰かだ、じゃなかったら、誰でもが誰かであり得る。少なくとも、それぐらいの可能性がどこにでもある。自分がその誰かになるということは、論理的ではなく直感的な意味でいつでも正しい。自分にとって世界を記述するということは、記述された事実の正しさを求める行為ではない。なぜならそれを求めたら、その世界は正しくないものになるからだ。この手のことに異常な自信がある。論理的なことや科学的なことは何も知らないくせに。この自信は科学や論理の起源よりも根元的なところに根ざしているからだ。その、より根元的な何かは、とてもシンプルでシビアな何かだ。シンプル過ぎるが故にないがしろにされたり、シビアであるが故に排除されたりするようなものだ。
僕の雨の日。
僕の秘密基地。
僕のママのものではない僕。
誰のモノでもない僕。
俺のお前のものではない俺
俺の俺のものではない私。
私を蹴散らすこの身体。
身体に寄り添う誰か。
誰かとしての唾液。
唾液に触れられる皮膚。
皮膚と空気の間に生成するチョコレート。
僕の記述する世界は
箱の中で
箱を突き抜けて
箱を成立させ
箱は箱のしがらみの中で
腐り
腐っていく記述された世界は
正しい
その腐っていく箱を
僕に下さい。
スパイラルに乗りたい
慣れるために
出来るために
腹を満たすために
ほどけるために
描けるために
伝えるために
食うために
飲むために
いい気になるために
逃げるために
楽になるために
思い出すために
聞くために
気持ちよくなるために
並べるために
磨くために
正しいために
一貫性のために
ゴミがないために
垂直であるために
水平であるために
書き取るために
比率のために
均衡のために
平均のために
夕方のために
朝のために
夜のために
散歩のために
足のために
空腹のために
贅沢のために
機械のために
他人のために
金のために
キーボードのために
安楽のために
暴力のために
絵のために
酒のために
鉛筆のために
交尾のために
葬式のために
ロボットのために
自分のために
排泄物のために
バッタのために
何時間だったかはどうでもいい
そのように生きていることを
もうすこし
俺は
わかったほうがいい
改善するためではなく
ないがしろにしないために
ああ、きのうの11時ぐらいに書いたNEWSを間違って消してしまいました。誰か保存していた人いますか?ひょっとしてそんな奇特な人がいたら送ってくれませんでしょうか。いなさそうだなぁ...
下で書いた消しちゃったログを送ってもらえた!
送ってくれた人、感謝、感謝です。
また呑みに行きましょう。
というわけで一度消えたNEWSです。
次のプロジェクトの設定に関して思っていることの一つに「外国」が存在しなくても成立するような技術体系を提示してみたいということがある。おそらく、これはかなり難しい。不可能かもしれない。でも少しでもそれに近づけたい。
例えば石油は無し。この時点で自動車にゴムのタイヤは付かなくなる。ガソリンも使えない。プラスチックは代替物があるようだけど、微妙なものになる。ガラージュの時には物質=生物の意志だという理想主義的かつ夢想的な設定で強引に完結させたけれども、それは一度やってしまったので、使い回しは出来ないなってことで(実は未練もあり新しいアイデアもあるのだけど)避けたいのだ。
夢のような、というか、シュールリアリスティックな表現には限界がある、と思う。どのような限界かといえば、リハビリテーションとしての限界だ。リハビリテーションはその対象が存在しないところでは意味をなさない。リハビリテーションの状態にしがみつくなんてクソで滑稽だ。病は生きられるものであって、外側に求めたり、内側に閉じこもったりするものではない。リハビリテーションにも階層があり、あらゆる人が、いずれかの階層に属していて、階層がシフトしたときには、シフトした階層で新たなリハビリテーションを始めるべきであって、そこまでいってしまえば、それはリハビリテーションでさえないのである。
自分にとっての現在地点としての階層を出来る限りはっきりさせる必要がある。今、現金を得たり、ネットワークを利用したり、ダラダラと外国の酒を飲んだり、そういうことを全部込みの上で、自分自身が「行きたいと思う場所」を生きないとろくなものは出来ない
雑然としている。沢山のものが詰め込まれているような気がするのに、何もないようにも思えるし、何もないと言うには騒がしすぎる。こんな気持ちになっているのは俺と、後は似たような時間を過ごしている人だけだろう。今日は涼しいとか、暑いとか、そういう話じゃなくて、とても個人的な理由で雑然としているのだ。
人というのは、いつでも個人的な理由で雑然としたり、殺伐としたり、テンパったり、のうのうとしたり、フニャフニャしたりするものだ。そして非個人的な理由でせいせいしたり、イライラしたり、ノビノビしたり、ギスギスしたりするものでもある。今思ったんだけど、この違いってただの時間的な違いに過ぎないのかもしれない。個人的な理由っていうのは、今より以前に起きた事柄に大して形容される表現で、非個人的な理由っていうのは、今起きている事柄に対して表現されることなのかも、と、思ったんだけど、どうも違うみたい。「数」の問題がある。過去に起きたことでも、数が多ければそれは非個人的にされるんだ。民族にされたり、国にされたり。でも、なんか納得行かない。時間軸で説明する方がずっとしっくりくる。たぶん、数はあまりに社会的幻想に過ぎるからだ。それがどんなに強大であろうとも。
とてもほっとした。あと、ちょっとさみしい。
ほんの五回ぐらい雨にやられただけなのに、その圧迫感は馬鹿にできないものがある。追いつめられる感じ。余裕が無くなっていって、問いつめられたあげくにいっそのこと逃げたいと思ってもどこにも逃げ場がない。大袈裟な気もするけど、もしこれが20回も繰り返されたら相当耐え難いだろうと思う。これって天気に限らずなんにでも言える。繰り返され継続する圧迫感は、とんでもない暴力で人をいとも簡単に変えることが出来るし、そういう力には人はとても弱いのだ。
でもちょっとさみしい。
これが何故なのかもよく分かる。いくら苦しくても経験したことのないことがその先に待っているような予感はその苦しさの中には紛れていて(だからこそ苦しくもある)、それを全うしたいという気持ちが苦しさの中にも芽生えているからだ。これはタナトス(とりあえず破滅願望ぐらいの意味)でもあるかもしれないけど、逆に生きる欲望そのものでもあるようにも思える。可能性の提示が外部の要因によってなされ、それの自覚によって体の中に力が生み出される。そしてその力に従いたいと思う。その結果、従う可能性が絶たれたことに関してさみしいと思うんだ。これってたぶん人間だけじゃない。その証拠に蝉の鳴き方の変なこと!生き物ってつくづく不思議だ。
雨のおかげでなんか疲れちゃってる。
雨でもなんでも移動はとにかくバイクだからなぁ。20年ぐらいずっとそうです。
電車とかも悪くない、というか好きなんだけど、遅いしカネかかるし自由じゃないし、どうしてもバイクになっちゃう。そんでその前はというと、どこに行くのでも自転車だった。もうそういうのが当たり前になり過ぎちゃっていて、そうじゃないのが想像できないぐらいになってる。それでも雨の日や風の強い日はやっぱりしんどかったりもする。なのにカッパ着たり向かい風に向かってバタバタしながら二輪車に乗ってる。無理しているつもりはないんです。これっぽっちも。そんなことしているからって「本物のバイク乗りは...」とかクサイ事言う気もないし。
なんでだろうと考えると、一つにはあんまりカネがないってのもあるんだけど、それ以上に自分で動いている感じがするからだって気がする。バイクなんてアクセルひねってバランスとっていればそれで勝手に前に進んでくれるけど、それでも多少はそんな気持ちにはなれます。たぶん一番いいのはどこに行くのでも歩いていくことなんだろうな。移動のためには必ず歩かなくちゃいけないとしたら価値観変わるよー。これは絶対言いきれる。もちろん電車もバスも無し。
自分が自分で移動している時間って、頭が余るって言うか、遊ぶって言うか、机に向かってじっとしていたり電車に乗っていたりするときとは、明らかに違う頭の解放のされ方がある。そんで自分はそういう時間がすごく好きだし、それは毎日毎日に必要なんだと思う。
長い時間をかけて人は変わっていく。でもほんとにそうだろうか。自分なんて全く変わっていない気がする。ただ年をとっただけで。オジサンみたいな子は五歳の時からオジサンだ。
いろんな人がいて、その上に山にかぶさった笠雲みたいに社会というシステムが乗っかっていて、その雲の中では確かに人は変わるように見える。義理やカネに振り回されたり振り回したり、恥を掻いたり威張ったり、自信を持ったり無くしたり、病気になったりならせたり、でもその雲の中が全てじゃない。雲の中でいくら変わったところで変わらないものがある。
あんまり雲の中に長いこと居すぎると、変わらないものなんて見えなくなってくる。カラオケ屋に行っても買い物をしてもオシャレをしても、どこまで行っても雲の中だ。どうにもならなくなると、人は病気になったり失踪したり犯罪を犯したり絵を描いたりする。それらは救いになることもあればもっとどん底に落ちることになることもある。どん底も救いかもしれないけど。
雲は分厚い。でもそれしかないわけじゃない。所詮雲だ。分厚くて無くならないけど、所詮雲だ。たまには雲のない空を拝んだほうがいい。孤独が怖くなければ、それはいつでも可能なことだと思う。
ぼくは自分をマイノリティ(少数派)だとは思っていません。通常用いられている意味においては充分マイノリティですが、じゃあマジョリティ(多数派)ってなんだろうかと考えるとまったくわからなくなります。そんなものはいったいどこにあるのでしょうか。ぼくにはあらゆるものがマイノリティの集合のようにしか思えないのです。そしてあらゆるものがマイノリティであるのならば、マイノリティという言葉はその存在意義を失います。だからぼくは自分をマイノリティだとは思えないのです。
12歳の子が小さい子を突き落として殺してしまったけど、その出来事自体にはやるせない気持ちになるのに、その12歳の子に対してはすごく感情移入してしまっている自分がいます。神戸の事件の時もそうだった。何故そういう行動に走ってしまったのかが理解できるような気持ちになってしまう。いっとくけどこれは擁護でもなければ同情でもありません。それ以前にどんな枠組みなり欠落がそのように彼を導いたのかがリアルに想像できるんです。想像した事実がどれだけ正しいかということではなく、自分の気持ちの中の収まるべき所にその過程がスッポリと入っていく。
ぼくは自分を異常だとは思っていません。マイノリティだと思っていないのと同じように。あらゆるものは異常の集合であり異常とはある意味幻想でしかない。そして異常は「正常」によってしか生み出されない。異常と正常の間、マイノリティとマジョリティの間、男と女の間、病気と健康の間、障害と健常の間、そこには夥しいバリエーションがあって、それをそのままに受け入れなくちゃ面白くも何ともない。枠を外せば出来ること、枠を外せば楽になること、枠を外せば続けられること、そういうことがいっぱいある。でも、枠を外されると困る人もいる。それは枠にしがみついている人だ。でもそんな人の面倒なんて見てらんない。その人たちの面倒をみようと思ったら永遠に枠を外すことなんて出来ないから。
ぼくは枠がいらないとは思わない。言葉も枠だし、カネも枠だ。ただ、枠がないということを基準にするべきなんだ。複雑化が進むほど枠を外すのは困難になる。でも一生枠から外れることが出来なかった人はとても不幸だと思う。最後にはほんとのほんとに外れなくてはならないのに、それの練習が出来ないなんて。しがみつくのはほどほどにしとけよ、と
NHKのアナウンサーに言いたくなった。

絵の表面にひびを入れたり、機械に錆びたように見える塗装をしたりして、古びた感じや晒された感じを新しく作る物にわざわざ施す。こういうの、実を言うとあまり好きじゃない。これをやるときに一番抵抗がないのは模型を作るときで、絵とかプロダクトとかでやるのはどうしたもんかと思ってしまう。ほんとに時間がたって汚れたり、風雨にさらされてダメになった物は好きなんだけど、そういう物を好きだという気持ちを、絵をひび割れさせることで表現するのはどうかと思ってしまう。それをやるんだったら「ひび」や「掠れ」そのものが表現になるべきなんじゃないかとか、そんなの面白くないとか、どうでもいいようなことが頭の中をグルグルし始める。
絵の勉強をし始めた頃、凝ったマチエール(絵の具などの質感)や銅版画の腐食がすごく魅力的に見えた。写真のフィルムを引っ掻いたような傷も惹かれる。もともと好きではあるんだ。でもいざそういう技術が自分の手の内にあると、なんか醒める。なにやってんだろって気になっちゃう。そうなったときに選べることといったら、汚れやマチエールを空間の中に収めちゃうか(汚れた世界のディテールとして扱う)、汚れをそのものを表現の対象にするしかなくなる。前者はデジタルでも可能だけど、後者は無理だ。両方やってきたつもりだけど、いまの自分にとっては世界のディテールに汚れを含める方がより近いところにあるのかもしれない。
エキセントリックなものというのはほとんどの場合ちっともエキセントリックではない。何故なら巷に溢れているエキセントリックなものはエキセントリックでありたいという欲望によってエキセントリックなフリをしているものばかりだからだ。そこではエキセントリックに見える寿命の短い技術が日々開発されていて、それらを駆使していかにしたらエキセントリックに見えるかという競争があるだけだ。それはエキセントリックではなく極めて日常的で一般的な現象だ。エキセントリックなものは作為の中には宿らない。どんなものがエキセントリックかの定義はどうでもいい。作為のないエキセントリックは本物のエキセントリックに決まっている。イヤなのは勘違いと、かばいあいだ。エキセントリックではない人間がエキセントリックなフリをして、いかに自分たちがエキセントリックであるかを讃え合い、いかに自分たちが本物であるかを確かめ合う。ああ、気持ち悪い。エキセントリックなものは魅力的だ。エキセントリックなものには本質的に人を惹きつける力がある。おそらくエキセントリックであるという定義の中に死が本質的に含まれているからだ。どうでもいいとかいいながら意味を考えているバカな奴。死を考えるんじゃなくて、死を生きろ、と飛躍したくなった。
初めてコンピュータを意識したのは10年ぐらい前のことです。たまたまキャノンに勤めている知り合いの人がいてマッキントッシュに触らせてもらった。その時の一番の興味はカラーコピーだったのだけど、画像補正するためにマックが接続されていたのです。ちょうどカラーコピーが一般化し始めた頃で値段は300万円ぐらいだった。僕はスキャナーとしてのカラーコピーの威力を試してみたくて、自分で作った人形とかシダの葉っぱとか花とか流木を持参していそいそと出かけていったのです。コピー機の上でジオラマ風に素材を並べコピーを取る。そして次の瞬間には並べたイメージがプリントとして吐き出される。とんでもなく興奮してサルのように繰り返したものです。そしてそこに当時1000万ぐらいするシステムとしてコンピュータが接続されていたのです。しっかりフォトショップがインストールさていて、自分のスキャニングしたイメージをいじくり回した日には、興奮しまくりのお祭り状態になってしまったのは言うまでもありません。
今や200GBのストレージが普通にお安い値段で買える時代。あれからたった10年です。そんでもってこの調子であと10年ぐらい経つとテラバイトのハードディスク付き入出力通信機器(ビデオカメラとカメラとレコーダーとムービープレイヤーと音声プレイヤーと電話が合体した奴)が当たり前になって小学生が誕生日にトイザラスに行っておねだりするようになるんだね。なるんだよ。それが20年後だろうと5年後だろうと、とにかくそうなるのよ。
そんでここからが本題。
それがいったい何なのでしょ?
これは未来の話じゃない。今の話です。SFなんかじゃない。ISDNとADSLの違い程度のちょっとした違いに過ぎない。もっと言ってしまえば蒸気機関と内燃機関程度の「ちょっとした」違いに過ぎない。未来は全てここにある。未来にならないと手に入らないものなんてない。未来にならないと手に入らないものは、たぶん、もっと別の場所にある。それはおそらく体が成長したり、歳をとったりすることです。内側の未来。内側の未来だけがリアルを規定する。でも僕は外側の未来幻想に向かう欲望を否定しない。何故ならそれに振り回されているから。精算はしたいけど、強引に精算するのは嘘つきです。そういう嘘は一番嫌い。精算は出来るときにするべきだと思う。
デジタルという手法は哲学的です。認識という名の社会性の外在化としては、曖昧さを許さないという点においてとても面白い。幻想が入る余地がないのです。そこには単純であるが故のピュアなパワーを感じる。なんだか偉そうなことをいってるけど、とにかく自分の気持ちとしては夢の終わりが見たいのです。「夢」から解放されたい。「夢」を見るのを止めたい。でも愚かに「夢」否定したら、永遠に「夢」から覚めることが出来ないことだけははっきりしています。夢の終わりは夢の中で起きた気になることではなく、ほんとの「目覚め」によってしか実現しない。しかし嘘吐きでないように目覚めるのは思ったよりも難しいみたいです。
子供パワーの一定部分は締め付けによって生まれている。という論理は嫌いですが、ある程度はほんとでしょう。発禁本の裁判みたいな話ですね。エロティシズムは禁止の上に成り立っているとかさ。こういう話はどうしても視野が狭くなるのでそういう土俵にはあまり立ち入りたくないのだけど、あらゆる制約が無くなったところで制約は永遠に存在し続けるということでカタを付けておきたい、と、いつも思います。
人間は鳥ではないし、植物でもない。その上生物はみな死ぬのです。それだけで制約としては充分でしょう。つまりどれだけ制約を人間社会の中で外したところで、子供パワーもエロティシズムもロマンティシズムも無くならない、僕はそう思っています。
学生の頃に友達と話していて、その友達が最近聞いた話としていっていたのですが、ある人が「学生運動があった頃とか戦争中とかはリアルがあっていいよな」といったところ、そこに居合わせたもう一人の奴が「そんな状況じゃないとリアルを感じられないようじゃダメだと思うぜ」と返したそうです。僕はその話を聞いた時「俺がいつも考えていることはまさにそれだ!」と思いました。そしてその気持ちは今も変わっていません。
特殊を求めてはいけない。そんなものを求めたところで、得られるのせいぜいチャチなかぶりものです。やっぱすっぴんで行かないとね。
なんとなく春っぽい気持ちでラクガキ。
春ってなんか曇りのようなイメージがあります。それも明るい曇りの日。そして曇りの日のモノの見え方がかなり好きなんです。晴れの日のように影がくっきりしていないで、どこからが影なんだかわからないような綺麗なグラデーションが出来る。目の前のモノが一つ一つその形を、服を脱いだみたいに見せてくれているような見え方です。自分の認識の中では、一番形をはっきりと認識できるような見え方なのです。曇りの日の光の中で見えている形がそのものの本来の形であるというような(これも偏見の内なのはわかっていても)、妙な基準が自分の中に出来上がっているようです。
前に質感を描くのに抵抗があるということを書いたけど、それもこの好みとつながりがあります。ツルツルしたモノやヌルヌルしたようなものを描こうとすると、どうしても反射や写り込みやハイライトを無視できなくなって、「曇りの日の本来の形」が見えにくくなるのがイヤでもあったのです。
最近そういう描写に抵抗が無くなってきたのは、たぶんツールの影響もかなりあると思っています。元々アナログで絵を描いていたときは、とにかくマットな質感が好きで、どんな画材を使うにしろ、そういう仕上がりの絵にはあまりツルツルしたような質感表現は向かないように思っていました。でもモニタ見ながら描いていたら、そんなの関係ないですからね。透過光だし、まるで窓をみながら描いているような感じです。これが自分にとっていいのか悪いのかは、今の時点では判断が付きませんが、変化が起きていることだけは確かなようです。
関係ないけどこのNEWSを午前中にアップするようになったら、午前中のアクセスが急に増えるようになってちょっと驚いてしまいました。なんだかんだいって楽しみにしてくれている人がいるんだなぁ、と。有り難いことです。
10年ぶりぐらいでスピード違反で捕まっちゃいました。
朝っぱらからねずみ取りなんてやるなよ!しかも40キロ制限って何よ!28キロオーバーですと?!1万5千円って、月末までって、それはあんた、ワタクシの一ヶ月分のアルコール代じゃないの!
と、帰ってくるまではふてくされていたのですが、寝て起きたらサッパリしてしてしまいました。俺も大人になったのね。しかし机の前で調書を書いていた婦警さんの口紅は怪しかったなぁ。シルエット作りすぎ、てかあまりにも元とかけ離れていて、作ってる意味無いし、色も強すぎて舞妓さんみたいになってるし、そのあまりの下手さ加減が可愛く思えたりもしたのだけど、まあそれはいいとして、なんでああいう時ってどうでもいいようなディテールが鮮明に目に入って来るんだろう。座面の破れた折りたたみ椅子からちょっと覗いたスポンジとか、安全靴からちょっと覗いた靴下の端のほつれとか。そういうときの独特な意識の集中し具合というか、ハイな感じというのは嫌いじゃなかったりします。たぶん微妙に脳の中のドーパミンだかなんだかが、過剰に放出されているんでしょう。
前に桜を見に行ったときに(ちょっと酔っていたのですが)、ふと目に入った一輪の桜がそこで今咲いていることが異常にリアルに感じられて、まわり中にそのリアルが同じリアリティで存在していることに圧倒されてしまい、メチャクチャ興奮した覚えがあります。なんなんだ、このパワーは!って感じで。ディテールの集合として全体がある。全体としてのディテールに意識が行き渡る感じ。上手く説明できませんが、とにかく夥しいリアリティなんです。そういうときは、俺は今まで何を見て生きていたんだろうという気になります。ひょっとするとそれはただの過剰すぎる意識なのかも知れませんが、作品を作っているときに求めているものとすごく近いし、大事にしたいなぁといつも思うのです。
柄にもなく戦争の話を書こうか書くまいか悩んでしまった。前にも書いたけど、とにかく困るので口にするのはかなりはばかられる。正直に書けることといえば、せいぜい「戦争が始まりそうだという報道をしているテレビを見る自分について」ということぐらいで、これは「珍しくテンションの高いタモリを映しだしているテレビ」を見ることや、「ウミガメの産卵を映しだしているテレビ」を見ることと本質的な違いはない。乱暴な言い方をすれば、ウミガメの産卵もテンションの高いタモリも戦争と同じように他人事ではないのだ。逆の言い方をすれば、自分にとっての事実はテレビを見ているということだけであって、それ以外のことは何一つしていやしないのである。そんな人間が今起きようとしている戦争について、歴史や状勢の解説や分析をしてみたところで(そんなことが出来るほどの知識も論理的組立の出来る能力もありはしないのだけど)、せいぜい上手に説明が出来た自分にホレボレするぐらいが関の山だ。
正しさとか悪さとか正義とか邪道とかそういうのはどうでもいい。それらはこの世で最も胡散臭いものだ。そしてどんな形を取るにしろ、起きなければいけないものというのがある。止めても終わりにならないし、終わりにならない以上いつかは何らかのカタチで外にでなければならない。それは避けられない。でも外に出すための選択肢はいくらでもある。
しかし、キレたがっている人を変えるのはとても難しい。キレたがっている人に共通するのは、キレた自分こそが「ほんとの自分」だという意識だ。そんな人はいつもキレるチャンスを狙いながら生きている。そしてそんな人に限って、普段はとてもよく決まりを守って生きていたりするのだ。「ほんとの俺はこんなものじゃないぜ」てな顔をしながら。こんな人には何をいっても通じない。目の前に二人のキレたがっているイイ年のオヤジがいて、そいつらのとばっちりでたくさんの命や自分の命が脅かされようとしていて、しかもどこにも逃げ場が無くて、なにもしていないのに知らない内にそのオヤジの内側に取り込まれてしまうかもしれないって、いったいどういうことでっか!?
てなことを考えながらテレビを消し、いつものように絵を描き、いつものように風呂に入り、いつものようにこれを書きました。今この部屋を暖めている灯油はイラク産でしょうか?これを書いているコンピュータはアメリカ製でしょうか?僕は自分が日本人かどうかなんてどうでもいいです。
ぼくは自分のことを絵描きだと思っているけど、絵が自分だとは思っていない。というのは現実の自分に照らし合わせると嘘になるけど、そうありたいと思っているのは事実だ。
僕が描いた絵は確かに僕が描いたものだ。でもそれが自分だというのはただの自意識過剰だと思いたいのだ。
他人の描いた絵を見るときに、そこに自分ではない人間の存在を感じるというのは、絵を見る上での最良の経験だと思っている。かといって、ぼくはその絵を誰かだと思いこんだ上で見るとか、その絵から誰かを想像しているのかというとそれはまったく違う。
ぼくが見ている他人とは自分が感じることが出来る「外」の全てを指しているのではないかと思う。それを他人といってもいいし、自然といってもいいし、エネルギーの本質といってもいいし、ほんとの自分といってもいいし、暴力といってもいいし、未来といってもいいし、思い出せないぐらい古い過去といってもいいし、言い尽くせないぐらいいろんな言い方が出来ると思うのだけど、それが、誰かが経験し顕わさずにはいられなかった為に生み出された作品として自分の目の前にあるということに感謝の気持ちと一緒に幸せを感じる。
デッサンの勉強をするよりも前に、深く感じることが重要だ。そして深く感じるということは当たり前のことだ。浅くしか感じないでやり過ごすことの方が異常なのだ。あとは感じたことに従えばいい。絵が「自分」になるとき、それは最も醜いゴミになる。ゴミの出ない生活がしたいもんだ。
このところサイトの更新が滞ってますが、ちょっと忙しいだけなので勘弁して下さい。ガラージュやシェアピースの情報を待っている人も中にはいると思いますが、来月ぐらいにはまた普通に動けるようになってる予定です。しかし来月と言ったらもう12月ですねー。早ッ!
よく子供の時は時間が流れるのが遅いとか言うけど、あれの理由って何なのでしょうか?僕は単純に「一つ一つの情報に真剣に向き合ってる」からだと思っているんですが、ほんとの所は知りません。
子供にしてみればどんな情報も真剣に取り組まなくてはならない情報として最初はやってきます。簡単にいっちゃえば知らないことがいっぱいだということです。だから五感をフル稼働させて新しい経験を受け入れなければならない。これが結局時間の密度を高めていって「長く感じる時間」を作り出すのではないかと、って誰でもこんなことは考えていそうですね。
しかし大人だっておんなじように生きたっていいわけです。知ってると思って無視している事柄にどれだけ自分の知らないことが隠れているかを考えれば、「飽きた」とか「わかってる」とか「馬鹿じゃん?」とかいってる暇なんてないはずです。下手に経験を積んでいる分そうなりやすいのは仕方ないですから、これはもう意識的にやるしかない。それにちょっとそんな気になってみれば、いくらでも新しいことなんて発見できるぐらいゴロゴロしてます。
でもこのように目の前の情報と付き合おうとするとき邪魔なものもいっぱいあります。例えばテレビ。そして会社。テレビはやってもいないのに知ったような気にさせる装置の代表選手です。もちろんそれはテレビの一側面に過ぎませんが、テレビに限らず車にも新幹線にも本にもこの「ヤワな既知」を作り出す効果があるというのは事実です。そして会社。ここでは普通はそんな風に情報と付き合おうとする人間は必要とされません。仕事が滞ることこの上ないからです。もちろんそれが必要とされるポストもありますが、それはごく一部です。つまり大人が子供のように濃密な時間を過ごそうとするのはメチャクチャ困難なように社会は出来ている。
しかしここで引き下がるだけでは悲しすぎます。だって誰もが自分の人生を生きているわけですから、自分に出来る相応の覚悟でそれをやることに誰が文句を言えましょうか。多少迷惑をかけようが、そこで掛かる迷惑なんて相手の「大人の時間」がちょっと狂うぐらいのものです。「大人の時間」だけで生きていくのなんてたぶん不可能なんですから、もし誰かの気分を害すようなことになったら、その人はその程度の器だったということで切り捨てるぐらいの勢いでいきたいものです。
昨日のNEWS、文句を書くのは良くないと言っておきながらまた書いてますね。今日は文句じゃない話でちょっと引継。
世の中には誇大妄想的な科学者とかがいます。例えばバックミンスター・フラーとか。この人はかなりとんでもない人で有名なところではジオデシックドーム(だったかな?)という三角形を組み合わせたドームハウスを考案した人です。一例を挙げるとそのドームハウスの発想を発展させて「浮遊する都市」というとんでもない構想を考えています。これは超巨大な球形のドームを作ってそのドーム内の温度をほんの少し外気より高くするだけで都市ごと空に浮かべてしまおうというものです。地球上にはそのようにして浮かべられた都市がいくつも浮遊し、土地問題などから人類は解放されると。理論的にも可能らしいし、ビジュアル的にも凄いインパクトです。こういうばかばかしいほど突飛な発想というのはかなり好きです。とにかく面白い。
もう少しスケールの小さいところではアーキグラムの運動とかも似たような感じがします。こちらはウォーキングシティなどやはりSFちっくで子供っぽい発想が魅力的です。他にはルイジ・コラーニの初期のプレゼンテーションなどもかなりきてます。
何が言いたいのかって、やっぱりショッキングなグラフィックもそれの裏付け(これは荒唐無稽でも構わない)があるのとないのとでは説得力や面白さがまるで違うということです。結果だけを求めてしまうとやっぱりつまらない。それは別に必ずしも理論である必要はない。例えば何かプロジェクトなりプロダクトなりがあってそれへの伏線ということでも構わない。とにかくそのグラフィックだけで終わらない何かがあって始めてエンターテインメントとしてのグラフィックが確立するのではないかということです。そうじゃないものはとても退屈だと思うのです。そしてこれは「絵」というものにも多少は当てはまることでもあると思ってます。「絵」はそれ自体で楽しめるようなものですが、一般化やわかりやすさを求めたときには、どうしても「世界観」のようなものを無視できなくなってきます。
これがいかに強力かは、レコードジャケットや映画やゲームやマンガのことを考えてみればすぐにわかります。一見難解そうに見える表現も、ある世界観の文脈におかれたとたんに「楽しめるもの」に変化してしまうのです。それはある意味ホントには絵を見ていないということだから、抵抗もなくはないのですが、入口として考えるのであれば仕方ないことだという気もします。
なんかこの何日かのNEWSで文句ばっか言ってますね。良くない傾向だ。気を付けよう。それにちゃんとまとまってるならまだしも全然まとまってないし、はしょりすぎだし。ますますよろしくない。
それじゃあ楽しいことでも書こうかと思ったら、全然思いつかない。なんとなぁ?く精神状態がそのまま出ちゃっているんだな、きっと。もともとすぐに顔に出るタイプだし、嘘付くの下手だし、そういうのはほんとに不器用なんです。喜んでも動揺してもすぐにバレちゃう。要するに子供なんですね。ま、それは別にいいんですけど。
ところで今日家の中が模様替えされて、物凄く久しぶりにコタツに入ってテレビを見たのだけど、あまりの快適さに感動しました。文明生活とはこのことです。普段テレビってあまり見ないのですが、せっかくだからと紅茶など飲みながら日曜洋画劇場のインディー・ジョーンズを観賞しました。これ以上のラクチンがどこにあるというのでしょうか?生きる意志を失うほどラクチンです。コタツを知らない外人が可哀想だ。いや、生きる意志を失わないですむから幸せなのか?
そういえば今までバイクに乗っていた人が車に乗り始めると、「車は人間をダメにする」と必ず言うのですが、気が付くとその人はバイクに乗らなくなってます。後戻りは出来ないんですね?。かくいうワタクシは車には乗れませんが今はスクーター専門です。スクーターはバイクじゃありません。ラクチンです。ダメになります。
でもなんだかんだいっても、普段良く通っている道を歩いて通ると自分が何一つ見てないことに驚きます。つまり何に乗っていようが、乗り物に乗っている時点で既になんでも一緒なんです。速すぎるものとか楽すぎるものっていうのは、結局情報を限定することによって成り立っているんですよね。便利と付き合うのって難しい。
大塚英志(この字だったけかな?)というマンガの評論やったりする人が、「多重人格探偵サイコ」というマンガの原作をやっていてそのあとがきで言ってたのだけど、とにかく現代は死が軽く描かれ過ぎると、だから私は敢えて一つの死がリアルに描かれる表現を選んだ、みたいなことを言っていた。有名なマンガだから知ってる人も多いと思うけど、その中では猟奇殺人の死体がこれでもかってぐらい出てくるわけです。いってみれば確信犯です。
僕は自分ではそういうことはあまり考える方ではありません。といっても他人のことではそんなことを思うこともある。例えば良く聞く話だけどマグロが切り身で海に泳いでいると思ってる人の話とか聞くと、ナントカせにゃあかんのではないかと思ったりもしないわけではありません。でもそれはあくまでも他人の話。自分が作品を作る上でそういうメッセージやら作為やらを持ち込もうとしたことは一度もありません。
自分の作品を作るときに思うのは自分にとって必要なリアリティです。なにか欲しいものや感じてることがまずあって、そこで感じているものは世間に対するナンタラなんてものではなく、そういう意識以前の身体的強度のようなものです。だいたい僕は表現にメッセージを持ち込むのは嫌いです。それは別の方法でやればいい。マグロの実態を知らせたければ新宿の駅前かなんかで解体パフォーマンスかなんかをやった方がずっと面白いし、一つの死がリアルに描かれることを望むなら一つの生をリアルに描く方がずっと有効だろうという気がします。平和の歌とかそういうのもメチャいかがわしい。We are the Worldとか出来れば聞きたくない。
なんか収集付かなくなりそうなのでもうやめますが、そのあとがき自体は悪くなかったのです。僕の紹介がいい加減だけどなるほどって感じで書かれている。でもそれと作品は別です。作品にメッセージなんて乗せるなぁ?!意味に頼るな?!といいたいだけです。
テロとか戦争とか飢餓とかのニュースを見るといつも困ります。そこには絶対的な距離があり過ぎるからです。へたしたら何千キロも遠くで起きている事件を知ってしまう、これって僕にとっては凄く困ることです。
昨日のこのコーナーで「これだけ通信技術が発達しているんだから、個人を世界中で支えることだって可能だ」ということを書きましたが、全く同じ理由によって困ることが起きているわけです。
なにが困るかというと、まず人間なんてそんなに多くを悲しんだり喜んだり出来ないものです。ニューヨークのテロだって「とんでもないことが起きてしまった」とその時は思うわけですが、自分の飼い猫が死んだときの方がメチャクチャ悲しいのはどうしようもありません。このギャップはどんなに技術が発達しても埋まらないものだし、埋まってしまったら誰も生きていくことなんて不可能になってしまいます。だって世界中では、たった今も沢山の人が死んで、沢山の人が生まれているのです。その全ての出来事に対していちいち気持ちを揺さぶられていたら、みんなブッ壊れちゃいます。だから普通は「重要」な出来事に対してだけ反応して、「重要じゃない」出来事は無視するように脳が情報を振り分けているわけです。そしてなにが「重要」かは一人一人違うものです。当たり前なはずなんだけど、事件が大事件であるほどこういうことって無視されがちで、ひどいときには個人を押し潰すほどの暴力になったりするのです。
世界が情報のネットワークで結ばれているのは事実だし、遠くで起きていることが、実際に自分の生活にどんな影響を及ぼすかという想像力を養うことの重要性だって理解できます。環境問題にしても拉致事件にしても、「他人事ではない」のは分かるんです。でもそれと同時に、その事件は「物理的に遠く」で起きているというのも事実です。
例えば家族が100メートル離れた家に住むだけでどれだけの変化が起きうるのかを考えてみて下さい。顔を合わせる時間だって減るし一緒にご飯を食べることもなくなる。この変化が離れた家族にとってどんな「重要性」の変化をもたらすのか。どんなに通信技術が発達したところでこういう変化が無くなるわけではないのです。
僕が困るのは遠くで起きている事件に対して自分がどのように反応していいのかわからなくなるからです。あんまり困るのでニュースを見るのはあまり好きではありません。それでもツインタワーが崩れる映像なんてやっぱり引き込まれてしまって、「もっと決定的で劇的な映像が見たい」というなんとも不謹慎な欲望を感じてしまったりして、そんな俺はとっても悪いヤツなのか?って、なりません?
こういう矛盾に世論も含めて楽に対応できるようになるのは、それが可能だとしてもずっと先のような気がします。
小学校6年生の時、将来の夢は漫画家になることだと卒業文集に書いた。でもそれは半分嘘だ。漫画家は友達の間で最もウケがよく、羨ましがられそうだという打算が働いていたのだ。別にマンガが嫌いなわけではないのだが、子供心にもあの省略された絵が好きになれなかったのだ。
その頃のスーパースターといえば「川崎のぼる」と「ちばてつや」だ。巨人の星と明日のジョー。カッコいいのはちばてつやでちゃんとしているのは川崎のぼる、というのが僕の感じたことだった。なぜ川崎のぼるがちゃんとしているかといえば、目の輪郭線がほぼ閉じている。指の関節のしわが必ず描かれているからだ。これは僕にとって凄く大事なことだった。目という半熟卵みたいなものと皮膚という肉を境界が曖昧に描くということが許せなかったのだ。だけどちばてつやの絵はどう見ても川崎のぼるの絵よりもカッコいい。このジレンマにどれだけ苦しんだことか。
結局この気持ちが解消されるためには鳥山明や大友克洋の登場を待たなければならなかった。その時にはもう高校生にもなろうという頃だ。今だったら寺田克也や田中達之や森本晃司がいて今のガキは幸せだなぁと思う。
しかし僕がガキの頃って、リッチなグラフィックがほんとに少なかった気がする。印象派の絵なんてさっきの例で言えばちばてつやみたいなものだからなんか許せない。そうなるといきなりルネッサンスぐらいまで(子供の情報源なんて限られてるし)遡ってしまう。でも古すぎてモチーフに親近感が持てないからなんかつまらない(ダ・ヴィンチのデッサンだけは例外だった)。絵本なんてほとんど問題外(ひとまねこざるやエルマーの冒険とかは好きだったけど日本のは全部嫌いだった)。その結果欲しいものに一番近いのが図鑑の絵と設計図というなんとも偏った趣味を持つようになってしまったというわけだ。
そういえば絵の予備校に通っていた頃、誰も「ちゃんと描かない」ということが不思議でしょうがなかった。そのことを先生に聞いたら「へたにちゃんと終わっているものよりも、良くなりそうだという可能性が感じられる未完の方がいいから」だと説明された。でも今考えると「あんた、そりゃ間違ってるよ」と言いたい。なぜなら生徒の方はそんな目で見られているということをちゃんと知っていて「ちゃんとしそうに見える未完をわざわざ目指す」という状態になるからだ。その結果そんな教育を受けた人間は、いつまで経っても自分の欲しいものを最終段階までイメージできない人間に育っていくのだ。
欲しいものを出来る限りリアルにイメージしそれを形にする。モノを作るってこれ以外の事なんてないように単純なのに、なんでこんなにくだらない偏見が多いんだろう。
ちょっと面白いサイトをめっけました。TRASHLOGというサイトで毎日拾ったゴミが展示してあります。現在のゴミは165個。
これ、かなり好みです。だいたい子供の頃からゴミ拾い大好きで(別にボランティアとかじゃなくて、宝物としてのゴミを探すのが大好き)、年中地面を眺めながら歩いていました。そしてそんな風に色んなゴミを見ているとその様々な表情に思わず引き込まれてしまうのです。
ゴミの魅力ってまずその質感です。子供の頃も、壊れたキーホルダーとかバッチとかを拾って、キレイに磨いてみたら魅力が無くなってガッカリした覚えがあります。擦れたり、泥がつまったり、日に焼けたりすることによって、本来あった以上の情報がそこに付加されて、別なものに変化してしまうのです。そして付加された情報はいろんな想像力を掻き立ててくれます。
なぜこんなに潰れちゃったんだろう?どんな人が持っていたんだろう?どれぐらいここにおかれていたんだろう?なんでこんなところにあるんだろう?これはいったいなんだろう?そりゃもう疑問の嵐、物語の宝庫、想像力の源泉、未知との遭遇、馬の耳に念仏ってなもんです。
ところでゴミは「社会的に価値がないからゴミ」といわれるわけで、これを楽しむということは、シェアピースのコラムで書いた「作品を楽しむ」事と全く同じですね。自分自身が発見しないところにはモノの価値はない。自分が発見することによって価値は生まれる。生きているって、結局これの連続なんだと思います。
きのうの宇宙人の話ですが、僕はどうも、ああゆうシチュエーションに過剰に反応するみたいです。
しかも肝があって、それは自分が決定的に一人になるということです。だから周りが宇宙人になるのでも、自分だけが怪物になるのでも同じように反応してしまいます。
BIOGRAPHYにも書いてありますが、変身モノが好きな理由はここにあるようです。僕の書いた唯一の絵本「みんなきえちゃえ」も変身モノではありませんが、ふとしたきっかけで自分が一人になってしまうという話でした。
思うのですが、世の中には二つの話があって、それは「誰かに出会う話」と「自分が一人になる話」なのではないでしょうか。これをエロス志向とタナトス志向と言い換えてもいいかもしれません。もちろん物語的にこれらが合体したものもあるでしょうけど、それは割と希有な存在だし、通奏低音としてはどちらかの立場に立って語られることが多いような気もします。
まあ、それはいいとして、この「自分が一人になる話」、タナトス志向の話ってネガティブにとられる事が多いと思うのですが、僕はそんなことはないと思っています。確かにネガティブに語られるだけでカッコつけのニヒリズムになっているものは多いですが、「自分が一人になる話」というモチーフが持つ普遍性と重要性は、もっとずっと深いし生きていく上でなくてはならない大事なものだと思うのです。
これを否定的に捕らえてしまうことは(もしくは色眼鏡で見てしまうことは)、ある意味自分が生きているという認識を半分放棄するようなものです。生物はほっといたって死に向かっているわけだし、そこでは幻想や逃避ではない「死の認識」を求めるのは、例え不可能であっても当然の要求であるはずです。偉い坊さん達もみんなこれを求めていたわけですし、安易な誘惑に負けない意志さえあれば、それはこれ以上ない冒険でもあるはずです。
スケール感にとても興味がある。
スケール=尺度、規模、縮尺、秤というような意味だけど、これほど頼りにされていながら、それとは逆にこれほど主観的な概念もないと思うのです。数学的定義においてはこれは厳密でなくてはならないけど、その厳密さも、一番曖昧なことを伝えるために厳密に成らざるをえなかったのではないかと思ってしまいます。
「どれぐらい?」
「これぐらい」
この二つのセリフの間には無限小の距離と無限大の距離があり得ます。そしてさらに面白いのはそれが無限小であれ無限大であれ「距離」が存在することには変わりがないということです。
僕はこの距離こそがリアリティの本質なのではないかと思うのです。距離がないということはあり得ないし、距離があるからこそコミュニケーションも生まれる。そしてコミュニケーションの目的は距離を埋めることではなく、距離を感じることなんじゃないかと思うのです。
距離を感じる。
ここではない何処か、自分ではない誰か。
この距離は疎外ではなく幸せです。
テレビでやってたマトリックスをつい見てしまいました。2度目ですが面白い。大好きです。
この映画ってそのテンションが命です。やる気ムンムンだし、格好良ければ何でもOK。どんな展開になっても絶対に退屈だけはさせないぜっていう作り込み。多少設定にあらが見えたり、ストーリーが子供ぽっくても、そんなことはたいした問題ではありません。
スターウォーズにもこんな所があります。こっちの場合はどれだけ異世界が作り込まれているのかが唯一で最高の見所です。お話なんてどうでもいいし、大したもんじゃありません。お話は見所を作り出すための方便に過ぎない。
でもこの二つの作品を比べた場合、僕は圧倒的にマトリックスの方が優れていると思います。マトリックスにあってスターウォーズにないモノ、それは映画という作品における時間的密度です。これは作品内リアリティではなく、作品そのもののリアリティの問題です。どういうことかというと、ここで言っている時間的密度とは、おそらく制作者の「思いの強さ」とか「情熱」とかの表れとしてしか表出しないモノであり、その表出の結果として作品に「奇跡的なオーラ」のようなモノが纏われるのです。
作品内リアリティとは言ってみればただのリアリズムですから金さえ掛ければどうにかなります。でも作品のリアリティはそうはいきません。作り手が「本気」じゃなかったら絶対実現しないものです。なんでも一緒ですけどね。
あ、別にスターウォーズも嫌いなわけじゃないですよ。
ガラージュページ完成度78%。現在のhtmlファイル140枚ぐらい。今日はもう少しやります。
ガラージュページ制作のために一通りのデータを眺め返したりしてます。
ところでガラージュは何もかも詰め込もうとして作っていました。「天国への自動階段」も同じようなことを考えていましたが、biographyにも書いてあるとおり、あれはどちらかというと「引用の集大成」みたいなものでした。ガラージュの場合は「何もかも」をさらにいったん全部ばらして、でっかい鍋にぶち込んで、ようく煮込まれたところで、一から組み直すような気持ちでやっていたんです。
本やゲームや映画という表現形式は、こんなやり方をする人間にはとても向いている表現形式だという気がします。
もともと絵を描いていても、祭壇画などの何枚もの絵が合わさって表現が完結する形式や、ひたすら続いていく絵巻物や、建物と一体化した壁画や屏風絵などに強く惹かれていました。このようなやり方は一枚の絵よりも、より過剰に虚構のリアリティ(もしくはリアリティに至るための虚構装置)を求めたときにはとても有効な方法だと思えます。
表現はそれが生成されるためのバックボーンを必要とします。日常がリアルな現実的強度に晒されているような世界では(狩猟採集時代とか)生活そのものがバックボーンとなるでしょう。でも現代のように現実的強度そのものが虚構的にしか生成されないような状況では、日常は表現のためのバックボーンにはなりません。そのような状況でバックボーンとなり得るのは、おそらく「病気」だけです。
(でも普通に使われている言葉としての「病気」では限界があります。そのように言ってしまうと表現とは「不幸」なものの特権となってしまうでしょう。たぶん病気とか不幸などの言葉を再定義する必要があるのです。もしくは病気や不幸に別の名前を与えるべきです)
「病気」をバックボーンとした表現は、「一枚の絵」ではない「ある世界に属した絵」に変化します。そこでのある世界とは表現者にとっての「何もかも」です。つまり個人がそれぞれに於いてキリスト教的世界観やら、狩猟採集時代的日常性やらに変わるような世界をを再構築するようなことになるのです。
お菓子とオモチャ。子供の大好きなものの双璧。
この二つに共通しているのって、敷居が低いって事だ。
お菓子の必須条件。食べやすい食感と気軽な形態。
オモチャの必須条件。程良いスケール感と気軽な操作性。
どちらにも怖いことがなくて、ナマの現実に存在するものに比べるとアクセスが容易で、とにかく「今の幸せ」がすぐに感じられるように発明されたものだという気がする。
クッキーをポクッと囓って、口の中に甘い味が広がってシャクシャクと噛み砕く。フワフワしたケーキをフォークに乗せてクリームを崩さないように運んでから、柔らかく溶けるのを楽しむ。あるいは小さな人形と自分も同じ大きさになったような気持ちになって、その人形の大きさで世界を眺めてみる。小さな自動車を自分が乗った気持ちになった手でドライブさせてみる。
こういう事を想像するだけでも、僕の中にはとても甘い気持ちが甦ってくる。それはたぶん古い音楽を聴くのと一緒で、それを体験していた頃の空間や当時の自分の存在がリアルに思い出されるからなのだろう。
でももちろん人はお菓子やオモチャだけで生きていけるわけではない。お菓子やオモチャが教えてくれたのは「世界の入口」に過ぎなくて、本物の自動車を運転することや本物の女の子と付き合うことや食べにくくて美味しい魚を食べることや微妙な味のキノコを楽しむことなんかがその先にはたくさんあるのだ。
しかし、お菓子やオモチャでもないとやってられない人がいっぱいいて、実際自分もそうで(酒もお菓子の内)、そこまで追いつめて(依存させて、あるいは自分から進んで依存して)しまう「今」ってなんなのでしょ。
インターネットも匿名性や距離感の無さや容易さを考えると明らかにオモチャやお菓子の同類だって気がするな。いいとか悪いとかの話じゃなくてね。
免許センターというところにいったのですが、奇妙なところでした。流山市という所にあるのですが、市とは言っても周りは畑や雑木林ばかり、そこにいきなりポストモダン(様々な時代の様式が引用されたりテクノロジーが「デザイン」になったりするようなやつ)な建物が建っています。お台場辺りに建っていれば目にも留まらないでしょうが、ここでは違和感バリバリです。
一歩中にはいるとおきまりに天井が高くあちこちに無駄な意匠が施されています。そして中には若いヤンキー兄ちゃんや管理職らしい年輩の人やOLや威勢の良さそうな鳶職人や妊婦の人や母親の付き添いで来ている25才ぐらいのお宅系の人など、そりゃもうよくもこの空間にこれだけバラバラな人が集まったもんだと思えるぐらい、いろんな人が無言で順番待ちなんかをしているわけです。たとえ電車の中や新宿辺りの街でもこの「平等さ加減」は実現しないでしょう。そしてこの薄ら寒い空間がその集団の「つながりの無さ」を強調して、なかなかにイイ味わいです。あまりに何もかもが嘘臭いのでまるでエドワード・ホッパーの絵を見ているような気がしてきます。
すると、そこにやけに存在感の強いおじいさんがいました。年はたぶん65才ぐらい。頭は白髪をキレイになでつけています。不潔な感じはしません。姿勢もしゃきっとしています。白いワイシャツを着て黒いズボンをはいています。ズボンはテカリがでていておまけにあちこち破れています。ミシンで丁寧に何カ所も縫ってありました。靴はナイキかオニツカかなんかのハイテクシューズ。全体が泥で茶色くなっています。肩からはかなり使い込まれた、感じのいい茶色の革のバッグを提げて、手にはベコベコになったステンレスの大きな魔法瓶式水筒。この組み合わせ、ただ者ではありません。一体何をしている人なんでしょうか。
僕はその人を見たとたん、それまで見ていた集団や建物が一気に相対化されるのを感じました。つまりそれまでの情報量よりも、このおじいさんひとりが持つ情報量の方がずっと多いように感じられたのです。
かっこいいーーー!たった一人でこの建物ごと相手にしちゃって、しかも屁でもないって感じです。人間かくありたいものです。
昨日の昼間、窓の外を眺めていたら、アブラゼミが飛んできて窓の外の蜘蛛の巣(蜘蛛は収穫効率の良い場所に巣を作りますので年がら年中電気のついているウチの窓は格好の巣作りポイントです)に捕まりそうになって危うく逃げていきました。
もし巣に引っかかっていたら「決定的瞬間」という感じです。でもよく考えてみるとこの言葉って妙な言葉です。一体何が決定的になることをもって決定的としているんでしょうか。例えばライオンがインパラを捕獲する瞬間。雷が今まさに大木を割った瞬間。ツインタワーに旅客機がつっこんだ瞬間、夕暮れの寂しい道に街灯が灯った瞬間、蝉の幼虫の背中が割れた瞬間。
そういえばガキの頃って、「決定的瞬間」を目撃するために自分は生きているんじゃないかと思うぐらい「決定的瞬間」を待ち望んでいたような気がします。それにガキじゃなくたって「決定的瞬間」は社会においてとんでもない価値を持っていて、莫大な利益を生み出したり、信じられないぐらいの変化を派生させたりしています。
つまり「決定的瞬間」における決定とは、総理大臣がいつもの文書に判子を押すような決定ではなくて、そのできごとによって、事の大小はともかく「当事者にとってそれまでの関係性が通用しなくなる」ような変化に対して決定的という表現が使われているんでしょうね。
それにしてもどれぐらいの変化をもって「決定的」とするのかということはいっさい謎のままです。だって関係性というものは常に「決定的」に変化しているものじゃないでしょうか。なのにこのような区分けがあるということは単純に人それぞれの「日常性の認識」によって「決定的」か否かの判断があるに過ぎないんですね。人って勝手です。
でも自分が死ぬ瞬間だけは、本人にとって最強の「決定的瞬間」ということは変わらないし、実際どうだかわかりませんが、おそらく自分が目撃者にはなれないだろうという認識の中では「決定的瞬間」の魅力はかなり普遍的だということは言えそうです。
最近割と人並みな時間帯で生活してます。
一月ほど前まではほぼ昼夜逆転の生活でした。朝方眠って昼過ぎに起きていたのです。
高校生になるぐらいの時までは、夜は永遠のように長くて、一晩の内に出きる事なんて想像もできないぐらいたくさんあると思っていました。そして実際にどんなことでも出来そうなほど濃密な時間であったような気がします。といってもここで言っている「どんなことでも」は気持ちの中での冒険の深さです。いってみれば「夜に包まれる」ような時間が流れていたんじゃないかと思うのです。夜は甘くて怖くて自由でひっそりしていて誰にも邪魔されなくて人恋しくて、とにかくとても魅力的な時間で大好きでした。
でもこのような「夜の魔術」も昼夜逆転の生活をしていたりするとどんどん失われてしまいます。楽しい夜につまらない仕事をするハメになるのは避けられないし、朝はあっという間にやってきます。ちょっとそれがつまんないんです。もう一度「夜に包まれる」ような感覚を取り戻してみたい。人並みな生活を送ったところでそれが取り戻せるとは思いませんが、きっかけぐらいはつかめそうな気もします。
猛烈に怪獣が好きだった。そして僕にとってのスーパースターはなんといっても初代ゴジラに限る。
あの今にも崩れそうな不細工な顔、なにも考えていないようでほんとになにも考えていない性格、今となってはマニアでもなんでもないが、あの映画のインパクトは僕の想像力や創作に多大な影響力を与えていると思う。
夢の中でのあいつは、いつも決まって遠くの方に現れる。ほとんどの場合ニュースか何かでその出現を知るのだが、いざ逃げようと思って外に出てみるともう目に見えるところまで近づいている。そしてどんな気まぐれからか僕の行くところへと必ず方向転換をして追ってくるのだ。足がもつれてうまく走ることが出来ない。しかし不思議なことに、距離が縮まる程あいつの体は小さくなっていって、僕は平屋の木造長屋に挟まれた狭い路地の間を逃げることになる、ついにはもう逃げられないとこまで追いつめられると、最後には「希望の家」(近くにあった孤児のための施設)の庭であいつはクリスマスツリーになってしまうのだ。
最初のイメージはまるで台風や竜巻から逃げているような感じで恐いは恐いのだけれど、どこか楽しんでいるような感じもする。一番恐いのは路地を逃げているときだ。5メートルから10メートルぐらいのゴジラはほんとに恐い。みんなの敵じゃなくて自分の敵だという感じ。僕を食べたい、僕が憎いと思われている感じ。50メートルだったら一対一にならなくてすみそうなのに、そんなに程良い大きさになられてしまったら、一対一に成らざるをえない。
そういえば僕はパトカーの出てくる映画が嫌いだ。どんなにいい映画でもパトカーが出てくると、損したような気持ちになる。理由はいくつかあるけれど、一番大きな理由は一対一の感じがしなくなるからだ。
子供が主人公で小さいゴジラ(別にゴジラじゃなくてもいいけど)が出てくるほんとに恐くて切ない映画を作ってみたい。
クラフトエヴィング商會という人たちが作った「クラウドコレクター」という本を眺めていた。
架空博物誌的な本で、オリジナルオブジェや文で構成されていて、魅力的だしかなりオシャレだ。こういうものは嫌いではない。自分でも似たようなことはやりたいと思ったこともある。でも、ナンカなぁ、なんである。出来はいいし雰囲気もいいし作りも丁寧だし、文は拾い読みしかしてないけどいかにもな文体で書かれていて、もし自分が中学生ぐらいの時に出会っていたらハマっていただろうと思える。しかし何かが足りない。しかもそれは決定的な何かだ。
この足りなさは、例えば澁澤龍彦にも感じていたものだ。漫画家で言えばたむらしげる、ますむらひろし、(他にもいくらでも思いつくけど嫌みになりそうなのでこれぐらいにしておく)どれにも共通して「何か」が足りないのだ。
たぶんこれらの作家達は「世界の手前」でモノを作っているのではないかと思える。例えば似たような系列で語られる作家に宮沢賢治があげられるのではないかと思うのだが、ほとんど似たような手法を採りながらも彼にはこのような感じは受けない。つまり「世界の手前」にとどまっているような感じがしないのだ。
「世界の手前」とはつまり子供の視点と言い換えることもできると思う。でもここで注意しなくてはならないのは、この「子供」とは「消費者としての子供」に限定された子供であるということだ。「消費者としての子供」は自分から何も作り出すことはない。彼らは新鮮な好奇の目を持ってコレクトするかコレクトできない場合には憧れの気持ちを育てるのである。もっと分かりやすい言い方をすれば、人のふんどしで相撲を取っているということだ。しかし世の中に氾濫するほとんどのイラストレーションやほとんどの音楽やほとんどの読み物が人のふんどしで作られているし、別にそれはそれでいいのだ。そもそも僕は人のふんどしで相撲を取るのはモノを作るときの基本だろうとさえ思っているのだから。
しかしである。それしか無いというは困る。それと人のふんどしで作られたモノが必要以上に祭り上げられるのもつまらない。子供は子供でいたっていいけど、子供しかいないというのはどう考えたって異常だよ。よく現代市場を説明するときに「差異の再生産」という単語が使われるけど、これは要するに人のふんどしで勝負することを表しているわけで、ちょっと前まで美術の世界でいわれていた「新しいものなどない」って事は、人のふんどしの限界のことを言っていたに過ぎないと思える。つまり誰もが「世界の手前」で子供だったということだ。さらに困ったことには誰もが「世界の手前の子供」になりたがっているのだ。
もっと「世界の中心」にいたい。それのが絶対面白いって。