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エンジニアリングがアートになるためには
エンジニアリングは粗暴すぎる

アートがエンジニアリングになるためには
アートは空疎すぎる

その間にはデザインがいるかもしれないが
デザインは幼すぎる

それらを結ぶのはおそらく
ヒューマニズムでも哲学でも科学でも感情でもない

生命の躍動を伴った身体性だけが
それらの要素を溶かし込むことができるのだろう

自分の言葉をしゃべらない人達、自分の体を使わない人達、自分で発見することを止めた人達がやたらに目に付いて憂鬱この上ない。ニュースのコメントだの、SNSの投稿だののほとんどがそんな人達の発言や行動で埋められている。そしてそんな人達を集めるために、これ見よがしに媚びた記事が次々とアップされている。それどころか、そんな状況にいい気になった選ばれた人達が図に乗りまくっている。でもこんなことを言ったところで、当の本人たちは微塵もそんなことは思っていなくて、自分たちは新しい真実に満たされていて、自分の口を使ってそのことを他人に伝えることが出来る事実に酔いしれている。そしてそんなやり方があるんだと目覚めた人達が次々と後を追っていく。

問題なのは何を言うかではない。何をするかではない。そのようなことを問題にしている限りは、永遠に同じことが繰り返されるのだろうと思う。社会的な正しさだの、歴史的な正しさだの、科学的な正しさだのはどうでもいい。極論を言ってしまえば、そんなことはまったく問題にすべきではない。問題にすべきなのは、それを言う人、その行動をとる人、そのテクノロジーをたどる人々が、自分の中のどの部分からその言葉を導き出し、行動をはじめ、テクノロジーに向き合うかなのだ。

どんなに何度もの繰り返しに耐えるような原理であろうとも、誰が見ても真理だとしか思えないような事柄であろうとも、その原理や真理は、そこに向き合わない人々にとっては外部であり続ける。その原理や真理に触れるために、たくさんの時間を費やし、挫折し、また立ち上がり、何度も何度も挑戦した人だけが、その原理や真理の力を知ることが出来る。それはどれほどの知恵や知識を積み上げても、その時間や工程を短縮することは不可能なのだ。そしてそのような方法論は、少しも特別なものではない。少なくとも誰もが、幼い時には実践していたはずの方法論なのだ。

幼い時にはあったのに、成長とともに失われたものは何かといえば、それは孤独だ。幼さは孤独を隠蔽するすべを知らないが、人は成長とともに孤独を隠蔽するすべを学んでいく。孤独は無くならないが、限定的に忘却することは可能だからだ。しかし、限定的な忘却のための暴力ほど醜いものは無い。その暴力の現場からは、暴力を振るう本人さえも疎外されているからだ。そんなに簡単に解決も答えも見つかるわけが無いではないか。

言葉もテクノロジーだけど、こういう人々はテクノロジーを甘く見すぎている。テクノロジーってものが、歴史的に集積された、いつでもアクセス可能で、自分の労力を軽減してくれる、決して仕返しされることの無い、甘いお菓子の山だとでも思っているのだろう、きっと。しかしテクノロジーは自分から近づかない限りは、決してその分け前を自分に与えてはくれない。少なくとも、私の身体は、テクノロジーの外部であり続ける。それはつまり、共同体の外部ではあっという間に死んでしまうような存在であるということであり、さらに言えば、共同体から必要とされない存在であり続けるということだ。

おそらく今の現状は、この”共同体から必要とされていない多数”という幻想が共有されているのだということは想像に難くない。そしてその前提には、現在の共同体が、共同体として機能していないことの認識が共有されているのだということもわかる。だったら尚更、言葉を選ばないといけない。自分の声で発言しないといけない。自分の身体を開放しないといけない。孤独の隠蔽なしにそれをしないといけない。そうでない言葉や行動は、死にかけた共同体を延命するだけだ。

29歳の時に本を一冊書いた。「天国への自動階段」という本だ。24年前のことだ。今読んだら恥ずかしいことこの上ない本だけど、真摯である事の嘘と、流される現実と、犯される欲望に対して、出来る限り軽く、永続性を排除して、精一杯の抵抗をこめた内容ではあった。

その本には実はもう一つのタイトルの候補があった。それが「REPLICA」だ。つまり複製だ。
「天国への自動階段」の主人公は複製の文化とコミュニケーションにどっぷりと浸かっていて、その、ありモノの中で、使い尽くされた感情と言葉と身体感覚でもって、なんとか使い尽くされた世界の向こう側に行こうとするのだけど、その行為はどこまでいってもヌルっと逃げていくリアリティに裏切られてしまう。どんなにクールに振舞おうとも、どんなにそつなくかわそうとも、どんなにスマートに昇華しようとも、どんなにおちゃらけようとも、どんなに斜に構えようとも、その感覚からは逃れることは出来ない。その苛立ちがあの一冊を書かせたような気がする。

で、最近思うことは、この状況はとんでもなく加速しているんだなということだ。とくにネットにおけるSNSやゲームの状況をみると、取り返しがつかないぐらい酷い状況になっているように見える。どれだけ複製されたかが誰にもわかるように可視化出来るようになったことで、複製することと、複製されることへの欲望はかつて無いほど膨れ上がっている。その世界では、複製出来る能力と、共感と嫉妬(どっちも同じだ)による他者による再生産の出来高によって、アイデンティティと価値が測られる。

たくさん複製できる人と、たくさん複製される人が偉いのだ。
それ以外の価値は無い。
全てのものは、たくさん複製するために、たくさん複製されるために作られる。
いかにしたらたくさん複製できるか、いかにしたらたくさん複製されるか、それだけが重要なのだ。
誰もが、たくさん複製できる人、たくさん複製される人になりたがっている。

なぜそうなるのだろうと思う。
その一つの理由は、それが富そのものであるからだろう。
富というのは同じものが潤沢にあることだ。富というのは希少なものが嫉妬によって羨望されることだ。

もう一つの理由は、コミュニケーションが失われた共同体において複製にしか逃げ道が無いからだろう。機能していない、内側に空洞しかない共同体は、どんなに言葉と憎悪を尽くそうともその求心力を取り戻すことは出来ない。その言葉と憎悪そのものが複製になってしまう。共同体は複製の内側における一つの約束に過ぎない。規律や法律が限りなく複雑化するのも、共同体が複製文化の内側にあるからである様に思える。

複製を拒絶するのは怖ろしく困難だろう。
その為には嘘の共同体と、嘘の富を拒絶しなければならないからだ。
複製を受容しさせえすれば今日をやり過ごせるからだ。
複製は飢えを和らげてくれる。複製は身体を忘れさせてくれる。複製は自分を見ないで居させてくれる。複製は身体を使わないで居させてくれる。

それが望みなら、既に未来は実現している。もう充分だと思う。
でも死は簡単にやってくる。あっけなくやってくる。誰にでも。
その時に複製は役に立たない。これだけは確実だ。
自分の死は誰にも複製できない。

ずっと絵をかいていたいと思う人は
その思いによって押しつぶされるだろう。

ずっと誰かと一緒にいたいと思う人も
ずっと楽でいたいと思う人も
ずっと好きなことだけをしていたいと思う人も
ずっと誠実でいたいと思う人も
ずっと欲望に従いたいと思う人も
ずっと全てから離れていたいと思う人も
ずっと何事も無くすごしたいと思う人も
ずっと平和であって欲しいと思う人も
ずっと喧騒が続けばいいと思っている人も
ずっと穏やかでありたいと思う人も

なんであれ
ずっとを
いつまでもを
求める限りは
押しつぶされるのだ

運動に従う
と言うのは易いけれど
運動は
ずっとも
いつまでもも
受け容れてはくれない
ということが受け容れられないがゆえに

最初は
そんなことは思っていなかったはずだ
ずっとも
いつまでもも

誰も

人と人とは近づきすぎた
あるいは
人と人とは離れすぎた

人と人とは依存しすぎた
あるいは
人と人とは排除しすぎた

人と人とは触れ合わなすぎた
あるいは
人と人とは馴れ馴れしすぎた

人と人とは無視しすぎた
あるいは
人と人とは求めすぎた


なぜその距離が測れないのか
なぜその温度が感じられないのか
なぜその音が聴けないのか
なぜその予感が感じられないのか

なぜ手を伸ばさないのか
なぜ許さないのか
なぜ出会わないのか

出会い続けているにもかかわらず
なぜ未来になってしまうのか

未来は明るい地獄だ
限りなく明るい布団の中だ

あなたを引き裂く人はそこには居ない。
私を引き裂く人はそこには居ない。
誰もが自分を本当に引き裂いている人を見ようとせずに
見当違いな人に責任を負わせようとする。

クソみたいなロマンティシズムで世界は回っている。
誰もがクソみたいなロマンティックマシンの歯車だ。
ロマンティックマシンは嫉妬と恨みと人工的な幼さをエネルギーにして回るのだ。
欲情は勃起や股間の充血から離れ
脳髄に血液を供給することで欲情という役者を演じるようになった。
パンパンに膨れ上がった脳みそは筋違いな役割にウンザリして弾けることを夢見るようになる。
いつか弾けるその日を夢見るだけで永遠の生が約束される。

準備することなんてしない。
備えたって、決定的な何かが起きないように生きるならば、意味なんて無い。
例えその決定的な何かが起きたところで、
準備さえしていなければ、なんの問題も無い。
だって、それは不測の出来事なのだから。
そうやって回るのだ。このロマンティックマシンは。

それなのに
誰もが引き裂かれている。
誰もが見ようとしないものによって。
その対象はすぐ目の前にあるのに。
それに気づこうとしないことだけが賢さであるように関係性が築かれる。

脅威も恐怖も流れも空間も温度も重力も何も無い。
無いわけが無いのに
血流を送られすぎた脳はそれを無いものにしたがるのだ。

そろそろ止めてもいいんじゃないの?
と誰かが囁く。
でも誰も言うことを聞かない。
誰もの耳元でそれを囁いているのは誰なのか?

今日も聞こえる。
そろそろ止めてもいいんじゃないの?

決められるのは私だけだ。

一般的に明るければ明るいほど、人は外向的になり活動的になる。つまり、肉体的な活動範囲が広まり、精神的な活動範囲が狭められる。そして、暗ければ暗いほど、人は内向的になり、肉体的な運動範囲が狭まり、内部への指向性は高まる。これは生理的な反応だ。外部への興味や欲望をより長い時間保ちたいと思うならば、日が沈んでも電気や熱エネルギーを使って、暗くなった空間を照らせば、その欲望のテンションは容易に保つことが出来る。内部への興味や欲望をより長い時間保ちたいと思うならば、明るい昼間でもカーテンや目隠しを利用して明るい空間を遮断すればよい。

こう書くとあまりにも自明すぎて、そんなの当たり前じゃん、と、思ってしまうのだけど、この当たり前すぎる認識はニュートラルには働いていない。現代においては。ニュートラルではないということは、恣意的であるということだ。恣意的であるということは、少なからず、個体的な生理ではない、集団の志向性がそこに影響しているということを意味する。

コンビニやドラッグストや街灯の煌々たる輝きは、意図の無いものではない。そこには人を常に外部への志向性を保ったままにしておきたいという、市場経済的な恣意的ベクトルが働いている。こうして、深夜の1:42にこんな文章を書いている状況なんてものは、まさにそんな集団的恣意性の結果なのだ。

夜を夜のままに、その暗さによって活動範囲を狭めれば、身体は本来の内側への指向性を取り戻し、夜がもたらす内部へのダイブを、より容易に実行することが出来る。なぜ、その恩恵を捨ててまで夜を明るくする必要があるのだろうか。

いつでも好きな時間に、内部への指向性と外部への指向性を切り替えることが出来るということは、近代以降、贅沢の象徴の一つだったのだと思う。それを自由に切り替えることが出来れば、どれほど人間は自由になることが出来るだろう、そんな風に思われていて、今でもその考えは有効であるように思われている。でも、その効力や有用性って、たかが知れているし、大した実効性は無いんじゃないかと思うのだ。薬物みたいなもんで。そういう意味ではエネルギーもまさにドラッグそのものだ。ドラッグというのは、単なる、時間とスピードと密度における、ちょっとした歪みの効果に過ぎないからだ。決定的で致命的な効果はマイナスにしか働かない。それが自分にとってのドラッグの定義だ。

昼間に活動し、夜にエネルギーを使わないことで、外部への指向性と内部への指向性は最大化される。おそらく間違っていないと思うのだけど、これを実践することが困難であることの不条理を解消するためのハードルが多すぎることに、今更ながら呆れている。

覚悟が無かったら何も出来ない。この単純な事実が、時によっては受け入れるのが難しかったりする。頭は、「こんな状況で覚悟を決めていいんだろうか?」とか「何も今覚悟を決めて無くても…」という、どうしようも無い疑問を発しまくるからだ。

もっと具体的に言えば、こんなに収入が少ないのに、とか、こんなに毎日被爆し続けているのに、とか、こんなに何も知らないのに、とか、こんなに何も出来たことがないのに、とか、こんなにみんながバカなのに、とか、こんなに何をやっても甲斐がないのに、とか、とにかくそこには、あらゆる理由が付与され得る、とってもぬるい温床だったりしてしまうのだ。

しかしその決断の決め手は自分ではないのだ。自分が生きてきたプロセスの必然でしかないのだ。良いも悪いも無いのだ。そして、その必要とされる覚悟が何のための覚悟かといえば、自分が今出来ることを実現する為の、とってもプライベートで、とっても密やかな、単純な覚悟でしかないのだ。

それを覚悟することは誰にとっても難しいことではない。なのにその覚悟を人は遠ざけてしまう。難しいことではないのに。たぶんその理由は、人がプロセスに関わることを忌み嫌うようになったからなのだろう。プロセスに関わることこそが生きることなのに。

プロセスというのは昆虫の完全変態のようなものだ。そこには奇跡がある。凝縮された時間と変身の秘密に満ちている。それを体験することが、どれほど心を躍らせることかは誰もが知っている。そのリスクを受け入れずに、他にどんなリスクを受け入れる価値があるのだろう。

昔、たぶん20年ぐらい前に、精神の構造を階層化して認識できれば、エゴイズムからの離脱への方法論の確立とか、認識の精度の向上とか、もっと露骨に言ってしまえば、外界に対する愛のレッスンが出来るのではないかと考え、本気でそう信じて、何年もそのことばかりを考えていた。

スーパーエゴだのハイパーエゴだの、メカニズムとしての精神だの、その認識に近づくための方法論としての瞑想だの、深層意識を引き出すための過激な身体技術だのを試してみたりもして、もうまるで一人カルトのように突っ走っていたのだった。

その経験や思い込みが無駄だったとは少しも思っていないし、その経験によって、まるでその時とは正反対に、精度の悪い認識や、未分化な精神構造に対して、寛容であるどころか、自分もずっとその未分化の中に居続けること、その覚悟を決めることが、逆にあの時に求めていた自分の答えに近いんだと思うようになった。

エゴイズムのエゴとはエゴなんかではなく、エゴイズムという定義そのものがエゴイズムなんだから、エゴイストといわれる人は、全然エゴイストなんかじゃないのかもしれない。エゴイスティックな、そのように今の社会で定義される運動というものがある。その運動を生成する欲望の拠り所がどこにあるかだけが問題なのだろう。その運動はどのように欲情されたのか。その欲情が身体的で生物的ある限りにおいては、その運動に対して社会は寛容であるべきだと思う。

しかし、生物的でない欲情がどこにあるのか。生物的でない欲情は呪いと呼ばれている。たぶん。ほとんど全ての人間は呪いを抱えている。例えば今起きている戦争は、抱え続けている呪いをその理由としている。もっと小さい呪いは、あるいはより深刻に親子の間で生成され続けている。そして呪いは代々引き継がれる。呪いから逃れるのはとても困難だ。誰もが一生をかけて呪いに挑んで死んでいくのだ。そしてほとんど誰もが、その試みに失敗するのだ。呪いを解くには人生は短いのかもしれない。でもそれが長いか短いかはどうでもいい事だ。それを長いというのも短いというのも他人だけだからだ。自分には長いも短いもない。自我の未熟さにもかかわらず、身体は成熟している。その成熟した身体が長いも短いも無いよ、ということを教えてくれる。だから安心して呪いを解くという物語に専念すればいいのだ。

この物語の中では、精神の階層も、認識の精度も、ただのツールになるだろう。そしてツールというものは、そのように機能している時にだけ美しさを発揮する。

リアリティが個人的なものだということにずっと納得していなかった。バカみたいだけど、本当のことだ。今でもそれを納得できているかというと怪しいぐらいなのだ。ほんとに俺はバカなんじゃないかと思う。いや、ほんとにバカなんだろうけど。

だって、こんなに嬉しいのに、こんなにワクワクするのに、こんなに衝撃的なのに、こんなに美しいのに、こんなに真摯なのに、なぜそれが人に伝わらないわけがあろうかと、ずっと思ってきたのだ。これほどのものが他人に伝わらないなんて、それは他人が悪いんであって、そいつがどうかしているだけなんだと思っていたのだった。ああ、本当に俺はバカだった。

でも実際は他人はバカじゃないらしい。バカなのは俺だけだ。どんなに美しいものであれ、どんなにワクワクするものであれ、それはあくまでも俺の個人的な経験であって、なんの普遍性も持っていないのだ。だが、ここで折れたままで居る訳には行かないのも事実だ。それはどういうことかと言えば、俺のこのリアリティは、どんなに少なく見積もっても、俺にとってはリアルであるという事実が残るからだ。そしてそれは、俺にとってはリアルであるという事の以下でも以上でもないということだ。

ある時には共感が得られるだろう。ある時には無視されるだろう。しかしどんな反応があろうとも、それは良くて勘違い、悪くすれば戦いのネタにされるのがせいぜいだ。だから俺のワクワクは俺だけのものだ、そうしておくのだ。そして1人で作るか叫ぶのだ。自分のためでさえなく。このワクワクの為に。

ヒューマニズムについて柄にも無く考えていた。それを考えないといけない場所に立たされてしまった気がしたから。そしてその厄介さに呆れた。どれだけの正当でありたいという思いがその場所を微動だに出来ないぐらい重くしていることか。そして、そこから接線方向に飛び出したいと願うなら、考えないといけないことは範囲なんだと思った。個人が管理できる範囲。一匹の生物としてかかわることが出来る範囲。それはどれほどテクノロジーが仮想的に個人の範囲を広げようとも大した違いは無いのだと思える。共同体は、例えばネットワークによって無限に近いほど拡大されていると同時に、あらゆる無意識的な規律によってこれ以上狭めることが出来ないほど縮小している。その意味するところは適正な中間領域は失われているということだ。引き裂かれることに耐えることが出来る閾値には限界が当然ある。20世紀的なテクノロジーはその限界をいたずらに試したのだ、きっと。その過激さは、ある時には資本の展開における効率の追求であり、スポーツにおける成績であり、芸術における闇の表出であり、ファッションにおける基盤の無い祝祭であったりしたのだ。そのような状況から見えてくるのは「個人における範囲」という言葉には時間と身体が決定的に不足しいるということになる気がする。人間は人間に反応し人間を大事に思う。それは生物として正しい。ただし、人間が人間全体に対してそのように出来るとは思えない。なぜなら「人間全体」というものが仮想的な幻想でしかないからだ。そして同じように環境という概念も同じ根っこを持つ幻想だ。それはどちらも驕りなのだと思う。

回避できる危機を回避しないのは生物として間違っている。

静かで凶悪な暴力は
いつも裏側で自覚のないままに行使される。

人工的な放射性物質を含んだ雨にも
誰であれ、誰にでも
「罪」という概念を押し付ける必要はない。
それは重要ではない。
次に何を選択するべきかということに比べるなら。

憎しみを持たないで生きたいと思う。
憎しみは自分をも傷つける。
怯えないで生きたいと思う。
怯えは硬直を生む。
悲しみや怒りに取り込まれないように生きたいと思う。
その水は息苦しさを生む。

そのためなら、多少の不条理は問題にしない。
正しさのための正しさはどうでもいい。
その判断が他人にとってどんなに愚かに映ろうともどうでもいい。
大事なことはそこにはない。

永遠の反語をずっと考えていた。
それはおそらく、メンテナンスかコミュニケーションだ。
刹那では決して無い。そこに刹那を対比させるのは安易過ぎる。
そしてそう言った時に想定されている状況は新しい永遠なのだ。

肉体における病の多様性と同じように、心においても風邪があり、癌があり、骨折があり、捻挫があり、打撲があり、内臓疾患があり、血行不良があり、硬直があり、運動不足がある。そしてそれらの症状は、肉体と同じように全て異なる。

しかし、やはり肉体と同じように、それらに遭遇しないようにすればいいというものではないのだ。そんな過保護は糞だ。なぜなら、肉体におけるのと同じように、不可避性のフィールドこそがリアリティだからなのだ。不可避性のフィールドがなければ学習は存在しない。失敗も存在しない。成功も存在しない、技術も存在しない、愛も存在しない。コミュニケーションも存在しない。治癒も存在しない。

誰もが分類の闇から抜け出すことが出来ないでいる。分類の闇とは正しさの基準の根ざすところだ。正しくありたいという欲望が闇を深くしていくのだ。その正しさは存在しない自分の中の他者に向けられている。それは自分の欲望が作り出した沼以外のものであるとは思えない。そしてそこまで思っても、この底なしの沼から自分が抜け出せているかと言えば、いまだにその沼は俺の両足を掴んでいるのだ。

遠くはすぐそこにある。その遠くは目の前に生えている一枚の葉っぱが風に揺られた時に運ばれてくる。その葉っぱが風に吹かれて枝から離れた瞬間にやってくる、その枝から離れた葉っぱが肩に落ちた瞬間にやってくる。肩に落ちた葉っぱが足元に落ちた瞬間にやってくる。足元に落ちた葉っぱが美しい蛾に止まられた瞬間にやってくる。そしてその葉っぱを踏みしめた瞬間に、踏みしめられて土となり、枯葉であることやめて新しい芽となり、音もしない柔らかさをまとった時にやってくる。

遠くはいつも見出されるのを待っている。でもいつも僕はそれを望みながら遠くを遠ざけている。
遠くに近づきたい。もっと近づきたい。

警鐘なんて鳴らしたくない。
なぜなら警鐘は、鳴らすべく定められた出来事が起きた後にしか鳴らすことが出来ないからだ。
そんな警鐘に比べれば、嘘かもしれない孤独な思いつきの方がずっとリアルだ。

しかしこの物言いは、昨日の日記には反しているな。ダメじゃん。

なにが好きか、なにに情熱を感じるのか、なにをしたいか、なにをしたか、ということに比べれば
なにが嫌いか、なにがつまらないか、なにがしたくないのか、なにがなされなかったのか、
なんてことは
一億分の一の価値も無い。そう自分に戒めておく。
批評や検分や恨みや正当性の証明に費やすには、
たぶん人生は誰にとっても短すぎるのだ。

昔からずっとスケール感に興味を持っている。このスケール感というのは自分にとって物凄い広い意味を持っていて、それは単なる模型的な意味での縮尺率のことでもないし、雄大さや窮屈さを表すようなスケール感とも違う。そこには例えば、流れている時間のスケール感や、そのスケールの基準がどのような社会性によって定義されているのかとか、そのスケールを成立させている技術レベルがどのように保たれているのかといった事が全て含まれてくる。その上で、自分が惹かれるスケール感というのがって、それをずっと求めているような気がしている。

しかしそんな自分が求めているスケール感というものが、滅多に見つからないぐらいレアなものであるかというとそんなことはない。そのスケール感は日々の散歩の中でも、スーパーの陳列棚の中にでも、寺院の着飾ったお地蔵さんにも、子供が遊んだ砂場の残骸にも見出すことが出来る。しかしそれらに共通する特徴というのがあって、それはどれも儚いということだ。しかもその儚さはそのスケール感の本質では全く無いのだ。つまり自分が追い求めているスケール感は、それ以外のスケール感に比べると、評価が定まっておらず、言語化しづらく、共有されづらいようなスケール感であるということだ。

だが、その自分が魅力を感じ、追い求めているそのスケール感は、そんな風に儚い状態に置かれていてはいけない重要な価値を持っていると思えてしょうがないのだ。

そのスケール感は例えば、善悪の手前でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、他者の眼が届かないところでのみ実現される。
そのスケール感は例えば、比較の手前でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、蓄えに依存しない時にのみ実現される。
そのスケール感は例えば、時間を計ることが無意味な世界でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、制限が制限で無くなった世界でのみ実現される。
そのスケール感は例えば、感情の向こう岸で実現される。

そしてこのようにいくら条件を並べ立てたところで、その定義は狭まるどころか広まるばかりだ。それぐらいそのスケール感を成立させる欲望は当たり前に存在しているものなのだ。

自分がある映像なり表現なりを見たときに、どうしても惹かれてしまう傾向というのがあって、それは身体性が後付の機材によって拡張されていたり、制限されていたりするものだったりする。

拡張性ということで言えば一番わかりやすいのは乗り物だ。レーダーや望遠鏡やメガネや補聴器や、さらに拡大していけばそれは建築物や都市にまで行き着く。しかしそこで惹かれてしまう本質のことを考えると、実は拡張することのために犠牲にされている、制限された身体にあるような気がしてしまう。

制限された身体性といえば、目隠しや、ボンデージファッションや、矯正器具などの医療用器具が思い浮かぶ。ここでのイメージの行き着くところにはには死体や病気も含まれてくる。しかしこちらでも、惹かれてしまう本質のことを考えると、実は制限されていることによって開放されている精神性に魅力を感じているような気がしてしまう。

そうなってくるとどっちが本質かとか、何が究極かとかどうでも良くなってしまうのだ。つまり一見拡張に見えるものは、身体的制限を前提とした精神的万能感の獲得であり、一見制限に見えるものは精神的制限を前提とした身体的万能感の獲得であり、おそらくそのどちらの場合にも、ある外部としての機材を必要とする、もしくは欲望する状況というのが前提としてあって、その前提となっている精神状態が、なにか心の奥にしまってあるものをかきむしるのだ。

そのかきむしる何か、その暴力的なまでの何か、拡張したり制限したりすることによって見えてくる何か、その状態に惹かれているんだろうと思う。

飛躍する。

それはたぶん春の狂騒だ。
悲しみも情熱も春の狂騒なのだ。
暖かく咲き乱れる喜びを乱用しまくった爛れたゴミだ。
だが、そんなゴミが好きなのだ。
そしてそのゴミは、ゴミにしか見えないようにあるときにだけ最も美しい。

実用性と利益のためにどれほどの機械が堕落したことだろう。
堕落した機械に囲まれることをどれだけの人が望んでいることだろう。
欲望を地に着かせることが何とわかりにくくなっていることだろう。

おそらく、機械がもたらす喜びとは
身体の軽くなり始めた子供が
初めてジャンプする喜び以上のものではないのだ。

リアリティを求めている、と思っていた。
だがリアリティとは疎外感の別名であると思った。

自分に起きた出来事がリアルであると感じる時
そこには必ずカタルシスがある。
カタルシスは治癒を伴うからカタルシスなのだ。

そこで何から治癒されるのかを考えると
それは過去に属する特定の事象からの解放として治癒が経験されている。

リアリティとは、あるサイクルの因果関係の一側面に過ぎない。
だからと言って
その一側面を貶めたいわけではない。

ただそれが一側面であることを知る事はとても重要なことのように感じる。

サイクルが澱む時には腐敗が始まる
腐敗を起こさないようにリアリティが働くようにすればいいだけの話だ。

自転車に乗る人は自転車を見るだけでも楽しみを感じるだろう。
その楽しみは、自分が自転車に乗っていることを想像できるからであり、そしてさらに見惚れるような人は、その自転車を構成している部品が、自分にとってどんな体験をもたらしてくれるかを想像して、見ることをさらに充実させるだろう。

同じことが絵画や映画にも言える。
いつもの散歩道を描いた一枚の絵は、いつも散歩をしている経験が共有出来る人にとっては楽しめる絵になるだろう。毎日を初めて生きるように過ごした経験がある人にとっては、毎日を初めて過ごすことを表現した映画は楽しめるものになるだろう。

そのように表現は過去に属するが、しかし本当の表現は、見ることの、聞くことの、感じることの、味わうことの、

手前にあるのだ。

大事なことは常に手前にあるのだ。

ではその手前は表現に見えないかって?
とんでもない。
誰もがその手前を見て勇気を貰い喜びを感じているはずだ。
それが表現じゃないなんて、ほんとにとんでもない。

美しさとは実践されることだ。
そしてそのような美しさは捉えられることを拒否する。
既に実践されたことの解釈なんてどうでもいい。
その捉えられない一瞬を誰もが求めているに過ぎない。
なのにその薄皮一枚の、
薄皮さえもないような、しかし厳然たる壁を超えたくて(それはおそらく認識と言う壁だ。
今日も歩き、手を動かし、食べ物を口に運び、まぐわい、言葉を浪費する。

しかしそれでも欲しいものは既に実現している。
未来を延期するのは人類の特権だ。
あるいは人類の病気だ。

幼さが膨れ上がっている。
幼さが祭り上げられている。
幼さが檻の中に閉じ込められている。
幼さが暴走している。

現代から幼さを取り除いたら、それは現代とはいえないぐらい、
幼さが時代を支配している。
そんな風に思えてしょうがない。

トヨタのリコール問題も、児童ポルノ問題も、モンスターペアレンツも、子供手当ても、捕鯨問題も、環境保護も、全て幼さを巡っている。

昔は「大人は真実を隠している」と子供に思われていた。しかし実際には、真実を隠している大人なんてどこにもいない、というのが真実だった。もっと言えば隠すべき真実なんてどこにもありはしない。それなのに、一体何を隠そうというのか。

今の大人は、子供に真実を見出そうとしている。しかし、真実を生きている子供なんてどこにも居ない。もっと言えば、真実を生きる子供はあらかじめ否定されている。否定しているのは見出そうとしている観察者本人だ。その構図の中心にあるのが幼さだ。幼さを分類してはいけない。幼さを祭り上げてはいけない。それは幻想に過ぎない。そして幼さを否定してもいけない。

暴力と幻想はいつも仲良しだ。
それはそれでいい。
虚構的資本構造にとってさえ、というより、そんなものにとってこそ、幻想は原動力なのだ。きっと。

便利さや豊かさは、人をすぐに慣らす。
しかし、その便利さや豊かさは、非常に限定された範囲における便利さであり豊かさだ。
同じように、貧しさや不便さだって人を慣らす。
それもまた、限定された範囲における貧しさであり不便さなのだ。

便利かどうか、豊かかどうか、
その価値基準こそが幼さなのだ。
そして、その限られた便利さなり豊かさなりの中にしか、現代における人格だとか人権だとかの幻想は生きていけないように作られているのだ。

なぜそれほどまでに、幼さという名の純粋だの無垢だのを求めるのかと言えば、それは、それぞれの自分自身の過去を取り戻したいからに他ならないんだろうとしか思えない。誰もが「既に損なわれた人生を送ってきた」という認識を共有したいのだ。

なんという堂々巡りだろう。なんという無駄だろう。
連鎖する暴力。
この連鎖を断ち切ることは出来ないんだろうか。
せめて自分の中で。

デジタルネットワークには二つの使い方がある。
一つは既存のインフラを利用して、自分が「得」するために利用する使い方。
もう一つは、インフラそのものの可能性を広げることを楽しむ使い方。

前者は「社会的」だ。
そこではさまざまな窮屈なルールが再生産され続けることだろう。
しかしそれを否定するつもりはない。
なぜなら、そこにはジャーナリズムや権力や大量生産技術が
個人レベルに下るために必要な可能性が眠っているからだ。
そしてその恩恵は計り知れないものになるだろう。

だがしかし、そのベクトルが、
あくまでも既存社会の規範の中でしか進まないことは間違いないように思える。

そして後者は「冒険的」だ。
冒険と挑戦無しには何も新しいことは起きない。
だが、それを支えているのは「社会的」に行動する人々だったりするのも事実なのだ。

ここに苛立ちはない。
かつては苛立っていた自分が居たのに
今は苛立っていない。

要らないものと距離をおくことができ
必要なものに近づくことが出来ればいいのだ。
そうした時には、どちらの側に近づこうともどうでもいいことになるのだ。

デジタルネットワークという技術は
それをとてもわかりやすい形で、
それぞれの人に示してくれる、とても面白いゲームなんだと思う

最適化という未来

適応という未来

新しくも古くも無く

先端でも終末でもなく

珍しくもありきたりでもなく

現在が現在である時にのみ出現する未来

収束と分散が交わる処

それが繰り返され続ける処

最初からあるのに見失われ続ける処

帰る場所ではなく本来の場所

支えるものを必要としない場所

時間と共にある

時間が時間を離脱する場所

絵画が実現し得る「そこにある限りなく薄い空気感」と、写真がデフォルトで持っている「その先にある限りなく深い空気感」の間で、両者は互いに恋をし合っている。

だが見てみたいのはその恋の終わりなのだ。その先に、それが進化の終わりではなく、当たり前になった後にこそ進化が訪れるのだと思う。

裸眼3D動画と洞窟の壁画とフラッシュサーフェスなデジタルプリントとリアル立体の造形物がそれぞれに共鳴しあう未来は、そしてさらに、そこに触覚や臭覚が統合される、実は大昔からあったリアリティの未来は、再定義されることを待っているだけなのだ。さらにおそらくは、そんなものは時代の未来ではなく、個人の未来に過ぎないのだ。

人はかつて見た夢ではなく、見たことのない夢の始まりを求めている。

そう自分では思っているが、そうではない人が沢山いることも知っている。
だが、そうではない人が見たことのない夢を求めていないかといえば
そんなことは無いのだと信じている。

信じているなんて言いたくないのだけど
自分が自分以外でないのならば、
他の言葉が思いつかない。

こんなとき、
宗教があったらとっても便利なんだろうな。
そんな便利な宗教はいらんけど。

どんなに検証しうる限りの耐久性を持たせた写真も永遠ではない
どんなに堅牢な顔料を使った絵画も永遠ではない
どんなに冗長性を持たせた建築も永遠ではない
どんなに語り継ぐ意思によって支えられた物語も永遠ではない

そして永遠に思われたこの自分の身体も永遠ではない

もしもそれらが永遠だとしたら
どんなにウザイことだろう

美しいという基準が、グラムとか風速とかと同じように計れることを要求されるようになり、それが一般化したなら、どれだけ世界が変わることだろう。そしてそんなことは、変な事だとも難しいことだとも思わない。でもそれは美学ではない。美学の対極の世界だ。それは学ではなく、例えば身体的感覚で計られた質量の感覚にずっと近いことだ。なぜなら美しさは在るべきものが在るように有るということに尽きるからだ。咲くべき時に正しく咲く花、動くべき時に正しく動く昆虫、進化するべき時に正しく進化する生物。結局のところ、流れがスムーズであることに全てがあり、それが美しいということだとしか思えないのだ。もちろん、淀みを突破する時の流れは激しく、堰の無い流れは緩やかだろう。でもどんな流れでもいい。流れるべき時に流れてゆくものはとにかく美しいのだ。

世の中には、凄くはなくても、凄く面白いものが沢山ある。
それは楽しいものだ。凄くはないかもしれないけれど。
つまり、凄いってことは誰もが頭を下げるようなことで、
凄く面白いってことは、自分が頭を下げるようなことなんだ。
どっちが大事かって、自分が頭を下げることに決まってる。

自転車レースの世界は、おそらく現代において最も冗長性の排除された世界の内の一つだ。限界を超えて冗長性を排除しようとしている。そのような場所では、犬にぶつかっただけでホイールがクシャッとひしゃげたり、意図せず段差に乗り上げただけでステムが折れたりする。そもそもそれらの機材は、犬にぶつかることも時速40kmで段差に乗り上げることも想定していないのだ。そのような想定外の現実に出会わない限りにおいて、最高のタイムを叩きだせるように作られているのだ。だから50gのサドルは飛び乗りを許容しないし、800gのフレームは彼女と二人乗りすることを拒む。

一方で世の中のほとんどのプロダクトは冗長性に満ちている。高級感だとか、重厚感だとか、安心感だとか、単なる慣習によって、冗長性はもてはやされる。こちらの世界では、例えば実際の耐久性とは関係なく、500gのドアよりも20kgのドアの方が価値があり、現実的には地震の影響をより大きく受ける構造であるにもかかわらず、より深く地面に根ざした基礎に重い構造物を依存させることが良いものだとされる。そのような価値観の世界では、大いに冗長性は排除される必要がある。いったいどれだけの軽量化が出来ることだろう。

しかしその先に行く必要がある。重要なのはラジカルな中庸だ。過激なだけで柔軟性の無いモダニズムでもなく、ぬるい冗長性でもなく、必要とされる針穴を通らないといけない。発見すべきはそれぞれの超個人的な日常だ。個別であることの普遍性だ。そこにしか自由になれる道は無いと思える。

写真を見ると、必ず写している人の事を感じる。
それは気配として写真に張り付いている。

実は絵でも同じだ。
描いている人の気配を感じ、
その気配が良いものならば、自分にとっては良い絵なのだ。

作為が見え見えだったり、
無理な努力ばかりが目立ったり
自尊心ばかりがでしゃばっていたり
うるさいぐらいに説明的だったり
ネタ以外の意図が見えなかったり

するようなのはまずパスしたくなる。
その上写真で人間を写した場合には
被写体の演技も加わるのでなおさら厄介だ。
写す人に起きることと同じことが被写体にも生じ
ダメ出し度はさらに加速するのだ。

こういう風にビジュアル表現を常に見ているというのは一般的ではないのかもしれない。
でも、そんな見方が不自然であるとはちっとも思っていない。

作為の不気味さによって、それが怖くて泣き喚く子供を想像してみるといい。
世界は作為に満ち溢れていて
それはミッキーマウスの被り物をしたアルバイトのように怖く写るのだ。
そしてその怖さは、明らかに、
例えば防御本能によって牙を剥き出す犬の怖さとは違うのだ。
怖いものは怖くあるはずなのに
優しさが怖くなる瞬間がそこに現れる。

おそらくそれは演じる側の嘘をつき通す態度なのだ。
しかもその嘘は
覚悟のある嘘ではない。
君の前では嘘をつき続けるけど、君の前でない時は秘密だよ
っていう嘘なのだ。

一見、モダンでシャープでシンプルでしかもカッコ良く見える写真が
実はそんなかぶりもので作られていることが何と多いことか。
その不気味さの正体を何と言っていいのか分からないけれど、
少なくともそれを拒否することは可能なのだ。

ランダムはランダムではない。ランダムだと表現することは、目の前にある物をうやむやにする事だ。混沌と言う状態であると目の前の現象を納得させる、それは見ることを止めることであり、その止めた時にランダムと言う言葉が出てくる。しかし、どこまでもランダムと言う言葉を使わずに事象に向き合うのはとても困難だ。それは恐い事につながっているからだ。あまりにも明晰な認識はヤバイのだ。ヤバ過ぎるのだ。日々を過ごすにあたっては。それでもランダムと言う言葉を与えずに認識したい。ランダムな事象など存在しないということを自分の身に刻み込みたい。今目の前を流れていく不定形な雲はランダムではない。この林を形作る木々の梢はランダムではない。夥しい人々の動きはランダムではない。それらは全て、あらゆる相関関係のうちに生成された夥しいディテールなのだ。

経済のことはよく知らない。
でも、誰もが可愛いと思う女の子が一人いれば、そこに経済効果が生まれるということは理解できる。同じように一台のカッコイイ自転車や、イカしたガジェットや、反則的な使い方をされた道具や、有り得ないように見えるダンスも、同じように経済効果を生むだろう。

こういうことは、直接的に経済に結びついているようには見えないかもしれない。むしろ消費側の側面として見えることだったりする。でもそれは違うんじゃないか。消費を消費と言わずに生産の一側面として捉えるなら、つまり、消費なんて行動は存在せず、あらゆる行動は生産であるという仮定に立てば、人が行うあらゆる振る舞いは随分と違って見えてくる。

きっちり化粧することも、自転車を磨き上げることも、クリスマスに家を電飾で飾り立てることも、それらは全て生産である。それを真似することも生産である。憧れている女の子と同じ口紅をつけるという意味での経済効果ではなく、憧れによって成された化粧は、その由来を飛び越えて現実に湧き出ているのだ。重要なのは自分の欲望において何事かが成されているということなのだ。そこではお金が動いているようには見えないかもしれないが、実は動いている。つまりそれらの個人的な消費活動として見られるようなことも、なにかしらを動かしているのだ。

統計に表れない効果、計算に入れられていない行為、把握されていない要素、参照するに値しないものとして切り捨てられている現象、そんなものが信じられないぐらい沢山あるんだと思える。

だから、統計はいつも疑ってしまう。計算の美しさには感心しても、その計算がなされた限定条件にはいつも疑問を持つ。切り取られた表現は部分でしかない。自分のことをとても天邪鬼だとは思うけど、表現し辛く、規定が難しく、統計することも出来無いようなものを大事にしたいといつも思うのだ。そしてそんなものはレアなことではなく、当たり前なのにそのようなものになってしまうからそう思うのだ。

07:30
しかし誰もが自分にとってこうあって欲しいという情報しか見えないように生きているし、俺もそうだし、このフィルターはどうにもならないなぁといつも思う。むしろ、そのフィルターは命綱なんであって、それの欠如なんて有り得ないとさえ思えるんだけど、そこさえも超えたいと思って沢山の人が情熱を燃やしているわけだよな。そんな世界は嫌いじゃないけど。

行為を正当化、もしくは批判するために、時給換算するということほどむなしいことは無い。
とか言いながら、もちろんそんなことはいつだってしているのだ。
そのむなしさを意識しつつも。

そのむなしさは、換算される値段によって変化するような問題ではない。
時給が百円だろうと十万円だろうと関係ないのだ。実は。そんな違いは媚びたゲームが提供してくれる達成感となんの違いも無い。

俺が欲しい自転車を得る為に費やした時間は、一般的なサラリーマンがその時給計算において、この世で最も高価な自転車を手に入れるために必要とする労働時間より遥かに多いことは明らかだ。そこで、その時間を、無駄な時間とするなんて有り得ない。なぜならどんなに高価な自転車も自分が欲しい自転車ではないからだ。

絵においては呆れるしかない。

社会的な所有に対する効率は問題にされても、それぞれの自分の人生に対する効率は問題にされ無さ過ぎている。自分の時間は社会的な効率からは遥かに隔たったところで営まれているのだ。それぐらい社会は幼さに特化している。肉体と肉体の学習を無視している。それを重要視することは甘さだとさえ思われている。

俺にはそれが社会の未熟さにしか思えないのだ。
やりたいことを他人のことを考えずにやっているんだから、時給が少なくてもガマンできるでしょ?とか、それはわかるけど、そんな風には社会は出来ていないから、とか、そんなことを言ってられる様なところじゃないところまで来てしまっているようにしか思えない。現在の生産体制の変化とか分業構造の見直しとかが進めば、そんなことあっさり否定されるようなことにしか思えない。まるで歴史が書き換えられるように。

ほんとに君の思っていることは効率がいいの?なぜそう思えるの?何のための効率なの?君の欲しい自転車はほんとに売っているの?君の見たい絵は外側にあるの?君が愛したいと思っていた人は目の前にいる人じゃなかったの?今日この朝に光を浴びているのは君じゃないの?俺の指は何を求めてキーボードを叩いているの?

稀に、現実の空間と時間と置かれている立場とディテールと色と生命と、その他あらゆるものがとんでもないリアリティで迫ってくることがある。そしてそんなときに”まるで夢のようだ”と思う。現実なのに、そのように形容してしまう。

逆に現実の人間関係とか、予定された時間とか、思いがけない連続する耐え難い痛みとか、受け入れたくない人格とか、些細な侵略とかが、変化し続ける空間とか時間とかディテールとか生命とかを、見事にまっ平らに平板化してくれちゃって、それを”悪夢のようだ”と思う。

たぶん、許容範囲を超えたものが夢に現れるから、夢を喩えにするんだろう。だったら夢見るように生きることはさぞ辛いことだろう。だけど、許容範囲を広げることが出来れば、他人からは夢見るように生きているように見えることだろう。それが信じられないような悪夢であれ。

近頃インターネットに対してなんとなくムカついている。理由はとてもはっきりしている。いろんなツールを使って下り側を加速させたからだ。だから正確に言えば、別にインターネットに対してムカついているわけではなく、上りと下りのズレが許容範囲を超えている事態に自分自身で進んで飛び込んでおきながら混乱している自分にムカついているのである。アホは俺だった。ごめんなさい。

でもそこで知りたいことがあったんだからしょうがない。やってみなきゃわからない。そんでそれをやるってことは、傍観者として分析することなんかじゃなく、まんまと嵌められてむさぼりつくすようにやらないとやったことにはならない。少なくとも俺の場合。ゲームでレアアイテムを手に入れるために費やした時間とか考えると、自分でもバカじゃないかとしか言いようがない。どんなに贔屓目に見ても、そこにポジティブな意味なんて見出せないぐらいの不毛な時間だ。

おそらく知りたいことは、不毛な時間に向かわせる欲望なのだ。不毛だとわかっていてもそれを求める理由なのだ。

例えばネットワークゲームをやっていて、いくらそこで金を稼いでも、そんなのゲーム上の金に過ぎないじゃないかとか、ゲームキャラクターに好きな人が出来ても、そんなのただの2次元じゃないかとか、そういうことを言ってられる様な問題じゃないところまで既に来てしまっている。なぜなら現実もまた同じテクノロジーと同じルールを共有していて、株をやることとゲームをやることの違いなんてほんのちょっとの差でしかないように見える(株はやったことないけどね)。セックスにしたって、そもそも男の頭の中なんてものはヴァーチャルセックスと大して違いがないように現実のセックスの中でも乖離していたりもするのだ。

何が起きているのか。
意識が身体から浮遊しているんだと思う。浮遊することをテクノロジーが許しているんだと思う。誰もが望んでいるテクノロジーの方向の一つは、夢見るためのテクノロジーなんじゃないかと思える。乾燥機つき全自動洗濯機が、大画面液晶テレビが、インターネット決済が、生産システムの横型分業構造が、立体造形の自動化が、あらゆる身体性を補助するテクノロジーがそれを支えている。

『不毛であっても夢見ていたい。みんなが夢を求めるなら不毛であっても構わない。身体なんて要らない。あなたが私のことを見ていてくれるなら不毛のうちに死んでも構わない。むしろ死にたい。そうじゃないなら死んだ方がいい。そうだ私は夢の中に入れてもらえない。死んだ方がいいじゃん。私は夢から疎外されている。私の意識はこんなに浮遊しているのに、こんなに誰よりも夢見て、こんなに身体から切り離されているのに、なぜあなたにはそれがわからないのか。あなたの夢が私には見えない。あなたはみんなの夢に属している。あなたの浮遊は幸せそう。私の浮遊は死んだ方がいい』

っていう、自家中毒的浮遊ループがそこに発生する。
たぶん身体を失った意識が、判断基準であった身体性の代わりに見出すものが、同じように身体性を失った他者の浮遊する意識であるときに、このループが生まれる。これは嘘つきの始まりだ。あまりにも柔らかい嘘だ。柔らかすぎて嘘でさえないのかもしれないけど。

俺は意識の錨をもっと自分の身体に降ろすように努力しよう。

03:54
おそらく社会そのものが浮遊している。
浮遊するデストピア。
浮遊する淀み。
社会も身体性を失っているのだ。

かつて浮遊することは
淀みではなく破裂する奇跡のような経験であったのかもしれない
死をもってしか経験することが出来ないよう希望であったかもしれない
夢見ることの究極のような多幸感を伴う経験であったかもしれない

しかしいまや、浮遊する意識はつまらない日常に過ぎない。

匿名であるということは恐怖であると同時に自由だ
匿名であるということは羨望されると同時に排除される
匿名であるということは美しいと同時に醜い
匿名であるということは欲情されると同時に憎まれる

どのように匿名でありたいかを説明するのはとても難しい。匿名でありたいという欲望に従えば従うほど、そこに従っていない人からは見えないものになっていくからだ。

隠れ蓑としての匿名性なんて要らない。
自分を檻に閉じ込めるような匿名性なんて要らない。
記号化のための匿名性なんて要らない。
そういうのは社会的な構造の中での匿名性であって、本人は名前を保持し続けているからだ。

俺が求める匿名性は、誰もが俺だと分かるように社会的には見えているにもかかわらず、まるで道端に転がったカマキリの死体のように匿名であるということだ。

081113.jpg寝ている時に夢の中に居たと思ったのに

見ている夢が丸ごとボールのように丸まっていった

俺は寝ているんだけどそのボールを抱えて寝返りを打った(実際に)

するとボールになった夢がみよーんと伸びて別の夢が始まった

俺はしばらくその夢を見た

夢の内容は便所を撮影する夢だった

俺は映画かアニメーションのようなものを作っているのだ

だがその作品のモチーフが

何か特別な意味を持っていると夢の中で感じていた

撮影することでその意味がだんだんとわかっていった

夢の中では撮影ではなくモデリングに近かった

そのモチーフとは寝返る時に起きる意識のめくりあがる感覚だった

それがわかった途端に

俺はまた寝ている状態のままで寝返りを打った(実際に)

すると夢が

河が地表からめくれ上がるようにめくれあがった

だけど俺は起きていない

その状態で

おれは夢の織物を作り始めた

体を上手に動かすことでその織物はゆらゆらと編まれていった

その織物は今のおれ自身だった

それこそがまさに俺の望んでいたことだった

いまや俺の意識がめくれあがって反転していった

俺はどんなものにでも変身できると思った

虫にでも怪獣にでも

全ての過去や啓蒙や組織や技術は嘘になった

それがわかった


起きてみると

とても懐かしい感覚が自分の中に漲っていた

いい朝だ

経済が加速すると人の顔が変わる。田舎の顔と都会の顔は違う。経済成長を経験した国の人々はそれ以前とは違う経済成長を経験した国の人の顔になる。そしてそれを経験した国の人の顔はどの国でも全て同じ顔をしている。顔の均一化が起きるのだ。これは比喩の話しではなく実際の見た目の話だ。

普通それは垢抜けると表現される。では垢抜けるとはどういうことか。

ひとつには人間関係が希薄になるということだろう。それは、その顔に張り付いた表情が特定の誰かではなく、不特定の誰かに向いているということだろう。あなたの前にいるのは唯一の母ではなく、母という記号であるように。

ひとつには地域性と言われる場所の独自性が失われるということだろう。それは、その場所にしかないものに依存することなく生活が成立するように、流通や経済が働いているということだろう。目の前のキノコが裏の林からもたらされたものでなく、外国から船で運ばれたものであるように。

そして垢抜けた顔を美しいと感じる感性が誰もの心に育っていくようになる。その美しさはジェラシーによって保障される。俺の中にもそれはある。しかしそれではやっていけないことを確かに感じる。そのやり方では俺は俺の終点に辿り着くことは出来ないことを感じる。なぜなら全ては唯一ものでしかないからだ。それ以外では有り得ないからだ。垢抜けた顔の魅力なんてクソ食らえだ、と言っておきたいのだ。

とても当たり前のことなんだけど、覚醒していないと何も出来ないと思った。ほんとに当たり前だ。でもそんなこともよくわかっていなかったりする。

例えば今、自分の体にはそれなりのアルコールが入っている。この状態では絵が描けない。少なくとも良い絵は描けない。この酔いを強引に振り切って良い絵が描ける状態に持っていくことも不可能ではないけど、そのためにはかなりのパワーが必要だ。つまり、体のセンサーが寝ているのだ。

絵を描くとかモノを作るとかって事は、センサー全開にして行うものだ。むしろセンサーの奴隷となることによって、センサーを働かせている張本人に出会い、その張本人の操り人形になるようなものだと思う。主人公は「自分」ではない。自分なんてどうだっていいのだ。クソみたいなもんだ。邪魔にしかならない。

体が鈍いと覚醒状態にいることは出来ない。そしてそんな覚醒状態は特別なものでもなんでもない。朝の目覚めと共に誰にだってやってくるものだ。起きたとたんに葬り去られるのが日常であったとしてもだ。

朝の気持ちよさとセックスの快感との間に違いを感じない。夜の恐怖と他者の侵略の間に違いを感じない。細胞が開いていること、センサーが開いていること、外の生命や光や空間に浸透していくこと。なんかのベクトルがそこに現れる。それがなんだかはよくわからない。ただ、そこには怖いことも痛いことも眩しいことも嬉しいことも驚くことも全部あるんだろうってことはわかる。だからもちろん楽なことだけであるはずが無いのだ。センサーを開いた状態にしておくということは。

おそらく、センサーが開きっぱなしの人は社会生活を送るのが難しいだろう。それでもセンサーは出来る限り開いておかなくてはならない。なぜなら人間に限らずそれが生物のデフォルトだからじゃないんだろうか。

開いたセンサー、つまり覚醒状態は、非社会的だ。反社会的ではなく。

「崖の上のポニョ」を観たんだけど、言葉が全体を台無しにしていると思った。アニメートされた映像は素晴らしいところが沢山あるのに、というより、見たことないようなレベルで圧倒的にアニメートされていてるのに、それを言葉や物語がとても陳腐に見せてしまっていてすごく残念だった。これは「もののけ姫」以降の宮崎アニメに対してずっと感じていることでもある。映像と言葉の間にどこか決定的な亀裂を感じる。

でも他人の作品をダシに使うのはフェアなやり方じゃないな。しかし連鎖なんてそんな風に起きるものでもあるし…まあいいや。

言葉は、言葉自体が時間軸を持っている。絵だって時間軸を持っているけど、ここではそれは無視。で、言葉を表現にするということは、意味だけでなく、この時間軸を含めて表現のうちに取り込むということだ。そうなって初めて言葉は表現になり得る。なぜなら言葉は、意味である前に音だからだ。つまり、音楽としての言葉が美しくなかったら、それは表現としては成り立っていないということだ。そして音楽と言ったけど、例えば小説にも音楽はある。それは文体や、流れる密度のメリハリに現れる。詩に比べれば音楽的純粋さは劣るにしろ、それもで紛れもなく音楽なんだと思う。もちろん音楽性のかけらも無いようなエンターテインメント文学がむさぼり読まれていたりもするわけだけど、それでもなお言語表現は音楽的時間軸の内にあるんだと思う。


これは今までにも何度か書いていることだけど、言葉が嫌いなのだ。全部の言葉が嫌いなわけじゃなく、音楽的でない言葉が嫌いなのだ。表現物かどうかに関わらず。

自分にとって美しいということは、身体的であるということだ。グロいとかエロいとか残酷とか優しいとか下品とか上品とかゴージャスとか清楚とか貧相とかリッチとか重いとか軽いとか冗長とかシンプルとかそんなことは美しさにとってどうだっていいのだ。どんな風であっても構わないのだ。身体的でありさえすれば。だからここで言っている「音楽的」であるということの意味は音楽のようであるという意味ではなく、音楽の身体性を指したいと思っているわけだ。

音楽の身体性なんて言うと、また小難しく聞こえるかもしれないけど、要は歌った時や踊った時に、音楽という表現物をガイドとして、潜るなり登るなり移動するなり出来るかどうかということだ。そこで、潜ることも踊ることも移動することも出来ずに、脳みその一部分ばかりが刺激されるようなものはつまらないことだと思うのだ。

意味は人を停滞させる。だから意味自体が流動的でなくてはいけないんだと思う。意味から始めちゃいけないんだと思う。なぜなら意味は後から生まれた道具に過ぎないからなんだろう。

おそらく、より少人数で何事かが成し遂げられることには価値がある。少なければ少ないほどその価値は高い。そして例えそれがひとりになったとしても、その何事かはその人ひとりによって実現されるわけではない。そこまで行かないと、ひとりの意味と影響を与える他者の関係は単純化できない。

インフラは幻想だ。なぜ蛇口をひねれば水が出るのか。なぜウンコは水に流されるのか。なぜスーパーには牛のベロが売っているのか。なぜボタンを押せば電話が出来るのか。なぜケーブルをつなげればネットに繋がるのか。なぜガソリンスタンドにはガソリンがあるのか。そしてなぜ言葉を覚えれば情報を交換することが出来るのか。それらは全て労働という名の、誰かの、そして自分の、死んだ時間の上に成り立っている。それをインフラと称して「”合意”の上の常識」とするのはただの方便に過ぎない。誰が合意したんだ? 全員だ。なぜ合意したんだ?全員が口をつぐむ事だったからだ。合意に至るためには沈黙こそが最も有効なのだ。誰もが仕方ないと思うこと、それがインフラだ、それが常識だ。

つまり、インフラをインフラと、常識を常識と言わせているのは俺だ。
何事かを成すためにひとりになっていない俺だ。この文章を書くためにネットを利用している俺だ。

なのに俺は常識を否定しないのだ。沈黙を否定しないのだ。
インフラも常識も幻想でなんの問題も無い。俺に必要なのはそれが幻想だという認識だけだ。その認識は俺がひとりになるために必要だからだ。

なるべく少ない方が素晴らしいと俺は思う。そういうことをこんな風に表現するのではなく、そういう風に実際にならないと意味が無い。

ある記事によると、正確さはともかく、数十年前の日本では、出産される赤ん坊の10人に1人は死産となり、年間に2000人の妊婦が死亡していたそうだ。そして現在、出産時に死亡する妊婦は50人ぐらいらしい。現在の死産の確率は記されていなかった。おそらくその頃に比べれば非常に低い数字になっていることだろう。

正確な数字はどうでもいい。出産が昔に比べて「安全で怖くないもの」になったということを数字が裏付けているように見える、ということを引用したかっただけだ。

医療はこの数字をゼロに近づけることを目指すんだろう。「なぜ私が?」という思いをしないで済む人を増やすことが正義なのだ。

曰く、それは誰もが望んでいることなのだ。誰もわけもわからずに死にたいわけじゃないのだ。通り魔にいきなり殺されたい人は居ない(いや、何十人かはいると思うが)。病気にならないで済むなら越したことは無い(いや、何十万人ぐらいはなりたがっている人も居るだろう)。その気持ちが人の視線を隣ではなく上に向かわせた。そして人が上を向いた成果がこの数字に現れている。

今、目の前の人を救いたいという気持ちを否定する気はさらさら無い。しかし救われる側にとっては、起きることは必ず起きる。つまり救う側は当事者ではない。当事者は救われる側だ。そして当事者から逃れられる人は誰一人としていない。当事者以外の人間がすることが出来るのは迂回だけだ。迂回を迂回以外のものにすることは出来ない。当事者と当事者でないものの間に存在するのは迂回への合意だ。

俺は昔、ドブで溺れて、そこに兄と兄が呼んできた郵便配達が居たことによって、今ここに居る。その二人が居なかったら、たぶんここには居ない。つい最近、背中が猛烈に痛くなって、ヤバイと思って病院に駆け込んだ。原因はわからなかったが、尿道結石だろうと医者に言われた。そこで俺は助けを求めたことになる。つまり迂回させられたり、迂回を望んだりして生きているということだ。しかしそれでも迂回は迂回なのだ。俺は俺の当事者であることから逃れることは出来ない。

今の社会で、10人に1人の割合で死産となるということが統計学的に示されれば、子供を生もうと思う女性はかなり減るだろう。そしてそれでも生む人は絶えないだろう。


わかりやすい選択なんてフィクションだ。夏休みの予定表みたいなものだ。
アホがデフォルトでなんの問題があるのか。



私は飴を持っています。
あなたはこの飴がほしいですか?
だったら土下座しなさい。
あなたが土下座すると、私の中の飴工場が稼動して
あなたの口に飴を運ぶでしょう。
あなたの頭の重力が動力源なのです。
ところで私が誰だかご存知ですか?
私はあなたの理想です。

悲しみは忌むべきものではない
高揚の発露のバリエーションの一つだ。
そして人は高揚を通じて自分の肉体を構成する細胞の数を認識する。

かつて他人に保護されたい自分が居た(正確にはいまだに居る)。その自分は、他人に保護してもらうためにあらゆる策略をめぐらした。泣き喚けば保護された。病気になれば保護された。保護する人が羨むものを手に入れれば保護された。だから僕は泣き喚いた。病気になった。良い点数を取った。お金を手に入れた。仕事を始めた。気がつくと自分を保護してくれる人は保護されたい人だけになっていた(って言い過ぎだろ)。

保護されるということは隔離されるということだ。隔離されるということは人質になるということだ。何の人質になるかといえば、親とか、恋人とか、友達とか、隣近所とか、小説家とか、漫画家とか、評論家とか、アーティストとか、思想家とか、宗教家とか、音楽とか、絵とか、物語とか、映画とか、建築とか、ケーキとか、チョコレートとか、ラーメンとか、タバコとか、酒とか、テレビとか、学校とか、企業とか、国家とか、平等とか、平和とか、真理とか、正しさとか、善とか、悪とか、金とか、株式とか、市場原理とか、ビジネスモデルとか、掃除機とか、洗濯機とか、車とか、自転車とか、セックスとか、スポーツとか、オナニーとか、健康とか、美しさとか、優しさとか、楽園とか、破壊とか、薬とか、宅急便とか、自動販売機とか、郵便局とか、銀行とか、クレジットカードとか、SUICAとか、PASMOとか、スーパーとか、コンビニとか、ネットとか、ゲームとかだ。

どんだけ並べても足りなさ過ぎる。

そして人はある時期、人質になることを普通に生物的に望むのだ。だから好きなだけ人質になればいい。望むならなればいいのだ。でもそれはある時期であって永遠ではない。

何から保護され、何から隔離されていたのか、それを知るチャンスはいくらでも転がっているのに、チャンスは奪われ続けている。そしてチャンスが奪われていることを他人や外側のせいにしているうちは、何も起きない。チャンスは奪われているわけではなく、逃しているだけなのだ。

可能性は閉じていない。閉じることは出来ない。
しかし隔離病棟への欲望はとんでもなく強く根付いている。

生ぬるいという言葉は否定的に使われるけど、生ぬるくなかったら伝わらない価値が山ほどある。例えばお酒。冷たいお酒や熱いお酒は、お酒本来の味を無効化して単なるドラッグにしてしまう。例えばセックス。冷たいセックスや熱いセックスは物欲に駆られた体を満足させることが出来ても、生ぬるさをベースにした内的な熱の高みに辿り着くことはない。例えば散歩。冷たい散歩や熱い散歩は、ハンターとしての成果を上げることはできても、可能性としての過程は全て無視される。

生ぬるさとは、常温の非人為的な状態だ。
夏のカキ氷やプール、冬のストーブや鍋物、そういったものは体を助けてくれる。そして体が助けられるということは、常温の可能性を飛び越えるということだ。でも、そのような非常温のテクノロジーや、そこに向かう欲望を否定するつもりは無い。ただ、非常温のフィクショナルな喜びは、それがフィクショナルであった時にのみ輝くものだと思うのだ。

フィクションとは、つまり祭りだ。
なぜ祭が有効かと言えば、それは生ぬるさをベースとした身体的強度があるからなのだ。結果を求めないコミュニケーション、目の前にあるものをそのまま受け入れる経験、それらがなかったら、フィクションは力を失う。さらに言えば、常温の生ぬるさこそは、それがフィクションの土壌なのだとさえ思える。生ぬるい土から、連続的に芽を出す清冽な黄緑色をした双葉。奇妙な形をしたキノコ。常温の水温によって孵化するおたまじゃくし。

例えば現代におけるエロティシズムは、これっぽちも性的ではないとずっと思っていた。そこにフェティッシュという補足的概念が加わろうとも、なにも本質を現していないと思っていた。言語的に過ぎるのだ。生ぬるさが足りないのだ。可変的体温を無視した性的極北なんて笑っちゃう。

非人為的常温になんて辿り着けないように誰もが病んでいる。そんなことは分かっている。だって俺がそうだから。理想を布教しようなんて思わない。これはただの予感とひらめきに過ぎない。でも、いつだって、予感とひらめきに導かれてやってきたのだ。

「優良物件 駅まで3分」という文章を見たときに、その文脈においては、3分よりは30秒の方が優れているという意味が読み取れるだろう。もしくは、それしかないんだ。この価値体系の中では歩かないでいいということが高い価値だ。

同様に、「エロ動画5万本」と書かれていたときには、5万本は1万本より偉いのだ。この価値体系の中では見たことがないのものが永遠に得られるということがより高い価値なのだ。

では、「駅までの所要時間120分」と書かれていた場合に、それが「駅までの所要時間3分」より優れているとされる価値体系が無いのかといえば、そんなものは普通に存在している。「エロ動画1本」の方が「エロ動画5万本」より優れている価値体系だって普通に存在する。つまり、歩くことをやり過ごすのか、歩くことを目的にするのか、見ることを目的にするのか、見ることをやり過ごすのか、という、正か負かの違いでしかない。どっちも同じだ。

こんな風に意味をひっくり返すことは易いけど、何にもならないと思う。利用価値の高さ低さは問題ではない。なぜなら駅までの距離をほんとに測ることは出来ないからだ。それは毎日変化する。エロ動画が何本あろうと、今見られるのは一本だけだ。優良物件は、今見たいものは、生成され続けているに過ぎない。

疲労とストレスが優良物件を持ち上げる。果てしない日常に飲み込まれまいと、血眼になって優良物件にかぶりつく。でも、いくらそんな努力をしようと、日常という名のテクノロジーから逃れることは出来ない。唯一の方法は、自分において発見することだけなんだと思う。「自分が」では無く。

他人を、目の前の人間を、無視した上で行使される暴力はいくらでも生まれ続けているのに、生まれ過ぎているのに、もういらねぇぐらいありまくっているのに、なぜか、自分にリスクが跳ね返ってくるように行使される暴力は足りなさ過ぎる。

まるでビジネスの話だな。
もっと個人がビジネスを始めりゃいいんだ。
だってそういう意味では保育園児でさえビジネスマンでしょ?
保育園児はちゃんとリスクを負ってビジネスしてるよ。それを見えにくくしているヘンテコな取り巻きしかいなくとも、そんなこと関係無しにちゃんとビジネスしてる。

なんで外側を無視するメソッドによる利益だけがもてはやされるんだ?おかしいだろ、それ。ていうか、なんでそこで利益が生まれるのよ。おかしいだろ、それ。いちいちそんなところでジェラシーを感じてんじゃねぇ!って本気で思う。そのジェラシーが利益を生むんだ。でもそんな利益はすぐに腐るんだ。寿命が短いんだ。どのぐらい短いかといえば、生まれた途端に利益が生じた本人にとっても腐るぐらい短いんだ。それを普通幻想という。そしてジェラシーは、幻想の生まれるその瞬間に向けられるのだ。幻想を支えるのは腐る前のその一瞬だけだ。もっと言ってしまえば、腐るどころか存在もしていない電気的にも見える化学反応だ。

スイッチが入った時の一瞬のきらめき。
スパークは美しい。
パチンとはじけてショートする、その瞬間が自分の人生に起きて欲しいと誰もが願っている。でも心配することはないんだ。おそらく。ほんとのショートは誰にでも必ず起きるんだから。

スーパーサイヤ人1、2、3という変化に誰もが引きずり込まれる。うんざりしつつも(もちろんドラゴンボールの話)。どうせならスリーまでいってみたいと思ってしまうのだ。

漫画を成立させるのはグラフィックの記号化だ。ゲームを成立させるのはグラフィックの記号化だ。表された画像が「これは怒りによって目覚め、深層に眠っていた力が引き出された男の子です」として単純化されれば、それは画像を超えて記号となる。そして記号が加速させるものがある。それは物凄く単純化された価値体系だ。それは身体的感覚を無視した、あるいは経験を飛び越えた「物語」としての時間軸だ。

そこで起きることはリアリティのインフレーションだ。

グラフィックの記号化を否定するつもりはこれっぽちもない。ただ、記号化はそのような誘惑と常に結びついている。インフレには気をつけないといけない。なぜなら、作る側においても受け入れる側においても、例えそれが市場価値に結びつこうとも祝祭的にしか機能しないからだ。そして、祝祭はある覚悟の上で成されなければ何の意味もないと思うのだ。覚悟のない祝祭は、それに参加した人間をズタズタにし得る。人が自ら望むのに翻弄にしか繋がらない暴力。

03:52
何を読者に求めるのか、何をプレイヤーに求めるのか、何をオーディエンスに求めるのか。

そして

何を知りたかったのか、何を経験したかったのか、何を見たかったのか。

例えばディテールの意味は説得力だけではない。それは表現における時間の流れをコントロールすることも出来る。

例えば構造の合理性は説得力だけではない。それは現実の経験を変化させることが出来る。

外側にあるんじゃないかと思い込んでいる了解に依存するのは間違っている。

3D画像、もしくは3D映像のリアリティは、半分ぐらいはレンダリングエンジンによって作られている。そこで、モーションの演出、テクスチャーのモデルに対する支配の度合いは、レンダリングエンジンとある意味競合する。

そのバトルを眺めているのは、楽しくもある。瞬間的には。
でも,すぐに飽きる。
もう、人は光速で飽きる。
素晴らしい身体能力だ。

家の中で虫が死ぬ
家の中で猫が死ぬ
家の中で人が死ぬ

それは日常だ。

人間が喋ることって、つくづく言葉とは無関係だなぁと思う。
もちろん言葉は表層を滑っていくし、それでいろんなことが運ばれていくんだけど、それとは別に喋っている人の身体的現実がその声に乗ってくる。活字になってさえそれは伝わったりする。そして聞いている方も、しっかりと聞いているのだ。その声を。それは鳴き声だ。言葉の間をすり抜けて交わされる身体的情報。たぶん猫や鳥と変わらないその鳴き声で、教室や会議室や家庭で発生する様々な音階。音程の変化、音色の変化、何かを説明する音階、何かを押し付ける音階、何かを飲み込む音階、何かを搾り出す音階。そのようにあらゆる音階が奏でられ続けているんだ。音階にもっと耳を傾けたい。その音階をもっと聞き取ることが出来るようになりたい。

他人をメンテナンスできるという幻想のくだらなさがなぜ一般化しないのか。自分をメンテナンスできるのは自分だけだ。保護は延長を意味しない。それは遅延だ。そしてそのような認識の上にこそコミュニケーションとしての、ある意味暴力的な影響関係が築かれるべきなのだ。

080711-2.jpgカップ麺が目指したものは永遠の生命のフリだ。
それは腐らず、それはお湯を加えさえすれば戻すことが可能で、可変的な永続の時間を予感させる。そのようにミイラなのだ。

ミイラにお湯を注ぐ。単純すぎる再生の儀式を幼稚園児でさえ実行できる。そこにある嘘、そして詐欺、は一瞬飛び越えられる。飛び越えられたように振舞う。そのリアリティを保障してしまうのは、満腹感であるけれど、ミイラを受け入れることは、特別なことではなく、ただの干し肉、もしくは梅干、もしくは梅酒、とかの、それらが実現しているミイラ的な現実と何の違いも無いのだ。

干し肉としての人体を人は想像することができない。少なくとも、干し肉としての自分を想像することはできない。干し肉と化した、物体と、自分との距離を、

発見したのだ。さっきの俺が。

かつて、自我とか自己とかは、権力を持った支配者や貴族や王族に生まれた意識であるといわれていた。いや、今でも言われている。そこから、産業革命が起きたり商業が力を持ったりする時代になって、自我や自己は資本主義的優位性を持つもの全てに行き渡るぐらい一般化した。そしてさらにそこから、メディアの力が増大することによって、学校に行くだけで、日記を書くだけで、テレビを持つだけで、ネットに繋がるだけで、いとも簡単に誰もが自我や自己と向き合わざるを得ないような時代が到来した。そしてこれから、iPhoneが普及したり、動画の配信がさらにさらに容易になったり、ネットワークへの接続速度が100倍ぐらいになったり、職人的技術だと思われていたものが、簡単にテクノロジーによって肩代わりされたり、今日のウンコが国家のデータベースに管理されたり、するようになると、たぶん、個人の中に、資本主義、とか言われていた物が完全に内在化されるような時代が来るんだろうと思う。だれもが個人企業でもあり、誰もがメディアでもあり、誰もがアイドルであり、誰もが死に行くものとしての仮面を被るのだ。表現としての自己。でも、自己だの自我だのなんて、結局のところただの表現でしかないんだよ。資本主義がそうであるように。表現なんてクソだ。ウンコだ。否定ではなくその通りだ。やっと正しくウンコが出来るかどうかが問われる時代が来るのだ。そしてウンコは正しくウンコになるのだ。そしてそれはなんともアホらしい事に、自我とか自己とかが発明される以前から存在し続けていた出発点に過ぎないのだ。

日常性の延長にあるポルノはつまらない。そこで行われている行為がどんなに非日常的であってもだ。問題は当事者においての日常性であって、社会的規範においての日常性ではない。つまり、当事者において日常的であるなるなら、それは日常の延長でしかないということだ。

行為の社会的過激さは問題ではない。当事者においてどれだけフレッシュな生肉であったかたかということだけが問題なのだ。

フレッシュな生肉を求めるのが正しい、それを求めなくて何を求めるのか。

メディアとしての絵ってとても弱いものだと思っている。不完全だといってもいい。そしてその弱さや不完全さが気に入らなくてしょうがない。ずっとそうだった。

絵が描けるなら漫画を描けと思う。ゲームを作れと思う。アニメを作れと思う。違う観点から言えば、設計図を描けと思う。額縁を作れと思う。教会を建てろと思う。

素晴らしい絵はもちろん素晴らしい。だから素晴らしい絵を描くのだって素晴らしい。それでもなお、絵は不完全だ。

これは機能の話しだ。機能とは使い道だ。包丁があれば魚や哺乳類や植物を捌ける。バイクがあれば300キロでぶっ飛ばして嘘みたいな時間で遠いところに行きつつ、とんでもない緊張感と細胞が沸き立つのを経験できる。ポットがあればお湯が冷めないし、カップラーメンがあれば三分待つだけで胃袋を満たすことが出来る。それが機能だ。

じゃ、絵の機能ってなんだ。
家に絵があったら幸せか?なにがしたくて絵を手に入れるんだ?画集は本だ。あれは絵のフリをしているけど絵じゃない。出来損ないの漫画みたいなもんだ。ここで問題にしているのはたった一枚の絵がもたらす機能だ。だいたいが絵を平面としてみて、その上で絵を楽しむなんてのはごく限られた人がすればいいことであって、そんなものが一般化しないことを嘆いてみたところでそれこそオナニー以外の何者でもない。機能を伴わない製品は滅びる。でもこんなこと言っているけど、絵が嫌いなわけじゃない。俺は絵画的言語を愛しているし、絵画的言語によってコミュニケーションをとるのが好きだし、そのコミュニケーションによって救われたり喜んだ経験がいくらでもあるし、絵画的言語を通してこの人が存在してくれていたことがホントに嬉しいと思ったこともあるし、それらはもちろん絵の機能なわけだ。ただしこの絵画的言語は絵の機能としては不十分だ。なぜならそれは器を伴わないからだ。

美術館やギャラリーが嫌いだ。あんなの器でもなんでもない。行列を作って一体なにをしにいくんだ、あんなところ。絵画的言語によるコミュニケーションをしにいくのか?ありえない。もっとも相応しくない場所じゃないか。要するにショップでしょ?美術デパート。もっとショップとしての誇りと気概をもってプロデュースするべきだ。将来コンビニでエロ本コーナーの隣にサクバのプリントが並ぶようになるのが夢なんです。でもそうはならない。コストパフォーマンスが悪いからエロ本に負けるに決まってる。だからこそ機能を形にする必要がある。

次の個展、あそこでやるのは三回目になるけど、今までも絵の機能を(泣きたくなるぐらい不十分ではあるにしても)絵の中だけに求めるようにではなく展示をしてきたつもり。それがどれぐらい効果があったのかはわからないけど、今度も何かしらはしないと意味が無い。一枚の絵の完成度より、空間や経験の強度が欲しい。そうじゃないと絵が描けない。

絵はやわらかい。粘土とか、言葉とか、音とかも、似てる。
絵で失敗しても、誰かが死んだりしない。まずい表現をしても誰も困らない。たぶん。空回りして困る本人がぽつねんと取り残されることがあるにしてもだ。

そんなことは大したことじゃないのだ。
桜が咲くことや、カマキリの卵が孵化することに比べたら、ほんっとに取るに足りないことだ。

でもここで表現という概念を一歩拡大して考えると、それが途端にコミュニケーションとか国家とか経済とか法律とかまでに行き着いてしまうという現実に突き当たる。

逆に言えば、絵でも粘土でも言葉でも音でも人は死ぬ。それらが拡大されたときには。あっけないほど簡単に。そしてじつのところやわらかい絵は絶滅寸前なぐらい危機に晒され続けてもいる。それでもなお、絵はやわらかいのだ。なぜならそれが本質だから。

いや、そんなことが言いたかったわけじゃない。絵がやわらかいのがつまらないということが言いたかったのだ。ああ、違う。絵はやわらかいんだから気を付けろと自分に警告したかったんだ。

絵なんて、硬いものがあって初めて存在するものだ。粘土も音も言葉もそうだ。硬いものとはカマキリの孵化とか桜が咲くことだ(国家や経済ではない。これらはまた別のフェーズで機能する)。それらは起きるべくして起きる。そして起きた方向性に対して身体が全力を尽くす。硬さとは要するに不可抗力に近い経験の強度みたいなもんだ。それはカツンとしているかもしれないし、ネバネバしているかもしれないし、どんよりしているかもしれない。どっちにしても空間の密度が上がるという意味においてそれを前にしたものにとっては硬いのだ。

時として絵とか物語とかゲームとかがもたらす万能感が嫌いだ。それらはやわらかさの上にあぐらをかいているものだからだ。万能感が欲しくて絵を描くことの誘惑はいつでもどこにでも転がっているけどそこにだけは行きたくない。でも困ったことに万能感を表現することの方がとっても簡単だったりもするんだよな。

11:45
ゲームが教えてくれた宝物は、何でも出来ることのつまらなさと、それでも終わらない欲望があるということだ。皮肉のようだけど皮肉じゃない。

なにが続きなのかというと、きのうの日記の「気分」が続いているのです。

こんなに葉っぱだの花だの鳥だのがムクムクしているときに、でろーんとした気分を引っ張ることも無いだろうとは思うんですが、それはそれ。不自然極まりない現代人としては、何日にも渡って同じ気分を引きずったりもしちゃうわけですよ。そりゃもう、電車の座席に座っている女の子の高そうなカバンが、ただの牛の死体のケツの皮の延長であるという動かし難い事実であると共に、そこに頬ずりする情景の当たり前さがこうやって作為的な言葉を使って表現してみることとは裏腹にどれほど普通であるかという事実の前に打ち砕かれることも無く並列に存在するぐらいどこにでもあることなわけです。

不気味であるということはかくも儚い。
おお、それは素晴らしいことではないか!

なぜに急にプロパガンダチックな文語調になってしまったのかはさておいて、人は死体と共に生きていることの当たり前さと、あらゆる死体が他人事じゃなく、それはおまえ自身の死体なんだぜ、っておい、わかってんのかよ、ってところがどうにも曖昧に毎日が過ぎていくことに腹が立つのです。

欲望の極点は、とりあえずは例えば、犬橇を駆って目指すべき北極点として現れたりもするし、泥酔の限界の果てに見出す朝日の神々しさとして現れたりもするけど、その分かり易さは人を誤らせる。そこではつまるところ、分かり易さとは言語への変換し易さでしかない。そんなものが欲望の極点に成りうるとしたら、それこそつまらなさ過ぎて生きているのを止めたくなる。北極点も泥酔も、それらがプロセスに対する器として働いているときにしか意味が無いのだ。

とか、くだらないことをほざいてないで絵を完成させようっと。

08:06
ウンコを食っても人は死にません。それは知ってる。 でも、ウンコを食って人が死ぬこともある。たぶん。 どれぐらい食ったかとか、どんな時に食ったかとか、どんな風に食ったかとか、そうやって、いくら分析していってもこぼれ落ちるものがあって、や、たまたま今トイレにいって思いついたからウンコなだけなんだけど、ウンコと自分が向き合うということは、始めて告白した彼女と向き合ったり、親が憎くて外側にムニュっとしちゃったり、友達だと思っていた犬に吼えられて噛まれちゃった時に、いつも現れるような、要するに他人とか世界ってもんは、自分ではないと同時に、それらがあるからこそ、自分が居るようにどうしようもなく自分なものとしてしか、もういっかいどうしようもなく、ウンコは他人として自分なわけです。

口に入れたり、手を動かしたり、するってことは、集めたり、分類することとは違う。違うなぁ。

08:44
私とはなんですかという問いに、それは私以外の全てです、と答えられるようになりたい。それ以上にワガママなことなんて思いつかない。

恋多き俺

08:54
自我なんてアンテナで充分だし、充分すぎる。そういえば最近、体がただの入り口と出口のある水袋のように思えてしょうがなかったのだ。

胃袋や血管のなんと単純なことか。

撮影台としての完成度を求めることはなんてつまらないことだろうと思う。これはミニチュアの話だ。

写真、もしくは映像に出力されることを前提にしたモデルは、それが表現の完成形であるならまだしも(最初から撮影されるために作られたという意味で)、モデルの実物そのものが欲望の対象として作られたはずであった場合にはとても不幸な物体としてその残骸をさらすことになる。

そのようなモデルに欠如しているものは、光、空(もしくは表現として閉じられた空間)、空気だ。これらの要素は撮影時に補完されるものであって、表現物には内包されない。

同じ事が絵画にも言える。印刷物でイメージを膨らませて、実物はどんなに素晴らしいだろうと想像していたのに、ご対面してみたらがっかりしすぎて戸惑いのあまり身のやり場がなくなって、嘘つきになって舌を抜かれたり、崖っぷちから身を投げたくなったというような経験はないだろうか。俺はアリまくる。

これは物体としての絵画が、フォトジェニックには素晴らしくても(印刷物においては、印刷栄えのする作品は実物を越えて観客の想像力を喚起するものだ)、実際の存在としては、たとえばマチエールであるとか、額縁であるとか、展示されている空間や照明であるとかにおいては、表現されたイメージを伝えるために的確ではない、もしくは考えられていないために起きる不幸なのだと思っている。

フォトジェニック(写真映りがいい、ぐらいのくだらない意味だ)であるということはなんて罪作りなのだろう。そしてなんてつまらないのだろう。だが驚くべきことにフォトジェニックの脅威は、完璧なベースメイクが施されたベルベットのように滑らかな30代の頬っぺたを見るまでも無く、地球の温暖化を遥かにしのぐ勢いで拡大し続けているのだ。

写真映りを超えた、そこにあることの経験を提供できなくてどうするのだ。例えまだ負けている部分があるにしても、それを目指さなくてどうするのだ。旨そうな食い物より、旨い食い物の方がいいに決まっている。旨そうに見えるだけで、実はマズイ食い物と、旨そうに見えて、ホントに旨い食い物を見分けられることは大事だけど、そしてそのためには、マズイものもたらふく食うわけだけど。その上、マズイものにノスタルジーを感じてしまったりすることもあるわけだけど、とにかくそれを超えていこうと、それが無けりゃ、どんな面白いものがあるのかと途方に暮れるしかないじゃないかと思ったのだった。

俺が見たいのは撮影台ではない。撮影台は、クソ当たり前だけど撮影されるために作られるべきなのだ。

視覚のリアリティについてずっと考えている。リアリティとはもちろん「認識」を経た上での表現であるわけだけど、ここで言わんとしているリアリティは、何が表現されているかとか(モチーフ)、どのように歪んでいるかとか(デフォルメ)、どんな動きをするかとか(スピード)、というような意味でのリアリティではなく、単純に空間の認識としてのリアリティだ。

つまり、ある空間がどのような条件にあるときに最高の違和感をもってそこに存在し得るのか。

主な要素は三つだ。光、被写界深度、奥行きの増幅。

光はその場所に属した光であるように隔絶されていなければならない。夕日が、その水平な光で、普段は黒ずんだ樹の幹を鮮やかなオレンジに照らし出すとき、奇跡のような祝祭が催されるように。

被写界深度には二つの方向性がある。全てに焦点があっているか、極わずかにしか焦点が合わないか。ボケとピント、そして彩度。この要素は距離感を狂わせる。大事なのは狂わせるということだ。距離感の狂った世界を前にした人間は、もう一度、世界を計り直す必要性迫られる。それは手を前に出したくなるということだ。これを絶対的な遠さと言い換えてもいいかもしれない。

奥行きの増幅は被写界深度に従うが、独自な拡張性も持ち合わせている。これはマジックだ。鏡と圧縮的遠近法がそれを実現するだろう。

ここにもうひとつの要素として視差を加えてもいいのかもしれないが、視差は被写界深度に収束されるように思う。

昔から、ずっと同じリアリティを追い求めている気がする。絵は、もちろんこれらの要素を全て含んだ上で、一つのスタイルを確立した表現形式であると思うし、絵には絵に対する自分の欲望がしっかりとあるんだけど、立体としての空間の誘惑を退けることが出来ないのだ。見たいものを見たい。それさえも指先からすり抜けていくのは判っていても。

作ることの喜びがもたらす浮かれた気分と、作らざるを得なくなったときの出発点が持っていた孤独との、そのあいだを生きられるように努力しないといけない。

スケール感が気になる。それは例えば模型の縮尺であったりもするわけだけど、そういう狭い意味でのスケール感だけではなく、生活尺度とか、スピードとの比較においてとか、所有に対する欲望のあり方とかを含めた、かなり広い意味でのスケール感だ。

今に相応しいスケール感というものがあるのだ。それを求めて世界も表現物も変化していく。流通も市場もプロダクトもアートも変化していく。

興味があるのは、遅くても、密度によってスピードが保たれるようなスケール感。時計によって測られる単純なスピードと、優位性に対する羨望によって生み出されるくだらない差異のインフレーションの世界ではなく、社会という枠組みをもっと個人の生活レベルまで、可能な限り引き寄せた上でのスケール感。それは技術の革新と市場経済の爛熟のあとにしか生まれない新しい価値体系であるはずだ。そういう世界を見てみたい。

光学的リアリティよりも物理的リアリティの懐の深さに惹かれているのかもしれない。でもそれは単に資質の問題であると思える。であるなら、重要なのは自分の資質を見極めることだけだし、そのためには、手なり足なりを動かすことだけが正解なんだろう。

物欲アートについてずっと考えている。物欲アートがどんなものかといえば、それは「入れ物込み」の作品を指す。俺が勝手に命名して俺が勝手に定義しただけだけど。

たぶんこれまでに何度も書いたことだと思うんだけど、どんな作品であれそれを楽しむ場所ってのはもの凄く重要なものだ。キリストの受難を描いた壁画は教会にあるべきだし、マンモス狩りを説明する壁画は洞窟にあるべきなのだ。絵であれ音楽であれ彫刻であれダンスであれ建築であれ、どんな表現形式においても無視できないものとして「入れ物」がある。

でも今の表現って入れ物とは切り離されている。それは近代以降においてテクノロジーが発達したおかげでより顕著になって、切り離されたことを補完するものとして額縁だったり見世物小屋だったりライブハウスだったりホームシアターだったりが発達したんだと思う。でもなんか不十分。その思いが拭いきれない。もっと現在の個人のあり方に対してふさわしい形式があるはずだと思う。で、食玩とかミニカーとかトレーディングカードとかのオモチャや、割り切りまくりのプレハブ建築なんかを見ていると、そこにかすかな未来が見えてくるような気がするのだ。

達成感に依存した物欲は、それで今の市場経済が支えられていたりもするし、俺の生活だってそれによって支えられてもいるわけだけど、そこにはどうしても限界を感じてしまう。新しい物欲。その可能性を探りたい。

新しさの限界について考えるのが好きだ。まず新しさってのはそれ自体が暫定的な概念だと思っているし、自我の規定にもよるけど、自我を主観的認識ベースで捉えるなら、無限の新しさってのは存在しないわけで、極論すれば単なる「変化」にまで単純化したってなんの問題も無いとさえ思っている。つまりここで言いたい新しさの限界ってのは、自分における新しさでしかないし、それ以外の新しさってものも、どんなに外側に感じようとも、結局のところは自己認識の外側に出ることは出来ないんだよなっていう、ある意味ペシミスティックな意味も含めつつな限界であるわけだ。

こういう思考をひねくれていると片付けるのは簡単。で、こういう思考の限界を面白がるのが好きなんだ。もの凄く飛躍するけど、市場原理とかってこういうロジックに支配されていると思う。つまり誰もが多少は思っている「自分」という認識が、本質的には全てが自分でしかないと論理的には言い切れる側面を持っているとも言えるのに、実際の市場とか社会とか個人的なコミュニケーションは、それが個人的な認識に留まらない共同体であると言う前提によって成り立っている。この手のことって凄く厄介なことなんで、簡単に言い切ってしまうと間違う。でも、これを意識していなかったらどこに面白いことがあるのってぐらい面白い。

いろんなスタンスの人がいるし、だから面白い。でもそれぞれの人がいろんなスタンスを表明していなかったら、ちっとも面白くない。そこに「自分」と「共同体」を超える可能性を感じる。新しさって概念は、自分と共同体を相対化するように存在したときにこそ、その力を発揮するし、限界を明確に現すものなんだ。

夕方、なんかやけに怪しい天気で、上の空は曇って雨がぱらついているのに、西の空は開けていて沈みかけた夕日が建物の壁を光らせている。ぞわぞわする天気。すると見事な虹が出た。端から端までぐるっと。しかも一方は二重になっている。虹の直径ってどれぐらいあるんだろうとか思いながら、ずっと空を見上げて歩いていたら、急に目の前の町のスケール感が変化したような感じがした。町が小さくなったというか、空が大きくなったというか、そんな感じに。全部が虹の手前にある。虹をバックにした舞台と言うかオモチャと言うか、それがとてもリアルなんだけど、逆に嘘くさいようにも見える。こういうとき、いつも自分は世界を掴んでいるような気持ちになる。世界と対等になっているような気持ちになる。それはたぶん、もっと日常に必要な感覚であると思う。

偉そうなことを口にしているくせに、季節に取り残されていたり、体を無視している自分がいる。口だけじゃん。ダサいったらありゃしない。

物を作る時間の嘘っぽさと、今に追いつく時間のリアリティの均衡をとりたいと思うのに上手く出来た試しがない。勘違いならいくらでもあるのに、いつも後になってから勘違いだったと思うだけだ。

「今」という概念に幻想を持ちすぎている嫌いはあると思う。エコが流行るように。それはただトレンドであるに過ぎない。たとえばマイブームとかこだわりとかって、「社会的な今」をやり過ごすには有効な薬だとは思うけど、本質的な苛立ちを鎮めるためには何の役にも立たない。それで乗り越えられるぐらいなら誰も決定的に落ちたりしない。

言葉に出来ない「今」があると思う。それは生きていく自信にもなる。でもこれじゃ何にも説明になっていない。

今日、今、ここは気温が上がっている。この瞬間に細胞が温度によって変化を起こしじんわりと汗が吹き出てくる。自分の体だけじゃなく、カラスや木の葉っぱや、無脊椎動物や、野良猫やサラリーマンなんかも同じ力の影響を受けているだろう。もっと言ってしまえば、今日の株価とか、佐川急便の運転手の気分とか、サツキが枯れたことを悲しむクロアゲハとか、水位の上がった南極の海とか、そういうものがみんな気温の変化の中で影響を受け、そしてその影響を与え合っている。でも、こんな言い方がロマンティックすぎるのはよく知っている。ちょっと興がのってしまっただけの話だ。どんなに他人を勘違いさせるように言えたところで、自分の今との距離は縮まらないのだ。

時間の外側で生きないとダメなんだと思う。ファーストフードとかスローフードとかも、遅かろうが早かろうが時間を基準にしている時点でどっちも一緒だって気がする。

自分でも似たような事をいったことはあるけど、たとえば旨い米を作っている農家の人が、そのための努力も精一杯していて、自分の人生でせいぜいあと40回ぐらいしか米が作れないんだから、一回一回を大事にしたいんです、とかいうと、とっても美しい話に聞こえるし、その真剣な気持ちも伝わってきたりもするんだけど、それじゃダメなんじゃないかとどっかで思っている自分が否定できないのだ。それは効率を求めて農薬や最新機械を投入することと、作り手の精神としては同じ構造の同じ価値体系に立った思考だと感じられてしまう。

ただ、そういうシフトが無意味だと思っているわけではない。それはおそらく必要なことなんだと思う。社会とか経済の成熟のためには。でも、社会の成熟を待って生きているわけにはいかないので、もっと強引なリアルが欲しくなるんだよ。それがないとやってらんない。時間を基準にした思考の外側で生きていたい。もっと言ってしまえば、時間を測ることを可能にする言語の手前を生きる基準にしておきたい。流通する言葉ではなく、生まれる言葉を大事にするべきだ。それが生み出せる外側としての時間は測ることが出来ない時間であるはずだ。

最初の予定では健全ぽく見えるエロス的世界と、不健全ぽく見えるタナトス的世界の対比を考えていたんだけど、そのエロス的世界の方がタナトス的世界の方に吸い込まれつつあるようだ。しかし元々そのエロス的世界の方も消費社会の単純化された姿として考えていたわけで、現代における消費社会の病み方を思えば仕方ないことなのかもしれない。

このところ身体改造系のサイト(腕切っちゃったり、ちんちんを縦割りにしちゃったり、磔になったり)とか変態系エロサイト(ウンコ食ったり、馬とやったり、頭入れようとしたり)を割りとよく観てるんだけど、あくまで本人が進んでやっていると仮定した場合にはそういうことって「正常」な欲求としてあるんだと思う。たとえばインフルエンザにかかれば高熱が出るのは「正常」な体の反応だ。日常ではないにしろ、その熱は体が戦っている証拠だ。同じように性的虐待を受けた女の人が対人恐怖症になったり、逆に風俗にいったりするのも「正常」な反応だ。プライドの高い親に育てられた子供が分裂症になりやすかったり、母親の愛が充分に得られなくて超スケベになってしまったり、根本的な生きるすべを学ぶ機会をまったく持てずに(って今の時代誰だってそうだけど)育った子供が社会に適応できずに心を病んだり、そういうこと全部が「正常」な反応であり戦いとしてあるんだと思う。もちろんこの言い方で言うと犯罪でさえ「正常」な反応であり戦いであるといえる。でも実際そうなんだと思う。

ただ、「正常」なんだからそれでいいじゃないかとはこれっぽっちも思わない。なぜならそれは戦いだから。まどろんだり、意思を失ったり、依存したりしたら負けだ。その状態は「正常」じゃない。それこそが異常な状態だ。(いや、休むのはとっても大事だけどさ)

だけどこんな言葉はほんとに苦しいときにはまったく届かないし意味がない。ほんとに苦しいときに頼りになるのは自分の呼吸だけだと思う。その呼吸が意思なんだと思う。原因が外側にあろうとも戦わなきゃいけないのは自分だし。

話がずれちゃったけど、俺にとってのエロス的世界はそういうことを前提にした「戦いの準備をするフィールド」になる必要があるかと思ったのだった。つまり理想的でエコロジカルな快楽の園ではなく、タナトス的なバトルを支えるためのオアシス(捻じ曲がってはいるけど)である必要があると。既に誰もが改造人間である現代においてはそれぐらいが丁度いい。

世界は平らで果てがあり、海の終わるところではゾウさんとカメさんが大地を支えている。ってのが昔の人の想像した世界観であるけど、ああいうのも一人の人間にとってはあながち嘘っぱちではないと考えている。太陽が地球の周りを回っていたとしたって何の問題もない。別に現代科学が定義しつつある世界の構造を否定しようとかそういうことではなく、個人の認識として、つまり表現として、自分の内側から世界を定義するような態度というのは非常に重要だと思うのだ。たとえばそれがなかったらスポーツ選手は強くなることが出来ないだろうし、陶芸家は自分の身体をコントロールすることが出来ないだろう。主観が一番だとか、思い込みバンザイとか、そういう単純なことではなく、ある手応えと、意思を伴った規律の上で切り開かれる認識は、たとえそれが非科学的であったとしても、他には代えることの出来ない、個人にとっての唯一の認識になるはずなのだ。それは知恵と呼ばれたり、直感と呼ばれたり、妄想と呼ばれたりする。世界は平らであるという知恵があってもいい。月が穴である(by Timrick)という直感があってもいい。精神には涯があるという妄想があってもいい。認識の自由からこぼれ落ちているものはとんでもなく沢山あるように思えてならないのだ。

科学とは実用性という幻想のもとに集められた部分的認識の集合である、と考える。ここで言う実用性とは、戦争に勝つことであったり、洗濯物を手で絞らなくてもいいことであったり、料理をしなくても料理されたものが食べられることであったり、短時間に長距離を移動できることであったり、一時的に寿命を延ばすことであったり、離れた場所から現象を操作することであったりするような、とにかくも部分的でしかない認識だ。しかし実際は、そんな実用性のために部分的認識としての科学が肥大し続けているわけでは決してない。結果がそのように流通するおかげで、科学に携わらないものと、科学に携わるものとの間に実用性という幻想が横たわるに過ぎない。

一方で科学的に成れなかった全体的認識の分野がある。それは宗教であったり、芸術(といわれているもの)であったり、哲学であったりするような場所において生きながらえている方法論だ。そこでの発明品は直感的根拠しか持たない曼荼羅であったり、ダンスであったり、決定的な定義を欠いた論理であったりするようなものが生み出されてきた。

全体的認識は個人をベースにしてしか定義できないゆえに、おそらく原理的に正確でありえない。科学は現在、その正確で有り得ない領域に近づこうとしているようにも見えるけど、それが一致する場所もまた個人でしかない以上(少なくとも俺はそう思っている)、どんなに近づこうともその溝は埋めることは出来ないだろう。もっと言ってしまえば、科学もまた、部分的認識として認識される以前においては、全体的で個人的認識から出発しているのであって、それはまた科学の現代的価値を貶めるものでもあるのだけど、それが科学する個人にとっての現実であるという次元においては、それは科学でもなんでもなく、ただの個人的で全体的な認識への欲望の結果に生じた断片に過ぎないのではないかと思えてならないのだ。要するに俺は直感的で個人的な科学好きで、直感的で個人的な科学とはそれが曼荼羅であろうが電子レンジであろうがゲームであろうが、それぞれの価値が自分において再定義されるような場所を提供してくれる物であることを発見し喜んでいるのだ。

ビジュアル的な意味での醜さってものがどういうものか分からない。それはたぶん何らかのいやな経験を呼び起こすから醜いとされるんだろうとは思うのだけど、結びつくようなものが思い当たらない。

それでもある態度が醜いってのは分かると思える。この態度ってのは数学の計算式みたいなもので、問いがあって、処理があって、答えが出る、というその過程が合理的でないときに醜いと感じるんだ、たぶん。ここで合理的ってのは何を基準にして合理的かというのが大問題なはずなんだけど、これって核心過ぎて面倒になるな。一番シンプルに感じられることほど説明を拒絶するんだ。

で、過程の醜さと恥には尋常じゃない興味がある。この二つって似てるでしょ。それはどっちも苦しいもので避けて通れないものだ。

11/8(Mon) 9:03
「それは愛じゃない」ってことが知りたいために、可能な限り愛から離れたものを欲してしまう。それは不幸かもしんないけど、それを不幸と言っちゃおしまいだ。そして「愛じゃない」って呪縛の内側ではどんなことでも「愛が欲しい」ことの鏡になってしまう。だからそんなものは愛じゃないんだよ。って早いところ分からせたいもんだ。

奥ゆかしさと正しさは同じものだと思った。

だとしたら、

野蛮の無い世界は好きになれないと思った。

10/21(Thr) 16:10
ユルユルに鍛えられたケツの穴に意味があるとすれば、鍛えられた以後の経験にではなく、ユルユルになっていく過程にこそ意味があるのだ。冒険は意図の外側で不毛を目指す。なぜなら既に砂漠しかないからだ。なのに、オアシスがその歩みを留まらせる。そして、冒険は結果的に不毛を目指しても、不毛を欲しているわけでは決して無い。不毛もまた過程に過ぎないからだ。そうでないならば不毛でさえも有り得ない。優しい言葉は毒だ。

尖った痛みと交換に得られるものなんてたかが知れている。

と、自分で書いた文章の意味を二度ほど読み直して想像すると、そこには凄いことが書かれているような気がしてくる。他人事だ。上手く言えたと思えることなんて、酔っ払いの思いつきと一緒でその程度にしておくのが賢明だと思う。上手く言えることなんて何の意味も無い。実際飲んでるし。

緩くて不安を含んだ鬱陶しいヌメヌメした膜を突き破るためには何の役にも立たない。コンドームよりも始末が悪い膜に包まれてしか存在しない関係。そういえば俺が中学のころにコンドームのことをムードンコというのが流行っていた。では、この始末の悪い膜の事をムードンコと命名してもいいわけだ。社会とはムードンコによって結び付けられた遊戯である。この定義は、少なくとも尖った痛みと交換されたなにかよりは実があるように思える。

ユーモアを知らない。人を笑わせたことはあるはずだけど、それは俺が笑わせのではなくて、俺が可笑しかっただけかもしれない。さらに言えば、それは同じことかもしれない。怖いなぁ、怖いよ。結局、問題にされるのは「確信しているように見えるかどうか」もしくは「確信を確信しているかどうか」であって、実体はどこにも無い。だから尖った痛みとの交換物なんて曖昧な生理的表現に訴えかけようとするんだ。それって、狼が来たよ!ってのと同じじゃん。

卵焼きが焼けました。
カップにお湯を注いで3分間経ちました。

それだけじゃダメなのかな。
ダメなんだろうな。

最近覗きについてよく考える。今の時代に生きる人は目を覚ましている時間の90%ぐらいを「覗く」という行為をすることだけで過ごしているんじゃないかと思えてならないのだ。

覗くということはたとえ事実は違っていたとしても、覗いている本人にとっては、覗いていることが覗かれている対象に意識されていない状態をもって成立することだ。たとえばテレビを見ること、新聞を見ること、ネットをやること(ネットは「見る」んじゃなくて「やる」のか?)、電車に座ること、食事をすること、仕事をすること…、とにかく人は絶えず覗いている。いったい覗くという行為を除いたら、どれほどのことが残って、その残ったものだけで生きていきなさいと言われようものなら、退屈で死んでしまうのではないかと思えるぐらい覗きまくっている。なぜそれほどまでに覗きたがるのか、何を知りたくて覗くのか、なぜ覗くという関係性を選択するのか、説明したい欲望もあるのだけどとても面倒そうだ。ただ、人間が覗きが好きな生物だというのはかなり確かだ。

覗きとはどこまで行っても覗きだ。公園のカップルが性行為に及ぶところを覗くのも、アナウンサーが戦地に赴いて弾幕の中でレポートするのを覗くのも、覗きであると言う意味では何の違いも見出すことは出来ない。問題なのはその行為が覗きであるかどうかであって、覗かれる対象が何であるかはどうでもいいのだ。それはつまり何を覗こうとも、その行為が覗きである以上、得られるものも覗き的世界の価値観のうちからは出ることが出来ないであろうという、俺が今日言ってみたかったことであり、もちろんそれが言いたかった俺はその通りだと何度も頷くのだ。

しかし、なにも俺は覗きを否定しようとしてこんなことを書いているわけではなく、面倒だというガキのような理由で考えようとしなかった覗きという現象が与えてくれるフィールドで、覗きそのものに違和感をもって向き合うことで何かを掘り出したいと思っているらしい。なんて厄介なことを欲しているのか、とアホらしくなるのだが、アホらしいと思っている分、不誠実なのも確かなわけで、しかしその主題はアホらしいと言い切ってしまうにはあまりにも重過ぎるということに混乱しているのである。今日は割りと論理的な本を読んだので、その影響が出ているようだ。ほんと、簡単に覗いたものに影響されるもんだから始末が悪いったらありゃしない。

いわゆる「演技」というものに興味がなかったりする。きのうの模型的リアリティの話ともシンクロしてくるんだけど、演技はいらない、と、どこかで思っている節がある。それはインダストリアルワールドの悪い影響です、と言われたらその通りかもしれないと思う。病気か?でも、自分ではそう思っていない。むしろ、演技を悪だと思っていたりするのだ。それこそ病気の証だという突っ込みは置いといて、多少の弁明をさせてもらえば、演技ほど押し付けがましいものはないのではないかと思うのだ。憑依とか運動は認められても、演技というものからはいいものを想像することが出来ない。でも実際に演技をしている人からは、それこそが演技だよ、とかいわれそうだな。そうだったら嬉しいんだけど。

たぶん俺が「演技」というものに対して、過剰な偏見なり怨みなりを持っているせいなんだろうなとは思う。そこでは機械というメタファーや節足動物というメタファーが「演技なき運動」として(お決まりなパターンだけど)重要性を主張したりするのだ。別に感情を否定しているわけではないし、あくまでも表現の上での話しだ。音楽における演技、舞台における演技、絵画における演技。なんか演技という言葉に申し訳ないぐらい否定的なイメージしかもてない。もっと包括的で可能性のある言葉なはずなんだけどな。

10/11(Mon) 21:08
このところ否定的なことばかり書いているようだけど、そんなつもりじゃないんだよ。ものさしでいろいろ測っているんだ。ただ、そのものさしがちょっと歪んでいるだけなの。ほんとにただそれだけ。

ここで問題です。歪んでいるという自覚がある人間の言う事は、果たして歪んでいるという自覚の上に基づいているのでしょうか?答えは「どちらでもない」もしくは「ほっとけ!」です。

10/11(Mon) 21:22
戦場を決めて、その戦場で有効な戦略を編み出し、兵器や作戦を洗練させることには、とっても大事なことがあるのかもしれない。それを文化と言うのかもしれない。まさに。

一定のレベルまではその法則はとても有効だ。それは認めるよ。俺だってその程度には兵士でやってるさ。でも、でもだよ。戦場を見失った兵士はどうやって生きていくんだ。いや、戦場なんてどこにだってあるんだぜ。なのに、文化的で社交的な戦場なんて狭すぎるんだよ。戦場なんて言葉が吹き飛ぶようなフィールドこそが大事なのに。

10/11(Mon) 21:30
地図が失われるということはそれほど怖いことじゃない。怖いことじゃないということは、取り立ててわめき散らすほどのことではないということだ。

3Dソフトでレンダリングされた画像に惚れたことが一度もない。ワクワクしたことや感心したことや憧れたことや嫉妬したことは何度もあるのだけど、「惚れた」ということはない。2Dの画像でもCGに限らず滅多にないのだから、3Dだったら尚更なのかもしれない。

俺にとって惚れるということは、全面的に受け入れるということだ。それは良いものでなければならず、作り手という「存在」をあくまでも無言のうちにヒシヒシと感じさせてくれるものでなければならない。

「あなたが作りたいものは何ですか?」という問いには「俺が作らなかったらこの世にないものです」という答えを返すようにしているんだけど、逆に言えばそう感じられないものには惚れることが出来ない。良く出来た3Dのミヤマクワガタには感心するけど、「誰か」を感じさせてくれなかったら、何気なく撮った写真と何も変わらない。かといって、ここが難しいのだけど、押し付けはいただけない。押し付けられるぐらいなら、物凄く良く出来た「誰が作ったのか分からない」ようなミヤマクワガタの方がずっと美しい。ほんとにそうだ。

たまに、この人が作らなかったらこの画像は生まれないな、と思わせるような3D画像に出会うこともあるのだけど、それらのほとんどは技術的に稚拙だったりして、世間的には力を持てないだろうなと思うようなものだったりする。いいものは確かにあるんだけど。
いわゆる「アート」的な価値観がこのデジタルの世界に浸透するのは意外と時間がかかるものなのかもしれない。

補足:
デジタルアート(もしくはコンテンポラリーアートにおけるデジタル技術を用いたアート)はここで言っているアート的な価値観からはズレます。コマーシャルアートとかシミュレーショニズムとかは基本的には面白ければ(もしくは新しければとか、インパクトがあればとか)OKなわけで、それはある意味良く出来たミヤマクワガタと同じです。そしてそれらも、押し付けよりはずっといいわけだけど。

ずっと3Dソフトのマニュアルとにらめっこしていたら目がイライラしてきた。モニターで字を読むのってホント疲れるなぁ。BBSとかの細切れの字を読むのはそうでもないんだけど、まとまったのを読むとだめだ。

3D、覚えます。つうか、一度は出来るようになっていたんだよ。6年ぐらい前だけど。でも覚えたソフトがいきなり別物になってしまって、その上出来が悪くて、誰も使わなくなってしまって、何の役にも立たなくなってしまったのだ。画像のソフトだったら、大体どんなソフトでも触っていれば分かるんだけど、3Dだとそうもいかない。考え方が違うとまるっきり別のソフトになってしまう。少なくとも昔はそうだったような気がする。今はどうなのかな。今日二つぐらいいじっていたけど、多少は方向性が絞られてきているのかもしれない。

3Dを覚えようと思う理由のひとつは、繰り返しが嫌いだということがある。同じものを何度も描いたりするのが好きじゃなかったりするのだ。アニメーターには絶対になれないな。あとはゲーム、もしくは動画への移行が容易だということもでかい。でも一番大きな理由は「模型的リアリティ」が好きだということかもしれない。

「模型的リアリティ」をどう説明したら分かってもらえるかな。あまりいい説明ではないかもしれないけど、「翻訳された立体、もしくは空間」というのが近いかもしれない。絵でももちろんそういう部分はあるけど、模型の場合はもっとシビアだ。どんなダメな形であろうとそれは実際に存在する形になってしまうからだ。それは絵だって物質だというのとは次元が違う。絵が翻訳するのは立体や空間ということで言えばかなり曖昧なものだし、そうであるがゆえの抽象性が絵の自由さと可能性でもあるわけだ。「模型的リアリティ」はそれに比べるともっとそっけないものだ。見るものの努力を要するものだといってもいい。いきおい技巧の巧みさやディテールの細かさに眼が行ったりしてしまうんだけど、そういうことでもない。かといってそれは「彫刻」なのかというと、それでさえない気がする。なにかもっと「遊戯」とか「横断」とか「覗き」とか、時間軸を含めたような価値なのかもしれない。

ああー、もう寝なきゃだよ。
いきなりこんな書き出しされても引くよなぁ。大昔にも何度か書いたけど、ネタがないなら書くな、無くても書かなければいけないのなら、ひねり出せ、ってのが基本だってのはよくわかる。というよりそう思い込んでいるところがある。そんな思い込みをしているやつが、「寝なきゃ」なんてことを書くのはあきらかにプライドを放棄しているように見られるんじゃないかとビクビクしているというわけだ。それ以上もそれ以下でもなく。

面白ければ「寝なきゃ」でもかまわないわけだ。もちろんその通り。つまり、「面白い」=「ネタかどうか」ということだと思っているらしい。俺は。ところが妙なことに、他人が「もう寝なきゃ、明日も仕事なんだぜ、こんなの書いてられっかよ!」とかいうのを読むのは嫌いじゃなかったりするのだ。そんなのはネタでもなんでもないのに、面白がっている自分がいる。除き趣味なのか?でもスクープとかゴシップとかってのはまさにそれじゃん。

自分が面白いと思いたくないものに反応してしまう自分。そんなものに関心を示したくないという傲慢を抱えている自分。「関心を示したくない」と思っているのはダサいなぁと思えるのに、関心を示したいと思っているわけでもない。でも恋はしてしまう。恋をするのはなんて簡単なことだろう。そしてなんでこうも俺は「表現」という嘘っぱちの衣に固執するのだろう。

世の中には使えるものと使えないものがある。使えるものにもさまざまなレベルやフェーズがあって多様なのは確かだけど、今使えるものと、今は役に立たないもの、の、違いというのはとてもはっきりしてたりする。そして(面倒なので飛躍するけど)「今」とはいつなのかが問題なんだと思う。「寝なきゃいけない」のは今だけど、それは自分にとっての今ではない。もっと情けない表現をすれば、そうであって欲しくない。

八時間後の未来を予測することは簡単だ。俺は酒臭い息を吐きながら電車に乗るのだ。だけど雷は落ちるし、車にも引かれるし、彗星だって衝突するのだ。ほんとだよ。こんなにほんとなことがどこにあるんだ?

10 億年後に起こることを知らないで済む人は幸せか?そんな物言いをするのは赤の他人のただの嫉妬じゃないか。嫉妬と自慢は同じものだと今わかった。悪く言いたいわけじゃなく、それが今計測されました。ネタが真実の隠れ蓑ではなく、ネタは真実(のようなもの)へのジャンプであって欲しいと思う。

ウォークマンとか、そういう外で音楽が聞けるような類のものは持ったことがなかったんだけど、ひょんなことからiPodを貰った。そんで外で自分の聴きたい曲をかけるというのを初体験したのです。

妙な体験だった。映画を見ているような気持ちになった。家でヘッドフォンをしているのとはぜんぜん違うんだね。歩いたり電車に乗ったりしても、まるで空の月がどこまでもくっついてくるみたいに音が途切れることなく鳴り続ける。自分で歌を歌っていたりすれば似たような状況になるだろうけど、そういうときの「主人公感」よりも距離感があって、ほんとに映画を見ているような感じというのがぴったりな感じだ。

映像だったらどうだろうとふと考えた。ウォークマン的に映像を持ち出すのは不可能だと思った。ポータブルDVDプレイヤーなんてのはそういう意味では近そうに思えるかもしれないけど、この時に考えたこととはぜんぜん違う。この体験に近いのはヴァーチャルスコープみたいな超ハイテクじゃないと同じ次元にはならない。むしろ色つきサングラスとかの方が近いのかもしれない。あとは幻覚剤とか。

そういう感覚には興味はものすごくあるんだけど、日常的にそれが欲しいかといったらいらないと答えると思う。でもその感覚はとても強力な商品価値を生み出すだろうなということは容易に想像ができる。今この感覚に一番近いところにあるのはおそらくオンライン3Dゲームかもしれない。それの行く先は「持ち歩く」ものではなくて「中に入る」ものなのかもしれないけど。

大きなヤママユガの幅が3mmぐらいのぶっとい足が、グリグリと動くのを気持ち悪いと感じてしまうのは正しくない。そのギャップは病的だ。あたりまえなのに。そういう不公平が病的だって事は絶対に忘れちゃいけない。そういう弱さは根強くて鈍さを引き寄せる。大事な鋭さは分かり易いところではないところにあるんだ。

買い物話は興味ない人にはつまらないことこの上ないと思う。まず自分がそう思う。ある意味ただの内輪話なんだ。とは言っても今時、内輪話のコミュニティ以外に何があるの?ってぐらいどこへ行っても内輪話が溢れかえっている。善し悪しは別として、それが今だといってもいいぐらい。大きな内輪話と小さな内輪話があるだけで、どこまで行っても内輪話。文句があるのかどうかもわからないんだけど、こういうナンチャって少数民族の集合というのは世界規模で浸透しつつあって、それは新たなリアリティの定義なのかもしれないし、言語と価値の解体による脱出口への模索なのかもしれないし、あるいはただの気晴らしのためのヌルイ遊戯なのかもしれない。何が正しかったかは後になってみればわかることなのでどうでもいいんだけど、今ここで違和感を感じている自分は否定できない。その違和感を忘れるようにだけは生きないようにしよう。

040318.jpg世界を記述してみたい。ずっとそう思っていた。たぶん、思い出せないぐらい昔から。何度も何度も世界を記述する試みをしてきたような気がする。なんの為かはどうでもいいの。それが出来たときには、それは自分にとっての最高のオモチャになる。それが初めからわかっている。それはあらかじめ終わったオモチャかもしれないけど。

哲学的にではなく、どちらかというと曼陀羅みたいな直感的な解釈でそれをしたい。哲学的な態度は科学的な態度と同じで分かり易くはあるけれど、そこからこぼれ落ちるものが決定的に重大すぎて好きになれない。その単純さが導き出す複雑性にウンザリするってのもある。今、わかりにくい言い方をしたけど、単純さにもいろいろあって、論理的な単純さはその一元的な特性ゆえに複雑な構造を導き出すし、直感的な単純さはそのその多義性ゆえに個人に多くの経験を求める。この言い方も抽象的過ぎるけど、これはセックスの仕方が書かれている本を読んでその通りにセックスをするのと、セックスという言葉を知る以前にセックスをしていて、これがセックスだったの?とあとから知る違いみたいなものだ。

たとえが悪い。言いたかっただけみたいだ。俺の身体はどちらかというと前者でガチガチだ。でも、ガチガチじゃない男には出会ったことがない。そして才能は、そのどちらでもないところにだけある。才能と言うにはあまりにも当たり前なリアルだ。そういう意味では、リアルは瞬間でしかない。そして瞬間であってなんの問題もない。その瞬間にとんでもない掛け金がかけられ、それを掛けることにも、それを見ることにでも莫大な金が動くぐらい、そのリアルは、今のところ、強力なのだ。

誰にだってできることがある。誰かにしかできないことがある。そして誰でもが誰かだ、じゃなかったら、誰でもが誰かであり得る。少なくとも、それぐらいの可能性がどこにでもある。自分がその誰かになるということは、論理的ではなく直感的な意味でいつでも正しい。自分にとって世界を記述するということは、記述された事実の正しさを求める行為ではない。なぜならそれを求めたら、その世界は正しくないものになるからだ。この手のことに異常な自信がある。論理的なことや科学的なことは何も知らないくせに。この自信は科学や論理の起源よりも根元的なところに根ざしているからだ。その、より根元的な何かは、とてもシンプルでシビアな何かだ。シンプル過ぎるが故にないがしろにされたり、シビアであるが故に排除されたりするようなものだ。

僕の雨の日。
僕の秘密基地。
僕のママのものではない僕。
誰のモノでもない僕。

俺のお前のものではない俺
俺の俺のものではない私。
私を蹴散らすこの身体。

身体に寄り添う誰か。
誰かとしての唾液。
唾液に触れられる皮膚。
皮膚と空気の間に生成するチョコレート。

僕の記述する世界は
箱の中で
箱を突き抜けて
箱を成立させ
箱は箱のしがらみの中で
腐り

腐っていく記述された世界は

正しい

その腐っていく箱を
僕に下さい。

3/18(Thr) 17:26
スパイラルはかったるいけど スパイラルの中で生きている スパイラルがきもちいいと思えるほど 遅い時間は流れていない 遅い時間に取り残されるのは 気分が悪い

スパイラルに乗りたい

3/18(Thr) 17:55
ポルノグラフィを見るために何時間を費やしたのだろう。 ゲームを生きるために何時間を費やしたのだろう。 活字を読むために何時間を費やしたのだろう 写真に浸るために何時間を費やしたのだろう。 買い物に悩むために何時間を費やしたのだろう。 他人から笑顔を貰うために何時間を費やしたのだろう。 反応が知りたいが為に何時間を費やしたのだろう。 忘れるために何時間を費やしたのだろう。 覚えるために何時間を。 やり過ごすために何時間を。

慣れるために
出来るために
腹を満たすために
ほどけるために
描けるために
伝えるために
食うために
飲むために
いい気になるために
逃げるために
楽になるために
思い出すために
聞くために
気持ちよくなるために
並べるために
磨くために
正しいために
一貫性のために
ゴミがないために
垂直であるために
水平であるために
書き取るために
比率のために
均衡のために
平均のために
夕方のために
朝のために
夜のために
散歩のために
足のために
空腹のために
贅沢のために
機械のために
他人のために
金のために
キーボードのために
安楽のために
暴力のために
絵のために
酒のために
鉛筆のために
交尾のために
葬式のために
ロボットのために
自分のために
排泄物のために
バッタのために

何時間だったかはどうでもいい
そのように生きていることを
もうすこし
俺は
わかったほうがいい
改善するためではなく
ないがしろにしないために

ああ、きのうの11時ぐらいに書いたNEWSを間違って消してしまいました。誰か保存していた人いますか?ひょっとしてそんな奇特な人がいたら送ってくれませんでしょうか。いなさそうだなぁ...

3/7(Sun) 20:35

下で書いた消しちゃったログを送ってもらえた!
送ってくれた人、感謝、感謝です。
また呑みに行きましょう。

というわけで一度消えたNEWSです。

3/6(Sat) 11:27

次のプロジェクトの設定に関して思っていることの一つに「外国」が存在しなくても成立するような技術体系を提示してみたいということがある。おそらく、これはかなり難しい。不可能かもしれない。でも少しでもそれに近づけたい。

例えば石油は無し。この時点で自動車にゴムのタイヤは付かなくなる。ガソリンも使えない。プラスチックは代替物があるようだけど、微妙なものになる。ガラージュの時には物質=生物の意志だという理想主義的かつ夢想的な設定で強引に完結させたけれども、それは一度やってしまったので、使い回しは出来ないなってことで(実は未練もあり新しいアイデアもあるのだけど)避けたいのだ。

夢のような、というか、シュールリアリスティックな表現には限界がある、と思う。どのような限界かといえば、リハビリテーションとしての限界だ。リハビリテーションはその対象が存在しないところでは意味をなさない。リハビリテーションの状態にしがみつくなんてクソで滑稽だ。病は生きられるものであって、外側に求めたり、内側に閉じこもったりするものではない。リハビリテーションにも階層があり、あらゆる人が、いずれかの階層に属していて、階層がシフトしたときには、シフトした階層で新たなリハビリテーションを始めるべきであって、そこまでいってしまえば、それはリハビリテーションでさえないのである。

自分にとっての現在地点としての階層を出来る限りはっきりさせる必要がある。今、現金を得たり、ネットワークを利用したり、ダラダラと外国の酒を飲んだり、そういうことを全部込みの上で、自分自身が「行きたいと思う場所」を生きないとろくなものは出来ない

雑然としている。沢山のものが詰め込まれているような気がするのに、何もないようにも思えるし、何もないと言うには騒がしすぎる。こんな気持ちになっているのは俺と、後は似たような時間を過ごしている人だけだろう。今日は涼しいとか、暑いとか、そういう話じゃなくて、とても個人的な理由で雑然としているのだ。

人というのは、いつでも個人的な理由で雑然としたり、殺伐としたり、テンパったり、のうのうとしたり、フニャフニャしたりするものだ。そして非個人的な理由でせいせいしたり、イライラしたり、ノビノビしたり、ギスギスしたりするものでもある。今思ったんだけど、この違いってただの時間的な違いに過ぎないのかもしれない。個人的な理由っていうのは、今より以前に起きた事柄に大して形容される表現で、非個人的な理由っていうのは、今起きている事柄に対して表現されることなのかも、と、思ったんだけど、どうも違うみたい。「数」の問題がある。過去に起きたことでも、数が多ければそれは非個人的にされるんだ。民族にされたり、国にされたり。でも、なんか納得行かない。時間軸で説明する方がずっとしっくりくる。たぶん、数はあまりに社会的幻想に過ぎるからだ。それがどんなに強大であろうとも。

とてもほっとした。あと、ちょっとさみしい。
ほんの五回ぐらい雨にやられただけなのに、その圧迫感は馬鹿にできないものがある。追いつめられる感じ。余裕が無くなっていって、問いつめられたあげくにいっそのこと逃げたいと思ってもどこにも逃げ場がない。大袈裟な気もするけど、もしこれが20回も繰り返されたら相当耐え難いだろうと思う。これって天気に限らずなんにでも言える。繰り返され継続する圧迫感は、とんでもない暴力で人をいとも簡単に変えることが出来るし、そういう力には人はとても弱いのだ。

でもちょっとさみしい。
これが何故なのかもよく分かる。いくら苦しくても経験したことのないことがその先に待っているような予感はその苦しさの中には紛れていて(だからこそ苦しくもある)、それを全うしたいという気持ちが苦しさの中にも芽生えているからだ。これはタナトス(とりあえず破滅願望ぐらいの意味)でもあるかもしれないけど、逆に生きる欲望そのものでもあるようにも思える。可能性の提示が外部の要因によってなされ、それの自覚によって体の中に力が生み出される。そしてその力に従いたいと思う。その結果、従う可能性が絶たれたことに関してさみしいと思うんだ。これってたぶん人間だけじゃない。その証拠に蝉の鳴き方の変なこと!生き物ってつくづく不思議だ。

雨のおかげでなんか疲れちゃってる。
雨でもなんでも移動はとにかくバイクだからなぁ。20年ぐらいずっとそうです。

電車とかも悪くない、というか好きなんだけど、遅いしカネかかるし自由じゃないし、どうしてもバイクになっちゃう。そんでその前はというと、どこに行くのでも自転車だった。もうそういうのが当たり前になり過ぎちゃっていて、そうじゃないのが想像できないぐらいになってる。それでも雨の日や風の強い日はやっぱりしんどかったりもする。なのにカッパ着たり向かい風に向かってバタバタしながら二輪車に乗ってる。無理しているつもりはないんです。これっぽっちも。そんなことしているからって「本物のバイク乗りは...」とかクサイ事言う気もないし。

なんでだろうと考えると、一つにはあんまりカネがないってのもあるんだけど、それ以上に自分で動いている感じがするからだって気がする。バイクなんてアクセルひねってバランスとっていればそれで勝手に前に進んでくれるけど、それでも多少はそんな気持ちにはなれます。たぶん一番いいのはどこに行くのでも歩いていくことなんだろうな。移動のためには必ず歩かなくちゃいけないとしたら価値観変わるよー。これは絶対言いきれる。もちろん電車もバスも無し。

自分が自分で移動している時間って、頭が余るって言うか、遊ぶって言うか、机に向かってじっとしていたり電車に乗っていたりするときとは、明らかに違う頭の解放のされ方がある。そんで自分はそういう時間がすごく好きだし、それは毎日毎日に必要なんだと思う。

ru000027.jpg長い時間をかけて人は変わっていく。でもほんとにそうだろうか。自分なんて全く変わっていない気がする。ただ年をとっただけで。オジサンみたいな子は五歳の時からオジサンだ。

いろんな人がいて、その上に山にかぶさった笠雲みたいに社会というシステムが乗っかっていて、その雲の中では確かに人は変わるように見える。義理やカネに振り回されたり振り回したり、恥を掻いたり威張ったり、自信を持ったり無くしたり、病気になったりならせたり、でもその雲の中が全てじゃない。雲の中でいくら変わったところで変わらないものがある。

あんまり雲の中に長いこと居すぎると、変わらないものなんて見えなくなってくる。カラオケ屋に行っても買い物をしてもオシャレをしても、どこまで行っても雲の中だ。どうにもならなくなると、人は病気になったり失踪したり犯罪を犯したり絵を描いたりする。それらは救いになることもあればもっとどん底に落ちることになることもある。どん底も救いかもしれないけど。

雲は分厚い。でもそれしかないわけじゃない。所詮雲だ。分厚くて無くならないけど、所詮雲だ。たまには雲のない空を拝んだほうがいい。孤独が怖くなければ、それはいつでも可能なことだと思う。

ぼくは自分をマイノリティ(少数派)だとは思っていません。通常用いられている意味においては充分マイノリティですが、じゃあマジョリティ(多数派)ってなんだろうかと考えるとまったくわからなくなります。そんなものはいったいどこにあるのでしょうか。ぼくにはあらゆるものがマイノリティの集合のようにしか思えないのです。そしてあらゆるものがマイノリティであるのならば、マイノリティという言葉はその存在意義を失います。だからぼくは自分をマイノリティだとは思えないのです。

12歳の子が小さい子を突き落として殺してしまったけど、その出来事自体にはやるせない気持ちになるのに、その12歳の子に対してはすごく感情移入してしまっている自分がいます。神戸の事件の時もそうだった。何故そういう行動に走ってしまったのかが理解できるような気持ちになってしまう。いっとくけどこれは擁護でもなければ同情でもありません。それ以前にどんな枠組みなり欠落がそのように彼を導いたのかがリアルに想像できるんです。想像した事実がどれだけ正しいかということではなく、自分の気持ちの中の収まるべき所にその過程がスッポリと入っていく。

ぼくは自分を異常だとは思っていません。マイノリティだと思っていないのと同じように。あらゆるものは異常の集合であり異常とはある意味幻想でしかない。そして異常は「正常」によってしか生み出されない。異常と正常の間、マイノリティとマジョリティの間、男と女の間、病気と健康の間、障害と健常の間、そこには夥しいバリエーションがあって、それをそのままに受け入れなくちゃ面白くも何ともない。枠を外せば出来ること、枠を外せば楽になること、枠を外せば続けられること、そういうことがいっぱいある。でも、枠を外されると困る人もいる。それは枠にしがみついている人だ。でもそんな人の面倒なんて見てらんない。その人たちの面倒をみようと思ったら永遠に枠を外すことなんて出来ないから。

ぼくは枠がいらないとは思わない。言葉も枠だし、カネも枠だ。ただ、枠がないということを基準にするべきなんだ。複雑化が進むほど枠を外すのは困難になる。でも一生枠から外れることが出来なかった人はとても不幸だと思う。最後にはほんとのほんとに外れなくてはならないのに、それの練習が出来ないなんて。しがみつくのはほどほどにしとけよ、と
NHKのアナウンサーに言いたくなった。

030617.jpg030617_2.jpg絵の表面にひびを入れたり、機械に錆びたように見える塗装をしたりして、古びた感じや晒された感じを新しく作る物にわざわざ施す。こういうの、実を言うとあまり好きじゃない。これをやるときに一番抵抗がないのは模型を作るときで、絵とかプロダクトとかでやるのはどうしたもんかと思ってしまう。ほんとに時間がたって汚れたり、風雨にさらされてダメになった物は好きなんだけど、そういう物を好きだという気持ちを、絵をひび割れさせることで表現するのはどうかと思ってしまう。それをやるんだったら「ひび」や「掠れ」そのものが表現になるべきなんじゃないかとか、そんなの面白くないとか、どうでもいいようなことが頭の中をグルグルし始める。

絵の勉強をし始めた頃、凝ったマチエール(絵の具などの質感)や銅版画の腐食がすごく魅力的に見えた。写真のフィルムを引っ掻いたような傷も惹かれる。もともと好きではあるんだ。でもいざそういう技術が自分の手の内にあると、なんか醒める。なにやってんだろって気になっちゃう。そうなったときに選べることといったら、汚れやマチエールを空間の中に収めちゃうか(汚れた世界のディテールとして扱う)、汚れをそのものを表現の対象にするしかなくなる。前者はデジタルでも可能だけど、後者は無理だ。両方やってきたつもりだけど、いまの自分にとっては世界のディテールに汚れを含める方がより近いところにあるのかもしれない。

エキセントリックなものというのはほとんどの場合ちっともエキセントリックではない。何故なら巷に溢れているエキセントリックなものはエキセントリックでありたいという欲望によってエキセントリックなフリをしているものばかりだからだ。そこではエキセントリックに見える寿命の短い技術が日々開発されていて、それらを駆使していかにしたらエキセントリックに見えるかという競争があるだけだ。それはエキセントリックではなく極めて日常的で一般的な現象だ。エキセントリックなものは作為の中には宿らない。どんなものがエキセントリックかの定義はどうでもいい。作為のないエキセントリックは本物のエキセントリックに決まっている。イヤなのは勘違いと、かばいあいだ。エキセントリックではない人間がエキセントリックなフリをして、いかに自分たちがエキセントリックであるかを讃え合い、いかに自分たちが本物であるかを確かめ合う。ああ、気持ち悪い。エキセントリックなものは魅力的だ。エキセントリックなものには本質的に人を惹きつける力がある。おそらくエキセントリックであるという定義の中に死が本質的に含まれているからだ。どうでもいいとかいいながら意味を考えているバカな奴。死を考えるんじゃなくて、死を生きろ、と飛躍したくなった。

初めてコンピュータを意識したのは10年ぐらい前のことです。たまたまキャノンに勤めている知り合いの人がいてマッキントッシュに触らせてもらった。その時の一番の興味はカラーコピーだったのだけど、画像補正するためにマックが接続されていたのです。ちょうどカラーコピーが一般化し始めた頃で値段は300万円ぐらいだった。僕はスキャナーとしてのカラーコピーの威力を試してみたくて、自分で作った人形とかシダの葉っぱとか花とか流木を持参していそいそと出かけていったのです。コピー機の上でジオラマ風に素材を並べコピーを取る。そして次の瞬間には並べたイメージがプリントとして吐き出される。とんでもなく興奮してサルのように繰り返したものです。そしてそこに当時1000万ぐらいするシステムとしてコンピュータが接続されていたのです。しっかりフォトショップがインストールさていて、自分のスキャニングしたイメージをいじくり回した日には、興奮しまくりのお祭り状態になってしまったのは言うまでもありません。

今や200GBのストレージが普通にお安い値段で買える時代。あれからたった10年です。そんでもってこの調子であと10年ぐらい経つとテラバイトのハードディスク付き入出力通信機器(ビデオカメラとカメラとレコーダーとムービープレイヤーと音声プレイヤーと電話が合体した奴)が当たり前になって小学生が誕生日にトイザラスに行っておねだりするようになるんだね。なるんだよ。それが20年後だろうと5年後だろうと、とにかくそうなるのよ。

そんでここからが本題。

それがいったい何なのでしょ?

これは未来の話じゃない。今の話です。SFなんかじゃない。ISDNとADSLの違い程度のちょっとした違いに過ぎない。もっと言ってしまえば蒸気機関と内燃機関程度の「ちょっとした」違いに過ぎない。未来は全てここにある。未来にならないと手に入らないものなんてない。未来にならないと手に入らないものは、たぶん、もっと別の場所にある。それはおそらく体が成長したり、歳をとったりすることです。内側の未来。内側の未来だけがリアルを規定する。でも僕は外側の未来幻想に向かう欲望を否定しない。何故ならそれに振り回されているから。精算はしたいけど、強引に精算するのは嘘つきです。そういう嘘は一番嫌い。精算は出来るときにするべきだと思う。

デジタルという手法は哲学的です。認識という名の社会性の外在化としては、曖昧さを許さないという点においてとても面白い。幻想が入る余地がないのです。そこには単純であるが故のピュアなパワーを感じる。なんだか偉そうなことをいってるけど、とにかく自分の気持ちとしては夢の終わりが見たいのです。「夢」から解放されたい。「夢」を見るのを止めたい。でも愚かに「夢」否定したら、永遠に「夢」から覚めることが出来ないことだけははっきりしています。夢の終わりは夢の中で起きた気になることではなく、ほんとの「目覚め」によってしか実現しない。しかし嘘吐きでないように目覚めるのは思ったよりも難しいみたいです。

030410.jpg
0304102.jpgアルマイーターさんのお絵かき掲示板で描きました。大きいのが見たい人はそちらでどうぞ(下の絵は画像クリックで拡大します)。この後に怪獣の絵も描いていたのだけど、間違って消滅。とほほ。なんちゅうか、まあ、現実逃避ですね。一つ頼まれた仕事が入っていて、それがイヤでつい絵を描いてしまったわけです。授業中のラクガキみたいなものです。というよりそのものです。

子供パワーの一定部分は締め付けによって生まれている。という論理は嫌いですが、ある程度はほんとでしょう。発禁本の裁判みたいな話ですね。エロティシズムは禁止の上に成り立っているとかさ。こういう話はどうしても視野が狭くなるのでそういう土俵にはあまり立ち入りたくないのだけど、あらゆる制約が無くなったところで制約は永遠に存在し続けるということでカタを付けておきたい、と、いつも思います。

人間は鳥ではないし、植物でもない。その上生物はみな死ぬのです。それだけで制約としては充分でしょう。つまりどれだけ制約を人間社会の中で外したところで、子供パワーもエロティシズムもロマンティシズムも無くならない、僕はそう思っています。

学生の頃に友達と話していて、その友達が最近聞いた話としていっていたのですが、ある人が「学生運動があった頃とか戦争中とかはリアルがあっていいよな」といったところ、そこに居合わせたもう一人の奴が「そんな状況じゃないとリアルを感じられないようじゃダメだと思うぜ」と返したそうです。僕はその話を聞いた時「俺がいつも考えていることはまさにそれだ!」と思いました。そしてその気持ちは今も変わっていません。

特殊を求めてはいけない。そんなものを求めたところで、得られるのせいぜいチャチなかぶりものです。やっぱすっぴんで行かないとね。

030402.jpgなんとなく春っぽい気持ちでラクガキ。
春ってなんか曇りのようなイメージがあります。それも明るい曇りの日。そして曇りの日のモノの見え方がかなり好きなんです。晴れの日のように影がくっきりしていないで、どこからが影なんだかわからないような綺麗なグラデーションが出来る。目の前のモノが一つ一つその形を、服を脱いだみたいに見せてくれているような見え方です。自分の認識の中では、一番形をはっきりと認識できるような見え方なのです。曇りの日の光の中で見えている形がそのものの本来の形であるというような(これも偏見の内なのはわかっていても)、妙な基準が自分の中に出来上がっているようです。

前に質感を描くのに抵抗があるということを書いたけど、それもこの好みとつながりがあります。ツルツルしたモノやヌルヌルしたようなものを描こうとすると、どうしても反射や写り込みやハイライトを無視できなくなって、「曇りの日の本来の形」が見えにくくなるのがイヤでもあったのです。

最近そういう描写に抵抗が無くなってきたのは、たぶんツールの影響もかなりあると思っています。元々アナログで絵を描いていたときは、とにかくマットな質感が好きで、どんな画材を使うにしろ、そういう仕上がりの絵にはあまりツルツルしたような質感表現は向かないように思っていました。でもモニタ見ながら描いていたら、そんなの関係ないですからね。透過光だし、まるで窓をみながら描いているような感じです。これが自分にとっていいのか悪いのかは、今の時点では判断が付きませんが、変化が起きていることだけは確かなようです。

関係ないけどこのNEWSを午前中にアップするようになったら、午前中のアクセスが急に増えるようになってちょっと驚いてしまいました。なんだかんだいって楽しみにしてくれている人がいるんだなぁ、と。有り難いことです。

030324.jpg10年ぶりぐらいでスピード違反で捕まっちゃいました。
朝っぱらからねずみ取りなんてやるなよ!しかも40キロ制限って何よ!28キロオーバーですと?!1万5千円って、月末までって、それはあんた、ワタクシの一ヶ月分のアルコール代じゃないの!

と、帰ってくるまではふてくされていたのですが、寝て起きたらサッパリしてしてしまいました。俺も大人になったのね。しかし机の前で調書を書いていた婦警さんの口紅は怪しかったなぁ。シルエット作りすぎ、てかあまりにも元とかけ離れていて、作ってる意味無いし、色も強すぎて舞妓さんみたいになってるし、そのあまりの下手さ加減が可愛く思えたりもしたのだけど、まあそれはいいとして、なんでああいう時ってどうでもいいようなディテールが鮮明に目に入って来るんだろう。座面の破れた折りたたみ椅子からちょっと覗いたスポンジとか、安全靴からちょっと覗いた靴下の端のほつれとか。そういうときの独特な意識の集中し具合というか、ハイな感じというのは嫌いじゃなかったりします。たぶん微妙に脳の中のドーパミンだかなんだかが、過剰に放出されているんでしょう。

前に桜を見に行ったときに(ちょっと酔っていたのですが)、ふと目に入った一輪の桜がそこで今咲いていることが異常にリアルに感じられて、まわり中にそのリアルが同じリアリティで存在していることに圧倒されてしまい、メチャクチャ興奮した覚えがあります。なんなんだ、このパワーは!って感じで。ディテールの集合として全体がある。全体としてのディテールに意識が行き渡る感じ。上手く説明できませんが、とにかく夥しいリアリティなんです。そういうときは、俺は今まで何を見て生きていたんだろうという気になります。ひょっとするとそれはただの過剰すぎる意識なのかも知れませんが、作品を作っているときに求めているものとすごく近いし、大事にしたいなぁといつも思うのです。

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