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他人が集積した技術の結果である”ブランド”というものに依存しなければどれだけの自由が得られることだろう。

結局のところ、信頼とか信用というものは、「内容を吟味しないで任せる」ということだ。なぜそんなことが蔓延るかといえば、吟味することは面倒だからなのだ。吟味できるためには、成り立ちを知る必要があるし、成り立ちを知るためには、実践する必要があるし、実践するためには、失敗をする必要がある。しかもその失敗が果てしなかったりもするのがざらなのだ。その上結果に辿り着けないことの方が多かったりするのだ。

それが嫌だから、多くの人は信用とか信頼という名の約束に走るのだ。そしてその約束をさらに分かり易くする為にブランドという名詞が与えられる。

しかしブランドに依存しない自由を思えば、果てしない失敗が何ほどのものだろう。そこには裏切りも期待も犠牲も無いのだ。それ以上に素晴らしいことがどこにあるのか。

ネットをやると思うこと

大したことじゃないと思っていたことが
重大事に感じてしまう

畏れ多いと思っていたことが
大したことないことだと思える

どっちも被害妄想

誰も俺のことなんて見てないし
俺も誰も見ていない

ある意味とっても公平な天秤として機能しているってことだ
それこそが必要なことだ

他人と関わるのは嬉しい
でもそれは
目の前にいる人が真っ直ぐ自分と向き合ってくれている時だけだ

そうでない時は
他人と関わるのは悲しい

真っ直ぐ向き合ってくれていなくても
真っ直ぐ向き合うような自分でいたいと思う

そんな風にしていないと
真っ直ぐ向きあってくれる人が現れたときに
真っ直ぐ向き合うことが出来ないからだ

だから真っ直ぐ向き合う人はいつも悲しんでいて
いつも喜んでいる

切なくない喜びなんて想像できない

何も無い日を無理やり埋めるのはやめよう
自分に意欲がない事を責めるのはやめよう
意欲がない事を悲しむのはやめよう

何もないなら何もない様に過ごそう
知らない意欲に身を任せよう
それがたとえ意欲に見えなくても

自分が知っている意欲だけを意欲だと思うのはやめよう
世界は知らない意欲で動いているかもしれないんだから

意欲が無いなら意欲がなくても出来ることをやろう
洗い物をするとか
散歩をするとか
銀行に振込みに行くとか

それだって結局明日はやってくるのだ
たぶん意欲なんてものは
虫の好きな小学生の夏のカブトムシと大した違いは無いのだ
カブトムシがいないと生きていけないなんてことは無いのだ

それは無残でもロマンチックじゃないことでもない
ましてや嘆くことでもない

ただ単に冬であるに過ぎない
風通しの良い冬の何と美しいことか

俺はどうも多くの人から耽美主義者だと思われているようだ。
で、そもそも耽美主義者ってものがどんな風に定義されているのかを知らなかったので調べてみると、あらゆる価値に先んじて美を最優先する立場なのだと説明されている。ウィキペディアなら「道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮である」と書いてある

うーん、この言葉ヅラの定義で言えば確かに俺は耽美主義者だ。でも納得いかねぇ。だったら美の定義はどうなのよってことになる。だいたい俺は耽美主義といわれているような作品は大嫌いなのだ。美しくない。酔ってる。酔ってどうすんだよ。酔っ払いを賛美してどうすんだよ、って常々思っていた。逆に利用価値の高いマスメディア的な有りもしない大衆性しか感じないのだ、そういう作品からは。それが美を最優先していることだとは思えないのだ。別に美とか言いたくねぇんですけど、つか、どうでもいいんですけど、とにかくどんなものであれ閉じたものが好きくないのです。だから別に耽美主義者と言われてもいいんですけど、一緒くたにされるとちょびっと悲しくなったりもするのです。

美しいと自分が感じることは、常に新しく、常に古いことです。その両方を持っていることでなくてはならないと思っているんです。そういうときに「美しい」という形容詞を使いたい。今、目の前にあるようにある、それ以外ではありえないようにある、そういうときに美しいと言いたい。だいたいが美しいなんて普段誰も使わないでしょ?それぐらいレアな表現だし、それでいい。そうでないなら、美しいということと臭いということの違いなんてどこにも無い。美しいということと嘘つきの違いなんでどこにも無い。つまり美しいなんてわざわざ形容する必要なんて無い。俺の中の耽美主義という表現のイメージは古さに、つまりノスタルジーに偏っているイメージがあり過ぎるのです。耽ってどうするのかと。耽っている暇があるなら餌とってこいよと。表現者の身体性を伴わない表現なんてマジクソだと思う。

昔からずっと感じている自分の欲望。

それは差別とか搾取とか暴力とか病気とか死とか死体とか欠損とか欝とか侵略とか殺人とか罪とか罰とか死刑とか事故とか事件とか強盗とか窃盗とか嘘とか歪みとか淀みとか穢れとか堕落とか怠惰とか、その他全てのマイナス面を付加される言葉と経験に対して

それら全てが自分に起き、あるいは起き得る事として、それらがマイナスでもなんでなく、自分が遭遇し(受動)、自分が行動した事実(能動)として余すことなく飲み込みたいということだ。

それらをただのマイナスとして囲う倫理には近づきたくない。
つまり俺にとってはそれはマイナスでもプラスでもない。
逆に言えば、そうでないことをプラスに囲う倫理にも近づきたくない。

かといってその欲望はニュートラルでさえないのだ。
ニュートラルではなくプライベートであるに過ぎない。

ラジカルなプライベーターで生きたい。

人は物語を求めている。それも自分のものだと思える物語を。重要なのは自分のものだと思えるということだ。

叱られたり、諭されたり、導いてもらったり、縛られたり、決め付けてもらったり、することが大好きなのだ。自分の物語であると思うことが出来さえすれば。そしてそのようにさえ思い込めれば人は自分の物語の中でとんでもない力を発揮する。あたかもスーパーサイヤ人になった悟空のように。

だから多くの人が自分の物語だと思い込めるものは、とんでもない利益と熱狂と強制力を生む。映画だろうがライブだろうが選挙だろうが小説だろうが宗教だろうが全部一緒だ。

ここに起きているのは、多くの人が自分と同じ物語の中に居てほしいという欲望だ。それは裏返せば、あなたの物語じゃないんじゃないの?という事になるんじゃないかと思うのだが、そうはいかない。それはおそらく、欲しかったものの本質が、自分の物語ではなく、自分の物語だと思えたものが多くの人々と共通であったということにあるからなんだろう。

つまり、よりわかりやすく言えば自分の物語など、どうでもいいのだ。重要なのは自分に都合よく引き寄せることの出来る共有感覚なのだ。もっと言ってしまえば寂しいのは嫌だということだ。さらに寂しい自分は生きている気がしないということだ。寂しい中では生きられないということだ。そんな中では力が発揮できないということだ。私にはスーパーサイヤ人になることが出来る資質が備わっているはずなのに、その資質が封じられていると誰もが感じているということだ。お願いだから私じゃない外側の誰かさん、私を開いてください、と言い続けているわけだ。フリーザ、ラブ。

分かり易いとはそういうことだ。何が分かり易いんだか知らないが。

作品のスタイルなんてどうでもいい。何かになんて別になりたくない。そんなものを確立したいなんて思わない。そんなものはただの技術と物欲の産物でしょ。技術なんてその都度生成されるだけで充分だしそれ以上を技術に求めてちゃどこにも行けやしない。

俺は器用でもないし、これっぽちも上手くもない。
他人が器用という言葉を誰かに対して使う時、そこにあるのはただのジェラシーであることが多すぎる。様々な技術なんて峰の上を渡り歩くための杖でいいじゃないかと思う。上手に渡ることよりも、軽々と渡ることよりも、美しく渡ることよりも、一番大事なのは次の峰に辿り着くことだ。その綱渡りをほんとの終点まで成功させ続けることだ。自分において。それが判りにくかろうと、他人のふんどしで相撲をとっているように見えようと、そんなことはどうだっていいのだ。

敵を作るのが好きな人がいっぱい居るようだ。敵を作ってることを自覚しない人がいっぱい居るようだ。敵を作るということはほとんどの場合、世界を単純化してしまう。「あの会社はダメだ」「あの国はどうしようもない」「あの政党はクソだ」「バカじゃないのか」「今時そんなことするか」そう言う事によって、自分の正しさなり、立派さなりが証明され、気分爽快なわけだ。「だって実際そうでしょ?」「俺の言ってることなんか間違ってる?」

ああ、書いてて気持ち悪くなってきた。
そりゃヤバい国もいっぱいあるだろうよ。劣悪な会社もいっぱいあるだろうよ。みんなバカだろうよ。今時だろうがなんだろうがそんなこともするんだよ。だからなんなの?わかった、戦争したいのね、というと「誰もそんなことは言ってない」というだろう。「正しいことを言っているだけだ」と。はいはい。つかそれで済むと思ってんのか?

こうして書くことで俺も敵を作っている。いいよ別に。
俺は世界を単純化しないように敵を作ろう。それを自覚しよう。俺の戦う人は目の前の人にしよう。どこを見てんだかわからない人はほっとこう。相手がほっといてくれるかどうかは超微妙だけどね。


関係ないけど、最近なんか終末幻想が嫌な風に定着しすぎている気がしてしょうがない。危機感を持つのは構わないが、危機感の奴隷になるのは嫌だ。危機感と正義に惑わされて一体化する群衆なんて見たくもない。でもそんな願望が沢山の人の薄皮一枚の下に眠っているように感じられて気持ち悪い。大丈夫、地球は人類なんかに負けないから。負けるのは人類の方だから。あと終末は放っておいても誰にでも来るんだから、こっちも心配無用だ。なぁんだ。

冷蔵庫とは死体置き場の別名だ。
それを不気味と思うなら、
それを普通と思うなら、
そのように明日を生きればいいのだ。

予感で鋭いのはもう飽きた。言葉は往々にして予感で飽和し、にもかかわらす横暴な威力を回りに及ぼしたりもするけれど、それって思いっきりくだらねぇ。

暴力とオナニーと戦争と資本主義は似てると思った。そしてそれらが魅力的に見えるときには必ず孤独の影がよぎるのだ(魅力的に見えないときには孤独を抱えた逃避する集団がよぎるのだ)。同じようにコミュニケーションも逃避であり得るし孤独であり得る。どんな風であれ孤独なのが良い。孤独はもっともっポジティブになる得るものだからだ。

雛形論、もしくは模型論をぶちかましたくなった。
洞窟壁画から始まって、学習用の遊び道具としての玩具、宗教用のヒトガタ、産業革命以降の解剖模型や実験用模型、博物館のための模型、ジョセフ・コーネル、ハンス・ベルメール、見世物用フェイク生物、鉄道模型、プラモデル、フィクションから始まるスケールモデルとしてのガンプラ、フィクションを科学から発想する架空生物の方法論、雛形の最前線としてのゲーム、そしてスケール感そのものをゼロから定義し直す世界の構築方法。

論はどうでもいいけど、ワクワクしすぎる。

3/13(Mon) 14:46
   手に脳がついていると仮定してみる。

他人を理解したいという欲望と自分を理解したいという欲望はおそらく同じものだ。

テレビの嫌いな部分というのがあって、それは何かというと、つまらなくても見ていられるということです。もちろんそれによって救われることもあるんだけど、それは無しでもいいと思いたい。そしてまったく同じようにネットのそういう部分に自分でむかつく。さらにゲームにも同じことを思う。

俺が変わればいいんだろうけど、そいつらに「つけ込まれている」ということは事実なんだ。で、俺はいくらつけ込まれても大丈夫なようになりたくて、それゆえに徹底的に弄ばれたいとさえ思ってしまう。

この戦いに意味があるのかどうか、それはまったくわからない。でも俺にとっては避けて通れないということは確かみたいだ。

雷が落ちたぁぁぁぁ!!!!!!!!!!

いや、直撃じゃなかったんだけど、あろうことか買ったばかりのPCが逝ってしまわれました。息子のiMacもお釈迦。そんなぁぁ!!やっとシステムも落ち着いてこれからってとこだったのにぃ!!!モデムも壊れてしまってネットにも繋げません(このNEWSはこれを更新するためだけに外に出て書いている)。当然メールも読めないので私家版やプリントの販売も出来ません。幸いプリンタだけはプラグが外れていたので助かったみたいだけど痛すぎるよぉ。マザーボードやCPUやメモリやグラフィックカードは全部交換ぽい。後から作った方のもう一台はとりあえず生きているんだけど、話によると半年ぐらいかけてジワジワ壊れるようなパターンもあるらしい、ってことは最悪5台のマシンがダメってことも…もう、どないしてくれよって感じだわ。

落ちた時は俺はたまたま電車に乗っていて家にはいなかったんだけど、いきなりものすごい音が車内に響き渡って、電車に乗っている人全員が飛び上がるほどびっくりしていた。それがまさか,自分のうちの周りに落ちたやつだったなんて。チムリクの話によると、あんなにとんでもない音は生まれてはじめて聞いたそうだ。鼓膜が破れるかと思ったぐらい、その後コンピュータや古い方のプリンタが勝手に起動してガーガーピーピーいいだしたらしい、三軒隣に住んでいるやつの家では、ビデオデッキの蓋が吹っ飛んで、テレビもぶっ壊れてしまい、上に飾ってあったミニカーが床に散乱していたんだと。ここまでくると火事にならなかっただけでも感謝しなきゃって感じで笑えてくる。

まあそんなわけでNEWSもキネガワ堂も復旧するまでしばらく休業になります。一週間ぐらいでどうにかなればいいんだけど…

みんなかわいそうなサクバに励ましのメールを出そう!(って読めないけどさ。いいの、直ったら読むんだよ)

間違った欲望が好きだ。それは普通倒錯と呼ばれるけど、だからなんだって思う。ワインやラーメンに過剰な価値を見いだして儀式的な身振りまで作り出して楽しむのだってメチャクチャ倒錯だ。法律なんてものを生み出して倫理的一貫性を求めようとするのだって倒錯以外の何ものでもない。それは電車の中でウンコを漏らしたいと思うことや、ラテックスに包まれて自我を無くしてしまいたいと思うこととなにも変わらないのだ。より多くの倒錯が許されることだけが求められているのであって、そこからはじき出される間違った欲望としての倒錯はあっても、全てが倒錯であるという事実は揺るがない。全ては間違っている。だから、ほんとには、間違っているなんてことは存在しない。

必要のない罪悪感からはさっさとオサラバするべきだ。

またまた、デザインとアートの話だけど、デザインというのは「他者」が作ったものの解釈で、アートは「自分」が経験した(する)ことの解釈(実行)なんだなぁ、と思った。デザインでもパッケージングでは無いデザインというものも、もちろんあるわけだが、9割以上はパッケージングだ。パッケージングとしての装丁やポスターやウェブサイトや広告やお菓子の箱やスピーカーや車や家や法律なんかがある。でもこんな風に言ってしまったら、いきなり自己定義の罠まで行ってしまうな。だいたい他者だって、というより他者こそが自分なんです。この矛盾した物言いの中庸を読みとって欲しいのよ。独自であれ。独自であることを恥じるな。テントウムシに負けるな。

着地地点が過去の自分になるのはつまらない。作品がそんな風にあってはいけない。作品は、エンターテイメントは、それを作った人間が、その人間自身が遠くに行くことによってのみ、その作品を経験した人間を遠くに運ぶことが出来るのだ。場所を移動する力こそが全てだ。歩け。

ギャップを生きる
ギャップの中でしか生きていない
ギャップの中に全てがある
もっと
もっと
ギャップの中で生きよう

なんつうあわだたしくセコセコしたこの何ヶ月だ!せっかくの半年ぐらいが嘘臭い魔法の箒に乗っかったように過ぎてしまったじゃないか。

てなことを思ったが、でもいいんだ。次のステップに行くためにはそんなことだってあるんだ。箒から降りるために、知らなかったが、へとへとになっているらしい身体に好きなようにさせてやった。曇った空も晴れてきた。酒を持って散歩に行こう。

ru000081.jpgいい人ぶっこくのはほんと飽き飽きだ。ダメになるのも飽き飽きだ。悪ブリブリも飽き飽きだ。くそまじめも飽き飽きだ。ブイブイ言わすのも飽き飽きだ。ハッタリこくのも飽き飽きだ。頑なかぶれも飽き飽きだ。正直ごっこも飽き飽きだ。傷つけごっこも飽き飽きだ。病気になるのも飽き飽きだ。健康グリコも飽き飽きだ。引きずり回すのも飽き飽きだ。見切ってみるのも飽き飽きだ。計算するのも飽き飽きだ。生理に流れるのも飽き飽きだ。とにかくフリはウンザリだ。ほかになんかねぇのか。なんかあるだろ。絶対あるよ。

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