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DSC01999.gifシステムに囚われている時、俺は不自由だが、不自由な俺には目的がある。その目的とは、他人から頼まれた仕事をそつなくこなすことであったり、その評価であったり、給与の額であったり、オークションの落札価格であったり、レアアイテムの入手であったり、他人より速く移動することであったり、より少ないエネルギーで結果を出すことであったり、円滑なコミュニケーションを前提とした日々の安定であったりする。

システムとは人に目的を与えるものだ。目的を与えられた人はシステムの奴隷となる。そのようにして人は奴隷であることを欲するのだ。これはおそらく生存本能の一側面であり、そのようなベクトルが消え去ることはないのだろうと思う。優れたシステムとはより多くの人々を奴隷化し、主人と奴隷のわけ隔てなく、すべての人がメタレベルにおいて奴隷となることができるようなシステムのことを言うのだろう。

では、自由とは何か。自由とはシステムの内側においてシステムの外側を志向すること、その態度そのものであるように思える。つまり自由もまたシステムから生まれた目的の一形態なのだ。それは皮肉な見方をするならば、システムが健全に奴隷制度を維持するための必要な運動であるように思える。硬直した奴隷制度は永続性を獲得できないからだ。奴隷制度が恒久的に機能するためには、奴隷制度の更新が必要であり、そのためにはシステムを否定する自由が必須となる。

しかし生命には、あらかじめ約束されている絶対的な自由もある。もちろんそれは死だ。それはあきらかに、このうようなシステムの外側にある。むしろシステムを作り出した原動力であるといってもいいのかもしれない。その場所から俯瞰するならば、あらゆる目的を生み出し、あらゆる人々を奴隷化するシステムは、完全なる自由の内側で生成していることになる。それは素晴らしい救いだ。草原を渡る風の気持ち良さに嘘はないのだ。

想像力とは目の前にすでにあるものにどれだけ寄り添えるかの力だ。
想いを形にすることなどではない。目の前の像に想いを馳せる力だ。
そこに必要なのは、自己へのこだわりでは無く、自己の無化なのだ。

振動をコントローラビリティの支配下に置こうとするならば、軽量化が最大の武器になる。振動を抹消しようとするならば重量化が最大の武器になる。それが音であろうが建築であろうが乗り物であろうがその法則は変わらない。つまり、目に見える、あるいは感覚の範囲内にある振動と共にあるときには、人は自分の身体を振動に共鳴させ、感覚の範囲外に現象を追いやろうとして振動を消そうとするときには、人は自分の身体を沈静化する。しかし、目に見えない沈静と目に見える共振に優劣があるわけではない。なぜなら、そのどちらも振動の範囲内にあるからだ。優劣は便宜的なものに過ぎない。ただし、今何が必要とされているのかは別問題だ。今自分が必要としている振動に身を任せる技術こそが重要なのだ。

これまでずっと、ユーティリティがテクノロジーを堕落させるのだと考えていた。なぜその様に思ったのかとの思いを含めれば、今でもその考えが間違っているとは思っていない。しかしそこには、ユーティリティの定義に対するあいまいさが含まれていて、それ故に、他人には理解しがたい概念が、翻訳されることなく放置されていることに気がついた。

そこで放置されていると思われたユーティリティの概念とは、思考し、日々を生きている、迷いを含んだ主体の、時間的に変化し推移する個にとってのユーティリティなのだ。そのような存在にとってのユーティリティは、便利という社会的な実用性以上の、おそらくは現代において、定義があまりに不明確な場所で、要求を再定義せざるを得ないような力がその単語に備わることになる。こうしてユーティリティを定義してみると、そこにはユーティリティーという単語に対して、嫌悪をもよおしていた要素が全て排除されていることに気づく。その様な状態では、ユーティリティーというものが、可変的な個の要求によって、再定義され続けるようになるからだ。

要求は常に、個において変化し続ける。その変化し続けつつも、瞬間的には明確であるような要求に対して、いかに正確に答えることができるのかがテクノロジーの本質なんだと思う。

しかし、そこに焦点を合わせた社会が形成されるためには、あまりにも多くの要求と価値観が無視されたままだ。

人は自分がメンテナンスを放棄したものに対しては、消費と放棄以外の選択肢を取ることができない。メンテナンスをするということは、ある機能を維持し続けることであると同時に、その機能を発見し続けることでもある。だからそれを放棄するということは、フィジカルなテクノロジーに留まらす、装飾的な様式や、文体や、リズム構成についても、消費と放棄しか出来なくなるということだ。それはつまり、いかなる発電システムであれ、いかなる乗り物であれ、いかなる建築であれ、いかなる小説であれ、いかなるファッションであれ、いかなる絵画であれ、いかなる音楽であれ、それら全ての人間が表出するテクノロジカルな表現に対して、発見をやめ、内在化することをやめ、ただ流すだけにするということだ。そんなことの何が楽しいのかは知らないが、その様に生きていくことがマジョリティになっているというのは事実であると思う。

このようにメンテナンスを放棄した人に対して、なぜそうしたのかと問えば、まずは時間が無いからだと答えるだろう。もしくはその様な技術を習得する機会に恵まれなかったからだと答えるかもしれない。もしくは自己の対外的なパフォーマンスを最大化するためにはメンテナンスこそが最小化するべきだと答えるのかもしれない。しかしこれらの答えには共通するものがある。それはメンテナンスされるべき対象が、メンテナンスすることを否定する人にとって、その対象自体はどこまでも必要なものとして機能しているという点だ。つまり、メンテナンスを放棄しようとする人ほど、メンテナンスが必要な対象を欲しているのだ。それはどういう事かと言えば、「私はメンテナンスをしないけど、誰かがやってね」か「メンテナンスなんてしなくてもいいように、どんどん作ってね、誰かが」ってことだ。

経済のことはよく分からないけど、少なくともそこに「成長」というキーワードが欠かせないのであれば、それは、この誰かを、誰かが居なくなるまで続けることであるように思える。そしてそんな誰かはいずれ居なくなる。それだけは確かなことのように思える。いつまでも誰かが居ると思うなよ、そういわざるを得ないときは必ず来る。しかし少なくとも自分が生きている間は、「誰か」は居続けるんじゃね?と、そんな様に経済は回っていて、その誰かを開拓し続けている。その寿命をどれだけ延ばせるか、そのために、膨大なトラフィックが見た目の効率によって合理化され続けている。

でもまあ、そんなことはどうでもいいんだ。俺にとって一番重要なのは、それで楽しいのかって事だ。俺はそんな風に「誰か市場」を開拓してもまったく楽しくないのだ。俺はメンテナンスができる人間になりたいのだ。自分にとって必要なことに対して自分で面倒が見られる人間になりたいのだ。そしてその様な要求に対して、ちゃんと答えてくれる、要は、メンテナンスを前提とした、技術体系が必要だと思っているのだ。

ボタンが取れたら縫えばいい。新しい文様を思いついたら描けばいい。雨漏りがしたら屋根を葺きかえればいい。電源コードが劣化したら巻き直せばいい。錆びたら磨けばいい。自転車のチェーンに一度も油を差さないで、チェーンが固着したら自転車が壊れたとか情けなさ過ぎる。そしてそんなことは人事じゃなく、例えば食い物に対して、例えば建築に対して、例えば排泄に対して、同じように情けなさ過ぎる毎日を送っているのだ。なにも人々が全員、自給自足の永久機関になればいいと思っているわけではない。そうではなくて、その様な選択肢が常に開かれていることが重要なのだ。現在はあまりにもその様な選択肢が、おそらくは意図的に、閉ざされすぎている。

メンテナンスから解き放たれて、勘違いの大空に羽ばたいたっていい。でもそれが、運がよかったか、もしくは馬鹿だっただけだと気がついたときに、ちゃんと着地できる場所がなかったら、どこにも降りることができなくて右往左往することになってしまう。まずはフラッシュサーフェスへの違和感を表明することでもいい。ネジはなくなっていないのにネジを隠すなよと。その空力効果なり、人間工学なり、ガキのような夢にどれだけの価値があるのかと。それを開発した人間も、ほんとにその形じゃなければいけなかった理由をもっと考えてみるべきなのだ。

全ての道具は楽器なんだと思った。楽器とは何かと言えば、入力と出力の関係において、要求される共鳴を導き出すためのシステムだ。要求される共鳴には、必要とされる振動数によってあらゆるスパンが選ばれる。1000年で一回転するようなものから、0.001秒で一回転するようなものまで、その要求は様々だ。

そのようにしてあらゆる楽器が要求に沿って作られてきた。恐らく音楽における楽器というのは、耳を基準にした楽器であったのであろうけど、それが切削を基準にした楽器であったり、腐敗を基準にした楽器であったり、成長を基準にした楽器であったり、老化を基準にした楽器であったりしてきただけなのだ。

そして、その入力と出力の関係性は、常に双方向的に振動する。それは何を意味するかと言えば、共鳴を目的とした楽器という道具でさえも振動し続けなければならないということだ。おそらく、人間の身体も、楽器として保つことが最善なのではないかと思える。振動を制御するための振動する楽器として。

一般的に明るければ明るいほど、人は外向的になり活動的になる。つまり、肉体的な活動範囲が広まり、精神的な活動範囲が狭められる。そして、暗ければ暗いほど、人は内向的になり、肉体的な運動範囲が狭まり、内部への指向性は高まる。これは生理的な反応だ。外部への興味や欲望をより長い時間保ちたいと思うならば、日が沈んでも電気や熱エネルギーを使って、暗くなった空間を照らせば、その欲望のテンションは容易に保つことが出来る。内部への興味や欲望をより長い時間保ちたいと思うならば、明るい昼間でもカーテンや目隠しを利用して明るい空間を遮断すればよい。

こう書くとあまりにも自明すぎて、そんなの当たり前じゃん、と、思ってしまうのだけど、この当たり前すぎる認識はニュートラルには働いていない。現代においては。ニュートラルではないということは、恣意的であるということだ。恣意的であるということは、少なからず、個体的な生理ではない、集団の志向性がそこに影響しているということを意味する。

コンビニやドラッグストや街灯の煌々たる輝きは、意図の無いものではない。そこには人を常に外部への志向性を保ったままにしておきたいという、市場経済的な恣意的ベクトルが働いている。こうして、深夜の1:42にこんな文章を書いている状況なんてものは、まさにそんな集団的恣意性の結果なのだ。

夜を夜のままに、その暗さによって活動範囲を狭めれば、身体は本来の内側への指向性を取り戻し、夜がもたらす内部へのダイブを、より容易に実行することが出来る。なぜ、その恩恵を捨ててまで夜を明るくする必要があるのだろうか。

いつでも好きな時間に、内部への指向性と外部への指向性を切り替えることが出来るということは、近代以降、贅沢の象徴の一つだったのだと思う。それを自由に切り替えることが出来れば、どれほど人間は自由になることが出来るだろう、そんな風に思われていて、今でもその考えは有効であるように思われている。でも、その効力や有用性って、たかが知れているし、大した実効性は無いんじゃないかと思うのだ。薬物みたいなもんで。そういう意味ではエネルギーもまさにドラッグそのものだ。ドラッグというのは、単なる、時間とスピードと密度における、ちょっとした歪みの効果に過ぎないからだ。決定的で致命的な効果はマイナスにしか働かない。それが自分にとってのドラッグの定義だ。

昼間に活動し、夜にエネルギーを使わないことで、外部への指向性と内部への指向性は最大化される。おそらく間違っていないと思うのだけど、これを実践することが困難であることの不条理を解消するためのハードルが多すぎることに、今更ながら呆れている。

覚悟が無かったら何も出来ない。この単純な事実が、時によっては受け入れるのが難しかったりする。頭は、「こんな状況で覚悟を決めていいんだろうか?」とか「何も今覚悟を決めて無くても…」という、どうしようも無い疑問を発しまくるからだ。

もっと具体的に言えば、こんなに収入が少ないのに、とか、こんなに毎日被爆し続けているのに、とか、こんなに何も知らないのに、とか、こんなに何も出来たことがないのに、とか、こんなにみんながバカなのに、とか、こんなに何をやっても甲斐がないのに、とか、とにかくそこには、あらゆる理由が付与され得る、とってもぬるい温床だったりしてしまうのだ。

しかしその決断の決め手は自分ではないのだ。自分が生きてきたプロセスの必然でしかないのだ。良いも悪いも無いのだ。そして、その必要とされる覚悟が何のための覚悟かといえば、自分が今出来ることを実現する為の、とってもプライベートで、とっても密やかな、単純な覚悟でしかないのだ。

それを覚悟することは誰にとっても難しいことではない。なのにその覚悟を人は遠ざけてしまう。難しいことではないのに。たぶんその理由は、人がプロセスに関わることを忌み嫌うようになったからなのだろう。プロセスに関わることこそが生きることなのに。

プロセスというのは昆虫の完全変態のようなものだ。そこには奇跡がある。凝縮された時間と変身の秘密に満ちている。それを体験することが、どれほど心を躍らせることかは誰もが知っている。そのリスクを受け入れずに、他にどんなリスクを受け入れる価値があるのだろう。

古い機械を触っていると、いたるところが「こうでないといけない」という思いに満ちていることに圧倒される。その思いは未来に向かっている。それとは逆にメンテナンスや耐久性を無視した現代の機械を触っていると「これでもいいんじゃない?」という思いに満ちていることにウンザリしてくる。その思いは過去に向かっている。

基準がまったく違うのだ。古い機械の基準は、製作者本人と、その本人が思い描く未来におかれている。現代の機械の基準は、誰だかわからない消費者という名の他人と、既に達成済みの積み上げられてきた技術体系に置かれている。

あらゆる製作物は、それが機械であれ、住居であれ、衣服であれ、創作物であれ、本質的に未来に向かっていないと、何にも面白くないし、面白くないだけでなく、それを使う人間をもダメにしてしまう。過去を向いて作られたものは、社会的に学習済みとされた経験をもたらすことに特化しているからだ。その効率だけを訴求するためにコストダウンと大量生産の暴力が適用される。もちろんそのような製作物からであっても、学習済みではない経験が導き出されることは可能なわけだけど、それは使う側の問題であって使われる側の問題ではない。使われる側にそのような配慮なり、態度が欠如しているということが問題なのだ。

古い機械にはRPGじゃないけど、愛と冒険の物語がある。もちろん古くなくたって、おそらくは実用から最も程遠いような最先端の技術にも愛と冒険の物語がある可能性は高い。その間の、もっとも膨大な空間にはつまらない砂漠が広がっている。そしてほとんどの人々はその砂漠で生きている。この構図はとてもつまらないし、そこで生きる人にとって不幸なことだ。

「効率無視なんて悠長なことは言ってられない」という時代から「効率重視なんて悠長なことは言ってられない」という時代になるのではないかと思っている。

いわゆる「効率」というのは、条件を限定して初めて可視化される。無限の条件を加味しては効率を測定することは出来ない。限定された時間、限定された温度、限定された空間、限定された環境、限定された資源、限定されたエネルギー、限定された組織、限定された技術、限定された知識、限定された価値観、限定された習慣、限定されたコミュニケーション、そういうものの上に立って全ての効率は測られている。そうしないと測れない。しかしそうであるからこそ、その内の一つでも、拡張したり縮小したり、上昇したり、下降したりしてしまうと、その効率は変化してしまう。そして人間の日常や非日常はより多くの、おそらくは無限といって良い様な条件の上で営まれている。これまでの効率に加味されている条件など、その全体から見ればどれほどわずかであることか。人間にとっての効率は、そのような意味では、一度も正しく測られたことはない。なにが言いたいのかといえば、これまでの「効率」では生きていけないような時代がすぐそこまで来ていて、新しい「効率」を探さないといけないのではないかと思っているのだ。そしてその効率はたぶん「科学的」な効率でも「経済的」な効率でもないのだろう。強いて言うなら「身体的」効率であったり、「心理的」効率であったり、「心霊的」効率であったりするのだろう。例えば死を遠ざけず、病を悪者にしない、というだけでも既存の効率の価値体系は崩れるだろう。内燃機関のエネルギー効率が15%から25%にアップするようなことや、ひとつのネジ工場の一日の生産高が5000本から500万本にアップするようなことが、死を遠ざけないという一点の価値観の変換だけで無意味化してしまうだろう。

効率を支えているのは搾取と技術だ。
搾取の限界はすぐそこまで来ている。そして技術は効率に縛られてきた。効率によって葬られたり、堰き止められてきた技術は山ほどある。独占者を悪者にするのは簡単だが、独占者を独占者たらしめてきたのは、効率を喜び、羨望し、全てを自分の意志で打ち捨てて身を投じた被独占者たちだ。しかし有難いことに、効率に決別するための技術は、それほど深くに埋葬されているわけではない。少なくとも今はまだ、決意をもって手を伸ばせば届くぐらいの場所にある。

エンジンを回転させればエンジンは消耗する。
エンジンを回転させなければエンジンは腐敗する。
いずれにしてもエンジンは終わりを迎えるが、
エンジンにとっての幸せは、
それが生まれてきた理由を考えるならば消耗であることは間違いない。
しかしこの原則を原発に対して適用したいとは思わない。
おそらく原発は、人間が発明したもっとも不幸な装置だ。
そしてもちろん、人間もまたひとつのエンジンだ。
人間は人間としてのエンジンを消耗するべきなのだ。
その消耗は単なる消耗ではなくメタエンジンとしての歯車なのだ。

6/5の寝る前Tweet

sakuba:
文明のほとんどを祝祭に還元するべきなんだろうな。日常化された祝祭は習慣化され依存を前提としたドラッグなわけで、ドラッグは否定しないけど、祝祭としてのドラッグは祝祭のうちに使用されないといけない。日常的にではなく。

sakuba:
今までにも何度も言ってきたことだけど、技術の継承は1世代で完結するレベルだけで十分なんじゃないかと思っている。失われたとされる技術でも、同じ要求があれば伝承が無くとも再現されうる。

sakuba:
本質的には技術の成立の可否は要求の認識に依存する。逆に言えば要求の認識が甘いところには本質的な技術の発達や洗練は生まれない。そしてそれは常に個人においての現象としてしか経験されない

sakuba:
人は自分が未来に享受できるかもしれないと思える利益を失うのを恐れすぎている。その利益を「私」は享受することはできない。「あなた」も享受することはできない。その未来があると仮定するなら、それは現在においてすでに存在している。

sakuba:
専門分化によるハイテクノロジーではなく、ローテックの中のハイテクというものがある。そういう意味でのハイテクは否定しないしむしろ全開で推奨する。

sakuba:
たとえば原発はローテクの集積としてのハイテクだ。そこには個人的ハイテクの反映される余地は無い。誰かを前提として行動を起こすこと自体には是非は無いが、誰かを犠牲にせずには成立しないように、その前提がされているならば、それは排除したい。

sakuba:
どうもこういう思考回路にスイッチが入っているときには自分とは違う行動パターンの他人を排除するようなバイアスがかかるが、それを気にすると沈黙しか選択できなくなるので、それは遥か昔に諦めた。

sakuba:
自己の可能性に対する命題を立てるときには、どんなに美しく見えようとも他人を勘定に入れないことだ。すべての要求は「あんたのため」ではなく自分のために生まれる。

風評被害と風評利益を区別するべきではない。前者は緊急時に使われるが、後者はそれに覆い尽くされるぐらい日常的に使われている。世界は風評で動いている。少なくとも通信とコミュニケーションの遠隔操作化が実現した世界においては。

運動する喜びは消費エネルギーを減らす。
運動自体がエネルギー消費だからだ。

運動の外部化は身体エネルギーの消費を減らす。
それが産業革命以降に飛躍的に加速した外部エネルギー消費だ。

おそらくは、エネルギー消費(外部資源の)と
消費エネルギー(身体資源の)のバランスが悪いのだ。

身体運動は身体内におけるエネルギー消費だ。
それは主に食料によって供給される。
同様に、運動を外部化した場合には
そのエネルギーは身体外の資源から供給される。

この二つの消費パターンを、あるいは選択を
身体における喜びが最大値となるようにチューニングする必要があるんだと思う。

110419-01.jpg110419-02.jpg110419-03.jpg110419-04.jpg去年の12月からずっといじってきたアップハンドル仕様のt-s-k-b号がやっとまともに乗れる状態にこぎつけた。ちょっと前にアップしたアルミのサドルもこのポジションにあわせた専用のものだ。幅が広く、後ろにセッティング出来、ロードフレームでもサドルのふちに足が干渉しない形状。ハンドルはちょうどいいものが無いので、ブルホーンと呼ばれているハンドルを逆につけ、カットし、一回り細いパイプで延長してある。後はオリジナルの木製グリップに、例によって削りまくったテクトロのエアロレバーなど。パッと見「プロムナード」という車種に見えるかもしれないが、長距離ツーリング可能なポジションを実現すべく、サドルは後ろに、ハンドルは前に、落ち着いたハンドリングと剛性の確保も両立させているつもり。

何でこんな風にしたかというと、30km/hまでの快適性をメインにしたかったからだ。この自転車は元々ドロップハンドルをつけて40km/h以上で走ることを前提としたようなロードレーサーだったわけだけど、自分の体力や使い方だと、本来の使い方からはかけ離れた使い方しかできていなかった。もっと好きな路地に入って行きたいし、気になるものがあれば立ち止まりたい。そうかといって、短距離専用ののろのろとしか走れない自転車が欲しいわけではなく、その気になれば150km以上だって楽に走れるような軽快性は残したい。本来ならそのような設計の専用フレームでやるべきなのはわかっていたのだが、そうそう散財できる訳も無いので、手持ちのもので試してみたというわけだ。まだ細かい問題はいくつか残されているが、とりあえず当初の目標は達成出来たかもと思っている。

このところエネルギーとか家の事ばかり考えている。例えば昔の価値観で言えば、贅沢とはエネルギーを湯水のごとく使うことだ。そのエネルギーには電気や石油だけでなく、使用人という人力エネルギーや、調達自体に膨大なエネルギーが必要とされる希少食材なども含まれる。そしてその結果得られるのは、労働から解放された時間だったり、希少性に目のくらんだ調度品や料理だったりするわけだ。しかし労働から解放されるにしても、美味しいものを食うにしても、もっと違うアプローチや価値観はいくらでもあるわけで、自転車を例にすれば、漕ぐという行為から開放されるのは自転車における贅沢ではない。そこでの贅沢は良く進む自転車に乗ることだったりするわけだ。これと同じように家事からの解放ではなく、楽しい家事を考えることだって出来る。それは掃除のしやすい部屋であったり、料理のしやすい調理器具であったりするだろう。環境だの何だの言う前に、自分の身体のことや自分の欲望についてもっともっと考えるべきだと思う。全てはそこから始まっているのだから。

興味もしくは未来への可能性を感じるもの。
インターネット、コミケ、野菜直売所(流通と通信の短縮)。キャンプ場(簡易共同体モデル)、登山用品などのアウトドア用品(防寒、防風、軽量、コンパクト、ミニマムなキッチン、ミニマムなエネルギー消費、ミニマムな睡眠)。建築としてのコンテナ、キャンピングトレーラー、テント、プレハブ工法の個人を前提にした進化(モノコック構造、移動建築、軽量建築、分解組み立て可能な建築、土地に根ざさない建築)。モジュール設計(集合と離散、家族単位、共同体単位に対する柔軟性、装置に対するメンテナンスの容易性と長寿命化)。自然農法(おそらくはもっとも労力に対する収益が高く、ローインパクトで、なおかつ生命力が高く維持されたものが収穫できるやり方だと思っている、が、自分の中では理解が浅すぎるし、そもそも実践さえしていない)。自転車、足踏みミシン、公園の遊具、その他あらゆる人力装置(インディペンデントであるための苦痛ではない人力利用)。トレーラー、ショッピングカート、リヤカー、乳母車(モビリティの拡張)。非一極集中のエネルギー利用が可能な技術全般。

しかしこれらを通して、あるいは統合して見えてくる、全体のビジョンを想像する力が欠けていると、自分の場合には、これらの技術でさえ自身にとってマイナス要素としてしか働かないだろうと思う。どんなテクノロジーにも共通して言える事は、「良い事ばかりじゃない」ってことだ。おそらく、その全体のビジョンの中には情熱や畏怖や謙虚も含まれていないといけないのだ。

福島第一原発の1号機の格納容器内の放射線量がいきなり跳ね上がったのを見て、あやうく自分が理解できていないことを書いてしまうところだった。それぐらいには混乱している。情けない話だ。

そんなことを思ったもんだから、わかることを書く。

芸術の社会的インフラはルネッサンスから変わっていない。
一極集中の富によってしか支えられていない。今も。
そのような古い体制に媚びるという事は
そのような古い体制から日銭を稼ごうとする事は
その体制を温存させるだけなのだ。

このことの意味を電力を含めたエネルギー技術全般、あらゆる建築技術、あらゆる農業に当てはめて考えるべきだと思う。

おそらく、ネットだけがそれを打破する可能性を示している。
だが、そのネットはまだとても幼い。
圧倒的に見えるかもしれないが、ぜんぜん足りない。

自分が物を作り出す過程が「設計」に近づいていくのはとても快感だ。
とか言いつつ、設計という言葉がどういう定義をされているのかは知らないのだけど、自分にとっては、ある目標を達成するために手順が確立されたあとの雛形なんだろうと思っている。つまり設計図というのは、単なるガイドラインなのではなく、素材や加工機材の制約を踏まえたうえでの手順が示された「地図」なのだ。地図としての設計図。それは宝のありかを示した宝地図なのだ。

あらゆる人工物をモバイルとヴィークルとして考え直したらいいんじゃないかと思う。そのようにモビィリティを拡大することで見えてくることは、とんでもなく果てしない。
マザーマシンであれ、工場施設でさえ、その対象とされていい。
携帯製鉄所とかだってあっていい。
人工物における地表の占有面積は小さいほど魅力的で自由だ。

役に立ちそうな言葉は全て役に立たない。
役に立ちそうな画像も、役に立ちそうな映像も、役に立ちそうな音も、全て役に立たない。
それらが役に立ったように思えるときには、全て過去に属している。
それが表現といわれているもの、技術といわれているものの本質だと思う。
役に立つかどうかは、いや、役に立ったかどうかは、実践の後の評価であってそれをしない人にとっては役に立つか立たないかもどうでもいい事なのだ。
誰も自分の未来を先取りすることは出来ない。それを先取りできるとする幻想はあらゆる不幸の始まりだ。つまり保険とは存在しない未来の押し売りだ。だがこれを言い切るためには自分に足りないものがありすぎるのだ。この軟弱な身体と精神をもってそんな事言うのは大嘘つきだと思う。だからと言ってそんなにガチガチになることもないじゃないかと同時に思うのだ。大嘘つきでも何でも、正しいと思えることがあるなら、それでとりあえずは毎日生きていける勇気ぐらいは持てるのだから。

機械が人に優しく安易になるほど、機械は人から遠ざかっていく。
遠ざかった機械は
個の失われた集団を前提にしないと維持できないものになる。
集団の母数は膨れ上がり続けている。
そのベクトルの行き着く先にあるのは、
単なる都合のいい空想的な他人としての機械だ。
そしてその都合のよさは、
個から離れて膨れ上がった
集団の欲望の最大公約数によって規定されている。
最大公約数によって生まれた空想の巨人が世界を支配する。

機械とはシステムだ。それは自動車であり、ロボットであり、倫理であり、医療であり、言語であり、コミュニケーションだ。

安易であることが革新であった時代。
だが、その安易さが最大公約数によってしか測られないとしたら、
その安易さは単なる牢獄だ。

セクシャリティの表現が無防備さの偽装に特化していく現状は、共同体の解体が避けようも無く進行し続けている現状から見れば必然なのだろう。そしてそれを乗り越えるためにはさらなるテクノロジーの暴力が必要なのだろう。しかしそのテクノロジーの暴力が幻想としての無防備さを包囲するようしかに働かないとすれば、お先真っ暗だな。

自分がある映像なり表現なりを見たときに、どうしても惹かれてしまう傾向というのがあって、それは身体性が後付の機材によって拡張されていたり、制限されていたりするものだったりする。

拡張性ということで言えば一番わかりやすいのは乗り物だ。レーダーや望遠鏡やメガネや補聴器や、さらに拡大していけばそれは建築物や都市にまで行き着く。しかしそこで惹かれてしまう本質のことを考えると、実は拡張することのために犠牲にされている、制限された身体にあるような気がしてしまう。

制限された身体性といえば、目隠しや、ボンデージファッションや、矯正器具などの医療用器具が思い浮かぶ。ここでのイメージの行き着くところにはには死体や病気も含まれてくる。しかしこちらでも、惹かれてしまう本質のことを考えると、実は制限されていることによって開放されている精神性に魅力を感じているような気がしてしまう。

そうなってくるとどっちが本質かとか、何が究極かとかどうでも良くなってしまうのだ。つまり一見拡張に見えるものは、身体的制限を前提とした精神的万能感の獲得であり、一見制限に見えるものは精神的制限を前提とした身体的万能感の獲得であり、おそらくそのどちらの場合にも、ある外部としての機材を必要とする、もしくは欲望する状況というのが前提としてあって、その前提となっている精神状態が、なにか心の奥にしまってあるものをかきむしるのだ。

そのかきむしる何か、その暴力的なまでの何か、拡張したり制限したりすることによって見えてくる何か、その状態に惹かれているんだろうと思う。

飛躍する。

それはたぶん春の狂騒だ。
悲しみも情熱も春の狂騒なのだ。
暖かく咲き乱れる喜びを乱用しまくった爛れたゴミだ。
だが、そんなゴミが好きなのだ。
そしてそのゴミは、ゴミにしか見えないようにあるときにだけ最も美しい。

より良い絵を描きたいという欲望を、他人の評価基準が鈍らせる。
「これぐらいなら充分上手い絵だよね」とか「これ以上描いても意味無いよね、だって充分伝わるでしょ」とか、そんな気持ちが、描き手であるにもかかわらず、鑑賞者としての自分も同時に存在してるという、避けられない構造のかなかで正当化させられてしまうのだ。

しかし、それは他人ではなく、完全に自分の問題なのだ。自分の中に含まれている「自分社会」の問題なのだ。社会は個の中にこそ作られていて、おそらくはそこにしか存在しない幻想なのだ。そして、そんな個の連なりが、互いに牽制しあうテンションによって構築された構造物として集団が形成されているに過ぎないのだ。この構造に見られるような緊張関係が、今より少しでもほぐれるようなことがあれば、どれだけ人間のうちにしか存在しない「社会」が単純化されることだろう。

建築にこそ基礎への依存を減らすためのダウンフォースが必要なんじゃないだろうか?軽量建築なら、なおさらだ。軽い構造物は地震にはめちゃ強いが、風力には影響され易いわけだし、空力的にその問題が解決できるなら、半浮遊建築物が実現しそうな気がする。

モジュール化:規格が標準化され、その規格内において交換可能なシステムを作ること

モジュール化の可能性はあるところでは過激に進んでいるし、あるところではイラつくぐらい停滞している。例えば家電製品では、ほぼ完全に部品のモジュール化は無視されている。いくら省エネだと言い張ったところで、モーターやスイッチの寿命が来れば、その部品の代替品を手に入れることも出来ずに製品そのものが使えなくなり買い換えざるを得なくなってしまう。なんと言う無駄。

コンピュータの世界ではモジュール化はかなり重要になっていて、モジュール化を前提にしないでは市場が成り立たないぐらい重要な概念になっている(これをもっともっと拡大して、ソフトウェアや言語の世界まで拡大したってたぶんなんの問題も無い)。だが、こちらの世界では前提となるべき規格の更新が速過ぎるの問題だ。

モジュール化は、作る側、もしくはメンテナンスをしながら使う側の個人の自由度を飛躍的に高める。しかし一方で、既存のモジュール規格では実現できない革新的なアイデアの普及を阻む。冬眠と春の爆発の両方を抱える技術的フェーズだ。しかし現状を見たときには、どうみても規格の策定が追いついていないとしか思えないぐらい両者のバランスが悪い。モジュール化のメリットはもっともっと消費者と言われているような個人レベルに降りるべきなんだろうと思う。

電池を交換したり、洗濯機を買い換えたりするようなぐらいしか選択肢が無いようなモジュール化のレベルはどう考えたって低すぎる。モジュール化があらゆる大量生産品にもっとディープに採用されるようなシフトは貨幣への依存を低めることが出来るし、なによりも発見と創作の喜びを高めることが出来る。生きている時間を自分の側に引き寄せる助けになる、はずだ。

なのにそれがなかなか普及しないのは、生産者が技術を秘匿して消費者から金を巻き上げたいからでは無く、消費者といわれている人々が生産者といわれている人々に依存したいからなんだろう。

全くまとまっていないのでいつものようにわかりづらい文章になると思うが、今の時代って、既にあるものを複製することの価値が、急激に下がっていて、それが楽しくてしょうがない。

具体的には、メディアを利用したビジネスが総崩れの再編を余儀なくされようとしているわけでしょ?新聞社、レコード会社、出版社、映画館、そういうビジネスってのは、複製技術の難しさの上で全て成立していたわけで、それが主にはデジタル化とそのスピードアップと集積化によって、だれもがそれらのビジネスと同じことを例えばネット上で、例えばコミックマーケットで、例えば自宅で行うことが出来るようになった。あと残されているのは3D複製ぐらいのものだけど(例えばフィギュアやさらに言えば自動車や家まで含まれる)、こっちだって3Dプリンタやマシニングセンターが個人レベルに普及するのは時間の問題だって感じがする。

これらの技術がどんどん発達して、例えば子供のおもちゃを買うのに、親が1クリックでCADデータをストリーミングしてリアルタイムで樹脂成型するとか、ペタレベルのデータを溜め込めるモバイルデバイスを誰もが持ち歩いていて、しかもそこにはメチャ明るい撮影素子を持つ入力デバイスがついていて、それがネットワーク上に常時冗長化されているようなものを生まれると同時に持たされるとか、ってなことが良い悪いは別にして起きていくわけだ。

で、その上で、さらにそういう現実に晒された個人に何が起きるのかってことまで想像をめぐらせると、なんだかワクワクしてきてしまうのだ。逆に言うと、そこまで考えないと、ただの古いSFみたいな管理社会で想像が終わっちゃう。

おそらく「既にあるもの」に対する認識が飛躍的に高まるんじゃないかと期待してしまうのだ。これにはいくつかの階層があって、最初は今のメディアビジネスに対して起きていている変化だ。距離が人々を隔て、スピードが遅かった時代には、距離とスピード近づけるための技術として複製技術があり、それがある意味権力を持ちえたわけだけど、それが崩れ去ろうとしている現在、既にあるもの、つまり複製されるべき対象としてのオリジナルが、その権力から解き放たれて人々に届くようになろうとしているフェーズ。そしてこれは誰もがこれまで特権的に囲い込まれていた技術を利用できるようになろうとしているということだ。それがネットであり、インクジェットプリンタであり、マシニングセンターであり、入力や記憶ディバイスであったりするわけだ。今はそれがどんだけ簡単に出来て、個人に近づけるかということで十分熱狂できる時代だ。

でも、そんなのすぐに飽きるでしょ、と俺は思っている。だって他人の作ったものを複製することなんて大して面白くない。いや、ここには俺の先走った期待がありすぎるのかもしれないけど、飽きるだろうと思いたいのだ。だってむなしいじゃん。ここで次のフェーズ。既にあるものは他人の創作物ではなく、自分の周りにある素材になる。生活になる、時間になる、成らざるを得ないでしょ、と俺は思いたい。他に行くとこ無いわけだし。

あー
とは言っても、そこに行くのが嫌で、こんだけテクノロジーが発達してきた、ってことは分かってるつもり。遊ばされるのが大好きなんだよね、かまってもらうのが大好きなんだよね、保護されるのが大好きなんだよね、人って。それでも少しだけの希望を持つのは、あまりにも分かり易い構図が実現された時に、そこで無理やり夢を見続けようとする人と、夢から醒めようとする人がいて、その構図が強力であれば、醒めようとする人が沢山になることだって起きると思っている。

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全く関係ないけど、二つ前のエントリーのコメントが少し伸びてて、ちょっと面白いと思うので興味ある人はどうぞ。まだ返信予定。

1:Google Chromeで俺のサイトの日本語が表示されない。スタイルシートをいろいろいじっても改善されず。でも他のブラウザは全部表示されてるんだぜ?UTF-8がいけないのかなぁ、くそう。Chromeで来る人結構いるんだよなぁ。

2:Picasa3にアップデートされたら、2.5GBぐらいのデータベースが全部リセットされた。なんで?8時間ぐらい検索しても半分しか終わらず、何もかもがフリーズしまくる。13万枚ぐらいある俺の画像ファイルが多すぎますか?そうですか。Googleが嫌いになりそう。でもViwerはかなり便利だ。これだけインストールできればいいのに。

3:携帯電話の写真画像取り込みがウザ過ぎる。すぐに通信が切れてたかが30枚ぐらいの画像を取り込むのに何十分も掛かる。これは早いとこ外部メモリが使える携帯を買えってことなのか。気に入っているのに買い替えって悲しい。とか言いながらExilimケータイW63CAに傾いている俺。しかし移動の基本が自転車になるとやっぱり重いカメラなんて持てないな。いつも携帯電話で済ませちゃう。マイクロフォーサーズの一眼早く出ないかな。思わずトイデジに走りそうだよ。

4:自分のPCにスペック不足を感じる局面が増えてきたんだけど、そのほとんどが消費系アプリで嫌になる。つまり作る分にはそれほど不自由していないのだ。FlashだのViewrだのゲームでスペックが足りないとか思わされるのはすんごい不本意だ。なんか間違ってる。これって見方を変えればOSだのアプリケーションだのが成熟期に入ってきたって事なんだろうな。進化の方向が明らかにカジュアルになってきてる。本質的じゃない。しかしそれと同時に、ハイエンドPCを2000Wで駆動しないと出来ないようなゲームを作るような時代ではなくってきているというベクトルもある。ネットブックとか別にそれほど欲しくないけど(というより、それはモバイルデバイスの進化を待てばいいんじゃない?と思っている)、やっと要求の上限が見え始めたんだなというのはビシビシ感じる。テレビ見ないけど、見るならワンセグでも充分とか、そんな風になる、なるよなぁ。ハイビジョンでなくてもいいよ、みたいな。つかさ、メディアなんて本質的にはすべて二次情報なんだから、二次情報のクオリティなんてどうでもいいじゃん、って昔から思っているんだよな。Jpegの画質劣化とか、オーディオの再生クオリティとかどうでもいい。そこに必要なのは自分以外の誰かが一次情報を得て発信したということこそがリアルなんであって、それが他人に伝わるためには、物凄い低い品質であっても充分なのだ。おお、なんかいいこと言った気分。

08:05
それでも綺麗な方が嬉しいでしょ?
と、問われればイエスだ。
しかし、綺麗じゃないと悲しいでしょ?
と、問われればノーだ。

雇用の創出の基盤となるのは多数の欲望だ。しかも潜在的な多数の欲望だ。それまでには雇用に結びつかなかったような業種を、社会的に定着することが出来れば雇用を創出することが出来るんだろう。

かつて人は自動車に夢を持っていた。
今、人は自分の家で自分のペースで自分の目の前にある触ることが出来たり匂ったりする環境の中で持続的なサイクルに包まれながら生きることに夢を持っているらしい。

何が理解できないかといえば、自動車と匂う環境の違いだ。
それは同じように夢だ。
それらは同じように雇用に変換できるように違いが無い。

しかし経済が破綻したのは夢そのものが破綻したからだったのではなかったのか?
同じように夢であるなら
それは繰り返しではないのか?
間違っているのはモチーフではなく夢の定義ではないのか?

つか、夢を見ていれば幸せなのか?
そうなのか?
必要なのは同じ定義の内の次の夢なのか?
次の夢なんて昨日と同じ宙吊りの言い訳じゃないのか?

それでもそこそこの雇用は創出できるんだろう。
それがどんな結果を生もうとも。

しかしそこで感謝の念を抱く人がいっぱいいることも知っている。
沢山の命が生き延びたりもするだろう。
それが中庸の力だ。そのように人間社会は動いていく。文句は無い。これっぽっちも。

それでも理解できないのだ。
つまり、俺が理解したいのは中庸ではない力なのだ。

081127.jpgやっと買い貯めたり、改造していたりした、自転車の部品が組みつけられる準備が出来たので、きのうからずっと自転車をいじっていました。おかげで更新はサボりまくり。何とか走れる状態に漕ぎ付けたので、明日試乗しにいくつもりです。とても楽しみ。完成写真(といってもまだ仮組み状態ですが)は明日アップしよう。

基本的にのめり込みすぎるたちです。オートバイもゲームも、それで結局デザインしたり監督するとこまで行っちゃったりする。自転車も既にヤバい域に達しています。もう性分なので自分ではあきらめてますが、周りはいい迷惑です。知ってます。すみません。

ところで自転車のことを考えていて思ったんですけど、現在のテクノロジーって中庸に対しては全く真剣さが足りないんですよね。自転車で言うと極端な話ママチャリとレーサーしかない。そこでレーサーのスペックを持ったママチャリがあったっていいと思うんだけどそんなものは存在しないわけです。自転車は軽ければ軽いほど楽に走ることが出来るんですが、ママチャリってのは16kgとか18kgぐらいの重さです。ロードレーサーなら市販車でも9kgとか8kgとかで、最も軽い自転車だと4kg以下です。この重さが例えば坂を上るとき、そして加速する時に足の負担として掛かる。18kgの自転車で坂を上るということは、その重さをペダルの回転で持ち上げるということです。つまりロードレーサーで坂を上ることに比べると、10kgの米を積んで登るのと同じぐらいの負担が足に掛かるわけです。この米を降ろせば今まで登れなかったような坂が登れちゃうなんてことも起きる。だからママチャリだって軽いほうがいいに決まっているわけです。で、なぜママチャリが重いままでいいかというと値段ががネックなわけです。ただそれだけ。自転車なんかに10万円とか100万円も出せないと。

しかもこれは自転車だけの話しじゃないわけで、服にもヤカンにもフライパンにも家にも言える。特に家なんてのは極端な話ハイテクテント(これが自転車のレーサーポジション)と伝統とデザイン(機能を限定した上での遊び、もしくは言語的な解釈の押し付け、もしくは極端な単純化、もしくは過剰な複雑化、もしくは新しさの幻想。これもある意味レーサーポジション)しかない。極端が魅力的なのはわかる。冒険はワクワクするし、羨ましがられ憧れられるのは気持ちがいいだろう。とりあえずは。でもそれだけじゃやっていけないところにママチャリや住宅があるわけで、それがクソ重かったり非合理的だったりするのはとっても納得がいかない。なんでもっとシンプルに要求を汲み上げないのか。と思う。

そんなわけで俺の自転車は軽くて気兼ねなくてラクチンで遠くに行ける自転車を目指しています。現在の重量はは8.4kgぐらい。このコンセプトでもお金を使えば6kgを余裕で切れるけど、そこまで無理しなくても充分快適になれるだろうと思っています。タイムトライアルには全く向かないけど、競わないけれども楽だということを追求したらどんな形になるのかを見てみたいのです。

04:12
楽になりたいならエンジンをつければいいんじゃない?っていうのはこれまでの方法論。エンジンをつけるという事は、自分の体にとってどうかということを無視することになってしまう。俺が欲しいのは漕がなくてもいいということではなく、気持ち良く漕げるということなのだ。漕ぎ続けられるということなのだ。そしてエンジンをつけるという事は社会に対する依存を決定的に増大させる事でもある(税金、免許、メンテナンス、法律、出力という暴力、忘れてしまう重量、マジョリティであるという嘘、消費され続ける燃料)。問題なのは素っ裸の身体とマシンのコミュニケーションなのだ。自転車が変われば、おそらく自動車も変わるだろう。ちなみにいわゆるエコには興味がない。そこには嘘しか見えない。

近頃インターネットに対してなんとなくムカついている。理由はとてもはっきりしている。いろんなツールを使って下り側を加速させたからだ。だから正確に言えば、別にインターネットに対してムカついているわけではなく、上りと下りのズレが許容範囲を超えている事態に自分自身で進んで飛び込んでおきながら混乱している自分にムカついているのである。アホは俺だった。ごめんなさい。

でもそこで知りたいことがあったんだからしょうがない。やってみなきゃわからない。そんでそれをやるってことは、傍観者として分析することなんかじゃなく、まんまと嵌められてむさぼりつくすようにやらないとやったことにはならない。少なくとも俺の場合。ゲームでレアアイテムを手に入れるために費やした時間とか考えると、自分でもバカじゃないかとしか言いようがない。どんなに贔屓目に見ても、そこにポジティブな意味なんて見出せないぐらいの不毛な時間だ。

おそらく知りたいことは、不毛な時間に向かわせる欲望なのだ。不毛だとわかっていてもそれを求める理由なのだ。

例えばネットワークゲームをやっていて、いくらそこで金を稼いでも、そんなのゲーム上の金に過ぎないじゃないかとか、ゲームキャラクターに好きな人が出来ても、そんなのただの2次元じゃないかとか、そういうことを言ってられる様な問題じゃないところまで既に来てしまっている。なぜなら現実もまた同じテクノロジーと同じルールを共有していて、株をやることとゲームをやることの違いなんてほんのちょっとの差でしかないように見える(株はやったことないけどね)。セックスにしたって、そもそも男の頭の中なんてものはヴァーチャルセックスと大して違いがないように現実のセックスの中でも乖離していたりもするのだ。

何が起きているのか。
意識が身体から浮遊しているんだと思う。浮遊することをテクノロジーが許しているんだと思う。誰もが望んでいるテクノロジーの方向の一つは、夢見るためのテクノロジーなんじゃないかと思える。乾燥機つき全自動洗濯機が、大画面液晶テレビが、インターネット決済が、生産システムの横型分業構造が、立体造形の自動化が、あらゆる身体性を補助するテクノロジーがそれを支えている。

『不毛であっても夢見ていたい。みんなが夢を求めるなら不毛であっても構わない。身体なんて要らない。あなたが私のことを見ていてくれるなら不毛のうちに死んでも構わない。むしろ死にたい。そうじゃないなら死んだ方がいい。そうだ私は夢の中に入れてもらえない。死んだ方がいいじゃん。私は夢から疎外されている。私の意識はこんなに浮遊しているのに、こんなに誰よりも夢見て、こんなに身体から切り離されているのに、なぜあなたにはそれがわからないのか。あなたの夢が私には見えない。あなたはみんなの夢に属している。あなたの浮遊は幸せそう。私の浮遊は死んだ方がいい』

っていう、自家中毒的浮遊ループがそこに発生する。
たぶん身体を失った意識が、判断基準であった身体性の代わりに見出すものが、同じように身体性を失った他者の浮遊する意識であるときに、このループが生まれる。これは嘘つきの始まりだ。あまりにも柔らかい嘘だ。柔らかすぎて嘘でさえないのかもしれないけど。

俺は意識の錨をもっと自分の身体に降ろすように努力しよう。

03:54
おそらく社会そのものが浮遊している。
浮遊するデストピア。
浮遊する淀み。
社会も身体性を失っているのだ。

かつて浮遊することは
淀みではなく破裂する奇跡のような経験であったのかもしれない
死をもってしか経験することが出来ないよう希望であったかもしれない
夢見ることの究極のような多幸感を伴う経験であったかもしれない

しかしいまや、浮遊する意識はつまらない日常に過ぎない。

怪獣の絵は2400×1600pixelで描いている。384万画素だ。印刷を前提にすると解像度が低いように感じられるかもしれないが、おそらくこの画素数でもインクジェットプリンタでA3に印刷してもそこそこの解像感は得られる。また、こうしてアナログな物体にしてしまえば、そこからスキャンして印刷用に回すことも可能だ。まあ、そんな手間を掛けずとも、上手にリサイズしさえすればそれで充分だろう。つまりこの程度の解像度でも、印刷メディア、ハイビジョン動画、もちろんWebも含めて、ほとんどのメディアをカバーできると考えている。欲を言えばこの倍ぐらいあれば言うことないけど、今使っているPCだとちょっときついのだ。Photoshop上でのサイズは11MBぐらいだけど、それをレイヤーを含めて展開すると、一枚あたりのサイズはだいたい150MB越えてるし、4800×3200にすると単純計算で600MBということになってしまう。つまり、自分のPCで気持ち良く描けて、なおかつ我慢できる解像度の妥協点が300-500万画素ぐらいだったというわけだ(とは言っても、いたって軽い気持ちで始めたので深く考えて決めたわけじゃない)。これが最新のハイエンドPCだったら、600MBぐらいのPhotoshopデータもわけなく動きそうだけど、最終結果から考えるなら、それほど焦るような違いじゃないかと思える。もちろん新しいマシンは欲しいけどね。

なぜ大きな解像度に対して焦りを感じないかという理由は、何をおいてもディテールだ。自分が一枚の絵に対して描き込むディテールはそんなに大したものじゃないのである。人が一枚の絵を見て、どんなに凄い描き込みだと思うような絵でも、300万画素ぐらいの解像度で充分表現することが出来てしまう。これは事実だ。そこで表現できないのは虫眼鏡的に見た場合の鉛筆のこすれであるとか、絵の具の粒子であるとかといった、表現を一体となって構成してはいるが、表現者の身体以前であるような情報だったりする。それらを抜きにすれば、なんの問題も無くこの解像度は必要な情報を表現してくれる。絵を描く立場から言えば、実際のところ100万画素を埋め尽くしコントロールすることでさえとんでもない労力を要求されるし、あくまでもディテールということではそれでも充分なぐらいなのだ。

ちなみに、人がどのような画像をもって解像感の高い画像であると判断するかといえば、それはほぼ輪郭のシャープさに尽きるんじゃないかと思う。これはJPEGの圧縮技術を見ても分かる。諧調の遷移が緩やかな部分は大きな四角で表し、諧調の遷移が急激なところでは四角を小さくする。そのようにすることで、画像の解像感を損なうことなく、サイズを圧縮している。先の例であげた上手いリサイズというのも同じで、輪郭のシャープさが保たれていれば、解像度の低い画像を拡大してもそれ程問題になることはないのである。Photoshopのリサイズ機能はそれ程偉くないけど、それなりの手間をかければ、求める要求に十分に答えることは出来る。

しかしこれは静止画の話。
動画のことを真剣に考えるととてもじゃないけど現状のスペックは厳しい。逆にいえば、静止画のデジタル化に関しては、やっと技術が追いつきつつあるともいえるかもしれない。それはパソコンに限らず、デジタルカメラを見ても分かる。いまどきのコンパクトカメラは軒並み1000万画素を越えてるし、どれも良く写るだろうし、何を買っても失敗がないような状態だ。もちろん課題もたくさん残されているにしても、裏面照射CMOSセンサが実用化されたり絵だったらタブレットPCが進化したりして、いずれ解決されていくだろう。だが動画は静止画のこの現状に比べるとまだまだ発展途上であり敷居も高い。なによりコストが高い。高かったのである。

別に今すぐ動画をやろうと思っているわけじゃないし、そんなに気にする必要ないんじゃない?とも思うんだけど、気になるほどに周りが変わってきつつあるなぁというのが正直なところだ。ハイビジョン動画の解像度は1920×1080=約207万画素だ。これが1秒間に30枚再生される。ちょっと前までは、このような解像度の動画を撮影する為には最低でも100万円以上はするようなビデオカメラが必要だった。プロ用となれば何百万円だ。そこに複数のレンズを組み合わせたりしたら軽く1000万円越えとかしちゃっていたのだ。まるでCGが普及し始めた頃のMac一式のようなお値段だ。ところが今やレンズ交換式のデジタル一眼レフでハイビジョン撮影が出来るようになってしまった。しかもそのクオリティがとんでもないハイレベルになっているという。CASIO EX-F1の超高速連射によるスローモーション撮影だって、研究用カメラでしか実現できなかったような機能なのだ。

別にばら色の未来を思い描いているわけではない。このような技術革新に期待するのは製作の現場が個人レベルに降りてくることに尽きる。多額の資金繰りや巨大な設備に依存することなく製作が出来るのはとてもありがたいことだ。たかがカラーコピー機1台のために300万の借金をしようと真剣に悩んだ時代があったのだ。


関連記事:--------------------------------------------------

lrg_radio_robots.jpgModern Mechanix
フィクションとノンフィクションの区別が曖昧だった時代の発明や空想を見るのは楽しい。まだあまり深くまでは見ていないけど、このブログは情報量がかなり充実している。後で探検しよう。ついでに似たような系列のサイトをいくつか。

The Steampunk Workshop

ここはマニアテイストが強い。レベルはともかく、自分たちで作っちゃっているところは好感度高い。

The Automata / Automaton Blog
オートマタ関連のネタを集めているサイト。しかしツボにはまるブツにはなかなか出会えない。この手のはネタ自体が少なかったりするんだよね。

The Museum of RetroTechnology
以前にも紹介したサイト。いまだに最強か。

重い映画とか重い話題とかの重さじゃない。体重計やキッチン秤で量れる重さのことだ。

美術作品がどれだけの重さかを気にする人はあんまり居ないだろう。それを気にするのは展示のために雇われたアルバイトや、自分で搬入する作家ぐらいのものだ。まあ、たまには引越しの為に作品を移動する必要に迫られたコレクターなんかも含まれたりするだろう。

しかし実際には、作品の重さはその表現形式や流通や価値に対して決定的な影響を及ぼしている。重くなるために実現できない作品がどれだけあるかを作家の立場に立って想像してみるといい。20kgの作品は作るのに大きな支障は無いだろうが、200kgの作品を作るのは覚悟が要る。2tの作品ならなおさらだ。逆に言えば、2万tの作品を作れば、それだけで作品として成立するかもしれない。惑星の重さは知らないけど、200億tぐらいあれば、存在しているだけでとんでもない影響をあらゆるものに与えることが出来るだろう。

コンピュータが普及することで、絵を描く人が増えたかどうかは知らないが、描かれた絵は圧倒的に増えただろうと思う。それは日記が大量生産されるようになったのと同じだ。その理由の一つには(あくまでも要素の一つに過ぎないが)、重さが無視していいほどになったということが強く影響している。壁画が移動可能なキャンバスなったり、立派な大理石の等身大以上もある彫像ではなく、小さな精密な彫像が作られたりしてきた歴史にも、重さはしっかりと関係している。

ちなみに、自分が今まで作ってきた作品の重さを考えてみると、絵や立体だけなら多めに見積もっても200か300kgぐらいなんじゃないかと思うが、これに装丁をした本だのデザインしたバイクだの、パッケージされたゲームだのを加えると一気に膨れ上がる。軽く10倍ぐらいになるんじゃないだろうか。ちょっとウンザリするな。これが彫刻家や建築家だったりしたらさらに10倍、100倍となっていくわけだ。

美術作品でなければ話はもっとわかりやすくなる。たとえば、かつての実用車と言われる自転車は30kg近くあった。重い自転車を漕ぐということは、それだけ多くの体力を消耗するということだ。平坦な道なら丈夫で良い自転車で済ますことが出来るかもしれないが、その自転車で坂を上るということは、30kgをペダルの回転で引き上げるということだ。押して歩くのでさえとんでもない労力を強いられる。現在最も軽い自転車は3kg後半だ。やりすぎな軽量化ではあるかもしれないが、それでも坂を上るのに充分な耐久性と機能を備えている。

つまり個人に寄り添うものは軽さを求める。作家が重いものを作れないのは単純に自分ひとりの力では実現が難しいからだ。自動車が重くても許されたのは燃料なんていくらでもあると思われていたからだ。極論するなら、権力は重いものを求めるが、自由は軽いものを求めるということなんだと思う。だから、権力を持つ個人は重いものを求めるだろう。権力を持たない個人は軽いものを求めるだろう。もしくは権力を誇示できるところでは重いものを求めるだろう(例えば家だ)。権力が関係しないところでは軽いものを求めるだろう(たとえば冬のフリースだ)。

ところで軽さと耐久性は基本的にトレードオフだと思われているが、必ずしもそうではない。耐久性を損なうことなく軽く出来る要素はいくらでも残されている、というより、美術作品がそうであるように軽さが重要な価値となったことのないモノの方が遥かに多いんじゃないかと思う。例えば家電なんて重すぎて呆れる。ちょっと前のニュースで大型冷蔵庫に使われている鉄板の重さが書いてあって、20kgだったか40kgだったか忘れたけど、あの大きさでなぜそれほどの鉄板が必要なのか理解に苦しんだ。自分が持ち上げられない家電なんて欲しくない。100kgのテレビなんて要らない。

真剣に軽さを求めているのは機材スポーツの世界とモバイル機器ぐらいのものだ(乗り物業界はモータースポーツじゃなくてもそこそこ健闘してるけど)。とりあえず地球上に暮らしている限りは誰も重力から逃れることは出来ない訳だから、権力を捨てることでどんだけの軽量化が出来るのかを試したっていいと思うのだ。それは家具の価値観や収納や動線を変えるだろう。建築の工法や土地の概念を変えるだろう。料理の調理場所や調理方法を変えるだろう。そしてもちろん美術の形式や流通や所有形態も変えるだろう。

関連:メンテナンスの価値

世の中は個人や企業が発信したものをどれだけ簡単に多くの人でシェアできるかという方向に向かっているわけだが、一方では全くシェアされること無く個人の部屋や押入れやガレージで腐っていくものが増え続けている。いや、この言い方は間違っているな。シェアされて個人に分配されたデータや商品の墓場がハードディスクやガレージや押入れなのだ。

書店で買われ、部屋に持ち帰られた本。週末にファミレスに行くためにしか乗られない車。一度しか着られなかったドレス。集められた時点でゴミになったガシャポン。どうすんのこれ、ってぐらいのゴミの山だ。

リサイクルショップがあるじゃん。と、人は言うかもしれない。データなら消せばいいじゃん。でもそれじゃ何も解決しないんじゃないの?と思う。なぜゴミになるのか、なぜゴミに何百万円も払うのか、そもそもそれらはゴミになるべくして生まれてきているんじゃないのか、ゴミにならない流通があるんじゃないのか、という様々な疑問が何一つとして解決しないからだ。

例えば自分は今バイクが欲しいと思っている。ツーリングと、手持ちや自転車では運べない買物のためだ。でもそんな必要が生じるのは一年に何度もあるわけではない。せいぜい多くても5、6回だ。その為に強制保険と任意保険に入り、税金を払い、日々のメンテナンスをし、何十万円のローンを払うなんて馬鹿げている。そんなものを背負い込むぐらいなら、荷物は宅急便で送り、ツーリングの代わりに電車旅行をする。そしてその通りにしている。でも、バイクでツーリングがしたいんだな、困ったことに。だってどんなに遠くても好きなところに行けるし、安く行けるし、とにかく気持ちいい。

じゃあどうするか。一つの答えはレンタルを利用することだ。バイクのレンタルはとても少ないが、本なら欲しい本があるかどうかは別として図書館がある。胡散臭いが絵のレンタルもある。ガシャポンのオマケのレンタルは無いが、ドレスのレンタルはもちろんある。でもレンタルというのは基本的に他人任せであるという点で、リサイクルショップと対して変わらない。ゴミがゴミになるのは、ゴミになるものに対して、その所有者が関係性を放棄するからなのだ。

もう一つの方法は少人数でシェアすることだ。図書館やレンタカーは不特定多数を対象にしている。利用者は自分を不特定多数の一人だと認識している。この認識は現代の日常を過ごす人間にはとても都合がいいことは容易に想像がつく。誰もが簡単に関係性を放棄せざるを得ないほど過剰な日常に囲まれているわけだから。そこへいくと少人数でシェアするということは、不特定多数ではなく特定少数の一人になるということだ。これはなかなか受け入れられないだろう。なぜなら、このような関係こそは、近代が始まって現代に至るまで、誰もがとことん捨ててきたものだからだ。その行き着いた果てがマンションのワンルームであり、携帯電話であり、もっと言ってしまえば個人が抱えるゴミの山なわけだ(それなのに一方では「一生モノ」だの「名前の見える野菜」だのがもてはやされる訳だが)。

特定少数のシェアとは、昔で言えば共用井戸であり、共用便所であり、共用流し場であっただろう。それらは顔の知れた数人から数十人でシェアされていただろう。しかしこれを現代にそのまま持ってくることは出来ない。ハンバーグを捏ねている横で地粉のそば粉を伸しているとか、その横でカップ焼きそば作ってるとか、どんだけメチャクチャになるかは容易に想像が出来る。では共用バイクや共用雑誌や共用ドレスや共用絵画や共用オモチャや共用ホームシアターには全く未来は無いのか?関係性を放棄せず、かつモノの特性に見合った付き合い方をすることは不可能なのか?おそらくそれが実現するためには、物自体が変化する必要がある。そのような所有形態に向いたものに。そして人間の方も物に歩み寄る必要がある。でも、それが出来れば不可能なことではないんだと思う。

不特定多数のうちの一人という人間が生まれたのは、そのような人間関係を望んだからではなく、結果的にそのような人間関係を生み出すようなモノが間に置かれたからだ。関係は間に置かれたものによって作られるのだ。たぶん。

080818.jpgこのツール、Flashを使ったPhotoshopみたいなものなんだけど、かなり凄い。

Pixlr

今までにもこの手のFlashお絵かきツール(というよりこれは画像編集ツールだけど)はあったけど、ここまでツールに徹しているものって見たことない。こういうものがあれば、ネットへ繋がっているだけで、画像編集ソフトなんか持っていなくても、ホテルのロビーのパソコンだろうが、携帯電話からだろうが(現状では動かないにせよ)、誰でもどこからでも絵を描いたり画像の編集が出来るわけでしょ。ウチの劣悪なネット環境とPen4のCPUじゃ、かなりもっさりした感じはあるものの、それでも充分未来を感じるなぁ。最新環境だともっとサクサク動くんだろうか?とりあえずグラデーションツールと筆圧感知対応希望。

欲しいものが無い。
欲しい自転車が無い。欲しい家が無い。欲しいバイクが無い。欲しいヤカンが無い。欲しいベッドが無い。欲しいポットが無い。欲しい洋服が無い。欲しい仕事が無い。欲しい生活が無い。欲しい葬式が無い。欲しい祭が無い。欲しい絵が無い。欲しいゲームが無い。欲しいオモチャが無い。

無いんだったら作ればいい。それは自分が発見し、自分が発明し、自分が現実に移し変えない限り存在しないのだ。

ではどんな自転車が欲しいのか。どんな家が欲しいのか。どんな生活が欲しいのか。それが分かっていなければ発明することも移し変えることも出来ない。

俺には俺が欲しい自転車は分かる。とりあえず。それはママチャリでもなく、ロードレーサーでもなく、マウンテンバイクでもなく、レトロランドナーでもない。ましてやデザイナーズシティバイクであるわけも無い。俺が欲しい自転車は、タイムを競うためのものではなく、長距離を走ることが容易で、気負いが要らず、その気になれば荷物を運ぶことも出来て、神経質でなく、耐久性を犠牲にせず、6kgぐらいの重さで、メンテナンスし易く、美しい自転車だ。

同じように俺が欲しい家は少しだけ分かる。俺が欲しい生活も少しだけ分かる。俺が欲しい絵はもうちょっと分かる。

俺が欲しいものは、俺に必要なものだ。誰かに必要なものではない。どこかでシンクロすることがあるにしろ、一般化することがあるにしろ、あくまでも個人的なものなのだ。というより、誰にとっても個人的なことでなくてはならないのだ。なぜなら、そのように全てのことが実現しない限りは、精神的自給率のバランスが崩れるからだ。誰もが自分において発見しなくてはならない。自分において発明しなくてはならない。自分において移し変えなければならない。

他人の成果から学ぶことが出来るのは、その勇気と孤独だけなんじゃないだろうか。自由という言葉がいまだに有効であるなら、そのような関係性の内にしか見出せない気がする。

かなり昔、確か15年ぐらい前になると思うんだけど、「マニアの世紀」という原稿を書いた。それは原稿だけで本にはなっていない。その中で書こうとしていたモチーフの柱みたいなものがいくつかあって、それは欲望の最短距離だったり、個人による技術の再発見だったり、スピードという価値観の再定義であったりしたわけだけど、その中の一つにメンテナンスという行為の重要性とそれを容易にするためのテクノロジーがいかに必要とされているかみたいなことが含まれていた。

例えばMac-OSがOS9からOS-Xに移行したときに失われたのはメンテナンスのし易さだ。例えば内燃機関からキャブレターが消えてインジェクションに移行したときに失われたのはメンテナンスのし易さだ。石油ストーブから統合的空調機器へ、ガスコンロから電子調理器へ、オイルライターから電子ライターへ、とにかくあらゆる技術革新はメンテナンス性を犠牲にすることによってしか進化できないと言わんばかりに、変化はメンテナンス性を無視して生起する。もちろんその変化によってクラッシュしにくいOSが実現できたり、燃費や加速性能が劇的に向上したりしたわけで、それを無視するつもりはこれっぽっちもないんだけど、それでもこのような世界では、メンテナンスなんてものは自分じゃなくて誰かがするもの、メンテナンスが必要になったら破棄するもの、として商品や物体が流通していく。

決して、古い技術を礼賛したいわけではない。今起きている変化は、メンテナンスの価値が捨て易いように社会的な市場と価値観が組まれているからそのようになっているだけで、メンテナンスの価値をもっと引き上げるならば、どれだけメンテナンスし易いかが問われるような先端技術の使われ方だっていくらでもあるはずなのだ。

バイクのパンクを直すために、タイヤを外してチューブを引き出す必要がないチューブレスタイヤは素晴らしい。アーレンキーを3本ほど使えば完全にばらすことが出来る自転車は素晴らしい。そしてスノーモービルを完全に整備できるイヌイットはやっぱりカッコイイなと思ってしまうわけだ。俺が欲しいのは俺がメンテナンスできる建築だ。俺がメンテナンスできる洋服だ。俺がメンテナンスできるコンピュータだ。俺がメンテナンスできる乗り物だ。

そういえば昨日紹介した犬のしっぽブログの人はこの辺のことをとても上手く言っていたな。「かけがえのない自然」ではなく、「自然とはかけかえ続けられるもの」なのだと。

二週間ほど前にチムリク経由で教えてもらった犬のしっぽブログというサイト、思いっきりツボにはまって、凄い久しぶりに言葉で刺激されまくった。

普段、文章を読むためにネットを利用することってほとんどない。もしくはそういうサイトに行っても、文章でハマることなんてないし、ましてや読み漁るなんてことにはまったくならないんだけど、過去ログ一気読みとか有り得ない事をしてしまった。

何が気持ちいいって、この人が思考する為に立っている場所だ。世間一般に流通している意味での哲学でもなく、科学でもなく、芸術家や宗教家のようでもあるのに、明らかに違い、かといって俺みたいな曖昧で飛躍しまくりの酔っ払いと区別無いような言動とも違う。肩書きからしてデザインサイエンティストとか言ってるし、ある意味なにそれって感じなのに、書かれている事はこれ以上マトモなことなんてないぐらいすっきりと単純に本質を突いてくる。とにかく好きだ。

しかし、この人の言っていることを説明しようとするといきなり言葉に詰まる。キーワードはいくらでもあげられる。メタフィジック、テンセグリティ、エコロジー、宇宙、地球温暖化、シナジェティクス(これはバックミンスター・フラーの考えた概念らしいけど、大昔にこの人の本は漁ったことがあるのにまったく記憶に残っていなかった。残っているのは浮遊都市とジオデシックドームぐらい。というかこのブログの梶川泰司という人は、フラーのところで一緒に研究をしていた人なんだそうだ)…。でもこれらのキーワードを羅列したところで、もしくはこれらのキーワードを知っていたところで、そこから想像する世界には収まることは稀だろう。

例えば現在流通しているエコロジーという単語が日々どのように形成されているかを考えると、エコロジーなんてただの金儲けの道具でしょ?トヨタやソニーは車売ったりテレビを作るのを止めればいいんじゃない?アホくさ、とあっさり切りたくなるし、環境問題だの地球温暖化だの言われても、それは関東地方でナガサキアゲハが捕獲できるぐらい深刻で、クマゼミだってモンキアゲハだって千葉県市川市に定着するし、アオスジアゲハなんて遥か昔から確実に北上を続けているわけだから、人間がヤバくないわけないよなぁ、生物的な危機感が弱すぎるんじゃないの?クーラーの運転時間を短縮することよりも前に真剣に考えなきゃいけないことがあるでしょ?って思っちゃう。この、無視は出来ないぐらい目の前に迫っているのに、周りがとち狂って動いてるがゆえに「違うんだよ!」としか言えないもどかしさ、を感じている人だったら、何かしらの発見があること確実。と、全然説明になってないけど超お勧めです。

PBBSで(右下の虫が入り口)あくびさんの絵に関する書き込みが面白かったのでここで返信します。以下インタビュー形式で(笑

あくび:
デジタルだと特に複製のしやすさとか、しにくさってのが作品の価値に関係なくなっていくのでしょうか。

サクバ:
本質的な価値は、デジタルかどうか、複製しやすいかどうかにかかわらず変わらないと思うので、市場的価値に関しての疑問だとします。

キネガワ堂のシェアピースのコラムでもこの辺について書いてますが、美術市場はむしろデジタルであっても複製を制限して価値を高めようとします。消費者はデジタルの特性を利用して市場価値を低くします(音楽データがいい例です)。また美術市場ではなく出版などのマスメディアでは複製を制限することはないけど、通常それは「作品」として流通させているわけではないという了解があるといえると思います。この図式からひとつ見えてくるのは、どこまでを作品とするのかということです。テレビに一秒間映った絵はその一秒間の間、作品として存在したのかと。極端に言えばそういうことです。

俺の答えはイエスです。発信側と受信側のコストバランスが多少変化したに過ぎない。そういう意味ではデジタルでなくてもあらゆるものが(たとえば写真に撮られるとかテレビに映るとか)いくらでも複製できるものとして存在しているといえなくもない。

ただしデジタルの特殊性はそれが「作品そのもの」であるということなわけで、これは言ってみればオリジナルが存在しない複製なわけです。全部が本物。しかも個人が大したコストをかけずにいくらでも増殖させられる。混乱の原因はここにある。でもこの一見複雑そうに見える関係も消費する側にとっての作品価値という観点から見れば、一気に単純化することも出来ます。要は楽しんだ分を支払えばいいわけですから。しかしデジタルという魔法の果実の美味しさに眼がくらんでいるうちは難しい。その単純なことが単純に感じられるようになるには相当時間がかかるだろうと思っているんです。

あくび:
作場さんなんかはデジタルで作品を作る際に、印刷してある程度のサイズの物質(?)になるのをを前提に製作されてるじゃないですか。
印刷するときってどういうことにこだわるんでしょうか。やはりディスプレイで見える画像(描いた画面上の画像)をどれだけ再現できているかなのでしょうか。
そうだとしたらその絵を人に見せる場合の最適距離っていうのは描いたディスプレイの画面上ということですか?
完成品というのは印刷されたものなのか、データなのかというのをいつも考え込んでしまうんです。

サクバ:
自分の場合、印刷を前提に絵を描いているという意識はいつもどこかにあります。とはいっても実際に描いているときにそれを気にしているわけではないです。気にするのは実際にプリントするときです。何度もやり直す。でも面白いのは、必ずしもモニタ上のものを再現しようとするわけではないということです。自分が選んだ紙とインクの特性の中で、もう一度自分の欲しいイメージを再構築して、そのイメージに近づくように調整します。そしてさらに面白いんですが、それをやっているとモニタで描いていたときもモニタに映っているイメージよりも、そのちょっと先を見ていたんだなってことに気づくんです。で、そのちょっと先ってのが、イメージを再構築する際に頼りにしている場所なんですね。だから逆にプリントされたものも、その頼りにしている場所から見たら、ちょっと手前なものなわけです。ということはつまり、モニタの画面とプリントはちょっと先のイメージから生み出された二つの結果であり、ちょっと手前であるがゆえに違いもあり、眼に見えるように存在できているといえるかと思います。

あと、あくびさんはモニタ上のイメージ=データと考えているようですが、俺はそうは思っていません。モニタ上のイメージもプリンタで出力されたものと同じように出力を経た結果です。光プリンタだと思えばいい。ただ、モニタで絵を見るのは経済的じゃないし、モニタの特性をまったく生かしきっていないのでつまらないと思っています。それだったらさっき言ったちょっと先から、もっと違った結果が導き出せるはずだと、そんな風に考えています。

あくび:
一方で低解像度の絵が作品になりえないというとそうでもない。
アドビのイラストレーターは印刷にしても解像度に左右されないのがすごいしセンスいいと思うんですけど、作場さんのデジタル作品のような異常な描き込みによるエネルギーみたいのがないのがおもしろくないなとも思うんです。
デジタルメディア特に静止画はどうなっていくのか、どう存在していくのか気になります。

サクバ:
イラストレーターはすでにベジェの解像度に左右されない利点を保ったままで異常な描き込みが出来る機能を備えています。実践している人も出てきていますね。 3Dに近い描き方になるので向き不向きはあるでしょうけど、ツールなんてどれもそんなものです。それに3Dも基本は同じ考え方なのでマッピングの技術がもっと進歩すればさらに強力な静止画ツールとして君臨する可能性だってあります。zbrushなんかはその予感もぷんぷんしてます。これも静止画ツールとして利用している人がいます。

しかしいずれにしても、あくびさんが低解像度の絵が作品になり得ないとは思っていないのと同じように、現状のツールでよい作品が作れないということはまったくないわけで、あとは今描きたい絵に向かっていけばそれでいいと思ってます。先のことを心配していても何も作れないですから。

hemolch-1.jpgシェイ式機関車という歯車で駆動する蒸気機関車がある。見た目はリンク先を見てもらうとして、普通はロッドを介して駆動する車輪を歯車で非常に遅く回転させることによって、急な坂道を登れるようにしたり、車輪が動きやすい構造なので、急カーブが曲がれたり、保守の悪い線路でも走れるという、いわば工事現場とか山の中専用みたいな機関車だ。森林伐採のための鉄道とか農場とかでよく使われた。日本にも何台か入ってきている。もう無いけど。車で言えば四輪駆動のジープみたいなものだ。でも機関車の常識から言うとジープの自動車における特異さよりもはるかにエキセントリックで独創的な構造であると思う。

どうもこういう特殊な構造に惹かれてしまう。バイクでもヴィンセントという会社があるんだけど、ここなんかも日本のメーカーが1980年ごろになって試し始めたような構造を、それより40年ぐらい前にやっていたりとかする。

前にソロが好きだって話を書いたけど、それもこういうものに惹かれる理由と同じなんじゃないかって気がする。パイオニアだったりプライベーターだったり異端だったり発明者だったりするような人が作ったものには、沢山の人が長い時間をかけて洗練させていったものには感じられない魅力がある。それは単に変わったものが好きとかそういうことではなく、そこでしか感じられないような生命力みたいなものだ。「誰か」を強力に感じるのだ。「誰か」はだれでもいい。でも「誰か」、もしくは「他者の存在」みたいなものは、それが正であれ負であれ、人に影響を与えることが出来るパワーを持っている。作品に価値なんてものがあるとするれば、これこそがその本質なんじゃないかとずっと思っているのだ。

自分と他人の間に距離を感じると他人が魅力的に見える。それは嫉妬にもなるし恋にもなるし恨みにもなる。どれもある意味過剰だけど、はるか大昔から普通にあったことだろう。でもマスメディアの発明によってこの関係性が怖ろしいぐらいのスピードで増殖した。

マスメディアってのは印刷技術がその最初だと言われているし、科学的視点に立てばその通りだと思うけど、俺的には言語そのものがマスメディアだと思っている。個人の思いをこめなくても(つまり一人の人間によって解釈されなくても)繰り返すことが出来る情報、それがマスメディアがマスメディアとして成立する本質なのではないかということだ。

マスメディアは、いかにしたらより簡易に情報を繰り返すことが可能になるかという、そのために発達してきた。書籍、新聞、雑誌、映画、ラジオ、テレビ、レコード、ビデオ、そしてインターネット。これは言い換えれば、いかに個人と個人との間に距離を感じさせることが出来るかという試みだといえる。なぜならそこで繰り返される情報は、繰り返されることのために繰り返されているのであって、それは個人の解釈(言い直しとかじゃなく、経験を(これも曖昧でクソ不十分だが)を経たあとの表現)まったく必要としない(ってのはちょっと嘘だけど)とってもサルなサイクルの再生産に過ぎないからだ。

マスメディアの技術が開発されればされるほど人は孤独になる。これは絶対的な事実だ。おじいちゃんが今日何回お茶を飲んだかがポットのボタンでわかる。そのおじいちゃんは、ポット芸人としてデビューを果たしたわけだ。たとえ観客が3人ぐらいであったとしても。別に悪いとは思わない。だって孤独は悪いものじゃないし。俺がこのサイトで絵が売れるのもネットというマスメディアのおかげだ。

でも、孤独とか、人と人との距離が強要するものは、甘さよりもむしろ厳しさの方がずっと強いものなのだ。覚悟も興味も準備も経験も理解もないのに、気がついたらデビューしていたなんてのは、心地いいものであるはずがない。それぐらいのことが簡単に起きるぐらいにはマスメディアは発達していると、で、望まれてもいて、まだまだ先に行くであろうと、ってところで、足りないものを考えたい。だってそこには誰の陰謀があるわけでもなく、受け入れ、なおかつ発情している自分がいるんだから。

画面の大きさとスピードの関係って面白い。画面は映画でもいいしゲームもいい(絵でもいいといいたいけど、判りにくくなりそうなのでやめとく)。

誰だったか忘れてしまったんだけど、ある映画監督が、パソコン上で映画を編集して納得がいくように仕上がっても、映画館ではスピードの感覚が変化するから注意が必要だって言っていた。要するに、画面が小さければその小ささに応じてより速い方が魅力的に映るし、画面が大きければ、その大きさにふさわしく遅くしないと伝わらなくなってしまうってことだ。

眼が追えるスピードとか、認識のスピードには限界があって、速ければいいってわけでもなく、遅ければいいってわけでもない。この理論からすると、TVで観る640×480pixel(いわゆるビデオの解像度)の映像にはTVにふさわしいスピードの演出が必要で、映画館で観る映画にはその大きさにふさわしい遅さが必要だって事になる。ゲームも同じだ。大きい画面のゲームは大きさに応じて遅くする必要があるし、小さい画面のゲームは速くする必要がある。

でも、実はもう一つの重要な要素がこの関係に影響している。それは情報量だ。たとえば情報量を減らせば、大画面でスピードを加速させてもその表現は伝わるものになる。同様に情報量を高めれば小さな画面で遅いスピードでもかったるく感じなくなる。

なんか当たり前のことをずらずら書いたような気もするけど、俺自身がこの事実から学べることは、まだまだいっぱいあるような気がしてならない。

科学とは実用性という幻想のもとに集められた部分的認識の集合である、と考える。ここで言う実用性とは、戦争に勝つことであったり、洗濯物を手で絞らなくてもいいことであったり、料理をしなくても料理されたものが食べられることであったり、短時間に長距離を移動できることであったり、一時的に寿命を延ばすことであったり、離れた場所から現象を操作することであったりするような、とにかくも部分的でしかない認識だ。しかし実際は、そんな実用性のために部分的認識としての科学が肥大し続けているわけでは決してない。結果がそのように流通するおかげで、科学に携わらないものと、科学に携わるものとの間に実用性という幻想が横たわるに過ぎない。

一方で科学的に成れなかった全体的認識の分野がある。それは宗教であったり、芸術(といわれているもの)であったり、哲学であったりするような場所において生きながらえている方法論だ。そこでの発明品は直感的根拠しか持たない曼荼羅であったり、ダンスであったり、決定的な定義を欠いた論理であったりするようなものが生み出されてきた。

全体的認識は個人をベースにしてしか定義できないゆえに、おそらく原理的に正確でありえない。科学は現在、その正確で有り得ない領域に近づこうとしているようにも見えるけど、それが一致する場所もまた個人でしかない以上(少なくとも俺はそう思っている)、どんなに近づこうともその溝は埋めることは出来ないだろう。もっと言ってしまえば、科学もまた、部分的認識として認識される以前においては、全体的で個人的認識から出発しているのであって、それはまた科学の現代的価値を貶めるものでもあるのだけど、それが科学する個人にとっての現実であるという次元においては、それは科学でもなんでもなく、ただの個人的で全体的な認識への欲望の結果に生じた断片に過ぎないのではないかと思えてならないのだ。要するに俺は直感的で個人的な科学好きで、直感的で個人的な科学とはそれが曼荼羅であろうが電子レンジであろうがゲームであろうが、それぞれの価値が自分において再定義されるような場所を提供してくれる物であることを発見し喜んでいるのだ。

生物って面白い。つか、生物が面白くないわけがない。それが面白くなくてどこに面白いことがあるんだってくらいだ。だって、食い物だって異性だって他者だって全部生物だ。もちろん無機物だって食い物だったりするし、気象だって他者だったりするわけだけど、生物が生物であるがゆえに実現する経験の宝庫は何物にも代え難い。生物によって学習が可能になり、生物によって生かされ、生物によってあらゆるものが始まる。当たり前すぎてアホらしいかもしれないけど、それは自分が生物だからなんだな、きっと。

2/18(Fri) 6:22
昔、ほんとにもう10年以上前だけど、優れたプロダクト、良く出来た作品、があったら、それは他者の代わりになり得るんじゃないかと本気で考えていた時期があった。この幻想ってのは、物を作っている人間だったら一度は考えたことがあることだろうし、実際それを目指して表現の技術や科学的な技術が進化してきたんだってところは誰も否定できないと思う。その幻想を追い求めた結果がスピードと簡便性と多様性を備えたインターネットだったり、魅力的な外観と使い勝手と悦楽をもたらす自動車だったり、まるで生物のように合理的で美しく、その上からだの疲れを癒してくれる椅子だったり、本物の景色のようでありながらちょっとの嘘をつくことで逆に本物の美しさに気づかせてくれる絵だったりしたわけだ。でも、それらは全て表現物の枠を超えることはない、そう思うようになった。医学でさえただの表現物だ。法律だってただの表現物だ。つまりそれらは他者のようではあっても他者ではなく、せいぜいが鏡なのだと思う。たぶんどこまで行ってもこの問題は付きまとう。どんなに求めても鏡を越えることはないんだと思う。ロボットとかアンドロイドとかクローンとかバーチャルリアリティとか、そういうのの究極を考えてみてもそう言えると思う。で、おそらくその究極まで行った時に分かることがあるんだ。表現物とは鏡の別名であると。そして自我の境界を曖昧にするという冒険が、これまでにもずっとされてきたのに、何時だって誰だってやっているのに、あたかも今始まったかのような新しいこととしてもてはやされるようになる。

あらゆる技術やシステムは個人の欲望を満たすためにだけ存在している。コンビニだって、株式だって、インターネットだって、美術館だって、学校だって、家庭だって、石油コンビナートだって、高速道路だって、全部がそうだ。他者の喜びだって個人の欲望だ。この単純な事実がなんでこんなにわかりにくいんだろうと思う。産まれた赤ちゃんが死なないで成長していくことや、コミュニケーションのインフレーションに対する憧れや、実は腐るだけの安楽への欲望や、そういう欲望が単純に個人の欲望として流通すればどんなにいいだろう。欲望の最短距離、それが重要だ。欲望の最短距離についてちゃんと書いてみたいとずっと思っているのだけど、まだ果たしていない。欲望の最短距離はある尺度だ。それを基準にして世界を計り直すことが出来るような絶対温度みたいなものだ。欲望の最短距離で世界を計り直してみれば世界なんて簡単に変わってしまう、かもしれないし、なにも変わらない、かもしれない。でも、個人は変わるし、個人が変われば、例えば一つの技術が持っている価値だって変わっちゃう。だから世界なんて変わっちゃうと思っている。自分は。でも世界が変わるかどうかはどうでもいいことだ。世界が変わるかどうかは欲望の最短距離に照らし合わせた場合に、最短距離からはとても遠い価値だからだ。

とってもソフトインパクトでエコロジカルなエネルギーシステムが開発されたとして、それが怖ろしい勢いで世界中に普及していって延々とその技術に依存した世界が続いていくってぞっとする。それぐらいだったらリッター2kmしか走らないようなレーシングカーをあり得ないぐらいのテンションで1時間運転することの方がよっぽど省エネルギーなんじゃないかと思うのだ。欲望の最短距離に照らし合わせてみた場合には。

技術はその都度見いだされるべきなんじゃないかと前から思っている。これがある意味歯の浮くような話だということも分かっている。でも、そういう風に技術がなかったら、そんなものは学校の勉強と一緒でなんの喜びももたらさないものになってしまう。技術なんて快楽のためにある。じゃなかったら快楽の結果が技術だ。ある技術の確立なり習得がどんなに苦しくたってそれは必ず快楽をもたらすものだ。

でも欲望の最短距離が快楽を目指しているかというとそうとも言えない。快楽はあくまで指針に過ぎない。判断材料に過ぎない。ここから先は上手く言えるほど自分でも分かっていないのでまた今度。

確か大戦中の軍用軌道でジャイロ効果を使ったモノレールがあったと思って調べていたら、見つけてしまいました。思いっきりツボなサイト。

[The Museum of RetroTechnology]
お目当てだったモノレールはこれです。あとはこんなのも。そのほかにもモノホイールとか、未来世紀ブラジルにも出てきた空気管で手紙を送るシステムとか、さらには蒸気タービン機関車や蒸気で電気を起こしてそれで駆動する機関車とか、とにかく変な技術がいっぱい。よく言われることらしいけど、基本的な技術は1920年ぐらいまでに全て出尽くしてしまっているらしい。あとはいかに実用化したり、洗練させたりするかだけなんだそうだ。でもこういう初期の実験的な機械を見ているとほんとに楽しい。架線から集電した電気で蒸気を作って駆動する機関車なんて微笑ましいぐらいだ。

燃料電池のことも調べてみた。
[燃料電池技術開発]
ここは燃料電池のことだけじゃなくて、エネルギー効率のことなんかもわかりやすく書かれている。この技術も発明は1839年だって。でも燃料電池はプロジェクトの設定に使うのは微妙な感じがした。温度や素材に対する要求が厳しすぎる。あとロータリーエンジンも調べてみたけど、これも高度すぎて(仕組みは単純なんだけど)かなりきつい。好きだけど。蒸気ロータリーの方が面白いかもしれない。

とにかく基本は工事用軌道だったりする。出来る限り狭い狭軌鉄道、もしくは地上60cmぐらいのところを走るモノレール。軍事軌道でなぜ狭軌鉄道やモノレールが採用されたかと言えば、敷設と保守が簡易であるからに尽きる。別の見方をすれば、個人や小さなコミュニティでも構築できるようなシステムだということだ。それは訳の分からない巨大な社会システムの力を借りることなく実現可能だということを意味する。そしてそういう世界で展開されるお話には、みっちりとあらゆる階層で張り巡らされた情報や流通の網の目によって成立する現代社会では表現しにくいような、単純化されたがゆえに深さを持ち得るような可能性があると思うのだ。それはたぶん、いわゆる小説というものが、犯罪や倒錯や病やドラッグを扱うのと同じことなんだろうと思う。重要なのはいかにして個人を剥き出しにて経験に向かわせるかだ。

[The Bruce Weiner Microcar Museum]
マイクロカー・ミュージアム。素晴らしい。メチャ好み。メッサーシュミットとかは前から好きなんだけど、見たこともないような車がいっぱい。こんなのとかこんなのとかこんなのとかこんなのとか、どれも独創的でワクワクする。

[自動車代替燃料による省エネルギー]
代替燃料に関する現状が良くまとめられている。ニュースとかでも良くやっているからみんな知っているだろうけど、今のトレンドはバイオディーゼル油らしい。軽油に近い特質を持っていてサトウキビやジャガイモなどから作る油。CO2は出すけど、必要とされる植物のおかげでそれが吸収されて+-0になるらしい。動物脂肪からも作れるというところが魅力的。

[エアロトレイン]
日本で研究されている新しい移動手段。地面効果というものを利用して、地上からちょっとだけ浮いた状態でプロペラで推進させる。リニアモーターカーのエコ版みたいなもの。このサイトの中で紹介されている水面効果艇はかなり不気味で楽しい。

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ガラージュはやっとライティングソフトを買ったところ。といっても届くのは来週半ば。これでも上手く焼けなかったら、諦めて外注します。

040303.jpgほんとにだいぶ怪しくなってきた。でもまだ動きそう。燃料はメタンガスとかオイルだな。生物から作れるものがいい。模型の蒸気機関だって大人10ぐらい引けるのはたくさんあるから、この程度のボイラーでも1トンぐらいはいけるんじゃないかな。詳しいことは調べてみないと分からないけど。

そういえばジェットエンジンはどんな構造で動いているんだろうと思っていろいろいろ調べていたら変な記事を見つけた。ソーラーセイルとかブラックホールを利用した宇宙旅行とか、かなりお馬鹿さんで楽しい。ソーラーセイルはともかく、ブラックホールは生きて帰れないだろうって感じ。怖ろしいほどの圧力に耐えられる隔壁が出来たとしたって細胞なんて分子レベルでバラバラにされそうだけど。でもういうことを考えている人って好き。

040302.jpg蒸気機関で燃料にガスとか液体燃料を使えば火室の配置や圧力のコントロールがかなり自由に出来るんじゃないかと思った。蒸気機関はいかに効率よく熱を高圧蒸気に変換させるかがまず第一だから火室が理想的な場所に配置できるのがまず重要なんじゃないかという素人考え。そして出来上がった蒸気の圧力低下のロスを少なくするには蒸気溜からシリンダーまでの距離が出来る限り短いほうがいいはず、たぶん(でも蒸気を送る管にフレキシブルな素材を使わないんだったら、ここでの損失は問題にならないほど小さいのかもしれない)。あとは使用済みの蒸気の排出効率と二次利用がどうなるか。ターボチャージャーみたいなブースターも可能なんだろうか。排出効率向上のためには既に使われているけど。圧力を回転に変化させるのにシリンダーを使わずにタービンを使って変速機をつけたりバックギアをつけることも考えられる。見た目重視だとロッドは魅力的だけど。

って、なんの話だか分からない人にはさっぱりですね。ごめんなさい。かなり適当なことを言っているんです。基礎知識も大して無しに。専門家が読んだら腹抱えて笑っちゃうような。でもそんなに大間違いはしていないと思うけど。いつもわりとこんなことを考えたいたりもします。ガラージュの時も似たようなものでした。とにかく既視感はあるにしても説得力のある変なものに登場してもらいたいのです。そういうのにとてもワクワクする。そういうのが自分で見てみたい。平気で何ヶ月も同じことについて考えていたりもするので見ている人には退屈かもしれないけど、それぐらいじゃないと変なものは出来てきません。だからみんな途中は見せなくなる。でもここはそれもアリなので退屈な人にはごめんなさいです。

そういえばさっき駅から歩いてくる途中で坂道に並ぶ住宅街から歌が聞こえてきました。最初レコードかと思ったんだけど、実際に歌っているようです。歌はなんて言うタイトルだろう「ハァレ ルゥー ヤ」っていうよく聞くやつ。空は曇っていたけど窓を開けて女の人が家の中に洗濯物を干しながら歌っていたのでした。思いっきり大声で気持ちよさそうに。とっても得した気分になりました。世界中の台所や物干し台で歌が歌われているんですよ。実は。台所や物干し台で歌が歌われている限りは世界は平和だっていうか大丈夫だっていうか、そんな気になりました。

040301.jpgみぞれ混じりの雨が降ってる。とっても寒い。でも風呂上がりなのでビール飲んでます。雪になるかな。ちょっと前まであんなに暖かかったのにね。

そういえばきのう書いたソフトは落札できなかった。また4日くらい待ちだ。残念。3/31日発売がやばくなりそうです。でも入稿前にやらなきゃならないことがまだ結構あるので、そっちを優先してやります。といっても3日ぐらいは身動き取れないんですが。なんにしても入稿した時点で予約開始予定なのでよろしく。

040226.jpgエンジンをいろいろと考えていました。
本気でちゃんと動くものを考えようと思ったら10年あっても足り無さそうな代物なので、少しは嘘をつきます。ていうかちゃんと動くエンジンっていうのはほんとに凄いものです。よくあんなものを考え出したと思う。真剣で無謀で馬鹿な遊びの結果です。莫大な時間と浪費と睡眠不足と血と汗と涙と死体と情熱と設計図と金属と爆発と酸素と木と石炭と蒸気と石油と思いつきとその他諸々のあらゆる積み重ねによってあるのが今のエンジンです。それだけのものに簡単に新しいアイデアで対抗しようなんていうのは、そうそうできるものじゃありません。そういう奴は好きだけど。

というわけでエンジンです。
エンジンっていうのは何らかのエネルギーを回転やら推進力に変えるものです。エネルギーは高圧蒸気だったり、圧縮された混合気の爆発だったり、電気だったり、落ちる水だったり、風だったり、波だったりします。そしてこれらの内、燃焼によって得ているエネルギーは燃料によって作られます。さらに燃料はガソリンだったり軽油だったりアルコールだったり木だったり天然ガスだったりするわけです。考えようによっては電気だって落ちる水や風によって作られているわけですから水や風を燃料(燃やす訳じゃないので言い方は変だけど)だといってもそんなに間違いじゃない。ウチのコンピュータは原子力で動いている、かもしれない。こういう風にエンジンなら、エンジンという一つの装置を枠を広げて考えてみると見え方が変わってくることがいっぱいあります。

例えばちょっと前にエネルギー変換率のことを書いたけど、内燃機関が燃料にガソリンを使っているということを、油田とか石油王の豪邸とか海底パイプラインとか石油精製プラントとかタンクローリーとかガソリンスタンドとかスタンドの店長とかお兄ちゃんとか、さらにはオゾンホールとか環境対策会議とかまでも含めて考えた場合に、そのエネルギー変換率はどの程度になるのかということを薪を燃料とした蒸気機関と比べたら一体どんな数値が出てくるのかが知りたかったりするわけです。つまり燃焼室の中でのエネルギー変換率がいくら良くても、その燃料が有限であったり、とんでもない装置や社会的システムを必要とするようであったら、それは果たしてエネルギー変換率が良いと言えるのだろうかということです。おそらくは石油の価格がそれを利用したいという欲望が勝つほどにはリーズナブルだという一点だけで、このエンジンはは成立しているんじゃないかと思えてくる。

そんなわけで蒸気機関もやっぱり捨てがたいなと思うわけで、新しい内燃機関を考えるのは難しいなとも思うわけで、でも電気を利用したモーターも面白い設定が出来そうな気もしていてどうなりますことやら。

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