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「ぎしぎしあむあむ」という、よく意味のわからん、でもシモに想像力が支配されている人にはすぐわかる名前の自費出版本、要は同人誌に、絵を一枚載せてもらうことになった。

首謀者はYUU菊池・田代ほけきょ・TOKIYAの三人。他ゲスト多数。詳しく知りたい人はリンク先に飛ぶべし。5/5 コミティア72 No,V19abで販売するそうです。メンツを見ると俺だけ浮いているような気がしないでもないが、ま、いっか。

それと、やはり5月(だったかな)に発売される予定のポストカードブックに絵が二枚載ります。こっちは書店で購入可能(たぶん)。これはエロとかフェティッシュ系のものを集めたものになるそうです。詳しい情報はモノが出来てからまた書きます。

内田春菊の「ファザーファッカー」を読んだ。静子という女の子が16歳で家出するまでを書いた話だけど、これは怒りと憎しみと生きなければいけないという情熱だけで書かれた本だと思った。小説という形式の作品としては決し褒められたような出来じゃない。何の構成もなく生のまんま放り出したような作品だ。文体も稚拙だし、作品として成立させようという意思も希薄に感じられる。でもこの作品が持っているある暴力みたいなものは誰も否定できないと思う。おかげでとても暗い気持ちになった。これはたぶん褒めているんだと思う。

話はとにかく残酷で正直であっけない。それは正当な恨み言だ。そしていくら小説として出来が悪いといったところで、この作品に共感し、救われたり希望を見たりした人はたくさんいただろうと思う。それぐらいここに描かれている不条理な残酷さは程度の差こそあれどこにでも転がっているものだ。

こういう話が共感を呼ぶような、関係性の不毛で残酷な愚かさはホントになくなって欲しいと思う。でも、自分だってその愚かな関係性を再生産していないといえるんだろうか。言えない。絶対言えない。だってあまりに自分が恥ずかしくて胸を潰したくなるようなことなんていまだにあるよ。そういう一番属したくない愚かさが目を背けたくなるぐらい生のままに置いてある。そのように宣言をする必要があったからだ。そしてその宣言はどんな形であれ誰もが一度はしなくてはならない宣言なのだ。

つまらない本にはつまらない装丁が相応しい。しかしこれを実践してしまうとプロとしては失格ということになる。だから、どんなにつまらない本でもどれだけ愛せるのかが装丁家の才能であったりする。そういうことでいうと俺には装丁家の才能はない。つまらない本だとどうしても乗り気になれなくて、苦しんだあげくにつまらないデザインが出来上がるという、なんとも不毛な結果が待っている。

しかし、稀につまらない本であってもノリノリになってしまうこともある。それはただ単にその本が扱っているテーマが自分好みであったりするだけなのだが、その場合の内容とのギャップというのはある意味サギのようなもので、非常に後ろめたい気持ちになってしまう。実際にそのような本を手にとって金を払った人から苦情をいわれたこともあるが、もっともすぎてゴメンナサイというしかない。やはりつまらない本はつまらない装丁であるべきなのだ。

逆の場合もある。面白い本がつまらない装丁をされている場合だ。これはこれで悲しいものがあるが、中身が面白いので害はない。強いていえば多くの人の目に触れにくいということだが、良い本はほんとに探している人には必ず見つかるものなのでこれも大した問題ではない。ということはだ、要するに商業的な意味での装丁なんてものは無くても誰も困らないのである。なんだ、そうだったのか。

湯本香樹実という人の書いた「ポプラの秋」という本を読んだ。素直できれいな文章を書く人だなぁと思った。このところ吉本ばななとかその他にも何人かの女の人の書いた本を読んだんだけど、この人の文章には焦りがなくて好感を持った。人のことを言えたようなもんじゃないけど、焦っている文章は駄目だ。絵で焦っているのも駄目だけど、文章で焦っているのは時間が関わってくるものだけに始末が悪い。やはり文章には「語り」とか「歌」の部分があって、それはとても重要なのだ。焦っていると時間が台無しになる。これは映画にも言えるな。歌として映画を作れる監督って、実はそれが一番大事なのに、実現できる人ってとても少ない。日本映画を見ているとそれで悲しくなることがとても多いので残念だ。焦っているんだよなぁ。

で、「ポプラの秋」、いいお話でした。ただのいいお話としてではなくてちゃんと終わらせている。印象としては小品という感じだけど、読んだ後に散歩に行きたいような気持ちになる。

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こういった茶色く変色した本を扱う古本屋をあまり見かけなくなりました。きな臭くて、本を開くと小さな虫がページを横断してたりします。みつけると人差し指でキュッと潰しておわりです。 虫といえば、初スズメバチと遭遇。本格的に春がやってきたってことです。でもこっちは怖ろしくて、ついでたらめな踊りをおどってる人のようになってしまいます。精進。

昨日のサクバ氏。
あともう少しのところで停滞中。

えんえんと「"ガラージュ"私家版」専用サイトをいじっていました。といってもそんなに大した、というか凝ったサイトじゃないです。格好は二の次で、分かり易さ第一で作っているので。とかいってるけど、今日公開できるかもって言っていたんですよね。ごめんなさい。これから寝るので(自分的には夜更かしなんです、この時間)、日付が変わることは必至。どうもこの辺の見切りが甘い。気持ちが先走っちゃう。もうちょっと自分以外の人がが混乱しないように振る舞いたいのだけど、なかなか上手く行かないガキンチョです。

話は飛びますが,きのうフューチャー・イズ・ワイルドという本を買いました。二億年後の地球の生態系について想像を巡らせた本です。この本の著者は生物学者で、前から興味を持って追っかけていたんだけど、どうも新作のリリースの度にテンションが落ちているような気がして「もうダメかも」とか思っていたんです。ところがこの本はかなり当たりかも。嬉しいです。頑張ってる孤独なオヤジがいるのは楽しいです。つうか、孤独のないところからは、何も生まれないものだとあらためて思いました。孤独は負ではないし、悪いものじゃない。腹が減るのと似たようなものなんじゃないかと思うのです。たいそうに考えすぎても罠にはまるし、ないがしろにしても罠にはまる、というやっかいなしろものだけど、ほんとのところやっかいなものしかないんじゃないかと思っています。ああ?、そうじゃないや、それはやっかいでさえないもので、罠にはまる方がやっかいだと言いたいんだ。なんでこんなにややこしい言い方になるかといえば、罠にはまる方が「簡単」だからなんだろうな。

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できたてほやほや。サクバトモミの装丁仕事。

小屋の力」っていう本を買った。前から気になっていた本。500ページぐらいあって写真もテキストもドッチャリ載ってます。なんか最近、環境問題や不況や70年代文化の流行もあってか、小さい建築が注目を集めているみたいだ。関連書籍もたくさんあった。

自分の中では小屋っていう括りはは廃墟という括りよりもずっとしっくりくるものがある。ガラージュなんて小屋趣味炸裂だし、一時はカスタマイズ自由な携帯ハウスをかなり真剣に考えていたこともある。今でも気持ちがのったり、チャンスがあればすぐに夢中になってしまいそうな自分が容易に想像できる。秘密基地が作りたくてしょうがない子供みたいなものだ。家なんてもともとは誰もが自分で作っていたものだ。ショボくてもちゃちくても作ってしまえばいいんだ、とこの本に載っている写真を見ていたら思った。

snow_white1.jpgsnow_white2.jpgsnow_white3.jpgsnow_white4.jpgsnow_white5.jpgchimi chimiに昔ボツになった絵本用の挿し絵をアップした。ちょっと必要になって、急いで写真を撮ったので写りは非道いけど勘弁して下さい。お話は「白雪姫」です。描いたときは営業に暗すぎるとか言われてダメ出しを食らったので、なんか悔しくてそのあとの個展でさらに汚してしまった。

絵は全部で五枚ある。いずれ自分で話でも付けようかと思っていたのだけど、そんなに好きな話でもないし結局そのまんまだ。解釈を変えれば面白くなりそうな気もするんだけど、どうせそこまでやったら絵も気に入らなくなるに決まっている。

いつか使えそうだと思っているものなんて、たいてい役に立たないもんだ。その都度形にするのが一番いい。作品的にも精神的にも。

<更新のお知らせ>

SAKUBA WORKS → GRAPHICS → 2002-2003 に装丁作品

「いのちの話」
益子で作られるオイシイ野菜に関わり合いながら生きる女性のエッセイ。

「りんごごろごろ」
幼児向けの数の絵本。ネズミと遊びながら数を学べる楽しい本。

「ヒマラヤトレッキング」
70歳から歩きまわったヒマラヤを綴ったエッセイ、の3冊をアップ。

chimi chimi。1993年に装丁と挿し絵をやった「パパのオウム」より見開きページ1枚紹介してます。 garageはもうちょっと。すみませぬ。
(うぅ。やっと更新らしき更新が出来た)

haramusi.jpghanemusi.jpg機械でも生物でも架空のものを考えるのは楽しいです。でも生物は難しいです。特に昆虫。知れば知るほど難しい。まず元が非の打ち所が無く素晴らしい。これはどんな生物でも一緒。でも昆虫はそのバリエーションがとんでもない!「これは新しいだろう」と思って描いていると、ほんとにいちゃったりするんです。荒唐無稽なのを考えるにしても、「リアルな荒唐無稽」じゃないといやなので、もっともっと知るしかないんだろうと思います。

こういうのは怪獣などもそうなので、割と昔から描いていたことになりますが、本気になったのはドゥーガル・ディクソンという人の「新恐竜」という本がきっかけでした。この本は、もし恐竜が絶滅していなかったらという仮定の下に、本物の生物学者である著者が様々な恐竜を考案して図鑑風に見せる本なのですが、もう、素晴らしいです。他にもアフター・マン(こちらは人類死滅後)という本もあってこれも面白い。

ついでに似たようなのを紹介するとハラルト・シュテュンプケという人の「鼻行類」や、レオ・レオーニの「平行植物」なども面白いです。とくに「鼻行類」はある意味「新恐竜」よりも傑作です。

うう?、作品づくりに没頭したい。今月はなんだか忙しそうなので、お絵かきはもちろんのこと、サイトの方もあまり時間が取れ無さそうです。スピードノロ目ですが我慢してね。
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ガラージュ動作確認アンケート、まだまだこれからだぜよろしく実施中!

モーリス・センダックというアメリカの絵本作家がいます。有名なところでは「かいじゅうたちのいるところ」という絵本を書いた人です。何年か前にテーマパークみたいなのもできているらしいですから、知ってる人は多いと思いますが。

僕はその人の本でとても好きな本が2冊あって、ひとつは「まどのそとのそのまたむこう」(福音館)、もう一冊は「ふふふん へへへん ぽん」(富山房)という本です。どちらも子供向けというには、ちょっと不気味な感じのするお話です。前に「親指トムの奇妙な冒険」という映画のことを書きましたが、あれと同じように、無意識や夢をそのまま放り出したような不思議さがあります。特に「ふふふん へへへん ぽん」の方はこの感じが強い。

お話は、主人公のジェニーという犬が「なにもかもある」場所を捨てて、「もっといいこと」を探しに行くという話で、言ってみれば冥界下降的なお話です。うろ覚えなのですが、この主人公の犬のモデルはセンダックが飼っていた犬だそうで、その犬が死んだときに書かれたものだと記憶しています。媚びも甘さも全くなく、とてもぶっきらぼうなセリフとストーリー展開なのに、全体からは世界と、そしてジェニーに対するとても深い思いが伝わってきます。機会があったらぜひ。

ところで風邪はもうほとんどよくなって、今日はアリスのページを作ってました。例の如く素材が出来たので、キネガワ堂に何点かアップしておきました。

クラフトエヴィング商會という人たちが作った「クラウドコレクター」という本を眺めていた。
架空博物誌的な本で、オリジナルオブジェや文で構成されていて、魅力的だしかなりオシャレだ。こういうものは嫌いではない。自分でも似たようなことはやりたいと思ったこともある。でも、ナンカなぁ、なんである。出来はいいし雰囲気もいいし作りも丁寧だし、文は拾い読みしかしてないけどいかにもな文体で書かれていて、もし自分が中学生ぐらいの時に出会っていたらハマっていただろうと思える。しかし何かが足りない。しかもそれは決定的な何かだ。

この足りなさは、例えば澁澤龍彦にも感じていたものだ。漫画家で言えばたむらしげる、ますむらひろし、(他にもいくらでも思いつくけど嫌みになりそうなのでこれぐらいにしておく)どれにも共通して「何か」が足りないのだ。

たぶんこれらの作家達は「世界の手前」でモノを作っているのではないかと思える。例えば似たような系列で語られる作家に宮沢賢治があげられるのではないかと思うのだが、ほとんど似たような手法を採りながらも彼にはこのような感じは受けない。つまり「世界の手前」にとどまっているような感じがしないのだ。

「世界の手前」とはつまり子供の視点と言い換えることもできると思う。でもここで注意しなくてはならないのは、この「子供」とは「消費者としての子供」に限定された子供であるということだ。「消費者としての子供」は自分から何も作り出すことはない。彼らは新鮮な好奇の目を持ってコレクトするかコレクトできない場合には憧れの気持ちを育てるのである。もっと分かりやすい言い方をすれば、人のふんどしで相撲を取っているということだ。しかし世の中に氾濫するほとんどのイラストレーションやほとんどの音楽やほとんどの読み物が人のふんどしで作られているし、別にそれはそれでいいのだ。そもそも僕は人のふんどしで相撲を取るのはモノを作るときの基本だろうとさえ思っているのだから。

しかしである。それしか無いというは困る。それと人のふんどしで作られたモノが必要以上に祭り上げられるのもつまらない。子供は子供でいたっていいけど、子供しかいないというのはどう考えたって異常だよ。よく現代市場を説明するときに「差異の再生産」という単語が使われるけど、これは要するに人のふんどしで勝負することを表しているわけで、ちょっと前まで美術の世界でいわれていた「新しいものなどない」って事は、人のふんどしの限界のことを言っていたに過ぎないと思える。つまり誰もが「世界の手前」で子供だったということだ。さらに困ったことには誰もが「世界の手前の子供」になりたがっているのだ。

もっと「世界の中心」にいたい。それのが絶対面白いって。

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