ru:Tag=[fukusima]

Twitterで教えてもらった。いまだに問い合わせのメールがあったりするので、せっかくだから貼り付けておこう。

ついでにいくつか。
地震のあとに、地震とは関係無くPCが壊れてしまい、いろいろとデジタル環境が限定されています。メールアドレスのru_post@t-s-k-b.comのメールも取れてません。すみません。もし問い合わせなどある場合はtsakuba@gmail.com(@を半角に直して)までお願いします。

PCは原因もわかっているし、お金も大してかからないのでさっさと直せばいいのだけれど、なかなかそんな気になれない。理由はいくつかあるのだけど、家の周りの放射線量が思っていたより高かったのもその原因の一つ。年間3mSv前後ってかなり嫌な感じだ。子供がいたらさっさと引越してる。そうじゃなくても微妙だ。低線量被曝については諸説あるし不明確な部分が多々あるのは理解できるが、少なく見積もってもICRPやIAEAなどの基準や見解が過小評価だというのは間違いないと思っている。なんといっても彼らは原発を推進するための組織であって、人間の安全を保つための組織ではないからね。ちなみにチェルノブイリ事故のときの低線量被曝地帯(年間1.1mSv?5.7mSv)の影響はこんな感じらしい。現在、東京の東から茨城に続くこのレベルの線量地帯には子供を育てている友人や知人が何人もいる。とても心配だ。福島の人は言わずもがなだけど、それぞれが自分と家族のことを考えて行動するしかないのだ。クソ政府は嘘しかつかない。

医者はその医者が個人として理解できていると判断できる範囲の中でしかものを言わない人がとても多いようだ。それが医者の職分だとされているようだ。ではその理解とは何かといえば、そのほとんどは他人が理解したこと、もしくは他人が線引きしたことであるように思える。しかし、ほとんどの科学的とされているような常識はそのようなものであり、その有用性を疑っているわけではない。それは統計学的な真実らしい事柄であり、再現性があり、予防や安全や戦略や利益の追求に役立つだろう。だが時には、その「理解無く引用しているだけ」の知識が致命的な結果を導き出すということだって十分ありうる。そしてこんなことは普段の日常生活の中で誰もが感じていることであるだろうし、そんなものだと、誰もが思っていることであるはずだ。あるはずだと思うのだけど、ひとたび未知の経験にさらされたときにはそんな常識は吹き飛んでしまう。医者も患者も合意としていた前提が失われたときにいったいどんな行動が取れるのだろう。

このところ、自分のわかる範囲において内部被曝の計算をしてみようと思って、そんなことを考えた。あまりにも面倒でめげたというのが一つ。前提に対する疑問が多すぎて嫌になったというのも一つ。たとえば放射性物質の崩壊数を人体影響に換算するシーベルトという単位の前提となるモデルの設定が正しいとは思えない。内部被曝の等価線量を導き出すための係数が正しいとは思えない。統計に基づいているとされる悪性新生物発生の確率的影響の基準値が正しいとは思えない。そんなわけでそんな面倒なことは、やってみたい気持ちはあったけど、それも所詮他人の立場を検証するに過ぎないということに気がついて嫌になってしまった。

今回の震災で、何度も何度も大事だと思ったことの一つは独断の重要性だ。あらゆるリスキーな独断を目にするたびに勝手に涙が流れてきた。なぜ独断で動かないのかと思うたびに腹が立った。独断を禁じるように規制が働くたびに悲しく、そして情けなくなった。

独断とは他人の理解や線引きから最も遠いものだ。医者や科学者や政府の中には独断だけはすまいと心に決めて行動している人がいかに多いのかと呆れた。独断を遠ざける人は、そのことによって、自分の人生を生きるということは無いだろうと思う。

(思うところあり再考中)

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