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手書きブログで描いたやつをPhotoshopでさらにいじった。勇者がうどんを食っているところです。いや、ゲーム画面みたいなつもりで描き始めたもんで。

こういうマップで虫採ったり、キノコ採ったり、魚釣ったり、イノシシ獲ったりするゲームがやりたい。だだっ広いマップで、どこまでも行けて、ひたすら歩き続ける。3Dの主観画面も魅力的だけどさ。でもクォータービューで一番困るのは森の中の表現が難しいことなんだよな。大木の中を歩くのが表現できないんだ。これは散々考えたけど、いまだにいい解決案が見つからない。

あ、それと見りゃわかるけど、サイドバーに手書きブログのブログパーツをくっつけてみた。見たい絵のところでクリックするとその絵のページに飛びます。こっちにアップしてないのもそれなりにあるので興味ある人はどうぞ。

さらに関係ないけど、Tumblrもいじってみてます。Twitterよりは使い道がありそうな気がする。継続的に使いそうなら直接飛べるようにリンク貼ります。Twitterのつぶやきはどうも立ち位置がはっきり出来なくて困る。

迷子の状態ってのは通常のゲーム的にはADVやRPGであればハマリの状態であり=クソゲーなわけですが、それがクソゲーにならないためには、

1:どれも必須イベントでなく、
2:迷子になってもゲームの基本システムが生きている状態にあり、
3:どこに進んでいるのか自覚できなくても基本システムがプレイヤーの意欲を持続させる力を持ち、なおかつその持続がシステムを超えた価値に結びつくように世界観が設定されている。

というようなことが最低でも必要なのではないかと思っています。特に3番ですね。口で言うのは簡単ですが…

また、ゲームの楽しさを支えるのは基本的には「達成感」だと思うんですが、今のゲームは達成感に頼りすぎていると思う。達成感を積み重ねまくって幸せになるという価値観。その上、その「幸せ」は他人との比較における幸せでしかなかったり、他人の評価が得られるという幸せでしかなかったり、まさに現代教育を丸写しにしたかのような価値観がたまらなくイヤだし、それにハマる自分にも腹が立つ。

で、孤独を達成するという価値は楽しいのかってことになるわけですよ。俺的にはこれ以上楽しいことなんかないだろって気がする。ただ、ここで言うところの孤独というのは、単に一人ぼっちであるとか、どれだけ寂しいかとか、そういうことじゃない。この前テレビを見ていてインディアンの歌が紹介されていたんですが、その歌はこういうわけですよ。「俺は一人でどこまでも歩いてきた、あらゆる場所を果てまでも歩いてきた、そしてこの世界には友達でないものはひとつも見つけられなかった(超意訳)」いい歌だなと。

絵でも何でもそうなんだけど、表現っていうのは基本的に単純化によって成り立つものだってのはある。単純化するからこそ人に伝えることが出来る。これは例えば名前をつけるってことを考えてみれば納得できる。名前をつけるってことは名前にあらわされていないものを切り捨てることなんだけど、名前をつけることによって初めて他人にその存在を知らせることが出来て、なおかつ名前に含めることが出来なかった切り捨てられたものを、伝えられた他人が知るきっかけにもなり得る。だから優れた名前というのはそのきっかけを含むように単純化された名前だということも出来る。どのように切り捨てるか。それが重要。

たとえばマリオやゼルダなんかだと、現在の技術が実現できるリアリズムという観点から見れば随分と単純化した世界を構築しているわけだけど、その分TOKIなんちゃらが言う様に想像力をプレイヤーに要求し、かつ、その想像力を裏切らないように作りこみをしていく。これは宮本茂本人が言っていたことだけど、「あのブロックの上は歩けるんだろうか、とか、ここでブーメランを使ったらスイッチが入れられるんじゃないだろうか、みたいなプレイヤーの思いを出来るだけすくい取ってあげたい(超意訳)」てなことを言っていて、それはやはり単純化したからこそ提供できる価値だなと思うわけです。ゲームじゃないと出来ないこと、それをとても大事にして作っているし、これは「きっかけになり得る単純化」という観点から見るとかなり優れている。

ここでリアルってことに二つの側面があるのがわかる。一つはビデオゲームが登場する以前の映画に代表されるようなリアル。見た目が本物のようで、ストーリーに隙が無く、あたかもそれを見た人が「自分が経験したんじゃないか」と錯覚させるようなリアル。もう一つはゲームが提供するリアルで、これはプレイヤーがポジティブに想像力を働かせたときにしか価値を発揮しないけど、それが発揮できるように作られていれば見た目やストーリーに関係なく「自分が経験できる」リアル。たとえうろつきゲ?ムであれ、やはり後者を目指したい。とするとTOKIなんちゃらが言うように視覚的リアリティはある程度犠牲にしつつもゲーム的リアリティを目指すってことになるわけだけど、リアルなグラフィックもそれがゲームシステム的に過剰でなく、むしろ必要であるようにデザインすることも可能なんじゃないかと思っているところがある。しかも世界の単純化を維持した上で。

あくまでも例えだけど、緻密に描かれた草原があったとする。そこには何十種類もの草が生えていてその中から自分に役立つ草を見つけ出す。プレイヤーは腹が減っていてどんどん疲れていく。その草が見つけられないとゲームオーバー。達成されるのは自分が生き延びたということだけ。ルールは簡単で、グラフィックはリアル、しかもジオラマ的。ここに「道を覚える、もしくは探す」という要素や「障害物としての動物」なんかを加えていけばとりあえずゲームとしては成立するんじゃないかと。

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ついでに書いておくと、今作ろうと思っているゲームの基本システムは「追いかけゲー」です。普通のゲームのほとんどは「追われゲー」です。パズルでもアクションでもRPGでもかなりのものは「追われゲー」を基本システムとしている。でも「追われゲー」だと「うろつき感」を表現するのは難しいんです。やっぱり「追いかけゲー」じゃないと。草を見つけるってのも追いかけゲームとして考えることが出来るし、あと既存のゲームでこれに近いのは釣りゲームだろうな。自分から求めないと何も起きないって意味で釣りゲームは「追いかけゲー」だ。

それと今回、プログラム上の技術的限界(つまり俺の勉強不足)で、やりたいことと実現できることの間にかなりのギャップが生まれるのが目に見えている。そして、それでも今出来ることから始めたいってのが基本スタンスになっている。

例えば雨を降らせたいなぁとか、雨が降れば体力の消耗は激しくなるだろうなぁとか、水に入れば歩くスピードは遅くなるようなぁとか、いつまでも走り続けることは出来ないよなぁとか、そういうゲーム性を盛り立てることが出来そうで、なおかつ操作性やルールのシンプルさをスポイルしない要素は出来る限り入れたいんだけど、どれも無理。

だからと言って、雨が降らせられないと表現できないってわけじゃないんでその辺の一番シンプルな状態をしっかりと掴んでおく必要がある。

あと既に基本システムとして必要なのにスペック的な問題で障害になりそうなことも浮上し始めている。例えばマップの広さ。最新ゲームの3Dマップみたいに怖ろしく広いマップを読み込めれば何の問題も無いんだけど、そうはいかない。現在約3000Pixel四方のマップでテストしているけど(ゲームウィンドウは800×600)追いかけゲームとしてはどうも狭い。予想としては5000?6000Pixelは必要な気がするんだけど、この大きさだと Photoshopで描くにも辛いし、なによりWEBゲームとしてやるには重過ぎるし、それだけじゃなくプログラムの記述が膨れ上がりすぎる怖れもある。とはいいつつ、実際にパブリッシュされるはずの時期を考えると、めいっぱい背伸びもしておかないとならないし…

うろついているだけで楽しいゲームにしたい、これはガラージュを作っていたときにも思っていたことだ。ガラージュは言語的なモチーフもそれなりにこめられているけど、基本的には「そこにいる」ということが感じられるように世界があって、それをプレイヤーに感じさせることが出来ればゲームとして成立すると信じていた。

自分にとってリアルに感じられる世界があり、それは一方向の「物語」としてではなく、時間を含んだ空間としてそこにある。そのリアリティを表現できればそれはゲームとして成立する…。これは主に模型やジオラマから学んだ感覚だ。この感覚は社会的には一般的ではないかもしれないけど。例えば子供が一人ぼっちで下校後の散歩をしていたりするときや、会社や学校を休んで公園のベンチに座っていたりする時ににふと実感するようなものであるという意味では特別なものでもなんでもなく、それが「詩的」であるがゆえに流通を困難にしているだけのきわめて一般的な感覚であると思っている。「世界」は物語的であるだけが魅力になるようには出来ていないし、もっと多様な空間を含んだ進化と選択によってそこにある。

物語が表現する孤独は一面的すぎると思う。孤独はもっと自由で多様なものだ。そして孤独の無い世界はなんて退屈なことだろう。うろつくだけで楽しいゲームは孤独を再認識させるゲームであると思う。その自由さ。その風通しの良さ。その喜び。その厳しさ。表現物が感じさせる感覚なんてものは所詮予感に過ぎないとは思うけど、それでいいんだ。その予感こそを感じさせたい。

ステータス、アイテムバリエーション、生物の多様性、説得力があり表現力に富んだマップ、心地よいインターフェース、ストレスにならない操作性、媚びてないのにリアルなキャラクター、そういったものをただ一箇所に向かわせたい。

ゲーム内のリアリティについて考えている。ちょっと前に書いたカリカチュアとかのデフォルメの話と共通するんだけど、現実(だと多くの人が思っていること)に近づくことが必ずしもベストではないってのは面白いなぁと思う。

これからハードウェアやソフトウェアの技術がどんどん進化していって、映画とまったく区別が無いようなフォトリアリスティックな画像が思うままにグリグリ動いたり、実際にそこにいるんじゃないかと思えるような複雑な影響関係を反映したアクションが可能になったり、そこに実際に存在する人間の音声が絡んでいったり、匂いが嗅げたり、ほんとに触っているように錯覚できたりという、誰も体験したことがない「箱」としての可能性はデジタルゲームの可能性として多大な埋蔵量を残しているんだろうけど、これらはあくまで表現のための素材でしかなく、馴染んで身に染みてしまえば「だからどうなの」ってことになるような運命を持った「新しき市場的狩場」に過ぎないと思える。

「新しき市場的狩場」の魅力と影響力がどれぐらい凄いかってのは置いといて、それを表現に転化するときにかかるコストパフォーマンスと消費する側の受け入れ能力に興味がいく。表現物としてのゲームのリアリティってのはここにかかっていると思うのだ。とりわけ興味があるのは消費側の能力の限界だ。コストパフォーマンスは下がる一方なわけだし(ありがたいことに)。

つまり新しさを除けば、面白さの受け皿(消費する側の受け皿)の容量に劇的な変化が起きるとは考えにくいのだ。デジタルメディアを利用した表現物に、8年ぐらい前までは寿命の短い表現形式だというような思い込みが蔓延していたような認識があるんだけど、それはただ単に作られたものがつまらないものだっただけだと思う。同じ時期に出ているファミコンゲームのほうは、いまだにリメイクされたり遊ばれているようなものが沢山ある。

当たり前すぎて書くのがつまらなくなってきた。何が言いたいかっていえば、作ること自体はどんな表現物であれメディアの限定の中で行われるし、それを生かすことでしか面白いものは出来なくて、それこそが表現だってことが言いたかったんだ。デジタルだろうとアナログだろうとそれは変わらない。

ゲームというメディアは面白いと思うのに、自分が興味を持つ作品が少ない理由の一つが思い当たったような気がした。

フィクションとして構築された設定情報があまりにショボイのだ。ハマらせるためのリアリティのある世界が提示されていない。

これはもちろんビデオゲームの話で、純粋にルールを楽しむアナログゲームの話ではない。もちろんシステマティックなビデオゲーム(アクションとかパズルとかシューティングとか)の場合にはこれはそれほど当てはまらないけど、RPGなどのバーチャルワールドを前提としたゲームではリアリティの欠如は致命的なのではないかとさえ思える。利用出来得るコマが利用されていない。もっととんでもない情報量を含んだ世界で遊んでみたい。深さが欲しい。

こういうのって、ひょっとしたらゲームという文法から見れば邪道なのかもしれない。システムこそが情報を提供し、システムがゲームの価値の本質を左右する。確かにそうだ。でも何でもアリでしょ?俺はそういうのを遊んでみたいのだ。

デジタルゲームとウェブ上のメディア(フラッシュとか)によって、「終わり」を前提としない作品構造が定義しなおされたと思っているところがある。絵なんて元々そういうものだったわけだけど、それは時間的な拘束が完全にフリーだったわけで、デジタルがもたらしたものとは微妙に異なる。本質的には同じだと思っているんだけど。これってもっと言ってしまえば、物語構造に依存していないということだ。映画でも物語構造に依存しない映画というのは沢山試されていると思うけど(具体例を挙げられるほど詳しくないし、なぜ詳しくないかといえば成功例を見たことが無いからだと思う。コレは音楽に対しても言えそうだ)、そこに付きまとう退屈さは「芸術」というフィルターを抜きにしては一般化されないようなものでしかなかったと思っている。

デジタルゲームがもたらす欲望は他者を必要としない欲望だ。マスターベーションの再発見だ。例によってのってきたので飛躍すると、マスターベーションの効用を最大限に評価した場合に、望みうる効果のかなりの部分がこの可能性の中に含まれるのではないかと思う。

マスターベーションは悪い側面ばかりが表現されるけど、発明だって哲学だって創作だって、マスターベーションを完全に無視したら存在し得ないだろうと思う。要するに、デジタルゲームはマスターベーションの積極的側面を再評価するためにとても面白い役割を果たしていると思うのだ。教育とはマスターベーションの仕方を教えることである。

インターネットが普及したことによってギャンブルが変貌したんじゃないかと思っているところがある。ギャンブルといっても現実の金の話じゃなく、確率に対する欲望としてのギャンブルだ。

ランダムな数値が自身の選んだものと一致する、もしくは特定の数値がたまたま揃う。そういう競馬とか宝くじとかパチスロとかでやっていたようなことが、ネットワークを前提にすることによって、馬とかゲーム機とかじゃなく、生身の人間を相手にしてギャンブルをすることが可能になった。携帯メールにはまるのも、ソーシャルネットワーキングシステム(クローズドの内輪コミュニケーションツール)にはまるのも、ネットワークゲームにはまるのも、自分で作ったサイトの反応に一喜一憂するのも、新しいギャンブルの姿のように思えてならないのだ。

そこでは金の代わりにアクセスやメッセージや流通している。沢山のアクセスやメッセージや得ている人は長者なわけだ。

じゃあ、これを成立させている確率への欲望は何を基盤にしているんだろうかと考える。そこには欠乏があるのは確かなのだ。その欠乏が欲望を生み出す。おそらく簡単にいってしまえばそれは寂しさだ。そこにはより強く求められたいという気持ちや、偉くなったり有名になったりしたいという気持ちや、自分を受け入れてもらいたいという気持ちや、孤独を忘れるぐらい忙しくしていたいという気持ちなんかが全部含まれる。良くも悪くも世界中の人がこの新しいギャンブルに夢中になっているのだ。

でも、ネットワークが生み出した「他人」を前提としたリアリティはそれだけじゃない。ギャンブルというのは「求める側」に立った定義に過ぎないからだ。求める人がいれば、当然求められる人がいるわけで、求められる時には喜びと同時に怖い事だって起こるものなのだ。そしてその怖いこともまた重要な価値だ。でもその話はまた今度。

ここに書くのはもう4度目になると思うけどTRIGLAVというWebブラウザでプレイできるアクションRPGゲームがめでたく完成して公開された。

何度も言うけど、このゲームは友達が作っているんだけど、かれこれ3年以上ずっと進行を見てきた。たぶん開発期間は3年半ぐらいになるんじゃないだろうか。俺が作ったガラージュだって2年半だ。とんでもない時間だ。しかもこのゲームはカンパウェアという形を取っているけど無料で出来るゲームだ。しかもたった二人で開発されている。

こんなこと、趣味の範囲じゃとてもじゃないけど実現できない。でも、こういうことをやるバカがいなかったら、なんてつまらないだろうと思う。俺だって金にならないことに傾けた情熱と時間に関してはみんなに自慢したいぐらいだけど、まあ、誰も褒めちゃくれない。だから思いっきり賞賛したい。そしてそれもこれも中味がよくてナンボだ。で、この中味がほんとにとんでもない出来なのだ。実を言うとこの3ヶ月ぐらいテストプレイヤーとして一緒に遊ばせてもらったんだけど、そのこだわり、ボリューム、システムとしての完成度、ゲームバランス、どれを取ってもメジャーメーカーの作る作品と並ぶクオリティだ。褒めすぎだと思う人もいるかと思うけど、ほんとに凄いんだってばよ。

ネットは人を中毒にもするし、甘えさせたりもするけど、こういうプロジェクトを目の当たりにすると、ネットも悪くないなと心の底から思う。その可能性を信じようと思う。プロモーションとしてネットを利用するような利用例は沢山あるけど(ウチのサイトも例に漏れず)、こんな風に作品そのものとしてネットを利用して、しかもここまでやった奴なんていったいどれだけいるんだろうか。いや、ほんとによくぞやってくれたと感謝してしまうぐらい。負けてらんないね。拍手。

物語って主人公があくまで受身で、外側からのアプローチが発生することで進行していくものがほとんどだ。それはおそらく「読ませる」という行為、もしくは見せるというメディアそのものが要求する部分もかなりあるんだろうと思う。そうじゃないと面白さが演出できにくい。

これ、実はエンターテインメントの基本的法則だ。でも、自分でお話を書いてみてそれがすごく不満だった。なんで自分から何かを求めることがこんなに物語を成立させにくいんだろうと、ずっとイライラしていた。たぶん物語や絵にだって「自分が求めることによって成立する」価値を表現することが出来る可能性は充分にあるんだと思う。でも今のところはそれが価値になりにくいようにしか社会の価値観が熟成していない。

で、ゲームだ。
ゲームはまず身体性を要求する。本を読んだり映画館で座席に座っているのとは次元の異なる身体性だ。これが要求することはまさに「自分が求める」ということだ。これは絵や物語が受け身では開くことが出来なかった(じゃなかったらしにくかった)表現を社会的レベルで、つまり表現の可能性の底辺レベルを底上げするように機能するかもしれないと思えているんだ。

これ、俺にとってはかなりワクワクすることだ。

ゲームの価値って「ツール」としての価値かもしれないって思った。ツールっていうのは普通、具体的な対象を操作するために用いられる。ネジを回すためのドライバー。番組を見るためのテレビ。絵を描くための筆。写真を撮るためのカメラ。移動するための自動車。音を出すためのピアノ。

で、ツールによって作られたものもまたツールだったりする。心で冒険するための小説。踊るための音楽。高揚をもたらす映画。これらは最初のツールと比べると敷居が低い。これらはエンターテインメントといわれたり芸術といわれたりしている。

で、で、ゲームがどういう風にツールかというと(さっきからプレイヤーの立場で考えている)、どちらにも含まれない、もしくは中間的にツールであるような気がするのだ。ゲームは分かりやすい何かを生み出したりはしない。つまり第三者にとってメリットがあるようなものは生み出さない。かといって、敷居が低いツールかというとそんなことはない。もちろん、敷居が低いコンテンツも存在するし、ただの「環境」に過ぎないじゃん、って思えるようなものだってあるんだけど、ゲームというのは基本的にそういうものではない。絵筆のような、ピアノのような、かといって作品を生み出すことは無い、そういう変なものだと思える。

じゃあ、ゲームが生み出す生産ツールとしての価値はどんなものなのだろう。優れたゲームには確かに存在しているように思えるその価値。

物凄く飛躍しちゃって申し訳ないんだけど、それはおそらく現代においてはホント得られにくくなった「共同体」としての価値だ。他人に触れる(別にネットワークゲームのことを言っているわけでもないしアナログゲ?ムだけを考えているわけではない)ためのツール。

実のところ、絵でも映画でも小説でも音楽でも、ほんとはそれが一番の価値なんじゃないかとずっと思っているんだけど、ゲームはそれをこれ以上ないぐらいに控えめに、そして厳しくも楽しく示すことが出来るような可能性を持っているように思えるんだ。

2/5(Sat) 7:23
作るって事は、知らなかったもの、あるいは、意識にのぼっていないものを知ることだ。ある特定の、しかしどこにでもある、それでいて繊細な技術を通してのみ、それをすることが出来る。これは偉そうな話じゃなくて、生まれたばかりの新生児でもやっていることだ。興味を持ってたとえば手という道具を使って対象に触れる。そこに起きていることが全てだ。誰もが作っているし、誰もが誰かが作ったものを興味の対象にもしている。しかもその誰かは人間と限らない。

でもなぜ知りたいのかは誰も知りえない。問いかけ自体が迷宮だから。それを知りたいと思っていろんな人が努力してきたんだと思うんだけど、答えは禅問答みたいなもので、知ろうと思うことが知ることの出来ない理由だ、とか、知りたかったら無知になれとか、そんな答えぐらいしかないだろうし、自分でも想像できない。でも、このいかがわしい答えを最も美しく表現してくれるのが作品だったりもするのかもしれない。それはただ単にある人間(別に人間じゃなくてもいいんだけど)の思いのこもった爪あとだ。出来立ての目玉焼きみたいなものだ。要するに伝わりさえすればそれでいいんだ。目玉焼きは実際に食べられないとな。ベーコンも欲しいけど。

一日中ゲーム用のプログラムとにらめっこしてたらメチャ疲れた。

とてもじゃないけど自分が一からプログラムを組めるようになるとは思えない。他にはたとえば作曲だってまともに出来るとは思えないけど、まだこっちの方が楽しめそうな気がする。

でも言葉を扱うのはプログラミングに似ている。だけどこれは「文法」とか「論理」とか「数学的言語」の世界で、そんでもってそういうのは実のところ、物語の構造とか文体に結びついたりもすると思う。でも「良い話」というのは必ずしも破綻の無い構造や一貫性を必要としないというところが面白い。

要は構造に依存するなら構造を記述する技術がねじ伏せられていないものには大した価値が無くて、逆にたとえ構造を記述する技術をねじ伏せられていなくても、構造への依存が少なければ、それは面白いものに成り得るということだ。分かり難い言い回しだなぁ。もっと単純に言えないのか。

このところゲームのことばかり考えてる。そろそろ本格始動したいって思ってる。で、やっとエンジンが掛かってきたかなって感じだ。

なんでこう、いつも土壇場まで行かないと本気になれないんだろうと思うんだが、今までずっとそうだったわけで、これはもうそういう性分なんだと諦めモード入ってます。

そんなわけでここの更新も滞りがちだしレスも遅かったりしてますが、次に行くためのステップだと思って勘弁してやってください。でもここの更新はもうちょっと真面目にやらんと駄目だな。

1/25(Tue) 5:46
パロディとコンピュータゲ?ムのチート(ズルして改造したデータでプレイすること)は同じ精神だと思った。で、それはもっと表現の内側に取り込まれるべきだとも思った。

力の無い表現はパロディもされないしチートもされない。だからこそパロディもチートも積極的に内側に取り込んだほうがよりエキサイティングになるように思える。パロディやチートは表現物に依存してしか存在しない。表面的にはコケにしているようにしか見えないかもしれないけど、それはどこまで行っても依存を超えることは無い。でもこれだけ世界が子供化してくると、過去を茶化すことだけで表現が成立してしまいそうでとってもつまらないのだ。暴力的に明言するってことは必要だ。それは面白いし、新しくもある。

確率を回すのは母殺しのゲームで、技術を磨くのは父殺しのゲームだと思った。日本では母殺しが好まれて、ヨーロッパでは父殺しが好まれる。今のところほとんどのゲームはマザコンとファザコンのためのゲームなのだ。ちなみにロリコンはファザコンに成れなかったマザコンのことで、ショタコンはマザコンに成れなかったファザコンだと言ってみる。そんでもってマザコンは農耕民族的でファザコンは狩猟民族的だ。だからどうしたって話だが、どれかに寄り添いつつどれでもないものを目指すようなものがやってみたいものだ、と考える。

1/23(Sun) 5:10
ギャンブルにおけるそれ自身を成立させるフィールドは母性的でなければ成立しないだろう。つまり、「当たり」が、「必ず」、「いつか」、「自分に訪れる」という「保証の信仰」が無いところにはギャンブルは成立しないからだ。かといってその保証は「存在する」という保証でしかないのだが、それで充分なのである。面白いのは「自分に訪れる」という「信仰」が「他人に訪れた」という事実によって成立するところだ。まあ、自分に訪れていないからこそ、それは「信仰」だといっているわけだけど、それは置いといて、ここで「他人に訪れたことは自分にも訪れる」という理屈こそは、「確率」という数学の最も占い的側面をあらわす「母性」なのだ。母性は確率を操作する、ことに全力を費やす。悪しき偶然を排除し、同時に悪しき偶然を生み出しもする。そして母性によって植えつけられたノスタルジーは母性によって生み出された確率によって葬られなければならないのだ。
1/23(Sun) 5:15
数学には思考する本人において時間が有限であるという定義が欠けている。
1/23(Sun) 5:16
計算する時間がゼロになることはない。
1/23(Sun) 5:26
スピードはそれが物質であるがゆえに有限でしか有り得ない。極限の速さも極限の遅さも比較においてしか存在しない。知ることが出来るのはスピードの内側において起こる経験だけだ。どんなものもそれ自身が物質であり、その物質が移動するときに計測される速度としてしか存在しないのだ。ここには認識の罠があることは分かっている。でもそれ自身をとやかく言うのはくだらないことだと思う。その認識から始まる遊びが重要なのだ。

コンピュータゲームが表現できるリアリティってどういうものだろう、と、ずっと考えている。絵よりは映画に近い。でも映画とはまったく違う。

単にインタラクティビティを問題にするならアナログゲームにはかなわない。将棋や囲碁、たぶんチェスや麻雀も、どれも「誰か」とのかかわりにおいて擬似コミュニケーションのかなわない魅力を持っている。

またグラフィック的なリアリティで言うと絵や映画ににはまだまだ追いついていない。映像のインパクトにしてもタブローとしての情報量としてもしょぼいものしか表現できない。

前に模型的リアリティのことを書いたけど、模型の中でもリアリズムとしての模型ではなく、玩具としての模型を考えてみると答えがかすかに見えてくるような気がする。関節が動くとかミサイルが発射できるとかリモートコントロールできるとか博物学的にコレクションに燃えるとか、そういう、なんつうかいかがわしい魅力を味わうにはとてもふさわしいメディアなのだ。そのいかがわしさ、それが表現することの出来るリアリティ、それを知りたい。

でも趣味には大して興味がない。で、こういういかがわしさというのは、趣味の中にしか納まらないように存在してきた。趣味っていうのは俺的にはリスクの少ない遊びという意味で、あるマージン(余裕っていうか安全な部屋というか)を前提とした遊びだと思っている。そして、そういうマージンの上で成り立つ遊びにはリアリティを感じられないのだ。だから、こういういかがわしさからマージンを取り除いた場所には、リアリティと呼べるものがあるに違いないと思える。コンピュータゲームにはさまざまな制限があるけど、これまでには無かったようなメリットもあるわけで、そのメリットというのは今のところマージンというぬるま湯に浸かっているように見える。その湯船をひっくり返したところに出現するものが見たいのだ。

確率を回す。ヘンな言い方だけど、RPGとかのゲームをやっていてレアアイテムを出すために延々と同じことを繰り返している状態をこう呼んでいる。やったことないけどパチスロなんかはまさに確率を回すためだけのゲームだと思う。

デジタルにおける偶然性の計算というのはある法則があって、たとえば1000曲の中からランダムに曲を再生させると、1000曲目にはかならっず決まった曲、つまり最後に残った曲が再生されることになる。計算の仕方もいろいろあるから、他のやり方だと同じものが繰り返し選択されたりもする(キキリが毎日占いしかしなくなったり)。要するにランダムとは言いながらもある程度は狙えるわけで、だからこそパチプロなんていう商売も成り立つわけなのだ。

まあ、それはいいとして、このレアアイテムとか大当たりとかに傾ける情熱というのはどこから来ているのだろうか。パチスロだったら現金変換といううまみもあるわけだけどRPGなんて何の足しにもならない。せいぜい思い描いていたステータスになって快適にプレイできるぐらいのものだけど、それだって達成したとたんに満足してしまってろくに遊ばなくなったりするのだ。パチンコ台に座っている人だって決して金のことを思い描いていたりするわけじゃないと思う。

一つには、当たる瞬間に立ち会いたいという気持ちがあると思う。しかもそれが他でもない自分に起きるところに立ち会いたいという気持ち。いつかは大物を釣り上げられると信じている釣り師のようなものだ。コンピュータゲームなら粘りさえすればそれが得られる。しかしそれがなんだというのだ。大したカタルシスではない。文化祭で一ヶ月ぐらい準備して演劇を上演する方がよっぽど大きいカタルシスが得られるだろう。が、それでも人はパチンコ台の前に座るし、何百時間も費やすし、何百万円も使ったりもするのだ。

要するにギャンブルだ。人間はギャンブルが好きなのだ。株だって会社経営だって、もっと言ってしまえば資本主義社会そのものがギャンブルへの欲望によって成立しているといったって過言ではない。ほんとに多くの人が「自分に当たりが来る瞬間」のために動いている。その当たりのために名刺を渡し、酒を飲みに行き、おしゃれをして踊りにいき、胃に穴をあけて働いている。

ギャンブルへの欲望は狩猟本能に結びついているのかも知れないとも思う。でもどうであろうとそれはどうでもいい。俺が興味があるのはその欲望を相対化することだ。つまりそういう欲望の外側にいられる自分を実現することだ。しかもその欲望の相対化を作品にしてしまいたいとさえ思っている。そんなことが上手に出来るのかまったくわからないけど、それはとても面白そうじゃないか。当たりが来た瞬間のカタルシスよりも、当たりに囚われていた自分から抜けるカタルシスの方が比べ物にならないぐらい大きいに決まっているんだから。

1/10(Mon) 6:16
幸運に恵まれたいという気持ちは狩猟民族的で、幸運を願う気持ちに囚われずに継続的な富を維持したいという気持ちは農耕民族的だ。でも、どちらもいやだ。実際にはそういう気持ちには囚われまくっているけど、どちらかになりたいとは思わない。願いはどちらでもない。幸運に恵まれようが、小さな幸運を維持しようと努力しようが、そのどちらかだけに自分が向かっているとは思えない。いつも揺れているし、その揺れ幅の中で生きている。その揺れを肯定しないでどうするって話だ。どちらも否定せずに、しかもそれぞれの場所ではないところに行こうとする意思は、珍しくもないし無理でもない、ただの当たり前だとしか思えない。

TRIGLAVというブラウザで出来る(といってもWindowsXP/2000のIE6限定だけど)カンパウェアという体裁で無料で公開されているアクションRPGにハマっている。ストーリーみたいなものは無く、ただひたすら50階から成る塔を攻略していく。ゲーム自体はまだ開発途中で、現在は40階までが公開されている。このゲーム、前にも二度ほど紹介したことがあるけど友人がインディペンデントに作っているゲームだ。でも前に紹介したときはMacしか持っていなかったこともあり、プレイしたのも他人のマシンで10階ぐらいまでしかやっていなかった。でも今は環境が出来たので思う存分遊べるというわけだ。

結構チキン野郎なので、現在最後の方のボス線で苦戦していて40階までは行っていない。しかしとにかく面白い。ゲームバランスはとにかく厳しい。洋物のゲームみたいだ。昔ブリザードという会社の作ったディアブロというゲームにハマっていたことがあるんだけど。それを思い出させる。実際作っている本人もブリザードのゲームは大好きだといっていた。かといってパクリというわけではない。充分過ぎる独自性がある。アイテムもメチャクチャ豊富で、ただ単に強いアイテムを装備すれば最強になれるというような感じではない。どのステータスもないがしろにされていなくて、どういうスタイルでプレイしたいのかを本気で考えさせられる。

ゲームなんて好みがあるから、あんまり厳しいゲームは嫌いだとか、もっとシステマティックにアクションを楽しみたいとかいろいろあるとは思うけど、ひとつのゲームのスタイルとしてこういう形があり、こういうスタイルが好みな人にとってはとてもよく出来ているゲームだと本気で舌を巻いた。

もともとSmokymonkeys(このゲームの二人組みの開発者)といろいろ付き合うようになったのも、俺がウェブ上でTRIGLAVの製作宣言を読んでその趣旨に共感してメールを送ったからだった。彼らがいなかったならルだって今とは違った形になっていただろうと思う。それぐらい影響を受けた。やりたいことを実現するためのスタンスが、趣味でも無く、かといっていわゆる受け仕事でもなく、なんかもっと違うやり方があるんじゃないかという、その単純な疑問と、その疑問への疑いのない突き進み方に嬉しくなったのだ。そしてその結果がここまで完成度が高いということにさらに喜びが膨らんだ。アホだなと。

でも、もったいない。ウェブなんてとても恒久性が低いメディアで(たとえばマイクロソフトがIEを別物にしてしまったらそれだけでプレイ不能になる。なぜならこのゲームは、HTML とJavaScriptとAsp(CGIみたいなもん)という普通のホームページを作るプログラム言語だけで作られているから)ここまでやってしまうなんて。実はそれも面白さであるわけだけど、50階まで完成したらアプリケーションにしてもらいたいとまで思ってしまった。

とにかくそのアホさ加減を知るためにだけでもプレイしてもらいたい。それだけの価値がこのゲームにはあると思う。これは単なるウェブページなのだ。ここまで作りこまれた、そして人を楽しませることの出来るウェブページには出会ったことがない。

この何日かここをサボっていたのは全部こいつのせいです。80時間もかかった。うげぇ??。

ゲームは初期の3本の世界観を意識したつくりで、システムも割とシンプルで好感を持った。ファミコンのドラクエで育った人には喜ばれるんじゃないかな。しかしそれにしても時間掛かりすぎだ。急いでやっても60時間ぐらい掛かるらしい。内容的なボリュームで言えば、これが3Dじゃなかったらたぶん三分の二ぐらいの時間で終わると思う。小説だったら10冊ぐらい読めるよ。映画だったら40本。

でも延々と○ぼたんや△ボタンを押し続けていて思ったのは、これが小説だろうが映画だろうがテレビだろうがネットだろうが絵だろうが演劇だろうが、受けて側の行為としては何でも同じなんだということだ。脳だけが働いている状態。夢のような。10年ぐらいそのほとんどをテレビの前に座ってすごしている人なんてたくさんいるわけだけど、同じように活字を読んでいる人やネットをやっている人が居て、そんなことを思ったら急に怖くなった。ちょっと前に覗きのことを書いたけど、まさしく覗き続けているんだ。前に書いたときは覗きの関係性について書いたけど、今回は覗きってのは体が疎外されている状態において成立するものなんだと思った。経験は常に覗き穴の向こう側で起こる。たとえインタラクティブと言われるようなものであっても、アクションは「向こう側」で起きなければならないのだ。覗きの是非を問うているわけではなく、その事実から学べることってたくさんあるはずだ。

だめじゃん!

なんか印象としては初心に帰って作られている感じ。でもまだわかんないな。今レベル27。でも、こういうゲームから昔に感じたような興奮はもう得られないだろうなってことは分かってる。それでもやっちゃうわけだけど。新しい興奮は俺が作るだよ。

しかしゲーム専用機のゲームをやるのなんてすげえ久しぶりだ。

演劇的なゲームを作ってみたいと思った。
じゃあ、俺が考える演劇的とはいかなるものかと思った。

1・ひとつのシーン(ステージ)に高密度な情報が詰め込まれていて、そのシーンが頭から離れなくぐらい空間の意図が明確じゃないといけない。

2・その高密度なステージは画像としての完成度を備えていなくてはならない。

3・時間、もしくは記述(主観的であれ三人称的であれ)のコントロールは、ステージの画像としての可能性に従わなくてはならない(逆に言えばステージは記述を助けることはあってもそれを阻害するようであってはならない)。

4・空間は三次元的に構築され、なおかつ記述も三次元的な空間を生かしたものでなくてはならない。

なんかよくわからない定義だけど、そんな感じだ。映画は表面的には舞台という箱を無視することによってその自由を獲得したわけだけど、舞台が持つ抽象性と言うか、虚構として不自由があるが故の強靭さは、これまたわかりにくい例えかもしれないけど、「子供の遊戯」に近い感じがするのだ。ヴァーチャルが非虚構を目指しているとするならば(実はそれは表現の一形態にすぎないとも思えるのだけど)、舞台という箱は、演劇という記述は、儀式に近いような、つまり虚構を虚構として利用することによって虚構が本来持っている力を解き放とうとするような「遊戯」のより本質に近いあり方に思えるのだ。

単純で自分の手に届くもので何とかできるって、それだけで凄い価値だと思う。

三人称のゲームというのは成立するのだろうか?と、ふと思った。そもそもそれはゲームなのだろうか?インタラクティビティと三人称はどうゆう関係になるのだろう。

映画っていうのはたとえ一人称的な描かれ方をしていても、三人称的な表現になるもののような気がしている。小説の場合にも同じようなことは言えるのだけど(ここで言わんとしている論点では)、比較した場合にはより三人称的であるように自分は感じるのだ。

同じ比較に於いてゲームの場合はより一人称的であるように思う。

ゲームにおける三人称的な表現は興味がある。基本が一人称的であるにしても、三人称的であるがゆえに表現できるような視点をもっと試してみたい。

終わりから始まるゲーム。
終わりのないゲーム。
終わりを探さなければ終わりがないゲーム。
終わりが変化し続けるゲーム。
終わりしかないゲーム。
終わりと共にあるゲーム。
終わっているゲーム
終わるのが嫌になるゲーム
終わりのことを忘れるゲーム。
終わりを無視したゲーム。
終わることだけを目的にしたゲーム。
終わろうと思ったら終われないゲーム。
終わりを決めるゲーム。
終わりを作るゲーム。

終わりって何だろう。
終わりが何かは知っている。
どうすればその終わりが終わりになるかが問題だ。

関係ないけど、ガラージュは自分の作った世界観とか設定を十分にシナリオの中で展開できていなかったように思っている。今にして思えばもっと利用できたはずだし、その方がより分かりやすく世界を表現できたはずだ。それが結構心残り。設定をただの趣味的な範囲で無しに物語に変換していくような力が足りなかったんだろう。もしくはゲームとしてのプログラムに変換する力が。次回はできる限り自分でやろうと思っている分、技術的な制限も多いわけで、この辺はもっと慎重にやらないと伝わることも伝わらなくなってしまう。ゲームの終わりに対するスタンスはそういう意味でもはっきりさせておかないとダメだな。

ガラージュのマニュアル用にスクリーンショットをとろうと思ってプレイし始めたらズルズルとクリアしてしまった。3年ぶりぐらいだよ。レア蛙まで釣ってしまってかなりのお馬鹿さんだ。まあ、動作検証も含めてってことでやっていたんだけど、さすがにフラグ(ゲームを進行させるきっかけになるようなイベント)とかは覚えていた。怪しいところもかなりあったが。そんでこれまた自画自賛だけど、けっこう面白かったので安心した。

何もかも分かっている状態だと3時間ぐらいでクリアできるんだけど、そういうやり方だといまいち面白くなかったりする。もともとそういう作りになっている。伏線やディテールの深みが見えてこない。作っているときにはそういう部分もかっ飛ばせるということが別な意味ではデジタルの魅力だと思っていたことも確かだし。今でもそう思う。かといってそんな風にさっさとクリアされることを望んでいるのかというとそれはまったく違う。

例えば小説を読むにしても、読んでいる人のコンディションや読解力によって読まれる内容なんてまったく違ってしまうものだ。ただ、アナログメディアの場合は絶対的な単語の量とか絵の大きさとかは変わらないから、読む時間や見るために目がうろつく範囲とかはデジタルほどの違いは出ない。デジタルの場合には単語の量や作品の大きささえも観客側によって変化しうるものになる。

ゲームを作ってみたいと思った理由の一つはその自由さに憧れたからだ。なんて自由なんだろうと思った。コミュニケーションや教育や学習がこんな風であったらどんなに風通しがいいだろうと思ったんだ。そしてさらにいってしまえば、もともとの現実っていうのは、現社会の教育やコミュニケーションよりも実はゲームの方に近いんじゃないだろうかと思ったのだ。

ガラージュはちょっとばかし奇妙な作りをしているゲームだと、そんなことはあまり意識していなかったんだけど、自覚したのでした。

zelda.jpg
今頃になって、超お安く手に入れた64。ゼルダ大好き。難しすぎの楽しすぎだけれど。スーファミ版ではあと少しのところでデータが消え、2度とやれなかったので今回はクリア目指そう。

たまには生産的でないことしてダラダラしまくる。

死ぬことを楽しむゲームを作ってみたいと思っていた。死ぬっていってもゲーム上で死ぬに過ぎないんだけど、死ぬことが目的であるようなゲームが作りたかった。

死ぬことがリアルであるためには執着が必要だ。だから、システム的に執着を演出する必要がある。大量のアイテムやそれを魅力的にするステータスが必要だ。もし、それがオンラインゲームであるならばコミュニケーションの演出は非常に有効だろう。どこまで自分のキャラに感情移入させることが出来るかが勝負だ。

その上で得たものを失わせるステージを用意させる。得たものを失うことでしか進むことが出来ないステージ。それはラストステージなどではなく、常に対極として存在するステージだ。最初はトレーニング的であっても、最終的には得たもの全てを投げ出さなければクリアできない。アイテムはおろか、育てたステータスもゲーム上で得た関係も御破算にしないとクリアできない。そしてそのステージをプレイすることは強制しない。死にたくない人は永遠と悦楽的なシステムの方だけを遊んでいればいい。

それでも、やるひとはやるだろう、と思っていた。少なくとも自分だったら絶対やるし、やりたい。でも沢山の人がそう思うかはまったくわからない。クソゲーの烙印を押されて終わりになるかもしれない。別に構わないし、いいたいヤツにはいわせておけばいい。俺はやりたいんだから。

自分から進んでそれをクリアしたときに、いったいどんな気持ちになるのかを経験したいと思ったんだ。というか、その気持ちを自分はあらかじめ知っていて、それを表現してみたいと思ったんだ。

トップページが変わってから何カ月も経つので、知らない人は知らないと思うけど、[ru]というのはこれからここでやりたいと思っているプロジェクトに付けた名前だ。それはゲームになるのか、ダラダラしたわけのわからないもになるのか今の段階でははっきりしないけど、この「自分から死ぬ」ということを引きずっているのは確かだ。たぶんここに書いたような、システムを表現にすり替えるようなことは出来ないと思うし、やらないと思う。でもここで言いたかったことはシステム的なアイデアの披露ではなくて、「やってみたいなにか」か「知りたいなにか」なんだと思う。

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