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ゆうべ、携帯で書いた、今日のNEWS。
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台風が来ている。ブラインドカーテンを開けると、普段は遠くの救急車の音しかしないこの出稼ぎビルの一室も激しく叩き付ける雨の音に包まれる。窓を伝う無数の水滴。それをぼんやりと眺めているとまだ小学生の頃にやはり同じように窓の外を眺めていたことを思い出した。あの時も台風が来ていた。外は昼間で、見ていたのは校庭だった。空は嘘のように暗く、薄いガラスが割れそうなほどに雨と風が騒ぎ立て、授業なんてまったくと言っていいほど聞き取れなくなってしまい、先生でさえ風と雨の狂ったような踊りに見入るしかなかった。

そして、風と雨のなかで誰もがひとりぼっちになった。それは素敵なことだった。いま起きなくてはならないことが起きているのだと感じた。いつもはニュースや映画の観客にしかなれなかったけど、これはホンモノなのだ。そう感じた。息苦しいほどの期待で胸がいっぱいになった。

…で、
いったいなにが起きたんだろう。枝が折れ道路は水浸しになり、川は氾濫したけど、なにが起きたんだろう。

小学生の心の中に小さな穴が空いたんだ、たぶん。なにもかもを吸い込んでしまえるのに、そのくせ普段は忘れてしまえるような小さな穴だ。

台風は小さな穴をたくさん空けて通り過ぎていく、次の日には忘れられても、その穴は塞がらない。それは怖くても悪い穴じゃない。その穴はホントに起きたことの証だ。

ガラージュの準備のおかげで家の中が倉庫のようになってきました。未だかつてないぐらい梱包資材やテストプリントやなんかが散乱してます。

と、ここまで書いたら、自分が子供の時の下町(というより下請け工場地帯)の雰囲気を思い出しました。ガラージュの世界観自体もこの世界がベースにあったりするんですが、あれはもうちょっと内面的に構築された世界であって、実際にリアルタイムで生活している人間にとっては、パワフルでチープでそこにあるものだけが全てで、果てしなかったりもするんだけど、どこか楽観的で、苦しいとか言いながらも楽しかったりして、町全体が厨房みたいというか、避難訓練状態というか、そういうテンションがあるところだったんです。うまく伝わってないような気もしますが、そういうのって懐かしさ以上に正しい気がします。

今日は関東地方は暑い日だ。
梅雨明けたのかな。明けたんだろう。
明けたことにした。

小学校の3年生ぐらいの時、まだ夏休みが始まっていなくて、でもちょうど今日みたいな日。
オラは学校から家までの3分ぐらいの道のりを帰ってくるところだった。いつも通りの帰り道だったけど、ただ一つ違っていたのは猛烈な便意を我慢しながら歩いていたのだ。

ああ、あと少しですぐ家だ。
と、思いながらお尻に手をやりながらモゾモゾと歩いていたのだが、家まであと40秒というところでやっちまったのだ。ブリブリと。小学3年生にもなってウンチを漏らしちゃうなんて!絶望がオラを襲いました。重くなったパンツのなんと情けないことよ。強い日差しの中で、オラは世界中でひとりぼっちになっちまったような気分になりました。家の影がどんどん黒くなっていって、道と空がどんどん白くなっていくような気がしました。このままこの場所が誰も知っている人のいない遠い場所になっちゃえばいいのにと思いました。

こうして人は孤独を学んでいくのだ(偉そうに)。
夏の暑い日はひとりぼっちにもとても相応しい気がするのはひょっとするとそんなわけかも知れない。ウンチ様々だ。

子供のときに夢想していたこと。
それは自分専用の地下室があって、壁にマクビティのダイジェスティブビスケットが一年分ぐらい並べてあることでした。その光景を想像すると、どうにもウットリしていたものです。マクビティのビスケットってたしか小学生の後半ぐらいの時に発売されたんだけど、世の中にこんなにおいしいビスケットがあったのかと感動しちゃったんです。ぼくは兄弟が多かったので、お菓子を独り占めして食いたい放題食べてみたいとバカみたいに強く願っていたってのもあった。知人はケーキを丸ごと食ってみたくて、大人になってからもういらないってぐらい食べたことがあるって言っていたし、そういうのって誰にでもあることなんでしょうね(あ、でも、最近の子供はあまりないかも)。

時は流れてもう40過ぎになりました。さすがにマクビティのビスケットには憧れなくなりました。地下室は悪くないけど。でも今は、いろんなお酒が常に百種類ぐらいあったら幸せかもと思っています。何度も決意して酒を飲みきらないようにとっておこうとしているんだけど、何故か気が付くと全部カラになってしまいます。6本ぐらいは行くんだけど、それ以上にはどうしても増えない。なんで?飲んじゃうからです。知ってます。無くなる前に買ってくればいいだけだから、これってある一定以上になれば絶対実現できるはずなのにどうして上手く行かないんだろうか。たくさん持つのって憧れるけど、実はかったるいかもとどっかで思ってるのかも知れないですね。

今日(つうか昨日)の昼ぐらいにこれ書こうとして頑張ってたんだけど、寝ちまいました。さっき起きたところです。今は夜中の1時。気分は寝坊した休日の昼ぐらいの感じ。といいたいところだけど外は真っ暗。ちとめげる。でもいいの、自由時間です。

子供のときに初めて日曜日に遅くまで寝たときのことを思い出した。ウチって早起き一家だったので朝の9時まで寝てればそれはもう充分な寝坊だった。目は覚めているんだよね、とっくに。7時ぐらいから。でも「寝坊」してみたくて我慢して布団の中で頑張ってる。その日は天気が良くて部屋の中も明るいの。最初は起きたくてソワソワしているんだけど、だんだん慣れてくると過ぎる時間の感じが変わってくる。上手く言えないけど時間が降りてくる感じ。前の日までの日常が遠のいていって、もっと親密な時間に変化する。ここにいてもいいんだって思う。良くひなたぼっことかしているとそんな気持ちになる。あんな感じ。

そういえばひなたぼっこって、久しぶりに使った。最近聞かないな。してる?、ひなたぼっこ。カワイイ言葉だ。

ツチヤという奴がいました。
小学生の時の話です。そいつとは中学までずっと一緒でしたが、自分の中ではとにかくカッコいい奴でした。

僕は小学生の三年生ぐらいのときに、「豹マン」というヒーローものの漫画が大好きでした。よくある改造人間のお話なのですが、その頃の僕にとってはリアルに想像できるヒーローとしてとても強い憧れを持っていたのです。哀れで孤独で可哀想でカッコいいんですよ。今読んだら大爆笑かもしれないけど、とにかくその頃の僕は豹マンになりたかった。でも憧れが強すぎて自分は相応しくないような気がしたんですね。自分はかけっこが遅かったし、背も小さすぎる(今はそれなりなりだけど、その頃は前から一番か二番だった。高校生まで)。そんでもって考えたわけです。真剣に。誰だったら豹マンになれるか。

真っ先に頭に浮かんだのはツチヤでした。あいつしかいない。細身で運動神経がよくて、背も高くて(といっても中ぐらいでしたが、自分からみると大人みたいに大きく感じる)、顔だってヒーローっぽい顔をしている。バック転だって出来るし、人気もある。ツチヤはその後いわゆる不良グループに入るような感じになっていきましたが、どこかシャイで、いつもその場にそぐわないような感じで、恥ずかしそうにしているのに、何かの時には大胆にもなれるという感じで行動していました。よくいるでしょ?そういう奴。

中学生の3年のとき、「ツチヤはマゾ」というウワサが流れました。何の根拠もないただのウワサです。中学生の流すウワサですから、新しく覚えたイヤらしい言葉を使ってみたくて、そのターゲットがたまたまツチヤに向いただけのことです。ツチヤの恥ずかしげな感じとか、格好良さに対するジェラシーとかが、マゾの使い道としてピッタリだったんでしょう。でもそのウワサはことあるごとに持ち出され、3ヶ月ぐらいは何かというと「ツチヤはマゾ」というのが流行り言葉のように繰り返されました。

僕は中学生の頃といえばエロティックな妄想に取り憑かれまくっていて、この「ツチヤはマゾ」というウワサにものすごく気持ちが揺さぶられました。はっきりいって羨ましくてしょうがなかった。実際には何もなかったんだと思いますが、僕の頭の中にはありもしないあれやこれやがパンパンになってしまいました。そしてそれを言われたときのツチヤのやり場のない表情。どこにも行き場がなくて取り残された孤独。僕はその立場に強い共感とジェラシーを覚えました。僕は豹マンではなくてツチヤになりたいと思ったのです。

そして僕は高校生になりました。
二年生の時だったと思うけど、電話が鳴ってツチヤが死んだことを知りました。
バイクに乗っていて警察に追いかけられ事故ってしまったのです。

なんてこった.........

僕はその後バイクの免許を取りました。
自分の乗るバイクを探していたとき、なんと、ツチヤの乗っていたバイクがあるというのです。青いタンクのSUZUKIのGT380。それは当時、親父が勤めていた自動車修理工場の片隅に事故ったまんま放置されていたのでした。

ツチヤは何になりたかったのでしょうか?
僕は今、何になりたいのでしょうか?
何かになんてなれるものなのでしょうか?
何かになるなんてことはくだらないことでしょうか?
何かになったらいいことがあるでしょうか?
何かになろうとするだけで意味のあることでしょうか?
誰もが何かになりたいものなのでしょうか?
何かとは何でしょうか?

ちょっとお休みしてそれを考えてみようと思っています。
29日に復活予定です。
表面的には何一つ変わらないだろうけど、そんなことだって大事です。
とりあえず、読んでくれている人にありがとう。

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と、ここまでをきのう書きました。

365回目ののニュースです。
よく書いたものです。
いや、終わったわけではないんだけど。
お休み中はプレゼント企画をやるんで、
ぜひ遠慮なく応募してください。
お待ちしてます。

jamilla.jpgジャミラというのはウルトラマンに出てきた怪獣です。昔は有名な怪獣でしたが、今は知らない人もたくさんいるかもしれません。よくセーターなどを頭に被せてジャミラごっこをしたものです。でもこの絵はぜんぜん似てません。

知ってる人にはつまらないでしょうけど、ちょっとお話を紹介すると、火星(だったと思う)に打ち上げられた宇宙飛行士が水が全くない環境によって苦しんだあげくに変身してしまったのがジャミラです。とにかく地球に帰りたい一心で地球に戻ってくるのですが、そんなことを知らない地球人は化け物が侵略しに来たと思って攻撃しまくるのです。そして最後には可哀想に思ったウルトラマンが火星に帰してあげると。

救いのない話ですねぇ。話の中でジャミラが泥水の中でのたうちまわるシーンがあるのですが、そのシーンがなんとも哀れで(記憶曖昧ですが、たしか水を求めているのに、水を受け付けない体になってしまったんじゃなかったかな)、当時小学生だったサクバは見ていられないぐらいせつない気持ちになりました。世の中にこんな悲しいことがあっていいんだろうかと。しかし年をとった今の自分は思います。どんなに悲しいことだってあるのだと。そしてそれは特別なことではなく、誰にでもあるのだと。そんなわけで私は時々火星でひとりぼっちで生きているジャミラのことを思うのです。きっとジャミラのことですから、無性生殖を可能にするような進化でもして、立派なジャミラ一家でも作っているかもしれません。

snow.jpg「雪を見ながら眠っている風邪っぴきのおやじの図」

熱が全然下がらないので一日中寝てました。
雪の中散歩したかったなぁ。
久々になんにも出来なくて、酒も飲めず、煙草もほとんど吸えず、飯も食えず、子供の頃に病気していた気分を思い出しました。

風邪をひいたときとかって普段の社会生活から隔離されているような気分になりますよね。子供の立場でいえば学校にいかなくてもいい。これがとにかく嬉しくて、これから先、学校というものとは無縁の人生を歩むことを想像してワクワクするんです。すると自分だけがオトナになったような気になってくだらない優越感が湧き起こってきます。あんまり自分がかっこよく思えたものだから、親に頼んで布団に入っている自分の写真を撮ってもらったことがあります。風邪が治って、さぞかしカッコいい写真が出来てると思いきや、そこに写っていたのは、にやけて情けないただの布団に入っている小学生でありました。人生って思い通りにはならないものです。
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おとといのNEWSで「褒めてくれ?」って書いたら、ほんとに反応を返してくれる人がいて驚きつつも喜んでしまいました。有り難いことです。

「どこいくの?」
「いいとこ床屋の縁の下!」

知ってる?俺がガキの頃にはみんな言ってました。
ただの語呂合わせなんだけどほんとにいいところに思えたな。スーパーミステリアス。冒険の予感。犯罪の匂い。オトナの秘密。もうそれを言われるとついていかずにいられないって感じでウズウズしちゃう。

それで実際にいくところと言えば新しく発見した裏道(といっても塀の上を歩いていって人の家の裏を通り抜けるような、猫の通り道みたいなもん)だったり、鉄筋コンクリート用の型枠で(もちろん無断使用で)作った秘密基地だったりしたわけです。ガキのことだから遊びにさえなっていればどこに行ったって楽しいんですが、どうも「いいとこ床屋の縁の下!」といわれたときに想像したものとは違うよなぁってのはありました。

一体どんなところにいけばそのイメージにピッタリな気持ちになるんだろう。その頃近くに解体屋をやっているおじさんがいてかなり面白い人だったんだけど、その人の家に行くとおじさんが描いた油絵が飾ってあるのです。滝の絵。「これどこ?」と聞くと「この裏だよ」というのです。そんなわけはありません。自分の育ったのは下請け工場だらけの0メートル地帯で、周りにはバラックみたいな家とドブと日本一汚いとニュースで報道された川ぐらいしかないんですから。でもね、やっぱり思っちゃうんですよ「ほんとかも」って。もちろん裏にあるのは塀と工場です。でもどっかに秘密の扉があってそれを発見できれば.........

小学校に上がるか上がらないかぐらいの時に蟹の捕れる場所を発見したことがあります。ドブです。しかもそこは溶接工場の前でドブの上には錆びた鉄骨が大量に積み上げられていました。当然ドブも真っ茶色。なんでこんなところに蟹がいるのか理解できないようなシチュエーションです。夢中でとりましたが、ほんとに「秘密」を発見してしまったような気持ちになったのを覚えています。物凄く生っぽい感じです。それなのに夢の中の出来事のように超現実的な風でもある。実際に経験した中ではあれが一番「いいとこ床屋の縁の下」だったかもしれません。

音楽は割と困るものだ。他人との関係の話だけど。
普段はほとんど音は鳴らしません。音が鳴ってるとそれにイメージが左右されてしまって邪魔に感じることの方が多いから。そりゃ二十歳ぐらいの頃はずっと掛けっぱなしで絵を描いていたようなこともあったけど、依存度メチャ高かった。最低です。その頃聞いていたのはほとんどクラシック。教会のオルガンとか。対位法とかに痺れていて、絵の描き過ぎで指が開かないのにピアノのまねごとまでしてました。モーツアルトとかああいうのはダメ。好きになれなかった。もっと数学的で無機的なのに感動的みたいのが好み。

そんなだったからロックとかの方には全くと言っていいほど興味が行かなかった。小学生ぐらいの頃にラジオでビートルズとか聴いていたけど、良く出来たポップスとして好きだっただけで、ロケンロールサイコー、みたいなことは思わなかったな。唯一衝撃を受けたのは「暴力教室」という映画で主題歌に使われていた「ロック・アラウンド・ザ・クロック」。これが小学校の三年生の時。放送部がリクエストありますかぁ?というので、これが聴きたいといったら誰にも通じなくて悲しい思いをしたことがある。

そして中学1年ごろ。たまたまラジオで富田勲の「展覧会の絵」のシンセサイザーのやつを聞いた。コンピュータ音楽の走りです。これには大ショック。そんで始めて買ったアルバムがこれ。スピーカーの間を音が走るのが面白くてよく聞いたわ。大したものじゃないけどとにかくギミックが楽しかった。周りでは何故かエルビスプレスリーが流行っていたけど、これも全然カッコいいと思えなくて(若い頃のだったら違っていたんだろうけど、既におデブちゃんで全然パワー無し)友達と意見合わず。そうこうしている内にレッドツェッペリンなんかが出てくるわけだけど、時既に遅くクラシックの方へ。さらにロックのクラシックへの接近もあったりしてなぁんだってかんじもあり、ますますロックは聴かなくなってしまった。

そんなこんなで、途中、RCサクセションがいたりデュラン・デュランがいたりクラフトワークがいたりしましたが、気が付いたらビックリするぐらいいろんなジャンルの音楽があったりしてメロコア?スカ?ダブ?インダストリアル?なにそれって感じになってたわけです。多少は聞いてもみましたよ。あたりまえなんですがイイものはいいです。ごく一部でしたが。たぶんノイズとかインダストリアルとかには探せば好みのものありそうだって感じはします。
でもそれはどうでもいいんです。僕が気になるのはなんであんなに細分化する必要があるのかって事です。美術の世界にもいっぱいありますがさらに10倍ぐらいあるでしょ?系統図とかみると馬鹿じゃないのって気がしてくる。分けたけりゃ分ければいいんだけど、あれって結局聴く側の文化なんですよね。オーディオマニアと変わらない。聴く側が自分のアイデンティティを確立するために作られたウンザリするほどのジャンル。人の音楽で自分を決めようとするなって思うんですよ。でも音楽好きな人ってこの傾向がメチャ強いですよね。だから音楽の話になると困ることが多い。イイものをイイと思えればジャンルがなんだろうが知識が無かろうがいいじゃない。と、こういうことを言うと音楽をやってる人には通じることが多いけど聴いてるだけの人には嫌われたりするのです。やれやれ。

小学校の三年生ぐらいの時、一家で車に乗って海だか山だかに出かけて、その帰り道。
レジャー帰りの渋滞にハマって、遊び疲れでグッタリしている気持ちに追い打ちを掛けます。外はもう暗くなり始めていて7人ぐらい乗っているのに誰も喋りません。喋っているのはカーラジオだけです。

僕は心地よい疲れと渋滞に退屈しながらなんとなくそのラジオに耳を傾けていました。流れていたのはラジオドラマでした。ラジオなんて音楽だろうがドラマだろうが、小学生の耳には大して面白くなく雑音のようなものだったので、始めはぼんやりと聞き流していたのですが、気が付くと僕はそのドラマに引き込まれていたのです。

主人公の男の子は小学6年生ぐらいで、普通に学校に通っています。ところがある日の帰り道、宇宙人が密かに地球に侵入していて、街全体が宇宙人とすり替わってしまうのです(よくある話ですが、始めて聞く小さい子の気持ちとしてはこんなに怖いことはなかったんです)。最初に近所のおじさんか何かがおかしいということに気が付いて、急いで警察に行くとおまわりさんも既に宇宙人。ひょっとしてと家に帰るとお父さんもお母さんも宇宙人、という展開です。要するにまだ人間なのは自分だけで、ひとりぼっちでいつ宇宙人にされるかもしれないという恐怖と戦わなくてはならなくなってしまうんですね。

車に一緒に乗っている家族が全員宇宙人かもしれないと思ったのは言うまでもありません。戦慄が走りました。だってこんなに誰も喋らないなんておかしい。疲れてるだけじゃないんだ、きっともう言葉を喋ることが出来ないんだ。前の車も後ろの車も乗っているのは全部宇宙人なんだ。このドラマはドラマのふりをして、まだ人間の人が危機を伝えようとして真実を流しているんだ、絶対そうに違いない。と、思ってしまったんですね。ほんとに。
トラウマドラマです。どちらかというと感謝してますが。

もう一回聞いてみたいなぁ。原作があると思うのだけど、誰か知りません?

彼岸花が咲いてますね。あの花を見るのは好きです。
初めてみたのは小学校の時だったかな。家の近くにはあの花が咲くような場所はなかったのですが、たまたま虫取りか何かに行った公園の近くに咲いているのを見たのです。

あんなに鮮やかで大きくて不思議な花が、なんでもない日陰の土手に勝手に生えているなんて、とても不思議でちょっと怖い気持ちになりました。何かイケナイものを見てしまったような感じです。でもあまりに綺麗だったので引っこ抜いて持ってきてしまったのです。ちょっと興奮して得意げに家に帰ると、それは彼岸花であると教えられ、これは抜いてはいけない花であり、これを抜くと悪いことが起きるとか、人の魂が宿っているとか、怪しさ倍増の話をされて、心の中にクラ?イ小部屋が一個増えてしまったようでした。今調べたところ毒があるんですね。ただの迷信ってわけではないようです。子供の気持ちとしては、「ああ、僕はとりかえしのつかないことをしてしまった。どうしよう」って感じで結構悩みました。今でも彼岸花を見るとその時の気持ちを思いだしてしまいます。そんなに悪いものじゃないですけど。なんというか一対一で向き合うような気持ちです。一度も話したことはないけど昔から知っている同士、勝手な思い込みなのはわかってますが、そんな風になってしまうのです。

猛烈に怪獣が好きだった。そして僕にとってのスーパースターはなんといっても初代ゴジラに限る。
あの今にも崩れそうな不細工な顔、なにも考えていないようでほんとになにも考えていない性格、今となってはマニアでもなんでもないが、あの映画のインパクトは僕の想像力や創作に多大な影響力を与えていると思う。

夢の中でのあいつは、いつも決まって遠くの方に現れる。ほとんどの場合ニュースか何かでその出現を知るのだが、いざ逃げようと思って外に出てみるともう目に見えるところまで近づいている。そしてどんな気まぐれからか僕の行くところへと必ず方向転換をして追ってくるのだ。足がもつれてうまく走ることが出来ない。しかし不思議なことに、距離が縮まる程あいつの体は小さくなっていって、僕は平屋の木造長屋に挟まれた狭い路地の間を逃げることになる、ついにはもう逃げられないとこまで追いつめられると、最後には「希望の家」(近くにあった孤児のための施設)の庭であいつはクリスマスツリーになってしまうのだ。

最初のイメージはまるで台風や竜巻から逃げているような感じで恐いは恐いのだけれど、どこか楽しんでいるような感じもする。一番恐いのは路地を逃げているときだ。5メートルから10メートルぐらいのゴジラはほんとに恐い。みんなの敵じゃなくて自分の敵だという感じ。僕を食べたい、僕が憎いと思われている感じ。50メートルだったら一対一にならなくてすみそうなのに、そんなに程良い大きさになられてしまったら、一対一に成らざるをえない。

そういえば僕はパトカーの出てくる映画が嫌いだ。どんなにいい映画でもパトカーが出てくると、損したような気持ちになる。理由はいくつかあるけれど、一番大きな理由は一対一の感じがしなくなるからだ。

子供が主人公で小さいゴジラ(別にゴジラじゃなくてもいいけど)が出てくるほんとに恐くて切ない映画を作ってみたい。

中学生ぐらいの頃から、たぶん30歳ぐらいまで、僕は強烈に自分の理解者を欲しがっていたような気がする。自分に似ている人、自分が尊敬できる人、自分を導いてくれる人、自分を求めてくれる人、少しでも可能性がありそうだと思うと、嫌われるぐらいにしつこく求めたことも一度や二度ではない。恋人同士の決まり文句「あなたとわたしは似ていると思うの」ってやつだ。もしくは「あなただけは僕のことを理解してくれると思っていたのに」でもいい。

大学生の頃だったと思うが高田博厚という彫刻家の家に作品の搬出などのアルバイトに行ったことがあった。その時は兄と一緒(兄は当時彫刻の勉強をしていた)に行ったのだが、その頃は二人してこの人の本にはまっており、相当尊敬もし、憧れも持っていたので、おそろしく緊張してしまった。内心は絵の話をしたり、あわよくば自分の絵も見てもらえるかも知れないなどと、妄想でパンパンになっていたのだが、なにひとつ実行に移すことが出来ず、アトリエに飾ってある彫刻や小さなパステル画や珍しそうな洋書の画集などを覗き見でもするみたいにコソコソと眺めて帰ってきただけだった。

もしあの時自分の絵を見て貰って、ひょっとして褒めて貰ったりしていたらどうだっただろうかと何度か考えたことがある。当時の自分は涙が出るほど喜んだに違いないが、今の自分にどんな影響があるかといえばどうだろう。おそらくたいした違いはないか、もしくは天狗になってダメになっていたかのどちらかのような気がする。

今の僕は昔ほどにはそういう存在を必要としなくなっている。気持ちだけはたくさんあるけれど、不安や孤独の居場所が多少は出来て、外にはみ出すことが少なくなったような気がするのだ。それにこういう気持ちって所詮は自分の投影なんだと思う。だからといって何が変わるわけでもないけど、もっと自分の中に不安や孤独の場所が広がれば、それが結局求めていたものを手に入れるということなんじゃないかと思う。

おそらく僕はあの頃求めていたような理解者に出会ったことはなかったし、これからも出会うことはないと思う。
でも僕を受け入れようとしてくれる人や、僕と真剣に付き合おうとしてくれる人には沢山出会うことが出来た。それで充分だし、それ以上にラッキーな事なんてないと思うよ。

何一つ音のしない昼下がり。
人の気配もなく、
強い日差しだけが
コントラストの強い影を作り出しているけれど、
あまりに日差しが強すぎるせいで
影の中にまで光りの粒子が入り込んでしまって
乱反射を起こしています。

僕は熱をため込んだペンキ塗りのコンクリート壁に
背中をもたれてじっとしているんです。
一瞬、時間が何処かに隠れてしまったような気がして
怖くなって空を見上げると熱のせいで霞んだ青空の中に
重そうな雲が張り付いていて
近いのか遠いのか区別もできないような空の一点を
ゆっくりと飛行機が移動していきます。

何もかもが手が届きそうなぐらい
距離感が歪んでいて濃密なのに
僕にはそれに触れる手がないのです。
僕にできることは手を失ったまま
ここにいることだけです。

僕はいっそのこと
この空間と一緒になってしまいたいと思い目を閉じる。
降ろした瞼に光りを感じて大丈夫だと思う。
でも次に目を開けた瞬間
全ては失われてしまう事を僕は知っています。

次は何処へ行こう。

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