ずっと昔から考えていることがある。それは絵の言語的な意味についてだ。ほとんどの人は絵に物語を見る。これは紛れも無い事実だと思う。印象派以降、画家たちはそれが嫌で、絵から意味をそぎとっていった。その気持ちはとても良くわかる。だって、絵の面白さや楽しみやそれぞれの人にとっての価値が、単に言語的な価値であるだけであるなら、極端な話絵なんて要らないからだ。それは言語の翻訳であって、記号でしかない。この人は食事をしています。この人は怒っています。ここは都会です。怒っている人は無視されています。無視されて怒っている人は食事している人を殺しました。殺人者は警察に捕まって死刑になりました。おしまい。絵なんて要らない。
でも絵からしか得られない価値がある。自分にとってそれは絵という無機物から、絵を描いている行為の美しさを感じることだ。俺は喜びによって描かれた絵がすきなのだ。だから、ほんとには絵なんて要らないとは思っていないし、絵を見るのが好きだ。それでも多くの人がそんな風に絵を見ないで、絵を単にストーリーの翻訳としてみるのならば、別にわかりやすく翻訳をして見せてやることだって厭わない。それにそんな試みは、やってみれば楽しかったりもするのだ。発見をもたらしてくれたりもするのだ。
ここで道は二つに分かれる。もしくは三つ。
ストーリーなんて無視して行為の美しさに走るか、行為なんて無視してストーリーの翻訳のために絵を記号化するか、行為の美しさを保ちつつストーリーをを取り入れるかだ。自分の気持ちを無視すればどれをとってもいいんだと思う。ただ、そこに葛藤が無いものにはあまり魅力を感じない。そして自分がとりたいのは最後の選択だ。
さっき映画館でダークナイトを観てきた。とても楽しんだ。設定もビジュアルもお話しも良い出来だった。映画館で観て良かったなぁと思ったし、こんなバットマンが観たかったんだよ、とも思った。でも、とんでもない手間と、とんでもないお金と、とんでもない情熱と、とんでもない人数と、そしてそれぞれの人の人生のとんでもない時間をつぎ込んでこの作品が出来ていて、というよりほとんどの映画作品がそのように作られていて、それを観た自分が良い作品だったとか、つまらない作品だったとか言ってるのはどういうことなんだろう。
絵の話に戻せば、自分が絵を楽しむようには映画を楽しんでいない、部分がある。もちろん同じように楽しんでいる部分もある。でも絵を見てストーリーを楽しむ人々と同じように、自分も映画にのめりこみたいと思っているわけだ。流れに身を任せたいと。流れに容易に身を任せられる映画が良い映画であると、そう思っているわけだ。
なぜ映画のことを例にしたと言えば、それがビジュアル表現の置かれている状況を最も端的に表しているメディアだと思ったからだ。そこで求められているのは観客自身に実体験との錯覚を起こさせることだ。それこそストーリーの役目だ。おそらくそこでは言語的な物語さえもビジュアルに侵食されて、言語的表現の行為の美しさを失っているのだろう。この状況を一言で言えば、表現はドラッグだということだ。そこでは作っている人間の行為の美しさはドラッグの効き目に捧げられる。
これはテクノロジーの問題ではない。たぶん大昔から変わっていない。踊りを良く踊れる人は人を酔わせることが出来る。踊り子は踊ることによって自分を無化する。他者に対しても自分に対しても。観客は永遠に踊ることは出来ない。踊り子は遥か他者の理解を超えて自分を消し去る。消し去れば消し去るほど観客は見ることによって酔いつぶれる。もしくは打ちのめされる。それでいいじゃないかと思う。なぜならこの文章の目的はドラッグの是非ではないからだ。この文章の目的はどのようにしてドラッグを製造するのが心地よいかということだ。自分を無化するためにはどうしたら効果的かというメソッドこそが重要なのだ。
おそらく、写真が魂を抜き取ると思われていたのと同じように、表現は他者から何かを捲き上げる。捲上げられている状態こそが身を任せている状態だ。生贄は祭壇に登ることによってその場を自分の中に吸引するのだ。そこにストーリーが必要なら利用しない手はない。そこに化粧が必要なら利用しない手はない。なぜならそこには観客と生贄の合意があるからだ。そしてその合意が何によって得られるのかといえば、観客と生贄それぞれの存在が向いている一つのベクトルなんだと思う。それを喜びと言おうが悲しみと言おうが死と言おうが真実と言おうがなんでもいい。ただ、そのベクトルがそれぞれにとって本質的に孤独な場所に向いてないと嫌なのだ。