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080928_fly.jpg怪獣の演出用に虫をもっと登場させたいなぁと思って顕微鏡画像とかをいろいろ調べてた。この絵はそれらを眺めた記憶だけで描いたので極めて適当。ハエのイメージです。複眼デカ過ぎです。

そういえば、参考画像とかを集めてもそのまま描くことってまず無いです。理由はそうやって描くのはつまらないから。理解の範囲内ででっち上げるのが楽しい。

それと怪獣のオープニングに2枚ほど付け加えたくなってしまいました。最初の4枚も描き直さないとならないし、今のうちにやっておこうかと思っています(続きも描きつつね。きょうもラフを8枚ほど描いた)。今のところの計算だと、どうやっても半年以上は掛かっちゃいそうだし、先を焦ってもしょうがないよなと。アリスの時が半年。天国への自動階段が1年。ガラージュは2年半ですからね。まあ、時間は掛かるもんだ。

昨日は一日怪獣のための資料探し。火の見櫓とか商店街とか。リアル路線で行くかと思ったとたんにカタツムリの歩みになってしまった。なんだかなぁ。

しかしアニメとかホントよく作ってるなぁって感心する。ちょっと前に息子が持っていた木村真二って人の『鉄コン筋クリート』の背景設定を見ていたんだけど、よくやるわと思ってその数に呆れた。たぶん俯瞰の街を描く時なんかは基本的なパースは写真を下敷きに使ってその上にディテールを全部描くようなやり方をしているのかなぁって思ってみてたんだけど、それにしてもとんでもない手間だ。ここまで量産しないとアニメとかゲーム(ガラージュの時も何度もめげそうになってるし)が作れないのはわかっていても、なんか間違ってるだろ、それ、と突っ込みたくなるぐらいの分量だ。

分業にしたい気持ちはとても良く理解できる。そりゃアシスタントだって必要だろう。猫の手だって借りたいだろう。そもそも分業制度が無かったら、ほとんどのアニメーションやゲームは存在すら出来ないだろう。週間漫画でさえ危うい。俺だってデザイナーとして参加するような仕事では絵の設計図やテクスチャなんかを用意して、あとは3Dの人にお願いしちゃったりもしている。つまりそうでもしないとやってられないからだ。

でもね、分業を否定はしないけど、分業にすることで失われるものって必ずある。もちろんそれが失われないように監督は頑張るわけだけど、それでも失われるものがある。そしてその失われるものは作品からだけじゃなく、分業に従事する人間からも何かを奪っていくんだと思う。それがすぐに復帰できるぐらい取るに足りないものであればいいけど(むしろ有効に働くことだって無いとは言えないわけだけど)、そうじゃない事だって珍しくない。大体今の社会そのものが地球規模での分業システムでしょ?分業がもたらす均一化と、全体性を得られない故の神経症に晒されているのが、今を生きている人の誰もの現実になっている。

と、偉そうなことを言ってみても、火の見櫓なんて誰が描いたっておんなじじゃん、って思ってる自分が居るのも確かなわけで、ちっとも説得力が無いのである。リアルに描くのをやめればいいんだけどね。例えば黒田硫黄みたいな絵にするとかさ。漫画としてはそれでも充分だし、なんの問題も無い。絵としての魅力もあるしね。

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話は全く変わるけど、今までの怪獣の絵って、下書きもスキャニングもせずに全部いきなりコンピュータで描き始めてるんだけど、モニタを見ながら描く事と、紙に直接描くことの最大の違いは、モニタ上では拡大した時に全体が見渡せないことだと思った。紙ではどんなに小さいディテールを描いてる時でも全体のスケール感がつかめているのに、コンピュータではそれがつかめない。物凄く不便だ。

(これを書いてから見つけた木村真二のインタビューが面白かった。アニメの現場は知らないけど、ゲーム作ってる時の感覚が蘇ってきた)

彼が止むに止まれぬ衝動に駆られ家を飛び出した時、彼が手を掛けた玄関の柱の30センチ上ではタカアシグモが餌を求めてその精巧な足を使って移動していた。彼が吸い込まれるような青紫色をしたアサガオの3.5メートル下を走っている時、アサガオの20センチ脇をアブラゼミがションベンをして鳴き喚きながらメスを探しに飛んでいった。彼が朝日鉄工所の親父がネジの出来を吟味している横をそんなことも知らずに走り去っている時、卵を宿したショウジョウバエは親父の5センチ右上を相応しい産卵場所を探しにいった。彼が彼の叔父である伸雄が洋子とセックスしているのも知らずに目的に向かって自分が近づきつつあると確信している時、一匹の蝙蝠が目を覚まし、子供たちの晩飯を捕獲するために伸雄の2メートル横で超音波を発していた。

ずっと昔から考えていることがある。それは絵の言語的な意味についてだ。ほとんどの人は絵に物語を見る。これは紛れも無い事実だと思う。印象派以降、画家たちはそれが嫌で、絵から意味をそぎとっていった。その気持ちはとても良くわかる。だって、絵の面白さや楽しみやそれぞれの人にとっての価値が、単に言語的な価値であるだけであるなら、極端な話絵なんて要らないからだ。それは言語の翻訳であって、記号でしかない。この人は食事をしています。この人は怒っています。ここは都会です。怒っている人は無視されています。無視されて怒っている人は食事している人を殺しました。殺人者は警察に捕まって死刑になりました。おしまい。絵なんて要らない。

でも絵からしか得られない価値がある。自分にとってそれは絵という無機物から、絵を描いている行為の美しさを感じることだ。俺は喜びによって描かれた絵がすきなのだ。だから、ほんとには絵なんて要らないとは思っていないし、絵を見るのが好きだ。それでも多くの人がそんな風に絵を見ないで、絵を単にストーリーの翻訳としてみるのならば、別にわかりやすく翻訳をして見せてやることだって厭わない。それにそんな試みは、やってみれば楽しかったりもするのだ。発見をもたらしてくれたりもするのだ。

ここで道は二つに分かれる。もしくは三つ。
ストーリーなんて無視して行為の美しさに走るか、行為なんて無視してストーリーの翻訳のために絵を記号化するか、行為の美しさを保ちつつストーリーをを取り入れるかだ。自分の気持ちを無視すればどれをとってもいいんだと思う。ただ、そこに葛藤が無いものにはあまり魅力を感じない。そして自分がとりたいのは最後の選択だ。

さっき映画館でダークナイトを観てきた。とても楽しんだ。設定もビジュアルもお話しも良い出来だった。映画館で観て良かったなぁと思ったし、こんなバットマンが観たかったんだよ、とも思った。でも、とんでもない手間と、とんでもないお金と、とんでもない情熱と、とんでもない人数と、そしてそれぞれの人の人生のとんでもない時間をつぎ込んでこの作品が出来ていて、というよりほとんどの映画作品がそのように作られていて、それを観た自分が良い作品だったとか、つまらない作品だったとか言ってるのはどういうことなんだろう。

絵の話に戻せば、自分が絵を楽しむようには映画を楽しんでいない、部分がある。もちろん同じように楽しんでいる部分もある。でも絵を見てストーリーを楽しむ人々と同じように、自分も映画にのめりこみたいと思っているわけだ。流れに身を任せたいと。流れに容易に身を任せられる映画が良い映画であると、そう思っているわけだ。

なぜ映画のことを例にしたと言えば、それがビジュアル表現の置かれている状況を最も端的に表しているメディアだと思ったからだ。そこで求められているのは観客自身に実体験との錯覚を起こさせることだ。それこそストーリーの役目だ。おそらくそこでは言語的な物語さえもビジュアルに侵食されて、言語的表現の行為の美しさを失っているのだろう。この状況を一言で言えば、表現はドラッグだということだ。そこでは作っている人間の行為の美しさはドラッグの効き目に捧げられる。

これはテクノロジーの問題ではない。たぶん大昔から変わっていない。踊りを良く踊れる人は人を酔わせることが出来る。踊り子は踊ることによって自分を無化する。他者に対しても自分に対しても。観客は永遠に踊ることは出来ない。踊り子は遥か他者の理解を超えて自分を消し去る。消し去れば消し去るほど観客は見ることによって酔いつぶれる。もしくは打ちのめされる。それでいいじゃないかと思う。なぜならこの文章の目的はドラッグの是非ではないからだ。この文章の目的はどのようにしてドラッグを製造するのが心地よいかということだ。自分を無化するためにはどうしたら効果的かというメソッドこそが重要なのだ。

おそらく、写真が魂を抜き取ると思われていたのと同じように、表現は他者から何かを捲き上げる。捲上げられている状態こそが身を任せている状態だ。生贄は祭壇に登ることによってその場を自分の中に吸引するのだ。そこにストーリーが必要なら利用しない手はない。そこに化粧が必要なら利用しない手はない。なぜならそこには観客と生贄の合意があるからだ。そしてその合意が何によって得られるのかといえば、観客と生贄それぞれの存在が向いている一つのベクトルなんだと思う。それを喜びと言おうが悲しみと言おうが死と言おうが真実と言おうがなんでもいい。ただ、そのベクトルがそれぞれにとって本質的に孤独な場所に向いてないと嫌なのだ。

頭の中は怪獣モードで、ぐいんぐいんしちゃってるんですが、何にもアップできるものがなくて寂しいサクバです。ラフとか溜まってきてるんですけどね、今見せるわけにはいかないし…。怪獣が出てくるのは2週間後ぐらいかなぁ。

「怪獣」は一応漫画です。続き物です。今年中に終わるかどうかって感じのボリュームを想定(ひょっとすると半年以上って話もありますが)。今やっと全体の流れが繋がりつつあるところ。とは言っても映画だったらたぶんショートムービーですね。しっかり着地できることを望んでます。

絵はまだ4枚ですが、全ての画像はクリックすると拡大します。とりあえずはタグ検索でその都度全部を見られるようにしてあります。こんな感じです。そして最初の記事の拡大画像からPREVボタンを押すと順番に見られます。

ところで、いきなり思いつきで始めてしまったお話しですが、ネタはずっと暖めていたものだったりします。やってみたかったんですよね、怪獣モノ。元ネタはゴジラと小学生の頃に何度も繰り返し見ていた夢なんだけど、今なら形に出来そうな気が急にしてきて、突然その気になってしまいました。自分でもよくわからんです。時代設定がもろに昭和なのもそういうわけです。

まあ、そんなわけで、とうぶん怪獣一色の予定です。たまに日記、ラクガキ。
コメントとかアクセスあると励みになるんでよろしくです。とは言ってもレスは適当だったりしますが、悪気はどこにも無いので大目に見てやってください。製作モード入っているときはそんなものです。


■今日見た映画:ティム・バートンの「スウィーニー・トッド」
期待はしていなかったけど、まあ、それなり。
好きですけどねティム・バートン。感動を求めちゃいけないですね。つかダークナイトのロードショーが終わる前に映画館に滑り込めるのか。

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