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081014.jpgきのう、DVDでケン・ラッセルのサロメを見た。この落書きはそのイメージ。まあ、映画自体は良くも悪くもケン・ラッセルらしい仕上がり。とても美しいけど映画作品としてはそれほど素晴らしくはない。ただ、ほぼ全編が劇中劇でその舞台自体の人工性がとても好みだった。

嘘が嘘として誰が見てもわかるのにそれが魅力的というのは、なんともひねくれているという気もするが、子供の時からそういうものにはどうしても惹かれてしまう。本物と間違うようなリアリティよりも魅力的な嘘の方が楽しく見える。これを真剣に考えるととんでもないことになりそうなので止めとくけど、ちょっと前に見たメリエスの月世界旅行もまた嘘の魅力にあふれていた。

「崖の上のポニョ」を観たんだけど、言葉が全体を台無しにしていると思った。アニメートされた映像は素晴らしいところが沢山あるのに、というより、見たことないようなレベルで圧倒的にアニメートされていてるのに、それを言葉や物語がとても陳腐に見せてしまっていてすごく残念だった。これは「もののけ姫」以降の宮崎アニメに対してずっと感じていることでもある。映像と言葉の間にどこか決定的な亀裂を感じる。

でも他人の作品をダシに使うのはフェアなやり方じゃないな。しかし連鎖なんてそんな風に起きるものでもあるし…まあいいや。

言葉は、言葉自体が時間軸を持っている。絵だって時間軸を持っているけど、ここではそれは無視。で、言葉を表現にするということは、意味だけでなく、この時間軸を含めて表現のうちに取り込むということだ。そうなって初めて言葉は表現になり得る。なぜなら言葉は、意味である前に音だからだ。つまり、音楽としての言葉が美しくなかったら、それは表現としては成り立っていないということだ。そして音楽と言ったけど、例えば小説にも音楽はある。それは文体や、流れる密度のメリハリに現れる。詩に比べれば音楽的純粋さは劣るにしろ、それもで紛れもなく音楽なんだと思う。もちろん音楽性のかけらも無いようなエンターテインメント文学がむさぼり読まれていたりもするわけだけど、それでもなお言語表現は音楽的時間軸の内にあるんだと思う。


これは今までにも何度か書いていることだけど、言葉が嫌いなのだ。全部の言葉が嫌いなわけじゃなく、音楽的でない言葉が嫌いなのだ。表現物かどうかに関わらず。

自分にとって美しいということは、身体的であるということだ。グロいとかエロいとか残酷とか優しいとか下品とか上品とかゴージャスとか清楚とか貧相とかリッチとか重いとか軽いとか冗長とかシンプルとかそんなことは美しさにとってどうだっていいのだ。どんな風であっても構わないのだ。身体的でありさえすれば。だからここで言っている「音楽的」であるということの意味は音楽のようであるという意味ではなく、音楽の身体性を指したいと思っているわけだ。

音楽の身体性なんて言うと、また小難しく聞こえるかもしれないけど、要は歌った時や踊った時に、音楽という表現物をガイドとして、潜るなり登るなり移動するなり出来るかどうかということだ。そこで、潜ることも踊ることも移動することも出来ずに、脳みその一部分ばかりが刺激されるようなものはつまらないことだと思うのだ。

意味は人を停滞させる。だから意味自体が流動的でなくてはいけないんだと思う。意味から始めちゃいけないんだと思う。なぜなら意味は後から生まれた道具に過ぎないからなんだろう。

いまさらだけど周防正行監督の「それでもボクはやってない」を見た。そんで掴まれまくってしまった。

気持ちのどっかで、面白いんだろうし、まじめに作ってあるんだろうし、見て損はないんだろうし、でも別に、って思っていた映画だった。だいたい裁判ネタとか、権力絡みとかは苦手なのだ。なぜなら、舞台として、あるいは小道具として利用されるだけで、それらの嘘くささが棚上げされるから。でもこの映画は違った。

とっても偏見に満ちているかもしれない第一の感想は「社会は作文で出来ているんだな」ということだ。それがネチネチと余すところ無く描かれている。素晴らしすぎて嫌になりまくる。丁寧すぎて開いた口がふさがらなくなる。。

社会はどこまでいっても作文だ。ヤクザのハッタリでも、先生の講義でも、法律でも、友達同士の会話でも、愛の囁きでも、そしてもちろん裁判官の判決でも、権力(暴力、もしくは仮想的借り物サイドの力)を持つように編集された言葉は、その時点で全て作文になってしまうのだ。そしてその作文は論理的でなくてはならない。一体いつからそんなに論理的であることが力を持ったのか不思議でしょうがないんだけど、つうか詩的な法廷とか、歌うヤクザとか、勝手につぶやくだけの先生とか、参照するに値しないぐらい頻繁に書き換えられ続ける法律とか、まあ、そんなものは役に立たないにしろ、いやむしろ、役に立たないものであって欲しいんだが、とんでもないぜ、いかに社会が作文かを見せてやるぜ、って心意気を感じたのである。

気持ちを動かされた強度が最初の20分ぐらいから最後までずっと続いていた。何が自分を掴んだのかよくはわからないし、他の人がそんな風になるとはあまり思えないんだけど、少なくともその理由には、作文に対する怒りだけじゃなく、なぜ作文に至るのか、なぜ作文は現実に虚構を再生産するのかという視点がずっと寄り添っていたからだろうと思う。とてもいい映画だった。

「ハウルの動く城」を観てきた。正直、作品としては破綻していると思ったけど、あれだけエンターテインメントの世界と文法で渡り合ってきた人が、これだけ駄目な作り方をするしかないようなモチーフに向き合うという事実には希望が持てた。皮肉を言っているようにしか読めないと思うけど、皮肉のつもりじゃない。

話がまったく展開できていない。カットのつなぎが唐突過ぎる。その結果、観客はほっぽり出される。でも、それだっていいじゃないかと思う。ここで、「これをステップにして次の段階にいけるなら」てなことを言うのが批評家的な立場なわけだけど、そうも思えない。むしろこれで終わりでもいいじゃないかと思う。そういう意味ではすごく正直だ。実際のところはどうだか分からない。今までの作品とはかかわっている比重が違うのかもしれないし。しかし、作品なんてそんなものでもあるのだ。観客が作家に対して優しくある必要なんてないわけだから、たとえば同じことをもう一度やったらかなり致命的だろう。それでもいいのだ。

とんちんかんな感想だと思うかもしれないけど、なぜかとても私小説的な印象を受けた。これまでの作品の中では外側に置かれていた「権力」とか「女」とか「死」とかが内側に持ってこられたような印象だ。そういうのは今までやってきたような文法では表現できないだろうと思う。でもそれを通してしまっている。「もののけ姫」のような頭でっかちな破綻ではない。弱さが前面に出ている。その弱さは時代が要請した弱さだ。そこまで正直にしなくてもいいのにと思う正直さ。そういうのって嫌いじゃない。

この作品にはカタルシスが無い。「なんかなぁ」とブツブツいいながら劇場を出た人がたくさんいるだろう。映画を見る前に市役所に寄ったのだけど、市役所の廊下には無名の日曜画家の絵がたくさん飾られていた。どれも弱くて上手そうに見える安易な技法に支えられた絵だったけど、そんなところにだって微かな光は見えたりする。そしてその光は美しい。ただ弱いだけで。濁っているだけで。つまり、フィルターがかかっているのだ。フィルターを取り除くことが作家のすべきことだとすれば、この映画は結果的にはあえてフィルターをかけたような映画だ。これまで取り払ってきたようなフィルターを無意味にするような方に向いている。そりゃあ上手く行くわけ無いだろう。でもそんなことだって必要なんだよ。生きてるわけだしね。

8Mileを見た。エミネム主演の映画。
久々に正しいやくざ映画を見た感じ。北野武の作品を見た感じに近い。つってもあそこまでは生ではないけど。

どうも下町以下のスラム育ちなんで貧乏映画に惹かれちゃう。貧しさってのは確かに近代以降のキャラクターだ。絶対そうだ。それ以前の貧しさは武器に出来ない優しさに包まれている。洒落にならないぐらい。洒落にならない貧しさはもはやファンタジー、で、あるゆえに、フィクショナル、な貧しさの、ゆるいこわさが、満ちてくる潮のようにぶきみだ、んだ、だ。かんたん、に、はずれる、ことができる、ことがどんなに、ガキのガキのガキの、めにこわいか、こわい、こわいんだよ、くだらない、のに、さいてい、な、こわいなんて、さいてい

11/21(Sun) 4:43
センシティブで無防備なカットアップ!!!!

ピンポンという映画を見た。松本大洋原作の。少年ジャンプだと思った。努力、友情、勝利。別にこの映画だけじゃなくてハリウッド映画だって一緒だけど、ヒーローをヒーロー足らしめる存在があまりにも都合のいい幻想に支えられているのがなんだかなぁ、だ。たまたまこの映画を見て思っただけの話でこの映画自体は良く出来ているとは思った。映画のストーリーに対してとやかく言うのは自分らしくない気もするが、物語の構造は演出の構造もライティングの構造も空間の構造も台無しにし得るものであるというのも事実だ。

ストーリーはどこか決定的に残酷でなければならない。残酷さを持たないストーリーはなにも語ることが出来ない。どんなに優しいストーリーも残酷さの上にしか成立しない。そしてそれは決して悲劇を志向しろということではない。残酷さは残酷という言葉で言われているに過ぎないどこにでもあるただの現実だ。

今更だけどムーラン・ルージュという映画を見た。とんでもなく「作り物」の映画ですげぇ気に入ってしまった。アメリを作った監督のロストチルドレンという映画が好きなんだけどあれ以来かもしれない。

とにかく作りこみがハンパじゃない。まるでミュージックビデオを見ているようなテンポでエンディングまで突っ走っていってしまう。よく劇場予告版とかを見て、いかにも凄そうなのに本編を見てがっかりなんてことがあるけど、これは本編の方がずっとスゴイ、っていうかあの本編以上の予告版は作れないだろってぐらいのノリだ。

いわゆる人を「感動」させたり「泣かせ」たりするようなつくりじゃない。話だって昔からあるステレオタイプな貧乏で才能ある男と娼婦とのラブストーリーだ。だから「いい話」を期待するんだったら他の作品を見たほうがいい。でもこの映画にはいい話以上のものがある。パワフルでクレイジーでハイテンションでそのくせこれ以上ないぐらい緻密でファンタジックだ。フィクションの力をこれでもかってぐらい見せてくれる。

こういう映画って賞をとったり莫大な興行成績を出すのには向いていないのかもしれない。でも映画の魅力ってこういうものだと思うのだ。オモチャ箱の中で夢を見ているような気にさせてくれる。この映画はかなり上出来なオモチャ箱です。

ザ・セルという映画を見た。
猟奇的な連続殺人犯の無意識にダイブして(あるいは自分に招き入れて)事件の解決、というか犯人を主人公の女性が受け入れる(ストーリー的には殺す)までの映画・・・こんな説明じゃ何にも伝わらないな。でもまあいい。

作品は面白かったです。楽しめた。でもそれより気になったのはこういう作品が生まれる土壌についてです。デヴィッド・フィンチャーの「セブン」とか、ショボイけど「8mm」とか、「ツインピークス」とか(ここにクローネンバーグのビデオドロームも加えてもいいかもしれない)みたいな「変態」をモチーフにした映画というのはかなり作られていて、それらはどれも「外側」から見た変態映画なわけです。ホドロフスキーなんかはどちらかといえば内側からの視点がある。でもってこういうのは「カルトムービー」化していくわけだ。

外側から描写した映画はエンターテインメントになる。多くの人が知りたいと思い(動機が恐怖であれ、興味であれ、嫌悪であれ、外側からの視点があれば、それは安全なものになる)、それを知るための装置にしようと思う、それがエンターテインメントです。そして内側から作られた映画は「毒」になる。別に毒を賛美しようとは思わない。それは度々「アート」といわれたりもするけど、ちゃっちい毒ほどつまらないものは無いわけです。別の言い方をすれば毒ほどそこいらじゅうに転がっているものは無い。

と、ここまで書くと焦点は「毒」にあるらしい。つまり毒に対する態度の問題だと思えてくる。少し前に書いた愛の定義と一緒で、誰のものでもないものとして毒があり、愛の内側にいると思っている人と愛の外側にいると思っている人がいるように、毒の内と外という構図が見えてくる。そして内側だと思おうが外側だと思おうが、毒は宙吊りになっているらしいということがぼんやりと見えてくる。アクセスされ続けているのに辿り着けない状態、としての毒。そう考えるとサイコホラーってのは新たなラブストーリーのような気がしてくるのだ。で、ラブホラーという言葉を捻出してみる。強迫観念としての愛。俺の中ではアメリカという国のイメージはラブホラーにとり憑かれているように見えている。たぶんアメリカに限った話ではまったくないんだけど、それをわかりやすく体現しているように見えるんだ。

「ハードコア」というタイトルの映画があって、見たいと思いつつ機会が得られなく見ていないんだけど、ドキュメンタリー的な手法で、厳格なカトリックの家庭に育った少女が、父親の牢獄から逃げ出すためにさまざまな手段を講じた結果、ポルノ業界でサディスティックな男にボロボロにされる、というのをブルーフィルムで失踪した娘を発見した父親の視点で描くという映画らしい。この物語構造に見えてくる狭間はたぶん埋まらないのかもしれないと思っている。思いたくないんだけど。

虚構によって生み出された欠如

この文章はこの言葉が言いたかったんだ。

10年ぶりぐらいに「気狂いピエロ」を見た。とても好きな映画で、最初に見たときにはこれより先にはいけないだろうなってぐらいに衝撃的だった。

でも、今回は普通に美しい映画だった。そんな風に思えた。幼く、シンプルだった。それはどちらも褒め言葉だけど、それ以上ではなかった。

物語がどこにも行かないということに、いつも苛立ちを感じていた。それは、つまり、どこにも行くことができないからだ。そしてそれは、どこにも行ってはいないからだ。行けないことを表明するのは勇気がいるし、その正直さと願望の強さにおいて美しいと思う。でも、本気でどこにも行けないと思っていたら、その未完の戦いさえも生まれはしない。そして、当たり前ではあるけど、恐ろしいことではあるけど、未完の戦いをもう一度繰り返すことはできないのだ。

どこかに行くことが成功した物語りは、それ自体が表現そのものの構造と矛盾しているのかもしれない。それは正しいかもしれない。かといってやめることも繰り返すこともできない。そのことを忘れた場所からは何も生まれないと思う。

ピーナッツ入りのカレーを作った。三日前。前のNEWSでウマイかも知れないので試してみたいといっていたやつ。大当たり。八人前で150グラムぐらいでやったけど丁度よかったみたい。すり鉢でよぉく磨り潰すとよろし。

テレビで変な映画を見た。おととい。
「泳ぐ人」という映画で1968のアメリカ映画だそうだ。良くもないけど悪くもない。それなのに平凡でもない。取り柄がないの匂ってくる。後味悪いのに気になる。そんな映画。

変な夢を見た。きのう。
300メートルぐらいの風呂屋の煙突に登らなくてはいけなくなって、登り始めたはいいけど、あまりの高さにビビリまくって、自分の手が言うことを聞かずに勝手に手を開いてしまいそうでお尻がムズムズして叫んで眼が覚めた。

今日はこれから寝ます。
夜はお出掛け。また明日。

昨日、あんまり暑かったのでロードオブザリングの第一話を見た。原作は読もうと思いつつまだ読んだことがないけど、世の中のファンタジーがいかにあの作品の影響下にあるかはよくわかった。凄いや。ちゃんと第三話まで見よう。

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ジャン=ピエール・ジュネ監督作品に登場する人物には親近感を覚える。デリカテッセンからずっと出演している、小柄なポパイ顔の役者は欠かせない存在らしい。
pegasas.jpg
タイトルに深い意味はありません。いかにも意味ありげなタイトルを考えながら思いつくままに絵を描いてみただけです。

しかしきのうは映画を何本か見たのでその話しを書こうと思って始めたのに、何故にお話になってしまったのでしょうか?見たのは次の3本「マルコビッチの穴」「ランローララン」「17歳のカルテ」。どれも面白かったです。しかも予想してたのと全然違ってたし。特に「マルコビッチの穴」はタダのオバカムービーかと思っていたのですが、なんていうかいい意味で奇妙な映画でした。映画の中で7と2分の1階にあるというオフィスがでてくるのですが、メチャクチャ天井が低いのです。かがまないと歩けない。人形師である主人公はそこに就職を決めるのですが、ひょんなきっかけでそのオフィスの中でマルコビッチの脳に通じる小さな扉を発見。といった具合。ばかばかしいシュールさ加減がなかなかいい味を出してます。

ところで忙しいのはなんとか落ち着いたので、またサイト制作に掛かります。まずはキネガワ堂のグッズ販売ページですね。

変身話に興がのってきたので、さらに続きを。

「ゲゲゲの鬼太郎」という水木しげるの有名なマンガがありますが、あれのアニメ版の一話(前編、後編で二話分)に「大海獣」という話があります。リメイク版の方ではなくて最初に放映されたやつです。何年か前にはあの話が映画化されたみたいですが、それはみていません。よく知らないけど塚本晋也(「鉄雄」というカルト映画を撮った監督)の「海獣シアター」という名前もここからとったのかなと想像していました。

話はというと、主人公である鬼太郎がナントカという妖怪に身体を乗っ取られて毛むくじゃらのクジラの怪物に巨大化してしまうのです。でも意識は微妙に本人の意識が残っていて(ここがミソ)巨大化してしまった自分が守りたいはずの人間社会を破壊する側に回ってしまうことに苦しむわけです。

ただ歩くだけでビルは壊れるわ、人は死ぬわ(死にませんが、実際はきっと死んでます)ですから、その存在自体が許されざるものになってしまうのです。人間達はそんな怪物はとっても迷惑なので戦闘機に乗ってミサイル発射、となります。でも鬼太郎だって好きでそんな身体になったわけじゃなく、人間達を救おうと思ったらそんな結果になってしまっただけなのです。鬼太郎はこのまま自分が元の身体に戻れないなら、いっそのこと自分が死ねばいいんだと考えます。悲しみと憤りに引き裂かれる目玉親父。
「鬼太郎、ワシがきっと助けてやるぞ!」
「とうさん!もういいよ、僕はこれ以上みんなに迷惑を掛けたくないんだ...」

小さな小学生は、生まれて始めてテレビの前で「グッと来る」という経験をしたのでありました。

さらにおとといの話を引きずって。

僕の中で変身映画の最高峰は(と言っても完全に趣味的で個人的な評価ですが)クローネンバーグ監督の「ザ・フライ」です。前にも一回書いたと思いますが、クローネンバーグはかなり好きな監督です。映画としては破綻しているような作品がほとんどだし、それほど才能溢れる映像作家だとも思わないのですが、彼のタナトス志向は本物だという感じがします。簡単にいっちゃえばヘンタイさんなんです。

クローネンバーグの物語を動かす原動力はコンプレックスとジェラシーです。ビデオドロームもそうだしクラッシュもそうだしザ・フライもそうです。裸のランチやイクジステンスはちょっと毛色が違いますが、ジェラシーの色は薄くてもタナトス志向であるところはまさにクローネンバーグです。

僕はこれらの映画を見ていると、クローネンバーグが自分が生きていることをドキュメンタリーとして記録しているような感じを受けます。映画の中では皮肉な結末や救いのない世界しか待っていないのですが、本人はそれらの映画を作ることによって、しかもそこで出来るだけ真剣に自分に向き合うことによって、結果的に自分を生かし続けているような風に思えるのです。

もし同じ様なモチーフや物語を他の監督がやっていたら、ただのポーズとしてしか作ることが出来ないぐらい、良く言えば独自、悪く言えばしょうもない話を、あのように「訳の分からない魅力」で包み込めるのは、彼が本気であるからに他なりません。そして本気であるとは、この文脈の中では「自分が正しく死ぬために生きる」ということです。

テレビでやってたマトリックスをつい見てしまいました。2度目ですが面白い。大好きです。
この映画ってそのテンションが命です。やる気ムンムンだし、格好良ければ何でもOK。どんな展開になっても絶対に退屈だけはさせないぜっていう作り込み。多少設定にあらが見えたり、ストーリーが子供ぽっくても、そんなことはたいした問題ではありません。

スターウォーズにもこんな所があります。こっちの場合はどれだけ異世界が作り込まれているのかが唯一で最高の見所です。お話なんてどうでもいいし、大したもんじゃありません。お話は見所を作り出すための方便に過ぎない。

でもこの二つの作品を比べた場合、僕は圧倒的にマトリックスの方が優れていると思います。マトリックスにあってスターウォーズにないモノ、それは映画という作品における時間的密度です。これは作品内リアリティではなく、作品そのもののリアリティの問題です。どういうことかというと、ここで言っている時間的密度とは、おそらく制作者の「思いの強さ」とか「情熱」とかの表れとしてしか表出しないモノであり、その表出の結果として作品に「奇跡的なオーラ」のようなモノが纏われるのです。

作品内リアリティとは言ってみればただのリアリズムですから金さえ掛ければどうにかなります。でも作品のリアリティはそうはいきません。作り手が「本気」じゃなかったら絶対実現しないものです。なんでも一緒ですけどね。
あ、別にスターウォーズも嫌いなわけじゃないですよ。

ガラージュページ完成度78%。現在のhtmlファイル140枚ぐらい。今日はもう少しやります。

きのうに続いて映画ネタ。
これ楽だな。世の中のテキストサイトに映画や本のネタが多いのに納得。いや、分かってますって。こればっかにはなりませんので。でも今日見た映画が凄く良かったんですよ。

親指トムの奇妙な冒険」90点。

他の人が見たらこれほどいい点数を付けるかは不明だけど、自分的にはほんとに良かった。
お話はというと..................説明できない。
だいたいセリフがない。
タイトルの通り親指トムの奇妙な冒険です。
コマ撮りアニメーションで、ブラックでユーモアがあって、実際の人間も登場するけどこれもコマ撮り、三分の二ぐらいの場面で意味もなく虫が這っている。「イレイザーヘッド」よりは35%ぐらい明るく、「ストリートオブクロコダイル」よりはフェティッシュへの嗜好が40%ぐらい少ない。でもそんなこと気にならないぐらい同じように独自。

これらの映画に共通しているのって「自動筆記」的に世界が創造されていることです。どれにも無意識をそのまま放り出したような乱暴さと濃密さとインパクトがある。つじつまなんて合わなくても、多少破綻していても、こういう力が感じられれば作品としては充分に成立するし、魅力的です。
そういえばガラージュを準備する前に、ごく短い設定というかお話を作ってあったのですが(これがあの世界観の土台になった)、あれを書いたときも、まるでシラフで夢を見ているような状態で書いていたのを思い出しました。自分が自分の脳味噌のお客になったような感じです。脳味噌って構えをなくせばいろんなものを見せてくれます。

このところ割と本を読んだり映画を見たりしています。だいたい何かを始めるときはいつもこんな感じです。たぶん何かを作ったりしていなかったら、全く本も読まなくて、映画も見なくて、音楽も聴かないんじゃないだろうか。

これって「作品を楽しむ」という見地からするとメチャクチャ不健全な楽しみ方です。でも他の作家で似たようなことを言っている人が何人かいたので、ある意味職業病って感じでしょうか。

しかし別に「ネタ探し」のためにいろんなものを漁っているわけではないのです。ネタはある。この場合のネタは言ってみれば「世界への渇望」みたいなものです。これさえあれば作品は作れます。逆に言うとこれがないところで作品を作るのはとても苦痛です。冗談じゃなくてカラダ壊します。

じゃあ、いったい何のために人の作品を見たり読んだりしているんでしょう。う?ん、難しいな。なんでだろ?

欲求としては、とにかくビックリするぐらい出来のイイものを見てみたいと思う。あとは自分の求めているものが既に存在するのならそれを確かめたいと思う(あるわけないのですが思ってしまう)。それと、よりよく戦った人の力を身近に感じたいと思う。これ以上のことは今は分からないし、分かりたくないかも。

最近見た映画(レンタルなので古いのばっかりですが)。

アイアンジャイアント」78点
設定が好み。丁寧に作ってあるし破綻がない。もっと強いパッションが感じられたら素晴らしかったのに。観て損はない。

我らの歪んだ英雄」75点
韓国映画。良くできてる。いわゆる少年時代の追憶を描いているけど甘さはない。僕は「権力とエロティシズム」の映画だと思ったけど、そうは思わない人もいっぱいいるかも。もっと深い視点が欲しかった。

「肉屋」15点
イタリア(だったと思う)のベストセラー小説の映画化。サイテー。

テレビでやってたのをつい見ちゃいました。
ビデオあるのに、テレビでやってるとつい見てしまうのってなんででしょう?「見逃しちゃいけない!」って感じになるからでしょうか?それともテレビで見た方が微妙にライブな感じとか?(おんなじだっちゅうてんねん)

まあ、理由はともかく見てしまいました、トトロ。
しかし何度見ても(多分20回ぐらい見てます。一人だったらこんなに見てないと思うんだけど、子供がいたりすると、つい釣られてみてしまうんです。これはゲームもそう。やってもいないのにやたら詳しいゲームがいくつもあったり)宮崎駿はセンスいいなぁと思います。とにかくリズムとメリハリが素晴らしい。短時間だったらこういうセンスの良さを持っている人はたくさんいると思うのですが、映画のような1時間以上になる作品で全体を見渡しつつ、高いクオリティを保てる人ってほんとに少数だと思います。

僕の考えでは、このセンスの感じられない映画は駄作です。見てるのがツライ。絵で言えば色がダメな絵と同じです。色がダメな絵はどんなに好みの趣向を持っていてもすぐに飽きてしまいます。といってもこのセンスのない映画や色のダメな絵にも好きなものはたくさんありますが、これらの作品がB級作品であることには変わりありません。これって一言で言うと、作者が「映画」や「絵」を愛しているかどうかの分かれ目のような気がするんです。
(スピードや彩度のことを言ってるわけではありません。どんなスピードやどんな彩度でもいい。とにかく「時間」や「光り」がコントロールできていない作品は、作品として作者の表現が完結していないということです)

でもこれが出来ている作品ってほんとに少ないです。いや、表面的に出来てるように見える作品は山ほどありますけどね。絵でも、映画でも。
ところが本気で表現と言えるようなレベルでこれが出来ているものとなるとおそろしく探すのが困難になってきます。

宮崎駿はそういう意味でも僕にとってすごく貴重で有り難い存在です。勇気が出てきます。たぶん届かないでしょうが、この場を借りてお礼を言いたいぐらいです。泣かされるのは困りもんですが...

ちなみに宮崎駿のこういう才能を僕が一番ストレートに感じるのは「天空の城ラピュタ」のオープニング。これも何度見てもワクワクさせられます。たぶん作った本人としてはステレオタイプなスパイ映画的演出だったりするんでしょうが、あの映画の中では完璧に世界観への導入として機能しているので、見ている方はそんなこと全く気になりません。

なんかこんなこと書いているとほんとに映画作りたくなってくるなぁ。

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