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手書きブログで描いたやつをPhotoshopでさらにいじった。勇者がうどんを食っているところです。いや、ゲーム画面みたいなつもりで描き始めたもんで。

こういうマップで虫採ったり、キノコ採ったり、魚釣ったり、イノシシ獲ったりするゲームがやりたい。だだっ広いマップで、どこまでも行けて、ひたすら歩き続ける。3Dの主観画面も魅力的だけどさ。でもクォータービューで一番困るのは森の中の表現が難しいことなんだよな。大木の中を歩くのが表現できないんだ。これは散々考えたけど、いまだにいい解決案が見つからない。

あ、それと見りゃわかるけど、サイドバーに手書きブログのブログパーツをくっつけてみた。見たい絵のところでクリックするとその絵のページに飛びます。こっちにアップしてないのもそれなりにあるので興味ある人はどうぞ。

さらに関係ないけど、Tumblrもいじってみてます。Twitterよりは使い道がありそうな気がする。継続的に使いそうなら直接飛べるようにリンク貼ります。Twitterのつぶやきはどうも立ち位置がはっきり出来なくて困る。

080730.jpgこれは3年ほど前に描いた自分のゲームプロジェクト用のテクスチャーテスト画像(クリックすると拡大します)。建物の方はいまいちだけど、草はずいぶん試行錯誤している。このあとこの草原に木を生やそうとしたら途端に上手く行かなくなって座礁した。

まあ、それはいいとして、このテクスチャーで目指していたものの一つは、「そこにある感」だ。実際以上に近く、空気が薄まったかのような空間。それをジオラマ感といってみる。考えてみれば、去年作ったレンズから覗く箱も同じものを求めている。ただ単に精巧に作られた模型や、写真のように描かれた絵じゃつまらないのだ。俺の見たいものはそこにはない。そんな風には見えていない。どんな風に見えているのか、どんな風に見たいのかといえば、ジオラマ感を伴って見たいのだ。そのジオラマ感は自分の中で非常に濃密な時間に結びつく。ゾクゾクするのに落ち着く時間だ。

迷子の状態ってのは通常のゲーム的にはADVやRPGであればハマリの状態であり=クソゲーなわけですが、それがクソゲーにならないためには、

1:どれも必須イベントでなく、
2:迷子になってもゲームの基本システムが生きている状態にあり、
3:どこに進んでいるのか自覚できなくても基本システムがプレイヤーの意欲を持続させる力を持ち、なおかつその持続がシステムを超えた価値に結びつくように世界観が設定されている。

というようなことが最低でも必要なのではないかと思っています。特に3番ですね。口で言うのは簡単ですが…

また、ゲームの楽しさを支えるのは基本的には「達成感」だと思うんですが、今のゲームは達成感に頼りすぎていると思う。達成感を積み重ねまくって幸せになるという価値観。その上、その「幸せ」は他人との比較における幸せでしかなかったり、他人の評価が得られるという幸せでしかなかったり、まさに現代教育を丸写しにしたかのような価値観がたまらなくイヤだし、それにハマる自分にも腹が立つ。

で、孤独を達成するという価値は楽しいのかってことになるわけですよ。俺的にはこれ以上楽しいことなんかないだろって気がする。ただ、ここで言うところの孤独というのは、単に一人ぼっちであるとか、どれだけ寂しいかとか、そういうことじゃない。この前テレビを見ていてインディアンの歌が紹介されていたんですが、その歌はこういうわけですよ。「俺は一人でどこまでも歩いてきた、あらゆる場所を果てまでも歩いてきた、そしてこの世界には友達でないものはひとつも見つけられなかった(超意訳)」いい歌だなと。

絵でも何でもそうなんだけど、表現っていうのは基本的に単純化によって成り立つものだってのはある。単純化するからこそ人に伝えることが出来る。これは例えば名前をつけるってことを考えてみれば納得できる。名前をつけるってことは名前にあらわされていないものを切り捨てることなんだけど、名前をつけることによって初めて他人にその存在を知らせることが出来て、なおかつ名前に含めることが出来なかった切り捨てられたものを、伝えられた他人が知るきっかけにもなり得る。だから優れた名前というのはそのきっかけを含むように単純化された名前だということも出来る。どのように切り捨てるか。それが重要。

たとえばマリオやゼルダなんかだと、現在の技術が実現できるリアリズムという観点から見れば随分と単純化した世界を構築しているわけだけど、その分TOKIなんちゃらが言う様に想像力をプレイヤーに要求し、かつ、その想像力を裏切らないように作りこみをしていく。これは宮本茂本人が言っていたことだけど、「あのブロックの上は歩けるんだろうか、とか、ここでブーメランを使ったらスイッチが入れられるんじゃないだろうか、みたいなプレイヤーの思いを出来るだけすくい取ってあげたい(超意訳)」てなことを言っていて、それはやはり単純化したからこそ提供できる価値だなと思うわけです。ゲームじゃないと出来ないこと、それをとても大事にして作っているし、これは「きっかけになり得る単純化」という観点から見るとかなり優れている。

ここでリアルってことに二つの側面があるのがわかる。一つはビデオゲームが登場する以前の映画に代表されるようなリアル。見た目が本物のようで、ストーリーに隙が無く、あたかもそれを見た人が「自分が経験したんじゃないか」と錯覚させるようなリアル。もう一つはゲームが提供するリアルで、これはプレイヤーがポジティブに想像力を働かせたときにしか価値を発揮しないけど、それが発揮できるように作られていれば見た目やストーリーに関係なく「自分が経験できる」リアル。たとえうろつきゲ?ムであれ、やはり後者を目指したい。とするとTOKIなんちゃらが言うように視覚的リアリティはある程度犠牲にしつつもゲーム的リアリティを目指すってことになるわけだけど、リアルなグラフィックもそれがゲームシステム的に過剰でなく、むしろ必要であるようにデザインすることも可能なんじゃないかと思っているところがある。しかも世界の単純化を維持した上で。

あくまでも例えだけど、緻密に描かれた草原があったとする。そこには何十種類もの草が生えていてその中から自分に役立つ草を見つけ出す。プレイヤーは腹が減っていてどんどん疲れていく。その草が見つけられないとゲームオーバー。達成されるのは自分が生き延びたということだけ。ルールは簡単で、グラフィックはリアル、しかもジオラマ的。ここに「道を覚える、もしくは探す」という要素や「障害物としての動物」なんかを加えていけばとりあえずゲームとしては成立するんじゃないかと。

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ついでに書いておくと、今作ろうと思っているゲームの基本システムは「追いかけゲー」です。普通のゲームのほとんどは「追われゲー」です。パズルでもアクションでもRPGでもかなりのものは「追われゲー」を基本システムとしている。でも「追われゲー」だと「うろつき感」を表現するのは難しいんです。やっぱり「追いかけゲー」じゃないと。草を見つけるってのも追いかけゲームとして考えることが出来るし、あと既存のゲームでこれに近いのは釣りゲームだろうな。自分から求めないと何も起きないって意味で釣りゲームは「追いかけゲー」だ。

それと今回、プログラム上の技術的限界(つまり俺の勉強不足)で、やりたいことと実現できることの間にかなりのギャップが生まれるのが目に見えている。そして、それでも今出来ることから始めたいってのが基本スタンスになっている。

例えば雨を降らせたいなぁとか、雨が降れば体力の消耗は激しくなるだろうなぁとか、水に入れば歩くスピードは遅くなるようなぁとか、いつまでも走り続けることは出来ないよなぁとか、そういうゲーム性を盛り立てることが出来そうで、なおかつ操作性やルールのシンプルさをスポイルしない要素は出来る限り入れたいんだけど、どれも無理。

だからと言って、雨が降らせられないと表現できないってわけじゃないんでその辺の一番シンプルな状態をしっかりと掴んでおく必要がある。

あと既に基本システムとして必要なのにスペック的な問題で障害になりそうなことも浮上し始めている。例えばマップの広さ。最新ゲームの3Dマップみたいに怖ろしく広いマップを読み込めれば何の問題も無いんだけど、そうはいかない。現在約3000Pixel四方のマップでテストしているけど(ゲームウィンドウは800×600)追いかけゲームとしてはどうも狭い。予想としては5000?6000Pixelは必要な気がするんだけど、この大きさだと Photoshopで描くにも辛いし、なによりWEBゲームとしてやるには重過ぎるし、それだけじゃなくプログラムの記述が膨れ上がりすぎる怖れもある。とはいいつつ、実際にパブリッシュされるはずの時期を考えると、めいっぱい背伸びもしておかないとならないし…

うろついているだけで楽しいゲームにしたい、これはガラージュを作っていたときにも思っていたことだ。ガラージュは言語的なモチーフもそれなりにこめられているけど、基本的には「そこにいる」ということが感じられるように世界があって、それをプレイヤーに感じさせることが出来ればゲームとして成立すると信じていた。

自分にとってリアルに感じられる世界があり、それは一方向の「物語」としてではなく、時間を含んだ空間としてそこにある。そのリアリティを表現できればそれはゲームとして成立する…。これは主に模型やジオラマから学んだ感覚だ。この感覚は社会的には一般的ではないかもしれないけど。例えば子供が一人ぼっちで下校後の散歩をしていたりするときや、会社や学校を休んで公園のベンチに座っていたりする時ににふと実感するようなものであるという意味では特別なものでもなんでもなく、それが「詩的」であるがゆえに流通を困難にしているだけのきわめて一般的な感覚であると思っている。「世界」は物語的であるだけが魅力になるようには出来ていないし、もっと多様な空間を含んだ進化と選択によってそこにある。

物語が表現する孤独は一面的すぎると思う。孤独はもっと自由で多様なものだ。そして孤独の無い世界はなんて退屈なことだろう。うろつくだけで楽しいゲームは孤独を再認識させるゲームであると思う。その自由さ。その風通しの良さ。その喜び。その厳しさ。表現物が感じさせる感覚なんてものは所詮予感に過ぎないとは思うけど、それでいいんだ。その予感こそを感じさせたい。

ステータス、アイテムバリエーション、生物の多様性、説得力があり表現力に富んだマップ、心地よいインターフェース、ストレスにならない操作性、媚びてないのにリアルなキャラクター、そういったものをただ一箇所に向かわせたい。

05091401.jpg05091402.jpg05091403.jpg05091404.jpg05091405.jpg05091406.jpg05091407.jpg05091408.jpg05091409.jpg05091410.jpgこの2ヶ月ぐらいのもの。ほとんどがゲームのラフとかアイデア出しですね。

water2.jpgゲームのためのマップ描きに明け暮れている。といってもまだ素材作りの段階で実際に使用するマップは一枚も出来ていない。

自分がどれぐらいのクオリティでマップを仕上げたいのか。どんな光で、どんなディテールでそこにあるのか。そういうことを試行錯誤しながら一つ一つ決めていく。たとえば草のテクスチャが上手く行くとそれまでいいと思えていた地面のテクスチャが良くなくなる。地面と草が上手く行くと樹が上手いこと描けなくなる。こういうことの繰り返し。これらの問題は俺が最終的なビジョンをしっかりと掴んでいないから起きる。草だけをハイコントラストのカリカリのディテールで仕上げたところで、その上に似たような樹が自然に生えるわけが無い。空間と光が掴めていないのだ。でもこの果てしない作業を繰り返していれば多少は学習もするもんだ。ちょっとづつ自分が居る場所が見えてくる。

こういう作業ではまりすぎると先に進めなくなる。よくある罠だ。だけどもうちょっと詰めないと。このわがままが許されることって凄く幸せだ。

04:42
樹や草や地面など一つ一つはかなりコントロールできるようになってきたんだけど、それぞれのバランスがまだ取れていない。この問題はほとんどクォータービューの視点によるものだ。たとえば一面に敷き詰められた草原に生える樹木。牧草地みたいな草原や芝生の草原に樹を生やすのは簡単だ。色のコントラストも明度のコントラストも簡単に作れる。ところが立体的で多様な植物が生えた草原に生やそうとすると、とたんに難しくなる。

これがヨコからの視点だったら、空気遠近法や空間の構成でいくらでも回避する技はあるんだけど、クォータービューだとそうは行かないのだ。毎日樹や草を見まくっているんだけど、まだつかめない。早くしないと葉っぱが落ちちゃうよ。

07:15
ゲーム画面をデザインしたり描いたりしていつも思うのは、「絵になりにくい」ところをいかに無くすかって事だ。スクロールしない絵だったり、量産を前提としない世界なら、いくらでも「絵になる」画面を作ることが出来る。でもゲームはそんなに甘くない。もっと細やかに丁寧にバランスをとってあげないと大雑把で不明確なところがどうしても出てきてしまう。なんとかしてそれを回避したいんだけど。

こういうのって映画や漫画にも言える気がするな。

07:55
スクロールするってことは、あらゆる場所に奥行きを無視して焦点があっているということだ。それはとても不自然なことなんだけど、そういう画面にはとても惹かれるし、絵ってそもそもそういうものなんじゃないかとも思っている。「記号的」で「人工的」で「装飾的」。ただ、これまでに開発された絵の技法に今やろうとしていることが当てはまらないだけで、絵という現実の解釈の仕方には背いていないやり方のはずだ。写真ではこういうのをマルチフォーカスといったりするけど、ちょっとしっくりこない。もうちょっと拡大してフラットフォーカスとでも呼びたい気持ち。
08:28
フラットフォーカスってエロくない?
08:37
ボッシュやブリューゲルはけっこういい線行ってると思うんだけど、やっぱりかなり都合のいい空間を構成している。これは別に彼らの作品の質の問題ではなくて、時代のリアリティの問題だと思う。俺が欲しいものはそこにはないけど、その時代においては充分にリアルだったんだろうなってことは感じられる。同様にペルシャのミニアチュールとか源氏物語絵巻とか宗達の屏風とかもフラットフォーカスだ。今ここに上げた作品はどれも大好きで沢山喜びを貰ったものだ。でも欲しいものはそこにはないし、それで当然だと思う。

過激じゃなくていい。過激さは邪魔だ。
重要なのは敏感であることだ。

ゲームのマップを描こうとしているんだけど、あまりに自分が下手なのに驚いた。絵って構図や光の加減やものの見方がちょっと変わっただけでまったく違った認識と言うか、モノの見方を要求される。描き慣れたものというのは、その内のほんとにちょっとだけのものの見方を学習した結果に過ぎなくて、例えば世の中のリアリティなんてものは、それらのほんのちょっとの学習の積み重ねでしかないよなって思う。

少し立体を把握した気になると、モーションがそれを定義しなおすし、モーションによって定義しなおされた立体は、新しい価値を平面にもたらすし、そういう平面は新しい立体把握を要求するし、といったようなことが(それなりにやってきたつもりなんだけど)いつまでも続く感じだ。全然欲しいものが手に入らない。下手でウンザリする。

フォトリアリスティックなんでどうでもいい。そういう話じゃない。自分が感じたものが「ここにある」と思えるように描きたいだけだ。

8/23(Tue) 9:28
下手ってことは欲しいものがわかってないってことだ。

もしくは

欲しいものにふさわしく向き合ってないったことだ。

050817-1.jpg050817-2.jpg050817-3.jpgこのところ四角ばっかり描いているのです。正方形やら長方形やら。要するにゲームのマップを考えたり、基本的なフォーマットのサイズを検討したりしているわけです。最終的な世界の広さとか、一つのマップにどれぐらいの情報量を入れるべきかとか、機械の処理能力との兼ね合いとか、自分の処理能力との兼ね合いとかを想像しながら。これが楽しくてしょうがない。楽しすぎるので日記を書くどころじゃないと、まあ、そういうわけです。写真からちょっとは雰囲気が伝わるかな。まだ海のものとも山のものともつかないので、具体的なことは自主規制しときます。下のは試験的なスクリーンショット。ちょっとだけオマケ。
interface800.jpg

最初の予定では健全ぽく見えるエロス的世界と、不健全ぽく見えるタナトス的世界の対比を考えていたんだけど、そのエロス的世界の方がタナトス的世界の方に吸い込まれつつあるようだ。しかし元々そのエロス的世界の方も消費社会の単純化された姿として考えていたわけで、現代における消費社会の病み方を思えば仕方ないことなのかもしれない。

このところ身体改造系のサイト(腕切っちゃったり、ちんちんを縦割りにしちゃったり、磔になったり)とか変態系エロサイト(ウンコ食ったり、馬とやったり、頭入れようとしたり)を割りとよく観てるんだけど、あくまで本人が進んでやっていると仮定した場合にはそういうことって「正常」な欲求としてあるんだと思う。たとえばインフルエンザにかかれば高熱が出るのは「正常」な体の反応だ。日常ではないにしろ、その熱は体が戦っている証拠だ。同じように性的虐待を受けた女の人が対人恐怖症になったり、逆に風俗にいったりするのも「正常」な反応だ。プライドの高い親に育てられた子供が分裂症になりやすかったり、母親の愛が充分に得られなくて超スケベになってしまったり、根本的な生きるすべを学ぶ機会をまったく持てずに(って今の時代誰だってそうだけど)育った子供が社会に適応できずに心を病んだり、そういうこと全部が「正常」な反応であり戦いとしてあるんだと思う。もちろんこの言い方で言うと犯罪でさえ「正常」な反応であり戦いであるといえる。でも実際そうなんだと思う。

ただ、「正常」なんだからそれでいいじゃないかとはこれっぽっちも思わない。なぜならそれは戦いだから。まどろんだり、意思を失ったり、依存したりしたら負けだ。その状態は「正常」じゃない。それこそが異常な状態だ。(いや、休むのはとっても大事だけどさ)

だけどこんな言葉はほんとに苦しいときにはまったく届かないし意味がない。ほんとに苦しいときに頼りになるのは自分の呼吸だけだと思う。その呼吸が意思なんだと思う。原因が外側にあろうとも戦わなきゃいけないのは自分だし。

話がずれちゃったけど、俺にとってのエロス的世界はそういうことを前提にした「戦いの準備をするフィールド」になる必要があるかと思ったのだった。つまり理想的でエコロジカルな快楽の園ではなく、タナトス的なバトルを支えるためのオアシス(捻じ曲がってはいるけど)である必要があると。既に誰もが改造人間である現代においてはそれぐらいが丁度いい。

前に二度ほど死ぬためのゲームを作りたいって話を書いたけど、その気持ちは今も変わっていない。ゲームに関してはそれしか興味が無いといってもいいぐらいだ。

しかしこれが難しい。まず、プレイヤーは能動的に死ななくてはならない。なぜならゲームのプレイヤーというのはどんなに暗いゲームをプレイしていようとも能動的な存在だからだ。そうでなければゲームが成立しない。

また、通常のゲームにおけるは死はゲームオーバーであってクリアではない。しかし死に向かわせたいのに、そんなに簡単に死んでもらっては困るのだ。かといってプレイの緊張感を保つためにはゲームオーバーになりたくないというペナルティは絶対必要だ。そしてそのゲームオーバーはクリアしたときに訪れる死とは別のものでなくてはならない。

さらに、死に能動的に向かわせるためには、それがプレイヤーにとってゲームをプレイしたからこそ得られた果実であったと感じてもらう必要がある。ただのうんざりする無力感や、耽美的な独りよがりじゃ面白くもなんともない。コンピュータゲームってのは長い時間を拘束させうるメディアだ。そこで消費された10時間なり100時間なりをまるごとエンディングの感覚に持ち込み、出来るならば、この上ない重さとともに、この上ない軽さを感じさせたいのだ。そんなこと出来るのかって話だが、やりたいのはそれだってことははっきりしている。

まずは失いたくないと思わせる世界と対象が必要だ。その執着が生み出せなかったら重さが演出できない。そしてその先に行くことの必然性が必要だ。そうじゃないと軽さを感じさせることが出来ない。ここまではずっと前からわかっている。問題はここから先だ。システムとシナリオとゲーム構造、ゲームオーバーの設定、大事にしたいと思える対象、失うことの意味と必然性。これらが無駄なく密接に絡んでくれないと失敗するのは目に見えている。最近ずっとこれを考えていて、きのうは先が見えたと思って興奮していたんだけど今日は落ちた。まあ、これもいつものことではあるけれど。

4/12(Tue) 5:40
さっき書いた死ぬためのゲームの話は、それが生きるためのゲームであっても何の問題もない。ただし、ここで言っている生きるということは、サバイバル的な意味での生きるとはちょっと違う。つまり生き残るための生きるではない。生き残るためには障害を取り払うことが必要だけど(そしてそれはゲームとして表現しやすいけど)その障害が取り払えないものとしてあった場合や、自らの欲求によって生じている場合はサバイバルのテクニックは意味を失う。おそらく、否応なくプレイヤーをそういう場所に放り込むことがまず必要なのかもしれない。

弱さから始まる。忘れたい場所から始まる。それを避けられるなら避けたいと思っていたところもあるけど、ひょっとすると必要なことかもと思えてきた。、

4/12(Tue) 5:53
モチーフが生か死かはどうでもいいんだ。ほんとのところ。別に生の定義も死の定義もしたくない。興味はそこにはないし、出来るとも思えないし、上手く言えたり表現できたところでそれがどうしたって話だ。他になんと言っていいか判らないから使っているに過ぎない。ただ、ある臨界点なり区切りなりはあるんだと思える。それに対してのふさわしい言葉が見つからないだけだ。

朝の八時。眠くて酔っ払っててヘロヘロなんだけど、起きてからだとイヤになりそうなので更新しておこう。

ちょっと前に七つの大罪のことを書いたけど、予想通りあの分類はもっとニュートラルに適用できることがわかった。ゲームにおけるキャラクターのステータスだけでなく、ゲームの基本システムとの対応とか、現実世界におけるテクノロジー、時間軸を含んだ博物学(要は生態学)、それにメタファーや反語まで含めると、いかがわしいんだけど説得力はある、みたいな世界観が構築できる。

で、これをさらに進めてカバラ(体が寝たがっているので説明が面倒くさい。検索しておくれ)の世界観にまで拡張するともっと可能性が広がる。占いとか数秘術とかって、その論理に依存するような興味はまったく持ち合わせていないんだけど、それを探求しようとする人たちが用いてきた方法論はとても興味深い。なんか絵を描いたりすることに近いんだ。これ、勘違いする人がいっぱいいそうだな。でも、まあいいや。

ここで酔っ払い特有の飛躍をさせてもらうと(すでに飛躍しまくってるって)、七つの大罪で使われた(罪でさえないんだけど)七という数字が十になる。って説明が足りなすぎて意味わかんねー!要するに(要するにって、なにもまとめられるような素材は提示されてないって!)メタレベル(ますますわかんねーよ)があと三つぐらいあると、物語的にもシステム的にも、終わりが終わりになれるように出来るかもしれないってことだ。

あかん。人に伝えようという誠実さが欠け過ぎてる。ま、サクバは前進している気になっているということで。

今ゲームの基本設定をあれこれ考えているんだけど、「七つの大罪」が気になってしょうがない。中世キリスト教で使われていたあれです。前に「世界の涯」というゲームを考えていたときに精神世界のボスの絵を描いていて(このサイトにもアップしている悪魔とかYUKIとか)、そのときに考えていたこととやけにかぶるのだ。ひょっとしたら映画の「セブン」の影響も無意識に受けていたりするのかもしれないけど、それだけじゃないずっと昔から考えていたこととやけにシンクロする。

ただ、自分はキリスト教徒じゃないし、こんだけいろいろやってきて引用で終わらせるのもつまらないので、丸ごと解釈しなおす必要はあるかと思う。それに今考えているのもそれを罪としてではなく、生物の生理的特性として定義できないだろうかとも思っている。上手く行けば博物学的分類の基準にもすることが出来るし、キャラクターステータスにも対応させることが出来るはずだ。かなりワクワク。

050401.jpgきのうの続き。

卵巣が七つある子宮。相対化された消費生活。ゲームに支配されたゲーム。建築としての世界構造。受精のための殺戮。距離とストレスと期待。選択しうる出生…とかとか、へんなことを考えながら。

050331.jpg何の絵だかわからないですね。それでいいんです。これはゲームのプロットです。世界の構造の基本形。いくつかパターンを考えているんだけど、これならいけるかもという一つの形。最近サクバがわけのわからない屁理屈をこねているのも、まあこれのせい。上手く行くといいんだが。

このところゲームのことばかり考えてる。そろそろ本格始動したいって思ってる。で、やっとエンジンが掛かってきたかなって感じだ。

なんでこう、いつも土壇場まで行かないと本気になれないんだろうと思うんだが、今までずっとそうだったわけで、これはもうそういう性分なんだと諦めモード入ってます。

そんなわけでここの更新も滞りがちだしレスも遅かったりしてますが、次に行くためのステップだと思って勘弁してやってください。でもここの更新はもうちょっと真面目にやらんと駄目だな。

1/25(Tue) 5:46
パロディとコンピュータゲ?ムのチート(ズルして改造したデータでプレイすること)は同じ精神だと思った。で、それはもっと表現の内側に取り込まれるべきだとも思った。

力の無い表現はパロディもされないしチートもされない。だからこそパロディもチートも積極的に内側に取り込んだほうがよりエキサイティングになるように思える。パロディやチートは表現物に依存してしか存在しない。表面的にはコケにしているようにしか見えないかもしれないけど、それはどこまで行っても依存を超えることは無い。でもこれだけ世界が子供化してくると、過去を茶化すことだけで表現が成立してしまいそうでとってもつまらないのだ。暴力的に明言するってことは必要だ。それは面白いし、新しくもある。

確率を回すのは母殺しのゲームで、技術を磨くのは父殺しのゲームだと思った。日本では母殺しが好まれて、ヨーロッパでは父殺しが好まれる。今のところほとんどのゲームはマザコンとファザコンのためのゲームなのだ。ちなみにロリコンはファザコンに成れなかったマザコンのことで、ショタコンはマザコンに成れなかったファザコンだと言ってみる。そんでもってマザコンは農耕民族的でファザコンは狩猟民族的だ。だからどうしたって話だが、どれかに寄り添いつつどれでもないものを目指すようなものがやってみたいものだ、と考える。

1/23(Sun) 5:10
ギャンブルにおけるそれ自身を成立させるフィールドは母性的でなければ成立しないだろう。つまり、「当たり」が、「必ず」、「いつか」、「自分に訪れる」という「保証の信仰」が無いところにはギャンブルは成立しないからだ。かといってその保証は「存在する」という保証でしかないのだが、それで充分なのである。面白いのは「自分に訪れる」という「信仰」が「他人に訪れた」という事実によって成立するところだ。まあ、自分に訪れていないからこそ、それは「信仰」だといっているわけだけど、それは置いといて、ここで「他人に訪れたことは自分にも訪れる」という理屈こそは、「確率」という数学の最も占い的側面をあらわす「母性」なのだ。母性は確率を操作する、ことに全力を費やす。悪しき偶然を排除し、同時に悪しき偶然を生み出しもする。そして母性によって植えつけられたノスタルジーは母性によって生み出された確率によって葬られなければならないのだ。
1/23(Sun) 5:15
数学には思考する本人において時間が有限であるという定義が欠けている。
1/23(Sun) 5:16
計算する時間がゼロになることはない。
1/23(Sun) 5:26
スピードはそれが物質であるがゆえに有限でしか有り得ない。極限の速さも極限の遅さも比較においてしか存在しない。知ることが出来るのはスピードの内側において起こる経験だけだ。どんなものもそれ自身が物質であり、その物質が移動するときに計測される速度としてしか存在しないのだ。ここには認識の罠があることは分かっている。でもそれ自身をとやかく言うのはくだらないことだと思う。その認識から始まる遊びが重要なのだ。

俺の作る草原にはバッタが跳ねているだろう。俺の作る空には鳥が飛んでいるだろう。森には怪しい獣が徘徊し、大木の梢ではすばやい小動物が無重力のようにまとわりつき、小さな洞には目の無い節足動物が蠢いているだろう。人もいるだろう。人は病んでいるだろう。病んでいることも知らずに。病んだままで生きるだろう。

死ぬことが簡単でなければいい。死ぬことが簡単じゃないのがいい。バッタも獣も人も。簡単には死なないように存在するのがいい。死ぬことの簡単さよりも生きていることの不気味さと重みの方がもっと面白い。だって死ぬことを簡単にするのは簡単すぎるんだ。誰からも見える分かりやすい死ではなく、その人にしか起きない死の方が大事だ。それはきっと寂しいだろうけど、寂しいなんて当たり前だ。それはきっと、上手く行きさえすれば、今の俺には想像できないほど寂しいことに違いないんだから。

コンピュータゲームが表現できるリアリティってどういうものだろう、と、ずっと考えている。絵よりは映画に近い。でも映画とはまったく違う。

単にインタラクティビティを問題にするならアナログゲームにはかなわない。将棋や囲碁、たぶんチェスや麻雀も、どれも「誰か」とのかかわりにおいて擬似コミュニケーションのかなわない魅力を持っている。

またグラフィック的なリアリティで言うと絵や映画ににはまだまだ追いついていない。映像のインパクトにしてもタブローとしての情報量としてもしょぼいものしか表現できない。

前に模型的リアリティのことを書いたけど、模型の中でもリアリズムとしての模型ではなく、玩具としての模型を考えてみると答えがかすかに見えてくるような気がする。関節が動くとかミサイルが発射できるとかリモートコントロールできるとか博物学的にコレクションに燃えるとか、そういう、なんつうかいかがわしい魅力を味わうにはとてもふさわしいメディアなのだ。そのいかがわしさ、それが表現することの出来るリアリティ、それを知りたい。

でも趣味には大して興味がない。で、こういういかがわしさというのは、趣味の中にしか納まらないように存在してきた。趣味っていうのは俺的にはリスクの少ない遊びという意味で、あるマージン(余裕っていうか安全な部屋というか)を前提とした遊びだと思っている。そして、そういうマージンの上で成り立つ遊びにはリアリティを感じられないのだ。だから、こういういかがわしさからマージンを取り除いた場所には、リアリティと呼べるものがあるに違いないと思える。コンピュータゲームにはさまざまな制限があるけど、これまでには無かったようなメリットもあるわけで、そのメリットというのは今のところマージンというぬるま湯に浸かっているように見える。その湯船をひっくり返したところに出現するものが見たいのだ。

確率を回す。ヘンな言い方だけど、RPGとかのゲームをやっていてレアアイテムを出すために延々と同じことを繰り返している状態をこう呼んでいる。やったことないけどパチスロなんかはまさに確率を回すためだけのゲームだと思う。

デジタルにおける偶然性の計算というのはある法則があって、たとえば1000曲の中からランダムに曲を再生させると、1000曲目にはかならっず決まった曲、つまり最後に残った曲が再生されることになる。計算の仕方もいろいろあるから、他のやり方だと同じものが繰り返し選択されたりもする(キキリが毎日占いしかしなくなったり)。要するにランダムとは言いながらもある程度は狙えるわけで、だからこそパチプロなんていう商売も成り立つわけなのだ。

まあ、それはいいとして、このレアアイテムとか大当たりとかに傾ける情熱というのはどこから来ているのだろうか。パチスロだったら現金変換といううまみもあるわけだけどRPGなんて何の足しにもならない。せいぜい思い描いていたステータスになって快適にプレイできるぐらいのものだけど、それだって達成したとたんに満足してしまってろくに遊ばなくなったりするのだ。パチンコ台に座っている人だって決して金のことを思い描いていたりするわけじゃないと思う。

一つには、当たる瞬間に立ち会いたいという気持ちがあると思う。しかもそれが他でもない自分に起きるところに立ち会いたいという気持ち。いつかは大物を釣り上げられると信じている釣り師のようなものだ。コンピュータゲームなら粘りさえすればそれが得られる。しかしそれがなんだというのだ。大したカタルシスではない。文化祭で一ヶ月ぐらい準備して演劇を上演する方がよっぽど大きいカタルシスが得られるだろう。が、それでも人はパチンコ台の前に座るし、何百時間も費やすし、何百万円も使ったりもするのだ。

要するにギャンブルだ。人間はギャンブルが好きなのだ。株だって会社経営だって、もっと言ってしまえば資本主義社会そのものがギャンブルへの欲望によって成立しているといったって過言ではない。ほんとに多くの人が「自分に当たりが来る瞬間」のために動いている。その当たりのために名刺を渡し、酒を飲みに行き、おしゃれをして踊りにいき、胃に穴をあけて働いている。

ギャンブルへの欲望は狩猟本能に結びついているのかも知れないとも思う。でもどうであろうとそれはどうでもいい。俺が興味があるのはその欲望を相対化することだ。つまりそういう欲望の外側にいられる自分を実現することだ。しかもその欲望の相対化を作品にしてしまいたいとさえ思っている。そんなことが上手に出来るのかまったくわからないけど、それはとても面白そうじゃないか。当たりが来た瞬間のカタルシスよりも、当たりに囚われていた自分から抜けるカタルシスの方が比べ物にならないぐらい大きいに決まっているんだから。

1/10(Mon) 6:16
幸運に恵まれたいという気持ちは狩猟民族的で、幸運を願う気持ちに囚われずに継続的な富を維持したいという気持ちは農耕民族的だ。でも、どちらもいやだ。実際にはそういう気持ちには囚われまくっているけど、どちらかになりたいとは思わない。願いはどちらでもない。幸運に恵まれようが、小さな幸運を維持しようと努力しようが、そのどちらかだけに自分が向かっているとは思えない。いつも揺れているし、その揺れ幅の中で生きている。その揺れを肯定しないでどうするって話だ。どちらも否定せずに、しかもそれぞれの場所ではないところに行こうとする意思は、珍しくもないし無理でもない、ただの当たり前だとしか思えない。

いろんなキーワードがぐるぐると渦巻いている。もういいよってぐらいのいろんなキーワードだ。それらは一メートルぐらい上空にあっていつまで経っても降りてくる気配がない。それらを降らせるために必要なことはわかっている。落ちるべき場所を用意してやることだ。場所がないからいつまでも舞っているのだ。遺伝子プール(つい最近覚えた)みたいなもので、可能性は均等に開くわけではなく、自分を必要としないところには降りてこないのだ。強力な引力を持つ人が幸せかどうかは分からない。でも俺は今それらのキーワードをこの体に降りてこさせようと生きているらしいことは分かる。というかそれしか分からない。それしか分からないのに、それが出来るかどうかもわからないというのはけっこう不安だ。でもその不安が誠実であれば、それもまた引力であることも事実なのだ。

演劇的なゲームを作ってみたいと思った。
じゃあ、俺が考える演劇的とはいかなるものかと思った。

1・ひとつのシーン(ステージ)に高密度な情報が詰め込まれていて、そのシーンが頭から離れなくぐらい空間の意図が明確じゃないといけない。

2・その高密度なステージは画像としての完成度を備えていなくてはならない。

3・時間、もしくは記述(主観的であれ三人称的であれ)のコントロールは、ステージの画像としての可能性に従わなくてはならない(逆に言えばステージは記述を助けることはあってもそれを阻害するようであってはならない)。

4・空間は三次元的に構築され、なおかつ記述も三次元的な空間を生かしたものでなくてはならない。

なんかよくわからない定義だけど、そんな感じだ。映画は表面的には舞台という箱を無視することによってその自由を獲得したわけだけど、舞台が持つ抽象性と言うか、虚構として不自由があるが故の強靭さは、これまたわかりにくい例えかもしれないけど、「子供の遊戯」に近い感じがするのだ。ヴァーチャルが非虚構を目指しているとするならば(実はそれは表現の一形態にすぎないとも思えるのだけど)、舞台という箱は、演劇という記述は、儀式に近いような、つまり虚構を虚構として利用することによって虚構が本来持っている力を解き放とうとするような「遊戯」のより本質に近いあり方に思えるのだ。

単純で自分の手に届くもので何とかできるって、それだけで凄い価値だと思う。

040614.jpg思いつくままにダラダラと一本描いてみた。う?ん、今ひとつな感じ。塔って機能が凄く明確か、じゃなかったら凄く不明確なのが魅力的な感じがする。なんでもそうか。なんでもそうだな。ところで塔の数え方ってのはあるんだろうか?一本、二本?灯台が一本建っていました、って言う?一軒じゃしっくりこないし、一棟ってのもよそよそしい。灯台は一台とか火の見やぐらは一やぐらとか……、言わないな、やっぱり。ひとり、ふたりとかだったらかっこいい。「日本には1500人の灯台と3万人の火の見やぐらが建っています」………風が吹いてそうでイイ感じ。

040613.jpg灯台、給水塔、取水塔、クレーン、火の見やぐら、通信塔、いろんな塔があるけど、塔はみんな好き。どこか謎めいていて、孤独な感じがして、かっこいい。オリジナルな塔を考え出して次のプロジェクトにも登場させたい。

040324.jpg今日はいろいろやって書くこともあるんだけど、疲れてしまったのでまた今度。ガラージュサイトは動作検証もほぼ終わったんだけど、まだ自分的に不十分なところがあるのでもう少し直します。明日アップできるかどうかはちょっと微妙かも。ただのコンテンツじゃなくて、金も絡むので慎重なのです。早くて明日の夜ってところかなぁ。

040323.jpg040323_2.jpg人じゃないけど。上のはこの前描いた水の底を掃除する人達です。まずそうな栄養がいっぱい溜まっているんです。でもこの人達の胃袋は丈夫なので平気。下の絵の大きいのはちょっとコワイ人です。のろいんだけど貪欲。つうか魚の絵って仕事でそれなりに描いたことがあるんだけど、どれも見て描いただけなので、全然構造がわかってない。エラとかこんなじゃないと思う。なぞっているだけじゃダメだね。こんど水族館でも行って来よう。

040321.jpg今日は大事なメモ帳を忘れてしまって、もっと小さなメモ帳に描きました。俺としたことが。やっぱり小さすぎると描きにくくてダメです。なんか悔しいのでいつもメモ帳にセロテープで貼り付けました、今。

この絵は顔の歪んだ人と水底の藻を食べる哺乳類です。でもガラージュサイトのことが頭から離れなくて、いまいち集中に欠けています。あとちょっとなんですが、例によってウィンドウズでもちゃんと表示されるようにいろいろ直さないとダメみたいだし。

それと電車の中で思いついたのですが、【ル:通信】購読者には先行予約もアリかなぁ。せっかく取ってくれているわけだし。このところサボりまくりですが。ああ、でもまだわかんないや。まあ、いろいろと考えてますってことで。

040318.jpg世界を記述してみたい。ずっとそう思っていた。たぶん、思い出せないぐらい昔から。何度も何度も世界を記述する試みをしてきたような気がする。なんの為かはどうでもいいの。それが出来たときには、それは自分にとっての最高のオモチャになる。それが初めからわかっている。それはあらかじめ終わったオモチャかもしれないけど。

哲学的にではなく、どちらかというと曼陀羅みたいな直感的な解釈でそれをしたい。哲学的な態度は科学的な態度と同じで分かり易くはあるけれど、そこからこぼれ落ちるものが決定的に重大すぎて好きになれない。その単純さが導き出す複雑性にウンザリするってのもある。今、わかりにくい言い方をしたけど、単純さにもいろいろあって、論理的な単純さはその一元的な特性ゆえに複雑な構造を導き出すし、直感的な単純さはそのその多義性ゆえに個人に多くの経験を求める。この言い方も抽象的過ぎるけど、これはセックスの仕方が書かれている本を読んでその通りにセックスをするのと、セックスという言葉を知る以前にセックスをしていて、これがセックスだったの?とあとから知る違いみたいなものだ。

たとえが悪い。言いたかっただけみたいだ。俺の身体はどちらかというと前者でガチガチだ。でも、ガチガチじゃない男には出会ったことがない。そして才能は、そのどちらでもないところにだけある。才能と言うにはあまりにも当たり前なリアルだ。そういう意味では、リアルは瞬間でしかない。そして瞬間であってなんの問題もない。その瞬間にとんでもない掛け金がかけられ、それを掛けることにも、それを見ることにでも莫大な金が動くぐらい、そのリアルは、今のところ、強力なのだ。

誰にだってできることがある。誰かにしかできないことがある。そして誰でもが誰かだ、じゃなかったら、誰でもが誰かであり得る。少なくとも、それぐらいの可能性がどこにでもある。自分がその誰かになるということは、論理的ではなく直感的な意味でいつでも正しい。自分にとって世界を記述するということは、記述された事実の正しさを求める行為ではない。なぜならそれを求めたら、その世界は正しくないものになるからだ。この手のことに異常な自信がある。論理的なことや科学的なことは何も知らないくせに。この自信は科学や論理の起源よりも根元的なところに根ざしているからだ。その、より根元的な何かは、とてもシンプルでシビアな何かだ。シンプル過ぎるが故にないがしろにされたり、シビアであるが故に排除されたりするようなものだ。

僕の雨の日。
僕の秘密基地。
僕のママのものではない僕。
誰のモノでもない僕。

俺のお前のものではない俺
俺の俺のものではない私。
私を蹴散らすこの身体。

身体に寄り添う誰か。
誰かとしての唾液。
唾液に触れられる皮膚。
皮膚と空気の間に生成するチョコレート。

僕の記述する世界は
箱の中で
箱を突き抜けて
箱を成立させ
箱は箱のしがらみの中で
腐り

腐っていく記述された世界は

正しい

その腐っていく箱を
僕に下さい。

3/18(Thr) 17:26
スパイラルはかったるいけど スパイラルの中で生きている スパイラルがきもちいいと思えるほど 遅い時間は流れていない 遅い時間に取り残されるのは 気分が悪い

スパイラルに乗りたい

3/18(Thr) 17:55
ポルノグラフィを見るために何時間を費やしたのだろう。 ゲームを生きるために何時間を費やしたのだろう。 活字を読むために何時間を費やしたのだろう 写真に浸るために何時間を費やしたのだろう。 買い物に悩むために何時間を費やしたのだろう。 他人から笑顔を貰うために何時間を費やしたのだろう。 反応が知りたいが為に何時間を費やしたのだろう。 忘れるために何時間を費やしたのだろう。 覚えるために何時間を。 やり過ごすために何時間を。

慣れるために
出来るために
腹を満たすために
ほどけるために
描けるために
伝えるために
食うために
飲むために
いい気になるために
逃げるために
楽になるために
思い出すために
聞くために
気持ちよくなるために
並べるために
磨くために
正しいために
一貫性のために
ゴミがないために
垂直であるために
水平であるために
書き取るために
比率のために
均衡のために
平均のために
夕方のために
朝のために
夜のために
散歩のために
足のために
空腹のために
贅沢のために
機械のために
他人のために
金のために
キーボードのために
安楽のために
暴力のために
絵のために
酒のために
鉛筆のために
交尾のために
葬式のために
ロボットのために
自分のために
排泄物のために
バッタのために

何時間だったかはどうでもいい
そのように生きていることを
もうすこし
俺は
わかったほうがいい
改善するためではなく
ないがしろにしないために

040317.jpgだいたいこの手のデフォルメを考える時って、まずモヤ?とした印象があって、それが記号的で平面的なイメージになって、というより模索されて、その後に立体がついてきて、そしてまたモヤ?とした印象を思い出して、という繰り返しです。今はほんの少しだけ立体に行こうとしているところ。この辺のやり方はバイクのデザインを考えているときにそんな風になっていった。

自分の場合何か絵を描こうとすると、その形とか構造が完全に把握できていないと、描いているときに楽しくなくなる。惰性になったり、うやむやにしてしまったりして、気分が悪くなる。その上描こうとしているものがよく知りすぎているものであっても楽しくない。

未知のもので、なおかつ形が把握できていて、しかもそれが自分の素直な気持ちや何かしら深いところに繋がる道に通じていないとダメだ。これって時間が掛かる。だから例えば頼まれ仕事とかではほとんど許されない。いきおい、よく知っているものの使い回しになってしまう。基本は描きたいものが描きたいというだけの単純な話なんだけど、かなりわがままにならないとまったくチャンスがないなんてことにも簡単になってしまうのだ。

だからチャンスは自分で作ることにしたのさ。

040316.jpgこの手のよくある構図に結構弱い。すぐに反応してしまう。といってもピンとこないかもしれませんね。狭い通りとか水路とかがあって、進行方向に真っ直ぐに向いていて、横からいろんなモノが飛び出したり横切ったりしているような構図です。ステレオタイプな構図はステレオタイプになるだけあって、それなりに表現力みたいなモノを持っていたりするものです。背中を見せて横たわる裸婦とか、机に肘をつく学者とか、上から木の葉っぱがかぶさっている湖とか、そういうイメージには飽き飽きもするんだけど、飽き飽きするぐらい量産されるだけの力もある。結局そのような構図を使っていても「見飽きたよ」と思わせなければいいだけの話で、それが上手くいったりすると、逆にとんでもない力を持ったりもしちゃうわけです。映画のマトリックスなんていい例です。みんながよく知っているステレオタイプの寄せ集めなのに、ビジュアルインパクトとしてはとんでもない影響力を生み出した。なんだかんだいって、ステレオタイプであるかどうかなんてどうでもいいことなんです。魅力はどれだけ入れ込んだかによって決まる。その力だけが作品の価値になる。そういうものだと思っています。

040311.jpg040311_2.jpg今日の絵はちょっと時間があったので電車の中以外でも描いています。やっぱり往復50分ちょっとじゃ限界ある。片道一時間ぐらいあったらかなり充実しそう。今はあっというまに着いちゃうし。

で、建物です。
上のはそれっぽいけど適当もいいところです。雰囲気だけ。そしてきのうの小さい部屋を描いてから思ったのだけど部屋=乗り物というのはありかもしれない。ゲーム的な視点で考えると、部屋の中(乗り物の運転室)が主観画面になって、移動は俯瞰したような三人称画面になる。ガラージュも似たようなものだったけど、部屋そのものが移動してしまうところが違う。そしていわゆる建物は、給油所とか修理工場とか市場とかホッパーとかの住むためのものじゃない建物だけにしてしまう。てなことを思いついて20分ぐらいで描いたのが下の絵。見た目的にはもう少し部屋的な要素を表に出した方がよさそう。試しに何枚か描いてイメージを膨らませてみよう。ボツるかもしれないけど。
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ガラージュは今日ライティングソフトが届きます。
果たして上手く行くでしょうか.........

040310.jpg部屋というかトイレというか風呂場というか、まあそんなものです。部屋にも機能みたいなものが欲しい(世界観の話です)。寝るとか食べるとかそういう機能ではなくて、療養マシンとかエネルギー発生装置とかそんな感じの機能。コックピットみたいな部屋。この辺はもう少し細部をつめていかないとリアリティが出てこないな。

こういう小さな箱を描くのって好きなんです。宝くじ売場とかたばこ屋とか門番の詰め所とかの極小の切りつめられた空間には独特な雰囲気が漂います。ジオラマみたいな感じとか中の人間と入れ物が一体化したような感じとか。トイレなんてのはこれの最たるものです。

ルのプロジェクトに関しても最初はこんな感じの部屋が10個ぐらい並んでいるだけのものを考えていたのです。一番描きたいものが描けそうな気がしていたし。そしてそれぞれの部屋にいくつもギミックを仕込んでおいて、それらの繋がりでゲームを演出してしまおうかと思っていた。でもそれだと怖ろしく閉じた世界にしかならなさそうだったので外の世界をやっぱり入れてみようとなったわけです。でもギミックだけで成立させるやり方はとてもウェブに向いているのもたしかで、今やろうとしていることは自分にとって技術的にかなり敷居が高いかもしれない。まだこれっぽっちもはっきりしたシステムが決まっている訳じゃないので、そっちの方も頭の隅っこにおきつつ考えています。おそらく一番問題になるのは移動とセーブだろうなぁ。

040309.jpg乗り物の形は適当ですが、仕留めた獲物を運んでいるところです。乗り物はいろんな形があったほうがいいような気がしてきた。極端な話キャラクターの数だけあるとか。基本的には自家用車として考えています。上り線と下り線があって追い越しは無し。漁師が舟を持つみたいに機関車を持っていて鉱石を掘ったり動物を捕まえたり患者を運んだりしている。

ガラージュをやっていたときに、登場するキャラクターが30人以上いるのですが、最初は全員違う形にしようとは持っていなかった。ザコは同じ形でもいいかと思っていたのです。でも実際作り始めたらそうは行かなくなってしまいました。当たり前といえば当たり前なんですが、まあ甘かったわけです。俯瞰したような視点で画面上で2cmぐらいで表示されているんだったらそれもアリなんでしょうけど、それぞれがアップになるんだと逃げようがない。

密室ミステリみたいな話ならともかく、コミュニティがあったり冒険をしたりするような話だと登場人物はそれなりに多い方が楽しめる。でもキャラクターなんてそんなに量産できるものじゃないです。100人も考えたら相当ウンザリするんじゃないかなぁ。ウンザリしていちゃいいものなんて出来ないから楽しんで出来るようじゃないといけない。そうなると自ずと作れる世界の限界も見えてくるってものです。小説と違って見た目も作らないといけないわけだし。

040308.jpgそろそろ作ろうとしている世界のスケール感みたいなものがつかめてきた、かもしれない。設定をダラダラと書き連ねて見ようかと思ったのだけど、今の段階でいろいろ言葉にしちゃうと、よく無さそうなので止めておきます。絵にはそれほど抵抗がないんですが。言葉って「約束」みたいなところがあるから変な風に縛られちゃう。

それと今考えているのは外側の世界です。これに宗教みたいな医学みたいなものが加わっていくと思う。性的だったり、狂信的だったり、病的だったりするような。ただのユートピア的な世界はどうでもいいんです。現実に移し替えるならそれも楽しいけど、あくまでもフィクションなので技術と生態系だけでは終わらせたくない。病んでいる部分とかは根本的に内在されているものだと思っているから、その部分をデフォルメして目に見えるようなものにしてしまいたい。

きのうルクセンブルクの鉱山軌道などを紹介しているサイトで電気機関車の画像などを漁っていたのですが坑道の入口のトンネルの上にマリア様の像が飾ってあったりするんです。実際人がたくさん死んだりもしているわけだから、どうか無事で帰ってこれますようにって気持ちにもなるわけで、それがとても魅力的に見える。お守りとか讃えるための飾りとかを持ったり作ったりするのは、言ってみれば精神的な技術体系であるわけで、こっちの技術もおろそかにはできないのです。

ああ、きのうの11時ぐらいに書いたNEWSを間違って消してしまいました。誰か保存していた人いますか?ひょっとしてそんな奇特な人がいたら送ってくれませんでしょうか。いなさそうだなぁ...

3/7(Sun) 20:35

下で書いた消しちゃったログを送ってもらえた!
送ってくれた人、感謝、感謝です。
また呑みに行きましょう。

というわけで一度消えたNEWSです。

3/6(Sat) 11:27

次のプロジェクトの設定に関して思っていることの一つに「外国」が存在しなくても成立するような技術体系を提示してみたいということがある。おそらく、これはかなり難しい。不可能かもしれない。でも少しでもそれに近づけたい。

例えば石油は無し。この時点で自動車にゴムのタイヤは付かなくなる。ガソリンも使えない。プラスチックは代替物があるようだけど、微妙なものになる。ガラージュの時には物質=生物の意志だという理想主義的かつ夢想的な設定で強引に完結させたけれども、それは一度やってしまったので、使い回しは出来ないなってことで(実は未練もあり新しいアイデアもあるのだけど)避けたいのだ。

夢のような、というか、シュールリアリスティックな表現には限界がある、と思う。どのような限界かといえば、リハビリテーションとしての限界だ。リハビリテーションはその対象が存在しないところでは意味をなさない。リハビリテーションの状態にしがみつくなんてクソで滑稽だ。病は生きられるものであって、外側に求めたり、内側に閉じこもったりするものではない。リハビリテーションにも階層があり、あらゆる人が、いずれかの階層に属していて、階層がシフトしたときには、シフトした階層で新たなリハビリテーションを始めるべきであって、そこまでいってしまえば、それはリハビリテーションでさえないのである。

自分にとっての現在地点としての階層を出来る限りはっきりさせる必要がある。今、現金を得たり、ネットワークを利用したり、ダラダラと外国の酒を飲んだり、そういうことを全部込みの上で、自分自身が「行きたいと思う場所」を生きないとろくなものは出来ない

確か大戦中の軍用軌道でジャイロ効果を使ったモノレールがあったと思って調べていたら、見つけてしまいました。思いっきりツボなサイト。

[The Museum of RetroTechnology]
お目当てだったモノレールはこれです。あとはこんなのも。そのほかにもモノホイールとか、未来世紀ブラジルにも出てきた空気管で手紙を送るシステムとか、さらには蒸気タービン機関車や蒸気で電気を起こしてそれで駆動する機関車とか、とにかく変な技術がいっぱい。よく言われることらしいけど、基本的な技術は1920年ぐらいまでに全て出尽くしてしまっているらしい。あとはいかに実用化したり、洗練させたりするかだけなんだそうだ。でもこういう初期の実験的な機械を見ているとほんとに楽しい。架線から集電した電気で蒸気を作って駆動する機関車なんて微笑ましいぐらいだ。

燃料電池のことも調べてみた。
[燃料電池技術開発]
ここは燃料電池のことだけじゃなくて、エネルギー効率のことなんかもわかりやすく書かれている。この技術も発明は1839年だって。でも燃料電池はプロジェクトの設定に使うのは微妙な感じがした。温度や素材に対する要求が厳しすぎる。あとロータリーエンジンも調べてみたけど、これも高度すぎて(仕組みは単純なんだけど)かなりきつい。好きだけど。蒸気ロータリーの方が面白いかもしれない。

とにかく基本は工事用軌道だったりする。出来る限り狭い狭軌鉄道、もしくは地上60cmぐらいのところを走るモノレール。軍事軌道でなぜ狭軌鉄道やモノレールが採用されたかと言えば、敷設と保守が簡易であるからに尽きる。別の見方をすれば、個人や小さなコミュニティでも構築できるようなシステムだということだ。それは訳の分からない巨大な社会システムの力を借りることなく実現可能だということを意味する。そしてそういう世界で展開されるお話には、みっちりとあらゆる階層で張り巡らされた情報や流通の網の目によって成立する現代社会では表現しにくいような、単純化されたがゆえに深さを持ち得るような可能性があると思うのだ。それはたぶん、いわゆる小説というものが、犯罪や倒錯や病やドラッグを扱うのと同じことなんだろうと思う。重要なのはいかにして個人を剥き出しにて経験に向かわせるかだ。

[The Bruce Weiner Microcar Museum]
マイクロカー・ミュージアム。素晴らしい。メチャ好み。メッサーシュミットとかは前から好きなんだけど、見たこともないような車がいっぱい。こんなのとかこんなのとかこんなのとかこんなのとか、どれも独創的でワクワクする。

[自動車代替燃料による省エネルギー]
代替燃料に関する現状が良くまとめられている。ニュースとかでも良くやっているからみんな知っているだろうけど、今のトレンドはバイオディーゼル油らしい。軽油に近い特質を持っていてサトウキビやジャガイモなどから作る油。CO2は出すけど、必要とされる植物のおかげでそれが吸収されて+-0になるらしい。動物脂肪からも作れるというところが魅力的。

[エアロトレイン]
日本で研究されている新しい移動手段。地面効果というものを利用して、地上からちょっとだけ浮いた状態でプロペラで推進させる。リニアモーターカーのエコ版みたいなもの。このサイトの中で紹介されている水面効果艇はかなり不気味で楽しい。

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ガラージュはやっとライティングソフトを買ったところ。といっても届くのは来週半ば。これでも上手く焼けなかったら、諦めて外注します。

040304.jpg左の方が機関庫です。ちょっと機関車が建物の中に入っているところを描こうと思ったら、そのままズルズルと右のページまで広がっていってしまった。普通すぎて今考えている感じとはずれてますが、こういう感じは基本的に好きです。自分が育った場所がバラック(掘っ建て小屋みたいなもの)のような工場がいっぱいだったこともあって、チープでインダストリアルでユニークなものにどうしても惹かれてしまう。北海道の開拓時代の建物とかも(洋風で立派なのじゃなくて開拓民の小屋とか工場とか)ぐっとくる。ローテックなのに合理的とか、修理に修理を重ねて原形をとどめていないような機械とか、機械を使っているんだか機械に使われているんだかわからないぐらい身体に機械との関係が刻み込まれてしまっているおじさんとか、そういうイメージには逆らえない魅力を感じる。

おそらく問題にしているものは管理の在り方なんだと思う。自給的だったりインディペンデントだったりしないとこういうイメージにはリアリティがない。管理が出来る限り個人に近いところで完結していないとダメだ。だからSFとかで引用されるような高度管理社会のイメージには、たとえホラーとしてでもあまり魅力を感じない。高度な技術も複雑な見た目の装置も、実は「誰か」が作ったものだ。「誰か」がよく見えるようなのがいい。

040303.jpgほんとにだいぶ怪しくなってきた。でもまだ動きそう。燃料はメタンガスとかオイルだな。生物から作れるものがいい。模型の蒸気機関だって大人10ぐらい引けるのはたくさんあるから、この程度のボイラーでも1トンぐらいはいけるんじゃないかな。詳しいことは調べてみないと分からないけど。

そういえばジェットエンジンはどんな構造で動いているんだろうと思っていろいろいろ調べていたら変な記事を見つけた。ソーラーセイルとかブラックホールを利用した宇宙旅行とか、かなりお馬鹿さんで楽しい。ソーラーセイルはともかく、ブラックホールは生きて帰れないだろうって感じ。怖ろしいほどの圧力に耐えられる隔壁が出来たとしたって細胞なんて分子レベルでバラバラにされそうだけど。でもういうことを考えている人って好き。

040302.jpg蒸気機関で燃料にガスとか液体燃料を使えば火室の配置や圧力のコントロールがかなり自由に出来るんじゃないかと思った。蒸気機関はいかに効率よく熱を高圧蒸気に変換させるかがまず第一だから火室が理想的な場所に配置できるのがまず重要なんじゃないかという素人考え。そして出来上がった蒸気の圧力低下のロスを少なくするには蒸気溜からシリンダーまでの距離が出来る限り短いほうがいいはず、たぶん(でも蒸気を送る管にフレキシブルな素材を使わないんだったら、ここでの損失は問題にならないほど小さいのかもしれない)。あとは使用済みの蒸気の排出効率と二次利用がどうなるか。ターボチャージャーみたいなブースターも可能なんだろうか。排出効率向上のためには既に使われているけど。圧力を回転に変化させるのにシリンダーを使わずにタービンを使って変速機をつけたりバックギアをつけることも考えられる。見た目重視だとロッドは魅力的だけど。

って、なんの話だか分からない人にはさっぱりですね。ごめんなさい。かなり適当なことを言っているんです。基礎知識も大して無しに。専門家が読んだら腹抱えて笑っちゃうような。でもそんなに大間違いはしていないと思うけど。いつもわりとこんなことを考えたいたりもします。ガラージュの時も似たようなものでした。とにかく既視感はあるにしても説得力のある変なものに登場してもらいたいのです。そういうのにとてもワクワクする。そういうのが自分で見てみたい。平気で何ヶ月も同じことについて考えていたりもするので見ている人には退屈かもしれないけど、それぐらいじゃないと変なものは出来てきません。だからみんな途中は見せなくなる。でもここはそれもアリなので退屈な人にはごめんなさいです。

そういえばさっき駅から歩いてくる途中で坂道に並ぶ住宅街から歌が聞こえてきました。最初レコードかと思ったんだけど、実際に歌っているようです。歌はなんて言うタイトルだろう「ハァレ ルゥー ヤ」っていうよく聞くやつ。空は曇っていたけど窓を開けて女の人が家の中に洗濯物を干しながら歌っていたのでした。思いっきり大声で気持ちよさそうに。とっても得した気分になりました。世界中の台所や物干し台で歌が歌われているんですよ。実は。台所や物干し台で歌が歌われている限りは世界は平和だっていうか大丈夫だっていうか、そんな気になりました。

040301.jpgみぞれ混じりの雨が降ってる。とっても寒い。でも風呂上がりなのでビール飲んでます。雪になるかな。ちょっと前まであんなに暖かかったのにね。

そういえばきのう書いたソフトは落札できなかった。また4日くらい待ちだ。残念。3/31日発売がやばくなりそうです。でも入稿前にやらなきゃならないことがまだ結構あるので、そっちを優先してやります。といっても3日ぐらいは身動き取れないんですが。なんにしても入稿した時点で予約開始予定なのでよろしく。

040226.jpgエンジンをいろいろと考えていました。
本気でちゃんと動くものを考えようと思ったら10年あっても足り無さそうな代物なので、少しは嘘をつきます。ていうかちゃんと動くエンジンっていうのはほんとに凄いものです。よくあんなものを考え出したと思う。真剣で無謀で馬鹿な遊びの結果です。莫大な時間と浪費と睡眠不足と血と汗と涙と死体と情熱と設計図と金属と爆発と酸素と木と石炭と蒸気と石油と思いつきとその他諸々のあらゆる積み重ねによってあるのが今のエンジンです。それだけのものに簡単に新しいアイデアで対抗しようなんていうのは、そうそうできるものじゃありません。そういう奴は好きだけど。

というわけでエンジンです。
エンジンっていうのは何らかのエネルギーを回転やら推進力に変えるものです。エネルギーは高圧蒸気だったり、圧縮された混合気の爆発だったり、電気だったり、落ちる水だったり、風だったり、波だったりします。そしてこれらの内、燃焼によって得ているエネルギーは燃料によって作られます。さらに燃料はガソリンだったり軽油だったりアルコールだったり木だったり天然ガスだったりするわけです。考えようによっては電気だって落ちる水や風によって作られているわけですから水や風を燃料(燃やす訳じゃないので言い方は変だけど)だといってもそんなに間違いじゃない。ウチのコンピュータは原子力で動いている、かもしれない。こういう風にエンジンなら、エンジンという一つの装置を枠を広げて考えてみると見え方が変わってくることがいっぱいあります。

例えばちょっと前にエネルギー変換率のことを書いたけど、内燃機関が燃料にガソリンを使っているということを、油田とか石油王の豪邸とか海底パイプラインとか石油精製プラントとかタンクローリーとかガソリンスタンドとかスタンドの店長とかお兄ちゃんとか、さらにはオゾンホールとか環境対策会議とかまでも含めて考えた場合に、そのエネルギー変換率はどの程度になるのかということを薪を燃料とした蒸気機関と比べたら一体どんな数値が出てくるのかが知りたかったりするわけです。つまり燃焼室の中でのエネルギー変換率がいくら良くても、その燃料が有限であったり、とんでもない装置や社会的システムを必要とするようであったら、それは果たしてエネルギー変換率が良いと言えるのだろうかということです。おそらくは石油の価格がそれを利用したいという欲望が勝つほどにはリーズナブルだという一点だけで、このエンジンはは成立しているんじゃないかと思えてくる。

そんなわけで蒸気機関もやっぱり捨てがたいなと思うわけで、新しい内燃機関を考えるのは難しいなとも思うわけで、でも電気を利用したモーターも面白い設定が出来そうな気もしていてどうなりますことやら。

040225.jpg彼は今日、ドンヨリ曇った空の下、軌道漁場に行き大きなタンヌを仕留めてきたところです。これから自慢の内燃瓦斯機関車で仕留めた獲物を曳いて解体市場に向かいます。これだけの大きさがあればモロコが8枚は取れるでしょう。ワタだって桶に五杯は取れます。今日の腑酒は美味しいに違いありません。

040224.jpg040224_2.jpg今晩からは新しいメモ帳だ。わいわい。
ノートとかスケッチブックを最後まで使うのって気持ちがいい。いろんな事がぴったり来ないと最後までなんてなかなか使えないものだ。少なくとも自分はそう。高校の頃のノートなんてお気に入りのラクガキ帳以外は、表紙だけ凝りまくりの絵が書いてある使いもしない現代国語や数学のノートばっかりだった。世界中のノートは最後まで使われなかったノートの方が圧倒的に多いんじゃないかと思う。

書き取りとか丸写しとかじゃなく、何かやろうと思ってノートを買って、その自分で始めた計画でノートが埋まっていって最後の一ページまでそれが遂行されるって、意味もなく憧れちゃう。正しい気がする。いったい何に憧れているのか、何が正しいのか、まったくもって面倒臭くて考える気も起きないんだけど、とにかくそんな気持ちになる。なりません?なるんですよ、俺は。それが壮大な計画だったりして、一万ページ分のノートブックとかだったりするとウットリきちゃう。

普段のラクガキにコピー用紙を使っているのって、その辺が楽に出来るからってのはあるんだろうって感じもする。何ページとか決まっていなければ、好きなだけ増やし続ければいいわけだし、紙の質感さえ気に入ればあとはなんの問題もないし。整理は面倒だけどね。

二枚目の右下の絵はBBSで話題に上がっていた潜水服サイト写真が気になって描いたものです。どうにかしたいかも。

040221.jpg上の奴はほぼ原寸に近い感じで見えているんじゃないかな。小さいメモ帳なのでこのぐらいです。ちょうどこのウィンドウを少し縦に長くしたような感じ。コクヨのやつで緑のハードカバー、方眼紙タイプになっているSKECH BOOKという名前のもの。結構お気に入り。また補充しに行かなきゃ。

ラクガキするときは家では殆どシャープペンシル。Faber Castelの0.5mmの一番高い奴。お尻の消しゴムがメチャクチャ使いやすい。でも電車とかでさっさと描くにはもっと濃い方が気持ちいいのでボールペンとかです。こっちはぴったりするのを捜索中。まあ、なんでもいいんだけど、細めで濃すぎ無くて抑揚が出て描き味がいいのがいいかな。ちょっと前までのは拾ったボールペンで描いていました。

そういえばデジタルばっかりだったから画材とか漁ってないなぁ。別に未練があるとか、もう触らないとか、そういうのじゃないけど、あんまり疎いのもどうかって気がしてきた。

040220.jpgなんかこうなってくると、目の離れた人と言うよりも、目が横についている人と言う方が相応しい感じだな。バランス的に。

マンガで目が大きいのって、いかに目から人間が情報をえているかの表れだ。より人が情報を得ているものを誇張すればそれだけ伝わりやすくなる。これは一面的なことだけど、基本にはそういうことがある。これを突き詰めていくとキャピキャピの二等身キャラや萌えキャラが生まれてくるわけだ。完全に記号化されたキャラクター。それはそれで面白いと思う。エジプトの壁画だって似たようなものだ。でもね、それじゃ表せないものだってもちろんあるわけで、結局は世界や光やモチーフとのバランスなんだ。例えば極度に記号化されたキャラクターと精緻な機械的装置を同時に表現するのは難しい。コラージュ的な手法で違和感を見せるのだったら面白いだろうけど、一体化させるには無理がある。まず匂いというか感触というか居心地というかそんなものがあって、そこから全てが導き出されてこないと世界観みたいなものって見えてこない。あとは作る人間がその世界にどれだけ身をおけるかだ。望まれなかった世界は救われない。

040219.jpg右上の子は格好良すぎだけど、ちょっとだけキャラクターが見えてきたような気がしてきた。でもこの路線で行くかどうかまだ分からない。奇を衒いたいわけじゃないんだ。世界を作ることには興味があるし、その世界の中でイキイキと動いてくれればそれでいいんだけど、そのキャラクターを自分が一枚絵として描きたいモチーフになってくれなければ困る。ガラージュのキャラクターは、もともと絵の方から出てきたものだったのでその辺はなんの問題もなかった。

もっと自分の表現したいものに、ストーリーや世界観じゃない方から入って行かなきゃダメだって思った。そうじゃないと自分の場合はエモーションみたいなものがスポイルされるように感じる。

午後に目を覚まして、ひとりぼっちでベッドの上で青空を眺めるときの気持ちとか、道に迷って泣きたいような気持ちなのに歩き続けようと思うこととか、そういうストーリーでも世界観でさえもないような、ずっと手前のものが置いてきぼりにされてしまうようじゃいけない。

なんとなく欲しい形は分かっている。もうちょっと数を描かないと駄目だな。

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ガラージュは今ちょっと別な仕事が入っているので、ちょっとお休み中。でも3/31発売はまだ大丈夫そうな感じです。とはいってもギリギリなのは変わらないので、多少のズレ込みはアリな気持ちで思っていてくれるとありがたいです。

040215.jpg哺乳類って肉食動物は目が正面を向いていて、草食動物は横を向いている。肉食動物は目の前の獲物の距離を正確に計る必要があるからで、草食動物は周りの状況に常に気を配る必要があるからそうなっているらしい。魚類はどうなんだろう。よくわからないや。

目の離れている子や近眼の子や童顔の子が可愛いといわれるのって、やっぱり攻撃性が低いような印象を与えるからなんだろうと思う。メガネも同じかも。攻撃性が低い=許容範囲が広い、とか、優しい、とか、感受性が豊か、とは絶対ならないわけだけど、そうであるように見えるってだけで惹かれたりしてしまうわけだ。単純だけど条件反射みたいなものなので仕方無いといえば仕方無い。

これをマイナス面から見ると、何を考えているかわからない、とか、いきなりキレそう、とか、自分のことしか見てなさそう、とかなるわけだけど、それでさえ魅力になったりもするので必ずしもマイナスとは限らない。

まあ、そんなことはどうでもいいんだ。なんとなく目の離れている顔のデフォルメに興味がある。エルフの耳が長いように目の離れている種族が居てもいいような気がした。


今日は暖かい。きのうは春一番。早すぎない?
花もいっぱい咲き出すね。

040214.jpg今日描きました。出稼ぎ中はガラージュが進められないので勘弁して下さい。これはきのう書いていた家畜海豚のイメージ。海豚好きの人には怒鳴られそうだな。

豚小屋とか海辺に打ち上げられた大量のクジラとか、大きな生き物が密集している状態って怖くてドキドキしてしまいます。見ちゃイケナイものを見てしまったような感じです。しかもそんな生き物が本来の身体能力も奪われて食うことしかできなくて、それがとても貪欲だったりするとほんとに恐い。過剰に剥き出しな何かを感じる。

でもこういうイメージってそれが家畜だったりすると、強力すぎてかなり全体が引っ張られそうな気がしました。お話の骨組みになってしまうぐらい。上手くねじ伏せることが出来ればいいんですけど。

040213.jpg最近よく描いてます。バイクは事故ったまんま、まだ買っていないので電車に乗っているんで。でも電車に乗っているからっていつでも描けるわけじゃなくて、やっぱり向かっているのものがないと描けなかったりします。だからいい傾向です。

これは手が吸盤になっている3等身キャラ。普通の手でもいいんだけど、どうしようかなぁと思っている。あと養殖海豚みたいのを考えていた。食用、燃料補給用、その他諸々用、クジラみたいに捨てるところがないような感じで利用されている家畜水棲哺乳類。すんごく浅い水槽に泥水みたいな水が満たされていて身動きできないぐらいギチギチに飼われているの。でもまだ全然はっきりとした設定じゃないです。入れ物の全体像が見えてくるまで、こんな風にいろんなディテールを積み重ねていって、核になる部分が出来ると、スッキリとしていく。そしてそこからまた細部が生まれてくる。いつもそんな感じです。

三人称のゲームというのは成立するのだろうか?と、ふと思った。そもそもそれはゲームなのだろうか?インタラクティビティと三人称はどうゆう関係になるのだろう。

映画っていうのはたとえ一人称的な描かれ方をしていても、三人称的な表現になるもののような気がしている。小説の場合にも同じようなことは言えるのだけど(ここで言わんとしている論点では)、比較した場合にはより三人称的であるように自分は感じるのだ。

同じ比較に於いてゲームの場合はより一人称的であるように思う。

ゲームにおける三人称的な表現は興味がある。基本が一人称的であるにしても、三人称的であるがゆえに表現できるような視点をもっと試してみたい。

次にやろうと思っているプロジェクトの乗り物に関してはエンジンの構造にも何か面白い設定が欲しいと思っていたりする。ただの内燃機関や蒸気機関で収めたくない。例えば蒸気機関のエネルギー効率というのはものすごく悪くて、最大で7%ぐらいだったように記憶している。内燃機関でも20%ぐらい(理論上で)だったように思う。面白いのは水車で、水車のエネルギー変換率は最終的には70%を超えていたらしい。ちょっと事情が違うから一概には比較できないようなことだけどとても興味深い。

たとえばいまだに蒸気機関が利用されているとして、そのエネルギー効率がどれぐらい伸びるかを考えるのは面白いと思う。ボイラーの形状やシリンダーへの排出効率や熱を逃がさないための保温構造を考えればそれなりの改善の余地はいくらでも思いつく。内燃機関にしてもロータリーエンジンのような理想主義的発想で考えた場合にはほんの少しの嘘をつくことで考えられるような爆発サイクルはいくつか考えることもできる。燃料にしてもフィクション内で扱うのであれば魚油とかあり得ないような天然ガスの利用などは、かなり美味しい素材だ。この辺を生態系と絡めて考えると更に深みが増すだろう。ガラージュでもこの辺のことは考えていたのだけど、もっともっと説得力のある(夢を見ているような気持ちでなんとなく納得してしまうようなリアリティではなく)形でこれらの設定を考えてみたいと思っている。

現実社会に適用可能なリアリティはどうでもよかったりするのだけど、現実社会に伝わるようなリアリティは必要だったりする。その為の嘘だ。真剣な嘘ほど面白い。嘘は真剣につくべきだ。可能な限りの能力を駆使して。

終わりから始まるゲーム。
終わりのないゲーム。
終わりを探さなければ終わりがないゲーム。
終わりが変化し続けるゲーム。
終わりしかないゲーム。
終わりと共にあるゲーム。
終わっているゲーム
終わるのが嫌になるゲーム
終わりのことを忘れるゲーム。
終わりを無視したゲーム。
終わることだけを目的にしたゲーム。
終わろうと思ったら終われないゲーム。
終わりを決めるゲーム。
終わりを作るゲーム。

終わりって何だろう。
終わりが何かは知っている。
どうすればその終わりが終わりになるかが問題だ。

関係ないけど、ガラージュは自分の作った世界観とか設定を十分にシナリオの中で展開できていなかったように思っている。今にして思えばもっと利用できたはずだし、その方がより分かりやすく世界を表現できたはずだ。それが結構心残り。設定をただの趣味的な範囲で無しに物語に変換していくような力が足りなかったんだろう。もしくはゲームとしてのプログラムに変換する力が。次回はできる限り自分でやろうと思っている分、技術的な制限も多いわけで、この辺はもっと慎重にやらないと伝わることも伝わらなくなってしまう。ゲームの終わりに対するスタンスはそういう意味でもはっきりさせておかないとダメだな。

SANY0068.jpgなんかイイ感じ。絵じゃなくて、自分が。ガラージュも進んでいます。CD-R(ていうかDVD-R)もきのうネットで買いました。マニュアルとジャケットのデザインも基本路線は見えてきた。

この絵は次のプロジェクトのためのラフです。
キャラクターと人工物のスケール感が一番気になる。これ次第で話の広がりも制限を受けたりする。3等身ぐらいでいきたいのだけど、まだ悩み中。妙な生態系も作りたい。巨大な水の生き物と、小さな陸上の生き物。シナリオなんてものは書き出せば勝手に出来る。全ては設定次第。自分がリアルに感じられる世界に身を置くことができるかどうかに掛かっている。でもとにかく乗り物は必須なのです。入り組んだ街の中や荒れ地を移動する乗り物が頭から離れない。そして部屋の中で朽ちていく弱い人間と、誰もいない野原に立ちつくす誰か。

春はもうちょっと待ってくれないかなぁ。

乗り物って文化そのものだと思う。乗り物というよりも装置といった方のが分かりやすいのかもしれないけど、例えば自分にとっては、ミシンも乗り物だし、コンピュータも乗り物だし、靴も乗り物だし、舗装道路も乗り物だし、服も乗り物だし、掃除機も乗り物だし、ガスコンロも乗り物だし、家も乗り物だったりする。

要するに乗り物っていうのは、ある依存関係において、その関係が保たれた中にも、というより、その関係があるからこそ実現するような、明確な離脱の可能性を秘めた移動手段なのだ。だから、もちろん絵だって乗り物だ。そして言葉も。

人はいろんな乗り物に乗って移動する。賢い人は自分の制御し易い乗り物に乗るし、不器用な人は自分に合っていない乗り物にしがみついたりもする。でもとにかく人間は、乗り物に乗って移動する生き物だ。

天国への自動階段の主人公はバイクに乗っていた。ガラージュの主人公は乗り物と一体化していた。バイクはある意味乗り物と乗る人間との距離が実際の人間関係に近いような乗り物だ。誤解を生みそうだけど恋愛みたいなものだ。レプリカントはそのオートマティズムによって都合のいい文法を生み出してくれて心地よい。でも、次はもう少し誰が見ても「これは乗り物ですね」と思えるような関係で乗り物を扱ってみたいと思っている。屋根があったり、座っているだけで操作できたり、そんな感じの乗り物。必ずしも移動はしなくていいんだけど。そういう乗り物は、乗り物らしくある分、関係性を明確に浮き彫りにしてくれるような気がしているのだ。

もう二千って響きにも慣れちゃった頃だ。俺は電車の中でずっと小さな乗り物のことを考えていて、ちょっといい気分だった。小さな乗り物の絵を描こう。そんでそれを動かそう。どこを走らせよう。どんな奴を乗せよう。どんな奴に会わせよう。そこはどんな光で満たされていて、どんなエネルギーで成立している世界だろう。どんな生き物がいてどんなものを食っているんだろう。

そんなことを考えていたら、オモチャが欲しくて欲しくてしょうがなかった頃のことを思い出した。お年玉をはたいても買えないような秘密基地や、大きな自動車。そして今、自分は、どこにも売ってない、自分が欲しいものが作れるんだと思った。その気になりさえすれば。自分が行きたいところにいけるし、なりたいものになれる。その気になれば。その気で行こう。

きのう書いたのは、SAKUBA WORKSにもアップしてある世界の涯というゲーム企画で考えていたことだ。あのアイデアとやりたいことがずっと引っかかっていて、邪魔でしょうがなかったのだ。ちょっとだけスッキリしたよ。ほんとにちょっとだけ。だってあれの500倍ぐらい具体的に考えていたからなぁ。その邪魔さもハンパないのだ。

とはいっても終わっていないことには変わりがないので、なんとかして決着をつけてしまわなければならない。今日は一日そんなことを考えながら、ダラダラと過ごしていた。もうイヤになるほどとっかかりはあるので、あとは形にするための新しい枠組み(ここ大事)が決まりさえすればいい。でも、前にも書いたけど、絶対になぞってはダメなんだ。そして、いまだにその枠組みが見えない。明らかに自分の努力も足りないし、向き合うための余裕もなかなか持てないので、見えてくるわけがないのだ。しかしいつまでもそんなことは言ってられない。リミットがだんだんと近づいている気がする。こういうときに危機感でしか動けない自分もどうかと思うけど、まあ良しとしよう。

死ぬことを楽しむゲームを作ってみたいと思っていた。死ぬっていってもゲーム上で死ぬに過ぎないんだけど、死ぬことが目的であるようなゲームが作りたかった。

死ぬことがリアルであるためには執着が必要だ。だから、システム的に執着を演出する必要がある。大量のアイテムやそれを魅力的にするステータスが必要だ。もし、それがオンラインゲームであるならばコミュニケーションの演出は非常に有効だろう。どこまで自分のキャラに感情移入させることが出来るかが勝負だ。

その上で得たものを失わせるステージを用意させる。得たものを失うことでしか進むことが出来ないステージ。それはラストステージなどではなく、常に対極として存在するステージだ。最初はトレーニング的であっても、最終的には得たもの全てを投げ出さなければクリアできない。アイテムはおろか、育てたステータスもゲーム上で得た関係も御破算にしないとクリアできない。そしてそのステージをプレイすることは強制しない。死にたくない人は永遠と悦楽的なシステムの方だけを遊んでいればいい。

それでも、やるひとはやるだろう、と思っていた。少なくとも自分だったら絶対やるし、やりたい。でも沢山の人がそう思うかはまったくわからない。クソゲーの烙印を押されて終わりになるかもしれない。別に構わないし、いいたいヤツにはいわせておけばいい。俺はやりたいんだから。

自分から進んでそれをクリアしたときに、いったいどんな気持ちになるのかを経験したいと思ったんだ。というか、その気持ちを自分はあらかじめ知っていて、それを表現してみたいと思ったんだ。

トップページが変わってから何カ月も経つので、知らない人は知らないと思うけど、[ru]というのはこれからここでやりたいと思っているプロジェクトに付けた名前だ。それはゲームになるのか、ダラダラしたわけのわからないもになるのか今の段階でははっきりしないけど、この「自分から死ぬ」ということを引きずっているのは確かだ。たぶんここに書いたような、システムを表現にすり替えるようなことは出来ないと思うし、やらないと思う。でもここで言いたかったことはシステム的なアイデアの披露ではなくて、「やってみたいなにか」か「知りたいなにか」なんだと思う。

030325.jpgどうも最近無理があるなぁ。
サイトを作ったり、絵を描いたりする時間がぜんぜん取れない。予定では4月ぐらいからはリズムを作って時間が取れるようになるつもりでいるのだけど、ちょっと心配になってきた。最悪の場合はこのNEWSを止めて、その分を作る時間に回すしかないかもしれない。これのためにサイトやってるわけじゃないし、中身が作れなかったら話にならないもんね。

前にこのNEWS自体がプロジェクトなのかもしれない、ということを書いたけど、それはそれでアリだとは思う。その場合には今までみたいなパターンではなくて、ある規律に沿ってやっていくようなことになるけど、それは不可能じゃないと思う。うん、出来る気がする。でもそのやり方だと表現の幅はかなり限られることになりそうだ。絵物語や博物誌的なことは出来ても、ゲーム的な表現は出来ない。それはまずい。やろうとしているプロジェクトに自分が求めていることって、Webが表現の場として相応しく、それ自体がここで表現されなければ意味をなさないような、作品としてのサイトを作ることだったりする。つまり、書いた絵をスキャニングして見せるだけみたいなのではぜんぜんダメで、本にすることを前提としたようなものでもなく、Webだからこそ出来るような表現になっていないとダメだということだ。それはやはりよくいわれるところのインタラクティビティだったり、アニメーションだったりするようなことなのだ。そしてこういうことは、このNEWSを書くようなスタンスではどうしても作れない。もっと潜行しないとダメだ。とりあえず4月いっぱいぐらいまでは様子を見るつもりだけど、どうしても上手く行かないようならこのコーナーは本来のお知らせニュースコーナーにしようと思いました。そうなってしまった場合は許してね(続けたいのはやまやまなんですよ。ホントの話)。

end1.jpgend2.jpgend3.jpgなんかこのNEWSがプロジェクトなんじゃないかという思いが一瞬頭をかすめたけど、それは考えないことにしておこう。もっと儀式的なフォルムが必要なんだ。娯楽でいいし、娯楽になっていないとダメなんだ。暇つぶしで構わない。そこからなにが始まるかだ。パチスロやカラオケに負けているようじゃ意味がない。

他人をハマらせることなんてある意味簡単なことだと思う。人は簡単に罠にハマる。もちろん口で言うようにはいかないことだってわかっているけど、人はハマりたがっているというのは確かなことだ。ハマるってのはけっきょく恋愛と同じ事なんだ。それが大儲けをする夢だろうと、ロマンチックな憧れであろうと大した違いはないんだろう。どうせハマるんなら、出来るだけ遠くにいけるようなヤツがいい。取り返しがつかないところまで。

決定的でない経験にどれほどの意味があるだろうか。取り返せると思っているのが間違っているんじゃないのか。そもそも取り返すということにいいことなんてあるんかい。

タイムマシンはいらない。
そんなものよりも時間と同じ場所に立つことだ。

ru_idea.jpgル:プロジェクトのインターフェースをちょっと考えていました。

何かを始める(もしくは作る)時に下準備をしっかりやってちゃんとした設計図を作るのって、かなり苦手です。普通に絵を描くのでもそうです。下絵を描くっていう感覚にどうも馴染めない。ちゃんとやってしまうと終わったような気になってしまって描く気持ちが新鮮になれなくなってしまうのです。だからコンピュータでスキャニングしたものから始めるっていうのを経験したときは、これは物凄く自分にあっているかも知れないと思ってかなり喜びました。

でもゲームとかサイトはそうは行きません。このサイトもそれを怠ったおかげで日々使いにくいフォルダ階層が迷路の如く深まっていって、記憶の糸を辿るのも曖昧になり、二日酔いの北極熊のように彷徨わないとお目当てのファイルに辿り着けなくなっていくのです。といって初めてソフトに頼らずにサイトを作るような人間に何百ページのサイトのフォルダ階層を想像しろってのも無理な相談ですよね。

まあ、それはいいとして、ゲームに関してはそんなこといってられません。整合が取れていなくて管理がしにくくて遊びにくいゲームはゲームとは呼べません。しかし作ろうとしているものはゲームとは呼べないものになる可能性もありますからそれでもいいのかもしれませんが、そんなことをちらっとでも思うと、すぐにいつもの「始めりゃなんとかなるでしょ」になってしまうので気を引き締めなくてはなりません。

ところがここにもう一つ困った問題があって、下準備をちゃんとやろうとすると、悩みと欲望ばかりが深まっていって、いつまで経っても下準備が終わらないという罠にはまってしまいやすいのです。私の場合。

「中道を行きなさい」
と、ゴータマ・シッダールダはおっしゃられました。

師よ、それはあまりに困難な道のりではありませんか!

__________________
ガラージュ動作確認アンケート、全部のOSのデータがまだまだ欲しいですが、XP、2000、OS-Xなどの新しいマシンの報告が特に足りません!よろしく、よろしく!

toillet2.jpgル・プロジェクトでやろうとしていることって、こういう一枚物の部屋やキャラクターを、何らかの移動手段で繋げていくイメージだったりする。ゲームを作ったりすると、マンガや映画といっしょで、どうしてもあまり構図などにこだわれないような場面が出てきてしまう。お話主体だからある程度は仕方ないのは判っているんだけど、それがけっこういやでもあり苦痛でもあって、どうにかして自分の描きたいモノだけで世界を構成できないだろうかというのが重要な課題だったりするのだ。

いまだにゲームにこだわる理由が何かあるとすれば、それはマンガや映画と違って、一本道のお話としてではなく、ランダムな経験の集合体として世界観を提示できる可能性があるということがかなり大きな理由の一つであることは確かだ。たとえばこの絵みたいな部屋が一つあって、そこで釣りが出来たり変な虫が捕れたりする。それだけで一つのゲーム的作品だ。それらを無数に組み合わせていくことで、大きなうねりのようなものを感じさせることが出来れば、かなり楽しめるモノになると思える。[ru]=道、というネーミングもこの接続し続けるような感じを一つにはイメージしている。といっても現状ではただの妄想話だけどね。

キネガワ堂は土、日ぐらいにはなんとかなるんじゃないでしょうか?なかなかまとまった時間が取れなくて。

すこし[ru]プロジェクトの雰囲気が見えてきました。

病気(といわれているもの)の擬人化、種としての病気、病気を媒介するものとしての虫、望まれた虫。その虫を育むフィールド...
実際始まってみたら全然違うものになってたりしそうですが、どんなものでも、このようなひらめきを何度も繰り返しつつ形になっていくものです。

技術的な問題では、セーブできるような「積立型預金タイプ」のものに出来るのかが一番の課題。現状では100%無理ですが、その気になったとしても果たして可能なのか?無理ならばどんな解決があり得るのか。たとえばゲームよりももっとお話よりの表現でも、見たこともないような楽しめるやり方はあるんじゃないのか?

グラフィカルな表現の部分では、プラグインを使うのか、それともブラウザの機能でまかなうのかといったこともあります。それと3Dソフトを使うかどうかも作業効率や世界の手触りに大きな影響を与えるでしょう。

と、いろいろ言ってますが、決まっていることもあります。それは「やりながら考えていく」プロジェクトにしたいということです。このようにあれこれ考えているのは、長いスパンで、しかも新鮮な気持ちでやり続けられるものにしたいからなのです。

......しかしこういうのを読んでどれぐらいの人が面白いと思うのでしょうか。

ところで今日はWindowsのためにあちこち細かい修正をしましたが、果たしていい方向に変化したでしょうか?家では全く確認できないので、こういう作業って言葉通りに「雲を掴むような」感じです。これまでの経験から「たぶんこうなんじゃないか」とアタリを付けて修正するわけですが、なんともはや。はやいとこWindows環境を手に入れたいです。

昼間少し時間が空いたので、トップのプロジェクトのことを考えながらイタズラ書きなどをしていました。

今描き途中の絵や描きたいと思っている絵は、どれも割と、どかんと人間が真ん中にいるような絵なのですが、このモチーフとあとは虫、そしてフィールドのイメージなどをどうやって統合しようかと、あれこれと考えていたのです。まだ最初の尻尾もつかめていないのですが、今ぐらいからイメージが固まってくるぐらいまでが、ある意味一番楽しいときなのかも知れません。

ただ、いくつかのボツになっている企画のイメージに引っ張られないように注意しなくてはなりません。結果的に近づく分には全く問題ないのですが、過去のイメージをなぞるような形になってしまうと、駄作になるのは目に見えています。出来るだけ頭の中をまっさらな状態にしたい。しかも今回はなにもかもを自分一人でやろうというのだから尚更です。技術的な部分では未知数が多いし、絵の方も見せる以外のことを考えて描いているわけでもないので、なかなかにやっかいな作業ですが、これもいつものことです。

移動、変身、療養所、収集、内臓の構造を模した建造物、畏怖の象徴としての怪物、脱落する者とそれを利用する者、水、シャッフルされた生態系、種の越境、希望の可能性、道の終わり、解放.........思いつくままにキーワードを並べてはボケーッとします。煮詰まると手を動かす、また、ボケーッ。いよいよ駄目になると足を動かす。これの繰り返し。これってなんか服を一枚一枚脱いでいくような感じです。うまく脱がないと、脱いだつもりが分厚いコートを着ていた、なんてことになってしまいますから要注意です。

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